Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

尹東柱

尹東柱さまにささげる歌──生誕100年に寄せて

尹東柱にささげる歌 Ida_ページ_1

尹東柱にささげる歌 Ida_ページ_2

聖公会生野センター『ウルリム(響)』第66号
2017年11月25日発行

 詩人・尹東柱(ユンドンジュ)は、1917年12月30日、中国吉林省明東に生まれた。日本による朝鮮植民地支配の時代である。彼は延禧(ヨニ)専門学校時代に多くの珠玉の作品を書いた。そのひとつは「星を数える夜」である。

  季節が移りゆく空には
  秋でいっぱい 満ちています。
  わたしはなんの憂いもなく
  秋の中の星々をみな数えられそうです。……
  星ひとつに 追憶と
  星ひとつに 愛と
  星ひとつに 寂しさと
  星ひとつに 憧れと/星ひとつに 詩と
  星ひとつに お母さん、お母さん、
  ……
 
 自筆原稿を見ると、コクヨの400字詰め原稿用紙に万年筆で書かれたこの比較的長い詩は、次の言葉でいったん終わり、(一九四一・十一・五)という年月日が付されています。
……
 
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「尹東柱さまにささげる歌」

朗読テープ


今年、2017年は詩人・尹東柱の生誕100年です。
30年前以上に聞いた尹東柱詩 朗誦集に収められていた歌の原文を見つけたので、直訳とともに掲載します。

YouTube で聞くことができます。

   作詞・作曲 尹亨柱(ユン・ヒョンジュ)

「尹東柱さまにささげる歌」

あなたの天は どんな色だったので
あなたの風は どこへ吹いたので

あなたの星は 何を語ったので
あなたの詩たちは このように 息をするのでしょうか

夜通し 苦しんで 夜明けを迎え
恋しさに傷ついた風が ふるさとに 駆けていくとき

あなたは遠い空 冷たい冷たい 空気の中で
あなたの息を 引き取らねばならなかったのですか….

死んでいく すべてのものを 愛したあなたは
むしろ 美しい魂の光であれ

木の葉に 起こる風にも 苦しんだあなたは
むしろ むしろ 美しいいのちの光であれ

あなたの地…. あなたの場所に
天が降る …. 星が降る….


윤형주 윤동주님께 바치는 노래

당신의 하늘은 무슨 빛이 었길래
당신의 바람은 어디로 불었길래

당신의 별들은 무엇을 말했길래
당신의 詩들이 이토록 숨을 쉬나요

밤새워 고통으로 새벽을 맞으며
그리움에 멍든 바람 고향으로 달려갈때

당신은 먼하늘 차디찬 냉기속에
당신의 숨결을 거두어야 했나요...

죽어가는 모든 것을 사랑했던 당신은
차라리 아름다운 영혼의 빛갈이어라

잎새에 이는 바람에도 괴로왔던 당신은
차라리 차라리 아름다운 생명의 빛깔이어라

당신의 땅....당신의 자리에
하늘이 나리네 .... 별이 나리네...


日韓の歴史──尹東柱(ユン・ドンジュ)の生涯と詩を中心に

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2017年2月15日、聖公会神学院2016年度短期集中講座で話したものの資料(年表)です。

日韓の歴史──尹東柱の生涯と詩を中心に

尹東柱の詩対訳(抄)

2017 尹東柱を偲ぶ会 献花式(京都・同志社) 

尹東柱献花式20170211_ページ_1

日時2017年2月11日(土) 13;30〜17:00

献花式 13:30〜14:15 詩碑前

映像でたどる尹東柱の100年
 14:30〜16:00
         同志社大学良心館207号室

尹東柱と尹一柱──詩に現れた兄弟の思い

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2012 年2 月11 日 尹東柱を偲ぶ会(同志社大学)での講演です。

→ 全文

尹東柱 詩 対訳

序詩


尹東柱の詩の対訳です。

尹東柱の詩の対訳

「たんぽぽの笛」──尹東柱と尹一柱

 今から60年前の1952年、詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の弟である尹一柱(ユン・イルジュ)は「たんぽぽの笛」という詩を書いた。

たんぽぽ

 たんぽぽの笛

日の光が温かい兄さんの墓の横に
たんぽぽが1株立っています。

1本には 黄色い花
1本には 白い種。

花は摘んで胸に挿し
種は息で吹いてみます。
かるくかるく
空に消える種、

──兄さんも 黙って行きましたね。

目を閉じて吹いてみるたんぽぽの笛
兄さんの顔 はっきりと浮かびます。

飛び立った種は
春になれば広い野原に
また咲くでしょう。
兄さん、その時は
わたしたちも会えるでしょう。


 「種」と直訳したが、たんぽぽの白い綿毛のことである。吹く息に乗って飛んで行く綿毛のかなたには、7年前に福岡で獄死した兄が待っている。綿毛の種が地に落ちて、やがて芽を出し、ふたたびたんぽぽの花となって咲く時、必ず再会することができる。

 「たんぽぽの笛」から14年前の1938年、20歳の兄・尹東柱は10歳の弟・一柱を「弟の印象画」という詩に書き留めた。

 弟の印象画

赤い額に 冷たい月が差し
弟の顔は 悲しい絵だ。

歩みを止め
そっと幼い手を握って
「お前は大きくなったら何になる」

「人になる」
弟の悲しい ほんとうに悲しい答だ。

そおっと 握っていた手を放し
弟の顔を もう一度見つめる。

冷たい月が 赤い額に濡れ、
弟の顔は 悲しい絵だ。


 「たんぽぽの笛」を書いたとき、弟は14年前の月明かりの下での兄の顔と手の感触を、兄の問いと、「人となる」と言った自分の答を、思い出していただろうか。

 後に尹一柱は、大韓イエス教長老会の機関誌『基督公報』(1965.2.20)に「兄、尹東柱──彼の20周忌に」という文を寄せた。

「卒業する頃にはキルケゴールを愛読し、彼の友人であったM牧師との対話で神学にも深い造詣を示し、また信仰から離れていなかったことを示したといいます。今も忘れられないのは、ある冬休みのクリスマスの日、寒い夜明けに私の手を引いて教会に出席し、敬虔な雰囲気に浸って帰る彼の姿です。」

