
2025年4月6日(日)大斎節第5主日 フィリピの信徒への手紙 3:5-6
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。
4月7日(月) フィリピの信徒への手紙 3:7
しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
4月8日(火) フィリピの信徒への手紙 3:8
そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
4月9日(水) フィリピの信徒への手紙 3:8-9
それはキリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
4月10日(木) フィリピの信徒への手紙 3:9
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
4月11日(金) フィリピの信徒への手紙 3:10-11
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
4月12日(土) フィリピの信徒への手紙 3:12
私はすでにそれを得たというわけではなく、何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
(聖書協会共同訳)
(ひとこと)
フィリピの信徒への手紙第3章9節は新共同訳では「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」となっていました。ところが今回用いた新しい聖書協会共同訳では「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」となっています。
何が違うかと言うと、前者では「キリストへの信仰による義」と訳されていたのが、後者では「キリストの真実による義」と訳されたことです。前者では「<わたしたちがキリストを信じる>信仰」が強調されているのに対し、後者では「<キリストご自身が貫かれた>真実」が強調されています。
わたし自身は、自分の信仰の危うさを経験してきたこともあって、後者、聖書協会共同訳のほうを好みます。
たとえわたしたちの信仰が闇に包まれ、神を見失ったとしても、イエス・キリストが神に対して死に至るまで真実を貫かれたその<事実>があるから、わたしたちは大丈夫なのです。