Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

聖書

「一人の従順によって」

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「一人の従順によって」
ローマ5:15-19
2020年6月21日・聖霊降臨後第3主日の使徒書から

明日(2020/06/21)は説教しないので、以前のものをご紹介します。

(1)2014 年 6 月 22 日・聖霊降臨後第 2 主日
西大和聖ペテロ教会での説教 →以下をご覧ください。
「一人の従順によって」

(2)奈良基督教会第6回公開聖書講座(2017年5月20日)
  およびOCCカレッジ (2018 年 1 月 27 日)で話した「ローマの信徒への手紙 『恵みと信仰──キリスト教の根幹』」の一部。
全文は以下をご覧ください。
「一人の従順によって──アダムとキリスト」

 ここでは(2)を紹介します。宗教改革500年ということもあり、ルターへの言及が多くなっています。
────

4. 一人の従順によって──アダムとキリスト

 第5章はわたし個人にとっても一番大事なところですが、ルターは『ローマ書講義』(1515年)の中で次のように言っています。

 「使徒は本章においてこの上なく喜ばしい、この上なく溢れる喜悦をもって語る。全聖書のうちにも本章に比すべきテキストはほとんどひとつも見当たらない。」(新教出版社、1983)

 前半から数節を読んでみましょう。

「5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

 「5わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」

 これはすでに起こってしまっている、言わば客観的な事実です。わたしたちが想像したり思い込んだりするのではない、神の側からの事実。これが恵みです。わたしが信じる/信じない、受け入れる/受け入れない、に関係がない。しかしその事実をわたしのこととして知る、認識する、経験する──これが信仰です。

 わたしたちの信仰が先に立つのではなく、神の恵みの事実が先にある。それがわたしたちに働きかけている。そしてわたしたちがそれを知らされて知ったとき、わたしたちの側に大きな喜びが起こります。神の恵みがわたしたちを動かし、わたしたちを生かすようになる。信仰とは、神の恵みの事実に対してこちらの心の目が開かれ、耳が開かれて、わたしたちの口と体でそれに答えて生きる。恵みに動かされ、影響され、生かされて、こちらからも熱心に生きるようになることです。

 今回のタイトルを「恵みと信仰──キリスト教の根幹」としたのですが、それはここのところです。「わたしたちは神の恵みにより、信仰をとおして、救われ、生かされる」と言ったらいいでしょうか。

 ただし土台は神の恵みです。土台をはっきりさせておく必要があります。パウロはここでこう言いました。

「わたしたちがまだ弱かったころ」「わたしたちがまだ罪人であったとき」、そのときに「キリストがわたしたちのために死んでくださった。」不信心な者を救おうとされる神の決意と行動がすでに実行された。そうであれば、不信心、不信仰な者も救いの内に招き入れられています。

 この後、5章の後半は「アダムとキリスト」という小見出しが付いています。

 「5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」

「一人の人によって罪が世に入り……」。

 この「一人の人」とはアダムです。神に背き、罪を犯し、苦しんで、やがて滅びていく。このアダムが、言わば全人類の代表です。アダムにおいて起こったこと、それはあらゆる人に通じている。アダム的連帯──これはわたしが勝手に使う言葉ですが──の中にわたしたちすべては閉じ込められてしまっている、というのです。どうしようもない悲しい人間の現実です。

 ところが、それが結論ではありません。アダムではなく、もう一人の方がいてくださるのです。

「5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」

 一人の人イエス・キリストが、全人類の罪と死と滅びを引き受けて、そうしてアダム的連帯の中に閉じ込められたあらゆる人々を解放されるのです。アダム的連帯が強力であったとすれば、それよりはるかに強力なイエス・キリストの存在と業がアダム的連帯を打ち砕き、あらゆる人々をご自分のもとに引き寄せられる。

 アダム的連帯ではない、キリスト連帯──これもわたしの言葉ですが──のうちにわたしたちは入れられるのです。人類の代表者はアダムではありません。イエス・キリストが人類の代表者なのです。

 「5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 だれ一人神に対して従順ではありえない。ただ一人イエス・キリストが神への従順を貫いて生き、死なれた。このゆえに、わたしたちは罪人でありながら、不従順でありながら、それにもかかわらず神は、わたしたちを正しい者、愛する子として受け入れてくださる。これによって魂は休らうことができます。

 むつかしい理屈のように聞こえたかもしれません。しかし実は、わたしはこの箇所、この言葉で生きながらえることができたのです。

 30数年前、わたしはあることで心に深い負い目を抱えていました。神学校の教師になりたての頃でした。特別何か悪いことをしたのではありません。だれかがわたしを責めたのでもありません。秘密を隠していたのでもありません。けれどもわたしは、ある具体的なことで、自分の仲間たちを、同志を裏切ったという思いに苦しんでいました。そのことが心にのしかかってくると、食事も喉を通らなくなる。自分の存在そのものが危うくて、生きて行けないように感じてしまう。そういう状態を抱えながら神学校の授業をし、礼拝をし、説教をしていました。

 どこに救いがあるのかを呻き求めて、聖書を読んでいました。そのようなとき、このローマ書第5章の言葉に出会ったのです。

 「19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」

 ただ一人、イエス・キリストの従順によって多くの人が正しい者とされる。わたしは正しくなくてよい。イエス・キリストがおられるから、この方がただ一人神への従順を貫かれたから、それでよい。わたしの救いはこの方が確保していてくださる。わたしは生きることを許されている。生きていてよい。この言葉のゆえに、わたしは死なずにすんだのです。

 先ほどの言葉で言えば、わたしはアダム的連帯から断ち切られて、キリストのうちに確保されていることを知ったのです。

 ルターは『キリスト者の自由』の中でこう述べています。

 「罪はキリストの中に呑み込まれ、溺れさせられてしまう。」

 パウロをイエスと切り離して、パウロのことを観念論だとか幻想だとか言う人がいます。しかしパウロの語ってくれた一言がわたしを闇から、死から救ったのですから、わたしはそういう人には組みしません。

主イエス・キリストの恵み、 神の愛、聖霊の交わり──三位一体主日によせて

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創世記1:1−3
コリント二 13:11−13
2020年6月7日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
上野聖ヨハネ教会での説教

全文PDF → 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり──三位一体主日によせて

 もう15年以上も前のことです。ある晩、大きな叫び声が外から聞こえてきました。出て見ると牧師館の前にひとりの信徒が倒れそうな状態で、わたしに言うのです。

「祝祷ください、祝祷ください、祝祷ください……」

 祝祷というのは、教会に馴染んでおられる方はよくご存じでしょう。礼拝や集会の最後に唱える祝福の祈りです。祈祷書に繰り返し出て来ます。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

 事情がわかりませんが、とにかくその方は「祝祷ください」と言うので、わたしは言われたとおりに祝祷を唱えました。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。」

 あまりに苦しそうだったので、背中をさすりながら言いました。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたとともにありますように。アーメン」

 しばらくするとその人は落ち着いて、「ありがとうございました」と言って帰って行きました。あんな対応でよかったのかどうかずっと気がかりでしたが、その後に出会ったとき、元気そうだったので、深い話もしないままに過ぎてしまいました。

 その祝祷が今日の使徒書の最後に出て来ました。パウロの書いたコリントの信徒への手紙二の第13章。その最後の祈りです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」13:13

 わたしたちの祝祷はここから来ています。パウロは宛先のコリントの人々に向かって祈っているので、「あなたがた一同と共に」と言っているのですが、わたしたちの教会ではそれを「わたしたちとともに」と変えて用いているのです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

 これは何を祈っているのでしょうか。あの夜、祝祷を求めてやって来た人が期待したような救い力がこの祈りにはあるのでしょうか。

 今日は三位一体主日。父と子と聖霊なる三位一体の神を特に心にとめて賛美する日です。祝祷の元になったこのパウロの祈りの中に、三位一体が込められています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」13:13

 それで今日はこの三つを、短くときほぐしてみることにしましょう。

 まず第1に「主イエス・キリストの恵み」です。あまりにも聞き慣れた言葉なので何も感じずに通り過ぎてしまいそうです。けれどもこの主イエス・キリストの恵みを経験した最初の人々は、この言葉を口にし、文字にするとき、特別な心の高まりを覚えていました。

 たとえばヨハネ福音書記者はこう言います。

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:14

 クリスマスの出来事を歌っています。神の子が肉体をもった人間となって、赤ちゃんとなってわたしたちのところに来られた。その方から発せられる光──この地上にはない、清らかで温かな光がわたしたちを包みます。純粋で真実な恵みの光がわたしたちの中に浸透し、わたしたちの目と心を清めて真理に目覚めさせてくれます。この方、イエス・キリストがわたしたちを罪と闇を引き受けて、ご自分は死んでわたしたちを新しく生かしてくださいます。キリストの恵みはわたしたちを引き寄せて、わたしたちをご自身のものとします。この方の恵みこそが人を生かし、世を救うのです。困難を抱えた人のために、主イエス・キリストの恵みが注がれるように祈らずにはいられません。

 第2は「神の愛」です。神はどのような方であって、どのように働かれるのか。その最初の働きを今日の旧約聖書が伝えています。聖書の始まり、創世記の冒頭です。

 「1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 これは宇宙の始まりを科学的に説明しようというものではありません。2節の言葉に注意してみます。「混沌」「闇」「深淵」。いずれも恐ろしい言葉です。秩序は破壊され、混乱の中で何の支えもなく、底知れぬ闇の中に閉じ込められて何の希望もない。しかしこの「混沌」「闇」「深淵」の水の面(おもて)を神の霊が動いている。神が何かをなそうとしておられるらしい。何でしょうか。

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 「混沌」「闇」「深淵」。これはわたしたちの世界、わたしたち人間の現実のことなのです。混沌と闇の中で滅び沈んでいくしかないと思われた現実。そのわたしたちの現実に向かって神が呼びかけられる。

「光あれ。」すると光があった。

 神さまはわたしたちのつらい現実、希望のない現実をご存じです。しかし神はわたしたちを愛しておられるがゆえにわたしたちを闇と混沌の中に放置されない。光のないわたしたちに向かって呼びかけて「光あれ」と言われる。するとわたしたちの前に、わたしたちの周りに、わたしたちの中に、神の光が照りだす。希望が生じる。神がわたしたちを愛される、その愛のゆえに、「光あれ」と呼びかけて光を造り出してくださる。それはわたしたちが希望をもってしっかりと生きるためです。これが聖書の冒頭です。

