Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

エゼキエルの見た幻

エゼキエル書 第7講


            2006/01/17

 今から約2500年前、紀元前6世紀。場所はバビロニア帝国、ユーフラテス川のほとり。そこにはイスラエルの人々がおよそ4000人、固まって住んでいた。強制的にここまで連れて来られたのである。異国に暮らしていても彼らの心の拠り所はエルサレムの神殿であった。あそこに神がおられる。そのうちきっと神はバビロニアに罰を与えて、自分たちを故郷に連れ帰ってくださる──そう信じることが彼らの救いであった。

 ところがそこに、大変なことが伝えられた。エルサレムはバビロンの軍隊によって陥落し、主の神殿も焼かれて踏みにじられたと。主の神殿が崩壊したことは、生きる拠り所の崩壊であった。

 耐えがたいことが起こるとき、人はその理由を問う。何のせいで、だれのせいでこんなことになったのか。バビロンに連れて来られたイスラエルの人々もそうだった。そこにはやりだしたのがあのことわざ。

「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」

1.「このことわざを……口にしているのはどういうことか」エゼキエル18:2

 ことわざは、ある事柄を一言で言いあらわし、現実を明確にする力を持つ。適切なことわざの利用は人への有益な助言となる。しかし事柄を単純化してしまうため、場合によっては危険がある。

 今日、もっとも災いのあることわざは「備えあれば憂いなし」(小泉)である。これによって軍事力の際限ない拡大が正当化され(すでに日本は軍事大国)、自国と国際資本の利益のために戦争を事とするアメリカの世界支配の戦略に日本が組み込まれてしまった。

2.「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」8:2

 自分たちが亡国と捕囚の苦しみに遭ったのは、先祖が罪を犯したからだ、という意味。先祖が悪いことをした報いに自分たちが災いに遭っている。これは逃れられない不幸な宿命だ、というもの。投げやりになってしまっている。同時に、全部の責任を先祖に負わせて、自分は責任逃れをする。嘆きと不満と他への非難の中に閉じこもってしまう。これは生きておられる神を信じないことであり、また「自分は何もできない」ことに安住することである。自分自身が主体的に生きようとしない、一種の自己正当化。

 このことわざは、人々の心と生活を縛り付、支配してしまっている。それを神は良しとされなかった。

3.「わたしは生きている」8:3

 神が宣言される、「わたしは生きている」と。神がおられないなら、投げやりも絶望も許されるが、神が生きておられるのであれば、それは許されない。神が生きて働くことを宣言しておられるのだから、その神を信じて、自分も生きるしかない。生きる道が開かれる。

4.「お前たちは、このことわざを二度と口にすることはない」8:3

 神はこのことわざが影響力を持って人を縛りつけている事態を許されない。今、すべきことは先祖のせいにして(先祖が悪いのは間違いないにしても)、嘆いて非難して投げやりになることではなく、生きて呼びかけられる神に対して責任をもって応答することである。

5.「すべての命はわたしのもである。」18:4

 弱り果て、損われ、希望を失った人々の魂を、神は引き寄せ、ご自分の手の中に保たれる。
神の手に守られ、保たれたとき、人の命は回復し、自分の存在の意味と責任と使命を受けとめ、引き受けて生きるようになる。

6.「正義と恵みの業を行うなら」8:5?

 神が求められることが具体的に語られていく。信仰とは、ただ心のことだけではない。人を抑えつけ、虐げ、自分の利益のために不正を行い、無実の人の血を流すことが罪であり、偶像崇拝である。この誤りにしっかり気づき、「正義と恵みの業」(公道と正義=口語訳)を実践して生きるように神は求められる。

7.「彼は必ず生きる」8:9

 責任を持って神の前に正しくあろうとするとき、神は必ずその人を生きるようにしてくださる。たとえ自分と囲と世の中が絶望的であったとしても、神はその人を失望の中から引き出し、引き寄せ、生きる者としてくださる。

8.「生きよ」

「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。18:30-32

 神に呼びかけられて、私たちは自分の足で立ち、自分の責任を引き受けて生きる主体性ある人として生きる。

○イエスさまの最後の晩餐での言葉。

 「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」ヨハネ14:19

 これを可能にしてくださるのが聖霊。
 神の言葉は聖霊を運ぶ。

エゼキエル書 第6講

                  2005/12/20

1.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
 この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
「主を畏れることは知恵の初め。」箴言1:7

