Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

歴史

自分のもとへ引き寄せよう ──トマス・クランマーの殉教

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ヨハネ12:32

2018年3月18日・大斎節第5主日
奈良基督教会での説教

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ヨハネ12:32

 今日のヨハネ福音書によれば、主イエスは弟子たちとの別れが迫ったとき、このように言われました。 その言葉のとおりに主イエスのもとに引き寄せられたひとりの人のことを、今日はお話しします。それは16世紀、今からおよそ500年前に、聖公会という教会の土台を築いたトマス・クランマーという大主教です。
……

全文→ 自分のもとへ引き寄せよう ──トマス・クランマーの殉教

「ウィリアム・ティンダル 司祭 1536」

William Tyndale

2016年10月2日、奈良基督教会での説教から。
奈良基督教会会報 「シオンの丘」 第171号(2016年11月27日発行)に掲載。

アメリカ聖公会の祈祷書(1979)を開くと、教会暦の10月の頁に
「6 William Tyndale, Priest(ウィリアム・ティンダル、司祭), 1536」
と記された1行が目に付きます。10月6日は、英語聖書翻訳者ウィリアム・ティンダルの殉教の日です。
……

本文 →「ウィリアム・ティンダル 司祭 1536」

マルティン・ルター〜宗教改革500年の前の年に

マルティン・ルター〜宗教改革500年


ルターは1483年、ドイツのザクセン地方、アイスレーベンという所に生まれました。父の強い期待を背負って大学に学び、法律家となることを目指していました。ところが重大な転機が訪れます。故郷から大学のあるエルフルトに戻る途中、激しい雷雨に遭いました。雷鳴とともに稲妻が走り、彼は地面に転倒しました。死の恐怖の中で彼は思わず、「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります」と叫んだそうです。
……

全文PDF→マルティン・ルター〜宗教改革500年の前の年に

奈良基督教会 「シオンの丘」 第170号 (2016年5月29日発行)に掲載したものです。

「ウィリアム・ティンダル 司祭 1536」

TyndaleBible


(2016年10月2日、奈良基督教会での説教から)

アメリカ聖公会の祈祷書(1979)を開くと、教会暦の10月の頁に

6 William Tyndale, Priest, 1536
   ウィリアム・ティンダル、司祭

と記された1行が目に付きます。10月6日は、英語聖書翻訳者ウィリアム・ティンダルの殉教の日です。

16世紀初めのヨーロッパはどこもそうだったと思いますが、イングランドにおいても礼拝はラテン語で行なわれ、一般の人々は意味を理解することができませんでした。聖書が朗読されても、何が言われているのかわかりませんでした。人々の魂は潤されていませんでした。神の言葉を聞くことができないということは、神を知る、神を経験する道もほとんど塞がれたままだったということです。しかし人々の心の奥には、神を、神の救いと導きを求める渇望があったのです。

ひとりの若い司祭が、神によって心を燃やされて、一般の人々に神の言葉を届けたいと決意しました。ウィリアム・ティンダルです。彼は原典から聖書を英語に翻訳し、人々が直接神の言葉に触れるようにしなければならないと信じたのです。

しかし当時、聖書を勝手に翻訳することは禁じられていました。人々が聖書を自分で読んで自分で解釈することによって、教会と国家の権威に逆らい秩序を乱すことを恐れたのです。

迫害の危険を感じた彼は、大陸に渡り、協力者を得て聖書の翻訳と出版の事業を進めました。彼は正確な翻訳を目指すとともに、普通の人々にわかりやすい翻訳を目指しました。たとえば、綴りの長い単語ではなく、できるだけ短い言葉を用いて訳す。複雑な言い方ではなく、単純な表現を工夫する。聖書本文を目で追い、あるいは朗読することによってそのまま理解できるようにする。これは大変な努力です。

ティンダルの英訳聖書は船の荷物の中に隠され、海を渡ってイギリスに持ち込まれ、非常な勢いで売れました。人々はそれを待っていたのです。

しかし弾圧、迫害の手が及びます。彼の英訳聖書は見つかり次第没収され、そして彼自身は異端宣告を受け、司祭職を剥奪されました。1年以上の獄中生活の後、処刑されることになりました。

