Comfort Ye 井田 泉

Comfort Ye(慰めよ、あなたがたが) 旧約聖書・イザヤ書第40章1節

信仰

マルティン・ルター〜宗教改革500年の前の年に

マルティン・ルター〜宗教改革500年


ルターは1483年、ドイツのザクセン地方、アイスレーベンという所に生まれました。父の強い期待を背負って大学に学び、法律家となることを目指していました。ところが重大な転機が訪れます。故郷から大学のあるエルフルトに戻る途中、激しい雷雨に遭いました。雷鳴とともに稲妻が走り、彼は地面に転倒しました。死の恐怖の中で彼は思わず、「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります」と叫んだそうです。
……

全文PDF→マルティン・ルター〜宗教改革500年の前の年に

奈良基督教会 「シオンの丘」 第170号 (2016年5月29日発行)に掲載したものです。

寺社油事件で……

寺社油事件で先日インタビューを受けたのですが、今日の毎日新聞に掲載されたようです。

毎日新聞

Yahoo! ニュース

ウィリアム・ティンダル──人々に英語の聖書を!

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2014年9月14日夜、第55回日本聖公会京都教区信徒の集いの夜のDVD上映会の資料を掲載します。

内容は次のとおりです。

チラシ/主な登場人物/地図/物語の概要/コリント前書第13章の対訳/略年表

ウィリアム・ティンダル──人々に英語の聖書を!

バッハ「ヨハネ受難曲」を聞く

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2014年4月13日(復活前主日)夕刻、奈良基督教会でバッハ「ヨハネ受難曲」(ハイライト)を聞く会(CD)を開きました。

当日聞いたのは、カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるものです。

そのために用意した対訳を掲載します。

ヨハネ受難曲対訳(抜粋)

終曲のコラールはこのうえなく美しく慰めに満ちています。全曲はこれに向かって用意されているような気がしました。

また、対訳を作っているときは、15「わたしの心の奥底にあなたのみ名と十字架だけが 輝いています」に心を動かされました。

バッハ カンタータ147番 コラール

バッハのカンタータ147番「心と口と行いと生活は

その中からコラール(「主よ、人の望みの喜びよ」として知られる)を小人数で聞く(CD)機会があり、そのためにドイツ語歌詞の以前の訳を改訂しました。

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第6曲

なんとわたしは幸いなことか、
わたしにはイエスがおられる[わたしがイエスを持っている]から。

ああ、どれほど堅くわたしは彼を抱くことか。

イエスはわたしの心を力づけてくださる、
わたしが病のときも、悲しみのときも。

イエスがわたしにはおられる[わたしはイエスを持っている]。
イエスはわたしを愛し、
ご自身をわたしに与えてくださる。

ああ、そのゆえにわたしはイエスを離さない、
たとえわたしの心が破れても。


第10曲

イエスは変わることのないわたしの喜び、
わたしの心の慰め、わたしを潤すもの、

イエスはすべての苦しみを防いでくださる。

彼はわたしの命の力、
わたしの目の喜びにして太陽、
わたしの魂の宝、この上ない喜び。

ああ、そのゆえにわたしはイエスを離さない、
わたしの心と目から。


以前のものは次のとおりです。
カンタータ147版

バッハ「マタイ受難曲」を聞く

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奈良基督教会
奈良キリ・セミナリオ
2013年3月24日(復活前主日)の夜

およそ20名でバッハのマタイ受難曲(抜粋)を聞いた。

以下は、そこで感じたこと、話したことの一部です。

第65曲のアリア
Mache dich , mein Herze, rein
(わが心よ、おのれを清めよ)
から


1. 信仰の甘美

「イエスが今よりのち、わたしの中で
とこしえに 甘い安らぎを得ますように」


信仰にとって「甘美」ということが大切である。
教訓的になものに重点がかかって、魂が枯渇するということがある。

神の恵みはわたしたちの心を潤す。喜びで満たす。

第67曲では「わたしのイエス」という言葉が繰り返される。
わたしの愛するイエス、わたしを愛してくださるイエス。
わたし個人のイエス、という親密さ、「慕い求める」ということを大切にしたい。