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。……弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。」イザヤ11:1-5

 主を知らない、知ろうとしないところから、堕落と悪が支配するようになった。エゼキエルはその実態を目撃させられる(8‐11章)。

2.「第6年の6月5日わたしは自分の家に……」(8:1)
 神のエゼキエルに対する働きかけは極めて具体的に(特定の場所と時間において)起こった。それは、ユダの長老たちとともに困難な現実を憂えている時であった。
 神はエゼキエルに、人の目には隠されたもの、人が隠しているものをはっきりと示される。神が見ておられる現実を預言者は見なくてはならない。

3.「霊はわたしを地と天の間に引揚げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」(8:3)
 世界と人間の闇の現実が厳しくなったとき、神は人間の予測可能性、合理性を越えた仕方で働かれる。「神の霊」は人間の限界を越えて働き、人に見るべきものを見させ、救いの現実をもたらしていく。
 エゼキエルは霊においてエルサレムに連れて行かれ、そこにある忌まわしい現実を撃させられる。

4.エルサレムの偶像(8:3?)
(1) 北に面する内側の門の入口に「激怒を招く像」(8:4) おそらく女神アシェラ像。
 この像を拝むことは「わたし(神)を聖所から遠ざける」「はなはだ忌まわしいこと」。

(2) 神殿の庭の入口、秘密の壁の穴(8:7)
 密室で行われている「地を這うものと獣の憎むべき像、あらゆる偶像」エジプトの偶像。
 しかも偶像礼拝を行っているのはイスラエルの長老(指導者)70人。ヤアザンヤの父シャファンは ヨシヤ王の時代、宗教改革の重要な推進者のひとりであった。

(3) タンムズ礼拝(8:14)
 季節の巡りに関わる植物神(男性)。女神イシュタル(アシュトレト)によって春に復活させられる。

(4) 太陽礼拝(8:16)
 神殿の庭の玄関と祭壇との間。聖なる領域。25人とおそらく祭司(24人の祭司と大祭司。歴代誌上24:7?18)。信仰の指導者たち自身が主に背を向けて太陽を拝む。
「木の枝」はおそらく儀式の行為。これは主なる神を直接侮辱・冒涜する行為であり、神への背信はここで頂点に達した。

5.神の裁きの実行(9:1‐)

6.主の栄光が神殿を去る(10:1‐7、18‐19、11:22‐25)
 極度の不法、暴虐、背信の神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
 エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。
 神の栄光が何度もとどまるのは神がエルサレムを愛しておられるから。愛惜。
 都の東の山とはオリーブ山。それ以上のこと(神の栄光がオリーブ山を去る)は、悲しすぎるので聖書記者は書けなかった。

7.新しい霊の約束(11:19)
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

 神の民の堕落は極限に達し、神はその地を去って行かれる。神の裁き(具体的にはイスラエル王国の滅亡)は必至。しかし異国に捕らえ移された人々と共に神はおられ、将来の再建に備えられる。(11:16‐)
 目に見える神殿はなくてよい。神みずからが神殿(聖所)となってくださるから。

 エゼキエルはこれらのことを、ユダの長老たちに、そして捕囚の民に語り聞かせた。

エゼキエル書 第5講

           2005/10/18

1.「横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい」エゼキエル4:4
 エゼキエルは民の罪を自ら負う(引き受ける)こと、民の罪と連帯することを、具体的な仕方でさせられる。預言者はただ神からの言葉を伝えるばかりの存在ではない。神と人、天と地を結ぶために、地の現実、人々の過ちを自らのものとして引き受けさせられる。人の現実を引き受けてその場所から神に訴え、また反対に神の思いを人に届ける。これが祭司、預言者である。

○これは、イエス・キリストの存在と働きそのものである。

「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」ペトロ一 2:24

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」ペトロ一 3:18

○教会はイエス・キリストの祭司的働きを継承する。

「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」ペトロ一 2:5
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」ペトロ一 2:9

○礼拝における代祷とざんげはこれを具体的に行うもの。私たちの現実を携えて神の前に出る。

2.「わたしが主であることを知るようになる」エゼキエル6:7、14
 この言葉はエゼキエル書の中で数十回繰り返される。
 人々が神を知らない、主を愛することも畏れることも知らない。それが人の罪と世界の悪の根本である。この結果、偶像崇拝、不法、虐げ、流血が起こっている。
 神が切に願っておられることは、人々が神を主なる神としてほんとうに知ることである。そのとき、悔い改めと赦しと清めと解放が起こる。

