Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

祈り・黙想

♪ きよしこの夜

アドベントクランツ

日本語英国教会ニュースレター
第92号 2017年12月発行

クリスマスの準備をする<アドベント(降臨節)>に、礼拝堂には4本の赤いろうそく(アドベ
ント・クランツ)が置かれ、毎週ひとつずつ光を増やしていきます。これは、私たちを照らす大き
な愛の光であるイエスさまが来られるのを感じつつ、喜び迎えることをあらわします。

「アドベント」とは元々「到来」という意味です。救い主がひとたびこの世界においでになったこ
とを祝い感謝しながら、やがて再びおいでになってわたしたちと世界の救いと平和を完成してくだ
さるのを待ち望む、という意味がこの言葉にはこめられています。
……

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【当日冊子】クリスマスに備える黙想会 〜 ライアーの調べとともに〜

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テーマ「救い主を待ち望む──旧約聖書から」
2017年11月26日(日)午後1時15分〜2時45分
場所:奈良基督教会礼拝堂
黙想講話:井田 泉 司祭
ライアー演奏:小野純子さん

【当日冊子】

九州地震被災者のための祈り

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(日本聖公会九州教区で用意された祈りです)

命と愛の源である神よ、地震により世を去った人びとの魂が、あなたのもとで安らかに憩うことができますように祈ります。

一瞬にして、大切な家族や友人、また家や財産をなくし、茫然と立ち尽くす人びとがいます。

今なお余震が続き、避難所、テント、車中などで、過酷な日々を過ごす人びとがいます。

どうか主が、共にいてくださいますように。

強い揺れにより、子どもたちまた大人たちが心に傷を負い、不安の中に置かれています。

どうか主が、癒しと希望をお与えくださいますように。

何ものもわたしたちをキリストの愛から引き離すことはできません。

この苦難の時も、主の模範に従って、誰も孤立させないために、互いに祈り支えあうことができますように。すべての九州地震被災者支援の働きを祝し用いてください。

主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

父と子と聖霊――三位一体主日の祈り

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三位一体主日 2016年5月22日

わたしたちは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

造り主なる神よ、あなたはわたしたちの存在を望み、わたしたちの父また母としてわたしたちを産み育ててくださいました。あなたはこれまでもそうであったように、今もこれからもずっとわたしたちを愛し導いてくださることを信じます。あなたは不可能と思えることを可能にしてくださいます。


わたしたちは子なる神、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。

主イエス・キリストよ、あなたはわたしたちを救うため、神の立場を捨て、人となってわたしたちのところにおいでになりました。あなたはわたしたちの悩みと病と罪を負い、極みまでわたしたちを愛し、わたしたちのために血の汗を流して祈り、罪なくして捕らえられ、十字架の上に死なれました。あなたの死の中でわたしたちも古い人として死にました。あなたは三日目に死人のうちから復活されました。死においてあなたと一つにされたわたしたちは、あなたが生きておられるので永遠に生きることができます。


わたしたちは聖霊を信じます。

聖霊よ、あなたは疲れた魂を慰め、イエス・キリストの声を聞かせ、その姿を見させてくださいます。あなたはわたしたちが祈り疲れたときもわたしたちに代わって祈り、うめきつつ神に執り成してくださいます。あなたはわたしたちの心の中に入り、わたしたちの内に生きて、神と人を愛する者とならせてくださいます。アーメン

12月〜2014年1月の主日聖句

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12月から2014年1月の奈良基督教会の主日聖句です。
この聖句は原則として説教題を兼ねています。

12月1日
降臨節第1主日
キリストを身にまといなさい。ローマ13:14

12月8日
降臨節第2主日
聖書から忍耐と慰めを学ぶ。ローマ15:4

12月15日(この日は高田基督教会)
降臨節第3主日
そのとき、聞こえない人の耳が開く。イザヤ35:5

12月22日
降臨節第4主日
その子をイエスと名付けなさい。マタイ1:21

12月25日
降誕日
いと高きところには栄光、神にあれ。ルカ2:14

12月29日
降誕後第1主日
わたしたちを神の子となさるため。ガラテヤ4:5

1月5日
降誕後第2主日
わたしは彼らを慰めながら導く。エレミヤ31:9

1月12日
顕現後1・主イエス洗礼の日
主であるわたしはあなたの手を取った。イザヤ42:6

1月19日
顕現後第2主日
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。ヨハネ1:29

1月26日
顕現後第3主日
キリストの十字架がむなしいものにならないように。コリント一 1:17

エリヤの祈り

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「エリヤ──旧約聖書の祈り 9」をホームページに掲載しました。