 そして神はわたしたちを愛するがゆえに、み子イエス・キリストをわたしたちに送ってくださいました。

 神の愛がわたしたちとともにありますように。

 第3は「聖霊の交わり」です。これは何でしょうか。交わりとは「交流」です。何と何の交流か。神さまとわたしたちの交流です。聖霊は神さまとわたしたちを交流させてくださる。神の愛がわたしたちの中に注ぎ込まれて、反対にわたしたちの思いが神に注がれて、そのようにして神さまとわたしたちの間に真心と愛の交流が起こる。神はわたしたちに疎遠な方ではなく、わたしたちを生かす生きた方であることを聖霊はわたしたちに経験させる。わたしたちと神とを出会わせ、結び合わせ、命の交流をさせてくださる。これが聖霊の交わり、聖霊が与えてくださる交わりです。聖霊はイエスさまの声をわたしたちに聞かせ、イエスさまの命をわたしたちに注いでくださいます。

 同時に聖霊は、わたしたちの間に働いてくださいます。わたしたちの間に真心の交流が起こり、信頼と愛と協力が生じます。

 聖霊の交わりがわたしたちとともにありますように。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりは人を、わたしたちを、世界を救う力を持っています。それですから、わたしたちは祝祷を唱え、あるいは聞くとき、大切にしたい。主イエス・キリストの恵みがわたしたちを包み、神の愛がわたしたちを浸し、聖霊の交わりがわたしたちを潤し生かしてくださることを信じ期待して、アーメンを一緒にしっかり唱えましょう。祝祷の中で三位一体の神が働いてくださるのです。

 ご一緒に心をこめて祝祷を唱え、祈りましょう。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」

神の愛の火──聖霊降臨日に寄せて

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使徒言行録2:1−4
コリント一 12:4
2019年6月11日
奈良朝祷会(奈良YMCAにて)

全文PDF → 神の愛の火──聖霊降臨日に寄せて

 この前の主日、6月9日は聖霊降臨日(ペンテコステ)でした。
今からおよそ2000年前の日曜日。復活の主イエスを天に送ってから10日後の主日。人々が集まって祈っていたとき、聖霊の火が降(くだ)りました。神の愛が炎のように燃えて降って来て、一人ひとりの上にとどまりました。集まって祈っていた人々の心は、神の愛の火を受けて熱く燃えました。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録2:1-4

 これが教会を誕生させました。こうして福音の伝道が始まりました。聖霊の火は世界に広まり、日本に至り、奈良のこの地に至りました。聖霊の火が燃えたので、聖霊の働きに動かされたので、聖霊の賜物をいただいたので、ここにいつくもの信仰共同体である教会、祈りの家である教会が誕生しました。その歴史、そのつながりの中にわたしたちはいます。
 
 ところで最初の教会を誕生させた聖霊の火は、三つのことを人々にもたらしました。
 第1は、人々の心を喜びで満たした、ということです。何が喜びであったか。
 イエス・キリストがはっきりとわかったのです。イエスさまが生まれて生きて死んで復活されたことが、わたしたちの救いであり希望である、ということがわかった。イエスの声、イエスのまなざし、そしてイエスの存在そのものがわたしたちの前に、わたしたちの傍らに、さらにわたしたちの内側に臨んでおられる。イエスが生きておられるのでわたしたちも生きることができる。神の愛を、神の救いを、イエス・キリストにおいて決定的に知ったのです。

 聖霊の火がもたらした第2のことは何でしょうか。今日の使徒言行録の続きに記されています。ペテロはイエス・キリストの十字架と復活を集まってきた人々に語りました。
 「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」2:37
「大いに心を打たれ」と訳された言葉は、端的に言えば「心を突き刺された」という意味です。韓国語の聖書ではそのとおり「マウメ チルリョ(마음에 찔려)」と訳されています(改訳改訂版)。

 十字架に釘打たれて血を流すまでに人を愛されたイエス・キリストの前に立ったとき、自分がいかに間違った生き方をしてきたかを人々は痛切に感じたのです。

 それまで人々は怠惰であったかもしれないし、反対に熱心であったかもしれません。積極的であったかもしれないし、消極的であったかもしれません。自分を誇って高慢であったかもしれないし、反対に自分を卑下していたかもしれません。けれども人々は罪を知りませんでした。自分に固執することは知っていたけれども、自分が砕かれるということは知りませんでした。

 しかしペテロの言葉をとおしてイエス・キリストを知ったとき、自分の過ち、自分の頑なさと破れ、神への背きを知った。人を愛するということを知らなかったことを知った。そのような古いままの人々の心を、神の愛の火は焼いたのです。人々は神の愛の火によって清められたのです。

「わたしたちはどうしたらよいのですか。」
「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」
使徒言行録2:38

 この日、イエスを信じて洗礼を受け、新しい人として出発した人は3000に達したと言われます。このペテロの言葉の終わりに注目しましょう。
「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
 洗礼をとおして受けるのは聖霊だというのです。洗礼は神の愛の火をいただくことなのです。

 聖霊の火がもたらす第3はこれです。神の愛の火は、恵みの賜物を一人ひとりに与える、ということです。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」コリント一 12:4
 神の愛の火である聖霊は、一人ひとりにそれぞれ良き恵みの賜物をお与えになります。わたしたちはこれを受ける。いただく。すでに受けているし、さらにそれをはっきり知って、これを神さまの人々のために生かすようになる。神の火がそれをさせてくださるのです。

 祈ります。
 神さま、あなたの愛の火である聖霊をわたしたちに与えてください。聖霊によってあなたと人を愛して生きることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

あなたがたに聖霊が降ると

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使徒言行録1:1−14
2017年5月28日・昇天後主日
奈良基督教会での説教です。

全文PDF → あなたがたに聖霊が降ると

 今日は昇天後主日。主イエスが天に昇られたことを記念しながら、イエスの約束を心に刻んで祈る日です。

 今うたいました聖歌187の1節
 ♪ 父の家に 昇りゆきて ほめうたのなかに まします主よ
  罪の重荷 負える者に 誓いの聖霊 降(くだ)したまえ
 
 父なる神の家に昇ってゆかれた主イエスさま、
 今、天使たちの賛美の歌の中におられる主イエスさま、
 地上にあって罪の重荷を負って苦しんでいるわたしたちに
 あなたが約束された聖霊を注いでください。

 わたしたちに必要なのはこれです。イエスさまが、わたしたちに何より必要と思われて、それを送ることを決意し約束されたのは聖霊。主イエスが約束された聖霊を祈り求めるのが、今日の主日の趣旨です。

 韓国の人が祈るのを聞いていてしばしば印象的なのは「간절히 기도합니다(カンジョリ キドハムニダ)」という言葉です。「カンジョリ」というのは、漢字で書けば「懇切に」なのですが、それは「切に」という意味です。「切に、切にお祈りします」という言葉をほんとうに切に祈られるのです。

 その祈りの切実さには二つの要素があると思います。一つは、祈る人の抱えている困難さです。困難であるがゆえに切に祈らざるをえない。人のために祈る場合は、その人への深い思い、本物の同情があります。
 もう一つは、祈る相手、つまり神さまへの信頼です。神さまへの一途(いちず)な姿勢です。抱えている困難を一途に神さまに聞いていただく切なる祈り。
これが、わたしたちに必要なものです。

 ヨハネ福音書によれば、主イエスは最後の晩餐において聖霊の約束をされました。何度も繰り返されたのですがそのひとつ。
 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」16:13
 聖霊がいちばん大事なことを分からせてくださる。これはイエスさまの遺言です。

 主イエスは復活の後、40日にわたってしばしば弟子たちに現れて、ご自分が生きていることをお示しになりました。そしていよいよ弟子たちを離れて天に昇ろうとされたとき、再び同じ約束をされました。それが今日読まれた使徒言行録です。
「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」
1:4-5
 わたしが以前から言っておいた、父なる神が約束されたものを待っていなさい。他のことは忘れて、約束されたものを待っていなさい。それは聖霊です。あなたがたが受ける聖霊はあなたがたを力づける。あなたがたを造り変える。あなたがたを喜びで満たす。聖霊を祈り求めて待っていなさい。

「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:8
これはイエスの遺言であり、希望を与える約束です。

 オリーブ山で主イエスを天に見送った弟子たちは、しょんぼりと山を下ったのではありません。イエスの約束を胸に刻んで、聖霊を祈り求める熱意を心に与えられて、エルサレムの仲間の家に戻ってきました。これからなすべきことはひとつです。約束の聖霊を待ち望んで祈ることです。
「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。」1:13

 ここに漠然と「弟子たち」とは書かれず、固有名詞が挙げられていることに注意しましょう。

 アンデレ。彼は、ヨハネ福音書によれば、イエスに従った最初の弟子のひとりであって、兄弟ペテロをイエスのところに連れて行きました。
 フィリポ。彼はバルトロマイ(ナタナエル)をイエスのもとに連れて行った人です。大事な場面でそっと登場しますが、最後の晩餐では不適切な言葉を口にしてイエスを悲しませました。
マタイ。元徴税人です。仕事柄人々から嫌われていた人ですが、イエスに呼ばれたとき、それまでの生活を断ち切ってイエスに従った人でした。
熱心党のシモン。ローマ帝国の権力支配に抗して立ち上がった人です。

 それぞれに個性があり、イエスと出会う前にはそれぞれの人生の歩みがありました。皆、仲がよかったとは限りません。弟子たちの間にも葛藤があり、場合によっては相互の不信もありました。しかし皆がイエスによって集められた人たちです。葛藤を超えて、彼らは同じ悲しみを経験し、同じ喜びを経験し、今、同じ一つの希望を抱いて一緒に祈るのです。一人ひとりに聖霊が必要であり、集まり全体に聖霊が必要です。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」1:14

 聖霊を求めて祈る群れの中に女性たちがはっきり位置を占めて存在しています。イエスの母マリアがいて、イエスの兄弟たちもいます。

「彼らは皆、……心を合わせて熱心に祈っていた。」
 イエスが約束された聖霊を求めて祈っていました。
 この最初の教会の祈りと姿が、わたしたちの祈りと姿になってほしい。

