Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

メッセージ

タリタ・クム ──手を取ってくださるイエス

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マルコ5:22−24、35−43

2018年7月1日・聖霊降臨後第6主日
奈良基督教会での説教

 カファルナウムの会堂長のひとり、ヤイロという人がイエスのもとに来て、ひれ伏して懇願しました。
 「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」マルコ5:23

 「手を置いてやって」とは、手を置いて祈ってほしいのです。イエスさまだけが頼りです。「わたしの幼い娘が」と言っていますが、後で分かるのですが、その子は12歳です。「幼い娘」というと3歳から5歳くらいをイメージしてしまうかもしれません。けれどもこの父親ヤイロにとっては、自分の娘はいつまでもかわいい。幼い頃にその子を呼んでいた愛称があったとすれば、もう大きくなってその愛称は直接使えなくなったとしても、心の中では繰り返しその愛称で呼ぶのです。まして今、この子は命が危ない。「わたしの幼い娘が」という言葉はヤイロの気持ちそのものです。
……

全文 → タリタ・クム ──手を取ってくださるイエス

あなたこそ神の聖者

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2018年8月26日・聖霊降臨後第14主日
奈良基督教会での説教です。

ヨハネ6:60‐69

イエスさまの公的な活動は、2年から3年と言われます。その短い時間の中で人々に与えた影響は、考えられないほど大きいものでした。ここに今日、わたしたちが集まって礼拝しているのも、そのせいです。

けれどもその2年ないし3年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません。イエスを愛し慕う多くの人々がおり、反対にイエスを憎み迫害し捕らえようとする者たちがいました。そしてさらに、イエスを信じて従っては来ているけれども、中心は自分の側にあって、自分の欲求を満たしてくれる限りにおいてイエスに従う。しかしイエスが自分が期待していることに沿わなくなれば、イエスを見限って離れ去って行く──そういう類いの人々が大勢いました。それが今日の福音書に記されている事実です。
……

全文 → あなたこそ神の聖者

へりくだる霊と神の憐れみ

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2018 年7 月22 日
奈良基督教会での説教

イザヤ書57:14−21

全文 → へりくだる霊と神の憐れみ

最近の日本の国のあり方を見ていると、失望と怒りが高じてきます。そのひとつは「カジノ法」の成立です。巨大なギャンブル施設が造られることによって、一部の人が大もうけをし、多くの人が不幸に陥るでしょう。そして今でもすでに危うい日本人の正義や公平の感覚がますます麻痺して、精神的退廃が進むでしょう。
……
今日ご一緒に耳を傾けたいのは、最初に朗読された旧約聖書・イザヤ書第57章14節以下です。これは、イエスさまより500年くらい前の預言者を通して語られた主の言葉です。ここには、人間の高慢と神への背き、どうしようもない頑なさが描かれるとともに、それに対する神の深い思いと決意が現されています。
……

祭司ザカリア──洗礼者聖ヨハネ誕生日(6月24日)に寄せて

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2018年6月26日
奈良朝祷会での講話
奈良YMCAにて

 ザカリアは先祖代々、主の神殿で祭司の務めをしてきた人でした。その妻エリサベトも祭司の家系をくむ者です。二人はユダの山里に暮らしており、ザカリアは当番のときなど、必要に応じてエルサレム神殿に行って務めを果たす、という生活でした。二人とも神の前に正しい人で、非の打ち所がない、とまで言われていました。二人は長い間子どもが与えられることを願い祈ってきましたが、叶えられず、すでに年が進んだのでもうそのことは諦めていました。

 ある年の8月、ザカリアの属するアビヤ組が当番となり、神殿で務めを果たしていました。その際、聖所に入って香をたく役割を決めることになり、くじを引いたところザカリアが当たりました。祭司の数はとても多かったので、聖所に入って香をたくという役目が当たることは極めてまれで、一生に何度もあることではありませんでした。
……

全文→祭司ザカリア

足を洗ってくださったイエスさまの手

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2018年6月2日
日本国際ギデオン協会京滋奈地区早天祈祷会でのメッセージ
奈良基督教会にて