1536年10月彼が公衆の面前で、身体を柱に縛り付けられて、首を絞められて火に焼かれようとするその瞬間、彼は叫びました。

Lord, open the king of England's eyes!
「主よ、イングランドの王の目を開いてください!」

その後状況は急速に変化しました。ヘンリー8世は、まもなく英語の聖書(ティンダル訳そのものではありませんでしたが)を各教会に備えつけるように命じました。

曲折を経てローマ・カトリックから分離した英国教会が誕生し、やがて世界に広がることになります。ティンダル自身は新しい教会を作ろうという考えはなかったとしても、彼の精神と彼の訳した聖書は、聖公会の大切な源流のひとつとなったのです。
 
アメリカ聖公会のホームページには、10月6日の彼の殉教を記念して、次のような祈りが掲載されています。

全能の神よ、あなたはあなたの僕ウィリアム・ティンダルの心に、聖書を人々に彼らの言葉でもたらしたいとの燃え尽くすような情熱をお与えになり、彼に力強く恵み深い表現の賜物と、あらゆる妨げに対して事をやり通す強さをお与えになりました。どうかあなたの救いのみ言葉をわたしたちにも示してください。わたしたちが聖書を読みまた学ぶとき、み言葉がわたしたちを悔い改めと命へと招いていてくださることを教えてください。父と聖霊とともに永遠に生きて統治されるひとりの神、わたしたちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

Almighty God, who didst plant in the heart of thy servant
William Tyndale a consuming passion to bring
the Scriptures to people in their native tongue,
and didst endow him with the gift of powerful
and graceful expression and with strength
to persevere against all obstacles:
Reveal to us, we pray thee, thy saving Word,
as we read and study the Scriptures,
and hear them calling us to repentance and life;
through Jesus Christ our Lord, who liveth and
reigneth with thee and the Holy Spirit, one God,
for ever and ever. Amen.

http://www.episcopalchurch.org/lectionary/william-tyndale-priest-1536

ティンダルの聖書

resource

 10月6日は、一人の英国の司祭が亡くなった記念日です。その司祭の名前は、ウィリアム・ティンダル。英国教会の祈祷書にもアメリカ聖公会の祈祷書にも、教会暦(Church Calendar)の10月6日のところにその名が記されています。

 およそ500年近く前の1536年10月6日の昼前、ウィリアム・ティンダルベルギーのフィルフォルデの町で、胸に鎖を巻かれ、身体を柱に縛り付けられて、身体ごと火に焼かれて生涯を閉じました。42歳でした。

 何の罪で死刑となったか。それは、彼が当時の教会と国家の掟に反して、聖書を翻訳し、それを英国内に普及させたからです。

 彼のうちには、人々に、普通の人々に、神の言葉をもたらしたいという情熱が燃えていました。

 当時の礼拝はラテン語のミサでした。人々は礼拝に出席してもわからない。聖書が朗読されても、祈りが献げられても意味が理解できない。ティンダルは人々の満たされない思いを、心の深みにある渇きを感じていました。

 彼はオックスフォードとケンブリッジの両方の大学で学び、次第に聖書の深みに入っていきました。旧約聖書原典ヘブライ語聖書の中から聞こえてくる神の力強い言葉、新約聖書原典ギリシア語から響いてくるイエス・キリストの救いの確かさ。

 しかし現実の教会と社会は、富、権力への執着、ねたみと争いに満ちていて、聖書から呼びかけてこられる神さまの願いとはまったく逆でした。他方彼は、人々が救いを必要としていること、生きることの拠り所と目標と希望を求める人々の魂の渇望を知っていました

 自分は人々に、神の言葉を届けなければならない。そう感じた彼は、自分の一生を、聖書を原典から英語に翻訳することに献げることを決意しました。協力者を得て、迫害する者たちから身を守りつつ、彼はその仕事を完成させてゆきました。

 彼が初めて原典から翻訳した英語の新約聖書は、非常な勢いで売れました。人々はそれを待っていたのです。しかし、弾圧、迫害の手が及びます。聖書は見つかり次第没収され、そして彼自身は異端宣告を受け、司祭職を剥奪されました。1年以上の獄中生活の後、処刑されることになりました。

 彼が公衆の面前で、身体を柱に縛り付けられて、首を絞められて火に焼かれようとするその瞬間。彼は叫びました。

「主よ、イングランドの王の目を開いてください!」
Lord, open the king of England's eyes!