奈良基督教会「聖書研究会」のレジュメです。

「ペテロの祈り」

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イエスさま、あなたはわたしを「岩」(ペテロ)と呼び、それをわたしの名まえとされました。

しかしどうしてわたしが岩でしょうか。わたしは固くも強くもなく、反対に頼りなく弱く、臆病です。最初からわたしは言ったではありませんか。わたしは汚れた者です、と。
 わたしはあなたを知らないと言ってあなたを裏切りました。卑怯で、自己保身で、それによってあなたを死なせてしまいました。

それなのにあなたは再びわたしをあなたの群れの指導者とし、責任を持たされました。

どうしてわたしが岩でしょうか。わたしは岩ではありません。岩なら、このように崩れるでしょうか。このように粉々に砕けるでしょうか。わたしは沈んで行きます。土台も支えもなく果てしなく沈んで行きます。人を支えるどころが自分を支えることもできません。

「わたしが岩である。」

ああ、そうです。あなたが岩です。あなた以外のだれが岩でしょうか。あなたが岩でいてくださらなければ、だれも自分を保つこともできず、人を保つこともできません。

パウロが言いました。「かつて皆が同じ霊的な飲み物を飲んだ。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からであった。この岩こそキリストであった。」 コリント一 10:4

主イエスさま、あなたは岩。しかも命の水を湧き出させ、それを飲ませてくださる岩です。あなたがずっとこれまで、一緒について来てくださったのです。

あなたは、ご自分の教会をあなたご自身が建てると言われました。そのとおりに、あなたの教会をあなたが建ててください。あなたが中心となってください。あなたが牧者となってください。あなたが救い主となってください。そうでなければ教会は滅びてしまいます。あなたが、あなたご自身が岩となってください。
そのためにあなたがわたしを岩とすると、なお言われるのであれば、そのとおりにしてください。
 
主イエスさま、あなたがわたしたちの岩であることを信じます。あなたがわたしを岩とすると言われた以上は、あなたがそうしてくださることを信じます。あなたがあなたの教会を建ててくださると信じます。あなたを信じ、あなたにより頼み、あなたをほめたたえます。アーメン


 岩なる主より 湧きていずる
 いのちの水の 流れ注ぐ
 平和の海は インマヌエルの
 国をめぐりて 清く澄めり

    日本聖公会聖歌集432  古今聖歌集446

「召し使いの祈り」

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ホームページに「召し使いの祈り」を掲載しました。

孫のために祝福を願う祈り

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わたしの生涯を今日(きょう)まで
導かれた牧者なる神よ。

わたしをあらゆる苦しみから
贖(あがな)われた御使(みつか)いよ。

どうか、この子どもたちの上に
祝福をお与えください。アーメン

(ヤコブの祈りから 創世記48:15-16)

聖公会のロザリオ(改訂増補)

聖公会のロザリオ


 奈良基督教会では2012年11月25日(日)の午後、聖餐式をテーマとする修養会の後、20名あまりで一緒にロザリオの祈りの時を持ちました。

 ロザリオの祈りによって、言葉だけでなく身体を伴った祈りの深まりを経験することができます。

 珠(ビーズ)の数は33個あり、33年の主イエスの生涯を思います。

 まず右手にロザリオ全体を持ち、その端の十字架を左手に携えて(左右逆も可)、主の手に触れていることを感じてみます。

「父と子と聖霊のみ名によって アーメン」

 そして十字架の上の珠(招きの珠)に移ります。わたしたちは祈ることへと招き入れられました。これは祈りの初めであり終わりです。ここで、祈っておられる主イエスの傍らに招かれたことを思いつつ、主とともに「主の祈り」を唱えます。

 次にその上の大きな珠に進みます。これは、ロザリオの円環の上下左右にあって十字架を組みなす「十字の珠」のひとつです。

 十字の珠に触れつつ
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。

 キリストの受難と復活、現在における同伴と臨在、そして将来の再臨を思います。わたしたちが祈るばかりではなく、キリストの側からの救いのわざを心と身体に受けとめるようにします。

 十字の珠の間に小さな珠が七つあります。これは天地創造の七日間を示すもので、「週の珠」と呼ばれます。七つで祈りの一束です。ロザリオを1周すると四つの祈りの花束を神にささげることになります。

 ひとつひとつの珠に触れながら、
「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)
と唱えます。
 ♪主よ、憐れみたまえ と歌うのもいいでしょう。
「キリステ・エレイソン……」を加えることもできます。

 ひとつひとつの珠に、自分の抱える課題をこめるのもよいし、また祈るべき人ひとりひとりを思い浮かべることもできます。

 次の十字の珠に至ったときは、また
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。

 終わりに近づくにつれて、キリストの生涯が十字架に向かって切迫していくことを感じます。一周して、下の十字の珠に再び触れたとき、十字架の苦難によってわたしたちの救いが実現したことを心と身体に刻みます。

