人生

2009年10月11日

人生の海の嵐にあう時

ルカ8:22~25

そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに船に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」


私たちの人生に嵐が吹くときがあります。でも大丈夫です。すべてを支配されている主イエスが共におられるからです。そういうメッセージです。イエス様は、弟子たちに「さあ!向こう岸に行こう!」と言われました。向こう岸、つまり天国と受け止めてもいいと思います。私たちは、天国を目指して、人生という大海原にこぎだした舟人のようなものです。

(1)レッツゴー!と主が言われていることが安心のおおもとです。

(2) 突然の嵐にあったとき、ともかくも、主に「助けてください!」と叫ぶことです。主はその祈りに答えて、立ち上がって、嵐をしずめてくださいます。この主をどこまでも信頼してついてゆきましょう。


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2009年07月09日

悩んでいるあなたへ

第二列王記5:1~14

アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入り口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。


頑張っても、頑張っても、人生どうにもならないときがありますし、真面目にコツコツ苦労を積み重ねてきても、思わぬことが起きて、その道がふさがってしまうときがあるものです。このところに登場するナアマンも、悩みの中にありました。何もかもそろっていても、ひとつの問題がある。それが大きな陰を落としていたのです。ナアマンが悩んでいることを、神が気にかけ、救いの道を用意されて、働きかけてくださいました。ナアマンは、だめでもともとと、ともかくも、一歩踏み出しました。その思いが救いの神の言葉に向いたとき、ナアマンは救われ、平安と喜びを持つに至ったのです。あなたを造られた御神は、あなたの人生に将来と希望と平安を与えてくださいます。
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2009年03月08日

人生

ピリピ3:13~14

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

聖書は、人生についてどう教えているだろうか。

(1)マラソン競技にたとえている。パウロ先生も、神の栄冠を得るためにひたすら走っていると言っている。

(2)花にたとえている。

マタイ6:28~30

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。


花はみな、置かれた所で、自分に与えられた花の色を、上を向いて、精一杯咲かせています。

(3)家にたとえている。
マタイ7:24~25

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

イエス様は、家を指差しながら、土台が大事であると話された。その土台は、弟子のペテロが言った、「あなたこそ、活ける神の子キリスト(救い主)です」。この方こそ、我々の人生を支えてくださる、堅固な土台です。
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2009年02月15日

これでいこう!

第一ヨハネ4:7~11

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

武田の軍勢は、風林火山の旗のもと、戦っていったわけです。私たちの人生に掲げる旗は何でしょうか。これでいこう!

(1) 愛です。

雅歌2:4

あの方は私を酒宴の席に伴われました。
私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。

神は愛なる方です。我々も、人を愛して生きましょう。

(2) 祈りです。

ヤコブ5:13~18

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

この中に、祈りという言葉が8回もあります。祈りは、私たちの人生の力となります。

(3) 感謝です。

エペソ5:19~20

詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

朝のスタートから、主に向かって、賛美すると、神があなたを輝かせてくださいます。一度試してみてください。
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2008年11月24日

イエスの着物に触った女

マルコ5:25~34

ところで,十二年の間長血をわずらっている女がいた.この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

私たちの人生には、所々に自分の人生を変えてゆく転機というものがあります。この、12年の間長血を病む娘さんも、イエス・キリストによって救われ、喜びにあふれた生涯に変えられました。その転機となったのが、悩み苦しみを抱きながら、キリストに救いを求めたことです。
二つ目は、重荷を持つ者が、信仰を持ってキリストに触れたことです。
三つ目は、イエス・キリストへの信仰を告白することが大切です。
イエスに触れると、たちどころに、長年自分を苦しめていた病が治ったことを実感しました。イエス様によって救われたのなら、その事実を明らかにすることが大切です。この方こそ、確かに「活ける神の子キリストです」と。主イエスがこの人の生涯を祝福して導いてくださいます。
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2008年11月09日

