Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

メッセージ

マルタに与えられた三つの幸い

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【ショートメッセージ】

ルカによる福音書10:38-42

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 この話で、マルタはイエスから注意され、ただ否定的に見られているような印象があるかもしれません。けれどもおそらくはそうではありません。ここでマルタは三つの祝福(幸い)を経験したのです。

 1つ目は、マルタがイエスを自分の家に迎え入れたことです。この積極的な行動によって、彼女自身がイエスに出会うとともに、妹マリアをはじめ他の人々もイエスと出会うことができるようになりました。わたしたちは聖餐式を「主イエス・キリストよ、おいでください」という呼びかけで始めます。マルタがイエスを迎え入れたように、わたしたちもイエスを迎え入れて礼拝を始めるのです。マルタはイエスを家に迎え入れた。このこと自体が大きな幸いです。

 2つ目は、マルタがイエスから、一度ならず二度も自分の名前を呼ばれたことです。イエスはマルタに心を向けておられます。この呼びかけの中に、イエスのマルタに対する愛が込められています。
 
 3つ目は──想像するのですが──マルタがイエスに注意されて自分のあり方に気づいたことです。マルタはイエスを愛するあまり、接待することのほうに気を取られていました。イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアにいらだちました。けれども今からは、イエスの話に聞き入る幸いを自分も経験します。こうしてマルタは、行動力を持つ祈りの人として、大きく成長していったのではないでしょうか。

 やがてマルタは、弟ラザロを失う悲しみの中で、イエスをはっきりと「神の子、救い主」として信じて告白する(ヨハネ11:27)幸いを経験します。

三つのクリスマスメッセージ 2021

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彦根聖愛教会でのクリスマス礼拝メッセージです。

1. 「まことの羊飼い」 ルカ2:1-20

  2021年12月24日 降誕日前夕

2. 「その名はインマヌエル」 マタイ1:18-25

  2021年12月24日 降誕日第1

3. 「わたしたちはその栄光を見た」 ヨハネ1:14

  2021年12月25日 降誕日

全文PDF → 三つのクリスマスメッセージ

【説教】わたしたちを祭司として くださった方に栄光

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ヨハネ黙示録1:5‐6

2021年11月21日・降臨節前主日
聖光教会にて

全文PDF→わたしたちを祭司としてくださった方に栄光

 今日の使徒書、ヨハネの黙示録第1章の言葉です。

「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」1:5-6

 その方とは、イエス・キリストのことです。この方はどういう方か。今の言葉から二つだけに絞って確かめてみます。
 この方、イエスは「わたしたちを愛し」ていてくださる方です。これまでもそうであったし、今も、そして将来も変わらず、わたしたちを愛し続けてくださる方です。
 もう一つ。この方、イエスは「わたしたちを神に仕える祭司としてくださった方」です。 祭司。神とこの世界の人々の間に立って祈る存在、仲立ちをする存在です。教会は、わたしたちは、神さまからこの使命をいただいた。この世界と神さまとの間に立って祈る使命、祭司的使命です。

 今日は個人的なお話をすることをお許しください。
明日の11月22日は、わたしの司祭按手の記念日です。今からちょうど42年前、29歳のとき、わたしは主教座聖堂聖アグネス教会で司祭按手を受けました。
 司祭の働きはさまざまありますが、その中心は聖餐式を司式することです。それで今日は、聖餐式についてのわたしの思い出の中から、三つをお話ししたく思います。

 42年前、司祭に按手されて、初めて自分で聖餐式を司式するようになりました。下鴨基督教会でした。司祭になりたての頃はぎこちなくて、司式するのにひどく緊張しました。けれども1回1回が非常に特別なものでした。
……


【説教】わたしが飲む杯を飲み

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マルコ10:35−40

2021年10月17日・聖霊降臨後第21主日
聖光教会にて

全文PDF→わたしが飲む杯を飲み

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。』」マルコ10:39

これは今日の福音書で、イエスがヤコブとヨハネに言われた言葉です。
このヤコブとヨハネは兄弟で、二人ともガリラヤ湖の漁師でした。漁(りょう)に使う網の手入れをしていたときにイエスに呼ばれて、父ゼベダイと雇い人たちを舟に残してイエスに従ったのでした。今日はそのゼベダイの子の兄のほう、ヤコブに関心を向けてみます。

