信仰

2009年11月08日

あなたもやり直せる!

マルコ10:46~52

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

ここに記されている、テマイの子、バルテマイ。はっきりと名前が記されています。つまり、この人の信仰の体験談が記されていると受け止めてもいいと思います。「かつて私は人生を悲観していたけれど、救い主イエスと出会って、今、喜びにあふれて生きられるようになりました。だから、どんな人でも、キリストによって、新しく希望に輝いて生きられるのです。」と言っています。その、希望へのステップの

(1)キリストの名を聞いて、その方に向かって叫んだということです。

ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。

(2)上着を脱ぎ捨てて、キリストにより頼んだということです。

すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

これは、「二度と元の生活には戻らない、一生、キリストについてゆくのだ」という決意です。

(3)目が見えるようになることです。明確に信じています。


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2009年05月31日

先に逝った方の、この地上に残せし人への思い

ヘブル411:13~16

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。


人は生まれ、山あり谷ありの人生を送り、やがて後の世に行かねばなりません。我々より先に逝った方の、この地上に残せし人への思いは、いったいどんなことでしょうか。

(1)「また会いたいね。」このヘブル書11章に登場する人々は、信仰の人として生き、死にました。天の御国でまた会おうと我々を待ってくれています。

(2)「仲良く暮らしてほしい」ということだと思います。

(3)「どんなに辛くても苦しくてもくじけないで生き抜いてほしい」ということだと思います。たった一人しかいない自分、たった一度しかない人生を諦めないでゴール目指して歩んでまいりましょう。
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2009年05月04日

あなたの生きてゆく力は、どこから?

使徒3:1~10

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右の手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

毎朝、毎朝、起きる時、あなたの生きる力は、どこからきますか?この男の人は、生まれつき障害を持って、人生をスタートしなければなりませんでした。この障害のゆえに、心傷つき、生きる意味を見失って、うつむき加減に生きていました。しかし、イエス・キリストの名によって、劇的な変化を受けました。

(1)イエスを主と信じますと、生活に張りが生まれます。くるぶしが強くなり、躍り上がり、神を賛美しています。

(2)生活の力は、金銀から来るのではなく、ナザレのイエス・キリストの名を信じる信仰から来ます。
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2009年04月05日

ナオミの人生に学ぶ

ルツ1:1~5

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

この世の生活は、苦しいこと、つらいことが多いです。ナオミの人生もそうでした。飢饉があり、やむなく異郷の地で暮らさねばなりませんでした。しかも、ご主人を亡くし、息子二人まで、続けて亡くすという辛酸をなめなければなりませんでした。このように苦しみが続く中でも、ナオミは、自分がいる所をできるだけ居心地良くするように努めています。それゆえに、嫁二人とは、とても仲の良い関係を築けています。二つ目は、小さな信仰の灯りであったかもしれませんが、ともかくも、主の守り、助けを待ち望んで生活したことです。その信仰生活が、苦しみの多い人生を支え、後に記されているような、くしき神のみわざを味わう経験につながったのです。
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2009年03月29日

主は生きておられる

I列王17:1~16

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」それから、彼に次のような主のことばがあった。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
すると、彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少し水を持って来て、私に飲ませてください。」彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持ってきてください。」彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れてはなりません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。


私たちの信仰が日常生活の中であまりパッとしないのは、個人的な主との生ける体験がないからではないだろうか?また、何か問題が起こって、つまずいたりするのは、主は生きておられるという実感を味わったことがないから、信仰を失うと思う。日々の生活の中で信仰の訓練をしよう。神の約束のことばを握って。

〈ちょっと一言〉

人から注意されたとき、いじけるタイプと、心から反省して、よくなるように、ひたむきに努力するタイプとがある。私は自分の気持ちに正直になっていじける方であるが、こういう人間には進歩がなく、人から愛想をつかされる。いじける者は、大損をする。
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2008年12月16日

マリヤ

ルカ1:26~38

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった.御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダヒデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


