2006年12月

2006年12月31日

光が牢を照らした

使徒12:1〜7  
 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過ぎ越しの祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。 

 わたしたちの人生に、思いもかけずむりやり牢獄の中に押し込められたような苦悩を経験するようなことがある。重い鎖に手足はつながれて、どうしようもなく気がふさぐ時がある。 
 そういう暗闇に座するうめきにあっている我々に神の光がその牢を照らしたという、力強い解放のメッセージです。

1) 神がそこに置かれた意味があるということを知る。

2) 我々の生きる目的は神の栄光の為

3) あきらめない信仰を持つこと

 神の暖かい光を感じたら、直ぐ立ち上がって、その光に従っていくことが大事です。その時我々は神の現実的助けを経験できるでしょう。

 〈ちょっと一言〉
イザヤ43:4
私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。

 上原姉が完璧なるクリスチャンというイメージに圧迫されて挫折していた。その時、上の言葉が支えとなり、最低の人間だけど、この私の存在を喜んで下さっている神が居られることを知って、不完全だからこそ神の愛が必要なのだと肩を張らないで、ありのままクリスチャンとして生きておられるその姿を、その証を聞き、私も深くうなずいたことでした。
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izumichurch at 14:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 使徒の働き 

2006年12月30日

戸を閉めて

マタイ7:7〜11 
 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求めるものは受け、捜すものは見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 イエス様は祈りと言うものを非常に大切にされ、我々にも、絶えず祈りなさいと勧められた。
祈りの中で重要なことは、

1) 聖書の言葉の語りかけを聞くことです。
必ず神は聖書を通して話って下さいます。使徒の働きを読みますと、ベレヤの人々は熱心に聖書を調べたので確かな信仰者が大勢いたようです

。2)自分の欲得を第一にしてゆく生活から離れて神の国と神のみ心を第一に求めてゆく生活を心掛けてゆく。

そういう中での密室の祈りには力がある。

(ちょっと一言)
第ニテモテ4:2
みことぱをのべ伝えなさい。

伝道者の書11:1
あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になってあなたはそれをみいだそう。

 10年ぷりにある夫人にお会いした。会った途端、「お陰様で信仰を持つことができました」と挨拶された。思い返せば、10年前ELI伝道で聖書を語った人であった。くすしき主のみわざを思った。
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izumichurch at 10:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0) マタイの福音書 

2006年12月29日

主が喜んでくださるもの

(1) 神を信頼することを喜んでくださる。
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

マタイ8:23〜27 
 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

マルコ4:35〜41 
 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群集をあとにし、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

ルカ8:22〜25 
 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

(2) 神は喜んで与える人を愛してくださいます。
IIコリント9:6〜15 
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。 その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられる絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

 人は受けるよりも、与えるほうが幸いだとも主は言われています。

(3) 主の御声に従うことを喜ばれます。
1サムエル15:22
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 聖書のことばに従う生活を主は喜んでくださり、その人の人生を大いなる祝福をもってお導きくださる。
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izumichurch at 10:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年12月28日

聖書に生きる

マタイ4:1~11 
 さて、イエスは悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みるものが近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。 

 我々はこの世に存在する限り悪魔の誘惑を受けます。欲望に負けて罪を犯すと、神からどんどん離れて不信仰になり、自らを滅ぼすことになります。イエス様は、悪魔の誘惑を受けた時、ことごとく旧約聖書のみ言葉を持って勝利されました。 

 さて、悪魔はどんな手を持って我々を誘惑するのか。
1) 目の欲、肉の欲、所有欲
2) 神を試す態度
3) 神より他に愛する対象を移す

 聖書にかたく立って生きるより、勝利の道はなし。
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izumichurch at 09:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0) マタイの福音書 

2006年12月27日

キリストにある私の生き方

第一コリント4章  
 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
  さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないめです。いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王さまになれたでしょうに。私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見世物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱い、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。 
 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。神の国はことばにはなく、力にあるのです。あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。 

 この箇所でイエス様の歩まれた道を、ひたすら歩もうとしているパウロの生き方を学び、我々もキリスト信者としていかに生きるべきかを教えられたい。

1) 主が来られる日が我々の信仰の焦点。(5節ー注1)
ルカ1 2 :4 2 〜47
主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とはいったいだれでしょう。主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は思いがけない日のわぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

2)天国の市民として生きる。(9節ー注2)
ヘブル1 1: 38
――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

3)神の国の力によって生きる。(20節ー注3)
キリスト者の道は厳しいものだけれど、神はそれを負える力を下さる。

第二テモテ4:5〜8
しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

この道を行こう。
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izumichurch at 16:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) コリント人への手紙 第一 

2006年12月26日

サイン

詩篇123
あなたに向かって、私は目を上げます。
天の御座に着いておられる方よ。
ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、
女奴隷の手が女主人の手に向けられているように、
私たちの目は私たちの神、主に向けられています。
主が私たちをあわれまれるまで。

私たちをあわれんでください。主よ。
私たちをあわれんでください。
私たちはさげすみで、もういっぱいです。
私たちのたましいは、
安逸をむさぼる者たちのあざけりと、
高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。

 聖書の中で、我々教会という天国を目指すチームメイトに監督である主イエス様がサインを出されています。

1) 誰でも、私についてきたいと思うなら、日々、自分を捨てなさいという自己犠牲の生活です。
ルカ9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

2) 辛抱強く待ちなさいというサイン。
使徒16:6〜7
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤ二に面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

