Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

聖書

マリアの親戚エリサベトの物語

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ルカによる福音書1:39−45
2018年11月7日
奈良基督教会・親愛幼稚園のマリア会(聖書の会)で話したものです。

……
 わたしの夫ザカリアはアビヤ組に属する祭司でした。住まいはエルサレムではなく、エルサレムにほど近い山里にありました。夫は祭司の務めを果たすときにエルサレムに出かけて行きました。エルサレム神殿には大祭司がいて、すべての祭司を束ねるとともに、大きな宗教的権威を持って人々の信仰と生活を指導していました。とはいえ正直に言えば、当時の大祭司はほんとうに神さまのほうを向いて生きているとは思えませんでした。地位と権威を用いて大きな利益を得ていたように感じています。祭司の数は多く、わたしたち夫婦の生活は豊かではありませんでしたが、神さまの前にまっすぐに生きるようにと努めていました。

 わたしたちは子どもが授かるようにと願い祈っていたのですが、それはかなえられず、すでにわたしたちは年が進んでもう諦めていました。
……

全文→ マリアの親戚エリサベトの物語

「箴言」の学び レジュメ

いちじく

奈良基督教会の聖書研究会で2017年7月から始めた旧約聖書・箴言の学びのレジュメです。
今回第1回から第9回までを掲載しました。

箴言の学び

タリタ・クム ──手を取ってくださるイエス

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マルコ5:22−24、35−43

2018年7月1日・聖霊降臨後第6主日
奈良基督教会での説教

 カファルナウムの会堂長のひとり、ヤイロという人がイエスのもとに来て、ひれ伏して懇願しました。
 「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」マルコ5:23

 「手を置いてやって」とは、手を置いて祈ってほしいのです。イエスさまだけが頼りです。「わたしの幼い娘が」と言っていますが、後で分かるのですが、その子は12歳です。「幼い娘」というと3歳から5歳くらいをイメージしてしまうかもしれません。けれどもこの父親ヤイロにとっては、自分の娘はいつまでもかわいい。幼い頃にその子を呼んでいた愛称があったとすれば、もう大きくなってその愛称は直接使えなくなったとしても、心の中では繰り返しその愛称で呼ぶのです。まして今、この子は命が危ない。「わたしの幼い娘が」という言葉はヤイロの気持ちそのものです。
……

全文 → タリタ・クム ──手を取ってくださるイエス

ペテロのしゅうとめの物語

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2018年9月12日
親愛幼稚園マリア会でのおはなし。

マルコによる福音書1:29−34
から自由に想像してみたものです。

……
 わたしはその日、これまでほとんど休んだことのない安息日の会堂礼拝を欠席しました。高熱が出て具合がひどく悪く、立ち上がることもできなかったのです。実はもうかなり前から体調は悪かったのです。理由はわかっていました。それは精神的なことから来ています。

 それは娘の婿、ペテロのことです。ペテロはベトサイダに住む漁師でした(ヨハネ1:44)。ベトサイダはカファルナウムの東の町で、歩いて1時間程度でしょうか。縁あって娘はペテロと結ばれ、ペテロはこちらに住むことになりました。ペテロはたくましい働き者。まっすぐな性格でした。熱血漢というのでしょうか、こうと思ったら突き進むようなところがあり、そこは少々心配でしたが、それがまた頼もしくも思えて、娘の将来を託せる人物だと信じたのです。ペテロはよく働き、人の面倒見もよく、娘のことはもちろん、わたしのことも大事にしてくれました。神さまは娘にほんとうに良い人を与えてくださったと、わたしはどれほど感謝したかしれません。

 ところが結婚してから何年くらいたった頃でしょうか。イエスという人物が現れて……

→ ペテロのしゅうとめの物語 全文

あなたこそ神の聖者

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2018年8月26日・聖霊降臨後第14主日
奈良基督教会での説教です。

ヨハネ6:60‐69

イエスさまの公的な活動は、2年から3年と言われます。その短い時間の中で人々に与えた影響は、考えられないほど大きいものでした。ここに今日、わたしたちが集まって礼拝しているのも、そのせいです。

けれどもその2年ないし3年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません。イエスを愛し慕う多くの人々がおり、反対にイエスを憎み迫害し捕らえようとする者たちがいました。そしてさらに、イエスを信じて従っては来ているけれども、中心は自分の側にあって、自分の欲求を満たしてくれる限りにおいてイエスに従う。しかしイエスが自分が期待していることに沿わなくなれば、イエスを見限って離れ去って行く──そういう類いの人々が大勢いました。それが今日の福音書に記されている事実です。
……

全文 → あなたこそ神の聖者

虐げてはならない──エレミヤの言葉

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「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」旧約聖書・エレミヤ書22:3