幸いな人

詩篇1

幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。


私たちはみな、幸せになりたいと幸せを求めています。この詩篇にその答えがあります。この「幸い」と訳されているヘブル語は、「なんという祝福の数々よ」という意味です。神から、祝福の数々を受ける人が、本当に幸いな人です。では、どんな人が、その幸いを受けるのでしょうか。

生活の基準を聖書の教えにおいている人です。主の教えを喜びとし、昼も夜も、口ずさんでいる。聖書を人生の土台として生きている人は、「水路のそばに植えられた木のようです」と言われています。ですから、実を結び、その葉は枯れません。この道を進みましょう。
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2008年10月12日

実りある人生

ルカ 8:4〜15

さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

私たち誰もが実りある人生を送りたいと思っています。主イエスは、この「種まき」のたとえ話から、そのことを教えてくれています。

(1)聖書に聴く人は、実を結ぶということです。
ただ単に聞くだけではなく、生活の中で、神のことばを当てはめて生きようと努める人は、豊かに実を結びます。

(2)良い心を持つことによって実を結ぶことができるようになるということです。
イエス様が語っておられる、良い地とは、良い心のことです。良い心とは、神は私たちの人生に起こってくる様々の事どもを私にとって益となるものにしてくださるという信仰のことです。
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2008年07月13日

この道を行こう

エペソ5:1〜2

1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

私たちの人生には、色々な道があります。でこぼこ道、長い坂道、行き止まりの道。朝目覚めると、誰しも、新しい道が用意されています。どのような道を主は、歩みなさいと教えているでしょうか。

(1)愛の道です。(2節) 愛のうちを歩みなさい。神からいっぱい愛を受けました。そのおすそ分けをしながら歩みましょう。

(2)光の道を歩みましょう。

エペソ5:8

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

光の子どもらしく歩みなさい。光の道とは、善意、正義、真実の道です。厳しい道ですね。自分は損をしても、人様の益となるような歩み方をしてゆきたいものですね。
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2008年01月09日

人生の優先順位

創世記26:25
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

私の趣味の一つにジグゾウパズルがあります。主に聖画をしました。一番多いパズルは3000ピース。こんなに多いパズルを完成するためには順番があります。まず、枠組みから作り、次に、分けておいた色違いのものを聖画を見ながら根気よく合わせていくわけです。そうでないと困難を極めます。
同じように、人生という、神が我らに与えられた「わたし」を完成させるために、優先順位があります。イサクは、まず祭壇を築きました。主を礼拝するためのものです。次に、天幕を張りました。これは、家族が生活する場所です。そして、井戸を掘りました。これは仕事を意味します。祭壇、天幕、井戸。この順番を日々守ってゆくならば、あなたは、必ず、全能の神の豊かな祝福の中を歩めることでしょう。
2008年がスタートしました。いつも主にある希望をしっかりと胸に抱きながら、互いに力を合わせて進んでゆきましょう!!
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2007年08月05日

たといそうでなくても

ヨハネ11:1〜17
 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお2日とどまられた。その後、イエスは、「もう1度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

 人生が、人の計画通りにならない、思い通りにならないとき、神に対する不信感に捕らわれる。
 けれど、神は、常に最善の思いをもって事を成してくださることを知るとき、たとえ、自分の思い通りにならなくても、神の最善を信じ続ける者、神を賛美する者でありたい。

《ちょっと一言》

 私は怠け者で、学校の勉強の予習復習はしなかった。いつも、その場限りの学びで、2〜3日もすれば忘れてしまっていた。
 だから、成績が伸びなかったのも無理はない。
 そして、人生のことにおいても予習復習はさぼっているので、その場、その場の付け焼刃で、つぎはぎだらけの日々であったように思う。
 今、行う前に考え、行った後に考える習慣をもつように努力している。そうすることが、少しでも人格を豊かにしてくれるのではないかと、期待しているからである。
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izumichurch at 13:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)