クリスマスは、このマリヤの「イエス」から始まりました。マリヤの人生の中で最大の大きな決断の「はい」であったと思います。マリヤには、救い主の母として選ばれるだけの深い信仰がありました。その信仰を生涯持ち続けたことが、われらが学ぶ一つ目のことです。
二つ目は、マリヤは、神のことばに従順に従う謙遜な心を持っていたということです。「わたしは、主のはしためです。おことばどおりにこの身になりますように」と言っています。
三つ目は、マリヤは、自分の十字架を負い続けたことです。「あなたは、聖霊によって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」との神のことばを受け入れることは、世間ではありえないことで、いいなずけのヨセフのあずかり知らないことですから、石打の死刑を覚悟しなければなりませんでした。
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2008年11月24日

イエスの着物に触った女

マルコ5:25~34

ところで,十二年の間長血をわずらっている女がいた.この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

私たちの人生には、所々に自分の人生を変えてゆく転機というものがあります。この、12年の間長血を病む娘さんも、イエス・キリストによって救われ、喜びにあふれた生涯に変えられました。その転機となったのが、悩み苦しみを抱きながら、キリストに救いを求めたことです。
二つ目は、重荷を持つ者が、信仰を持ってキリストに触れたことです。
三つ目は、イエス・キリストへの信仰を告白することが大切です。
イエスに触れると、たちどころに、長年自分を苦しめていた病が治ったことを実感しました。イエス様によって救われたのなら、その事実を明らかにすることが大切です。この方こそ、確かに「活ける神の子キリストです」と。主イエスがこの人の生涯を祝福して導いてくださいます。
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2008年10月26日

生き方チェック

第一コリント9:23〜27

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


電車の運転手は、安全チェックをしながら運転しています。聖書は、我々に生き方チェックを勧めています。

(1)信仰チェックです。
第二コリント13:5

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―

私たちの生きてゆく力は、全部、上から来るからです。神の力を受ける管が、信仰です。

(2)自分チェックです。
第一テモテ4:6

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。

神の使徒パウロも、失格者にならないために、自分の体を打ち叩いていると言っています。朽ちない冠を得るために、辛抱、辛抱、と自分に言い聞かせていたのでしょう。

(3)再臨待望チェックです。
黙示録22:7

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

黙示録22:12

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

黙示録22:20

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

主イエスは、「見よ。わたしはすぐに来る」と三度、言われています。この主を、待ち望みましょう。
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2008年09月21日

勝利ある人生のスタイル

第一サムエル17:36〜40

このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

この世を生きるということは難しい戦いです。山あり谷ありです。それぞれの状況の中で、勝利してゆけるスタイルがあります。ここに登場しているダビデの生き方から学びたいと思います。人生の途上で、ゴリアテという困難と闘わなければなりません。ゴリアテは、イスラエルの兵士がみな、しり込みする大男でした。しかし、ダビデは、三つのスタイルで勝利しました。

(1)自分流。人のよろいを脱ぎ、羊飼いのスタイルで。

(2)自然流。武器は、川辺の石と自然の木(羊飼いの杖)を用いました。

(3)活ける神により頼む信仰流。万軍の主の御名により戦い、勝利しました。
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2008年09月15日

ダビデの生涯から学ぶこと

詩篇23

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


サムエル記のほとんどが、ダビデの生涯について書いています。神は、ダビデの生涯から、我々に学んでほしいのだと思います。

(1)ダビデは、主に愛された人物でした。我々も、主イエスが命を十字架で捨ててくださるほどに愛されています。

(2)信仰の深い人でした。ペリシテの大勇士ゴリアテと戦うとき、ダビデは、自分の力ではなく、万軍の主の名の力によって戦い、勝利しました。

(3)詩人でした。この詩篇23篇は、ダビデの作です。この詩を通して、どれほど多くの人が、慰められ、励ましを受けてきたことでしょう。

ダビデは、人生の中でどれほど苦しみ、悲しみを味わったことでしょうか。そこから生まれてきたのが、この詩篇です。苦しみは、無駄にはなりません。
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