Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

聖書

“霊”が語らせるままに

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2018年5月20日
聖霊降臨日
奈良基督教会での説教です。

全文→“霊”が語らせるままに

「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

 およそ2000年前の今頃の季節の日曜日、今聞いたこのような出来事が起こりました。聖霊降臨です。これがなければ教会は誕生せず、福音は伝えられず、この教会もなく、わたしたちもイエス・キリストを知り、また信じることも起こらなかったのです。逆に言えば、この聖霊降臨の出来事が起こったから、わたしたちはここでこうして礼拝する者となったのです。
 教会が、またわたしたちが生き生きと生きるためには、この最初の聖霊降臨の出来事の記憶がよみがえって、それが今のわたしたちの力となり命となる。それが大事です。そこで今日は、この日何が起こったのかをあらためて確かめてみたいと思います。
……

信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

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使徒言行録11:19−30
2018年5月6日・復活節第6主日
奈良基督教会での説教

今日の聖書日課の使徒言行録には、シリアのアンティオキア教会の始まりのことが記されていました。

「11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」

エルサレムの教会の力ある指導者ステパノが石で打たれて殺されたことがきっかけとなって、エルサレムの教会に対して迫害が起こり、多くの信徒たちがあちこちへと散らされて行きました。

こうしてエルサレムのずっと北の方、シリアのアンティオキアという当時の大都会に教会が成立し、このアンティオキアの教会がイエス・キリストの福音を世界に広める基地の役割を果たすようになりました。……

全文→信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

天に昇られたイエスさま

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 復活の後、主イエスは40日にわたってしばしば弟子たちの前に現れ、ご自分が生きていることを示されました。そして40日後に、弟子たちの目の前で天に昇って行かれました。ルカによる福音書にはこのように記されています。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」24:50-51

 ここで2回も「祝福」という言葉が出て来ます。また日本語訳では「手」となっているところは、ギリシア語原文では複数、つまり「両手」です。

 イエスさまを見送った弟子たちの目に、そして心に刻まれたのは、イエスの祝福の手です。その挙げられた両手から、イエスの愛と平和と命が弟子たちに伝わってきます。たとえ姿は見えなくなっても、イエスの祝福の手がずっと自分たちを守り支えていてくださることを弟子たちは感じて、心を熱くされました。

 天に昇られたイエスさまは、弟子たちからただ離れて行ってしまわれたのではありません。今は父なる神さまの傍らにいて、弟子たちのために祈り、執り成していてくださるのです。

 さらにイエスさまは、昇天に先立って弟子たちに「聖霊を送る」と約束され、それを待っているようにと繰り返し命じられました。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:49

 そこで弟子たちは、イエスが約束された聖霊を待ち望んで祈り続けました。10日後の日曜日、集まって祈っていた弟子たちは、激しく燃える神の愛を経験しました。弟子たちはその喜びを他の人々に伝えずにはおれなくなりました。これが聖霊降臨日(ペンテコステ)、言わば教会の誕生日です。今年は5月20日です。

 イエスさまは今も、わたしたちに向かって手を上げて祝福を注ぎ、他方神に向かってわたしたちのために祈っていてくださいます。わたしたちも最初の弟子たちのように、主イエスの祝福の手を仰ぎましょう。

 聖餐式の終わりに司祭は手を上げて会衆を祝福します。
「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。アーメン」

 昇天のイエスさまの上げられた手が両手であることに気づいて以来、わたしは「父と子と」のところでは片手で十字を切るのですが、「聖霊」のところで両手を上げるようになりました。イエスさまの祝福を会衆に伝えたいからです。
 昇天の主イエスの両手の祝福が、皆さまとともにありますように。

あなた自身の井戸から

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「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」
        旧約聖書・箴言5:15


「箴言」は旧約聖書の中の一書で、格言集です。「箴」は竹の針のことで、「箴言」とは「人の心をチクリと突く戒め」という意味でしょうか。

ここに掲げた言葉は、夫婦の間の深い信頼と交流を言うもので、人は相手から励ましと力を受けることを述べていると言われます。

けれどもこれを広く主イエスの言葉につなげると、視野が新しく開ける気がします。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 ヨハネ福音書4:14

主イエスはわたしの中に泉を開いてくださるのです。

一人ひとりの中には井戸がある。その井戸はしばしば隠れてしまっています。けれどもだれかがその井戸を見つけて、呼び水を注ぎ込むなら、その人の内なる井戸から水が湧き出し、その人自身を潤すともに、ほかの人をも潤すものとなる。