 彼の死体は完全に焼かれ、その灰は川に捨てられて流されました。
 彼の存在そのものが完全に消し去られたかに見えました。

 しかし、彼の内に燃えていた神の愛、彼のうちに燃えていた神への愛と人への愛は、空しくはなりませんでした。

 彼の生涯と殉教は多くの人々を福音の真理のために奮い立たせました。彼の福音のための情熱とその生涯と死は、多くの人々を眠りから呼び覚ましました。福音に基づいて本当のイエス・キリストの教会を再建しようとする運動が大きな力となり、長い曲折を経た後、ローマ・カトリックから独立した英国教会(聖公会)が誕生します。

 また彼の英訳聖書の言葉はその後の英語聖書の中に流れ込んで、英国を超えて広く世界に広まっていくことになります。

 ウィリアム・ティンダルが死ぬ間際に祈ったように、主イエスがわたしたちの目を開いて、神さまのよき世界を見つめさせてくださいますように。神の恵みと真理を見させてくださいますように。

(2013年10月6日)

奈良基督教会の歴史と文化財

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      日本聖公会 奈良基督教会
           司祭 井田 泉

 奈良基督(キリスト)教会は、英国国教会を母体として世界に広がった聖公会(アングリカン・チャーチ。約8500万人)に属する教会です。奈良では1885年に伝道が開始され、最初の礼拝堂は2年後の1887年、花芝町に建てられました。

 1909年、元は興福寺の境内であった現在地を取得。3年後の1912年に現在の正門の傍らに礼拝堂を建てつつも、将来その丘の上に「大聖堂」を建設することを目指して準備を進めました。1919年、第一次世界大戦の終息に際して、教会は「世界平和記念事業」を行い、その一環として桐の苗700本を植えました。その桐が現在の礼拝堂の欄間に用いられています。

 新しい礼拝堂は、最初米国人建築家が寺院風の設計試案を出したが宣教師が同意せず、次には日本人二人がゴシック様式の設計を行いましたが、興福寺の国宝建造物に隣接する地であり風致を損なうとの理由で奈良県社寺課の許可を得られませんでした。

 そこで当教会信徒であった宮大工・大木吉太郎が工夫を凝らし、純日本風木造建築とすることでようやく建設の運びとなりました。吉野および和歌山県伊都郡富貴の立檜、樹齢130年から160年のもの計254本を購入、教会境内で製材したそうです。建築に従事した職人の多くは、その前は和歌山の日前宮(にちぜんぐう)の造営に当たっていた宮大工たちだったとのことです。

 1928年定礎、翌年に信徒会館(現、親愛幼稚園舎)が完成、1930年に礼拝堂が完成し、聖別献堂式が行われました。

 十字架がなければ寺院と見まがう造りをなしていますが、寺社建築の様式、意匠を生かしつつ、明確にキリスト教の礼拝堂として設計されたものです。例えば、伸びやかな曲線を持つ桟瓦葺(さんかわらぶき)屋根、小組(こぐみ)格天井(ごうてんじょう)などはまさに和風ですが、礼拝堂全体はやや変形ながら十字架の形をなしています。

 全体は会衆席、聖所、至聖所の三つに区切られ、また祭壇に向かう身廊(会衆席の間の中央通路)部の天上は高くして上部に高窓を設け、左右の側廊部の天井は低くされて、身廊部と側廊の間は列柱で区切られています。これは「三廊式バシリカ型」と呼ばれる礼拝堂の形式です。

 祭壇上に置かれている十字架、花瓶、燭台は礼拝堂完成と同時に設置されたものですが、これは伝統的金属工芸技法の七宝焼です。十字架の土台の裏側には「奈良帝室博物館長 監督 久保田 鼎、図案 吉田包春、製作 加藤寅次郎」と刻まれています。