2. わたしの中の主体の交替

「この世よ、出て行け、イエスに入っていただけ」


受難曲をきいて感情が揺さぶられる。
しかしこの音楽によって、緊張が高まり、最後はそれが緩和、解消される(カタルシス)、という感情の出来事でとどまるべきではない。

わたしの中の主体が交替する。
この世の価値観……上下、優劣などに縛られたあり方から変革される。
イエスがわたしの中に入り、わたしの中で生きてくださることは、質的な変化である。

古いわたしはイエスの死とともに死に、新しいわたしがイエスの復活とともに始まる。


第68曲(終曲)

マタイ受難曲は、イエスの墓の前で、涙を流し、
墓の中のイエスに呼びかけるところで終わる。

おやすみください、やすらかに
やすらかに、おやすみください

復活の朝がやがて明けようとしている。

徳善義和『マルティン・ルター』

徳善義和『マルティン・ルター──ことばに生きた改革者』
  岩波新書、2012

ルター・ことばに生きた改革者

つい最近出たこの本を、昨日の夕方近鉄西大寺駅前の啓林堂で買い、いま読み終えた。
遅読の私としては珍しい。

「95箇条の提題でルターが聖職者や神学者たちに問いかけ、訴えようとしていたことは、単なる教会批判ではなく、民衆の魂の救いのためには何が必要かということであった。ルターの関心の中心は民衆の魂の救いにあり、神学研究はあくまでその手段であった。」

「ルターは教会の教えが民衆を誤った信仰に導いていることに強い憤りを感じていた。」

「ルターが、あらゆる苦難と困難を乗り越えて成し遂げようとしていたのは、人びとの魂を支える『信仰の再形成』だったのである。」


私は元々熱烈プロテスタントであったが、司祭として長く過ごしているうちに、聖餐式、葬送式、また儀式(典礼)的なものを非常に大切に思うようになり、かつてほど自分をプロテスタントとは自覚しなくなった。

しかしこういう本を読むと、精神においては自分はやはりプロテスタントであると強く感じる。

以前、カール・バルトが礼拝(Gottesdienst=神奉仕)を「私たちが神に奉仕するよりも、神が私たちに奉仕してくださること」と述べているのに出会って驚き、感動したが、その考えがすでにルターにあったことを今回初めて知った。

まず説教運動、そして文書運動、それからじっくりと教会の慣習や礼拝の改革に着手する、というルターの進め方からも示唆されるところが大きい。

聖書のドイツ語翻訳についての記述も、毎朝ルター訳を朗読している者として新鮮に教えられるところが多かった。


使徒信経の祈り

  使徒信経

 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
 また、その独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降(くだ)り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから主は、生きている人と死んだ人とを審(さば)くために来られます。
 また、聖霊を信じます。聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます。アーメン


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 神よ、わたしはあなたが愛の神であることを信じます。

 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

 神よ、あなたがわたしの存在を望み、わたしの父また母としてわたしを産んでくださったこと、そしてこれまでも今もそしてこれからもずっと、わたしを愛し導いてくださることを信じます。あなたは闇の中に光を、絶望の中に希望を造り出してくださること、不可能と思えることを可能にし、荒れ野の中にわたしのために道を開いてくださることを信じます。


 わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。

 イエス・キリストよ、あなたはわたしたちを救うため、人となってわたしたちのところにおいでになりました。

 あなたはわたしたちの悩みと病と罪を負い、どこまでもわたしたちと一つになってくださいました。あなたは極みまでわたしたちを愛し、わたしたちのために血の汗を流して祈り、罪なくして捕らえられ、苦しみの果てに十字架の上に死なれました。あなたの死の中にわたしたちの罪と死は飲み込まれました。あなたの光に照らされぬ闇はなく、あなたの救いの手の届かない深みはありません。あなたの流された貴い血はわたしたちを清め、また救ってくださいます。

 あなたは死んで葬られ、陰府(よみ)に降られました。あなたは死者の国にまで降(くだ)ってすべての人を迎え、天国に導き入れてくださいます。

 あなたは三日目に死人のうちから復活されました。洗礼によってあなたの死と一つにされたわたしは、あなたのよみがえりと一つにされて新しく生きることができます。あなたが生きておられるのでわたしも生きることができます。