ヨハネ13:1−17

 時が来ました。そのようにはっきりと聖書に記されています。
「13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 2〜3年前にイエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたことがありました(ヨハネ2:4)。あのカナの婚宴でぶどう酒が足りなくなったとき、母マリアがイエスにそのことを告げると、イエスはそのように言われました。ぶどう酒は血を暗示します。イエスにぶどう酒を求めることは、イエスの血を、ご自身の命を求めることだと、感じられたのです。
「わたしの時はまだ来ていません」

 しかしその時からすでにイエスは、いずれご自分の時が来ること、つまり弟子たちのため、世の人のためにご自分の命を献げる時が来ることを覚悟しておられました。そしてついにその時が来たことを、イエスははっきりと悟られたのです。
……

全文→足を洗ってくださったイエスさまの手

主よ、わたしたちは だれのところに行きましょうか

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2012年8月26日・聖霊降臨後第13主日
奈良基督教会での説教

「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」ヨハネ6:67‐69

 ペテロは言いました。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
 ペテロは問われて、イエスにこう答えました。けれどもそれにとどまらずに彼は、2000年後のわたしたちにも呼びかけています。
……

全文→主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか

主の息吹を受けたニコデモ

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ヨハネ3:1−16

2018年5月27日・ 三位一体主日
奈良基督教会での説教

 今日、わたしたちが見つめたいのは、神の息吹を必要としていたひとりの人、ニコデモという人のことです。
 イスラエルでは有名な教師、聖書学者、指導者でした。年齢は分かりませんが、かなりの年配で、仮に70歳くらいとしておきましょうか。「ユダヤ人たちの議員」(ヨハネ3:1)と書かれていたとおり七十人からなる最高法院の議員です。社会的地位があり、尊敬を受けている人です。しかし、だれにも言いませんが、心の深いところにうずくような悩みがありました。
 そのニコデモが「ある夜」、イエスを訪ねてきました。イエスは当時、ファリサイ派など影響力の強かった人々からは「秩序破壊の危険人物」と見なされていましたから、人目を忍んで夜に訪ねてきたのでしょうか。また彼自身が希望の朝を見出せない夜の闇を、自分のうちに抱えていた、ということかもしれません。
……

全文→主の息吹を受けたニコデモ

“霊”が語らせるままに

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2018年5月20日
聖霊降臨日
奈良基督教会での説教です。

全文→“霊”が語らせるままに

「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

 およそ2000年前の今頃の季節の日曜日、今聞いたこのような出来事が起こりました。聖霊降臨です。これがなければ教会は誕生せず、福音は伝えられず、この教会もなく、わたしたちもイエス・キリストを知り、また信じることも起こらなかったのです。逆に言えば、この聖霊降臨の出来事が起こったから、わたしたちはここでこうして礼拝する者となったのです。
 教会が、またわたしたちが生き生きと生きるためには、この最初の聖霊降臨の出来事の記憶がよみがえって、それが今のわたしたちの力となり命となる。それが大事です。そこで今日は、この日何が起こったのかをあらためて確かめてみたいと思います。
……

信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

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使徒言行録11:19−30
2018年5月6日・復活節第6主日
奈良基督教会での説教

今日の聖書日課の使徒言行録には、シリアのアンティオキア教会の始まりのことが記されていました。

「11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」

エルサレムの教会の力ある指導者ステパノが石で打たれて殺されたことがきっかけとなって、エルサレムの教会に対して迫害が起こり、多くの信徒たちがあちこちへと散らされて行きました。

こうしてエルサレムのずっと北の方、シリアのアンティオキアという当時の大都会に教会が成立し、このアンティオキアの教会がイエス・キリストの福音を世界に広める基地の役割を果たすようになりました。……

全文→信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

天に昇られたイエスさま

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 復活の後、主イエスは40日にわたってしばしば弟子たちの前に現れ、ご自分が生きていることを示されました。そして40日後に、弟子たちの目の前で天に昇って行かれました。ルカによる福音書にはこのように記されています。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」24:50-51