 最初の招きの珠に戻って、復活を思いつつ、
「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように、今も、世々に限りなく アーメン」
と唱えて神に栄光を帰します。

 十字架
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがわたしたちとともにありますように アーメン」

 1回で終えることもできますし、2回、3回と繰り返すこともできます。ゆっくりと、自分の呼吸が祈りとなっていけるとよいでしょう。

 別の祈りを用いたり、またその日の意向を定めて黙想したりすることもできます。


 《主の祈りを祈るロザリオ》

 最初の十字の珠を取り、呼びかけます。
「天におられるわたしたちの父よ」

 週の珠に移り、ひとつひとつの珠に主の祈りのひとつひとつを唱えていきます。

1 み名が聖とされますように。

2 み国が来ますように。

3 み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。

4 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

5 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

6 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

7 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン


 次の十字の珠でふたたび
「天におられるわたしたちの父よ」
……

 1周する間に、主の祈りを4回繰り返すことになります。

 1回について次のように意向を決めて祈ることもできます。

自分のため
隣人(あるいは困難を抱えた人)のため
教会のため(具体的なことを思って)
社会のため。教会のため(具体的なことを思って)

 最後の十字の珠で ♪憐れみたまえ 主よ(または「信仰の神秘……」)

 後は前と同じようにして終わります。

ロザリオと主の祈り

近くの書店でこんな本を見つけた。

来住英俊『目からウロコ  ロザリオの祈り・再入門』 女子パウロ会、2012(改訂)

教えられるところが多かった。
これを読んでいて、聖公会のロザリオの1連(十字ビーズ1個と週ビーズ7個)計8個を、主の祈りのひとつずつに当てはめて祈ることができると感じた。

  次の写真はわたしが使いはじめたロザリオ。WP_001026



1 天におられるわたしたちの父よ、

2 み名が聖とされますように。

3 み国が来ますように。

4 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

5 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

6 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

7 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

8 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

これを4回繰り返すと、ロザリオを1周することができる(1環)。


聖公会のロザリオ

聖公会のロザリオ

 ここに紹介するのは、アメリカ聖公会のリン・ベラマン司祭が、信徒とともに十数年をかけて作ったといわれる聖公会のロザリオの祈りです。

 珠(ビーズ)の数は三十三個あり、三十三年の主イエスの生涯を思います。

 まず右手にロザリオ全体を持ち、その端の十字架を左手に携えて(左右逆も可)、主の手に触れていることを感じてみます。
「父と子と聖霊のみ名によって アーメン」

 そして十字架の上の珠(招きの珠)に移ります。わたしたちは祈ることへと招き入れられました。これは祈りの初めであり終わりです。ここで、祈っておられる主イエスの傍らに招かれたことを思いつつ、主とともに
主の祈り
を唱えます。

 次にその上の大きな珠に進みます。これは、ロザリオの円環の上下左右にあって十字架を組みなす「十字の珠」のひとつです。十字の珠に触れつつ
「信仰の神秘。キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」
と唱えます。キリストの受難と復活、現在における同伴と臨在、そして将来の再臨を思います。わたしたちが祈るばかりではなく、キリストの側からの救いのわざを心と身体に受けとめるようにします。

 十字の珠の間に小さな珠が七つあります。これは天地創造の七日間を示すもので、「週の珠」と呼ばれます。七つで祈りの一束です。ロザリオを一周すると四つの祈りの花束を神にささげることになります。

 ひとつひとつの珠に触れながら、
「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)
と唱えます。
「キリステ・エレイソン……」
を加えることもできます。歌うのもいいでしょう。
ひとつひとつの珠に、自分の抱える課題をこめるのもよいし、また祈るべき人ひとりひとりを思い浮かべることもできます。

 次の十字の珠に至ったときは、また「信仰の神秘……」と唱えます。

 終わりに近づくにつれて、キリストの生涯が十字架に向かって切迫していくことを感じます。一周して、下の十字の珠に再び触れたとき、十字架の苦難によってわたしたちの救いが実現したことを心と身体に刻みます。最初の招きの珠に戻って、復活を思いつつ、
「栄光は、父と子と聖霊に。初めのように、今も、世々に限りなく アーメン」
と唱えて神に栄光を帰します。