「彼が1944年に日本の福岡刑務所に収監されていくらもならないころ、英韓対照新約聖書を送ってほしいと言うので送ってあげたことがあります。1945年2月16日、彼の獄中で29歳[訳者注、数え年]という短い生涯を終える時まで、この『主の御言葉』を唯一の友として永遠の世界に近づいて行っただろうと信じるのです。」

 尹東柱は「人になる」ことの困難な時代に、人としてまっすぐに生きようとして、この日本の国によって人生を断ち切られた。今日、「君が代」を立って歌うことに良心の抵抗を感じる人にまで、権力を用いてこれを強制することは、当時と同じく「人になる」ことを許さない行為である。

 「思いやりの心そなえ、深く思う人になれ」(聖歌413)と、主に招かれたわたしたちは、たんぽぽの種に未来を信じた人のことを決して軽んじない。

聖公会生野センター『ウルリム』第55号 2012年6月20日発行

星を数える夜──詩人・尹東柱(ユンドンジュ)の70年

ダニエル書12:3‐13

「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。』彼は答えた。『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。……終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」12:8‐10、13

讃美歌312 いつくしみふかき
讃美歌497 わがゆくべき
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「季節が過ぎていく天には 秋でいっぱい満ちています」

 これは尹東柱(ユンドンジュ)という人の「星を数える夜」という詩の初めです。尹東柱は1917年に中国東北部間島省明東(ミョンドン)(現在は中国吉林省延辺朝鮮自治州に属する)に生れ、1945年に福岡で獄死した朝鮮のキリスト者詩人です。今からちょうど70年前、1941年の11月5日にこの詩が書かれました。書かれた場所は、当時日本統治下の朝鮮、韓国のソウルです。尹東柱は当時23歳の青年。ソウルのキリスト教学校、延禧(ヨニ)専門学校の学生でした。延禧は現在の延世(ヨンセ)大学校で、同志社とも交流の深い学校です。
詩の初めのほうを読んでみます。

 星を数える夜

季節が過ぎていく天には
秋でいっぱい満ちています。
わたしはなんの心配もなく
秋の中の星々を みな数えられそうです。


 秋の深い夜、尹東柱は丘の上に立って、星空を見つめています。満天の星。冷たく冴えわたった空気の中で、心は平安です。あせりも心配もありません。大きな星、小さな星、白い星、赤い星、明るい星、ほの暗い星……。星はとても多いけれども、ひとつひとつの星がくっきりとしていて、全部の星を数えられそうな気がします。

 星のひとつひとつが語りかけてくるようです。星はただ遠くに向こうに見えているばかりではなく、自分の心に宿ります。ひとつ、ふたつ、みっつと……自分の胸に、星は刻まれてきます。数えられそうな星なのですが、ひとつひとつ大切に心に留まってくるので、1、2、3、4……というようにどんどんと数えるわけにはいきません。

胸の中に ひとつ ふたつと 刻まれる星を
今すべて数えきれないのは
すぐに朝が来るからで、
明日の夜が残っているからで、
まだわたしの青春が尽きていないからです。


 星はひとつ、ふたつ……と自分の胸に刻まれてきて、今全部を数えることはできません。こんなにたくさんの星ですから、数えているうちにすぐに朝が来てしまいます。急いで全部いま数えなくてもいいのです。明日の夜が残っているのですから。

 けれども尹東柱は「明日の夜もあるから」とは言わず、「残っているから」と言います。明日も明後日もずっと日が十分あるというのではない。「残っている」というのは、逆に言うと、夜は、星を数えられる夜は限りがあるということかもしれません。今すべて数えられなくてもよい。あせりも心配もないのです。明日の夜が残っているから。けれどもその先はわかりません。
 
胸の中に ひとつ ふたつと 刻まれる星を
今すべて数えきれないのは
……
まだわたしの青春が尽きていないからです。


 まだわたしの青春は尽きていない。星を全部数えてしまったら、もう自分の青春は尽きてしまうかもしれない、という思いがどこかにあるのでしょうか。しかしまだ尽きてはいない。

 23歳の尹東柱。今は11月初旬、5日ですが、その1ヵ月後の12月8日には、日本軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まります。戦時下のため、学校の授業は短縮され、3ヵ月繰り上げ卒業となります。この詩を書いてから50日あまりで彼は延禧を卒業してしまうのです。1941年12月27日でした。

 卒業後どうするか。すでに彼は決意していました。日本への留学です。

 北に光る星の下には故郷があり、南東の星の下にはまだ見ぬ日本があります。ある星は自分のこれまでを示しているようであり、ある星は自分の将来を告げているような気がします。星は無言でありながら、何かを語っているようです。星ひとつひとつがそれぞれ言葉を持っているようです。

星ひとつに 追憶と
星ひとつに 愛と
星ひとつに 寂しさと
星ひとつに 憧れと
星ひとつに 詩と
星ひとつに お母さん、お母さん、

お母さん、わたしは星ひとつに美しい言葉をひとことずつ呼んでみます。小学校のとき机を並べた子らの名まえと、佩(ペ)、鏡(キョン)、玉(オク)、このような異国の少女たちの名まえと、もう赤ちゃんのお母さんになった娘たちの名まえと、貧しい隣人たちの名まえと、鳩、小犬、兎、らば、鹿、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、このような詩人の名まえを呼んでみます。

