Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

メッセージ

モーセ物語〜旧約聖書・出エジプト記から〜

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親愛幼稚園の礼拝でのお話です。計3回。
2017年10月〜11月。

昔々遠い昔、神さまを信じていたイスラエルの人たちはエジプトで暮らしていました。イスラエルの人たちとエジプトの人たちは仲良く暮らしていたのです。ところが悪い王さまが現れて、恐ろしい命令を出しました。「イスラエルの家に男の子が生まれたら、ナイル川に投げ込んでしまえ」。

そのころ、レビさんというイスラエルの人の家に赤ちゃんが生まれました。男の子でした。とってもうれしかったけれども、とても心配です。悪い王さまに見つかったら捕まえられてしまいます。

ずっと赤ちゃんを家の中に隠していました。でも赤ちゃんは泣きます。どうしよう。お母さんはお祈りしました。お父さんはお祈りしました。お姉さんのミリアムさんもお祈りしました。「どうか赤ちゃんを助けてください。」
……

全文 → モーセ物語

ヨナを愛される神

Sea of Galilee, Southward View

2017年9月24日
聖霊降臨後第16主日
奈良基督教会での説教です。

今日の旧約聖書は、ヨナ書という預言書の最後のところでした。ヨナ書は預言書には数えられているのですが、内容はまるで小説のようです。あらすじをたどってみることにします。

主なる神はヨナに命じて言われました。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」ヨナ1:2

ニネベは古代アッシリア帝国の都です。今のイラク北部。チグリス川のほとりの大都市でした。そのニネベの悪は甚だしく、これ以上放置できないと思われた神は、ヨナをニネベに遣わして、神の審判が迫っていることを伝えさせようとされました。

ところがヨナは、ニネベとはまったく反対の西のかなた、スペインのタルシシュ行きの船に乗り込みました。神さまから逃げたのです。
……

全文 → ヨナを愛される神


終わりの日を思って今を生きる ──シラ書から

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2017年9月17日
聖霊降臨後第15主日
奈良基督教会での説教です。

 本日の「シラ書」は旧約聖書続編に含まれるもので、紀元前200年頃、ベン・シラ(イエスス)という人が編集した信仰的教訓集とも言うべきものです。今日はそのシラ書の言葉のいくつかに触れてみることにしましょう。

 ところで聖書を読んでいて、ここは避けて通りたい、という箇所があります。わたしにとってのその一つが、実は今日の箇所なのです。しかし避けて通りたい箇所にこそ、大切な神さまからの呼びかけがあるのではないか。そう思って立ち止まって聞いてみることにします。
……

全文 → 終わりの日を思って今を生きる ──シラ書から

ペテロと赦し

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2017年9月17日 聖霊降臨後第15主日

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:21-22)

 このとき、ペテロは同じ弟子仲間に対してひどく立腹していたのかもしれません。「赦しがたい」と感じつつ、なお「赦さなければ」という葛藤の中にあったのではないでしょうか。

 しばらく前にペテロはイエスさまに対する信仰告白をしました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)

 これに対してイエスは言われました。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(16:17-18)

 ご自分の教会をこのペテロの信仰を土台として建てると言われたイエスは、今だけではなく将来のペテロのつまずきと立ち直り、使命と困難を見通しておられました。
 この後、イエスが捕らえられたとき、ペテロはイエスを裏切って「そんな人は知らない」と言います。もう生きて行けないほどの負い目を負ったペテロを立ち直らせたのは、イエスの赦しの愛です。赦しを必要としたのはペテロ自身でした。

 主イエスの復活と聖霊降臨の後、ペテロが信仰共同体(教会)の責任を負うことになるとき、どれほど多くの人の不当な言動に直面して行かなくてはならないことでしょうか。憤りと失望によって、あるいは自身の過ちや無力によってペテロは自分を失い、務めに耐えられなくなってしまうかもしれません。

「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

 耐えがたい困難を乗り越えてペテロを支え生かし続けるのは、主イエスの七の七十倍以上も彼を赦す愛、無限の赦しの愛と、彼への使命の委託、そしてペテロの悔いの涙なのです。

説教者としてのわたしの歩み

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以前に『福音と世界』に書いた文章です。
(写真は京都復活教会礼拝堂)

本文 → 説教者としてのわたしの歩み

歴史を忘れない 2017長崎原爆の日

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2017年8月9日 奈良基督教会
「長崎原爆の日 平和の祈り」メッセージ