それをなさったのがイエスです。

イエスとの出会いによって、多くの人は自分の内なる井戸、泉を開発されました。私たちもまた、自己の内なる井戸を開発されるとともに、ほかの人の井戸を開くような働きができればと思います。

ふとこんな言葉も思い浮かびます。

「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。」 イザヤ書12:3



【全文】イエス御自身が真ん中に立ち

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ルカ24:36−48
2018年4月15日・復活節第3主日
奈良基督教会での説教

→ 全文

今日の福音書はこのように始まりました。

 「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ24:36

 聖書日課をお持ちの方は、今日の福音書本文の始まりの所を見ていただきますと、「24:36b」と書いてあるのに気づかれると思います。これは36節の冒頭(36a)が省略されているということを示してい
ます。何が省略されているかと言うと
「こういうことを話していると、」
という言葉です。
 別に省いてもよい気がするかもしれませんが、しかしこの言葉によって、主イエスの弟子たちがどういう状態にあったかがはっきりとわかるのです。
……


イエス御自身が真ん中に立ち

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復活節第3主日(2018/04/15)

ルカによる福音書24:36−48

 イエスが十字架につけられてから3日目の日曜日の深夜のことです。エルサレムに残った弟子たちと、遠いエマオまで行って戻ってきた二人の弟子たちとが集まって、語り合っていました。復活のイエスさまに出会ったことを熱心に話す人もいれば、それを不思議に思う人、疑わしく思う人もいて、議論は尽きません。

 そうしているうちに、イエス御自身が彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思いました。そこでイエスは言われました。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」ルカ24:38−39

 そう言ってイエスは弟子たちに、ご自分の両手と両足を示されました。そこにははっきりと、釘を打たれた傷跡が残っていました。
 それを見た弟子たちは、確かにイエスさまだとわかって、喜びが湧き起こってきます。それでもやっぱり不思議で、信じられないのです。

 そこでイエスは「ここに何か食べ物があるか」と言われました。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べられました。

 わたしたちはイエスの復活について議論し、不思議に思い、また疑います。わたしたちの間では解決がつきません。けれども大切なことは、そのようなわたしたちの真ん中にイエス御自身が立たれる、ということです。そしてなかなか信じられないわたしたちを何とかわからせようとして、イエス御自身が懸命になられる、ということです。

 イエスが御自身をわたしたちに示し、そしてわたしたちの心の目を開いてくださるとき、すべては変わります。惑いと疑いは去り、喜びと力が湧き溢れて、自分の中にそれを押し込めておくことはできなくなるのです。

 わたしたちは聖餐式の初めに「主イエス・キリストおいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と祈ります。

 どうかこの祈りのとおりに、復活の主イエスがわたしたちの真ん中に立って、わたしたちを惑いや疑いから解放し、喜びで満たしてくださいますように。

(日本聖公会京都教区ホームページ「今週のメッセージ」)

クロパの妻マリアと十字架のイエス

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2018年3月30日・聖金曜日
奈良基督教会での説教です。
(大和伝道区合同礼拝)

全文→クロパの妻マリアと十字架のイエス

 わたしたちは今、2000年前の人たちと同じように、主イエスの十字架のもとに集まっています。

 今、朗読されたのはヨハネ福音書による主イエスの受難物語ですが、ルカ福音書にはこのように書かれた一節があります。イエスの死の直後です。

「23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」

 このように、十字架の出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った人たち。その中にはふたとおりの人々がいたのではないでしょうか。一つは、この残酷で衝撃的な出来事に立ち会ったとしても、やがてその記憶は次第に薄れて過去の事柄となり、結局はイエスの十字架と自分の人生の間には特別な関係が生じなかった人たちです。
 もう一つは、この十字架の出来事がそれを目撃した人の生涯に決定的な影響を及ぼすことになった人たち。十字架にかけられたイエスがその人の心に刻みこまれて、イエスと自分とをもはや切り離すことができなくなった人たち。十字架のイエスなしの人生などもはやあり得なくなった人たちです。

 わたしたちはこの礼拝が終われば、2000年前の人たちと同じように胸を打ちながら帰って行くでしょう。そしてその後はどうなるのでしょうか。願わくは、今述べた後者のようでありたい。十字架のイエスがわたしたちに宿ってくださって、もはやそこから離れられないような、そのようなイエスとの出会いと結びつきが与えられることを願います。
……