これらの人たちはあまりにも遠くにいます。
星が 目まいするほど遠いように、

お母さん、
そしてあなたは遠く北間島(プッカンド)におられます。


 尹東柱の故郷である北間島龍井(ヨンジョン)は朝鮮と中国を隔てる豆満江の北側。当時は日本支配の「満州国」に属していました。ソウルから龍井は遠い。龍井はソウルからほぼ真北に1000キロの距離です。帰るには1日1本の夜行列車を使って、およそ24時間かかります。さらに日本に行くとなればどんなに遠いことでしょうか。しかもソウルの学校でさえ、日本の支配の締め付けによって朝鮮語が禁止されてきている時代です。尹東柱は、奪われ、滅ぼされようとする朝鮮語に自分と自分の民族の命を感じて生きている詩人です。日本渡航は危険にさらされることです。けれども学びを深めることが自分の使命であれば、それを選ぶほかはありません。

 故郷では、母が毎日自分のことを心配して祈ってくれているでしょう。父は、息子の日本渡航のために手続きをしてくれているはずです。何の手続きかと言うと、創氏改名。日本に渡るためには尹東柱の名では叶わない。日本式に名前を変えなくては玄界灘を渡ることはできません。渡航証明書には日本の名前でないといけないのです。そのため「尹」の代わりに「平沼」とし、尹東柱は「平沼東柱(とうちゅう)」としなくてはなりません。代々継承してきた「尹」を「平沼」に変えるのは、一家にとってどんなに辛い、屈辱的なことでしょうか。
 
お母さん、
そしてあなたは遠く北間島(プッカンド)におられます。

わたしは何か恋しくて
このたくさんの星の光が降った丘の上に
わたしの名まえの字を書いてみて、
土でおおってしまいました。
たしかに 夜を明かして鳴く虫は
恥ずかしい名を悲しんでいるからです。

 
 尹東柱は日本に渡るために名乗ることになる「平沼東柱」という名前の字を、星の光の下で、石か木片を取って土に刻んだのでしょうか。恥ずかしい名前です。あるいは「尹東柱」とも書いたかもしれません。書いてみて、土で覆ってしまいました。声を立てて泣いている秋の虫は、恥ずかしい名前を悲しんでいる。鳴く虫の声は自分の心の声です。

 尹東柱はここで「星を数える夜」の詩を書き終えて、「一九四一、十一、五」と日付を書きこみました。

 しかし何かこれで全部ではない気がする。恥ずかしい名を書いて、土で覆ってしまって、悲しみで終わっていいでしょうか。こんなにたくさんの星の光が自分にも、丘の上にも降り注いでいるというのに。

 やがて彼は、日付を記した次にもう4行を書き加えました。

けれども冬が過ぎて わたしの星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
わたしの名まえの字がうずめられた丘の上にも
誇らしく草が生い繁るでしょう。


 秋も深まってまもなく冬になろうとしています。季節のことだけではない。日本という、自分が朝鮮人として朝鮮語で生きて行くこと許さない国に行くのは、まさに冬を耐えることになるのではないか。

けれども冬が過ぎてわたしの星にも春が来れば

 わたしの星。星のひとつに、彼は自分の尹東柱という名前を呼んでみたのかもしれません。わたしの星にも必ず春が来る。

 どうしてここに「墓の上に」という言葉が出てくるのでしょうか。彼は恥ずかしい名前を土で覆ったばかりではなく、自分自身が墓に葬られることを感じているかのようです。

けれども冬が過ぎて わたしの星にも春が来れば
墓の上に青い芝草が萌え出るように
わたしの名まえの字がうずめられた丘の上にも
誇らしく草が生い繁るでしょう。


 23歳の尹東柱はすでにここで自分の死と、そして復活を予感して、決意し、覚悟しているかのようです。自分の青春が尽きてしまうまでに、残された時間はどれくらいあるでしょうか。

 尹東柱は、翌1942年春、東京のキリスト教系学校である立教大学に留学しました。そこで彼は軍事教練を拒否したため、配属将校から憎まれ、圧迫を受けるようになりました。その年の秋、彼はこの同志社大学文学部英文学科に転入しました。69年前です。しかし翌1943年7月14日、夏休みを前に、彼は下宿で下鴨警察署員に逮捕されました。治安維持法違反の容疑。日本国家を転覆する意図をもって活動したというのです。朝鮮語で日記や詩を書くこと自体が、罪に問われることでした。

 彼は京都地方裁判所で懲役2年の判決を受け、福岡刑務所に収監されました。そして1945年2月16日、拷問、虐待の果てに衰弱、獄死しました。満27歳でした。

 今日は、ちょうど70年前に書かれた「星を数える夜」の詩をご紹介しましたが、同じ年同じ月、1941年11月20日に書かれた「序詩」を刻んだ尹東柱詩碑が、この今出川キャンパスに立てられています。
 
 遠い昔、ダニエルという預言者がいました。先ほど読んでいただいたのは旧約聖書・ダニエル書の最後のところです。

「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。』彼は答えた。『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。……終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」12:8‐10、13
 
 心配し、迷うことはある。苦しみは避けられない。しかしあなたは、あなた自身の道を行きなさい。神さまがあなたに託された使命を確かめ、それを引き受けて終わりまでまっすぐ道を行きなさい。──これは70年前に尹東柱が「星を数える夜」を書いたころに聞いた神さまの声、またそれから1年後にこの同志社大学で過す間に聞いた神さまの声かもしれません。

 あなたは苦難を経て、必ず再び立ち上がるであろう。──あの詩を書いた尹東柱は、70年を経た今、立ち上がってわたしたちに語りかけています。

 わたしたちもまた困難があったとしても、自分に託された使命が何であるかを尋ね求め、確かめ、それを引き受けて、終わりまで真実にまっすぐ自分の道を歩む。そのような人生の道は、輝く星の光をいっぱいに浴びる道。苦難をとおしてイエス・キリストの復活に生かされる道です。

