Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

聖書案内

マルコによる福音書 「イエスの肉声を聞く」(講演全文)

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奈良基督教会 第2回公開聖書講座
2016年7月16日

マルコ福音書 「イエスの肉声を聞く」 (全文)

新約聖書27巻の中で、イエス・キリストの生涯を伝えてくれているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書です。その中で今回取り上げる「マルコによる福音書」は、一番早く書かれた福音書とされています。また分量は一番短いです。新共同訳聖書の頁数で数えると、前回のマタイが60頁であったのに対して、マルコは38頁で、マタイの63パーセント程度です。

内容からすれば、他の福音書と違ってイエスの降誕物語がありません。イエスの公の活動の直前から始まります。またマルコ福音書のギリシア語写本の古いとされるものには、復活のイエスは直接姿を現しません。

けれどもマルコ福音書にはひとつの重要な特徴があります。それは、イエスが実際に話していたとされるアラム語の言葉が四つ(四箇所)含まれていることです。新約聖書はギリシア語で書かれました。マルコ福音書もそうなのですが、その中にイエスの口から発せられたアラム語が響いている箇所がある。今回はそこにも注目してみたいと思います。

私は聖書のどの書物も愛しますし、あらゆるところから神さまからの命の言葉を聞きたいと願っています。けれどももっとも直(じか)に、あるいは間近にイエスとその周りの人々を、その場面を感じたくなったときは、マルコ福音書を開きます。たとえば、イエスが5000人(男性のみ数えて)の人々にパンと魚を提供する話は四つの福音書のいずれにも出てきます。イエスが群衆をそこに座らせるという場面があります。

マルコ6:39「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。」

ルカとヨハネは「草」には言及せず、マタイはただ「草」とだけ書いてあります。けれどもマルコだけは「青草」と書いてあります。「青草」の上に人々は腰を下ろす。「青草」というこの一つの言葉で、より具体的にありありとその光景が浮かんでくる気がするのです。
……

マタイによる福音書〜 「インマヌエル」(講演全文)

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奈良基督教会 第1回公開聖書講座
2016年5月21日
マタイによる福音書〜「インマヌエル」の原稿です。

本文→マタイによる福音書〜 「インマヌエル」

キリスト教の正典とされている新約聖書は全部で27巻の書物からなります。そのうちの最初の6巻(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒言行録、ローマの信徒への手紙)を、一つずつ、およそ1年をかけてお話ししようというのがこのたびの企画です。

多くの場合こういう講座というのは、各書物の成立、構成、著者と最初の読者、特徴、思想などを、あるまとまった仕方で述べていくものだと思うのですが、今回私が話したいのはそういうものではありません。少々バランスを欠いたとしても、この書物の特徴はこうだ、と私なりに大胆に把握してお話しすることにします。

イエス・キリストの生涯を伝えてくれているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書です。その最初に置かれた「マタイによる福音書」を、私は「インマヌエルの福音書」と呼びたいと思います。福音書の最初と最後に「神はわたしたちと共におられる(インマヌエル)」「わたしはあなたがたと共にいる」という言葉があり、その約束がこの福音書全体を包んでいる、と思えるからです。──これがすでに結論です。
……

奈良基督教会 第1回公開聖書講座

公開聖書講座チラシ最終
奈良基督教会 連続公開聖書講座



第1回 マタイによる福音書
「インマヌエル(神はわたしたちとともにおられる)」
2016年5月21日(土)13:30



ガラテヤの信徒への手紙

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自由を得るために──「ガラテヤの信徒への手紙」
京都聖三一教会、奈良基督教会での講話のあらましです。

【聖書各書】ルカによる福音書──祈られるイエス

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すでに掲載していますが
http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/50797774.html