 ここで2回も「祝福」という言葉が出て来ます。また日本語訳では「手」となっているところは、ギリシア語原文では複数、つまり「両手」です。

 イエスさまを見送った弟子たちの目に、そして心に刻まれたのは、イエスの祝福の手です。その挙げられた両手から、イエスの愛と平和と命が弟子たちに伝わってきます。たとえ姿は見えなくなっても、イエスの祝福の手がずっと自分たちを守り支えていてくださることを弟子たちは感じて、心を熱くされました。

 天に昇られたイエスさまは、弟子たちからただ離れて行ってしまわれたのではありません。今は父なる神さまの傍らにいて、弟子たちのために祈り、執り成していてくださるのです。

 さらにイエスさまは、昇天に先立って弟子たちに「聖霊を送る」と約束され、それを待っているようにと繰り返し命じられました。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:49

 そこで弟子たちは、イエスが約束された聖霊を待ち望んで祈り続けました。10日後の日曜日、集まって祈っていた弟子たちは、激しく燃える神の愛を経験しました。弟子たちはその喜びを他の人々に伝えずにはおれなくなりました。これが聖霊降臨日(ペンテコステ)、言わば教会の誕生日です。今年は5月20日です。

 イエスさまは今も、わたしたちに向かって手を上げて祝福を注ぎ、他方神に向かってわたしたちのために祈っていてくださいます。わたしたちも最初の弟子たちのように、主イエスの祝福の手を仰ぎましょう。

 聖餐式の終わりに司祭は手を上げて会衆を祝福します。
「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。アーメン」

 昇天のイエスさまの上げられた手が両手であることに気づいて以来、わたしは「父と子と」のところでは片手で十字を切るのですが、「聖霊」のところで両手を上げるようになりました。イエスさまの祝福を会衆に伝えたいからです。
 昇天の主イエスの両手の祝福が、皆さまとともにありますように。

【全文】イエス御自身が真ん中に立ち

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ルカ24:36−48
2018年4月15日・復活節第3主日
奈良基督教会での説教

→ 全文

今日の福音書はこのように始まりました。

 「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ24:36

 聖書日課をお持ちの方は、今日の福音書本文の始まりの所を見ていただきますと、「24:36b」と書いてあるのに気づかれると思います。これは36節の冒頭(36a)が省略されているということを示してい
ます。何が省略されているかと言うと
「こういうことを話していると、」
という言葉です。
 別に省いてもよい気がするかもしれませんが、しかしこの言葉によって、主イエスの弟子たちがどういう状態にあったかがはっきりとわかるのです。
……


イエス御自身が真ん中に立ち

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復活節第3主日(2018/04/15)

ルカによる福音書24:36−48

 イエスが十字架につけられてから3日目の日曜日の深夜のことです。エルサレムに残った弟子たちと、遠いエマオまで行って戻ってきた二人の弟子たちとが集まって、語り合っていました。復活のイエスさまに出会ったことを熱心に話す人もいれば、それを不思議に思う人、疑わしく思う人もいて、議論は尽きません。

 そうしているうちに、イエス御自身が彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思いました。そこでイエスは言われました。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」ルカ24:38−39

 そう言ってイエスは弟子たちに、ご自分の両手と両足を示されました。そこにははっきりと、釘を打たれた傷跡が残っていました。
 それを見た弟子たちは、確かにイエスさまだとわかって、喜びが湧き起こってきます。それでもやっぱり不思議で、信じられないのです。

 そこでイエスは「ここに何か食べ物があるか」と言われました。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べられました。

 わたしたちはイエスの復活について議論し、不思議に思い、また疑います。わたしたちの間では解決がつきません。けれども大切なことは、そのようなわたしたちの真ん中にイエス御自身が立たれる、ということです。そしてなかなか信じられないわたしたちを何とかわからせようとして、イエス御自身が懸命になられる、ということです。