3.「神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び」8:3
 エゼキエルはバビロニアにいながら、神の霊に運ばれてエルサレムに連れて行かれ、そこにおけるおぞましい現実を見せられる。8‐11章。
 精神と生活の腐敗・堕落
 この故に神の栄光(神の臨在を間接的に表現する言葉)はエルサレムを去らざるを得ない。
 エルサレムを愛しつつ去って行かれる神の悲しみをエゼキエルは見る。

エゼキエル書第4講 怒りに燃える心

                   2005/05/17

略年表

 622 ヨシヤ王の宗教改革
 597 バビロニア帝国による第1回バビロン捕囚(エゼキエルもその中にいた)
 593 エゼキエルの召命(「エゼキエル」は「神は強めたもう」の意味)
 587 エルサレム陥落、神殿破壊、ユダ王国滅亡
 586 第2回バビロン捕囚

1.「大地よ」 エレミヤ22:29

「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け」
 エゼキエルとほぼ同時代に、エルサレムで活動したのがエレミヤ。「大地よ」という言葉を3回も叫ぶのは何ゆえか。

 「地」「大地」は、一方で、神に背き無実の人を虐げてみずから滅びようとする人々の住む所であり(9:11-12)、他方では、罪なき人の血を受けたことによって苦しむ人々の嘆きを知っている存在である(創世記4:10、エレミヤ4:28)。
 「大地」は相反する二つのイメージを持つ。大地は神への背きの象徴であるとともに、エレミヤの嘆きに共感・共鳴してくれるはずの存在でもある。エレミヤは人々に「神に立ち帰る」ことを願い求め、その結果憎しみを受け、迫害された。

 エレミヤは神の民イスラエルに臨もうとする悲劇(国の滅亡と外国への強制連行)を予見し、それを告げざるを得なかったが、そのことは耐えがたい苦しみであった。その中からはらわたを裂くようにして発せられたのが、 3回繰り返される「大地よ」の訴えである。

 預言書を読むことは、このような真実の人の悲しみに触れ、呼びかけを聞くことである。

 エゼキエルは、はるか東の異国で、このエレミヤの慟哭を聞いた。

「鎖を用意せよ。この地は流血の罪に満ち/都は不法に満ちているからだ。」エゼキエル7:23
「それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。
 わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」37:12
 「墓を開く」の預言は、イエスの死に際して実現した(マタイ27:51-52)

 預言者は過去と現在の人々の罪を指摘しながら、なお将来の救いを告げる。
 このように、エレミヤ、エゼキエルは深いところで通じ合い、響き合っている。


2.「額も硬く心も硬い」 エゼキエル3:7

 神の言葉を聞こうとしないかたくなな人々、反逆の民に、なお語るべき使命を神はエゼキエルに与えられた。
 神はエゼキエルを強くされる。人々が反逆するからといって、たじろいではならない。


3.「すべての言葉を心におさめ、同胞のもとに行き、言いなさい」 3:10-11

 「主なる神はこう言われる。」これが預言者の務めであり、また今日の教会・聖職の務めでもある。


4.「霊がわたしを引き上げた」 3:12

 エゼキエルがケバル川のほとりでうずくまり、また神から言葉を受け、使命を授けられる時は終わった。使命を果たすために今や彼は出発する。しかしそれを
実行する主体は神の霊である。


5.「苦々しく、怒りに燃える心」 3:14

 この社会の現実、この人々の背きと虐げの現実に対して憤りを激しく感じる。これがエゼキエルの預言者としての出発にあった。
 容認すべきではない社会の現実を直視するところから生じる怒り。
 悪しき現実に直面して怒ることは、不信仰なことではなく、信仰的なことである。
 神の憤りがエゼキエルの中に燃える。彼の心と体において神の憤りが(しかし実は愛が)うずく。