PDFにしました。

ルカによる福音書──祈られるイエス

命の水の川──「ヨハネの黙示録」

「ヨハネの黙示録」はローマのドミティアヌス帝の治世(紀元81〜96)に記されたと考えられる。ローマ皇帝礼拝の強制を含む迫害に苦しめられていた信徒を励ますために本書は記された。迫害下の秘密文書的性格を持つため、ところどころに比喩やなぞが含まれている。

1. 1:9「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」

 長老ヨハネはその信仰と宣教の働きのため捕らえられ、地中海のパトモス島に幽閉されていた。

2. 4:1‐2「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。』わたしは、たちまち"霊"に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。」

 ヨハネは神の霊に満たされて天上に引き上げられ、天上の礼拝を目撃する。

3. 4:11「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。」

Dominus et Deus noster(主にしてわたしたちの神)はドミティアヌス帝の称号。同じ言葉を用いつつ、主なる神こそがそれであることを明確に表明する。ローマ帝国の悪しき支配への抵抗。

4.6:9「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。」

 信仰の証しのゆえに苦難を受け、殺された人びとを、神は祭壇の下に守り顧みておられる。

5.12:7‐9「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。……この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。」

 黙示録は壮大な幻のうちに、悪の勢力が敗北し、神の愛と正義と平和が勝利することを告げる。

6.21:26「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。」

 わたしたちもまた、自分の労苦とその実りを携えて神のもとに集まる。人類と人生の目標。

7. 22:1‐2 「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」

 これがわたしたちに約束され、用意されている安息の地。わたしたちはそこで神から永遠のいのちを受け、すべてが癒される。


たとえ何がどうあろうと、神がわたしたちを永遠の祝福の地に迎えてくださることを思い、悪しき力や不安に圧倒されず、希望を抱いてこの世を生き抜きたい。

  (2010/09/12 京都聖三一教会「聖書の会」)

聖霊の導きの下に──「ユダの手紙」

「ヤコブの兄弟」(1)という言葉から、ユダは主イエスの兄弟(マルコ6:3)とも言われるが確実ではない。執筆の動機は、教会にある影響力を持った人たちが入り込んで信徒の信仰と生活を混乱させている現実を見かねてのことである。旧約聖書外典偽典からの引用が多い。2世紀初めの頃に書かれたものか。

1. 1 「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ」

 宛先の人びとは、このように「愛され」「守られ」「召された」人たち、と三重の動詞で呼ばれている。逆に言えばそれだけ事態が危うかったのではないだろうか。

2. 2 「憐れみと平和と愛が」
 これも三重である。

3. 3 「愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。」

 「愛する人たち」という呼びかけは17、20節にも出る。
救いは「共にあずかる」もの。個人のもの、ほかでもないわたしのものでありつつ、一緒に受け、共有してこそ命が溢れるものとなる。そのことを書き送りたいと著者は切望している。

4. 3 「あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。」

 福音の真理と信仰の生活、教会の秩序が乱されるとき、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦う」必要が起こる場合がある。著者は今がその緊急事態であると感じて訴えている。

5. 20‐21 「聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」

 この呼びかけを大切に心にとめ、実行したい。ここに三位一体の神の働きが語られている。

6. 24‐25 「……わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」

 大きな頌栄、賛美。「アーメン」で綴じられる文書は少ない(ペトロ第二)。アーメンは「真実」の意味。「アーメン(真実)の神」イザヤ65:16。

放置できないほどの福音の歪曲、混乱、秩序破壊、不道徳がユダの見ていた教会の現実にあった。信徒を愛し、その信仰と生活を憂える著者のまごころと情熱にふれたい。

(2010/07/11)

旧約聖書続編・バルク書について (2)

BC628 エレミヤの召命
  622 ヨシヤ王、宗教改革を始める
  597 バビロニア、エルサレムを占領(第1回捕囚)
  593 エゼキエルの召命
  587 バビロニア、エルサレムを破壊、ユダ王国滅亡(第2回捕囚)
  538 ペルシアのクロス王、捕囚の民の帰還および神殿再建を許可