ヤコブは弟ヨハネとともに主イエスに信頼され、ペテロとともに弟子たちの中のリーダー格、またイエスの側近ともいうべき存在になりました。イエスさまの山の上での変容貌を見たのも、この三人です。
ヤコブとヨハネの兄弟は、イエスさまからあだなを付けられていました。「ボアネルゲス」──「雷の子ら」という意味です。時々彼らは憤りを爆発させることがあったのでしょう。

さて今日の福音書の場面は、イエスがすでにご自身の受難を覚悟して、まっすぐにエルサレムに向かわれる途中の出来事です。
……

【説教】イエスは彼らを兄弟と呼ばれる

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ヘブライ人への手紙 2:11−12

2021年10月3日・聖霊降臨後第19主日

上野聖ヨハネ教会にて

全文PDF → イエスは彼らを兄弟と呼ばれる

 今日は先ほど読まれた使徒書、ヘブライ人への手紙に耳を傾けてみましょう。第2章11節後半からです。
「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、12 『わたしは、あなたの名を、わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い、……」
 
 ここから知らされることは、イエスがわたしたちを「兄弟」と呼ばれる、ということです。
「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」
「彼ら」とは、わたしたちのことです。イエスはわたしたちを「きょうだい」、ご自分の弟、妹と呼ばれる。

 これは当たり前のことではありません。わたしたちは人から生まれた人の子。イエスは神から来られた神の子。わたしたちは罪を犯す人間。イエスは罪なき方。イエスは永遠の命を持っておられる方。わたしたちは死と滅びを免れることができない者。まったく違っています。それなのにイエスはわたしたちを「きょうだい」と呼ばれます。イエスはわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちのことをご自分の弟、妹と呼ばれるのです。

……

【説教】詩編と賛歌と霊的な歌によって

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エフェソ5:15−20

2021年8月15日・聖霊降臨後第12主日

聖光教会にて

全文PDF → 詩編と賛歌と霊的な歌によって


 今日の特祷でわたしたちはこのように祈りました。
「主よ、どうか絶えることのない憐れみをもって主の教会を守ってください。」
「主の教会を守ってください。」

 この祈りが今ほんとうに必要ではないでしょうか。感染症の広がりによって教会はこれまでしてきた活動ができない。集まりにくい。教会は将来どうなるのか、という心配があります。けれどもここでこそ祈りが必要です。今、この率直な祈りが必要です。
 「主よ、どうか主の教会を守ってください。」

 この祈りに答えて、今日の使徒書でパウロは助言を与えてくれてます。助言というより、もっと強い「指示」といったほうがいいかもしれません。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」エフェソ5:15-17
 
 「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」5:16
今は悪い時代、また辛い時代です。このような時期こそ、時をよく用いなさい、時間を活用しなさい、というのです。

 「今は悪い時代」
 新約聖書が書かれた時代も、悪い時代でした。そして今も、悪い時代です。日本の国は歴史の反省を忘れて、戦争する国へと傾いていく。人の心は荒れています。命を尊ぶ、心を大切にする、ということが失われていく。人を責め、自分を責めて、傷つけ傷つく。わたしたちもこういう時代にあって悪い影響を受けています。
 そのような時代であるからこそ、逆にわたしたちは、それ以上に良いものに触れて、良い影響を受けて、良いものを人と共有して、それを広げて行きたいと願います。

……

【説教】わたしは彼をいやす

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イザヤ書57:17−19

2021年7月18日・聖霊降臨後第8主日
聖光教会にて

全文PDF → わたしは彼をいやす


「わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。」イザヤ57:18


 神が、ひとりの人を見つめておられます。あるいはひとりの人ではなくて集団なのかもしれないのですが、まずはひとりの人として読んでみます。
「わたしは彼の道を見た。」
 「彼の道」と言われています。彼が生きてきた歩み。これまでのありよう。今の彼の現実、そして彼の内面──それらすべてを神がご覧になりました。

 彼の道──この人はどういう生き方をしてきたのか。ひとつ前の17節にはっきりと書かれています。
 「貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。」57:17