「主の御手がわたしを強く捕らえていた。」
 エゼキエルは神によって保たれている。

「茫然として」3:15
 事態のあまりのひどさにどのように関わり合えばいいのかわからない。


6.「イスラエルの見張り」3:16

 茫然自失の中にあったエゼキエルに対して、神はより具体的にエゼキエルの使命を明確に示される。悪人への警告責任である。


7.イエスの中に燃えていたのも同じ憤り

 貧しい人々の犠牲の上に成り立っている当時のエルサレム神殿の宗教をイエスは許せなかった。宮清め ヨハネ2:13

マルコ3:1-6
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

エゼキエル書第3講 巻物を食べる

                   2005/04/19

1.「反逆の家」 2:5、6、7、8

 エゼキエルが神から派遣されるのは「恥知らずで、強情な人々」(2:4)、「反逆の家」である。
 「神の家」であるはずのイスラエルが「神への反逆の家」になってしまっている。
 エゼキエルは厳しい覚悟を求められる。しかし「恐れてはならない」(6)。
 神がエゼキエルを遣わされるのは、神がイスラエルを見捨てておられないから。


2.「わたしが与えるものを」 2:8

 神はエゼキエルを遣わすにあたって、必要なものを与えられる。使命を与える方は、その使命を行う力を同時に与えられる。

 イエスが弟子たちを派遣されるときも同じ。
 「イエスは十二人を集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり……」ルカ9:1-2


3.「見ていると、手が……」 2:9

 <神ご自身が><具体的に>働かれる。エゼキエルはそれを見つめている。
 私たちは、神が働かれるのを待って見ている時間が必要。全部を自分で背負い込まないようにしよう。


4.「巻物──表にも裏にも文字が」 2:9-10

 長い歴史の中で嘆き、苦しみ、祈ってきた人々のおびただしい言葉を神は記憶し、記録しておられた。神はそれを巻物にしてエゼキエルの前に差し出される。
 神は巻物を開き、これらを自分のものとするように彼に求められる。


5.「食べなさい」 3:1

 神はその巻物を食べて自分のからだの一部としてしまうことをエゼキエルに命じられる。巻物を飲み込むとき、彼はそれに記された人々の嘆きと悲しみを自分
のものとすることになる。こうして昔の人の呻きがエゼキエルの中で呻き、過去の人がエゼキエルの中で生きることになる。

→これは新約聖書に通じる。コリント 4:10
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体現れるために。」
 イエスの苦難が私の中に生きて働き、イエスの命とわざが私たちを通して現される。


6.「行って語りなさい」3:1

 エゼキエルは、食べた巻物を自分の中に留め置くばかりではなく、「行ってイスラエルの家に語る」ことを神から命じられる。
 人々の記憶から忘れ去られ、あるいは消し去られた苦難を負った人々の歴史を呼び覚ますことが預言者の使命。

→戦争体験を風化させず、平和への願いと決意として再生させることが今の私たちに必要。


7.「食べると、蜜のように甘かった」 3:3

 人の嘆きを食べさせられるのであるから、苦く苦しいはずであるが、しかしその巻物は、嘆く人々とエゼキエルを愛される神の愛のいのちが形となったもので
あるから、甘かった。

 神の巻物を食べたエゼキエルの中に、神の思いと言葉、人々の思いと言葉が宿った。神とのいのちの交流、苦しんできた人々との交流はエゼキエルを力づけ、生かす。


8.私たちにとっての神の巻物

<聖書>
 私たちにも神の巻物──聖書が差し出されている。それを食べて自分のいのちとするように神は促しておられる。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
マタイ3:4
 イエスは、神の言葉、聖書の一つ一つの言葉を食べて生きておられた。それはエゼキエルと同じであり、その徹底である。神の言葉はイエスを生かす甘いいの
ちであった。同時にそれは、人々の苦難を自分のものとすることであった。

<聖餐>
 私たちも、神から手を差し伸べられて、受けて食する。いただくのは主イエスのいのち。
 聖餐を受けるのは、イエスの願いと祈りといのちが私の中で生きるため。

 礼拝は神の言葉と霊をいただき、同時に人々の嘆きと祈りを自分のものとする
場(祈りと代祷)

 私たちも聖餐において神の巻物(いのち)を差し出されて受けて食べる。そうして主イエスが私たちの中で、私たちをとおして生きて働かれるようになる。

エゼキエル書第2講 「自分の足で立て」

                   2005/02/15

聖歌増補版8「神の息よ」

1.彼はわたしに言われた 2:1

 神は語りかける主体である。
「神について」考え語ることは大切だが、それ以上に「神が語られる」ことに耳を傾ける姿勢が信仰の根本。神は漠然とではなく、具体的に、それぞれの事情の中にある私(たち)に対して語りかけられる。