 あなたは変わることのない友として、いつもどのようなときにもわたしと一緒にいてくださいます。

 また、あなたが天に昇られたことを信じます。あなたは、父なる神の傍らでわたしたちのために祈りつつ、わたしたちを天国に迎えるために備えをしていてくださいます。

 あなたがやがて再びおいでになることを信じます。あなたは正しい審きをなして悪の力を滅ぼし、虐げられた者を救い、ささげられたすべての労苦に報いてくださいます。そのときわたしはあなたと顔と顔とを合わせてお会いし、限りない喜びを与えられ、あなたに似る者とされるでしょう。

 

 聖霊よ、わたしはあなたを信じます。

 あなたは疲れた魂に力を満たし、イエス・キリストの声を聞かせ、その姿を見させてくださいます。あなたはわたしが祈り疲れたときもわたしに代わって祈り、うめきつつ神に執り成してくださいます。あなたはわたしの心の中に入り、わたしの内に生きて、神と人を愛する者とならせてくださいます。


 神よ、あなたは造り主として、救い主イエス・キリストとして、聖霊としてご自身をあらわしてくださいました。わたしはあなたが三位一体の神であることを信じます。

 わたしはあなたを信じます。わたしは孤独ではありません。あなたがわたしと共におられるからです。

 あなたは今もこの地上に御心を実現しようとして働いておられ、わたしをその働きの中に用いてくださいます。

 わたしを愛してくださるあなたをわたしも愛し、あなたを慕い、あなたと共に歩みます。アーメン

(2012/07/01)
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カルヴァン『キリスト教綱要』改訳版

カルヴァン『キリスト教綱要』改訳版 全3巻をある信徒の方からいただいた。

 渡辺信夫訳、新教出版社、2007〜2009

新しい任地、奈良基督教会で最初の主日を迎えようとする前日の3月31日午後に届いた。
キリスト教綱要
「ジャン・カルヴァンより読者の皆さんへ」
「本書の梗概」
「フランス王への献呈の辞」

本文に先立つこの部分を読んでみた。

真理と教会のための情熱が燃えさかっている。

当時の現実に対するものすごく激しい言葉(辛辣な批判)。

学ぶものはとても大きいと思う。

キルケゴールと大谷長先生


 夕食後、夕刊を見ていたら「小出版社23年の信念 キルケゴール著作全集完成」という記事が目にとまった(朝日新聞2011/10/17)。

「福岡市のわずか4人の出版社が23年がかりで、デンマークの哲学者キルケゴール(1813〜55)の著作全集15巻を完成させた。」

 出版社は創言社。発端は1986年、大阪外国語大学名誉教授の大谷長(まさる)氏から「日本初のデンマーク語からの直接訳の全集を出したい」と持ちかけられたことだという。

 わたしは1968年、大阪外国語大学朝鮮語学科に入学。学園紛争を経験する中で生きる意味と目的を見失い、必死の思いで足がかりを求めていた。大学3年の頃、キルケゴールと出会い、寸暇を惜しむようにして彼の著作(主として岩波文庫版)を読みふけっていた。

 1971年、4年生の春、卒論のテーマを「朝鮮キリスト教史」としようとしていたころ、新年度履修要項の専門科目の中に「キルケゴール『死に至る病』購読」とあるのを見つけた。担当はデンマーク語学科の大谷長先生。専門科目は学科の枠を越えて履修するようになっていた。

 まるで自分のために用意された科目のように思えた。小さい教室に学生は10人もいただろうか。テキストは岩波文庫版の『死に至る病』。大谷先生はデンマーク語原典に基づいてしばしば岩波文庫版(ヒルシュ訳ドイツ語版からの重訳)の間違いを指摘しながら講義を進めていかれた。

 『死に至る病』は当時のわたしにとっては極めて難解な本であったが、大谷先生の講義の助けを受けて、次第にのめり込むことになった。1年近く、わたしはこの岩波文庫版を聖書とともにいつも鞄に入れて持ち歩いていたと記憶する。

「決定的なことはこうである、──神にとっては一切が可能である。……しかり! 信ずるというのは実に神を獲得するために、正気を失うことにほかならない。」

 『死に至る病』はわたしの人生に深刻な影響を与えた。もしこれと出会っていなければ、あのように自分の不信仰に打ちのめされることはなかっただろうし、また打ちのめされることがなければ、長い迷いから脱してイエスさまのもとに帰る道を見出せなかったかもしれない。

