世の光

2009年11月15日

あなたも明るい人になれる!

ヨハネ8:1~12

イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定めるものはなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」


このヨハネの福音書は、光と闇とのコントラストが描かれています。罪という闇と世の光なるキリストです。この婦人だけが罪人ではなく、我々みな神の前に罪を犯してきた罪人です。どんな罪人でも、世の光として来られたキリストを心に迎え入れると、闇から光に移されて、世の人々を照らす明るい人につくりかえてくださいます。それが、福音の力です。
私も私の親友もねくらでした。しかし、どうでしょう。キリストを救い主として信じたら、お互いがお互いにびっくりするほど変えられ、明るい人になったのです。あなたも、世の光なるキリストを信じたら変えられて、暗い気持ちの人に生きる希望をもたらすことのできるお役に立つ人になることでしょう。


izumichurch at 15:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2008年10月19日

これはすごい!

ヨハネ6:35

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときにも、決して渇くことがありません。

すごいと思うことは、歴史の中で、世界の中で、少なからずありますが、ヨハネの福音書の中で、イエス様がご自分のことを「わたしは〜である」と言われた言葉ほど、すごいものはない!と私は思います。

(1)「わたしは、命のパンです。」私たちの身体を養う食べ物は必要です。しかし、私たち自身が幸せに感じる心を豊かにするのが、イエスを信じる心だということです。

(2)「わたしは、世の光です。」今の世界は、希望の光、愛の光が必要です。キリストが来られたら、闇は消えます。

(3)「わたしは、道です。」私たちは、生き方に迷います。キリストは、正しい生き方を教えてくれます。また、天国に通じる道でもあります。
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izumichurch at 17:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年05月15日

歌いつつ歩まん

詩篇23
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 

 イエス様はご自分のことを、「私は、世の光です」「私は、羊の門です」「私は、良い羊飼いです」 この方を、主と仰ぐ者は失望に終わることなく、恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬなのですね。

 『ちょっと一言』 

 『この家の主人は、キリストである。彼は、食事の時の見えざる客。対談の時の沈黙せる聞き手である。』と、刻まれている壁掛けがある。
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izumichurch at 11:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年01月07日

警鐘

第一コリント6 
 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるようになるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視されるような人たちを裁判官に選ぶのですか。私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行う、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。 
 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、体の外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

 コリントの町は、道徳的に退廃していました。酒乱、淫乱、賭け事、争い、偶像礼拝などで堕落した人々が大勢住んでいました。そういう世の中の、悪事が教会の中にも入ってきて、罪を罪とも感じない者も出てくる始末でした。そういう教会に、正しくない者が神の国に入ることができないことを知らないのかと、パウロは、警鐘を鳴らしているのです。教会の世俗化も孤立化もどちらも間違いです。教会は、地の塩の働き、世の光の役目をしなくては意味がありません。その為には、何をするにしてもことごとく神の栄光の現れるように、意識して生きることが肝要です。

ローマ12:1 
 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 

《ちょっと一言》
マタイ5:44
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 雨にも負けず、風にも負けず……という、とっても素晴らしい詩がある、私も真似て、中傷にも負けず、無視されることにも負けず、人を憎まず、罪を憎み、自分を悪く言う者を許し祈ってあげ、決して人の悪口を言わず、裁かず、どんな人にも笑顔を向けて包み込んでいけるような、そんな私になりたい。
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izumichurch at 14:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)