紀元前600年頃、エレミヤはひとりユダ王国の宮殿に行って、このように神の言葉を伝えました。ユダの王も高官も、当時このような悪を平気で行い、自分の利益拡大を図り、自分の栄誉のために豪華な宮殿を建設していたのです。
今日の日本でも、形は違っても同じようなことが行われていないでしょうか。
エレミヤは迫害されて苦難の生涯を閉じましたが、彼の言葉と精神は、時代を超えて私たちの良心を覚醒させます。
(奈良ワイズメンズクラブ「ブリテン」2018.9 掲載予定)

へりくだる霊と神の憐れみ

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2018 年7 月22 日
奈良基督教会での説教

イザヤ書57:14−21

全文 → へりくだる霊と神の憐れみ

最近の日本の国のあり方を見ていると、失望と怒りが高じてきます。そのひとつは「カジノ法」の成立です。巨大なギャンブル施設が造られることによって、一部の人が大もうけをし、多くの人が不幸に陥るでしょう。そして今でもすでに危うい日本人の正義や公平の感覚がますます麻痺して、精神的退廃が進むでしょう。
……
今日ご一緒に耳を傾けたいのは、最初に朗読された旧約聖書・イザヤ書第57章14節以下です。これは、イエスさまより500年くらい前の預言者を通して語られた主の言葉です。ここには、人間の高慢と神への背き、どうしようもない頑なさが描かれるとともに、それに対する神の深い思いと決意が現されています。
……

「平和」の呼びかけ イザヤ書から

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「わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。
わたしは彼をいやす、と主は言われる。」
    旧約聖書・イザヤ書57:18-19


神が見つめておられるのは、罪と悪を重ね、ついに滅びに瀕した人の姿です。彼は、自分と人と世界を責め、自暴自棄に陥ってしまっています。そのような人を神は見かねて、ついにみずから働きかけて救うことを決意し、その人に呼びかけられます。
「平和、平和」と。

平和を切に願うこの季節。私たちのうちにも神さまからの「平和」の呼びかけが響いていますように。

奈良ワイズメンズクラブ『ブリテン』8月号への寄稿から

会堂長ヤイロの妻の物語

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マルコによる福音書5:21−24、35−43
奈良基督教会・親愛幼稚園「マリア会」での講話
2018年7月4日

 聖書の中には何度も名前の出てくる人物のほかに、名前の知れない人たちもたくさん登場します。名前は記されていなくてもその人にスポットライトが当てられている人たちがいます。しかし今回取り上げるのは、名前はおろか、聖書の物語の中で一言も発しないひとりの女性です。それはカファルナウムの会堂長ヤイロの妻で、12歳の娘の命をイエスによって取り返してもらった母親です。
……

全文→会堂長ヤイロの妻の物語

祭司ザカリア──洗礼者聖ヨハネ誕生日(6月24日)に寄せて

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2018年6月26日
奈良朝祷会での講話
奈良YMCAにて

 ザカリアは先祖代々、主の神殿で祭司の務めをしてきた人でした。その妻エリサベトも祭司の家系をくむ者です。二人はユダの山里に暮らしており、ザカリアは当番のときなど、必要に応じてエルサレム神殿に行って務めを果たす、という生活でした。二人とも神の前に正しい人で、非の打ち所がない、とまで言われていました。二人は長い間子どもが与えられることを願い祈ってきましたが、叶えられず、すでに年が進んだのでもうそのことは諦めていました。

 ある年の8月、ザカリアの属するアビヤ組が当番となり、神殿で務めを果たしていました。その際、聖所に入って香をたく役割を決めることになり、くじを引いたところザカリアが当たりました。祭司の数はとても多かったので、聖所に入って香をたくという役目が当たることは極めてまれで、一生に何度もあることではありませんでした。
……

全文→祭司ザカリア

足を洗ってくださったイエスさまの手

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2018年6月2日
日本国際ギデオン協会京滋奈地区早天祈祷会でのメッセージ
奈良基督教会にて

ヨハネ13:1−17

 時が来ました。そのようにはっきりと聖書に記されています。
「13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 2〜3年前にイエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたことがありました(ヨハネ2:4)。あのカナの婚宴でぶどう酒が足りなくなったとき、母マリアがイエスにそのことを告げると、イエスはそのように言われました。ぶどう酒は血を暗示します。イエスにぶどう酒を求めることは、イエスの血を、ご自身の命を求めることだと、感じられたのです。
「わたしの時はまだ来ていません」

 しかしその時からすでにイエスは、いずれご自分の時が来ること、つまり弟子たちのため、世の人のためにご自分の命を献げる時が来ることを覚悟しておられました。そしてついにその時が来たことを、イエスははっきりと悟られたのです。
……

全文→足を洗ってくださったイエスさまの手

主よ、わたしたちは だれのところに行きましょうか

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2012年8月26日・聖霊降臨後第13主日
奈良基督教会での説教