 聖霊とは何でしょうか。聖霊は来て、何をもたらすのでしょうか。
 聖霊は風となってイエスの息吹をもたらします。聖霊の風はわたしたちの心と体の中に吹き込まれて、わたしたちの体と心の隅々までを活性化する、力づけるのです。
 聖霊は火となって、わたしたちの抱えている不純なもの、悪しきものを焼き払い、わたしたちを清める。と同時に神の愛をわたしたちの内に燃やすのです。
 また聖霊は光となってわたしたちのうちに宿ってくださって、イエス・キリストの存在と愛と救いをはっきりと経験させてくださるのです。

 聖霊は命の与え主。
 主イエスは、これが、これこそがわたしたちに必要であること知って、わたしたちを愛して、これを送ることをわたしたちにも約束してくださいました。

 祈ります。
 神さま、すでにあなたが与えてくださった聖霊を大切に保たせてください。今日、この礼拝のうちに聖霊を注いでください。そしてこれからの歩みのために、さらに豊かに注いでください。聖霊を求めてわたしたちも最初の弟子たちとともに祈るようにしてください。聖霊の祝福がわたしたちを生かしますように。聖霊によって神さまがわたしたちをとおして働いてください。アーメン


人の子が神の右に 立っておられるのが見える

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使徒言行録7:54−60
2014年5月11日・復活節第4主日
奈良基督教会での説教を改訂したものです。

全文PDF → 人の子が神の右に 立っておられるのが見える


 今日、使徒書として朗読された使徒言行録第6章、7章は、ステファノ(ステパノ)の殉教を伝えていました。最初の殉教者ステパノの記念する日は12月26日です。それなのになぜ、主イエスの復活を記念する復活節に彼の殉教の記事が朗読されるのでしょうか。

 それは彼ステパノが、主イエスの復活の証人であった。言い換えるとこのステパノの中に、復活の主が生きておられたことを、わたしたちが知るためではないでしょうか。

 彼が、主イエスの直弟子であったかどうかはわかりません。イエスさまご自身も、また多くの主な弟子たちも、ヘブライ語(厳密に言うとアラム語)を話していました。ところがステパノはギリシア語を話すユダヤ人だったようです。

 最初の教会がエルサレムに始まり、次第に人数が増えて行ったとき、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人が、教会には混じり合っていました。両者の間に深刻な葛藤が生じました。少数派であるけれども次第に増えつつあるギリシア語会衆が、差別扱いをされているというのです。特に、最初の教会は貧しいやもめの生活を支えることを大切にしていたのですが、ギリシア語会衆のやもめが軽んじられて、分配が公平でないという声が上がっていました。

 貧しい人々を支援するという教会の大切な働きをしっかりと行うために、指導者である12人以外に7人の指導者が新しく任命されました。この7名のひとりがステパノでした。

 しかしステパノは教会の奉仕的な働きのみを担ったのではありません。彼は“霊”と知恵に満ちて(使徒言行録6:3)、主イエスによる救いを非常に力強く語りました。彼の言葉と行動を通して、多くの人々が主イエスご自身に出会う経験をしました。次第に信徒は増えて行きました。

 ところがそれによってステパノは、力を持った人々の憎しみを買うことになったのです。

 主イエスが多くの人々にいのちを与えたように、ステパノは多くの人々に主イエスのいのちを伝えました。主イエスが権力を持った人々によって秩序破壊者として迫害され、捕らえられたように、ステパノも迫害され、捕らえられました。

 捕らえられたステパノはユダヤ人の議会、最高法院に引いて行かれ、大祭司から尋問を受けることになりました。主イエスと同じです。

 ところが尋問が、かえってステパノにとっては福音を語る機会になったのです。被告であるステパノ、裁きを受けているステパノが堂々とイスラエルの救いの歴史を語り、最後には裁きを行っている人々の罪を明確に指摘するに至ったのです。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」使徒言行録7:51-53

 ステパノは、無実の神の子、救い主イエスを処刑した罪を指摘したのです。これを聞いた人々は心を突き刺されました。ある場合には、これによって回心が起こりました。心を突き刺されて、自分たちの良心が疼(うず)き、救いを求める悔い改めが起こりました。それが聖霊降臨日の出来事です(使徒言行録2:37)。

 しかしこのときはそうはなりませんでした。ステパノの言葉によって心を突き刺された人々は激高しました。

「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」7:54

 怒りと憎しみが燃え上がり、ステパノに対する殺意が人々を突き動かします。自分が殺されることを感じたステパノは、天を仰いで祈るしかありません。

「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」7:55-56

 ここで「ステパノの前に天が開いた」と言われているのですが、天が開くというようなことが聖書のどこかにあったでしょうか。イエスの洗礼のときです。ヨルダン川で洗礼を受けたイエスが水から上がって祈っておられると、天が開けました(ルカ3:21)。

 天が開けると、神の現実がありありと見えてくるのです。神の栄光の輝きが見える。その中にイエスが、神の右に立っておられるイエスがステパノにははっきりと見えました。

 イエスが神の右に立っておられる。

 ところで聖書の別の箇所では、天に上られたイエスは「父の右に座しておられる」と言われています(マタイ26:64、ルカ22:69、ロマ8:34)。

 わたしたちの礼拝でも、先ほど歌った「大栄光の歌」では「父の右に座しておられる主よ」と言いました。わたしたちの信仰告白、ニケヤ信経でも「天に昇り、父の右に座しておられます」と唱えます。

 ところがこのときステパノが見たのは、立っておられるイエスです。イエスが立ち上がられた。非常事態だからです。死のうとするステパノを、殺されようとするステパノを引き受けようとして、抱きとめようとして、イエスは立っておられる。

 すでにここでステパノはイエスの愛によって抱かれました。究極の危機にあってステパノは究極の平安で満たされました。

 彼は言います。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」7:56

 しかし

「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。」7:57-59

 自分のことを引き受けてくださったイエスに、ステパノは自分をゆだねたのです。

「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」7:60

 天を仰ぎ天と通じたステパノ、イエスに自分を引き受けていただいたステパノには、もはや恐怖も怒りも憎しみもありませんでした。ただ、憎しみにかられて自分を殺そうとしている人々があまりにあわれで痛ましかった。絶命しようとするとき、ステパノは大声で叫んで、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って、眠りにつきました(7:60)。

 主イエスの最期と、何と似ていることでしょうか。

 ステパノの中にイエスが生きておられたからです。

 思い返しましょう。

 ステパノは最初の教会の葛藤の中で立てられた指導者でした。教会の人々の必要と公平と一致のために現実的に尽力しました。しかし彼の働きは教会内にとどまらず、外に向かって強力に福音を伝えるものでもありました。その結果、世の過ちを指摘することになり、怒りと憎しみを買って捕らえられて死ぬことになりました。

 彼は危機のなか、天を見つめ、天を仰いで祈りました。そして、神の右に立っておられるイエスを見ました。

 わたしたちも危機のときに、主に従おうとして解決不可能な困難に直面し、かえって脅かされるときに、天を仰いで祈りたい。そしてイエスを見たい。

 たとえわたしたちはステパノのようにイエスを見ることができなくても、ステパノのために立ち上がられたイエスは、わたしたちの危機のときにわたしたちを引き受けようとして立ち上がってくださる。イエスがわたしたちを抱きとめてくださるのです。

 イエスの愛がわたしたちをひたしますように。

 最初の教会の人々は、ステパノの死を嘆きつつ、イエスさまの言葉を思い出したかもしれません。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5:8

 祈ります。

 神さま、わたしたちにも天を仰がせてください。わたしたちが危険にさらされるとき、わたしたちのために立ち上がられるイエスを見させてください。虐げられて苦しむ人々のたちに立ち上がられるイエスを見させてください。イエスの愛がわたしたちのうちに浸透するようにしてください。アーメン

わたしたちの心は燃えていたではないか

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ルカ24:13−32
奈良市内キリスト教会合同イースター早天礼拝
2016年3月27日・復活日
奈良福音教会での説教

全文PDF 心は燃えていたではないか

 二人の弟子が遠い山道を下っていきます。日曜日の午後、イエスが十字架にかけられて殺されてから三日目です。二人の弟子たちは、危険なエルサレムを脱出しました。エルサレムから西へ60スタディオン、11劼らい離れたエマオにある家にひとまず身を置こうと考えたのです。

 二人は、二日前の金曜日にイエスが十字架の上で処刑されて無残な最期を遂げたことが頭から離れません。あのとき、昼間にもかかわらず全地は暗くなって午後3時に至り、イエスは大声で叫んで息絶えられたのでした。

 もう一つ、今朝から胸にかかっていることがあります。今朝早くにイエスの墓に行った仲間の女の人たちが戻ってきて言うには、「イエスさまのご遺体がなかった。天使が現れて『イエスは生きておられる』と告げた」と言うのです。そんなことがあるでしょうか。
 立ち直れない打撃を受けたうえに、理解できないことを聞かされて、二人は悲しみと絶望と混乱のうちにありました。

 後ろから誰かが追ってきます。こわいと感じましたが、追いついてきて道連れになったその人は、おだやかな優しい顔をしていました。

 その人はこの数日に起こったことを何も知らないようだったので、二人はいろいろ話しました。木曜日の最後の食事のこと。深夜のゲッセマネでの逮捕。金曜日の十字架の死。そして今朝、女の人たちがイエスの墓に行ってみると遺体がなくなっていたという話……。
 その人はずっと聞いてくれました。二人の悲しみ、絶望、恐怖、迷いや疑い……それらすべてをよく聞いて受けとめてくれたのです。

 聞き終えたその人は、やがて今度は自分のほうから話し始めました。
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」ルカ24:25-27

 じっと二人に耳を傾けていたその人が、聖書の話をしてくれます。今度は二人が耳を傾けます。その人は聖書全体にわたって、救い主の受ける苦難と、苦難をとおして入る栄光について話してくれました。それを聞きながら、二人は不思議に自分たちの心が熱くなるのを感じていました。

 日が暮れるころ、三人は目的地エマオに到着しました。その人はなお先に進んでいく様子だったので、二人はその人を無理に引き留めて、「今夜はどうかわたしたちと一緒にお泊まりください」と行って、家に迎えました。夕食の席に着いたとき、その人がパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて皆に配ってくださった。そのとき、二人の目が開かれて、それがイエスであることがわかった、というのです。