1. 「読んで聞かせた」1:3 「朗読しなさい」1:14

聖書の朗読
  朗読者は自分が意味を受けとめつつ、人にしっかり届けていく。

→ 祈り、嘆きが起こり、また行動が起こった。(イエスの聖書朗読はルカ4:16)

「人々は涙を流し、断食をして主に祈った。また、おのおのの分に応じて金を集め、それを……エルサレムに送った。」1:5‐7

(それは、敗戦、エルサレムの破壊、捕囚という悲劇の歴史の中で起こった出来事。)

・私たちの礼拝も、聖書の言葉によって心が動かされ、行動へと促されるものでありたい。
・個人のこと、身近なことを祈ると共に、私たちが生きている社会、歴史の痛みの中で礼拝をささげたい。

・クランマーの「儀式について」(1549年)
 聖公会の初期。最初の祈祷書編集の基本姿勢

「モーセの律法とは違って、キリストの福音は儀式的な律法ではない。われわれは、表象やかげにしばられてではなく、自由な霊による神礼拝である儀式、礼儀正しい秩序と敬虔な規律を維持する儀式、あるいは人に教えるための顕著で特別な表示によって神への義務を人間の暗い心に思い起こさせるような儀式に満足すべきである。」

 クランマーは、従来の儀式(礼拝の仕方)を一切変えても減らしてもならないとする保守派、反対にすべての儀式をなくそうとする急進派の両方に対して、このように自分の考えを述べた。

「自由な霊による神礼拝である儀式」これが今日でも大切だと思う。
「自由の霊」詩編51:14

2. 罪の告白──民族の罪 1:13、14‐2:10

嘆きの告白と人々への呼びかけ

「主がわたしたちの先祖をエジプトの地から導き出された日から今日に至るまで、わたしたちは神なる主に背き、主を軽んじて、御声に耳を貸しませんでした。」1:19

3. 目の輝き 1:12

「そうすれば、主はわたしたちに力を授け、わたしたちの目に輝きを与えてくださり」

告白と嘆きの祈りの中で主から赦しを受け、目の輝きを取り戻す。

(旧約聖書続編・バルク書を読む会 2010/04/15)

御子が現れるとき──「ヨハネの手紙 一」

新約聖書にはヨハネの名で呼ばれる文書が五つある。この手紙は、思想や用語(光、命、愛など)の点でヨハネ福音書と共通するところが多い。紀元100年前後に書かれたとされる。

1. 1:1‐2「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。」

 命の言葉、すなわちイエス・キリストに出会い、直接経験した者として、著者は語る。単なる想像ではない、確かな、証言せずにはおれない事柄。

2. 1: 1:7‐9「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。……自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
 罪の赦しと清め──これをわたしたちはイエス・キリストの流された尊い血によって受ける。

3. 3:2‐3「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

 わたしたちには、イエスさまと顔と顔とを合せて出会う将来が待っている。すでに神の子とされているわたしたちは、そのとき決定的に神の子らしくされる。その日に備え、その日を目指してわたしたちは歩む。

4. 3:5、8「御子は罪を除くために現れました。」「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」

 洗礼者ヨハネがイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言った(ヨハネ1:29)ことを想起させる。人の魂とこの世界全体から悪を除き、祝福で満たすために御子は来られた。

5.4:1‐2「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

 大きな影響を及ぼす力の働きはさまざまにある。しかし奇跡を起こすからといってそれが神から来ているとは限らない。見分け、聞き分ける知恵と感覚が必要である。

6. 4:9「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

 神の願いは「わたしたちが生きるようになる」こと。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」ヨハネ14:19

「神は愛なり」はこの書簡4:16の言葉。クリスマスにおいてひとたびおいでになった神の子は、再びおいでになる。この世全体をおおっている悪い者(5:19)に屈せず、神の子を信じ、真実の神であるキリストの内に生きたい(5:20)。              
(2010/04/11)