 一回で終えることもできますし、二回、三回と繰り返すこともできます。ゆっくりと、自分の呼吸が祈りとなっていけるとよいでしょう。

 以上は聖公会のロザリオを用いたひとつの方法です。別の祈りを用いたり、またその日の意向を定めて黙想したりすることもできます。

 八月二十三日、奈良基督教会では十四人が参加して行い、言葉だけでなく身体を伴った祈りの深まりを経験しました。グループでの経験があると、個人でする際にも有益です。





































































































































使徒信経の祈り

  使徒信経

 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
 また、その独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降(くだ)り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから主は、生きている人と死んだ人とを審(さば)くために来られます。
 また、聖霊を信じます。聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます。アーメン


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 神よ、わたしはあなたが愛の神であることを信じます。

 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

 神よ、あなたがわたしの存在を望み、わたしの父また母としてわたしを産んでくださったこと、そしてこれまでも今もそしてこれからもずっと、わたしを愛し導いてくださることを信じます。あなたは闇の中に光を、絶望の中に希望を造り出してくださること、不可能と思えることを可能にし、荒れ野の中にわたしのために道を開いてくださることを信じます。


 わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。

 イエス・キリストよ、あなたはわたしたちを救うため、人となってわたしたちのところにおいでになりました。

 あなたはわたしたちの悩みと病と罪を負い、どこまでもわたしたちと一つになってくださいました。あなたは極みまでわたしたちを愛し、わたしたちのために血の汗を流して祈り、罪なくして捕らえられ、苦しみの果てに十字架の上に死なれました。あなたの死の中にわたしたちの罪と死は飲み込まれました。あなたの光に照らされぬ闇はなく、あなたの救いの手の届かない深みはありません。あなたの流された貴い血はわたしたちを清め、また救ってくださいます。

 あなたは死んで葬られ、陰府(よみ)に降られました。あなたは死者の国にまで降(くだ)ってすべての人を迎え、天国に導き入れてくださいます。

 あなたは三日目に死人のうちから復活されました。洗礼によってあなたの死と一つにされたわたしは、あなたのよみがえりと一つにされて新しく生きることができます。あなたが生きておられるのでわたしも生きることができます。

 あなたは変わることのない友として、いつもどのようなときにもわたしと一緒にいてくださいます。

 また、あなたが天に昇られたことを信じます。あなたは、父なる神の傍らでわたしたちのために祈りつつ、わたしたちを天国に迎えるために備えをしていてくださいます。

 あなたがやがて再びおいでになることを信じます。あなたは正しい審きをなして悪の力を滅ぼし、虐げられた者を救い、ささげられたすべての労苦に報いてくださいます。そのときわたしはあなたと顔と顔とを合わせてお会いし、限りない喜びを与えられ、あなたに似る者とされるでしょう。

 

 聖霊よ、わたしはあなたを信じます。

 あなたは疲れた魂に力を満たし、イエス・キリストの声を聞かせ、その姿を見させてくださいます。あなたはわたしが祈り疲れたときもわたしに代わって祈り、うめきつつ神に執り成してくださいます。あなたはわたしの心の中に入り、わたしの内に生きて、神と人を愛する者とならせてくださいます。


 神よ、あなたは造り主として、救い主イエス・キリストとして、聖霊としてご自身をあらわしてくださいました。わたしはあなたが三位一体の神であることを信じます。

 わたしはあなたを信じます。わたしは孤独ではありません。あなたがわたしと共におられるからです。

 あなたは今もこの地上に御心を実現しようとして働いておられ、わたしをその働きの中に用いてくださいます。

 わたしを愛してくださるあなたをわたしも愛し、あなたを慕い、あなたと共に歩みます。アーメン

(2012/07/01)
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黙想会「ラビリンスによる聖地巡礼」

2012年3月11日 京都聖三一教会

聖歌 568 うたえ主に感謝 恵みふかい主に
      うたえ主に感謝 アレルヤ


詩編 第130編 都に上る歌

1 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

2 主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
  主よ、誰が耐ええましょう。

4 しかし、赦しはあなたのもとにあり
  人はあなたを畏れ敬うのです。

5 わたしは主に望みをおき
  わたしの魂は望みをおき 
  御言葉を待ち望みます。

6 わたしの魂は主を待ち望みます
  見張りが朝を待つにもまして
  見張りが朝を待つにもまして。

7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに
  豊かな贖いも主のもとに。

8 主は、イスラエルを
  すべての罪から贖ってくださる。

(出発前の黙想と祈り)

 自分の思いを自由に紙に書いてみます。
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1 入り口

さまざまな重荷、心配、あせり……を手放し、静かになり、心を神さまに向かって開きます。

ラビリンスの入り口に立ち、沈黙のうちに神のおられる聖地に向かって出発します。目標は聖なる山の上、エル
サレムのシオンの丘、神のおられる場所です。

 祈り、黙想しつつ、ゆっくりと道に沿って歩んでいきます。

(行く人と帰る人が出会ったら、お互いにそっと道を譲ります。)
 