72年前に広島、長崎で投下された原子爆弾によって命を失った人々を覚えて祈りましょう。

すべて世にある人また世を去った人の父なる神よ、
72年前に広島、長崎に投下された原子爆弾によって
命を失った人々の死を悼(いた)み、
その魂を主のみ手にゆだねます。
わたしたちがその犠牲をむなしくせず、
世界の平和の実現と核兵器の廃絶を求め、
また人の魂にまごころと愛が満ちることを願い求めて歩むようにしてください。
主イエス・キリストによってお願いします。アーメン

点鐘 8:15(8月6日) 11:02(8月9日)

司式者 亡くなった人びと、ことに広島、長崎の原爆犠牲者に
    永遠の平安と慰めをお与えください。
    またそのうちに含まれる外国人、
    ことに韓国・朝鮮人被爆者を顧みてください。
 会衆 主よ、お聞きください


 72回目の原爆記念日を迎えました。
 1945年当時、広島の人口は約35万人、そのうち約14万人が犠牲となったと言われます。長崎の人口は約24万人、そのうち約7万人が犠牲となったと言われます。

 歴史の記憶は、意識しなければ消え去ってしまいます。痛ましい事実も、むごく苦しめられた人々のうめきも、なかったことになってしまいます。しかも、それを「なかったことにしたい」人々がいます。しかしそのようなことは許されません。

 わたしたちは主日ごとに主イエスの受難と復活を記念して聖餐式を行います。主イエスの出来事を絶対になかったことにせず、生き生きと記憶し、よみがえらせるためです。それが信仰の営みです。ここから繰り返し新しい歩み出しが起こります。

 ところでこの8月7日、国連では「核兵器禁止条約」が122カ国の賛成で締結されました。条約は前文で「核兵器の使用がもたらす壊滅的な人道上の帰結を憂慮する」とし、「核兵器を完全に除去する」必要性を強調。広島、長崎の被爆者の訴えをくみ取り、「核兵器使用の被害者(ヒバクシャ)と核実験の被害者の受け入れがたい苦しみと被害に留意する」との文言も盛りこまれました。

 会議を主導した南アフリカの代表は「被爆者がいなければここまで来られなかった」と述べ、被爆者らの条約制定への働きかけをたたえたとのことです。

 しかし日本政府はこれに参加しませんでした。被爆国としての責任と使命を裏切るものとしか思えません。

 わたしたちは戦争の悲惨と過ち、原爆の悲劇と悪を繰り返すことがないように、平和の実現を求めて歩みたいと願います。

知恵は神の友と預言者を育成する ──旧約聖書続編「知恵の書」をひもとく

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2017年7月23日 奈良基督教会
2017年7月25日 奈良朝祷会
旧約聖書続編「知恵の書」についての説教・講話です。

全文 → 知恵は神の友と預言者を育成する ──旧約聖書続編「知恵の書」をひもとく

 旧約聖書続編に「知恵の書」という書物があります。「ソロモンの知恵」とも呼ばれるものですが、あまり触れる機会がないかもしれません。今日は、この「知恵の書」をひもといてみたいと思います。
 この書物は、エジプトのアレクサンドリアのユダヤ人によって書かれたと言われます。イエスさまの誕生より50年前から100年前くらいの間に書かれたそうです。

 まず冒頭はこう始まっています。
「1:1 国を治める者たちよ、義を愛せよ、
善良な心で主を思い、
素直な心で主を求めよ。」


 これは今の日本の為政者、政治家に聞かせたい言葉です。不正、ごまかし、欲望、そして戦争するための国づくり……。どこに義があるのか。どこに善良な心があるのか。
「義」とは、神さまが願われるところを求め、それに従って生きることです。
……

神に対して生きている

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2017年7月2日
聖霊降臨後第4主日
奈良基督教会での説教です。

ローマ6:3−11

全文 → 神に対して生きている

 わたしたちの教会は先週、創立130周年を記念して礼拝をささげ、神さまを賛美し、先輩たちの信仰の労苦を感謝しました。同時にこの教会に新しく6名の堅信、ひとりの初陪餐者が与えられたことをともに喜び祝いました。礼拝、祝会、130周年記念誌、その他さまざまな面で多くの方々が祈りと奉仕をささげてくださったことを心から感謝します。

 記念礼拝と祝会は終わった。しかしただ終わったのではありません。ここから新しい教会の歴史が始まったのです。神さまの祝福と使命を受けて、将来に向かって歩んで行きましょう。
 
 ところで教会創立130周年記念の一環として、公開聖書講座を昨年から開始し、この5月には第6回として「ローマの信徒への手紙」を取り上げました。十分な準備したとはとうてい言えませんが、しかしそれでもローマ書の中の核心部分、言い換えれば、ローマ書の中に燃える神の愛の火について触れたものです。(全文原稿を印刷したものがありますから、参加されなかった方もご一読くださればありがたく思います。)
 この聖書公開講座を思いついたひとつのきっかけがあります。
……