義の宿る新しい天と地を──「ペトロの手紙2」

 この手紙はペトロの手紙1の続編とされる。ペテロの名を用いてもっと後の人が書いた可能性が高いと言われているが、主イエスの山上の変容貌の目撃が記されていることは印象的(2:16‐18)。

1. 1:1「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」

 わたしたちは「尊い信仰を受けた」。「籤で受ける」(ランカノー)という語が用いられている(籤によって使徒が一人補充された。使徒言行録2:26)。信仰は自分の努力によって獲得したのではなく、神から恵みとして与えられた(授かった)。イエス・キリストの義(正しい働き、救いの業)なくしてはそれはありえなかった。

2. 1:2「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 恵みと平和は、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」現実になる。「イエス・キリストを知る(認識する)」ことをこの書簡は特に強調している(1:3、1:8、2:20など)。信仰は「自分で思い込む」ことではなく「相手(キリスト)を知らされて知る」こと。

3. 1:17‐18「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」

 主イエスの変容(マタイ17:1‐8、マルコ9:2‐8)を自身の目撃として記している。「天から響いてくる」声をわたしたちも聞きたい。

4. 1:19「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」

 「明けの明星」とはキリストのこと(ヨハネ黙示録22:16)。「預言の言葉」は、救い主を指し示す旧約聖書の言葉。

5.3:13‐14「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」

 正義と平和が損なわれている世界にわたしたちは生きている。しかしそれで諦めたり屈したりするのではなく、イエス・キリストの到来(再臨)と共に実現する新しい天と地を切望し、それに向かってわたしたちは生きる。

 困難と誘惑に満ちたこの世界において確かに生きるため、救い主イエス・キリストの恵みをもっと受けること、もっとこの方を知ること──この点においてわたしたちは成長したい(3:18)。それがわたしたちと世界の幸福である。

(2009/10/11)

神の力強い御手の下(もと)で──「ペトロの手紙1」


この手紙は主イエスの十二弟子のひとり、ペテロが書いたと伝えられてきた。パウロの同労者シルワノ(シラス)が記したとの説もある。イエスの弟子として従い、大きな過ちも犯し、しかし福音宣教と最初の教会の形成のために労苦したペテロからの呼びかけとして聞くことは意味がある。

1. 1:1「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」

 わたしたちは神の計画と目的のために「選ばれた」者である。「選び」というのは排他的特権的優越者、支配者というのではなく、神がわたしを招いてくださったことの不思議さと、与えられた命と使命のかけがえのなさを表現する言葉である。

2. 1:2「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」

 ここに三位一体の神の働きが記されている。
 あなたがたは選ばれた。それは、(1)父なる神の計画による。その目的は、(2)霊によって聖なる者とされること、と、(3)イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくこと。

3. 1:3‐4「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

 手紙の本文は神への賛美で始まる。続いて神がわたしたちのためにしてくださったことが明示される。ここには洗礼の感動と喜びの反響がある。

4. 3:15「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」

 心でキリストを賛美することと、信仰内容と与えられている希望について説明できるように備えておくように勧められている。

5. 3:19「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 使徒信経の「(主イエス・キリストは)陰府(よみ)に降り」の根拠となる重要な箇所。神に服従せず、滅びたと思われる人々のところへとキリストは行かれる。それは天の救いに引き上げるため。

6. 5:6‐7「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

 労苦、孤立、迫害、困難の中にあっても、神の力強い御手がわたしたちを保っていてくださることを信じ、忍耐して歩み、神の約束(5:10)をはっきりと心にとめていたい。

(京都聖三一教会 聖書の会 2009/09/13)

御言葉を行う人に──「ヤコブの手紙」


この手紙は伝統的に「主の兄弟ヤコブ」が書いたものとされてきたが、現在ではそれより後の人が1世紀の終わりから2世紀初めころに書いたのではないかと推定されている。しかし主イエスの兄弟ヤコブの信仰的情熱と実践の精神を伝えるものとして読みたい。