 彼は一言で言って貪欲だったのです。持っている上にさらに人からむさぼり取って、自分のために富に富を増し加える。人を苦しめ、人を貧困に追い込んでまで自分の欲を満たしていく。こういう彼のあり方に対して神は怒られました。
 「貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。」57:17
 神は彼を打って懲らしめられたけれども、なお彼の貪欲はやみません。ついに神は彼を放置し、ご自身を彼から隠してしまわれました。それでも彼は「背き続け、心のままに歩んだ。」
 彼は神に背きつづけ、自分の貪欲な心のままに歩んだというのです。

 しかしそれから年月を経て、彼の行き着いた所はどこだったでしょうか。破滅の瀬戸際です。彼は自ら貪欲の火に身を焼かれ、疲れ果て、平安はなく、深く病んでしまいました。これまでの自分を後悔する思いは強く、嘆き苦しんでいます。けれどももはや自分から神に救いを求める力はありません。これが、彼の陥った現実です。

 このような彼に対して、神さまはどうなのでしょう。かつて怒って彼から姿を隠された神は、もう彼を顧みてはくださらないのでしょうか。そうではない、というのが今日のイザヤ書です。

……

日ごとの聖句1002 祝福と戦い 2021/7/11〜17

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2021年7月11日(日)聖霊降臨後第7主日
                 エフェソ1:3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。

7月12日(月)        エフェソ1:3
神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

7月13日(火)        エフェソ1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

7月14日(水)        エフェソ1:5
わたしたちをイエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

7月15日(木)       エフェソ6:10-11
主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

7月16日(金)        エフェソ6:12
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

7月17日(土)        エフェソ6:13
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

(新共同訳)

【ひとこと】
 「エフェソの信徒への手紙」第1章3〜14節は「賛歌」だと言われます。著者の心の中から、神の救いの業(わざ)への感謝と賛美が溢れ出て歌となった、ということです。(月)〜(水)には神の働きが三重に歌われています。

「神はわたしたちを祝福で満たしてくださった。」
「神はわたしたちを選んでくださった。」
「神はわたしたちを(神の子としようと)お定めになった。」

 けれどもこれらの喜びに満ちた歌は、現実世界の苦しみや悪と無関係に歌われているのではありません。それがはっきりするのが第6章10節以下です。著者は、個別の悪の背後に潜みそれらを動かしている「悪魔」「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」を厳しく見据えています。そして主を信じる人々に「邪悪な日によく抵抗せよ」と呼びかけ励まします。

 この手紙の最初に歌われる賛歌は、困難に立ち向かう人々の土台であり激励でもあるのではないでしょうか。

【説教】人の子よ、自分の足で立て──エゼキエルの召命

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エゼキエル2:1‐7

2021年7月4日・聖霊降臨後第6主日 
上野聖ヨハネ教会にて

全文PDF → 人の子よ、自分の足で立て──エゼキエルの召命


 ひとりの若者が川のほとりに座っていました。年は30歳。名はエゼキエル。その名前は「神は強めてくださる」という意味ですが、彼は無力感に打ちひしがれていました。自分はこの状況の中で何もできない。神も沈黙しておられるかのようです。
 
 彼、エゼキエルは祭司ブジの息子として生まれ、自分も父を継いで祭司となる道を歩んできました。ところがバビロニア帝国の圧倒的な攻撃によりエルサレムは陥落。ユダ王国は滅び、エルサレム神殿は破壊されてしまいました。そのうえ、数千人が強制的にバビロニアに移住させられました。「バビロン捕囚」と呼ばれています。その中にエゼキエルもいたのです。
 
 ここはメソポタミア文明の中心地、チグリス・ユーフラテス川の下流に張り巡らされた運河のひとつ、ケバル川のほとりです。ここに今、30歳のエゼキエルは、何の希望もなく、首をうなだれてうずくまっています。

 急に激しい風が吹いてきました。大きな雲が巻き起こり、その中に火が激しく燃え始めました。恐ろしい光景にエゼキエルは飲み込まれそうです。その中に生き物のようなものが動いています。生き物の上のほうには水晶のように輝く大空のようなものが広がり、その中にサファイアのように見える王座の形をしたものがあり、その上には人間のように見える姿をしたものがありました。
光と火を放つその神々しいもの──エゼキエルは、主なる神の栄光の姿の有様を見たのです。彼は恐れのあまりひれ伏しました。