人の立てた計画がとどめられる時がある。その時、神を信じて待ち望むこと。

3) 一致してほしいというサイン。(ヨハネ14〜17)
 互いに愛し合い、互いに許し合い、互いに祈り合うことにより、教会は、勝利する。

《ちょっと一言》
ヨハネ9:4
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

 日めくりをめくりながら、「私は、何度この動作を操り返してきたことだろうか、…今日も生かされている。こんな者をも神は必要として、期待して下さっているのだ。」と思い返す。その期待に少しでも答えて生きたい。
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izumichurch at 13:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 詩篇 

2006年12月25日

昇天のイエス

1ペテロ3:22
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。 

 カルバリ山の十字架の上で、人類の救いのみわざを完成されたイエス・キリストは、3日目に甦り、40日間、多くの弟子たちに現れ、ついにはオリブ山から天に上られました。 
 聖書には、「主は天にあげられ、神の右に座られた」と記されています。キリスト教会も初期の頃から使徒信条の中で、「主は・・・天に昇り、父なる全能の神の右に座し給えリ」と告白してきました。もちろんこれは聖書に基づいた信仰告白です。「天」とは高い霊の世界を示し、「右」とは権威、権能を象徴する言葉です。神のもとから来て、救いのみわざを完成し、神のみもとに再び帰られたキリストは今、神の右にいて、私たちのために、大切な3つの働きをしておられます。

(1) 大祭司としての働きです。(ヘブル7:24〜26−注1、ヘブル4:14〜16−注2)
私たちは毎日、多くの点で失敗し、罪を犯す者です。けれど、主がとりなしをしていてくださるのです。

(2) 王としての働きです。
歴史の支配者(権威の王国)
教会の主(恩寵の王国)
天上の主(栄光の王国)

(3) 救いの君としての働きです。(ヨハネ14章〜)
私たちのために場所を備え、また、迎えに来てくださる。
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izumichurch at 15:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ペテロの手紙 第一 

2006年12月24日

あなたがたは世の光である

マタイ5:14
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 

 光は、キリストです。月が太陽の光を受けて輝いているように、私たちは、世の光であるといわれているキリストの光を受けて輝いているものです。 イエス・キリストは言われました。

1) 光を器の下に隠さないように。(ルカ8:16−注1)
器とは肉体を指します。肉欲のもとにキリストの光を隠さないように。

2) 寝台の下に置かないように。(マルコ4:21ー注2)
寝台とは怠惰や快楽を指すので、快楽をむさぼる怠のために、キリストの光を隠さないように。

3) 光を枡の下に置かないように。(マタイ5:15−注3)
枡は商売を表わします。キリストの光を商取引のために隠すことがないように。 

 昔、灯台の光に、航海中の船にいる多くの人の命がかかっていたように、わたしたちのかかげる光には、暗黒の人生の海を航海する多くの人々の生命がかかっているのです。救い主イエス・キリストを伝えましょう。
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izumichurch at 15:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) マタイの福音書 

2006年12月23日

朝の15分があなたを変える

出エジプト34:2〜3
朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 これは、イスラエル民族の大指導者であったモーセが、シナイという荒野の中にそびえたっているシナイ山のふもとに、民と共にとどまっていたとき、神がモーセに語りかけた御言葉なのです。 
 神はモーセに、「一人で山に登ってきなさい。誰もお前と共に登ってはならない」と命じられました。そして、命じられたとおりにするモーセ。神は、御顔を向けられ、御声をかけられて話をされている(5節:注1)。その結果、主のみ旨がわかり、そして、モーセの顔は神の光を放っていた。人々は、神と会ったのだなあーと知り、神を畏れ、モーセを尊敬し、モーセに託された神の言葉を真剣に聞いたのです(30節:注2) 
 ここに、自分自身を魅力的な者に変える秘訣があると思います。榎本保郎牧師は、失敗をよくし、イライラし、すぐ人を裁いてしまう自分自身がいやになり、本気で自分を変えたいと思いました。そんな折、「朝の15分があなたを変える」という信仰良書と出会い、まず5分間聖書を読み、次に5分間霊的書物を読み、最後の5分は祈りました。 
 モーセに神は、朝のうちに山頂に登って来なさい、と命令されています。
1) 早朝に神の前に出ることが、神の祝福を受けるポイントです。
2) モーセは、山の頂で神の前に立つように命じられました。
モーセは神と語るために、手放せない色々な問題からどうしても一時手を引いて、この恵みの山の頂まで登らねばなりませんでした。山の頂まで行くには、時間がかかります。 
やはり、日常生活が始まるまでに、朝早めに起きて、神のみ声を聞くために山に登っていかなくてはなりません。
3) モーセは朝までに備えをして、山に登るように命じられました。神の前に出るには準備が必要だということです。早起きするためには、早く休むことです。優先順位を決めておくことが大事です。神の国とその義を第一に求めましょう。
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izumichurch at 09:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 出エジプト記 

2006年12月22日

永遠への分水嶺

マルコ4:1〜20 
 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群集がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の船に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」 
 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

 イエスを救い主と信じるか信じないか、その決断によって、我々の永遠を過ごす場所が決定する。まさに、イエスキリストに対する態度が天国か地獄かを決める分水嶺である。

ヨハネ3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 

《ちょっと一言》
ヨハネ20:28
トマスは答えてイエスに言った。私の主。私の神。

 尼僧からクリスチャンになった藤井圭子先生は、現在も小児科医師として仕事をしながら伝道なさっている。その先生がクリスチャンは、天地の造り主を私の主と呼ぶが、仏教徒は、私の仏様は・・・とは言わない。ここに確かな対象となっているものとあやふやな対象との違いがある、と話して下さった。体験談であるので力強い。
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izumichurch at 14:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) マルコの福音書