(2011/11/09 同志社大学チャペルアワー 神学館礼拝堂)

尹東柱 詩碑献花式 2012/2/11

尹東柱 詩碑献花式(来日・京都70周年)のご案内です。       

主催・尹東柱を偲ぶ会/同志社コリア同窓会

2012年2月11日(土)午後2時

同志社大学今出川キャンパス

DoshishaShihif

総合司会    朴煕均

第1部 詩碑献花式(詩碑前) 午後2時〜
1. 開会            
2. 会長挨拶          崔龍漢
3. 聖書朗読・祈祷       崔忠植
4. 「序詩」朗読(原詩と伊吹郷訳) 一同で
5. 献花
(案内)

第2部 詩の朗読と講演(神学館チャペル) 午後2時45分
1. ライアー奏楽   ♪星の呼び声  小野純子

2. 詩の朗読とライアー(曲・小野純子)

         朗読(日本語) (韓国語)
「序詩」     井田 泉   韓相敦  ♪梢にたわむれる風
「星を数える夜」 中川悦子   金吉良  ♪
「弟の肖像画」  中川悦子   韓相敦  ♪
「十字架」    松本あかね  金吉良  ♪
「白い影」    松本あかね  韓相敦  ♪
「新しい道」   中川悦子   金吉良  ♪

3. 講演「尹東柱(ユンドンジュ)と尹一柱(ユンイルジュ)──詩に現れた兄弟の思い」
  井田 泉(京都聖三一教会牧師)

  
 尹一柱「たんぽぽの笛」          ♪  

4. ライアー奏楽   ♪無伴奏チェロ組曲から「プレリュード」

5. 「新しい道」    ♪ 

6. ♪いつくしみ深き(讃美歌312、讃頌歌487) オルガン伴奏
 
             午後4時30分終了予定

尹一柱「たんぽぽの笛」

尹一柱は尹東柱の弟です。
尹一柱氏のご子息である尹仁石氏が、2011年2月20日に行われた「詩人尹東柱とともに」(詩人尹東柱を記念する立教の会)で講演されました。

この集いの資料が送られてきて、その中に「たんぽぽの笛」(日本語訳)が載っていました。
確かめると以前に尹仁石氏からいただいた尹一柱詩集『童画』の中に「たんぽぽの笛」を見つけたので、私なりに訳してみました。


たんぽぽの笛

日の光が温かい兄さんの墓の横に
たんぽぽが1株立っています。

1本には 黄色い花
1本には 白い種。

花は摘んで胸に挿し
種は息で吹いてみます。
かるくかるく
空に消える種。

──兄さんも 黙って行きましたね。

目を閉じて吹いてみるたんぽぽの笛
兄さんの顔 はっきりと浮かびます。

飛び立った種は
春になれば広い野原に
また咲くでしょう。
兄さん、その時は
わたしたちも会えるでしょう。

(1952年の詩だそうです。「種」と直訳しましたが、見えるのは白いわたげです。こういうことも翻訳がむつかしいところです。)

第4回 詩人 尹東柱とともに(立教)

2011年2月20日(日)午後2時〜
立教大学チャペル

講演・尹仁石教授(韓国・成均館大学、尹東柱の甥)

主催・詩人尹東柱を記念する立教の会

詳しくは次をご覧ください。

http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/2011YuntotomoniTokyo.pdf

尹東柱「風が吹いて」

風が吹いて

風がどこから吹いてきて
どこへ吹かれていくのか。

風が吹いているが
わたしの苦しみには理由がない。

わたしの苦しみには理由がないのか。

ただひとりの女を愛したこともない。
時代を悲しんだこともない。

風がしきりに吹いているが
わたしの足は岩の上に立っている。

川の水が絶え間なく流れているが
わたしの足は丘の上に立っている。

1941.6.2

尹東柱「恐ろしい時間」

恐ろしい時間

そこ、わたしを呼ぶのはだれですか。

枯れ葉、その葉が青くなって出てくる陰ですが、
わたしはまだここに息が残っています。

一度も手を挙げてみたことがないわたしを
手を挙げて示す天もないわたしを

どこにわたしの身を置く天があって
わたしを呼ぶのですか。

事が終わってわたしが死ぬ日の朝には
悲しくもない枯れ葉が散るでしょうが……

わたしを呼ばないでください。

1941.2.7

(1941年、延禧専門学校の時代、尹東柱は信仰的決意をしたように思えます。この詩はそれに至る重要な過程を示すもので、召命に対する恐怖をあらわしているようです。
「青くなって出てくる陰」は直訳に近いもので、「青々とよみがえってくる陰」くらいにしたほうがわかりやすく日本語としても落ち着くかと思うのですが、そこまでいくと度を超えた意訳になりそうなので、今はこうしておきます。)

尹東柱「マンドリ」

マンドリ

マンドリが学校から帰ってきて
電信柱のあるところで
石ころ五つをひらいました。

電信柱をねらって
1番目の石を投げました。
──コーン──
2番目を投げました。
──はずれ──
3番目を投げました。
──コーン──
4番目を投げました。
──はずれ──
5番目を投げました。
──コーン──

5個に3個……
それくらいなら大丈夫。
あしたの試験、
5問で3問できたら──
指折りして数えてみても
そのまま60点だ。
気にすることあるか、ボール蹴りに行こう。

次の日マンドリは
身じろぎもできず先生に
白紙を出したでしょうか
そうでなければほんとうに
60点を取ったでしょうか。

1937.3月(推定)

(尹東柱の面白い詩を見つけたので訳してみました。コンクリートの電柱なら「カーン」ですが、当時は木だったと思うので「コーン」としました。)