 イエスが御自身をわたしたちに示し、そしてわたしたちの心の目を開いてくださるとき、すべては変わります。惑いと疑いは去り、喜びと力が湧き溢れて、自分の中にそれを押し込めておくことはできなくなるのです。

 わたしたちは聖餐式の初めに「主イエス・キリストおいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と祈ります。

 どうかこの祈りのとおりに、復活の主イエスがわたしたちの真ん中に立って、わたしたちを惑いや疑いから解放し、喜びで満たしてくださいますように。

(日本聖公会京都教区ホームページ「今週のメッセージ」)

クロパの妻マリアと十字架のイエス

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2018年3月30日・聖金曜日
奈良基督教会での説教です。
(大和伝道区合同礼拝)

全文→クロパの妻マリアと十字架のイエス

 わたしたちは今、2000年前の人たちと同じように、主イエスの十字架のもとに集まっています。

 今、朗読されたのはヨハネ福音書による主イエスの受難物語ですが、ルカ福音書にはこのように書かれた一節があります。イエスの死の直後です。

「23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」

 このように、十字架の出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った人たち。その中にはふたとおりの人々がいたのではないでしょうか。一つは、この残酷で衝撃的な出来事に立ち会ったとしても、やがてその記憶は次第に薄れて過去の事柄となり、結局はイエスの十字架と自分の人生の間には特別な関係が生じなかった人たちです。
 もう一つは、この十字架の出来事がそれを目撃した人の生涯に決定的な影響を及ぼすことになった人たち。十字架にかけられたイエスがその人の心に刻みこまれて、イエスと自分とをもはや切り離すことができなくなった人たち。十字架のイエスなしの人生などもはやあり得なくなった人たちです。

 わたしたちはこの礼拝が終われば、2000年前の人たちと同じように胸を打ちながら帰って行くでしょう。そしてその後はどうなるのでしょうか。願わくは、今述べた後者のようでありたい。十字架のイエスがわたしたちに宿ってくださって、もはやそこから離れられないような、そのようなイエスとの出会いと結びつきが与えられることを願います。
……

自分のもとへ引き寄せよう ──トマス・クランマーの殉教

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ヨハネ12:32

2018年3月18日・大斎節第5主日
奈良基督教会での説教

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ヨハネ12:32

 今日のヨハネ福音書によれば、主イエスは弟子たちとの別れが迫ったとき、このように言われました。 その言葉のとおりに主イエスのもとに引き寄せられたひとりの人のことを、今日はお話しします。それは16世紀、今からおよそ500年前に、聖公会という教会の土台を築いたトマス・クランマーという大主教です。
……

全文→ 自分のもとへ引き寄せよう ──トマス・クランマーの殉教

ハバククの祈り

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日本CGNTV(インターネット放送)「みことばに聞く」のための原稿です。

1 ハバククの嘆き
2 ハバククの沈黙
3 ハバククの賛美

2018年2月23日、日本聖公会奈良基督教会礼拝堂で収録。

→ ハバククの祈り 原稿

「預言者ハバクク」。彼は紀元前7世紀、イエスさまよりも600年くらい前に、ユダの国で活動した人です。

預言者は神さまから言葉を受けて、それを人びとに伝える人です。けれどもただ「神から人へ」という一方通行ではありません。預言者は神からの言葉を受けて伝えるばかりではなく、人の声、人の思いを神に届けます。「神から人へ」と「人から神へ」と──この両方の間に立つのです。ここに預言者の栄光と苦しみがあります。

ことにハバククはその時代の苦しみの中で、神に向かって嘆きの声を上げました。
……

「使徒言行録」講義の動画

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OCCカレッジ(大阪クリスチャンセンター)で行った使徒言行録講義全体がインターネット放送局(CGNTV)で公開されました。
全体は四つに分けられています。

下記を開くと最新の(つまり途中から)ものがいきなり始まります。

日本CGNTV OCC COLLEGE

動画の下方、いったん ■ を押して停止させ、画面の下のほうをたどるとメニューが表示されます。

原稿にはないことも自由に話しています。
私の願いは正確でバランスのとれた解説をすることではなく、自分に関心のあるところから福音のメッセージを受け取ることにあります。
(とはいえ、恥ずかしくて自分では見ることができません。)