 そのとき、語りかける者があって、エゼキエルはその声を聞きました。神の声です。

……

【説教】神の御心を行う人こそ

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マルコ3:20−35

2021年6月6日・聖霊降臨後第2主日

上野聖ヨハネ教会にて

全文PDF → 神の御心を行う人こそ

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」マルコ3:35

 今日はこのイエスさまの言葉を心に留めたいと願います。

 ところでおよそ15年前、ひとつの翻訳小説が大ベストセラーになったことがあります。ダン・ブラウンという人の『ダ・ヴィンチ・コード』という小説です。
わたしはあまりベストセラーなどに興味がないので、自分では読む気がありませんでした。ところが当時、わたしは京都復活教会の牧師兼復活幼稚園の園長をしていて、月曜日を除く毎朝、園児の出迎えをしていました。それで園児のお母さん方とも親しくなったのですが、そのうちのおひとりがとてもキリスト教に関心を持たれていて、「『ダ・ヴィンチ・コード』をどう思うか」と質問してこられました。何でもキリスト教を根本から揺さぶるような内容だということらしいのです。

 それでその本を購入して読んでみました。冒頭にこう書いてありました。
「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」。
 小説なのに、「すべて事実に基づいている」と書いてあるものですから、まんまとだまされることになります。小説としては非常に面白い、よくできた作品だと思いました。けれどもひとつ大きなひっかかりを感じました。それは「キリスト教を根本から揺さぶる」ようなものか、という点です。
……

聖なる父よ、彼らを守ってください

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ヨハネ17:11

2021/05/16 昇天後主日の福音書に寄せて

「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」
ヨハネ17:11


 ヨハネ福音書第17章全体が、主イエスによる弟子たちのための祈りですが、その中でイエスは6回も神に「父よ」と呼びかけられます。この11節は3回目の呼びかけです。

「聖なる父よ」
 イエスがここでただ「父よ」ではなく、「聖なる父よ」と呼びかけられたのは、理由があるのではないでしょうか。
 「聖なる」というのは、神の神聖さ、清さ、超越性を表す言葉です。イエスが「聖なる父」と呼びかけられたのは、今、イエスを捕らえて抹殺しようとしているこの世の力の汚さ、狡猾さ、醜さ──「聖」とは正反対の闇の力のうごめき──を強く感じておられたからでしょう。

 けれども「聖なる神」とは、旧約聖書ではただ神の神聖さ、超越を言うだけのものではありません。イザヤ書にはこのような言葉があります。

 「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う
 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
 あなたを贖(あがな)う方、イスラエルの聖なる神
   主は言われる。
 恐れるな、虫けらのようなヤコブよ
 イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」
       イザヤ41:13-14


 このように聖なる神は、弱らされた者、危機のうちにある者を助けるために行動される神なのです。

「聖なる父よ、彼らを守ってください。」
 
 祈られている弟子たちとは、どういう人たちでしょうか。イエスご自身がこの祈りの中で言われます。

「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」
ヨハネ17:14-15


 イエスに従った結果、やがて迫害されるであろう弟子たちのために、イエスは神の力ある助けを求めて祈っておられます。

 世の大勢(たいせい)、時流に抗して正義と公正のために発言し、行動する人々を、イエスが勇気づけてくださいますように。

【説教】エチオピアの宦官の洗礼

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使徒言行録8:26‐40

2021年5月2日・復活節第5主日
上野聖ヨハネ教会(欠席・朗読用)

全文PDF→ エチオピアの宦官の洗礼

 今日の使徒言行録に登場したのはフィリポという伝道者、最初の教会の指導者のひとりです。イエスさまの12弟子の中にもフィリポがいましたが、それとは別の人物です。そのフィリポに主の天使が語りかけました。

「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下(くだ)る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。」使徒言行録8:26‐27

 天使に命じられて、フィリポは遠く山道を急いで下っていきます。すると前方を馬車で行く人が目に入りました。馬車の様子やその人の服装からしてエチオピア人です。相当な地位のある人と思われます。

「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。」8:27‐28

 アフリカのエチオピアの女王に仕える高官が、エルサレムに礼拝に来て帰り道だというのです。なぜこの人がはるか遠いエチオピアからエルサレムの礼拝に来ていたのでしょうか。