尹東柱の利用した鉄道

今日(2月16日)は詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の逝去65周年記念の日。

尹東柱は1938年、ソウル(当時、京城)の延禧(ヨンヒ)専門学校に入りました。
その1938年(昭和13年)2月の列車時刻表を見ていたら、彼が故郷に帰る際に乗ったと思われる汽車を発見しました。

遠距離であるにもかかわらず、乗り換えなしの1本で故郷に帰れます。ただし1日1本。

午後3時50分京城(現、ソウル)発、食堂つき寝台列車507号。

東海岸の元山(ウォンサン)に午後8時39分着。

寒いとき、夜は車掌に頼んで1枚30銭の毛布を借ります。
枕を借りたい場合も別に30銭払います。

翌朝、東北の海岸都市である清津(チョンジン)の近く、輸城(ユソン)に午前7時25分到着。

そこから北上します。
上三峰(サンサムボン。当時は「かみさんぼう」)に10時19分到着。
「満州国」へと国境を越えることになるのでここで税関の検査。

午後12時37分に龍井(ヨンジョン)到着。

龍井駅は電報と赤帽が利用できますが、駅弁はありません。

以上は『日本鉄道旅行地図帳 朝鮮・台湾』『日本鉄道旅行地図帳 満州・樺太』『満州朝鮮復刻時刻表』(いずれも新潮社)によったものです。

尹東柱 詩碑 献花式2009


下記のとおり尹東柱 詩碑献花式が行われます。どなたでもご参加ください。

日時・2009年2月14日(土)午後2時から
場所・同志社大学 今出川キャンパス 詩碑前


  詩の朗読、祈祷、献花等

  同志社校友会コリアクラブ・尹東柱を偲ぶ会
   会長  朴春玉
   事務局 朴煕均

今年は講演等はなく、来年の詩碑建立15周年に備えます。


尹東柱の残された最後の詩、「春」を私訳でお目にかけます。

 

春が血管の中に小川のように流れ
さら、さら、小川の近くの丘に
れんぎょう、つつじ、黄色ーい白菜の花、

長い冬を耐えてきたわたしは
草のように萌え出る。

楽しいひばりよ
どの畝(うね)からでも楽しく舞い上がれ

青ーい空(天)は
ゆら、ゆら、と高いのだが……

(1942.6 推定)

尹東柱の詩と信仰──立教時代に書かれた詩を中心に(4)


4. 「草のように萌え出る」(春)

「悲しむ人はさいわいである」
          八福──マタイ福音書5章3〜12 1940.12

 「八福」という詩があります。八つの幸福。マタイ福音書第5章、イエスの山上の説教冒頭。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まって、「幸い」が8回繰り返されます。それで「八福」なのですが、尹東柱はこれを全部二つ目の幸い、「悲しむ人は、さいわいである」にしてしまいます。八つはすべて「悲しむ人」にまとめられるのです。

 そして「八福」の最後は

 「私たちは(あるいは、彼らは)永遠に悲しむであろう。」
 もしこの世界に悲しむ人が一人でもいるなら、自分もそのために悲しむ。この世界に悲しみが終らない限りは、自分の悲しみも終らない。

 この悲しみはイエスに通じます。

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」旧約聖書・イザヤ書53:3(口語訳)

 それから約半年後、彼は「十字架」と題する詩を書きました。

「追いかけてきた日の光が
いま 教会堂の尖端
十字架にかかりました。

尖塔があれほど高いのに
どうして登ってゆけるでしょうか。

鐘の音も聞こえてこず
口笛でも吹きつつ さまよい歩いて、

苦しんだ男、
幸福なイエス・キリストにとって
そうだったように
十字架が許されるのなら

首を垂れ
花のように咲きだす血を
暗くなってゆく空の下に
静かに流しましょう。」1941.5.31

 イエスに従って十字架を負い、血を流す静かな決意があります。

 イエスの最期は次のように記されています。

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者もいた。……しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。』」マタイ27:45‐50

 尹東柱の最期について、福岡刑務所の看守のひとりは次のように語ったと言われます。

 「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました。」
 イエスの最期とあまりにも似ています。

 イエスは天を仰ぎ、尹東柱は天を仰いだ。イエスは悲しみ、尹東柱は悲しんだ。イエスは大声で叫んで絶命し、尹東柱は大声で叫んで絶命した。

 何のためか。訪れる朝(「たやすく書かれた詩」)を待つためです。民族に訪れる新しい朝を待つため、悲しむ人に訪れる新しい朝を待つため、「すべての死んでいくもの」に訪れる復活の朝を待つためです。

 「春」

 立教時代の最後の作品、つまり私たちに残された尹東柱の最後の詩です。

「春が血管の中に小川のように流れ
さら、さら、小川の近くの丘に
れんぎょう、つつじ、黄色ーい白菜の花、

長い冬を耐えてきたわたしは
草のように萌え出る。

楽しいひばりよ
どの畝(うね)からでも楽しく舞い上がれ

青ーい空(天)は
ゆら、ゆら、と高いのだが……」春 1942.6?