1. 1:12「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」

 ヤコブは、試練にさらされている人々に語りかけている。「試練」(ペイラスモス)はイエスが遭われ、また祈られたもの(「誘惑」と同じ)。マタイ6:13、マルコ1:13。

2. 1:21‐22「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。」

 イエスの言葉(マタイ7:24)と通じる。

3. 2:1「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」

 ヤコブは具体的な場面を指摘して、貧しい人々を受け入れ、また支えるように求める。

4. 2:26「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」

 信仰は心と体と生活を貫いて生きた現実になるはずのものである。神と隣人のために良いことを考え、良いことを実行しよう。

5. 3:2「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」 3:6「舌は火です。舌は『不義の世界』です。」

 厳しい指摘。しかしこれは態度を曖昧にして責任回避をすることを勧めているのではない。5:12「あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい。」

6. 5:7「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」

主イエスご自身がわたしたちのために忍耐してくださった(ヘブライ12:3)。

7. 5:13‐14「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」

 塗油(祈祷書335頁)の根拠となっている大切な箇所。

 ヤコブは、人々のためにひざを屈して不断に祈り、そのためひざはらくだのひざのように固くなっていたという。彼は紀元62年、ファリサイ派の人たちによりエルサレム神殿の尖塔からキドロンの谷に投げ落とされ、棍棒で打ち殺されたが、その時彼は「彼らの罪を赦してください」と祈りつつ永眠した、と伝えられる。その信仰と実践に学びたい。

2009/07/12

キリストは大祭司──「ヘブライ人への手紙」


 90年代前半、ローマ皇帝ドミティアヌス統治下の迫害の時代、ローマの信徒たちを励ますために書かれたと言われる。「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」(2:8)と著者は嘆きつつ、苦しみを受けて死なれたイエスを見つめている(2:8‐9)。

1. 1:1‐2「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」

 神は、ご自身の独り子イエス・キリストによって決定的にわたしたちに語りかけられた。神はわたしたちを救おうと切望し、この方においてわたしたちに呼びかけ、行動された。

2. 5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」

 キリストが苦しまれるのはわたしたちのゆえ(理由)、またわたしたちのため(目的)である。

3. 6:10「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」

 神は、神のためのわたしたちの愛と労苦をしっかり記憶していてくださる。

4. 9:24「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」

 わたしたちのために祈り、わたしたちのことを引き受けて神の前に出て、神とわたしたちを結びつけてくださる大祭司イエス・キリストを知りたい。

「また、二個のラピス・ラズリを取り、その上にイスラエルの子らの名を彫りつける。……この二個の石をエフォドの両肩ひもに付け、イスラエルの子らのための記念の石とする。アロンは彼らの名を記念として両肩に付け、主の御前に立つ。」出エジプト記28:9、12

5. 「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。……しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」10:32、39

6. 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」12:3‐4

7. 13:20「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、……」

復活節第4主日特祷、復活日の「祝福前の言葉」はここから来ている(祈祷書185、220頁)。

 この書簡は、福音(神の恵みの言葉)と勧告(信仰的生き方の求め)が交互に織りなされるように書かれている。イエス・キリストを知ることが、今とこれからを生きるわたしたちに方向と励ましと決意を与える。

(2009/05/10)

愛に訴えて──「フィレモンへの手紙」


この手紙はパウロ書簡の中でもっとも短い。極めて個人的な内容のものであるが、同時に公的な意味も持っている。フィレモンはパウロの導きによって信徒となった人。手紙の中に出てくるオネシモはフィレモンのもとから逃亡した奴隷。オネシモは獄中のパウロによって回心し(10)、キリストを信じる者となった。

1. 1:1‐2「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」

 パウロはキリスト・イエスに捕らえられた者であり、今は獄に捕らわれている。フィレモンは自分の家を教会として提供している、パウロにとって大切な「愛する協力者」。

2. 1:7「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。」。

 「心」は「スプランクナ」という言葉が使われている(12、20も同じ)。これは元々「内蔵」「はらわた」の意味である。心が燃える、はらわたが焼ける、といった深く強い思いが動いている