 この後、キルケゴールの『キリスト教の修練』によって彼の影響はわたしにとっていよいよ決定的になり、それは数年後の聖職志願に間接的につながることになったと思う。

 とてもおとなしくて恥ずかしがりだったわたしは、大谷先生の一言も聞き漏らすまいと講義を聴き、ノートをとり続けていたのに、何の質問もしなかったし、先生も進んで学生に近づこうとされるタイプではなかった。

 先生はキルケゴール著作全集の完成を見ることなく、1999年に逝去されたという。教室に学んでから40年ぶりに先生のお名前を新聞に見出し、インターネットで先生の写真を見つけて、懐かしさと感謝の思いからこの短文をしたためた。

 岩波文庫版『死に至る病』は、オーム社の破れたカバーのついたまま、今も本棚に並んでいる。

「聖三一」の名まえについて

「聖三一」とは「聖なる三位一体」の略で、キリスト教の神さまをあらわす言葉です。
英語では"Holy Trinity”と言います。

♪「サントサントサント」(聖歌561)
 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな

神さまのすばらしさ、とうとさを喜びあがめ歌う言葉です。

♪「喜びあふれ、あなたをあがめる聖なる主よ」

三位とは「父」と「子」と「聖霊」の三つです。

1. 父 「造り主」

神さまは世界とわたしたちを造り、いのちを与え、祝福してくださいました。
神さまはご自分が造られたものを大切に思っていてくださいます。

♪「すばらしい造り主、神さまは、すべてを支えて守る方です」

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」旧約聖書・イザヤ書46:4

2. 神の子イエス・キリスト 「救い主」

イエスさまは人となってわたしたちのところに来られました(クリスマス)。
イエスさまはわたしたちを招き、愛し、わたしたちの過ちをゆるし、いつも一緒にいてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20

3. 聖霊 「命の与え主」「慰め主」

聖霊はわたしたちの内に宿り、わたしたちを慰め、励まし、育んでくださいます。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」ペトロ 2:2

 聖三一、父と子と聖霊なる神さまは、<わたしたちを造り><わたしたちとともにおられ><わたしたちを励まし育んでくださる>神さまです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」コリント 13:13

「交わり」は交流。神さまとわたしたちの心が通い合うこと。

2011/04/27

カール・バルト「決断としての宗教改革」の結び

カール・バルトの講演「決断としての宗教改革」(1933、ベルリン)を読み、大変励まされる気がしました。

これはヒトラーの率いるナチのドイツ支配と、それに自分を一致させていこうとする当時の教会のあり方に対し、断乎として否!を提示したものです。

この最後は、宗教改革者カルヴァンの言葉で締めくくられています。

「教会の改革は神の業であって、人間的な希望や思いには依存していません。それゆえ、人は、そのために何かをなしうる可能性に関しては、人々の善意とか時代情勢の変化などといったものを待つのではなく、むしろ、絶望のただ中をくぐり抜けつつ突破せねばなりません。神は、ご自身の福音が説教されていることを欲しておられるのです。この誡めに聴き従い、そして、神が私たちを呼び出されるそこに向かって歩もうではありませんか! その成果はどういうものであるだろうか、などということについては、私たちは問う必要がないのです。」

この言葉を、必ずしも「教会の改革」ということに限定せず、今の時代の中で新しく聞きたいと思います。
こういう真理、真実そのものからの響きが今の時代には希薄であり、それだからこそその響きを回復したいと願います。

「はかりしれない主の愛」

はかりしれない主の愛が
あなたを わたしを つつみます
「おそれることは何もない
わたしはあなたとともにいる」

ふかくふかくかぎりなく
愛はこころのすみずみを
甘い蜜で満たします
清い光で照らします

愛にまさるものはなく
愛がすべてをつつむとき
真の平和 おとずれる
まことの命 生まれます

愛を知らずに生きている
たましい求めてイエスさまは
涙流して叫ばれる
わたしのもとにおいでなさい

イエスさまあなたのふところに
どうか憩わせてください
そして祈らせてください
世界に平和 来ますよう

2011/3/4

作者   anonymous

ション・ウェスレー「律法と福音とを共に語ること」

『説教をめぐる知恵の言葉』上(キリスト新聞社、2010)という本を読んでいて

ジョン・ウェスレー(1703〜1791)の「律法と福音とを共に語ること」
という文が目にとまった。


神の命令、促し、「こうしなさい」「こうすべきだ」「こうしよう」
──これが律法です。

内容は……
──
神が、祝福に満ちた律法をさらに深く知るように導かれるとき、神が一段上の光を与えて
くださるとき、神は同時に新しい段階の強さ(力)も与えてくださる。