 この詩は立教大学の便箋に書かれています。
「青ーい空(天)は
ゆら、ゆら、と高いのだが……」
の彼の自筆の上に百合の立教の紋章があります。
 百合には平和、正義、純粋の象徴とされ、また復活、三位一体の神を意味するとも言われます。
「青ーい空(天)は
ゆら、ゆら、と高いのだが……」

 この詩は後に続きがあったけれども失われたと聞きます。尹東柱は東京から京都に移り、京都で逮捕されて福岡で獄死しました。彼の魂は北間島(プッカンド)の故郷に、そして青い空に、天に帰って行きました。

 地上の制約から自由になった彼は、ふたたびここに立ち、待っているのではないでしょうか。

「──ああ 若さは長くそこに残っていてくれ。」

 情熱、想像力、精神を持ってこの時代の課題と真実に向き合うように、尹東柱は私たちに呼びかけています。

 私には、立教大学の百合の紋章が剣(つるぎ)に見えます。闇を暴く剣です。尹東柱を、純粋な魂を踏みにじり殺した闇をふたたび許さず、真実と平和を実現するためにしっかりと立つ。それが、今日、尹東柱を記念する意味だと思います。

(<詩人尹東柱とともに> 2008/02/16 立教学院諸聖徒礼拝堂)

尹東柱の詩と信仰──立教時代に書かれた詩を中心に(3)

3. 「六畳の部屋はひとの国」(たやすく書かれた詩)

「窓の外には 夜の雨がささやいて
六畳の部屋は ひとの国。

詩人というのは悲しい天命であると知りつつも
1行の詩を書いてみるか。

汗のにおいと愛のにおいの ふくよかに漂う
送ってくださった学費封筒を受け取って

大学ノートを脇に抱えて
老いた教授の講義を聞きにいく。
考えてみれば 幼いときの友らを
ひとり、ふたり、みな 失ってしまい

わたしは何を願って
わたしはただ、ひとり沈むのか。

人生は生きがたいというのに
詩がこのようにたやすく書かれるのは
恥ずかしいことだ。

六畳の部屋は ひとの国。
窓の外に夜の雨がささやいているが、
灯火をともして 闇を少し追いやり
時代のように来る朝を待つ 最後のわたし、

わたしは わたしに 小さな手を差し出して
涙と慰めで握る最初の握手。」たやすく書かれた詩 1942.6.3

 立教大学で過ごす学生、尹東柱の姿をここにはっきり見出すことができます。

「六畳の部屋」は東京の彼の下宿でしょう。しかしこれはただ故郷を離れた青年の孤独を歌ったものではありません。自らの名前、歴史、文化、精神を葬ることしなければ生きること自体を許さない日本という国を、「ひと(他人)の国」と感じ、認識した言葉です。「ひとの国」日本は、異なるものを同化するか、それとも「よそもの」として排除するか、その二つしか知りませんでした。

 彼は詩の終わり近くで次のように言います。

「灯火をともして 闇を少し追いやり
時代のように来る朝を待つ 最後のわたし、」
 彼はすでに死を予感し、覚悟していました。この詩から1年と少しで彼は逮捕され、そして1945年2月16日、福岡刑務所の独房で獄死しました。

 ところで昨年11月20日から日本に入国、再入国する外国人に、指紋採取と顔写真撮影が義務づけられました。旧植民地出身者とその子孫である「特別永住者」などは除かれているが、しかし日本での永住許可を得た「一般永住者」である外国人にはこれが適用されています。

 具体的に言えば、たとえば私の高校時代の同級生の韓国人はこの義務を負わない。しかし20年来の韓国の友人は日本に来るたびに指紋と顔写真を取られる。今、一緒に本の編集をしている在日の牧師、研究者も、大韓聖公会から来て日本聖公会の中で働いておられる何人もの宣教師(宣教協働者)とその家族も、韓国を往復するたびに、あるいは他の国に出かけるたびに、これを強制されるのです。

 果たしてほんとうに「テロの未然防止に役立つ」のでしょうか。「テロ対策」と称して他国に対して大規模に軍隊を送り込み、罪のないおびただしい人々の血を流させている国、それを支援している日本。こちらこそ巨大なテロ行為ではないのでしょうか。

 日本で働いているある韓国人司祭はアメリカで講演することが決まっていたのに、指紋と顔写真を取られることを拒み、これをキャンセルしました。彼は私にこう言いました。「みんなが拒否すべきだとは思わない。でもそういう人がひとりくらいいてもいいのではないか」。彼は、自分の親が亡くなったとき、帰国するかどうか苦しむでしょう。

 日本に来るために尹東柱は、自分の名前を平沼東柱という恥ずかしい名前に変えなければなりませんでした。日本は彼に屈辱を与えました。
 今またこの国がしていることは、六畳部屋の尹東柱に与えたと同じように隣人に苦しみと屈辱を与えることです。

尹東柱の詩と信仰──立教時代に書かれた詩を中心に(2)


2. 「足跡の音」(白い影)

 尹東柱が日本に来て最初に作ったと思われる詩は「白い影」です。

「黄昏が濃くなってゆく街角で
一日中、疲れた耳を静かに傾ければ
夕闇の、移される足跡の音」

 私は奇妙な訳し方をしました。「夕闇の、移される足跡の音」。直訳です。「足跡の音」。

 尹東柱は今、夕闇の東京の街を歩いている。人の足音を聞き、自分の足音を聞いています。けれどもそこに、別の足音が聞こえます。すでにここを通って行っただれかの足跡があることに気づきます。過去のだれかです。その足跡からその人の足音が聞こえる。過去から今の自分に向かって、その足音が聞こえてきます。

 その人の足跡(そくせき)、その人が生きて死んだ人生の道と自分が関わりを持たなければ、キルケゴールの言う「世間の人」になっていく。しかしその足跡から足音が聞こえて、自分の耳と心に響いてくれば、世間の人にはなれず、ある種必然の道を歩むことにならざるを得ない。

 その人とはだれか。歴史上の何人もの人かもしれません。韓国・朝鮮の、中国の、あるいはヨーロッパのある人たちの足跡から足音が聞こえる。そしてその中に、決定的に聞こえるのはイエスの足跡の音です。