黙想の恵み──その方法と実際

ガリラヤ湖畔

第10回 奈良基督教会修養会

2018年3月18日・大斎節第5主日

当日配布冊子です。
  ↓
黙想の恵み──その方法と実際

聖書と私の出会い──私の前半生

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私の幼い頃から32歳までのことを記したものです。

15年以上も前に書いたものですが、あらためて自分の振り返りとして、またあるいは若い人に何かの参考になるかもしれないと考えて、ここに掲載します。

聖書と私の出会い──私の前半生

ハバククの祈り

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日本CGNTV(インターネット放送)「みことばに聞く」のための原稿です。

1 ハバククの嘆き
2 ハバククの沈黙
3 ハバククの賛美

2018年2月23日、日本聖公会奈良基督教会礼拝堂で収録。

→ ハバククの祈り 原稿

「預言者ハバクク」。彼は紀元前7世紀、イエスさまよりも600年くらい前に、ユダの国で活動した人です。

預言者は神さまから言葉を受けて、それを人びとに伝える人です。けれどもただ「神から人へ」という一方通行ではありません。預言者は神からの言葉を受けて伝えるばかりではなく、人の声、人の思いを神に届けます。「神から人へ」と「人から神へ」と──この両方の間に立つのです。ここに預言者の栄光と苦しみがあります。

ことにハバククはその時代の苦しみの中で、神に向かって嘆きの声を上げました。
……

使徒言行録・ローマ書の講義 動画配信

いちじく

OCC(大阪クリスチャン・カレッジ)で2018年1月27日行った
ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」
の講義全体が、四つ分けてCGNTVに配信されました。

→ CGNTV ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」

当日配布した講義原稿は
   ↓
ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」

黙想の恵み─その方法と実際  奈良基督教会修養会

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第10回 奈良基督教会修養会のご案内です。

黙想の恵み
   ─ その方法と実際 ─


“主よ、お話しください。僕は聞いております。”
サムエル記上3:1
日時:2018年3月18日(日)
13時30分〜15時
場所:奈良基督教会シオンホール
講師:井田 泉司祭

どなたでもご参加ください。無料。

→ 黙想の恵み─ その方法と実際 案内PDF

この大斎節中に、黙想の時を過ごしてみましょう。

黙想とは、聖書の言葉に深く耳を傾け、それを心にあたため、思いめぐらすことです。「わたし」が中心になって聖書を読み、考えることも大切です。しかしそれとは別の読み方──「わたし」は受け身となり、聖書の言葉そのものがわたしの中に宿り、生きて働くような読み方をしてみたい──これが「黙想」です。

これには、慣れとある種の修練が必要ですが、ここからわたしたちは聖書の無限の命の豊かさを味わうようになるのです。黙想をとおして、日々の祈りが深まりますように。

「使徒言行録」講義の動画

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OCCカレッジ(大阪クリスチャンセンター)で行った使徒言行録講義全体がインターネット放送局(CGNTV)で公開されました。
全体は四つに分けられています。

下記を開くと最新の(つまり途中から)ものがいきなり始まります。

日本CGNTV OCC COLLEGE

動画の下方、いったん ■ を押して停止させ、画面の下のほうをたどるとメニューが表示されます。

原稿にはないことも自由に話しています。
私の願いは正確でバランスのとれた解説をすることではなく、自分に関心のあるところから福音のメッセージを受け取ることにあります。
(とはいえ、恥ずかしくて自分では見ることができません。)

当日配布した講義原稿は
   ↓
使徒言行録「パウロの回心と働き」

「使徒言行録」および「ローマ書」講義録2018

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OCCカレッジ(大阪クリスチャンセンター)〈日本福音学校大阪校〉
での講義です。

使徒言行録「パウロの回心と働き」2018年1月13日(土)
ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」2018年1月27日(土)

これは2017年の奈良基督教会公開聖書講座の原稿にいくらか加筆修正したものです。

→ 使徒言行録「パウロの回心と働き」

→ ローマの信徒への手紙「恵みと信仰──キリスト教信仰の根幹」

わたしについて来なさい

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2018年1月21日・顕現後第3主日
奈良基督教会での説教です。

マルコ1:16−20

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」マルコ1:16
 
聖書を読むときに、その場面、情景を想像してみたい。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」
 
イエスが、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられます。夜が明けた頃かもしれません。湖を渡ってくる風が頬をなで、髪の毛を揺らします。朝の新鮮な空気。朝日が湖を照らしています。イエスが踏まれる海辺の砂がザクザクと音を立てています。

二人の人が目に入りました。漁師です。岸辺からそれほど遠くない、湖に浮かべた舟の上から網を打って漁をしています。イエスはそれをご覧になりました。
……

→ 「わたしについて来なさい」全文

主よ、お話しください

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2018年1月14日・顕現後第2主日
奈良基督教会での説教です。
サムエル記上3:1−10