2 中心

 中心(聖地)に到着したら、心のうちに感謝と賛美を捧げます。しばらく留まって、神と共にあることを深く思いめぐらします。神と一致し、交流していることを感じてみます。

 何か願い、あるいは決意があれば、沈黙のうちにそれを神に捧げます。
 
 聖地において神の前に立ち、神との交流を与えられたことを大切に心に収めつつ、帰途につきます。ゆっくりと歩んでいきます。
 
3 出口

 出口に到着したとき、新しい世界が開けます。そこはわたしが神から何かを託されている場所。使命を与えられて新しく生き始める場所です。


ラビリンス巡礼者の祈り

すべての道の主である神さま
わたしは今日、ラビリンスの前に立って、
主に至る人生の旅路を描いてみます。

近道ばかりを求める性急なこのわたしは
待つことを嫌い、
直線的にのみあなたに向かって
飛び出そうとしてきました。

けれども、かぎりない忍耐の神さまは
くねくねと曲がるまったく違った道を
わたしの前に広げて示されます。

真ん中へと近づくときは喜びにわきますが
すぐに端へとはずれて行くこの道……
なにかわたしの人生と似ています。

一歩ずつ踏み歩むとき
時には目標から遠ざかるようですが、
主はいつもわたしを導いてくださいました。

驚きと神秘の神さま
このラビリンスはその神秘に
わたしをゆだねて、従う道を教えてくれます。

はっきりとはわからないのですが、
信じて仰ぎ行くこの道は、
曲がっては入り、曲がっては出ていきながら
やがては万有の中心である主に
わたしを導きます。
(ジーン・ゾンネンバーグ)

それぞれ与えられた祈り、思いを書いてみます。


詩編 第130編

聖歌 568 うたえ主に感謝 恵みふかい主に
      うたえ主に感謝 アレルヤ




沈黙を解きます。

しばらく分かち合います。

黙想から祈りへ──黙想への招き(2)

聖公会神学院の1998年度の開始に際して行なった黙想講話の続きです。

1998.4.27

聖歌 増補版 25 主はわがかいぬし

祈り

前回、イエスの母マリアのことから黙想を考え始めました。天使から、羊飼いから、イエスから聞いたことを、当惑したり不思議に思ったりしながら、心に納めて思いめぐらす――そういうマリアのことを心にとめたのです。そのマリアが新約聖書の中で最後に登場するのは、使徒言行録1:14です。主イエスの昇天のすぐ後の場面です。

「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」1:12-14

イエスを見送った弟子たちの群れ、イエスのいのちとイエスの願いを受け継いで生きて行こうとする人々の中に、マリアの姿があります。マリアは祈っています。思いめぐらすことから祈ることへ、ということを今日は考えてみたいと思います。

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「キリスト者は、一日の中で、ひとりでいるための一定の時間を必要とする。」

ボンヘッファーはそのように言っています。(ボンヘッファー『共に生きる生活』新教出版社、1975、「3 ひとりでいる日」から)

もう少し続きを聞きましょう。

「それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(1) 聖書を読み、思いめぐらすこと、(2) 祈ること、(3) とりなしのためである。」

「聖書を読み、思いめぐらすこと」――これが狭い意味での黙想です――、「祈ること」、「とりなしをすること」。この三つがキリスト者の日ごとの黙想の時間に見出されなければならない、と彼は言います。

この黙想の時間を一日の中で確実に確保せよ。これは神と人に仕えようとする者の責任に属することである。同時にこれは、自分が神の恵みに出会うことである。――そのようにボンヘッファーは強く勧めています。

さてボンヘッファーの挙げた三つのことを心にとめてみたい。

第一は、聖書を読み、思いめぐらすこと。

研究のためではなく、何かをだれかに話すためではなく、まったく自分のために……。聖書の言葉が私個人に何を語りかけてくるのだろうか。それを静かに待つ。期待して、願って待つ。神様が御言葉をとおして聖霊を送ってくださるように、私たちに神様が言葉を聞かせてくださるように、私たちの心が御言葉に向かって開かれるように。そのような祈りをもって黙想を始めます。

詩編143編を開きましょう。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」143:5

昔のイスラエルの詩人がそのように語っています。祈っています。昔のその人のこと、その人の思い、その人の置かれた状況を思ってみたい。

そしてまた、「わたし」を、自分自身のこととして思ってみたい。「あなたのなさったこと」、神様が私に対してなさったことは何であったか。神様は私に対して、確かに良いことをしてくださったのではなかったか。それを思い返したい。あるいはその中には、辛いことも含まれていたかもしれない。