 非常に珍しいことですが、ひとつの例をわたしたちは知っています。30数年前、ユダのベツレヘムにイエスがお生まれになったとき、遠い東の国から博士たちがはるばる旅してきました。

 遠い東の国から来た博士たちと、遠い南の国から来たエチオピアの高官との間には──わたしの想像ですが──共通点があります。それはいずれも、真理を求めていた、ということです。魂が渇いていたのです。

……

【説教】イエス御自身が真ん中に立ち

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ルカ24:36−48

2021年4月18日・復活節第3主日
聖光教会(京都)

全文PDF → イエス御自身が真ん中に立ち


 今日の福音書はこのように始まりました。
 「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ24:36
 実はここでは、書き出しの一言が省略されています。何が省略されているかと言うと、「こういうことを話していると」という言葉です。
 別に省いてもよい気がするかもしれませんが、しかしこの言葉に注意を払うと、そのときに主イエスの弟子たちがどういう状態にあったかがはっきりとわかるのです。
「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

 弟子たちはどういう状態にあったのでしょうか。
 時は日曜日の真夜中です。その日曜日は大変な1日だったのです。
 その日曜日の明け方早く、女の人たちがイエスの墓に行ったところ、ご遺体がなかった。輝く衣を着た二人の人が現れて「イエスは復活された」と告げた、というのです。イエスを失った悲しみと、イエスが復活したという話による驚きと混乱。さらにイエスはペテロにも現れた、といいます。そんなことで集まった弟子たちは夜中まで興奮して語り合っていました。
 そこに、その日曜日の午後、エルサレムから数時間もかかる山の下の町、エマオまで行っていた二人の弟子が戻ってきてこういうことを話しました。──自分たちは道で復活されたイエスに出会った、何時間も話をした。夕食を共にしたとき、祈ってパンを裂いてくださったときにそれがイエスだとわかった、というのです。
 復活のイエスに出会ったと確信と喜びをもって語る人。信じられない人。驚き、興奮、困惑、期待……が渦巻いて議論が続いています。
……

【説教】弟子たちとペトロに告げなさい

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マルコ16:1‐8

2021年4月4日・復活日

上野聖ヨハネ教会にて

全文PDF→ 弟子たちとペトロに告げなさい


 週の初めの日、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちはイエスを葬った墓に行きました。イエスのご遺体をきれいに拭って、香油を塗って差し上げるためです。ところが行ってみると、墓の入り口を閉ざしていた大きな石が脇に転がしてありました。墓は横穴で、その入り口が開いています。

「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」マルコ16:5

 「白い長い衣を着た若者」とは何者でしょう。天使が若者の姿で現れたのでしょうか。その若者は言います。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:6‐7

 イエスの復活を伝えるために、若者はここでマグダラのマリアたちを待っていたのでした。

 ここでひとつ注意を向けたいことがひとつあります。若者がこう言った言葉です。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」

 なぜペテロ(ペトロ)の名前があげられたのでしょうか。「弟子たち」と言えば当然ペテロも含まれているはずなのに、どうして「弟子たちとペトロに」と言われるのでしょうか。これは若者の考えではなく、彼をここに遣わした方、つまり復活されたイエスさまご自身がそう伝えるようにと、彼に託されたのに違いありません。

 ……

【説教】一粒の麦は地に落ちて ──トマス・クランマーの殉教

Cranmer

ヨハネ12:20−33

2021年3月21日・大斎節第5主日
聖アグネス教会にて

全文 PDF→ 一粒の麦は地に落ちて──トマス・クランマーの殉教

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ12:24
 
 主イエスは弟子たちとの別れが迫ったとき、ご自分のことをこのように言われました。このイエスに引き寄せられて、一粒の麦となって死んだ一人のことを、今日はお話しします。それは16世紀、今からおよそ500年前に、聖公会というわたしたちの教会の土台を築いたトマス・クランマーという人です。

 祈祷書の12頁を開いてみると、教会暦の小祝日が記されています。その中に
「3月21日 主教トマス・クランマー(1556年カンタベリー)」
と書いてあります。今日3月21日は、トマス・クランマーの殉教の記念日です。彼は、16世紀、第69代カンタベリー大主教として英国(イングランド)の宗教改革を推進しました。クランマーの働きと死があって、聖公会の信仰と礼拝は基礎を据えられ、そうしてわたしたちのところまで受け継がれてきました。