当日配布した講義原稿は
   ↓
使徒言行録「パウロの回心と働き」

わたしについて来なさい

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2018年1月21日・顕現後第3主日
奈良基督教会での説教です。

マルコ1:16−20

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」マルコ1:16
 
聖書を読むときに、その場面、情景を想像してみたい。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」
 
イエスが、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられます。夜が明けた頃かもしれません。湖を渡ってくる風が頬をなで、髪の毛を揺らします。朝の新鮮な空気。朝日が湖を照らしています。イエスが踏まれる海辺の砂がザクザクと音を立てています。

二人の人が目に入りました。漁師です。岸辺からそれほど遠くない、湖に浮かべた舟の上から網を打って漁をしています。イエスはそれをご覧になりました。
……

→ 「わたしについて来なさい」全文

主よ、お話しください

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2018年1月14日・顕現後第2主日
奈良基督教会での説教です。
サムエル記上3:1−10

 「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」

 これがわたしたちの教会の今年の年間聖句です。年間聖句は毎週の週報に書かれてあり、また信徒の方が墨で書いてくださって礼拝堂とベタニアに掲げられています。

 この聖句はわたしが決めているのですが、それは年度の終わり頃に教会の現状を振り返りながら、神さまが何をわたしたちに呼びかけておられるのかを思いめぐらすなかで与えられたものです。

 「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」

 わたしたちは話す。大事なことです。けれどもわたしたちが話している間に、神さまの声が聞こえなくなる。聞くことを忘れる。これはとても危険なことです。
 いろんな課題を抱えて、たくさん心配したり迷ったりするわたしたちです。そのわたしたちに対して、神さまは何と言われるのか。神さまは何を語りかけておられるのか。わたしたちの教会に対して、この社会に対して、またわたし個人に対して。これに心の耳を澄まして聞きたい。神さまの思い、神さまの言葉の中に、わたしたちの希望と命がかかっているのです。
……

→説教全文PDF

幼子の名はイエス(2018)

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2018年1月1日・主イエス命名の日
奈良基督教会での説教です。

……
その子の名はイエス。「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救う」「神は救い」という意味です。神の救いをこの世界にもたらすために生まれた幼子の名前はイエス。誕生から8日目の今日1月1日に、幼子は正式にイエスと名付けられました。イエスの名はマリアから愛をもって呼ばれ、ヨセフから愛をもって呼ばれ、隣人たちから愛をもって呼ばれました。

ところでこのイエス命名の出来事を伝えるルカ福音書の中で、直接このイエスの名を呼んだ人たちがいるのだろうか。いるとしたらどんな人たちが「イエスよ」とイエスの名を呼んだのか。それが気になって調べて見ました。それほど多くはないので、短くたどってみます。
……

全文は → 幼子の名はイエス

モーセ物語〜旧約聖書・出エジプト記から〜

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親愛幼稚園の礼拝でのお話です。計3回。
2017年10月〜11月。

昔々遠い昔、神さまを信じていたイスラエルの人たちはエジプトで暮らしていました。イスラエルの人たちとエジプトの人たちは仲良く暮らしていたのです。ところが悪い王さまが現れて、恐ろしい命令を出しました。「イスラエルの家に男の子が生まれたら、ナイル川に投げ込んでしまえ」。

そのころ、レビさんというイスラエルの人の家に赤ちゃんが生まれました。男の子でした。とってもうれしかったけれども、とても心配です。悪い王さまに見つかったら捕まえられてしまいます。

ずっと赤ちゃんを家の中に隠していました。でも赤ちゃんは泣きます。どうしよう。お母さんはお祈りしました。お父さんはお祈りしました。お姉さんのミリアムさんもお祈りしました。「どうか赤ちゃんを助けてください。」
……

全文 → モーセ物語
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奈良基督教会牧師
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富坂キリスト教センター・日韓キリスト教関係史研究会主事
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