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」24:32

 このエマオの物語は、わたし個人にとって大切な物語です。今から44年前、大学卒業の近づいたころのことです。わたしは学生時代の後半、ずっと「復活」がわからなくて悩んでいました。ある日、大津から大阪への通学の途中、京阪電車の特急に乗っていて、ある本を読んでいて、その関連でルカによる福音書を開きました。この箇所です。日本聖書協会口語訳で引用します。

「彼らは互いに言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。』」24:32

 そこを読んだとき、私の心も熱くなりました。何かが自分の中で燃えるような気がしました。その熱いもの、温かいものが、1日たっても2日たっても、1週間、ひと月たっても消えないで、静かに燃えていました。うれしかった。これが復活ということか。理論的に説明がついて納得したわけではありません。しかし、復活したイエスが生きておられる、ということが事実として力をもってきて、私の中で燃えていました。

 失望落胆してエルサレムを逃れた弟子たち。女の人たちが伝えてきたことを信じることができず、話し合い論じ合っていた弟子たち。その弟子たちを追ってイエスが、イエスご自身が近づいて来られました。イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩き始められました。
 復活がわからないといって悩んでいるわたしに、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩んでいてくださいました。

 わたしたちが苦しいとき、打撃を受けたとき、疑い迷うとき、イエスの心がわたしたちのために燃えています。

 エマオへの道をともに歩んでくださった復活イエスが、わたしたちのところにも来てほしい。あの弟子たちのように、わたしたちの中に無理にでもイエスさまを迎え入れたい。
イエスがわたしたちの中に来られるとき、イエスご自身がわたしたちの真ん中に立たれます。

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛 美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」24:30

イエスはわたしたちのためにもそうしてくださいます。

 そのとき、弟子たちの目が開かれて、それがイエスであると知ったように、イエスがここにおられると知ったように、わたしたちも信仰の目が開かれて、復活の主を見出すことができますように。

信じる者になりなさい

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ヨハネ20:24-29
2008年3月30日・復活節第2主日
京都聖三一教会での説教

全文PDF → 信じる者になりなさい

 トマスには悔いがありました。自分は、イエスさまを愛して、一緒に死ぬ気になっていたし、そしてそれを決意して仲間の弟子たちに呼びかけもしたのに、結局は恐ろしくて逃げてしまった。
あのとき仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った自分の言葉が自分を苦しめます。

 1週間前に、よみがえったイエスが他の弟子たちのところに来られたと聞きました。とてもそんなことは信じられませんでした。強く否定してトマスは主張しました。こう記されています。
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」ヨハネ20:24-25

 トマスは苦しみました。他の弟子たちが集まっているところにほんとうにイエスは来られたのだろうか。自分がイエスにお会いできなかったのは、自分が特別イエスを裏切ったからではないか。「イエスさまと一緒に行って死のう」と自分から言っておいて、しかも自分を守るために逃げた自分は、他の弟子たちよりも罪が重い。この自分をイエスは見捨ててしまわれたのではないか。
 そう思うと耐えがたい気がしました。イエスの復活を否定してそれを強く主張することで、かろうじて自分を保っている状態であったかもしれません。

 1週間後、イエスはトマスが他の弟子たちと一緒にいるところに来られました。トマスを目指して来られました。イエスは彼に言われました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネ20:27

 個人的なことを少し申しますが、わたしは数年にわたって「信仰」という言葉がとてもいやだったことがあります。こわかったといってもいいかもしれません。それは今から30年あまり前の神学生の時です。
 非常にはっきりした信仰と召命感をもって神学校に入学しました。ところが数ヵ月して調子が悪くなり、そのあいだにあれほどはっきりしていたわたしにとっての神さまが分からなくなってしまったのです。祈っても空を打つような空しさ。孤独、あせり、不安、絶望。
 信じることができない。信じたいけれどその力がない。信じる根拠が自分にはない。もし「信じることによって救われる」のなら、信じない者は、信じたいけれども信じる力のない自分は、救われないのか。

 自分の信仰に頼ることはできません。このような不信仰な自分がそれでも救われるとしたら、神さまご自身が絶対的な主権をもってわたしを捕まえて救ってくださるしかありません。
 その頃、わたしが支えとして求めたのは、16世紀の宗教改革者のひとり、カルヴァンという人でした。カルヴァンは、人がどうであれ、自分の状態がどうであれ、神の主権的な働きが人を救うことを鮮明に語っていたからです。

 あるいはその時のわたしと、この時のトマスは通じるところがあるかもしれません。信じたいけれども信じることができない。孤独、焦燥、不安、絶望。
 このトマスに現れたイエスはこう言われます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 何の支えも助けもないところで信仰を強要されていると思ってはなりません。信じることは固い義務のようなものではありません。この言葉だけ取り出して教訓にしてしまってはいけないのです。
 イエスご自身がおいでになって、信仰無きトマスに呼びかけられます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 トマスの苦しみと孤独と負い目を、イエスは知っておられました。かつて「一緒に死のうではないか」と言ったトマスに対して、イエスは「わたしと一緒に生きようではないか」と言われます。
 イエスは信じることへと彼を招かれます。わたしがここにいるのだから、あなたは信じることができる。
 トマスの前を閉ざしていた扉が今や開かれて、信じることが許されたのです。信じるとは、自由にされること、解放されること、命が通うことなのです。今、トマスは信じることの幸せに満たされています。

 信じたかった。けれども信じることができなくて孤独で苦しんでいた。しかし今は、イエスが現れてくださったので、信じることができる。トマスはイエスに向かって言います。
「わたしの主、わたしの神!」20:28

 イエスは、わたしたちを目指しておいでになり、わたしたちを愛して捕らえてくださいます。それでわたしたちもイエスを愛して、イエスを呼びます。

 祈ります。
 主イエスさま、トマスのところに来られたあなたが、わたしたちのところにも来て、復活の姿を現してください。わたしたちを不信仰のうちに放置せず、信じることの喜びを味わわせてください。アーメン

見よ、世の罪を取り除く神の小羊

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ヨハネ1:29−41
2020年1月19日・顕現後第2主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 見よ、世の罪を取り除く神の小羊

 イエスさまに洗礼を授けたあのヨハネ、洗礼者ヨハネが声を上げて言いました。
 
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29
 
 イエスが自分のほうに来られるのを見て、思わずそう言ったのです。
 すでに洗礼者ヨハネは、イエスが「やがて来られる方」「来るべき方」であると思っていました。「やがて来られる方」とは、聖書に預言されて、長い間人々が待望していた方です。その方は、世の悪を明るみにし、人々を裁き清めることをとおして救う方であると、ヨハネは信じていました。そしてヨハネは、人々にイエスを指し示しはじめていたのです。しかしそれでもヨハネは、まだイエスのことを十分には理解していませんでした。

 この日、ヨハネはイエスが自分に向かってこられるのを見て
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
と言いました。
 これはヨハネの驚きの声です。決定的にイエスを知った叫びです。よく考え、観察した後にじっくりと答を出した、というのではありません。瞬時に、見て、感じて、わかって、声を上げたのです。
このあとヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」と、今日の箇所で2度も言っています。
「わたしはこの方を知らなかった。しかし、……」1:31
「わたしはこの方を知らなかった。しかし、……」1:33

 今、明確にこの方を知ったからこそ、それ以前は「知らなかった」と、率直に言うのです。しかし今、はっきりと彼の中で腑に落ちました。ヨハネはこう言います。33節の続きです。
 「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が(つまり神さまですね)、『“霊”が降(くだ)って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネ1:33-34
 
 ヨハネは、神さまから聞いていたとおり、イエスに神の霊が降(くだ)ってとどまるのを見ました。イエスは神の霊を受けて、愛と命に満ちておられる。しかし今日、もっと具体的にイエスを見て、はっきりと知り、確信したのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 でも正直に言えば、わたしたちにはよくわかりません。
「小羊」とはどういう意味があるのでしょうか。

 遠い昔のことがずっと毎年記憶され、記念されてきたことがあります。それはイスラエルの先祖の出エジプトの出来事です。エジプトを脱出する直前、イスラエルの家では小羊を屠(ほふ)って食べ、その小羊の血を家の入り口の柱と鴨居に塗ったといいます。主の使いがエジプト人を撃つとき、小羊の血が柱と鴨居に塗られた家は手を付けずに通り過ぎた。それを記念するのが過越の祭です。小羊の血によって守られた昔の出来事を記念するのです(出エジプト記12:21-35)。
 ヨハネはイエスのうちに何を見たのか。過越の小羊です。この方が血を流して死んで、わたしたちを守ってくださる。しかもイエスの命と死と流される血は、世の罪を取り除く。

 しかし「小羊」にはもうひとつ別のイメージがあります。
 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」イザヤ40:11
 神に抱かれ、母とともにある小羊。父であり母である神さまの愛(いと)し子です。その方=イエスが、世の罪を取り除くために苦難を受けて死なれる、とヨハネは見てとったのでした。

 その翌日、ヨハネは再びイエスを見つめて言いました。
「見よ、神の小羊だ。」ヨハネ1:36
それを聞いたヨハネの二人の弟子は、ヨハネから離れてイエスに従いました。わたしたちはどうでしょうか。
 今日わたしたちは、神の小羊と言われるイエスをしっかりと見つめたい。すぐに目をそらすのではなくて、まじまじと見つめるのです。

 第1の姿は、平和な小羊イエスです。
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」イザヤ40:11
と言われたように、神に愛され抱かれている小羊イエスです。この方を心の目で見つめているうちに、神の愛が、イエスをとおしてわたしたちのうちに注がれ、わたしたちを浸していきます。

 第2の姿は、世の罪を除くために苦難を負われる神の小羊イエスです。ヨハネがはっきり見て知ったのは、この神の小羊イエスでした。
 「世の罪を除く神の小羊」
 わたしたちはこの礼拝で、先ほどの「大栄光の歌」でそう歌いました。わたしたちを愛して苦難を負われるイエスを感じて歌ったでしょうか。礼拝の中でこの後もう一度、同じ言葉を歌います。聖餐を受ける直前です。
 「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」
 3回も繰り返します。神の子の苦難、神の小羊の流された血がわたしたちを救う。わたしたちを愛しとおされる愛が、聖別されたパンと杯をとおしてわたしたちに与えられ、心と体に浸透する。それを深く味わうために歌います。深い祈りと感謝をもって歌いたいのです。