言い換えれば、新しい課題を引き受けさせられるとき、それをする力を与えてくださる、
ということ。

神の命令に直面して、わたしたちは自分がいかにその命令から遠いかを知る。
と同時に謙遜にされて、その命令によりよく従えるようになりたいと心から願うようにな
る。

このようにして神は、律法(命令)によってわたしたちを砕き、励まし、育てられる。

説教者が聞き手に甘いものばかりを提供していると、聞き手はほんとうの栄養ある食物を
求めなくなり、嫌うようになる。
そのような説教者は(初めはそのように見えないのだが)聞き手の間に命ではなく、死を
振りまく。

「神はあなたを愛しておられる。だから、神を愛し、従いなさい。」
これが重要。

♪ バッハ「わたしはあなたの名を呼ぶ」

あるコンサートでバッハ原曲のこの曲をピアノで聞く機会がありました。

(バッハのコラール前奏曲 BWV 639、ケンプによる編曲)

バッハがヨハン・アグリコラ(1494〜1566)の詩にもとづいて作曲したものだそうです。

アグリコラの詩に関心が起こったので訳してみました。


わたしはあなたに呼びかけます、主イエス・キリストよ
わたしの嘆きを聞き入れてください。
この時にわたしに恵みを与えてください。
わたしをくじけさせないでください。

正しい信仰を、主よ、わたしは思います。
それをあなたはわたしに与えようと望んでおられます。
あなたのために生き、
わたしの隣に益となり、
あなたのみ言葉をまっすぐに保つために。


詩は1530頃と言われるので、まさに宗教改革の時代です。
コラールのひとつとして会衆が一緒に歌ったことが想像されます。

Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ,
ich bitt, erhor mein Klagen;
Verleih mir Gnad zu dieser Frist,
las mich doch nicht verzagen;
den rechten Glauben, Herr, ich mein,
den wollest du mir geben,
dir zu leben,
dem Nachsten nutz zu sein,
dein Wort zu halten eben.

この原詩引用は不正確なので、次のサイトをご覧ください。

http://glaubensstimme.info/doku.php?id=autoren:agricola:ich_ruf_zu_dir

リストが記したショパンの最期

10月17日はショバンの逝去記念日です。

フレデリック・フランソワ・ショパン

1810年3月1日〜1849年10月17日

ショパンとは対比的に語られるフランツ・リストですが、彼はショパンを敬愛し、ショパンの伝記を書いています。

英訳は
Life of Chopin

ショパンの死の直前のところをリストは次のように書いています(要旨)。

……
死を悟ったショパンは旧知のポーランド人、ヤロヴィツキ司祭をすぐに呼んでほしいと頼
み、ヤロヴィツキは臨終前の聖餐(たぶんそれとともに告解と塗油──注・井田)を授けた。

ショパンはその後しばらくして、友人ひとりひとりをベッドのそばに呼び、祝福を祈り、
神の恵みが下るように切に祈り求めた。友人たちは膝を折り、頭を垂れていた……
……

リストがこのように書き伝えたのは、リストにとってこのことが大切だったからに違いありません。

調べて見ると次のようです。
1849年
10月15日(月)上記のことはこの日です。リストが「月曜日」と書いています。
10月16日(火)実質的な最後の日
10月17日(水)午前2時、逝去

三位一体

先の5月30日は「三位一体主日・聖霊降臨後第1主日」でした。

「三位一体」というのはキリスト教の信仰内容です。
それがわたしたちの教会の名前、また幼稚園の名前になっています。

「三位」とは三つの位。「父」と「子」と「聖霊」という三つのあり方。
「一体」とは一つであること。

神さまは、「父」と「子」と「聖霊」という三つのあり方、行動の仕方をしつつ、ひとりの神である、というのが「三位一体」です。

5月30日は説教の冒頭で三位一体の神について語りました。

わたしたち人間の苦しみが深く、抱える困難が重く、救われがたい現実があるゆえに、その人間を救うために、神は三重のあり方、働き方をされる。それは、極限までの神の愛の深さと豊かさをあらわす。

神は

1. わたしたちを造り、命を与えられる。(父)


  しかし造ってそのまま放置というのではなく

2. わたしたちの誕生、生涯、死と復活にいたるまでわたしたちとともにおられる。(子=イエス・キリスト)