2.「人の子よ」 2:1

 これは人類一般や、後に「メシア(救い主)」の意味で用いられる「人の子」ではない。
 「アダム(アダマ=土)の子」、危うく、はかない、死すべき者という意味合い。神は私たちが立派であることを前提にしておられない。私たちのありのままの姿を受け入れつつ神は語りかけられる。


3.「自分の足で立て」 2:1

 神は倒れ伏しているエゼキエルにこう命じられる。「自立すること」、人に合わせて様子をうかがうのではなく、自分で考え判断し行動する「主体的に生きる
者となる」ことを神は求められる。
「主体性の喚起」──神は私たちのうちに主体性を呼び起こされる。


4.霊がわたしの中に入り 2:2

 自立を求められてもそれができないエゼキエルの中に神の霊が入る。
 神の霊がエゼキエルを自分の足で立たせる。
 神の霊は私たちに注がれ、私たちの中に入り、私たちの中で生きて働く。
 聖霊は私たちを自分の足で立たせ、主体的に積極的に生きる者とする。
 このことは日本のキリスト教が長く見失ってきたこと。

 聖霊は人間の力の限界を乗り越えさせる。
 神の<霊>と<言葉>。この両者が大切。


5.主イエスと神の霊

 神の霊は洗礼の際に主イエスに注がれた(マタイ3:16)。
 神の霊は40日の荒野の試みにおいてイエスを<聖書の言葉>と共に守り支えた(マタイ4:1)。
 復活のイエスは弟子たちに聖霊を吹きかけられた(ヨハネ20:22)──自立できない弟子たちを自立させる。

 40日の試練の後、イエスは「“霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰られた(ルカ4:14)。

 そしてナザレでの会堂礼拝でイザヤの巻物を開いて「主の霊がわたしの上におられる」と朗読されたとき、そのとおりのことがそこで起こった(ルカ4:18)。


6.礼拝は神の言葉と霊をいただく場

エゼキエル書第1講 ケバル川のほとり

                      2005/01/18

聖歌472「幻を見る」

略年表(BC)
1000 ダビデ王即位
 922 イスラエル王国の分裂(北・イスラエル/南・ユダ)
 722 アッシリアにより北イスラエル王国滅亡
 622 ヨシヤ王の宗教改革
597 バビロニア帝国による第1回バビロン捕囚
 593 エゼキエルの召命(「エゼキエル」は「神は強めたもう」の意味)
 587 エルサレム陥落、神殿破壊、ユダ王国滅亡
 586 第2回バビロン捕囚

1.ケバル川のほとり

「ケバル川」はユーフラテスの支流(運河)
 第1回バビロン捕囚の民(約3000人と言われる)の中にエゼキエルはいた。彼は祭司ブジの息子。祭司になるための訓練を受け、自分もその希望を抱いてきたが、異国に連行されて捕囚の身となり、失意のうちにあった。神の臨在の場所と信じられたエルサレムから遠く離れた異国での望みなき現実。川辺で祈り、うなだれていたエゼキエル。

「第三十年」はおそらくエゼキエルの三十歳のこと。これは本来なら祭司に任職されるはずの年(民数記4:1)。しかし彼は思いもかけず預言者として召される。主の新しい働きの開始。

2.「神の幻を見た」(神の顕現に接した)1:1

「神の幻」(視覚)1:1、「主の言葉」(聴覚)1:3、「主の御手」(触覚)1:3
「わたしが見ていると」1:4
 「激しい風」「火」「光」
 エゼキエルは神の現れに圧倒されている。ひとつひとつの幻の理解、解釈は必ずしも必要ではない。

3.注目される三つの言葉

 「人間のようなもの」1:5、8、10「人間のように見える姿をしたもの」1:26
 「霊」1:12 神の霊が動き、動かす
 「全能なる神(の御声)」1:24

 これは「三位一体の神」(人となった神=イエス・キリスト、聖霊、全能の神)につながる。

4.「恐ろしかった」1:18

 不可解な恐ろしい幻の中で次第に何かがはっきりしてくる。
 →「これが主の栄光の姿の有様であった。」1:28
 エゼキエルはひれ伏す。

 しかしここから、神の呼びかけが始まる。
 神をおそれ、ひれ伏したエゼキエルに、神は働きかけ、彼を預言者として任命する。

○同じことが、イエスの弟子たちにも起こった。ルカ5:8‐11
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