3. 1:8-10「わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。」

 ここから手紙の目的を記す。理性と心と祈りを尽してパウロはこの手紙を書いている。絶対にこれをフィレモンに受け入れてもらわなければならない。一種の賭がここにはある。オネシモはコロサイ4:9に「忠実な愛する兄弟」として言及されている。

4. 1:17「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」

 これが手紙の目的。オネシモを迎え入れることはパウロを迎え入れることであり、オネシモを拒否することはパウロを拒否することである、という強い訴えをしている。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタイ10:40。またヨハネ13:20も参照)というイエスの言葉が反響している。

5. 1:19‐22「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。……キリストによって、わたしの心を元気づけてください。あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。……わたしのため宿泊の用意を頼みます。」

 ものすごい説得。愛に訴える脅迫的なまでの促し。

 このパウロの要請によってフィレモンが逃亡奴隷オネシモを自分の兄弟として受け入れたとすれば、フィレモン自身のキリスト者としての変革が起こったのである。神の国がそこに実現している。

(2009/02/22)

御自分の憐れみによって──「テトスへの手紙」


テトスもテモテ同様パウロの同労者。パウロからクレタの教会の責任を委ねられた(主教・監督にあたると思われる)。「侮られてはならない」(2:15)と言われているので、若かったのかもしれない。

1. 1:1「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。」

 神が使徒を選んで派遣し、また聖職を任命して派遣されるのは、「人々の信仰」と「真理の認識」のため、「宣教」(1:3)のためである。ここに目的と使命があることをパウロ自身が自分とテトスのために確認している。

2. 1:4「信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。」

 「恵み」(カリス)は、人間の力や業績、立派さによらず神から祝福として注がれ、与えられるもの。2:11‐12、3:7、16にも出て来ることに注目しよう。福音の中心、信仰生活の土台は人間のがわにではなく、神の恵みのわざ(出来事)にある。

3. 1:10「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。」

 パウロが経験してきた、またテトスが直面している教会の大きな困難がこれ。大きくは異端の運動のこととも考えられる。教会を真の信仰共同体として保ち、形成するために、パウロはテトスに「長老たち(指導者。狭義には牧師・司祭)を立てる」ことをゆだねた(1:5)。

4. 2:11「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」

 神の恵みは変化のない「状態」のようなものではなく、出来事として現れる生きた働き。主イエスの降誕がそれであり、また十字架、復活の出来事がそれである。

5. 3:4‐6「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」

 神の恵みのわざは、洗礼(「洗い」)という具体的な行為(礼拝儀式)をとおして現実となる。聖霊は一方で教会や制度、場所などに制約されず自由に働く(ヨハネ3:8)が、他方、洗礼という具体的な出来事をとおしても人々に注がれる。


 この手紙は「恵みがあなたがた一同と共にあるように」(3:15)という祈りで閉じられる。手紙の文は閉じられるが、神の恵みは生きて働き続ける。

(2008/11/9 聖書の会レジュメ) 

力と愛と思慮分別の霊──「テモテへの手紙2」

テモテはパウロの同労者。パウロは今、囚われの中にあり、殉教を覚悟しつつ、「愛する子」(1:2)、愛弟子であるテモテにこの手紙を書き送る。

1. 1:3‐4「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。」

 パウロはテモテのために祈っている。パウロはテモテの涙を覚えている。それはテモテの信仰の真実、まごころからの愛の現れとしてパウロの心に刻まれたものであった。

2. 1:6‐7「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」

 これは聖職按手にあたるが、同時に信徒按手(堅信)にもつながる。手を置いて祈られることによってわたしたちは聖霊を受けた(受ける)。それはイエスに注がれ、イエスをとおして働かれた神の霊である。