 トマス・クランマーの目に見える最も大きな働き──それは祈祷書を編集し、発行したことです(1549、1552)。それまでの礼拝はずっとラテン語で行われており、一般の人には何が語られ祈られているのか理解することができませんでした。礼拝は、参加者それぞれが自分のわかる言葉で、まごころからささげてこそ礼拝です。
……


【説教】あなたの家を思う熱意が

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ヨハネ2:13−22

2021年3月7日・大斎節第3主日
上野聖ヨハネ教会にて

全文 PDF → あなたの家を思う熱意が


「ユダヤ人の過越祭(すぎこしさい)が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」ヨハネ2:13

 イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに行かれました。過越祭の礼拝に参加するためです。エルサレムの神殿は神の家と呼ばれてきました。神の家は祈りの家。人々の生活と信仰の拠り所でした。

 詩編にはエルサレムへの巡礼の歌がいくつか収められています。そのひとつにこんな言葉があります。

「主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。」122:1 

 主の家に行くことは喜び。神を礼拝することは幸せ──その思いが歌われています。

 このエルサレムの神殿には、イエスは子どもの頃から毎年、過越の祭のときにナザレの町の人々と一緒に来られていました。

 主イエスが12歳の過越祭のときも、ナザレの村の人たちと一緒に来られました。それが終わっての帰り道、両親はイエスがいないことに気づき、非常に心配してエルサレムに引き返したところ、イエスはこの神殿の境内で聖書の学者たちと語り合っていました。母マリアが「どうしてこんなことをして心配させたのか」と尋ねるとイエスは、「僕(ぼく)が僕のお父さんのところにいるのが分からなかった?」と答えられました。神は自分のお父さん。エルサレムの神殿はイエスさまにとって自分のお父さんのところだったのです(ルカ2:49)。
 お父さんのところ、神の家は、真心からの祈りと平安の場所であるはずでした。

 さて、あの12歳の時からおよそ20年たって、同じ過越の祭の礼拝のために、イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに上り、神殿の境内に入って来られました。その時、イエスが見られたのは、あるまじき光景でした。
……

【説教】荒れ野のイエス

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マルコ1:9−13

2021年2月21日
大斎節第1主日

全文PDF → 荒れ野のイエス

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」
マルコ1:12

 主イエスが人々の間で救いの働きを開始される前に、二つのことが必要でした。一つは洗礼を受けること、もう一つは荒れ野でサタンから誘惑(試練)を受けることです。洗礼と試練あるいは誘惑、この二つを経て初めて、イエスはその働きを開始することができたのです。この二つのことが簡潔に今日の福音書に語られていました。
 
 第1の洗礼は、神とその愛、その臨在を経験することでした。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降(くだ)って来るのを御覧になった」(マルコ1:10)と記されているように、イエスは洗礼において神の霊を受けられました。そして「あなたはわたしの愛する子」(1:11)と呼びかける神の声を聞かれました。洗礼は神の祝福と恵みに満たされる経験でした。

 しかしそれに続いて、もうひとつの経験をイエスはなさいます。今度は神不在の経験、あるいは神の沈黙の経験です。荒れ野にただひとり追いやられて(聖書協会共同訳)、イエスは試練を受けられるのです。

 洗礼に続いてこう記されていました。
「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」
マルコ1:12
 わたしたちの新共同訳聖書には訳されていないのですが、ここには「すぐに」という言葉が原文にはあります。洗礼の恵みの経験に浸っているわけにはいかなかった。イエスはすぐに厳しい試練にさらされることになったのです。また「送り出した」とありますが、「(“霊”が)追いやった」あるいは「(荒れ野に)投げ込んだ」というニュアンスです。

 その主語は“霊”です。神の霊です。洗礼においてイエスをご自分の愛する子として呼びかけ、ご自分の愛の命でイエスを包まれた神は、今度はすぐにイエスに別の経験を強いられました。ギリシア語原文のニュアンスはこんな感じです。
「それからすぐに“霊”はイエスを荒れ野に投げ込んだ。」
容赦ない。神のなさることは非常に厳しかったのです。
……