(沈黙)

聖書の言葉を思いめぐらすことから、私たちは祈りへと導かれます。

第二は、祈ること。

黙想から祈りが与えられます。

黙想が私の心をなごませ、平和と祝福を与え、自然に祈りへと導いてくれることがある。一般的な、イメージのはっきりしない祈りではなく、今思いめぐらした聖書の言葉が、何らか具体的なイメージと内容をもった祈りへと、私たちを促してくれることがある。

神様が私にしてくださったことを思い返したとき、忘れていた喜びが呼び覚まされることがある。神様への感謝と讃美を心から捧げることが起こる。魂がうるおされる。そういうことがあるでしょう。黙想の与える祝福のひとつです。

しかし、そのようにはならないこともあります。黙想が深まらないことがある。落ち着けないことがある。あるいはまた、私に対する神のわざを讃美するのではなく、反対に今の自分の現実を思って、嘆きが増し加わることがある。

あの詩編143編の人の場合はどうだったでしょうか。

「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」143:6

神がなさったことをひとつひとつ思い返しつつつ、この人の心はうるおっていません。神様のことを思ったとき、自分の状態がどんなに悲しいものであるかをいっそう強く感じるしかありませんでした。「渇いた大地のようなわたしの魂」。けれども、ほかにどうしようがあるでしょうか。

「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」

少し一般的に言いますが、黙想から祈りへと導かれるというとき、それは幸いな経験として与えられる場合と、反対に自分の思いとしては辛さを感じつつ、しかし祈るしかどこにも救われようがない、という場合と、両方があると思います。その間の幅があると思います。

そして辛い方、否定的に思える場合もまたけっして意味のないことではなく、逆にそのことをとおして、神の前に自分の姿があらわとなり、神との関係を回復させられる、そういうかけがえのない意味を持っています。

この143編の人はそのような中にあったのではないでしょうか。

この人は、神の前に自分をさらしながら神の名を呼びます。

「主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。」143:7
 
聖書の言葉から祈りが与えられる。あるいはまた、自分でその祈りの言葉を見出そうとすることもよいでしょう。聖書の言葉と、与えられた祈りを、紙に書くことはよいことです。

黙想と祈りに続くのはとりなしです。

第三は、とりなしです。

これまではほとんど自分のことに集中してきたのですが、すでに黙想の中で自然にだれか気がかりな人のことが思い浮かんだかもしれません。そうであったとしてもそうではなかったとしても、黙想の最後は、人のことを神の前におぼえます。自分が黙想をとおして幸いと感じられる時を過したのであれば、人のために幸いを祈ります。反対に、辛いと感じたのであれば、人の辛さ、人の困難をより強く思って祈ります。

出エジプト記によれば、昔、祭司アロンは、身にまとうエフォドの両肩のひもに、そして胸当てのところに、イスラエルの12部族それぞれの名を刻んだ石を身につけて、主の前に立ったと言います(出エジプト記28:6-30)。

主の前にイスラエルの子らをおぼえるためにそうしたというのです。とりなしとはそのように具体的なことなのだと思わされます。

主イエスは私たちのことを神の前におぼえてくださっている。

私たちもまた、主イエスのとりなしの働きにあずかりたい。具体的な人の名を神の前におぼえて、とりなしをする者でありたい。これを継続的に着実にするために、手帳かノートをそのために用意するのがよいでしょう。

黙想と祈りととりなしと。これは個人の黙想の時です。このような時を持ちつづけるとき、私たちは個人として神の前に落ち着かせられ、強められていきます。と同時に、私たちの共同生活にも良い作用を及ぼすことになるでしょう。

黙想から祈りへ。自分の祈り、自分のための祈りを大切にしたい。そしてとりなしの祈りへと進みたい。祈りととりなしのために、しばらくの時間を過しましょう。

(沈黙)

祈り

主の祈り

見ること、聞くこと、感じること――黙想への招き(1)

これは聖公会神学院の1998年度の開始に際して行なった黙想講話です。
 
1998.4.20

聖歌 増補版 8 神の息よ

祈り

月曜日の朝、私たちはここで共に黙想の一時を持ちます。今日と来週の月曜日と2回、黙想について、あるいは礼拝について、いくらかのことをお話ししながら、黙想の時を過してみたいと思います。

ルカ福音書は、主イエスの母となったマリアについて、彼女が何かを思いめぐらしていることを記しています。

まず、お告げのところです。

「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」ルカ1:28-29

それからイエスが生れたとき、羊飼いがやってくる場面です。

「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」ルカ2:18-19

イエスの12歳のとき、エルサレムに巡礼した時のことです。

「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ルカ2:49-51

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天使から驚くべきことを告げられたとき、羊飼いたちの話を聞いたとき、神殿でイエスの言葉を聞いたとき、マリアはその場ですぐに納得して受け入れたのではありませんでした。反対に納得がいかないからそれを拒む、ということでもありませんでした。意外なこと、受け入れがたいことを、しかし心に納め、思いめぐらしていた。