 そして第3の姿は、牧者となって命の泉へと導いてくださる小羊イエスの姿です。ヨハネの黙示録の中にこう言われています。
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれる。」7:17

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
 この方がわたしたちに近づいてこられます。この方がわたしたちを愛のまなざしでご覧になります。この方がわたしたちの罪と重荷を引き受けてくださいます。わたしたちはこの方に従い。この方と共に歩みます。

 祈ります。
 神の小羊なる主イエスさま、洗礼者ヨハネがあなたをはっきりと見て知ったように、あなたをはっきりと見て知ることができますように。あなたはこの世界とわたしたちを愛し、苦しみを受けて死に、世とわたしたちの罪を除いてくださいます。世の罪を除く神の小羊であるあなたをはっきりと知って、信じて従うことができるようにしてください。アーメン

最初の弟子アンデレ

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マタイ4:18−22
2020年1月26日・顕現後第3主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 最初の弟子アンデレ

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」マタイ4:18
 シモン・ペテロの兄弟アンデレ。彼はペテロの陰に隠れがちで目立たない存在です。今日はそのアンデレに注意を向けてみます。
 アンデレはガリラヤ湖北岸の町、ベトサイダ出身の人で、兄弟シモン(後のペテロ)とともにガリラヤ湖の漁師でした。ある日、彼が兄弟シモンとともに湖で網を打っていると、イエスが近づいてきて、二人をご覧になって言われました。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」4:19

 これまで二人は魚をとる漁師でした。しかしこれからは人間をとる漁師。これはどういうことかというと、神さまのために人を捕まえる働きをする。イエスさまかそのように定め、任命されたのです。「人間をとる漁師」。ここにはイエスさまのある種のユーモアがあります。これからふたりは神さまのために人を捕まえる。人を捕まえてどうするのか。食べるのではありません。その人たちを救うのです。その人たちを生かすのです。
迷いと悩みのうちにある多くの人々をイエスは集めようとされています。そのイエスの手となり足となって、人々の幸せのために、人々を呼び集めて、神さまとともに歩み、良い目的のために生きる人となるように働く。そのためにアンデレは、シモンとともにイエスに呼ばれたのでした。
「二人はすぐに網を捨てて従った。」4:20

ところで今日のマタイ福音書にはそのように書かれているのですが、ヨハネ福音書を見ると、別の話が書かれています。
ヨハネ福音書によれば、アンデレは元々イエスに洗礼を授けたヨハネの弟子であった、というのです。洗礼者ヨハネ。彼は切迫している神の裁きを伝えて、神に向かってまっすぐに生きることを強く促した人です。そのようなヨハネの弟子であったということは、アンデレがよほど真剣に生きようとしていた人であったことを示しています。
……

……

主よ、わたしたちの中にあって 進んでください

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出エジプト記34:9
2020年1月1日・主イエス命名の日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 主よ、わたしたちの中にあって 進んでください

「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」出エジプト記34:9

「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。」
 今日の旧約聖書日課にあったこの祈りを、奈良基督教会の今年の年間聖句とし、この年のわたしたちの最初の祈りとしたいと思います。
「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。」

「主よ」 最初に神への呼びかけがあります。わたしたちが呼びかける方は、先にわたしたちに呼びかけてくださった方です。わたしたちを尊いものとして造り、招き寄せ、ここまで導いてくださった方です。その方に向かってわたしたちは「主よ」と呼びかけます。

「わたしたちの中にあって」 他所(よそ)ではなく、ここに、わたしたちの中にいてください、主よ。主がわたしたちの中にいてくださらなければ、わたしたちは中心を失い、土台を失います。ばらばらになり、互いに反目し、またそれぞれが間違った方向へとさまよい出てしまいます。「わたしたちの中に」主がいてほしいのです。わたしたちの中にいてください。
……

天が開いた──イエスの洗礼

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マタイ3:13−17
2020年1月12日  顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 天が開いた──イエスの洗礼


 「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。」マタイ3:16

天が開いた、というのです。これは尋常なことではありません。訳されてはいませんが、ギリシア語本文を見ると「そして、見よ」という言葉が書かれています。「そして見よ、天が開いた。」
これは、それを目撃した人にとっても、それを言い伝えた人にとっても、書き記した人にとっても、特別なことでした。
「見よ、天が開いた。」


なぜなら、天は閉ざされていたからです。天とは、わたしたちの目には見えない、この地上の現実とは別の世界、はっきり言えば神さまの世界です。神は遠くにおられて、わたしたちには近づくことも理解することも感じることもできない。
天は閉ざされたままで、神は沈黙しておられるかのようです。それでも人々は求めていました。信じたいと願いました。神さまを知りたいと切望しました。人々のうめくような祈りが旧約聖書の中にあります。

「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」イザヤ63:19

つらい、耐えがたい時を長く過ごしてきた人々のひとりが、神を叫び求めた祈りです。
「どうか、天を裂いて降ってください。」
その祈りが聞かれる時が来ました。イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき、「見よ、天が開いた」。

閉ざされていた天が開いたのです。神さまの世界が今、あらわになる。神が沈黙を破って語られる。神の息吹が人々に吹き込まれる。それが今、起こりつつあります。
「そのとき、天がイエスに向かって開いた。」
とありますから、まずは天はイエスに向かって開きました。天が開くと、不思議なことが起こります。16節の続きです。

 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」マタイ3:16
 神の霊が、神の力が、人を生かす神の命が、イエスの上に降(くだ)ってくる。それをありありとイエスは見られました。

「鳩のように」。鳩に意味があるのでしょうか。創世記にノアの洪水の物語があります。歴史以前の遠い昔、人間のあまりの悪のゆえに、神は大洪水を起こして世界を一掃された。ノアとその家族は箱舟の上で、来る日も来る日も、雨と海、水ばかりを見ていました。やがて雨はやみ、世界に光が増してきました。ノアは鳩を放ちました。すると鳩は夕方になって帰ってきました。鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていました(創世記8:11)。鳩は神と人との間の回復のしるし。新しい世界と命のしるしです。

イエスの洗礼によって、いま新しい世界、新しい命が始まる。イエスご自身が神の霊を受け、神の命に満たされました。
そして天が開けると、もうひとつのことが起こりました。
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」マタイ3:17
神はイエスにこのように呼びかけられました。

これはイエスさまのみに起こってそれで終わりなのではありません。その反対に、イエスがわたしたちのために天を開いてくださったのです。イエスをとおして、イエスによって、わたしたちに向かって天が開いた。イエスによって神はわたしたちにもご自分を示してくださり、わたしたちにもご自身の霊を、命を、ご自身の息吹をわたしたちに与えてくださる。イエスをとおして神はわたしたちにも呼びかけてくださる。「あなたはわたしの愛する子」と。

ところでイエスの降誕、洗礼、その生涯、十字架と復活は、特定の人だけのためのものではなくて、あらゆる人のためのものです。イエスはただクリスチャンのためだけではなく、すべての人のために天を開いてくださったのです。イエスさまの救いの光はすべての人に注がれています。洗礼を受けなければ救われない、という立場をわたしはとりません。

しかし強調したいのは、洗礼を受けて初めてわたしに開けてくる世界がある、ということです。洗礼をとおしてこそ与えられる温かい命がある。洗礼を受けてこそ聞こえてくる神の声があるのです。
「あなたはわたしの愛する子」
このように呼びかけられる幸せは、何ものにも代えられません。

神さま、開かれた天から注がれるあなたの愛の命と呼びかけをわたしたちにも経験させてください。アーメン



「その光はまことの光」2019降誕日

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ヨハネ1:6−9
2019年12月25日・降誕日
奈良基督教会にて

PDF全文 → その光はまことの光


「1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ヨハネ1:6-9
 洗礼者ヨハネは神から遣わされた人でした。彼の使命は、まことの光である方を指し示すこと、すべての人がその方を信じるように命がけで指し示すことでした。そのヨハネが示したまことの光であるイエスについてヨハネ福音書は次のように語っています。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
 まことの光なるキリスト。この方がこのわたしたちの闇と混乱の世界に来られて、すべての人を照らされる。それは闇と混乱の中にあるわたしたちを救うためです。

 まことの光であるイエス・キリスト。この方は人をまっすぐにご覧になります。人は上辺を見、表面を見る。しかしこの方は心を見られます。この方のまことの光、真実の光が、人の心の奥まで見通してしまうのです。
 イエスはいろんな人と出会っていかれます。この方は人のまこと、真心、真実を求めておられます。そしてあるとき、一人の人を見出されました。その名前はナタナエルです。
 ナタナエルはフィリポの友人でした。フィリポのほうは先にイエスを信じるようになっていて、何とかして友人のナタナエルをイエスと引き合わせたいと思いました。
……

「権威がその肩に」 2019クリスマス深夜ミサ メッセージ

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イザヤ9:5
2019年12月24〜25日
降誕日第1聖餐式(深夜ミサ)
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 権威がその肩に


 遠い昔、イザヤが預言して言いました。

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。』」イザヤ9:5
 
 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」

 ここにわたしたちは赤ちゃんのイエスさま、救い主を見出します。
 ところでイザヤの預言によれば「権威が彼の肩にある」といわれます。その方は権威ある方、権威を帯びた方。
 「権威が彼の肩にある。」
 しかし「権威」というと、いかめしく、何か近寄りがたいものを感じます。実際はどうなのでしょうか。

 成人されたイエスさまが30歳で公に活動を開始されたある日、カファルナウムの会堂の礼拝で説教されました。そのとき、それを聞いた人々、そこで起こったことを見た人々は驚いて口々にこう言いました。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」マルコ1:27
 礼拝に集った人々はイエスの言葉と行動に権威を感じた。何の権威かというと、神の権威です。言い換えれば、イエスをとおして神さまが語っておられるのを、人々は聞いた。人のおしゃべりをやめさせて静けさをもたらし、謙遜にさせる神の声を人々は聞きました。人を愛し憐れまれる神の働きを人々は経験しました。それを「権威ある新しい教えだ」と言ったのです。

 ところで「権威」と訳されたギリシア語は「エクスーシア」ἐξουσία という言葉で、その元々は「本質(ウーシアοὐσία)から出て来た」「本質から溢れ出た」という意味合いの言葉です。人々が感じ、経験したイエスの権威とは、神さまの本質から溢れ出る命と力と愛。神の命と力と愛を、人々はイエスに接するなかではっきりと経験した。自分たちに注がれる神の力ある愛を経験したのです。
 そうすると「いかめしい」「近寄りがたい」というイメージのあった「権威」というのとはずいぶん違ってきます。
……