父よ、あなたをほめたたえます

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2017年7月9日
聖霊降臨後第5主日
奈良基督教会での説教です。

全文 → 父よ、あなたをほめたたえます

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」マタイ11:25

 今日の福音書の冒頭で、このようにイエスは祈っておられます。その祈りは賛美の祈りです。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」

 このとき、イエスさまはどのような表情をしておられたのでしょうか。聖書には直接書かれてはいません。だいたい聖書を読むとき、わたしたちはイエスさまの表情を考えたり思い浮かべたりすることがあるでしょうか。でも今はあえて想像してみます。そのときのイエスさまの表情は? 目は開けておられたか閉じておられたか。手は組んでおられたか合わせておられたか。それとも両手を上げておられたか。何も書かれていないのですから、唯一の正しい答えはなく、どう想像したとしても誤りではありません。

 けれどもわたしはこのように想像します。イエスは喜びに満ちてほほえんでおられた。場所は戸外で、目は開いて天に注がれていた。両手は開いて上に向けられていた。
……
 


聖霊を受けなさい──神の愛の火

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2017年6月4日
聖霊降臨日
奈良基督教会での説教です。

全文→聖霊を受けなさい──神の愛の火

 今日は聖霊降臨日。祭壇のフロンタルの色は赤です。説教壇も聖書朗読台も、司祭のストールも赤。わたしたちの教会では期節、またその主日の意味に応じて四つの色を使い分けますが、主日に赤を使うのは2回しかありません。

 ひとつは主イエスの受難を記念する復活前主日(棕櫚の主日)。そのときの赤は、主イエスが流された血を象徴します。もうひとつは今日の聖霊降臨日で、今日の赤は神さまの燃える愛の火を現します。この礼拝堂の赤を心に写して、神の燃える愛を感じたいと願います。

 2000年前、最初の主イエスの弟子たちの祈りの群れの中に、神の愛が激しく燃えた。その愛の火が教会を誕生させました。
……

イエスご自身が近づいて来て

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2017年4月30日
復活節第3主日
奈良基督教会での説教です。

 二人の人が遠い山道を下って行きます。日曜日の午後です。二人は、悲しみと困惑と恐怖の入り交じった思いで道を急いでいます。

 悲しみというのは、もっとも大切な人、主イエスを失ったからです。このイエスを信じ、このイエスにのみ希望を託し、頼りにしてきたのに、無残にもイエスは一昨日の金曜日、十字架にかけられて殺されました。イエスを失ったことはすべてを失ったことでした。

 困惑というのは、今朝聞いたことです。仲間の女の人たちが朝早くにイエスの墓に行ったところ、イエスの遺体がなくなっていた。そして天使が現れて彼女らに、「イエスは生きておられる」と告げた、というのです。いったいどういうことなのか。いくら考えても議論してもわかりません。

 恐怖というのは、エルサレムにいるのがこわかったのです。……

全文 → イエスご自身が近づいて来て

主よ、信じます

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2017年3月26日
西大和聖ペテロ教会での説教です。
ヨハネ9:1−38

全文 → 主よ、信じます

 一人の人の主イエスとの出会いの物語です。生まれつき目が見えなかったその人は、ある日イエスと出会いました。そこから新しい人生が始まります。
彼はエルサレムの町で、座って物乞いをして暮らしていました。
 ある日、いやな言葉が耳に飛び込んできました。何度も何度も聞いてきた言葉ですが、それを言われるたびに苦痛がのしかかってきます。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」ヨハネ9:2

 自分が目が見えないのは罪のせいだと言われ続けてきたのです。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためだ。」9:3

 びっくりしました。ラビと言われているこの人は、「罪のせいではない」と断言したのです。そのうえ「神の業がこの人に現れる」と確かに聞こえました。どういうことなのか、よくわかりません。目が見えず、物乞いをしているこの自分にも神の業が現れるのでしょうか。考えたこともないことでした。
……

東の国の博士たち

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2011年12月24日、クリスマス・イブ礼拝のメッセージです。
京都聖三一教会にて。

 先ほど聖歌第94番「まきびと羊を」という歌を歌いました。これは元々、イギリスの“The First Noel”(最初のクリスマス)という題のクリスマス・キャロルです。この歌は「まきびと羊を」という歌い出しから、羊飼いの歌という印象が強いのですが、歌詞を確かめてみると、2節から終わりの4節までずっと、羊飼いではなく、東の国の博士たちのことが歌われています。