  そればかりか

3. わたしたちの中に宿ってわたしたちの中に生きて働いてくださる。(聖霊)

理屈で説明しようとするとややこしいのですが、三位一体は、人と世界を救おうとされる神の愛の豊かさ、激しさをあらわすものです。

礼拝堂の奥の高い窓から差し込むあたたかい光を見ていると、理屈ではなく、三位一体の神の祝福が感じられます。

本来、「三位一体」は、憐れみ深い神に出会い救われた人々の感謝、神への賛美がほとばしり出てこのような表現になったのだと感じます。

今日、三位一体の強調をあまり聞くことがありませんが、わたし自身は熱烈三位一体論の立場です。

このクリスマスの発見

このクリスマスに、聖書から三つの大きな発見をしました。

1. ベツレヘムについて

 これについては下記をご覧ください。↓

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51610180.html

2. 羊飼いについて

3. 洗礼者ヨハネの「証し」について


毎年クリスマスを過し、毎年クリスマスの聖書の箇所を読み、話すのですが、今年はそこに大きな発見がありました。

「羊飼い」と「ヨハネの証し」については説教しましたので、近く掲載します。

聖書の話をする仕事をしていて、そこから新しい発見をすることほどうれしいことはありません。

中庸(2)

「中庸」という言葉を意識しているが、新約聖書のパウロの言葉に適切なものがある。

コリントの信徒への手紙二 4:6

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。」

ベートーヴェンとレッシング

今、音楽に関してはベートーヴェンに一番関心がある。

『ベートーヴェンの手紙』上・下 岩波文庫

編訳者の小松雄一郎氏の解説を読んでいたら、ベートーヴェンとレッシングのつながりが書いてあって驚いた。

ベートーヴェンの音楽の先生はネーフェという人で、そのネーフェはゴットホルト・エフライム・レッシングに傾倒していたそうである。

「ベートーヴェンはネーフェからこのレッシングの思想を受け継いでいたからこそ、フランス大革命の思想を自分のものとすることができたのである」と小松氏は言う。

ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)
Gotthold Ephraim Lessing

ドイツの思想家、劇作家、批評家。
『賢人ナータン』(1779)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの共存を内に含む非常に優れた戯曲。岩波文庫にある。

わたしがレッシングを知ったのは、詩人として知られるハインリヒ・ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)を通してである。ハイネはレッシングを、宗教改革者ルターの後継者として激賞している。

『賢人ナータン』そのものにも感動したが、同時に、解説にあった「神の左手」に強く心を動かされ、それ以来レッシングはわたしの心の友の1人である。
偶然にもわたしと誕生日が同じである(1/22)。

「神の左手」について、2008年2月16日、立教学院諸聖徒礼拝堂で開かれた<詩人尹東柱とともに>の第3部のシンポジウムで言及したことがあるので、今はそれを次に紹介する。

「ドイツにゴットホルト・エフライム・レッシングという人がいます。劇作家で思想的な本も書いていますが、彼が『神の右手と左手』ということを言っています。

「神の右手」というのは一切の真理を持つ手のことで、時には教会はそれを自分が握っていているとして、制度とか教理に人を従わせようとする。

それに対して「神の左手」に握られているのは、真理を探究しようとする熾烈な欲求です。レッシングは、場合によっては神とか教会を疑ってでも真理を問おうとする。彼は「神の左手にすがる」と言うのです。レッシングは教会に対してはかなりの抵抗、反抗しました。私はそのレッシングの「神の左手にすがる」というのが大好きです。

キリスト教だからといって一つの考え方をするわけではないので、分類されてキリスト教的の立場からはそう読めるだろうというふうにくくられるのは、私はとっても悲しいです。

私は自分なりの──他の方はどう読まれるかわかりません──私の自分なりの受けとめを作品一つひとつに対してしたのであって、それを『キリスト教の人間はこう読むのだろう』というふうに分類して終わるのではなくて、私が提出した読み方に対して皆さんはどういう風に思われるか。賛成でも反対でもどんな風でもいいんですけれど。

わたしの一つ一つの読み方に対して皆さんはどんな風に受け止められるかということを大事にして欲しいなと思います。」

<詩人尹東柱とともに>でのわたしの講演は次をご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/izaya/archives/51232826.html
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