彼女の中に納められた言葉、彼女が思いめぐらす言葉は彼女の中に位置を占める。彼女の信仰の歩みは、このような思いめぐらしによって支えられ、導かれたのではないかと思うのです。このことなしには、愛するわが子の死を前にして十字架の下に立ちつづけることはあり得なかったでしょう。

詩編にはこのような言葉が出て来ます。

「わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」詩編143:4-6

神の言葉を思いめぐらすこと、神のわざをひとつひとつ思い返すことなしには、この人は苦しみに耐えることはできなかった。

聖書の黙想は、それがほんとうになされるならば、私たちに神様からの励ましと支えを与えてくれるはずのものです。言い換えれば、神様は私たちの黙想をとおして私たちに近づき、私たちを受け入れ、私たちに宿ってくださると、そのように言ってもよいかもしれません。

(沈黙)

聖書の黙想について、三つの面からふれてみたいと思います。

第一は、「見る」ということです。

心の目で見る、その場面、情景を思い浮かべる、ということです。少し昔の人のことを言いますと、イグナチオ・ロヨラ(1491頃−1556。イエズス会の創立者です。彼は『霊操』の中で、マリアとヨセフがナザレからエルサレムに向かって旅をする場面以下について、次のように言っています。

「ここで想像力を使って見るものは、ナザレからベツレヘムへの道である。道の長さと道幅を考えてみよう。道は平らだろうか。谷や山を巡って曲がりくねっているのだろうか。同様にして降誕の場所、降誕の洞窟を見よう。どのくらい大きいのだろうか、それとも小さいのだろうか。どのくらい天井が低いのだろうか、それとも高いのだろうか。どんなものが置かれているのだろうか。」
(D.C.シュタインメッツ「ルターとロヨラ」『インタープリテイション』日本版 第21号。1993.5)

このように具体的に情景を思い浮かべることを勧めています。このように心の目で思い浮かべるということは、むずかしい場合もあるし、見当違いを犯すこともあるかもしれません。けれども、想像力を働かせるということは、聖書に近づいてその中に入って行くために大変有益です。

第二は、「聞く」ということです。

耳で、心の耳で、あるいは実際に声を出して自分の体の耳で、言葉を聞くことです。聖書の中の誰かのセリフを聞く、ということもあるし、セリフに限らず語られている言葉を聞く。短い言葉を繰り返して、反芻するように聞く。あるいはまとまった流れに耳を傾ける。すでに聞いたことのある、何度も聞いて知っている言葉であっても、新しく、耳をすまして聞く。初めは、乾いた言葉、言葉だけの言葉であって、自分とは関係があるとは思えないかもしれない。けれども、時間の中で、何かが変ってくる。

第三は、「感じる」ということです。

皮膚で感じる。空気の流れ、風がほおに当る。重さを手に感じる。におい、香りを感じる。イエスの呼吸が私の呼吸に影響を及ぼす。自分の心、気持・感情に何が起こってくるかを感じる。

黙想には結論はなくてよい。心を柔らかくして、自由に過す。うまく行かないように思ってもあまり気にしない。別のことが気になったり、連想したりしたりして、また聖書の言葉に戻ってくる。短い言葉一つに立ち止まるのでよい。

しばらく実際に黙想して、今の三つの面から、自由に思いめぐらしをしてみたい。

今週の福音書、ヨハネ福音書20:19−23の言葉とともに、しばらく沈黙のうちに過してみましょう。見ること、聞くこと、感じること。その場面に近づいて、その傍らにとどまって、言葉を繰り返して、時を過します。

(朗読)

(沈黙)

祈り 主イエス・キリストよ、おいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください

主の祈り

アブラハムの祈り──旧約聖書の祈り 1 「創世記」から

(京都聖三一教会での聖書の会のレジュメです。)

2011/03/20

ソドムのための執り成し 創世記第18章 

1. アブラハムという人
   ロトとの別れ

2. ソドムへの審判の告知とアブラハムのとりなし

「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
アブラハムは進み出て言った。
『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』

主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』

アブラハムは答えた。『塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。』
主は言われた。『もし、四十五人いれば滅ぼさない。』
アブラハムは重ねて言った。『もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。』
アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。』
主は言われた。『もし三十人いるならわたしはそれをしない。』
アブラハムは言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。』
主は言われた。『その二十人のためにわたしは滅ぼさない。』
アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。』」
創世記18:22‐32