来(きた)るべき方はあなた

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マタイ11:2−11
2019年12月15日・降臨節第3主日
奈良基督教会での説教

来(きた)るべき方はあなた

全文PDF → 来るべき方はあなた

その上に主の霊がとどまる

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イザヤ11:1−10
2019年12月8日・降臨節第2主日
奈良基督教会での説教

全文PDF → その上に主の霊がとどまる

 アドヴェント・クランツに2本のロウソクが灯りました。今日は降臨節第2主日。朗読された旧約聖書日課は、先週に続きイザヤ書の第11章でした。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」11:1-3

 先週、イザヤ書第2章の言葉は、幻、神さまから示されたビジョンであるとお話ししましたが、今日の箇所も預言者イザヤが神さまから示されたビジョンです。

 今日の箇所で顕著なのは、神の霊、主の霊の働きが語られていることです。

 なぜクリスマスを前に主の霊の働きを聞くのか。それはクリスマスの出来事が、まさに主の霊の働きそのものだからです。

 キリスト教の中心にあるのは、人間の考え、思想、論理ではありません。だれかが世界と人間に対する深い洞察して、それをまとめた、というのではありません。そうではなくて、神さまが、神ご自身が人類と世界の救いのために決定的に働かれた──これが中心です。

 マリアが人によらずに胎に子どもを宿した。これは聖霊による出来事です。イエスさまがお生まれになった。言い換えると、神の子が人となった、人として、人の赤ちゃんとして生まれた。これは神の霊による出来事です。あり得ない、考えられないことを神がなさった──わたしたちの救いのために。これがクリスマスの出来事です。

 それですからクリスマスを迎えるに際して、わたしたちのうちに空間を用意しなければなりません。いろんなことでいっぱいになっているわたしたちの中に、わたしの中に、イエスさまを宿すための場所を用意するのです。

 今、幼稚園では聖劇の練習をしています。宿屋の場面があります。ヨセフとマリアが頼みます。

「トントントン、宿屋さん、どうかわたしたちを泊めてください」「どこの部屋もいっぱいです。」

 頭ではイエスさまのことを考えながら、実際には、心ではイエスさまを閉め出している。こういう危険がわたしたちにはあります。わたしたちはイエスさまのために、貧しくも暖かい飼い葉桶を用意して、迎え入れたいのです。別の言い方をするなら、わたしたちにも神の霊が働きかけてくださることに対して、自分を閉ざさず、開くようにしたいのです。

 イザヤ書の今日の箇所に戻ります。イザヤは見つめています。今、目に見える現実ではないけれども、やがて必ず実現する神の業を、はっきりと見ているのです。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」

 イザヤが見ているのは切り倒された木の、残った切り株です。エッサイとは昔のダビデ王の父親の名前です。エッサイの息子ダビデから始まったユダ王国は切り倒されてしまう。今や切り株しか残っていない。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」

 ここで大切なのは「主の霊」です。

「その上に主の霊がとどまる。」

 その人、その存在の上に主の霊がとどまる。「主の霊」とはどのような霊なのでしょうか。それは

「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」11:2-3

 主の霊は確かな知恵を与える。表面的なことで判断するのではなく、事の深み、人の魂の深みまで認識して正しく物事を見分ける。深い思慮に基づいて判断し、勇気をもって行動する。そして何よりも「主を知り、畏れ敬う霊」。

 主の霊を受けたその人はどのように行動するのでしょうか。

 「弱い人のために正当な裁きを行い、
 この地の貧しい人を公平に弁護する。」11:4

 主の霊を受けたその人は、弱い人を不当な苦しみから救う。神の霊に動かされたその人は、貧しい人たちを公平に弁護する。

 主の霊は、エッサイの株から萌え出て若枝として育ったその人をとおして、このように具体的に働いていくのを、イザヤはかなたに見つめました。

 このように主の霊を受けて神の意志を実現し、弱く貧しい人たち、虐げられた人たちを救う方。それはイエス・キリストです。そのように最初の教会の人々ははっきり認識し、また信じました。このイザヤ書のこの言葉は、救い主イエス・キリストのことをあらかじめ預言する言葉となったのです。

 イエスは故郷ナザレの町の礼拝に出席されたとき、聖書を引用しつつこう語られました。

 「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。」ルカ4:18

 わたしたち自身が必要としているのは主の霊です。主の霊がわたしの上におられなければ、わたしたちは自分の霊、人の霊、この世の悪しき霊によって支配されてしまいます。

 今日、神はイザヤの言葉をとおしてわたしたちを招いておられます。

 救い主を新しく迎えなさい。わたしがあなたがたにわたしの霊を注いでいるのだから、それを受けて新しく生きなさい。

 主の霊は喜びを与えます。希望を与えます。主の霊はわたしの目を神に向かって開きます。主の霊はわたしの耳を神に向かって開きます。神の霊は、知恵と勇気と愛と信仰をわたしたちに与えます。

 祈ります。

 神さま、どうかわたしたちに新しくあなたの霊を注いでください。この世の悪しき霊からわたしたちを解放してください。そして、クリスマスの恵みを深く味わわせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

主の道を歩もう

Way of the Lord

イザヤ2:1−5
2019年12月1日・降臨節第1主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 主の道を歩もう

 今日の聖書からわたしたちに向かって呼びかけてくる声があります。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」イザヤ2:3
 「神の家に行こう」
 「主の道を歩もう」

 紫の期節になりました。救い主の降誕、クリスマスに向けて準備するときです。いろいろと準備すべきことがあります。けれどもその中心がはっきりしていなければなりません。
 幼稚園の年少の子どもたちに「クリスマスって何の日かな?」と聞くと、初めは元気よく「サンタさんが来る日」と答が返ってきます。けれども、ほんとうは何かもっと別の大事な意味があるらしい、ということを子どもたちなりにだんだん感じはじめます。
 幼い子どもたちのことを笑っていられません。わたしたちも、いろいろしなければならないことに捕らわれて、中心のことを見失う危険があります。中心とは、救い主イエス・キリストをわたしたちのうちに新しくお迎えすることです。

 「神の家に行こう」
 イエスさまがおられるところが神の家です。幼子イエスさまに近づきたい。幼子イエス様に新しく出会いたい。もしそれが実現したら、何かが変わります。イエスさまから温かい光が来る。その光を受けると、複雑なわたしたちは素朴にされる。困惑や自己主張の塊になっているわたしたちは、溶かされて柔らかくされて、人への思いやりを持つようになる。「神の家に行こう」という呼びかけを受けて、わたしたちは幼子イエスさまに出会う期待を持って歩み出しましょう。

 もう一つの呼びかけを聞きます。
 「主の道を歩もう」
 遠い昔、預言者イザヤが直面して苦しんでいたのは、神さまの道から遠く離れた国と人々の現実でした。大国アッシリアの脅威に対して、恐怖に駆られて戦争準備にひた走る国。富める者がますます財産を蓄積し、貧しい人たちはますます貧しくされていく現実。不安を抱えて占いやまじないに頼り、あるいは死者の声を聞かせてくれるという霊媒に助けを求めようとする人々。いずれも主の道から逸脱した滅びの道です。しかしイザヤがいくら努力し、苦労し、戦い、傷ついても、彼の真実の声は聞かれず拒否される。

 苦悩の限界に達したとき、彼は神さまから幻を示されました。幻の中で彼は声を聞き、人々の姿を見ました。それが今日のイザヤ書の言葉です。冒頭の1節にこう記されていました。
 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。」2:1
 信仰者(神を信じる者)というのは、この世界の現実の中に生き、現実に苦しみながら、しかし現実に圧倒されない、現実に呑み込まれない何か(幻=ビジョン)を神さまから与えられている存在です。幻とは、蜃気楼のようなものではなく、秘められたもう一つの現実です。
 イザヤは神から与えられた幻の中で、国々、人々が大河のように大きな流れをなして神の家に向かっているのを見ました。そして呼びかける人々の声を聞きました。
「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」

 当時の人々はほとんどこの声を聞きませんでした。聞こうともしませんでした。しかしイザヤの見た幻の中に、彼の語った言葉の中に、神の声を聞いて、それを書きとめ、伝えた人たちがいました。言い換えれば、主の道を歩もうとした人たちが存在しました。そのゆえに二千数百年の時を経て、この言葉がわたしたちにまで伝えられたのです。
そしてこれを埋もれされるのではなく、忘れ去るのではなく、これを受け継ぎ生かす人がいなくてはなりません。それは、ほかのだれかではなく、わたしたちです。皆さんです。
「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」
この呼びかけによって目覚めさせられ、これによって新たに歩み始めるのは、わたしたちです。
 
 わたしたちは預言者イザヤより恵まれています。なぜなら、イザヤはまだ知らなかったけれども、わたしたちはイエス・キリストを知っているからです。
 わたしたちに先立って、イエスがその道を歩まれた。イエスがわたしたちのために歩むべき道、生きる道を開拓してくださった。わたしたちがその道を歩むとき、主イエスがともに歩んでくださいます。

「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」
 その道は憎しみの道ではなく愛の道。絶望ではなく希望の道。戦いではなく平和の道です。4節にこう言われていました。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」2:4
 今の世界、今の日本に呼びかけられている声です。

 イザヤの見た幻、聞いた言葉の中に、今、神さまがわたしたちを愛しつつ呼びかけておられる声が聞こえます。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」2:5
「わたしの愛の光の中を歩め。」
主の道は光の道。その光の道を歩むように。アドベントのろうそくが輝き始めています。

 祈ります。
 神さま、昔預言者イザヤが聞いて伝えたように、わたしたちにも主の道を歩ませてください。このクリスマスに、幼子として来られた救い主に新しく出会わせてください。その願いを心の中心に抱いて、降臨節を過ごさせてください。主のみ名によってお願いいたします。アーメン


わたしを思い出してください

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ルカ23:35−43
2019年11月24日・降臨節前主日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → わたしを思い出してください