3. 1:14「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」

 わたしたちには神から良いものがゆだねられている。それを見出し、確かめ、大切に守るべきである。聖霊はわたしたちのうちに宿り、わたしたちが自分で守れない、守ろうとしない大切なものを守ろうとされる。

4. 2:9「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 神の言葉はそれ自身が命を持っていてみずから働く。ヒトラーのナチズム(全体主義)に抵抗する告白教会の指導者として逮捕・投獄されたマルチン・ニーメラー牧師は、この言葉を自分の拠り所としていた。

5. 4:17‐18「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」

 「獅子の口」という言葉から、パウロがどんなに非難、嘲笑を浴び、暴力と迫害に苦しんできたかが窺われる。しかし神は彼を守って来られた。

 この書簡は人間の悪の現実について実に辛辣に表現している(2:26、3:8ほか)。しかしその悪を超えて神の霊が働いてくださるから、福音の宣教に励むべきことを呼びかけている(4:2)。

(京都聖三一教会 聖書の会 2008/10/12)

自分自身と人々を救う──「テモテへの手紙1」

 テモテへの二通の手紙とテトスへの手紙とは「牧会書簡」と呼ばれている。教会が直面する問題と取り組みながら、牧会者の務めを全うするように助言・指導を与えるために書かれた手紙である。

 伝統的にはパウロが書いたものとされてきた。テモテはパウロの同労者で、使徒言行録19:22、?コリント4:17‐、?テサロニケ3:5‐に言及されている。

 彼は後にエフェの監督(主教)として殉教したと伝えられる。

 この書簡中、女性についての指示(特に2:12‐)は時代的制約の中で記されたものでこのまま信仰の規範として従うべきものではない。

1. 1:15‐16「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

 パウロの告白として受けとめたい。罪なき者を迫害し、死に追いやったことを自覚したとき、自分はまったく負の存在であり、生きる資格のない者、生きてはいけない者と思うしかなかった。しかしキリスト・イエスが彼を憐れみ、生きる意味と力と使命を与えられた。

2. 4:12‐16「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。……自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」

 伝道者、牧会者にとって、自分の働きと同時に自分自身のあり方は重く深い課題である。すでに「救われてしまった者」ということはあり得ず(そんなことがあればそれは堕落)、人と自分とが一緒に救われなければならない者である。

3.6:11‐12「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」

 信仰は、平和を与えられることであるとともに、悪の力との戦いに召されることでもある。1:18、4:10にも言及がある。信仰の告白(表明=あらわすこと)は、?神に対して、?自分に対して、?世界に対して、なされる。

 この書簡には、語りながらいつのまにか祈っている箇所が複数ある。
1:17「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」 3:16、6:16

 私たちの思い、言葉、働き、生活が、それが祈りと無縁ではなく、祈りからこそ生まれるものでありたい。「憐れみと祈りの霊」ゼカリヤ12:9
(2008/09/14)

神の愛とキリストの忍耐──「テサロニケの信徒への手紙2」

テサロニケはギリシアの都市。パウロは第2回宣教旅行のときにテサロニケ教会の基礎を築いた。パウロのテサロニケの宛てた第一の手紙に続くもの(異説もある)。地に足をつけた着実な信仰生活をするように促している。

1. 1:2「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 パウロ書簡に共通する冒頭の祈り。「恵み」はca,rij(カリス)。私たちの行いや功績によらない、無条件に注がれる神の愛。これが信仰と生活の土台。その土台の上に信仰と生活がある。「カリスマ」は恵みの賜物。

2. 1:3‐「あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。……あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」

 人々の信仰が成長することがパウロの祈り、また感謝と喜び。それが神さまの私たちへの願い、また喜び。

3. 1:5「あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。」

 神の国の実現のために祈り、労苦する。これがイエスと共に歩むことの内容、意味また喜びである。「この人も神の国を待ち望んでいたのである」マルコ15:43(アリマタヤのヨセフ)。