3. イエスのとりなし

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31‐32

「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」ローマ8:26

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ローマ8:34

「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」ヘブライ7:25

4. わたしたちのとりなしの祈り

洗礼式文「祭司職」
「十字架につけられたキリストへの信仰を告白し、その復活を宣言し、ともに祭司職にあずかる者となりましょう」

聖餐式文 感謝聖別
機 屬修靴得士遒鯀り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます」
供 屬錣燭靴燭舛髻△濮阿卜たせ、祭司として仕えさせてくださることを感謝し」

5. 執り成し──祭司職
神と人々(世界)の仲介をする者

黙想会「主の祈り」2011

京都聖三一教会 黙想会 2011

わたしたちに祈りを教えてください
     ──「わたしの主の祈り」を祈る

と き・2011年5月22日(日)午後1時20分〜3時
ところ・京都聖三一教会礼拝堂


講話・井田 泉司祭

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。
そこで、イエスは言われた。
『祈るときには、こう言いなさい。
“父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。……”』」ルカ11:1‐2

「主よ、わたしたちに祈りを教えてください。」
弟子のひとりがイエスさまに求めた願いは、わたしたちの願いでもあります。

主日の午後のひととき、祈っておられるイエスさまの傍らに近づき、わたしたちもイエスさまから祈ることを学びましょう。

日常、繰り返し用いている「主の祈り」の意味を新しく受けとめ、それを自分のものとして祈るために、「わたしの主の祈り」を作る試みもしてみたいと思います。どなたでもご参加ください。

♪ 今年も小野純子さんにライアーの奏楽をお願いしています。

アヴェ・マリア(改訂)

「アヴェ・マリア」について以前に書いたものを少し改訂しました。
日本語訳の調整が中心です。

(ラテン語)
Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen

(日本語訳)

「おめでとう、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女たちの中で祝福された方、
そしてあなたの胎の子イエスも祝福されています。
聖マリア、神の母よ、
祈ってください、罪あるわたしたちのために、
今も、死を迎えるときも。アーメン」


内容は次をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51674916.html

東日本大震災のための祈り・嘆願

(日本聖公会)

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のため

慈悲の神、天の父よ、
東日本大震災によって命を失った人びとの死を悼みます。
どうか主の深い慈しみのうちに、この人びとを安らかに憩わせてください。
また、愛する者を失って悲しむ人びとがみ力により、あなたの愛の慰めのうちに生きることができますように。
この震災によって離散させられた人びと、住まいを失った人びと、傷つき病のうちにある人びと、弱い立場に置かれている人びと、ことにしょうがいのある人びと、ご高齢の人びと、外国からの人びとを愛のみ手をもって守り支えてください。
また悲しみ、悩み、苦しみ、孤独のうちにある人びと、希望を失いかけている人びとを慰め、生きる勇気と希望をお与えください。
今、避難生活を余儀なくされている人びとや不自由な生活を強いられている人びとに、必要な保護が与えられますように。
また、震災復興のために働くすべての人びと、ことに危険な作業に従事する人びと(、――)を導き支えてください。
そしてわたしたちが心を合わせて祈り、いつもともにおられる慰めの主のみ姿を見出すことができますように。
これらの祈りを主イエス・キリストのみ名によってお献げいたします。アーメン


東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のための嘆願

司式者 
慈悲の神、天の父よ、東日本大震災によって命を失った人びとの死を悼みます。どうか主の深い慈しみのうちに、この人びとを安らかに憩わせてください。また、愛する者を失って悲しむ人びとがみ力により、あなたの愛の慰めのうちに生きることができますように

会衆 
主よ、お聞きください

司式者 
この震災によって離散させられた人びと、住まいを失った人びと、傷つき病のうちにある人びと、弱い立場に置かれている人びと、ことにしょうがいのある人びと、ご高齢の人びと、外国からの人びとを愛のみ手をもって守り支えてください

会衆 
主よ、お聞きください

司式者 
悲しみ、悩み、苦しみ、孤独のうちにある人びと、希望を失いかけている人びとを慰め、生きる勇気と希望をお与えください

会衆 
主よ、お聞きください

司式者 
今、避難生活を余儀なくされている人びとや不自由な生活を強いられている人びとに、必要な保護が与えられますように。また、震災復興のために働くすべての人びと、ことに危険な作業に従事する人びと(、――)を導き支えてください

会衆 
主よ、お聞きください

司式者 
わたしたちが心を合わせて祈り、いつもともにおられる慰めの主のみ姿を見出すことができますように

一同 
これらの祈りを主イエス・キリストのみ名によってお献げいたします アーメン
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