 しばらく前、正倉院の宝物の画集を見ていて「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」(銀製の宝飾鏡)に引きつけられました。これが当教会の十字架の原形に違いないと感じたからです。この鏡を模して製作されたに違いない十字架ですが、ただ転用したのではなく、微妙な工夫がなされ、その中央にはキリストの象徴であるギリシア文字「X」と「P」の組み合せが刻まれています。天平文化とキリスト教が千数百年を超えて出会った美しい姿ではないでしょうか。

 礼拝堂と幼稚園舎は2015年7月8日、国の重要文化財に指定されました。毎日、百数十人が集う、生きた営みの空間です。子どもも大人も、ここで大切なものと出会い、学び、成長していきます。多くの人々の祈り、嘆き、喜び、感謝がここには積み重ねられています。目に見える建造物や備品とともに、目に見えないけれども人を受け入れ慰め生かしていく「空気」が大切に保たれていかなければなりません。そして次の50年、100年、200年へと譲り渡していく責任が私たちにはあります。

奈良基督教会礼拝堂紹介

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奈良基督教会礼拝堂と親愛幼稚園園舎は国の重要文化財指定を受け、2015年7月8日付で「官報」に掲載されました。
これは以前に掲載したものの改訂版です。

 
奈良基督教会礼拝堂紹介

日韓聖公会 歴史断章──詩人・尹東柱を中心に」

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第4回日韓聖公会神学会での発題講演 「日韓聖公会 歴史断章──詩人・尹東柱を中心に」
2010年2月26日、韓国 ・ 京畿道抱川市山井湖水ハンファコンドにて。

全文→日韓聖公会 歴史断章──詩人・尹東柱を中心に

沖縄戦 7歳一人ぼっち──戦災孤児の戦後70年

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沖縄慰霊の日(6月23日)に際して、旧知の石原絹子司祭(日本聖公会沖縄教区・退職)の証言をPDFにして掲載します。

出典は「沖縄タイムス・プラス」


沖縄戦 7歳一人ぼっち──戦災孤児の戦後70年

朱基徹の「五つの私の祈願」の説教について

朱基徹

日本統治下の朝鮮のキリスト教会がどれほどひどい苦しみを味わわされたかを示す例として、ずっと以前に書いたものを掲載します。

聖公会神学院の『神学の声』(第29巻)、1988 に所収のものです。


全文
  ↓
朱基徹の「五つの私の祈願」の説教について

トマス・クランマーの殉教

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2015年3月22日・大斎節第5主日
西大和聖ペテロ教会での説教です。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ヨハネ12:32
 
 今日のヨハネ福音書によれば、主イエスは弟子たちと共にされた最後の食卓で、このように言われました。
 その言葉のとおりに主イエスのもとに引き寄せられたひとりの人のことを、今日はお話しします。それは16世紀、今からおよそ500年前に、聖公会という教会の土台を築いたトマス・クランマーという大主教です。……

本文は
 ↓
自分のもとへ引き寄せよう──トマス・クランマーの殉教

ウィリアム・ティンダル──人々に英語の聖書を!

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2014年9月14日夜、第55回日本聖公会京都教区信徒の集いの夜のDVD上映会の資料を掲載します。

内容は次のとおりです。

チラシ/主な登場人物/地図/物語の概要/コリント前書第13章の対訳/略年表

ウィリアム・ティンダル──人々に英語の聖書を!

<DVD> GOD'S OUTLAW  ウィリアム・ティンダルの物語

William Tyndale

9月14日(日)の午後から奈良で開かれる京都教区信徒の集いの初日の夜、自由参加で William Tyndale (原語からの英語聖書翻訳者。司祭。殉教者)のDVDの一部を上映する予定をしています。

その終わりの部分を訳してみましたので紹介します。
────

 処刑される直前のティンダルの最後の言葉。

 Lord, open the king of England's eyes!
 (主よ、イングランドの王の目を開いてください!)