「足跡の音を聴くことができるように
私は聡明だったのでしょうか。」

 その足跡からその人の音を聴いてしまった。聴くことができるように聡明にされてしまった。

 すると自分にとって大切だったいろんなものを放棄することになります。大切な人やものと別れていくことになります。

「いま愚かにもすべてのことを悟った次に
長く心の奥深くに
苦しんでいた多くの私を
ひとつ、ふたつ、私のふるさとへ送り返せば
街角の闇の中へ音もなく消えゆく白い影、

白い影たち
ずっと愛していた白い影たち、

私のすべてのものを送り返した後
うつろに裏通りをめぐり
黄昏のように色づく私の部屋へ帰ってくれば

信念の深い堂々たる羊のように
一日中憂いなく草でもはもう」白い影 1942.4.14

 最後の1行は突然の変化です。すでに決意をしたから、大きな存在に守られて安心して堂々としていられる。いま詳しくお話しできませんが、ここには旧約聖書・イザヤ書第65章25節とミカ書第7章14節の草をはむ羊が反映しているのではないか、と私は感じます。
 
 「足跡の音」に関連して、尹東柱のそれまでの詩から「道」に触れているものをいくつか年代順に読んでみます。

 「新しい道」

「川をわたって森へ/峠を越えて村へ
昨日も行き、今日も行く/わたしの道、新しい道
タンポポが咲き、かささぎが飛び/娘が通り、風が起こり
わたしの道はいつも新しい道/今日も……明日も……
川をわたって森へ/峠を越えて村へ」1938.5.10

 「道」

「なくしてしまいました。
何を どこで なくしたのか わからず
両手がポケットをさぐり/道に出て行きます。
石と石と石が 果てしなくつづき/道は石垣に沿って行きます。
垣は鉄の門を固く閉ざし/道の上に長い影を落として
道は朝から夕べへ/夕べから朝へ通じました。
石垣を手探りして 涙ぐみ/見上げると 天は恥ずかしいほど青いのです。
草一本ないこの道を歩くのは/垣の向こうに私が残っているからで、
私が生きるのは、ただ、/なくしたものを見出すためなのです。」1941.9.31

 「序詩」

「死ぬ日まで天を仰ぎ/一点の恥なきことを
木の葉に起こる風にも/わたしは苦しんだ。
星をうたう心で/すべての死んでゆくものを愛さなければ
そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に吹きさらされる。」1941.11.20

 1943年7月14日、尹東柱は京都で、治安維持法違反容疑で捕らえられ、懲役2年の判決を受け、1945年の冬、福岡刑務所で獄死しました。今日2月16日がちょうどその日。63年前です。
 尹東柱は福岡の獄中から故郷の家に『英和対訳新約聖書』を送ってほしいと頼みました。聖書が読みたかったのです。送られてきたその聖書を獄中で読んでいました。英語と日本語対訳の聖書。

 朝鮮語聖書はどうしたのでしょうか。彼がいちばん大事にしていたのは朝鮮語の聖書のはずです。京都の下鴨警察に押収されて読めなくなったのではないでしょうか。聖書で生きている人間にとっては、聖書が読めないことは魂が死に瀕することです。
 彼には聖書が必要でした。けれども朝鮮語の聖書は許されない。それで『英和対訳新約聖書』を求めたのではないかと想像します。
 
 「序詩」の冒頭、「ハヌルル ウロロ」について、「(死ぬ日まで)空を仰いで」と訳すか「天を仰いで」と訳すかという議論があります。詩は、唯一の正しい解釈というのはないと思うので、「ハヌル」は「天」でも「空」でも読み手にまかされていると考えたい。ただこういうことがあります。

「ハヌルル ウロロ」という言葉。これは新約聖書に出て来る言葉です。マルコによる福音書第7章にこう語られています。

「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」マルコ7:32‐35

 「天を仰いで深く息をつき」。ここにはイエスの深いため息があります。人の、何ともならないうめきに触れて、イエス自身がうめく。天を仰いでため息をつく。ため息をつきながら神に訴える。そういう場面です。このイエスの「天を仰いで」が「ハヌルル ウロロ」なのです。尹東柱当時のハングルの聖書も調べてみましたが、やはり「ハヌルル ウロロ」です。これはおそらく偶然の一致ではないでしょう。

 尹東柱は聖書を読んでいました。耳が聞こえず舌の回らないその人とイエスの出会いの物語を知っていたはずです。イエスがその人の悲しみを感じつつ天を仰いだその姿は尹東柱の心に刻まれ、その言葉「ハヌルル ウロロ」は彼の耳に残った。そして彼がやがて「序詩」を作るとき、意識してか意識せずかはともかく、マルコ福音書のあの箇所、あの言葉が彼の中に共鳴していた。そのように私は思うのです。

 「ハヌルル ウロロ」は同じマルコ福音書の今の箇所の前、第6章:41節にも出てきます。

「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。」

 「天を仰ぎ」(ハヌルル ウロロ)によって尹東柱とイエスがつながってきましたので、イエスの生涯の最後の道を新約聖書から引用します。

「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』イエスは言われた。『行って、あの狐に、“今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える”とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。』」ルカによる福音書13:31‐33

「死ぬ日まで天を仰ぎ/一点の恥なきことを
……
星をうたう心で/すべての死んでゆくものを愛さなければ
そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。」

「自分の道を進まねばならない。」ネガ カル キルル カヤハリニ
「わたしに与えられた道を/歩みゆかねば」ネハンテ チュオジン キルル コロガヤゲッタ

 尹東柱の思いとイエスの思いは、尹東柱の決意とイエスの決意は響き合っています。 イエスがエルサレムで死ぬことを覚悟していたように、尹東柱も日本で死ぬことを覚悟していたのでしょうか。日本への道は必然であったように思われます。

尹東柱の詩と信仰──立教時代に書かれた詩を中心に(1)


 2008年2月16日、立教大学諸聖徒礼拝堂で行われた尹東柱記念のつどい<詩人尹東柱とともに>での講演を掲載します。
 詩の訳は私訳です。

1. 「若さは長くそこに」(いとしい追憶)