4. 2:2「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」

 テサロニケの教会の中には、「すでに終末が来た」と主張する熱狂的グループがいたらしい。主の日(主イエスの再臨・神の国の完成)を切迫した将来に見て、それに備えそれに向かって歩むべきことをパウロは第一の手紙で説いた。ところが、すでにそれがここに到来していると恍惚状態で語る人々がおり、教会に動揺と混乱が起こっていた。

5. 3:2‐3、5「また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。……しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。……どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」

 ここには「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17:15)と祈られたイエスの祈りが反響している。

6. 3:12「そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」

 主イエスの来臨を待ち望みつつ、この世で与えられた課題を果たしてしっかりと生きていくように、とパウロは勧める。                  
(2008/07/13)

嘆き悲しまないために──「テサロニケの信徒への手紙1」

パウロが書いた最初の手紙で50〜52年ころに書かれた。テサロニケはギリシアの都市。パウロは第2回宣教旅行のときにテサロニケ教会の基礎を築いた。紀元49年ころである。テサロニケにおけるパウロの活動と受けた迫害については使徒言行録17:1‐9参照。

1. 1:6‐7「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり……。」

 教会の創立は迫害の中でなされた。苦しみの中で祈り、耐え、信じた人々は、聖霊による喜びを経験した。聖霊によってみ言葉は生きて働く。「“霊”の火を消してはいけません。」5:19

2. 2:7‐8「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」

 神の愛がパウロの中に燃える。伝道者が経験する思い。11節は「父親」。

3. 2:12「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」

 神が私たちを招いておられることをはっきり知りたい。神を遠くから推測したり議論したりするのではなく、私たちに近づき、私たちを招き、私たちとともに働かれる神を知り、経験したい。

4. 3:7‐8「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

 これが信仰の交わり。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら」は原文は「あなたがたが(強調)主のうちにしっかりと立っているなら」。

5. 4:13‐14「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

 大切な人を失った人のことを深くパウロは思いやり、救いの希望をはっきりと示す。

6. 5:23‐24「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」

 神の真実、真実の神が、私たちのことを責任をもって実現していかれる。

「聖なる者」とは、区別されて「神のもの」とされること、この世の価値観と影響のもとから自由になって神の愛と平和と正義の中に生かされて生きる者となること。清められ、神の愛に守られつつ、神を反映する者となること。イエスの山上の変容。    (2008/06/08)

あなたがたの命は──「コロサイの信徒への手紙」

 コロサイはアジア州の町。従来はパウロが獄中から書き送った書簡とされていたが、現在はパウロの流れを汲む人が書いたとする説が有力になっている。書簡はいろんな内容を含むが、人の心から心に向けられたものなので、わたし(たち)への呼びかけとして繰り返し受けとめ、味わいたい。

1. 1:3「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。」

 著者は宛先の人々のために祈っている。祈りつつ、大切なことを届けようとしている。聖書の著者は、そしてイエスは、私たちのために祈りつつ、福音が私たちの中で生きて働くようにと願って呼びかけている。1:9も参照。

2. 1:13‐14「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖(あがな)い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

 「支配」とは主の祈りの「み国」のこと。私たちはこの世の力や支配の下に置かれて苦しんでいるが、実はすでに私たちを愛してくださるイエス・キリストの国の中に移し入れられている。それを保証するのは十字架の血(1:20)。

3. 1:23「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」

 原典ギリシア語を見ると、「わたしパウロ」が強調されている。手紙を書きつつ、書き手自身の思いと自覚(労苦と情熱と使命感)が湧き上がってきた。1:24、29に留意。

4. 2:20「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら………」

5. 3:3‐4「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」
 
6. 3:15「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」

7. 4:3「同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。」


 著者は福音宣教のために迫害されて獄中にあるが、魂はキリストにあって自由に呼吸し、神の言葉は前進する。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」テモテ二 2:9

(2008/04/13)
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