 「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」

 これがわたしたちの教会の今年の年間聖句です。年間聖句は毎週の週報に書かれてあり、また信徒の方が墨で書いてくださって礼拝堂とベタニアに掲げられています。

 この聖句はわたしが決めているのですが、それは年度の終わり頃に教会の現状を振り返りながら、神さまが何をわたしたちに呼びかけておられるのかを思いめぐらすなかで与えられたものです。

 「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております」

 わたしたちは話す。大事なことです。けれどもわたしたちが話している間に、神さまの声が聞こえなくなる。聞くことを忘れる。これはとても危険なことです。
 いろんな課題を抱えて、たくさん心配したり迷ったりするわたしたちです。そのわたしたちに対して、神さまは何と言われるのか。神さまは何を語りかけておられるのか。わたしたちの教会に対して、この社会に対して、またわたし個人に対して。これに心の耳を澄まして聞きたい。神さまの思い、神さまの言葉の中に、わたしたちの希望と命がかかっているのです。
……

→説教全文PDF

シューベルト「詩編第23編」対訳

Schubert

シューベルト「詩編第23編」Der 23 Psalm
1820年12月作曲 D706

以前にも紹介したものですが、対訳と解説を少し改訂し、PDFにしました。

シューベルト「詩編第23編」PDF

アルフレート・アインシュタインは『シューベルト──音楽的』の中でこの曲について
「その品位(変イ長調)の点で、音響と転調の豊かさの点で、高揚の烈しさの点で、人の心を奪い去るこの『詩編第23編』」
と述べています。
(白水社、1963)

幼子の名はイエス(2018)

Sea of Galilee

2018年1月1日・主イエス命名の日
奈良基督教会での説教です。

……
その子の名はイエス。「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救う」「神は救い」という意味です。神の救いをこの世界にもたらすために生まれた幼子の名前はイエス。誕生から8日目の今日1月1日に、幼子は正式にイエスと名付けられました。イエスの名はマリアから愛をもって呼ばれ、ヨセフから愛をもって呼ばれ、隣人たちから愛をもって呼ばれました。

ところでこのイエス命名の出来事を伝えるルカ福音書の中で、直接このイエスの名を呼んだ人たちがいるのだろうか。いるとしたらどんな人たちが「イエスよ」とイエスの名を呼んだのか。それが気になって調べて見ました。それほど多くはないので、短くたどってみます。
……

全文は → 幼子の名はイエス

第7回公開聖書講座 コリントの信徒への手紙1、2「土の器に宿るキリストの命」

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奈良基督教会創立130周年記念
第7回公開聖書講座
2017年10月21日(土)

コリントはギリシアの大都会です。パウロは第2回の宣教旅行のときにコリント教会の基礎を築きました(使徒言行録18:1-18)。その後コリント教会は発展しましたが、富める者、力ある者たちの横暴と貧しい人たちの疎外(コリント一11:22)、教会の分裂、生活の堕落、礼拝の混乱(一12:3、14:33)、福音の歪曲といった問題がはなはだしくなりました。パウロはこれを心配し、あるべき信仰と生活を回復させるために、情熱をこめて数度にわたって手紙を書きました。

「ローマの信徒への手紙」とは異なり、ここにはパウロの感情が前面に出ています(例えば一4:8‐21)。

パウロのコリント滞在は紀元50年頃で、第1の手紙は54年頃エフェソで書かれただろうと言われています。
……

全文 → コリントの信徒への手紙1、2 「土の器に宿るキリストの命」

ヨナを愛される神

Sea of Galilee, Southward View

2017年9月24日
聖霊降臨後第16主日
奈良基督教会での説教です。

今日の旧約聖書は、ヨナ書という預言書の最後のところでした。ヨナ書は預言書には数えられているのですが、内容はまるで小説のようです。あらすじをたどってみることにします。

主なる神はヨナに命じて言われました。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」ヨナ1:2

ニネベは古代アッシリア帝国の都です。今のイラク北部。チグリス川のほとりの大都市でした。そのニネベの悪は甚だしく、これ以上放置できないと思われた神は、ヨナをニネベに遣わして、神の審判が迫っていることを伝えさせようとされました。

ところがヨナは、ニネベとはまったく反対の西のかなた、スペインのタルシシュ行きの船に乗り込みました。神さまから逃げたのです。
……

全文 → ヨナを愛される神


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