「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」ヨハネ6:67‐69

 ペテロは言いました。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
 ペテロは問われて、イエスにこう答えました。けれどもそれにとどまらずに彼は、2000年後のわたしたちにも呼びかけています。
……

全文→主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか

主の息吹を受けたニコデモ

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ヨハネ3:1−16

2018年5月27日・ 三位一体主日
奈良基督教会での説教

 今日、わたしたちが見つめたいのは、神の息吹を必要としていたひとりの人、ニコデモという人のことです。
 イスラエルでは有名な教師、聖書学者、指導者でした。年齢は分かりませんが、かなりの年配で、仮に70歳くらいとしておきましょうか。「ユダヤ人たちの議員」(ヨハネ3:1)と書かれていたとおり七十人からなる最高法院の議員です。社会的地位があり、尊敬を受けている人です。しかし、だれにも言いませんが、心の深いところにうずくような悩みがありました。
 そのニコデモが「ある夜」、イエスを訪ねてきました。イエスは当時、ファリサイ派など影響力の強かった人々からは「秩序破壊の危険人物」と見なされていましたから、人目を忍んで夜に訪ねてきたのでしょうか。また彼自身が希望の朝を見出せない夜の闇を、自分のうちに抱えていた、ということかもしれません。
……

全文→主の息吹を受けたニコデモ

マグダラのマリア物語

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親愛幼稚園 マリア会で話したものです。
2018年6月6日

 聖書の中には何人かのマリアが登場します。イエスの母マリア、ベタニアのマリアその他……。それと区別して、彼女の出身地をとって「マグダラのマリア」と呼ばれています。マグダラはガリラヤ湖西岸の町で、当時は土器製造,染色工業,魚の加工などが盛んでした。「マリア」の名は、旧約聖書・出エジプト記に出てくるモーセの姉「ミリアム」に起源を持ちます。「ミリアム」とは「高い」、あるいは「切望された」という意味だと言われます。

 詳しいことはわからないのですが、マグダラのマリアは、いつの頃からか重い病に苦しむようになりました。その苦しみは体よりもむしろ心のほうにありました。
……

全文→マグダラのマリア物語

“霊”が語らせるままに

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2018年5月20日
聖霊降臨日
奈良基督教会での説教です。

全文→“霊”が語らせるままに

「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

 およそ2000年前の今頃の季節の日曜日、今聞いたこのような出来事が起こりました。聖霊降臨です。これがなければ教会は誕生せず、福音は伝えられず、この教会もなく、わたしたちもイエス・キリストを知り、また信じることも起こらなかったのです。逆に言えば、この聖霊降臨の出来事が起こったから、わたしたちはここでこうして礼拝する者となったのです。
 教会が、またわたしたちが生き生きと生きるためには、この最初の聖霊降臨の出来事の記憶がよみがえって、それが今のわたしたちの力となり命となる。それが大事です。そこで今日は、この日何が起こったのかをあらためて確かめてみたいと思います。
……

信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

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使徒言行録11:19−30
2018年5月6日・復活節第6主日
奈良基督教会での説教

今日の聖書日課の使徒言行録には、シリアのアンティオキア教会の始まりのことが記されていました。

「11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」

エルサレムの教会の力ある指導者ステパノが石で打たれて殺されたことがきっかけとなって、エルサレムの教会に対して迫害が起こり、多くの信徒たちがあちこちへと散らされて行きました。

こうしてエルサレムのずっと北の方、シリアのアンティオキアという当時の大都会に教会が成立し、このアンティオキアの教会がイエス・キリストの福音を世界に広める基地の役割を果たすようになりました。……

全文→信仰と愛──アンティオキア教会の始まり

天に昇られたイエスさま

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 復活の後、主イエスは40日にわたってしばしば弟子たちの前に現れ、ご自分が生きていることを示されました。そして40日後に、弟子たちの目の前で天に昇って行かれました。ルカによる福音書にはこのように記されています。

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」24:50-51

 ここで2回も「祝福」という言葉が出て来ます。また日本語訳では「手」となっているところは、ギリシア語原文では複数、つまり「両手」です。

 イエスさまを見送った弟子たちの目に、そして心に刻まれたのは、イエスの祝福の手です。その挙げられた両手から、イエスの愛と平和と命が弟子たちに伝わってきます。たとえ姿は見えなくなっても、イエスの祝福の手がずっと自分たちを守り支えていてくださることを弟子たちは感じて、心を熱くされました。

 天に昇られたイエスさまは、弟子たちからただ離れて行ってしまわれたのではありません。今は父なる神さまの傍らにいて、弟子たちのために祈り、執り成していてくださるのです。

 さらにイエスさまは、昇天に先立って弟子たちに「聖霊を送る」と約束され、それを待っているようにと繰り返し命じられました。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:49

