2009年06月07日

幸せを求めた男

ルカ19:1〜10

それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は,失われた人を捜して救うために来たのです。」

人は、幸せを求めて生きています。ザアカイは、その幸せの土台を、お金に置きました。求めていたお金は使い切れないぐらいたまりましたが、心から願っていた幸せは得られませんでした。反対に、皆からあくどいやつと嫌われ、本当の友達も一人もいませんでした。そのザアカイに声をかけ、「今日あなたの家に泊めてもらえないか」と主イエスは、語られたのです。
人は、この優しさに心動かされ、生活が変わってゆくのだと思います。ザアカイは、イエス・キリストと出会い、求めていた真の幸せをつかむことができました。あなたの造り主なる神は、あなたの名を呼んで、「私と共に、歩もうじゃあないか」と慈愛の目を向けてくださっておられます。
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izumichurch at 15:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ルカの福音書 

2009年05月31日

先に逝った方の、この地上に残せし人への思い

ヘブル411:13~16

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。


人は生まれ、山あり谷ありの人生を送り、やがて後の世に行かねばなりません。我々より先に逝った方の、この地上に残せし人への思いは、いったいどんなことでしょうか。

(1)「また会いたいね。」このヘブル書11章に登場する人々は、信仰の人として生き、死にました。天の御国でまた会おうと我々を待ってくれています。

(2)「仲良く暮らしてほしい」ということだと思います。

(3)「どんなに辛くても苦しくてもくじけないで生き抜いてほしい」ということだと思います。たった一人しかいない自分、たった一度しかない人生を諦めないでゴール目指して歩んでまいりましょう。
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izumichurch at 14:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ヘブル人への手紙 

2009年05月24日

悩み多き人生の中で、どう生きる!?

第一サムエル30:1~6

ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

ダビデの人生に、思いがけない出来事が起こりました。その出来事のゆえに、ダビデは非常に悩んだと記されています。今まで苦楽を共にしてきた仲間たちから、「お前のせいでこうなったんだ」と詰め寄られて、命の危険を感じていたからです。この悩みの中で、ダビデはどうしたのでしょうか。

(1)「神によって、奮い立った。」 つまり、みことばと祈りによって、この苦境を乗り越えることができました。

(2)主から賜ったものを、分かち合いました。ダビデの人生観は、「主が私たちに賜ったもの」、それを互いに分かち合うことを心がけていました。
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izumichurch at 15:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) サムエル記 第一 

2009年05月18日

聖書の教える子育てへのすすめ

エペソ6:4

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

作物を育てる、花を育てるにしても、苦労と喜びが交差します。子育てに関しても、苦労と喜びが交差します。命をはぐぐむということは、一生ものだと思います。では、どのようにわが子の命を育んでゆけばいいのでしょうか。

(1)「主の教育と訓戒によって育てなさい。」聖書を人生という家の土台とすることです。「聖書は、こういっているよ。」アブラハム・リンカーンの母親がそうでした。

(2)目線を合わせるということです。

第一コリント9:20~22

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

何のために、そうするかというと、より良い関係を築くためです。目線を合わせると、同じ風景が見られて、喜びと悲しみを共有できるからです。
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izumichurch at 11:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0) エペソ人への手紙 

2009年05月11日

困ったとき、どうします?

ヨハネ2:1~11

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし,水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


私たちの生活の中で、困ること、うろたえてしまうような目にあうことがあります。そのような時、どうしますか?マリヤさんも婚礼の最中に、ぶどう酒がなくなるというような困ったことがおこりました。そのとき、マリヤさんは、どうしたでしょうか。

(1)祈りました。問題そのものを、「ぶどう酒がありません」と、主にお願いしました。祈ったら、次にすることは、(2)期待して待つことです。そうしたら、主が身を乗り出して、みわざをなしてくださいます。
ただ、主のなさり方は、人知をはるかに超えています。ぶどう酒を求めたのに、水を水がめ一杯に満たしなさい、と言われました。私たちの願う門は閉ざされたように思えますが、別の門が開かれていました。それが、幸いでした。
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izumichurch at 15:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ヨハネの福音書 

2009年05月07日

天的知恵

箴言9:10

主を恐れることは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟りである。

この世を見渡すと、知識人は大勢見受けられますが、人を生かす知恵深い人は、少ないように思えます。
真理を教え、人を生かす知恵は、いったいどうしたら得られるのでしょうか。それは、知恵の源である神から来ます。主を畏れることが知恵の初めです。

(ちょっと一言)

私はずるいから、いつも甘い方へ逃げようとする。また、流されてしまう。ちょっと注意されると、自分なりの言い訳を作って、「こんなにしたんだから、そんなに言わなくても」と、面白くない思いがある。この自我が悩みの種である。十字架にイエスと古き人が死ぬ以外に解決はない。
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izumichurch at 21:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 箴言 

2009年05月04日

あなたの生きてゆく力は、どこから?

