100万回

佐野洋子『100万回生きたねこ』

(2004年に書いた文が出て来たので、そのまま掲載します。)

先日、医院の待合室でふと目についた絵本『100万回生きたねこ』を読んだ。初版は1977年となっているから、私が神学校を出た年、27年前である。何度も表紙は見ていたが手に取ったのは初めてだった。

100万回死んで、100万回生きたねこがいた。そのねこは、あるときは王さまのねこ、あるときは船のりのねこ、サーカスの手品つかいのねこ、どろぼうのねこ、おばあさんのねこ、女の子のねこだった。しかしねこはあるとき、だれのねこでもなくなり、始めて自分のねことなった。これが前半である。

これは「自立」ということを思わせる。だれかに依存し、だれかに所有されている状態から脱して、自分自身となった。りっぱなとらねこ、りっぱなのらねこになった。自分が大好きであり、自分は自分の人生(ねこ生?)の主人公となったのである。

後半、いろんなめすねこが寄ってくる。贈り物をくれるねこがおり、愛想をふりまき、気を引こうとするねこがいる。しかしどのねこにも彼は気を引かれない。ところが1匹、自分に見向きもしない白のめすねこがいた。彼は自分が100万回も死んだことを自慢するが、白いねこは「そう」というだけ。けれども彼は、自慢の通じないこの白いねこと一緒にいたくなる。白ねこは同意し、やがてたくさんの子ねこが生まれる。自分が大好きだったのらねこは、今は自分よりも白いねことたくさんの子ねこのほうが好きなくらいになった。

子ねこたちはやがて成長し、独立していく。老いたのらねこは白いねこといつまでも生きていたいと思う。しかしある日、白ねこは動かなくなる。ねこははじめて泣く。夜も朝も次の夜も朝もねこは泣き続ける。100万回も泣く。そしてやがて自分も、白いねこのとなりで動かなくなる。
物語の後半は、自立したねこどうしが出会い、一緒に生きる、という話である。支配と従属の関係ではなく、しっかりした自分をもった者どうしが互いに支え合って喜びと困難をともにする。言わば前半が「自立」の物語であるのに対し、後半は「共生」の物語である。

これは勝手な深読みかもしれないが、わたしはこの物語を、人間の真のありようを象徴する物語と感じた。ある時期までは、私たちは親のもとにあり、親に依存して生きている。それは大切な事であり、必要なことである。しかしやがて人は親から、また世間から自立していかなくてはならない。だれかに従属するのではなく、自分は自分であり、自分の人生の主人公となって自分を発揮していく者となりたい。

これは実はキリスト教的、聖書的な生き方であると思う。日本のキリスト教の一部には、自分を抑えることを信仰的とし、自分を主張することを「わがまま」として否定するような空気があるように思う。しかし私が聖書から汲み取るのは、その反対であって、世間がどう言おうと、良いことは良いとし、悪いことは悪いとする精神である。世間の目を気にし、世間に束縛されるのではなく、言わば責任ある自由人として生きるように促すのが聖書の福音である。

しかし責任ある自由人というのは、孤立の中にとどまるのではなく、他者と出会い、他者と共に生きていく。自分の自慢を聞かせ人を従わせて満足を得るような段階を突き破って、人と共に労苦を負う責任主体として形成される、というのが私の理解するキリスト教的生き方である。もう一言加えれば、それは神と隣人のために課題を引き受けていく生き方であり、損得を越えて人の命の尊さを守ろうとする生き方である。自分も生かされていき、人をも生かすような生き方である。そのような歩みへと私たちを招くのが聖書の言葉であり、イエス・キリストである。

100万回死んで100万回生きたねこは、最後はもう二度と生き返らなかった。それは、「自立」と「共生」によってただ1回限りの充実したかけがえのない人生を生きた以上はもう十分に生きたのであり、もはや生き返る必要はない、ということではないだろうか。そのような一度限りのかけがえのない人生を生きたいものである。
(講談社 1400円)