 今日は、この立教大学で、聖公会の式文による祈りをとおして尹東柱を記念することができ、感謝いたします。

 先ほどの祝辞の中に「彼は自由のための歴史の犠牲になってしまった」という言葉がありました。尹東柱はひとりで勝手に犠牲になった訳ではありません。誰が彼を犠牲にしたのか。日本と日本人が彼を犠牲にしたのです。それを明確にしておかなくてはなりません。控えめに言っても、私たちは彼を守ることができなかった。しかし彼が今、私たちを支え、導いてくれる。この大切な名前を、私たちが自分のために利用することは恥ずかしいことであり、許されないことです。

「春はみな行き──東京郊外のある静かな下宿部屋で、昔の街に残ったわたしを希望と愛のようになつかしむ。

今日も汽車は何度も無意味に通り過ぎ、

今日もわたしはだれかを待って停車場近くの
坂を行ったり来たりするだろう。

──ああ 若さは長くそこに残っていてくれ。」いとしい追憶

 尹東柱は今から66年前の1942年春、海を渡って日本に来ました。東京のここ、立教大学文学部(英文科)で学びました。
 私事ですが、それから40年後の1982年、私はその立教大学文学部(キリスト教学科)助手になり、3年をそこで過ごしました。そのころキリスト教学科と英米文学科は隣でしたからしばしば行き来することがありました。けれどもまだ尹東柱のことはほとんど知りませんでした。

 1986年に韓国に行ったとき、『尹東柱全詩集──空と風と星と詩』(하늘과 바람과 별과 詩)を書店で見つけて購入し、伊吹郷さんの訳書と読み合わせて次第に引き込まれるようになりました。
 私の母校のひとつは同志社大学、京都・今出川キャンパスですので、尹東柱とは立教と同志社と二重の重なりがあります。

 先ほど朗読したのは、彼の残された最後の詩、立教時代の五つの詩の一つ、「いとしい追憶」の最後のところです。

「──ああ 若さは長くそこに残っていてくれ。」

 彼が「若さ」と言ったとき、それは何でしょう。残っていてほしいと彼が願った「若さ」とはどういうものだったのでしょうか。その手がかりを探ってみたいと思います。

 尹東柱はソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校の学生時代の終わり頃、日本に来る直前ですが、デンマークの思想家キルケゴール(1813〜1855)を耽読していたと言われます。キルケゴールの何をどんなふうに読んでいたのか分かりませんが、しかしたとえば次のような言葉を読んでいたのではないか、と想像してみます。キルケゴールの代表作のひとつ『死に至る病』の一節です。

「ところで絶望はただ青年期にのみ固有なものであるというような見当違いに至っては、これは全く絶望的である。……精神に関しては人々は年とともに自ずから何物かを失うということがきわめて容易に起るのである。おそらく人々は年とともに自分のもちあわしていた僅かばかりの熱情・感情・想像力と僅かばかりの内面性を失う、それから人々は無論また自ずから何物かに――すなわち世間人特有の処世術に到達するのである。」(岩波文庫)

 私は今から35年くらい前の学生時代にキルケゴールを読みふけっていたのですが、今の言葉が鮮明に心に響いたのを覚えています。
「年とともに自分のもちあわしていた僅かばかりの熱情・感情・想像力と僅かばかりの内面性を失う、それから世間人特有の処世術に到達する」。

 これを尹東柱は望んでいなかった。そんなふうになるなら、彼にとってそれは生きることそのものを失うことであったと思います。

 66年前、1942年の5月、尹東柱は東京のある駅の近くの坂道を行ったり来たりしていました。故郷を、過去の自分を思い出して懐かしみながら、今を生きています。だれかを待っています。だれかが汽車を降りてくるのを待っています。でも待っているそのだれかは降りてこない。

「今日も汽車は何度も無意味に通り過ぎ、」

 でも毎日毎日待っています。当てはないけれど、停車場の近くの坂を行ったり来たりしながら待っています。
 
 それから66年経って、彼は今も待っているのではないでしょうか。

「──ああ 若さは長くそこに残っていてくれ。」

 彼が長くそこに残っていてほしいと願った若さは、ここに残っているだろうか。私たちの中に残っているでしょうか。たとえ絶望を繰り返すことがあったとしても、熱情・感情・想像力と内面性、精神を、失わずにいたいと願います。

 尹東柱は幼い頃からキリスト教信仰を持って成長しました。1917年12月30日に生まれた彼は、まもなく幼児洗礼を受け、幼い頃から家族とともに明東(ミョンドン)教会に通いました。延禧専門学校時代は、故郷の龍井(ヨンジョン)北部教会の夏期聖書学校で教師をしました。ソウルでは協成教会に通い、英語聖書班に参加していました。

 もうふたつキルケゴールの『死に至る病』から引用します。

「キリスト教的なるものが口にされはしたが、それが、人々の多くはそれを聞いても結局何も考えないような仕方で口にされたという点に不幸が存するのである。」
「信ずるというのは実に神を獲得するために、正気を失うことにほかならない。」

 尹東柱は学生時代に信仰について懐疑を抱いたと言われます。これは消極的なことではなく、自分が生きて死ぬこととキリスト教信仰がどう関係するのかをめぐって苦闘した、ということではないでしょうか。

 「それを聞いても結局何も考えないような仕方」ではなく、生き死に関わることとして苦しみ求めて聖書を読み、またキルケゴールを読みふけった。そのように思うのです。

 尹東柱はキルケゴールをとおして、自分が、人生が、根本的に問われる経験をしたでしょう。厳しい道を行くか楽な道を選ぶか。それが日本渡航に深く関わっていたのではないかという気がするのです。


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