使徒3:1~10

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右の手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

毎朝、毎朝、起きる時、あなたの生きる力は、どこからきますか?この男の人は、生まれつき障害を持って、人生をスタートしなければなりませんでした。この障害のゆえに、心傷つき、生きる意味を見失って、うつむき加減に生きていました。しかし、イエス・キリストの名によって、劇的な変化を受けました。

(1)イエスを主と信じますと、生活に張りが生まれます。くるぶしが強くなり、躍り上がり、神を賛美しています。

(2)生活の力は、金銀から来るのではなく、ナザレのイエス・キリストの名を信じる信仰から来ます。
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izumichurch at 21:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 使徒の働き 

2009年04月30日

うなじのこわい民

詩篇106:13~39

しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、
そのさとしを待ち望まなかった。
彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、
荒れ地で神を試みた。
そこで、主は彼らにその願うところを与え、
また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

彼らが宿営でモーセをねたみ、
主の聖徒、アロンをねたんだとき、
地は開き、ダタンをのみこみ、
アビラムの仲間を包んでしまった。
その仲間の間で火が燃え上がり、炎が悪者どもを焼き尽くした。

彼らはホレブで子牛を造り、
鋳物の像を拝んだ。
こうして彼らは
彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。
彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。
エジプトで大いなることをなさった方を。
ハムの地では奇しいわざを、
葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、
行われた方を。
それゆえ、神は、
「彼らを滅ぼす」と言われた。
もし、神に選ばれた人モーセが、
滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、
御前の破れに立たなかったなら、
どうなっていたことか。

しかも彼らは麗しい地をさげすみ、
神のみことばを信ぜず、
自分たちの天幕でつぶやき、
主の御声を聞かなかった。
それゆえ、主は彼らにこう誓われた。
彼らを荒野で打ち倒し、
その子孫を国々の中に投げ散らし、
彼らをもろもろの地にまき散らそうと。

彼らはまた、バアル・ベオルにつき従い、
死者へのいけにえを食べた。
こうして、その行いによって御怒りを引き起こし、
彼らの間に神罰が下った。
そのとき、ピハネスが立ち、
なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。
このことは、代々永遠に、
彼の義と認められた。

彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。
それで、モーセは彼らのために
わざわいをこうむった。
彼らが主の心に逆らったとき、
彼が軽率なことを口にしたからである。

彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、
かえって、異邦の民と交わり、
そのならわしにならい、
その偶像に仕えた。
それが彼らに、わなであった。
彼らは自分たちの息子、娘を
悪霊のいけにえとしてささげ、
罪のない血を流した。
カナンの偶像のいけにえにした
彼らの息子、娘の血。
こうしてその国土は血で汚された。
このように彼らは、
その行いによっておのれを汚し、
その行いによって姦淫を犯した。


聖書を読むとき、人の話を聞くとき、上の空では、霊的な成長はできない。いつも我がこととして学びたい。
自分は強情な者だと認めていないと、主から、「いつもあなたがたは不信の民であった」と言われると、そんなことはないと反発を感じるのではないだろうか。
自己の真相を、もっと、もっと深く見つめる者でありたい。

(ちょっと一言)
―神の御前に価値あるもの―
第一ペテロ3:3~4

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。


商品でも、外見はおいしそうに見えても、中身がまずかったら、受けるショックは大きい。人柄でも、外面的な美しさより、内面的な美しさ(柔和さ、敬虔さ)の方が貴重である。
内側を整えず、外側ばかりを着飾ると軽薄に見える。内にあるものが外ににじみ出ることを覚えて、心の中の隠れた人柄をきれいにしたいものですね。
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izumichurch at 14:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 詩篇 

2009年04月27日

悩みを希望へと転換してくれるキーワード

ルカ5:1~11

群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。


私たちは、生きてゆく中で、色々な問題にぶつかり、悩みます。この悩みを、希望へと転換してくれるキーワードは、「活ける神の子キリスト」というお方です。シモンは、昨夜、夜通し働いたのに、収獲はゼロでした。疲れていました。そのシモンに、イエスは「深みに漕ぎ出して漁をしなさい」と言われました。昨夜した事と同じことです。ただ違うことは、イエス様がそばにおられ、イエス様がそうしなさいと言われたことです。そのとおりにすると、二そうの船が沈みそうになるぐらい魚がとれました。イエス様と生活をともにすると、毎日同じことをしていても、けだるさは消えて、勢いが与えられて充実感が増すことでしょう。
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izumichurch at 10:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ルカの福音書 

2009年04月20日

死のかなたにあるもの

第二コリント5:1〜11

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからではなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

すべての人には終わりがあります。パウロ先生的に言うならば、地上の幕屋が壊れる時があるということです。しかし、我らには、神の下さる建物があるのです。

死のかなたにあるもの。

(1)天上のからだがあるということです。天上のからだは、栄光のからだです。

(2)あなたの居場所があるということです。

ヨハネ14:1〜3

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

主イエス様のそばほど、居心地の良い場所はありません。

(3)「わたしはある」という方がおられるところです。

黙示録21:3

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

光の中に住まわれる栄光の神を目の当たりにできる、想像を絶する喜びです。
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izumichurch at 14:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) コリント人への手紙 第二