♪仰げば み空に きらめくあかぼし
 ──天を仰いでみると、明るい星がきらめいている。その星は夜も昼もずっと、輝き渡っている。
……

全文は → 東の国の博士たち

幼子の名前はイエス

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2017年1月1日・主イエス命名の日
奈良基督教会での説教です。

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
ルカ2:21

母マリアは天使ガブリエルから「その子をイエスと名付けなさい」と言われていました。父となることを引き受けたヨセフも、夢で天使から「その子をイエスと名付けなさい」と命じられていました。

その子の名はイエス。「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救う」「神は救い」という意味です。神の救いをこの世界にもたらすために生まれた幼子の名前はイエス。誕生から8日目の今日1月1日に、幼子は正式にイエスと名付けられました。イエスの名はマリアから愛をもって呼ばれ、ヨセフから愛をもって呼ばれ、隣人たちから愛をもって呼ばれました。
……

全文 →幼子の名前はイエス

「あなたは我々の中におられます」

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アーモンド(エレミヤ1:11)


エレミヤ書14:7−22による説教
2016年10月23日
聖霊降臨後23主日
奈良基督教会にて

今日の旧約聖書日課に、祈りが響いていました。エレミヤ書第14章です。

エレミヤ。彼はイエスさまよりもおよそ600年前、ユダ王国が滅亡しようとする時期に活動した預言者です。
「エレミヤ」とは、神は持ち上げてくださる、神が確かにしてくださる、の意味だそうです。

エレミヤは一言で言えば悲しみの預言者、涙の預言者です。彼の魂は、その時代の悪と堕落に対してはあまりに繊細でした。しかし神は、そのようなエレミヤを、ご自身の口として選ばれたのです。

彼の時代のユダの王はヨシヤという人でした。ヨシヤ王は国の乱れと混乱は信仰の乱れにあるとして、宗教改革を進めました。エレミヤもそれに共感し、ヨシヤの宗教改革に協力しました。
しかしそうした中で、やがてエレミヤは二つの深い悲しみと失望を味わいます。
……

全文 → 「あなたは我々の中におられます」

それが、まさしくあなたの命

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奈良基督教会祭壇の彫刻



2016年9月4日・聖霊降臨後第16主日
奈良基督教会での説教です。

「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。」申命記30:20

 今日は旧約聖書日課、申命記第30章からお話しします。申命記は旧約聖書の第5番目の書物ですが、皆さまはどの程度この申命記になじみがあるでしょうか。

 申命記には、モーセを通して語られた神の掟が数多く記されています。「掟」「戒め」というと、硬い、むつかしい感じがするかもしれませんが、この申命記の底に脈打つように流れているのは神さまの愛です。わたしたちが滅びることを願われない神、わたしたちが生きることを願われる神の激しい思いが、この申命記には込められているのです。
……

全文→ それが、まさしくあなたの命

恐れるな、アブラムよ

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2016年8月7日・聖霊降臨後第12主日
奈良基督教会での説教です。

全文は → 恐れるな、アブラムよ

しばらく前に創世記第18章からアブラハムのお話をしましたが、今日はそれより3章さかのぼった第15章のお話です。18章では彼の名前は「アブラハム」だったのですが、今日の15章では元々の名前「アブラム」として語られています。この後に神が彼の名前を、アブラムからアブラハムへと変えられたのです。今日は15章の本文どおり、アブラムで通すことにします。

わたしたちの信仰のおおもとをたどれば、2000年前のイエス・キリスト、さらにおよそ2000年を遡ってアブラハム(アブラム)に至ります。彼の信仰と生きる道の初めには、神の言葉がありました。

「主はアブラムに言われた」創世記12:1

 これがアブラムの出発です。彼は主の言葉に従って故郷を離れ、親族と別れて、神が示される地へと旅立ちました。神は彼を祝福すると言われ、さらに彼をとおして地上のあらゆる人々を祝福する、「あなたは祝福の源となる」(創世記12:2)と言われました。

 それ以来、長い年月が経ちました。彼とその家族、一族の旅路は困難と危機の連続でした。内には家族の葛藤と別離があり、外には他の民族との危うい同盟と敵対がありました。
 そして彼の唯一の拠り所である神は、いつもその存在を彼に感じさせ、語りかけてくださるわけではありません。不安、葛藤を抱えつつ、アブラムは現実に起こってくる危険な事態に次々に対処しなければなりませんでした。
……