(最後のナレーション)
 ティンダルが亡くなったとき、すでにイングランドには二種類の聖書が広がりつつあった。
両者ともに、ティンダルによる新約聖書翻訳を効果的に取り入れていた。
またその旧約聖書にもティンダルの多くの訳業が用いられていた。
それらの一つ、カヴァバデール聖書がヘンリー8世にささげられたとき、主教たちは、その聖書の中には誤りは見出せないと保証した。

 王は言った。「その中に異端がないのであれば、神の名によって、
それが人々の間に広まるようにせよ」。

 翌年、王は非常に意味のある小さな一節を公認して、
それが英語聖書のタイトルページに付加されるように許可した。
「王の最も慈悲深い許可による」。

 1538年9月5日、ヘンリーはイングランドのあらゆる教会に命じて、
英語の最も大きな聖書1巻を置くようにさせた。
英語で印刷された聖書は、イングランドの宗教改革の心臓であった。
それは今も、ウィリアム・ティンダルへの記念であり、
また彼の死に際しての祈りへの答である。

ウィリアム・ティンダル

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私の継続的な関心のひとつは、ウィリアム・ティンダル
(William Tyndale, 1494?-1536)です。

ギリシア語、ヘブライ語原語からの英語聖書翻訳者。殉教者。イングランドの司祭。
私はこの人を聖公会の礎石のひとりと考えています。

デイヴィド・ダニエル『ウィリアム・ティンダル──ある聖書翻訳者の生涯』
 田川建三訳、2001、勁草書房


これを読みながら自分でも少し調べてみました。

ティンダルは新約聖書全体を翻訳し、旧約聖書は途中まで訳しているうちに、生涯の終わりを迎えました。捕らえられて火刑に処されたのです。

旧約聖書・創世記に関して。

「(ラバンらは)リベカを祝福して言った。『わたしたちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。』」創世記24:60

ここを訳しつつ、ティンダルは欄外に次のような注を付けています。


"To bless a man's neighbour is to pray for him and to
wish him good and not to wag two fingers over him. "
「人の隣人を祝福するということは、その隣人のために祈り、その人のために善を願うことであって、その人の上で2本の指を振ることではない。」


これは当時の教会の聖職者が、形のみの祝福の動作を行って、まったく心を欠いていたことを痛烈に批判しているものです。形式主義批判、儀式主義批判と言ったらいいでしょうか。

私は聖公会の司祭として儀式的聖餐式を司式する立場です。彼が大切にしたかったことを心にとめつつ、儀式の所作(動作)の中に心をこめたい、所作をとおして心を深め表したいと願います。

ティンダルは彼の英訳旧約聖書(五書)の前に、二つの序文を書いています。
第2の序文 (A PROLOGUE SHOWING THE USE OF THE SCRIPTURE) の中で彼が語っている言葉をいくつか紹介します。

「だから、ただ聖書を読んでそれについて語るというだけでは十分ではない。私たちは昼も夜も神に懇願して、神がすぐに私たちの目を開いてくださるように祈り求めなければならない。また神が、聖書が何のために与えられたかを私たちに分からせ、感じさせてくださるように求め、そして私たちが聖書という薬を、あらゆる人のために、それぞれの自分の傷の癒しのために用いていけるように願うべきである。」

「学んで慰めを得ること──それが聖書のもたらす実りであり、それが聖書が書かれた理由である。」

「聖書の物語へと行きなさい。そして読みなさい。あなたの学びと慰めのために。そしてあなたの目の前で行われているあらゆることを見なさい。……」


Thy learning and comfort
<聖書を学ぶことと慰めを受けること>
──ティンダル自身が経験したこの幸福と祝福を、読者も経験してほしいと彼は切望したのです。
 

鑑真とイエス

安藤更生『鑑真』(吉川弘文館、1968)

興福寺の隣に住んで鑑真への関心が続いていて、この本を読んだ。

渡日に反対した弟子の霊祐に対して鑑真が言ったという言葉。

「自分のことを心配してくれる気持はよくわかる。しかし自分が決行しようとしたことは仏法のためであり、人民のためである。そのめたには自分の一身などは小さな問題である。人間は自分の志した大事の完成にこそ生命を賭けるべきだ。」