「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」ルカ23:42
 十字架につけられた犯罪人の一人が、傍らのイエスに呼びかけました。今、イエスは、十字架にかけられて血を流し、死のうとされています。
 それにしてもなぜ、今日の福音書が十字架の箇所なのでしょうか?
 今日は降臨節前主日、教会の暦の最後の主日です。そして来週は降臨節第1主日、クリスマスに向けて準備する時の始まりです。そのような時期に、なぜ主イエスの十字架の場面が選ばれているのでしょうか。わたしはこう思います。
 この教会の暦の最後、そして新しい1年の始まりを控えたこの日、クリスマスの祝福に向けて踏み出そうとする今こそ、わたしたちの救い主がどういう方であるかを心に刻まなければならない、と。
 主イエスの十字架がはっきりしなければわたしたちの救いの根拠ははっきりしません。反対に、十字架から来る恵みの光に照らされるとき、わたしたちは闇から解放されるのです。

 そこで今日の福音書の箇所を読みましょう。登場人物を順にたどっていくことにします。
 「民衆は立って見つめていた。」23:35
 第1は民衆です。その後に「議員たちも、あざ笑って言った」とありますから、この民衆もイエスを冷ややかな目で見つめてあざ笑っていたように見えるかもしれません。しかしわたしにはそうは思えないのです。ルカ福音書の「民衆」(オクロス)という言葉をたどってみると、全然違う民衆の姿が浮かび上がってきます。主の受難が近づく時期の民衆の姿を、いくつか見てみます。

 「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、
民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」19:47-48
 民衆は皆、夢中になってイエスの話に聞き入っています。
 「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」20:19
 民衆は無言のうちにイエスを守っているのです。

 そしてイエスが裁判の場から死刑場まで連れて行かれる場面です。
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」23:27
 民衆は女の人たちとともに嘆きながらイエスに従っていきます。
 この民衆が、イエスの話に聞き入り、イエスを守ろうとし、そして嘆きつつイエスに従ってきた民衆が、今、十字架にかけられたイエスを見つめています。この民衆は無力です。イエスを助ける力はありません。しかし嘆きつつ、この人たちは知っているのです。正しいのは、イエスを十字架につけた権威ある人たちではなく、正しいのは十字架につけられたイエスであると。
 わたしたちも、この民衆の一人でありたいと願います。

 第2の登場人物は議員たちです。ユダヤ人の指導者たち、イエスを死刑に定めた人たちです。
 「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」23:35
 第3は兵士たちです。ローマ帝国の兵士たち。
 「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」23:36
 第4はイエスとともに十字架につけられた犯罪人の一人です。
 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」23:39

 そして最後、第5の人物は、十字架につけられたもう一人の犯罪人です。
 「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」23:40-41
 そしてこの人はイエスにこう呼びかけます。
 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」23:42
 彼は、死のうとしつつ、苦しい息の中から呼びかけます。
 「イエスよ」 Ἰησοῦ(イエスー)
 苦しみの中からイエスを呼ぶのです。心と体は破れて、切にイエスを呼ぶのです。
 「イエスよ」
 この人の一言が、イエスの名を呼ぶとはどういうことかを教えてくれます。人を気にしたり、他のことを考えたりしながらではなく、虚飾も誇りも自我も消えて、ただ心からイエスを呼ぶ。これが祈りです。
 クリスチャンとは何か。イエスの名を呼ぶ人のことです。

 「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」
 イエスよ、あなたが天のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 イエスよ、あなたが地上のみ国においでになるときには、わたしを思い出してください。
 わたしを思い出していただくだけでいいのです。わたしのことを忘れずにいてくださるだけでいいのです。イエスがおぼえていてくださるなら、イエスがわたしのことを思い出してくださるなら、孤独の奈落の淵に落ちることはない。これだけが、人生の最後の願いです。

 それに対してイエスは答えて言われます。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」23:43
 イエスは、心からその名を呼ぶ者を放置されません。求める以上のことをしてくださいます。ただイエスを呼んで終わったのではなく、イエスがこの人の将来を、救いを、祝福を約束してくださったのです。「思い出す」ばかりではない。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、わたしはあなたを楽園に迎える、と。

 3時間後、イエスは大声で叫んで息を引き取られました。イエスは死なれました。しかしその死の中に、イエスとともに死んだ犯罪人の死は引き受けられています。イエスとともに死ぬ者は、イエスとともに永遠の命を受けます。
 わたしたちは洗礼においてイエスとともに死にます。わたしたちの死と滅びはイエスが引き受けてくださり、イエスの復活の命、永遠の命が、わたしたちに与えられる。これが十字架の意味です。

 あの民衆の嘆きがわたしたちの嘆きとなり、イエスとともに死んだ犯罪人の祈りがわたしたちの祈りとなりますように。そのようにしてわたしたちもイエスの御国(みくに)の約束を聞くことができますように。アーメン

「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

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第14回 奈良基督教会修養会
「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

   
2019年11月17日(日) 奈良基督教会
講話・司祭 井田 泉
聖歌 495 イエスよ、わが神よ

PDF → 「救いの杯を上げて」詩編に親しむ

開会の祈り

機〇輅埖116編 わたしは主を愛する
・春に続き「詩編に親しむ」の第2回。今回は第116編を味わってみたい。
・新共同訳で1〜7節をゆっくり一緒に読んでみる。(しばらく沈黙)

1. 「1 わたしは主を愛する。」
この言葉だけをまず大切にしたい。
いろんなことがあっても、ここにわたしたちの信仰と祈りと生活の中心がある。
ここに戻りたい。

「わたしは」 人がどうであれ、この世がどうであれ、わたしは。
「主を」 ほかに大切なものがあり、心をひかれるものがあるとしても、主を。
「愛する」 信じ、迷い、従い、逆らい、あるいは忘れていることがあったとしても、今、
     わたしは主を愛する。
      主の愛がわたしのうちに注がれ、流れ込んでいるのを思いつつ、わたしのほうからも、新しく主を愛する。
  この1節が、今日のわたしに伴い、わたしを生かす。
──こんなふうに詩編を毎日味わってみたい。それがわたしの慰め、励まし、力となる。

2. 「1 主は嘆き祈る声を聞き、2 わたしに耳を傾けてくださる。」
主は聞かれる。心を傾けて聞いてくださる。
「耳を傾けてくださった」と過去形に訳される場合もある。
過去あるいは現在の神経験の確認。主への信頼の告白。
わたしの嘆き、祈りを主の前に注ぐ。
──神さまとの関係(対話)はいつも整ったものである必要はない。本音で、子どものように訴え、あるいはつぶやくことも大切。

3. 「2 生涯、わたしは主を呼ぼう。」
新しい決意。今だけではなく、生涯にわたる決意をこの詩人は表明している。ここから主を呼ぶ人生が新たに始まる。

4. 「3 死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして
4 主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』」
詩人(作者)は死の危険にさらされ、恐怖におののいている。その中から主の御名を呼ぶ。


供〇輅埖116編と主イエスの最後の食卓
1. この詩編は主イエスが弟子たちと共にされた最後の食事(過越の食事)の終わりに歌われたとされる。
113〜114編が過越の食事の前、115〜118編が食事の後に用いられたという。
マルコ14章から
「23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。……』26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
 ここでイエスは弟子たちとともにこの116編を祈り歌われたに違いない。
とすれば、この詩編全体を主イエスの祈りとして読むことができるし、そうしてみたい。

2. 「13 救いの杯を上げて主の御名を呼び、
14 満願の献げ物を主にささげよう、主の民すべての見守る前で。」
「救いの杯」 最後の食卓において主イエスは救いの杯を上げ、祈られた。
そのとき「満願」とはすべての人が救われることであり、「献げ物」は主イエスご自身であった。
聖餐式の感謝・聖別の祈りの中で、司祭は杯を上げる。これは主イエスのなさったことを再現するもの。

3. 「15 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」
このとき主イエスは、現実に迫るご自身の死をここに重ねておられたに違いない。
この詩編には「死」という言葉が3回出てくる(3、8、15節)。イエスはご自分に迫る(ご自分が引き受けようさされる)死を意識しておられただろう。

4. 「16 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。」
ここでイエスは、ご自身とともに母マリアを思われたのではないだろうか。

5. 「18 主に満願の献げ物をささげよう、主の民すべての見守る前で
19 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」
この詩編は「ハレルヤ」(主を賛美せよ)で閉じられる。
イエスはここからオリーブ山のゲッセマネに向かわれる。
わたしたちも主イエスと共に、たとえ困難が待ち受けていてもそれに立ち向かい、賛美をもって進みたい。

(休憩)

♪カトリック典礼聖歌から「主の十字架を仰ぐとき」

掘〔枡匹畔かち合い
・詩編116編をそれぞれ読み、心にとまったひとつの節を書き写してみましょう。
(メモ)




・近くの人と感じたことを自由に分かち合ってみましょう。
(メモ)



結び

祈りのいくつかの要素
・呼びかけ 「どうか主よ」4、16節
・思いのつぶやき、訴え 「わたしの魂をお救いください」4
・救い、信仰の告白 「わたしは信じる」10
・祈願 「わたしの縄目を解いてください」16
・感謝 「あなたに感謝のいけにえをささげよう」17
・賛美 「ハレルヤ」19
・決意 「生涯、わたしは主を呼ぼう」

……

○詩編の中に、昔の(わたしとは違う)人の祈りを聞く。
○詩編の中に、自分の思い、祈りを発見する。つながり、響き合いが起こる。
○詩編の中に主イエス・キリストの祈りを聞く。
○詩編はわたしたちの信仰を養い守る。


祈り
祝祷
聖歌 495 イエスよ、わが神よ

善を行うことを学べ

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イザヤ1:10−20
ルカ19:1−10
2019年11月3日・聖霊降臨後第21主日
奈良基督教会での説教

PDF全文「善を行うことを学べ」


 しばらく前、アモス書から説教したときに、旧約の預言者の精神がイエスさまに流れ込んでいる、ということを申しました。今日の預言者イザヤの精神もイエスさまに流れ込んでいます。
 そこで今日は、先ほど朗読されたイザヤの言葉を聞いてみることにします。正確に言えば、イザヤをとおして語られた神の言葉です。