 そこで弟子たちは、イエスが約束された聖霊を待ち望んで祈り続けました。10日後の日曜日、集まって祈っていた弟子たちは、激しく燃える神の愛を経験しました。弟子たちはその喜びを他の人々に伝えずにはおれなくなりました。これが聖霊降臨日(ペンテコステ)、言わば教会の誕生日です。今年は5月20日です。

 イエスさまは今も、わたしたちに向かって手を上げて祝福を注ぎ、他方神に向かってわたしたちのために祈っていてくださいます。わたしたちも最初の弟子たちのように、主イエスの祝福の手を仰ぎましょう。

 聖餐式の終わりに司祭は手を上げて会衆を祝福します。
「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。アーメン」

 昇天のイエスさまの上げられた手が両手であることに気づいて以来、わたしは「父と子と」のところでは片手で十字を切るのですが、「聖霊」のところで両手を上げるようになりました。イエスさまの祝福を会衆に伝えたいからです。
 昇天の主イエスの両手の祝福が、皆さまとともにありますように。

あなた自身の井戸から

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「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。」
        旧約聖書・箴言5:15


「箴言」は旧約聖書の中の一書で、格言集です。「箴」は竹の針のことで、「箴言」とは「人の心をチクリと突く戒め」という意味でしょうか。

ここに掲げた言葉は、夫婦の間の深い信頼と交流を言うもので、人は相手から励ましと力を受けることを述べていると言われます。

けれどもこれを広く主イエスの言葉につなげると、視野が新しく開ける気がします。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 ヨハネ福音書4:14

主イエスはわたしの中に泉を開いてくださるのです。

一人ひとりの中には井戸がある。その井戸はしばしば隠れてしまっています。けれどもだれかがその井戸を見つけて、呼び水を注ぎ込むなら、その人の内なる井戸から水が湧き出し、その人自身を潤すともに、ほかの人をも潤すものとなる。

それをなさったのがイエスです。

イエスとの出会いによって、多くの人は自分の内なる井戸、泉を開発されました。私たちもまた、自己の内なる井戸を開発されるとともに、ほかの人の井戸を開くような働きができればと思います。

ふとこんな言葉も思い浮かびます。

「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。」 イザヤ書12:3



【全文】イエス御自身が真ん中に立ち

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ルカ24:36−48
2018年4月15日・復活節第3主日
奈良基督教会での説教

→ 全文

今日の福音書はこのように始まりました。

 「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカ24:36

 聖書日課をお持ちの方は、今日の福音書本文の始まりの所を見ていただきますと、「24:36b」と書いてあるのに気づかれると思います。これは36節の冒頭(36a)が省略されているということを示してい
ます。何が省略されているかと言うと
「こういうことを話していると、」
という言葉です。
 別に省いてもよい気がするかもしれませんが、しかしこの言葉によって、主イエスの弟子たちがどういう状態にあったかがはっきりとわかるのです。
……


イエス御自身が真ん中に立ち

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復活節第3主日(2018/04/15)

ルカによる福音書24:36−48

 イエスが十字架につけられてから3日目の日曜日の深夜のことです。エルサレムに残った弟子たちと、遠いエマオまで行って戻ってきた二人の弟子たちとが集まって、語り合っていました。復活のイエスさまに出会ったことを熱心に話す人もいれば、それを不思議に思う人、疑わしく思う人もいて、議論は尽きません。

 そうしているうちに、イエス御自身が彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思いました。そこでイエスは言われました。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」ルカ24:38−39

 そう言ってイエスは弟子たちに、ご自分の両手と両足を示されました。そこにははっきりと、釘を打たれた傷跡が残っていました。
 それを見た弟子たちは、確かにイエスさまだとわかって、喜びが湧き起こってきます。それでもやっぱり不思議で、信じられないのです。

 そこでイエスは「ここに何か食べ物があるか」と言われました。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って彼らの前で食べられました。

 わたしたちはイエスの復活について議論し、不思議に思い、また疑います。わたしたちの間では解決がつきません。けれども大切なことは、そのようなわたしたちの真ん中にイエス御自身が立たれる、ということです。そしてなかなか信じられないわたしたちを何とかわからせようとして、イエス御自身が懸命になられる、ということです。

 イエスが御自身をわたしたちに示し、そしてわたしたちの心の目を開いてくださるとき、すべては変わります。惑いと疑いは去り、喜びと力が湧き溢れて、自分の中にそれを押し込めておくことはできなくなるのです。

 わたしたちは聖餐式の初めに「主イエス・キリストおいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と祈ります。

 どうかこの祈りのとおりに、復活の主イエスがわたしたちの真ん中に立って、わたしたちを惑いや疑いから解放し、喜びで満たしてくださいますように。

(日本聖公会京都教区ホームページ「今週のメッセージ」)
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