【説教】祈っておられたイエス

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マルコ1:35−39

2021年2月7日・顕現後第5主日
上野聖ヨハネ教会にて

全文PDF → 祈っておられたイエス

自分の生涯を振り返ってみたときに、ある聖書の箇所があるとき自分の中に深く印象を残した、という経験を皆さまはお持ちでしょうか
今読まれた福音書の後半、マルコ福音書第1章35節以下は、わたしにとってはそのような箇所のひとつです。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」マルコ1:35

このイエスさまがとても慕わしい。今から46年前、1975年のことを思い出します。
46年前の2月、わたしは大津聖マリア教会の信徒でした。すでに聖職候補生の認可を受けていたので、正式にはわたしの籍は教会ではなく京都教区に移っていたのですが。それはともかく、京都伝道区で大斎集会というのがあって、毎週京都伝道区の教会をめぐって礼拝をささげました。まもなく神学校に行くことが決まっていたわたしも、その大斎集会でお話しさせていただくことになりました。そのときにこの箇所を中心にお話をしたのです。聞いた人の感想──内容は良かった、しかし長かった。それで今日は長くならないように気をつけます。

イエスさまに呼ばれて弟子となってまだ日の浅いシモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネ。彼らはカファルナウムの町の、シモンの家に泊まりました。朝早くまだ暗いうちに、シモンがふと目を覚ますと、傍らに休んでおられるはずのイエスの姿がない。じっと待っていたのですが、戻ってこられる気配がない。だんだん気になってきて起き上がりました。
……

【説教】イエスは会堂に入って

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マルコ1:21−28

2021年1月31日・顕現後第4主日
彦根聖愛教会にて

全文PDF → イエスは会堂に入って

 今聞いた福音書の話は何でしょうか。カファルナウムの町の会堂で、礼拝中に起こった事件です。カファルナウムはガリラヤ湖北岸の町で、主イエスがその働きの中心の場所とされたところです。

 イエスはしばしば戸外で、野外で説教されました。けれども同時に土曜日の安息日ごとに会堂(今で言えば礼拝堂)の礼拝に参加して、しばしば説教されました。イエスさまのおよそ3年の活動の間に、もっともたくさん説教された会堂といえば、このカファルナウムの会堂です。そのおそらく最初の礼拝説教が今日の聖書の箇所なのです。

 そのカファルナウムでの礼拝説教において何が起こったか。説教妨害です。ひとりの男が立ち上がって叫び、イエスの説教をやめさせようとしました。

 本文の最初を読んでみましょう。
「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」マルコ1:21

 ここは「カファルナウムに着いた」となっていますが、ギリシア語原文を見ると、カファルナウムに「入って来られる」と書いてあります。そしてその続きに、「会堂に入って」とあります。イエスはこのカファルナウムの町に入って来られ、さらにこの会堂に入って来られました。2段階です。町の中に、そして会堂、礼拝する人々の中にイエスは入って来られました。さらにイエスが入って来られる第3段階がありますが、それは後で確認しましょう。
……


【説教】幼子はイエスと名付けられた

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ルカ2:15−21
2021年1月1日・主イエス命名の日
上野聖ヨハネ教会


「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
ルカ2:21

今日、1月1日は主イエス命名の日です。

母マリアは天使ガブリエルから「その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1:31)と言われていました。父となることを引き受けたヨセフも、夢で天使から「その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1:21)と命じられていました。

誕生から8日目のこの日、幼子は正式にイエスと名付けられました。

その子の名はイエス。「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救う」「神は救い」という意味です。主なる神の救いをこの世界にもたらすために生まれた幼子の名前はイエス。イエスの名はマリアから愛をもって呼ばれ、ヨセフから愛をもって呼ばれ、隣人たちから愛をもって呼ばれました。

ところでこのイエス命名の出来事を伝えるルカ福音書の中で、直接このイエスの名を呼んだ人たちがいます。その中から今日は3人の人に注目してみます。

第1は、会堂の中、礼拝の最中でした。カファルナウムの町の会堂礼拝でイエスが説教をしておられる最中に、ある男が大声で叫びました。
……

全文PDF → 幼子はイエスと名付けられた

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