「霊祐の心配は……かえって自分の志を殺すものである。自分の肉身を心配してくれて、かえって自分の志を遂げることを障げた霊祐は、わが同志とも門下ともいえない。」

霊祐は懺悔して、毎晩8時から朝の4時まで立ったなりで罪を謝すること60日に及び、やっと赦されることになったという。

これはペテロを叱責されたイエスとよく通じる。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっている、
と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
『サタン、引き下がれ。
あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
マルコ8:31-33

欽定訳英語聖書1611 復刻版

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欽定訳英語聖書1611 復刻版

Holy Bible 1611 King James Version

400th Anniversary Edition


を手に入れました。

絵などもなり、大変興味深いものです。

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「出家者は皇帝に拝礼すべきか」

鑑真岩波

東野治之『鑑真』
 岩波新書、2009
を読んだ。

時代も状況も立場も違うが、何か示唆されるものが大きい。

鑑真に従って日本に来た弟子の法進が『梵網経註』で述べているという次のような主張が印象的である。

著者の説明を引用する。

「出家者が皇帝に拝礼すべきかどうか、という問題は、仏教が中国で広まってゆく中で、常にひっかかってきた難題でした。皇帝が絶対権力を持つ国で、皇帝を拝礼しないでいるのは、本来許されません。仏教界も妥協を重ねてきたいきさつがあります。法進は(中略)国王であっても僧を礼拝すべきだと、正論を述べています。」
(170頁)

これは古代キリスト教がローマ帝国との間で直面したことと同じであり、また「出家者」を「牧師」あるいは「司祭」に、「皇帝」を「国家(あるいは天皇)」に読み替えれば、日本のキリスト教の歴史の困難そのものである。





「ヨハネは上から雷を鳴らして」 カルヴァン

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カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいたらこんな言葉が出て来ました。

「ヨハネは上から雷を鳴らして、信仰の従順に集中しない者の頑迷をどんな稲光よりも強く打ち倒す。」(第1篇第8章11)

ヨハネ福音書著者についての発言です。

カルヴァンはヨハネ福音書の著者を12弟子のひとりヨハネと信じていました。

ヨハネはイエスによって「雷の子」と呼ばれていました。

カルヴァンは宗教改革の戦いのまっただ中にいましたから、言葉が戦闘的です。

『奈良の寺』

奈良文化財研究所編 『奈良の寺──世界遺産を歩く』

  岩波新書、2003

薬師寺は天皇家の寺、興福寺は藤原氏の寺、そして大安寺は国家の寺という性格を持つとのこと。

国家鎮護の仏教のあり方に共感はしないが、ひとつ心にとめたいことがある。

それは仏教信仰とその布教、事業の拡大と並行して(というか、それらの中心に)、仏教教学の本格的な研究と講義がなされていた、ということである。

日本におけるキリスト教が命を回復させるためには、中心に生きた学問がなければならないと思う。

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『日本海軍はなぜ過ったか』

澤地久枝・半藤一利・戸皸貔
『日本海軍はなぜ過ったか──海軍反省会400時間の証言より』
  岩波書店、2011

日本海軍は


印象的な言葉を引用する。

「組織というのは不思議なくらいに、少し飛び抜けて一歩進んだ人はいらないのです、邪魔なんですね。排除の論理というか、……排除の精神が働くんです。」(半藤)

「組織には権限があるんですね。ところが、組織というものは当然、思考能力がないんですよ。思考能力は個々の人間が持つんです。ですから、個々の思考能力を持つはずの人間が考えることを放棄して、組織の決定に無批判に従ったら、人間としての存在意義がなくなるわけです。……おかげで、責任も組織に行ってしまい、個人としては誰も責任を取らなくなる。」(戸癲

「わたしがこだわっているのは、15歳で戦死した人がいるという事実です。10代の戦死者は日本にもアメリカにもいます。」(澤地)

今に呼びかける痛切な指摘だと感じます。

次のところに紹介があります。

『日本海軍はなぜ過ったか──海軍反省会400時間の証言より』
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奈良基督教会牧師
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