 ところで預言者には不思議な力が与えられています。それは神の声を聞くという力です。同時に虐げられた民衆の声を聞くという力です。普通の人には聞こえない声が聞こえ、普通の人には見えない、あるいは見ようとしない現実が見える。そうすると黙っているわけにはいかなくなる。言わば預言者とは、神によって目と耳が、さらに口が開かれた人なのです。
 イザヤはこの社会の悪しき現実を見ます。それに対する神の思いをはっきり感じます。それで神に語らされて語ります。神によって示され、神によって促されるので、語らざるを得ません。
 後にイザヤの言葉を集めて記録し、編集した人は、「幻」(ビジョン)という言葉を使いました。

 イザヤ書の冒頭には、タイトルのような言葉が記されています。
 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。」
イザヤ1:1
 気になってヘブライ語の原典を確かめたところ、「幻」(ビジョン)という単語が最初にあります。「幻、イザヤの」という言葉でイザヤ書は始まるのです
 「幻」というのは現実にはない蜃気楼のようなもの、というのとはまったく反対に、現にある神の臨在、社会の現実、人の現実を、言わば神の目で見るように示される、ということです。人としての知識と判断を超えて、神から示される。それでイザヤ書を編集した人は、「幻」と記したのです。

 少し前置きが長くなりました。今日の冒頭です。
 「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10
 ソドムもゴモラも、かつては繁栄を誇った都市の名前ですが、いずれもその悪のゆえにすでに滅びた町です。
 かつてのソドム、ゴモラと同じだ、今のこのユダの国の現実は、とイザヤは言うのです。
 「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10
 悪に陥ったユダの国の支配者たち、またその悪の現実に巻き込まれてそれに同調してしまっている多くの人々。彼らに向かってイザヤは「主の言葉を聞け」「わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」と呼びかけます。紀元前700年余り前のことです。

 すぐそれに続くのは、当時ユダの国で盛大に行われていた宗教的儀式、つまり礼拝に対するきびしい批判です。
 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」1:11
 なぜ神がそれらの献げ物を喜ばれないかというと、悪い行いを重ねながらそれを悪いとも思わず、そのまま平気で神の恵みを求めようとするからです。ここにはもう人としての良心、神への真実が失われています。大きな力と財産を獲得して強い影響力を持った宗教、特にその指導者たちは、しばしばこのようになります。歴史と世界を見れば、キリスト教も例外ではありません。

 神に莫大な献げ物を携えて来て、神の恵みを得ようとするその手。その手を神がご覧になると、血にまみれている。貧しい人たちから搾り取ってその人たちの命を削り取ってきた手だからです。
 「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」1:15-17
 富める者がますます財産を加え、貧しい人たちがますます苦しい生活に追い込まれていく。このあり方を変えよ、善を行うことを学べ、と主が言われます。

 昔、中曽根首相が言いました。「大型間接税はけっして導入しない」。つまり消費税のことです。しかし消費税は導入され、3パーセント、5パーセント、8パーセント、ついに10パーセントになった。政府は、これは社会福祉のための財源確保だと繰り返し説明してきました。しかしこのような税金は、貧しい人を最も直撃する。年金は下がり、実質賃金は下がっていく。正規雇用が減り、非正規雇用が激増しています。将来に希望が持てない若い人たちが増えています。そして現実には軍事費、アメリカから買う兵器の費用が途方もなく膨れ上がっています。イザヤの言葉は遠い昔のこととは思えません。

 今日のイザヤ書に響いているのは「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」という痛切な呼びかけです。

 イザヤをとおして社会と人の悪を責められた神は、ただ責めて滅ぼそうとされているのではなく、社会の、人々の悔い改めを、方向転換を願われました。厳しさの中にも神の愛が呼びかけているのです。
 「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも、雪のように白くなることができる。」1:18
 考え直し、生き直せ。それはできる。

 主イエスはこのイザヤに溢れていた神の思いと情熱を受け継がれました。ルカ福音書の中でイエスはこう言われました。
 「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。」11:42
 立派な献げ物をするが、あなたたちは不幸だ。「正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」

「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」とイザヤをとおして呼びかけられた神の声が、イエスさまをとおして強く響いています。
 
 今日の福音書には徴税人ザアカイのことが語られていました。彼は自分の立場を利用して、弱い立場の人たちから税を搾り取り、財を蓄えていた人でした。しかしイエスは彼の中に孤独、空虚をご覧になりました。イエスと出会い、イエスの愛を受けたザアカイに大きな変化が起こりました。
「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ルカ19:8

 ザアカイのうちに良心が呼び覚まされました。神への愛が燃え始めました。善を行うことが始まりました。
「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」というイザヤの、神の呼びかけは、イエスの愛、イエスとの出会いによってザアカイに現実となったのです。
 
 わたしたちは巨大な力に対してしばしば無力を感じます。しかし神の呼びかけを心に宿していたい。
「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」

 わたしたち一人ひとりを愛しておられるイエスは、ご自身の愛をわたしたちに注いで、わたしたちに善を行うことを学ばせてくださいます。イザヤが見、イエスさまが見ておられた神の幻(ビジョン)が、わたしたちを失望から救い、主とともにまっすぐに生きることを可能にしてくださいます。

 祈ります。

 神さま、あなたは今のこの社会と人の現実を見ておられます。主イエスが言われたように、正義の実行と神への愛を大切にするわたしたちにしてください。善を行うことを学ぶわたしたちにしてください。失望せずにあなたが喜ばれることを行わせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

その衣を小羊の血で白くした

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ヨハネの黙示録7:9−17
2019年10月27日・諸聖徒日
奈良基督教会での説教

PDF全文 → 衣を小羊の血で20191027冊子

 今日、わたしたちはすでに地上の生涯を終えて天に召された方々を記念して、その方々の平安を祈るために礼拝をささげています。同時に、わたしたちが地上で礼拝をささげている今、この時に、天においても礼拝がささげられていることを心にとめたいと思います。

 ここでの礼拝は天における礼拝とつながっている。祈りにおいて、礼拝において、わたしたちはわたしたちの大切な人々と確実につながっているのです。このことを教会は「聖徒の交わり」、聖なる神の僕どうしの交わり、と呼んできました。
 その今日の礼拝に相応しく、先ほど朗読された使徒書、ヨハネの黙示録第7章には、天上の礼拝の光景が描かれていました。

 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」7:9-10

 この大群衆が礼拝をささげている。その光景を見ている「わたし」とは、だれでしょうか。それはヨハネと呼ばれる初代教会の指導者です。おそらくは主イエスの直弟子ヨハネとは別人でしょうが、このヨハネはキリスト教迫害の中で捕らえられて、地中海のパトモスという島に閉じ込められていました。ある主日に彼が祈っていたとき、不思議なことが起こりました。体は地上にあるのに、霊においては天に上げられて、天上の礼拝を目撃したのです。

 あらゆる民族の中から集まった数え切れないほどの大群衆が、玉座、つまり神の前で、そして小羊、つまりイエス・キリストの前に立って祈っています。ヨハネの目に非常に印象的にうつったのは、その大群衆のだれもが「白い衣」を身に着けていたことです。白い衣が美しく、まばゆいばかりに輝いています。

 すると礼拝をささげていた天の長老のひとりが、ヨハネに問いかけました。
 「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」7:13
 ヨハネは答えて言いました。
 「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです。」7:14
 すると天の長老はこう答えました。
 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」7:14

 その白い衣には深い意味があったのです。今、天で礼拝をささげている非常に多くの人たちは「大きな苦難を通って来た者」である、と。地上での人生において非常な苦しみと困難を経験してきた。心も体もひどく傷ついてしまった。純真無垢で生まれてきたはずなのに、この世においては悪と戦い、誘惑にさらされて、過ちも重ね、言わば身に着けていた服は破れ、どろどろに汚れてしまった。

 しかしこの人たちにこそ、イエス・キリストの愛が注がれました。ご自分の命を神にささげられたイエス・キリスト──神の小羊が、その人々の衣も体も心もすべて洗い清めて、まっさらにしてくださった。十字架に傷つけられたキリストが、ご自身の傷によって人々の傷を癒し、破れを繕い、輝く白い衣を着せてくださった。その人々が今、天において神とキリストに感謝と賛美の礼拝をささげているのです。

 輝く白い衣。これは新約聖書のどこかに出て来ました。
イエスさまが、高い山の上で祈っておられたとき、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(ルカ9:29)とルカ福音書は伝えています。
 今、天上で白い衣を着て礼拝をささげている人々は、あのイエスさまの輝く衣をいただいているのです。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」7:14
 輝く白い衣を身に着けた天上で礼拝する人々の姿を、迫害に苦しむヨハネは目撃し、その白く輝く衣の意味を彼は天の長老から教えられました。

 ここからわたしたちは、三つのことを知って心にとめたいと思います。

 第1に、わたしたちが今日記念する、世を去った大切な方々も、今、輝く白い衣を身に着けて、天上で神さまを礼拝しておられる。傷を癒され、清められて、神の愛の祝福に守られているのです。

 しかし第2に、これは当然のことではありません。わたしたちは土から生まれた弱くもろい人間であり、土に帰るしかなかった。しかし、その弱さを、その痛みを、その労苦を、神の小羊キリストが深く顧みてくださって、限りない愛を注いでくださった。キリストが十字架に傷ついて、ご自分の血を流された。そのキリストの血は限りない愛の血、人の傷を癒し、罪を赦し、永遠の命を与える血です。そのキリストの苦難の血が、人々の内も外も清めてまっさらにしてくださった。わたしたちの大切な方々が白い衣を着せられて輝いている。それは神の小羊キリストの尊い愛によるものなのです。

 第3に、わたしたちは心にとめましょう。天上の礼拝する人々も地上で礼拝するわたしたちも、イエス・キリストの愛の光に包まれています。天と地を包む大きな光、愛の光です。地上のわたしたちも実は白い衣を着せられている。それにはイエスさまの願いがあります。
愛の光を広げてほしい。正しく良いことを実践して広げてほしい。やがてあなたがたは顔と顔を合わせてわたしと会うのだから、その時に向けて、一緒に神の国を広げていこう。あなたがたの祈りと働きを、天の人々が祈りつつ支えてくれているのだから。
 
 祈ります。
 神さま、今日、先に召された人々をおぼえて祈る時を与えてくださったことを感謝いたします。わたしたちすべての傷を、ご自身の傷によって癒し清めてくださったイエスさまの愛を、天にも地にも満たしてください。天に召された人々にも地上に生きるわたしたちにも、主の平安をお与えくださり、聖徒の交わりを楽しませてください。アーメン


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