忍耐された方イエス

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2016年8月14日・聖霊降臨後第13主日

奈良基督教会での説教

ヘブライ人への手紙 12:1−14


主日に朗読される聖書日課のうちの使徒書は、先週から4回連続で新約聖書の「ヘブライ人(じん)への手紙」が選ばれています。「ヘブライ人(じん)への手紙」、略して「ヘブル書」は、新約聖書の後半に収められたかなり長い手紙で、13章あります。

もう40年も前のことをふと思い出しました。神学生時代にこのヘブル書を学んだときのことですが、この手紙にはこういう特徴があると。何かと言うと、この手紙には「教理」を語る部分と「倫理」を語る部分と、その二つが織りなされている。言い換えると、「神さまの救い」を伝える部分と、「クリスチャンとしてふさわしい生き方を呼びかける」部分が、何度も交互に重ねられている、というのが特徴だということです。

このヘブル書が語りかけている最初の読者は、ローマ帝国による迫害の中にありました。イエス・キリストを信じる人たちが、捕らえられ、拷問を受け、場合によっては殺されていったのです。その苦難の中にある教会と信徒を励ますためにこの手紙は書かれました。
……

全文 → 忍耐されたイエス

キリストの言葉があなたがたの内に

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「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」
コロサイの信徒への手紙3:15-16

2016年7月31日  聖霊降臨後第11主日(C年)

      司祭 ヨハネ 井田 泉

 わたしの心の中にはさまざまな言葉が響いています。その言葉はわたしのうちに感情を呼び起こし、気分を左右し、生きる意欲にまで影響します。

 良い言葉、うれしい言葉も人からたくさん聞いたかもしれません。けれどもかつて人から聞いた嫌な言葉、つらい言葉、ひどい言葉がしばしばわたしのうちによみがえり、わたしをひどく苦しめることがあります。

 人の言葉だけではありません。自分のうちに響く自分の言葉があります。時には自分を非難する言葉、自分を軽蔑する言葉、自分を貶(おとし)める言葉が自分から離れなくなることがあります。

 けれどもパウロは言います。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」

 人の言葉ではなく、自分の言葉ではなく、キリストの言葉がわたしたちのうちに宿るように。しかも豊かに宿るように。

「恐れるな、わたしだ」
「あなたがたに平安があるように」
「あなたはわたしの愛する子」

 キリストの言葉をわたしたちのうちに宿すとき、わたしたちは人からも自分からも解放されて、新しく生き始めることができます。

エマオへの道で

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(日本聖公会京都教区報 「つのぶえ」のために書いたものです。)
 
 もうおよそ45年も前になりますが、私の大学時代は信仰の葛藤の時でした。学園闘争(紛争)の時期、京都教区でも青年・学生による「教会革新運動」が盛んで、教会のあり方を問うだけではなく、伝統的なキリスト教信仰に対する疑問も湧き起こっていました。

 そうした中、聖公会の学生の全国規模の大きな研修会で、ある講師が「今どき本気でイエスの復活を信じているような者はひとりもいない」と叫んだことが大きな打撃となりました。教会ではほとんど毎週サーバーをしていましたが、「復活」がわからないことが大きな苦しみでした。キリスト教全体が、人間が勝手に作り上げたものではないか、という疑問と不安がいつも離れませんでした。

 大学卒業前の1972年2月、大阪に向かう京阪電車の特急の中で聖書を開き、ルカ福音書第24章の復活の記事を読んでいました。

 イエスが十字架で処刑されて三日目の日曜日の午後、エルサレムからエマオに向かう二人の弟子たちに、見知らぬ人が追いついてきて道連れとなりました。その人は最近起こったイエス処刑のことを知らないというので、二人は大切な人を奪われた悲しみの出来事を話して聞かせます。

 その人はじっと耳を傾けて聞いてくれたのですが、やがて「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、たくさんの聖書の話をしてくれました。

 日が西に傾く頃、エマオの村に到着し、二人は無理にその人を家に招き入れます。夕食の席で、その人はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて皆に渡してくれました。そのとき、二人の目が開かれて、それがイエスだとわかったのです!

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」24:32

 ここを読んだとき、温かいものが私のうちにも燃えたのです。不思議な温かく熱いものは、一日たっても一週間たってもひと月たっても消えませんでした。復活のイエスが私の中で私と共に生きておられるということが、はっきりとした事実となったのです。

 復活がわからないと苦しんでいたその私を、復活のイエスご自身が追いかけてきて、私と共に歩んでいてくださった。しかしそれがわからなかった。目が開かれてイエスだとわかったとき、一番の苦しみであった「復活」が一番の喜びとなり力となり命となりました。

 その後の長い年月の間に、復活のイエスさまを見失うことがなかったとは言えませんが、復活のイエスさまは私を見捨てられることはありませんでした。
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