救い主

2010年01月01日

この愛届きましたか?

ルカ2:1

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

親しい人からの心のこもったプレゼントは嬉しいものです。造り主なる神から最高のプレゼントが贈られてきました。救い主イエス様です。イエス様は、私たちの人生の様々な悩み、重荷から救い出してくださる救い主です。主は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われています。
イエス様は、死で終わらない、永遠の命をお与えくださる救い主です。ニュースキャスターの山川千秋さんは、病を通して、救い主イエスと出会い、信じました。永遠の命をいただいた喜びに満ちて、天国に帰っていかれました。その著書「死は終わりではない」に詳しく書かれています。


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2008年02月27日

祝福の道

ルカ5:27〜32
この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

神は我々を祝福したいと、「祝福の道」へと導かれます。イエスは、マタイに呼びかけました。マタイは、罪人と言われていた取税人です。罪人を招いて、わたしに従ってきなさい、と声をおかけになりました。まじめな生活をするようになってからではありません。イエスは、今のあなたをそのまま受け入れてくださいます。二つ目は、マタイは、イエスが救い主であると信じました。その方の呼びかけに、様々な心配事もののしりも全部おゆだねして、即座に従いました。その良い選択が良い人生に向かわせたのです。三つ目は、イエスに従う道は、自分が祝福を受けるだけではなく、周りの者たちにも祝福が広がるということです。彼は、今まで執着していたお金を惜しみなく使い、同類の取税人を招いて宴会を開き、イエス様に福音を語ってもらいました。
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2007年06月22日

クリスマスへの期待

ルカ2:36〜38
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。 

 わたしたちは、日頃、救い主への関心より、ファッションとか食べ物のこととか、生活のこととかに、より深い関心を示しているように思う。しかし、アンナは、何よりもまさって、救い主を待ち望んでいた。だからこそ、救い主にお目にかかれる栄誉を得たのです。

《ちよっと一言》 

 悲しみを味わった人こそ、悲しみを理解できる。そして、悲しんでいる人を慰めることができる。今、悲しんでいる人よ……。イエス様を見上げてください。なぜなら、イエス様は悲しみの人で、悩みを知れり……のお方ですから。
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2007年05月21日

私は・・・・・・である

ヨハネ4:25〜26
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 

 イエス様はご自分のことを、こう言われている。「私は救い主である」「私は有って有る者である」「私は命のパンである」と。 
 これらの言葉は、我々に決断を迫る。信じるか信じないか、その選択により、人の運命が決まるほど大事な言葉です。

《ちょっと一言》

 「大きなことでは一致、小さなことでは自由。 すべてのことに愛。」アウグスチヌス 
 このことは人との一致と交わりの原則を言っていると思うが、受け入れる寛大さとそれは、神の栄光になるか、ということが要だと思う。
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2007年04月17日

キリストのしもべの心意気

ガラテヤ1:10
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。 

 キリストのしもべの心は、人を怖れず、人のご機嫌をとるようなことはしない。ただ、ひたすら主の歓心をのみひこうと努める心である。
 このガラテヤ書は、偽教師たちが「パウロの話る福音が正しくない」、あるいは、「彼には、使徒としての権威がない」と教会をかき乱していたので、パウロが、その誤解を解く為に、ガラテヤの諸教会に書き送ったものである。
 「自分が使徒となったのは、キリストから直接、任命されたものである。そして、福音とは、イエスを救い主と信じる者が救われるのである。他に、何かを付け加える者は呪われよ。」

《ちょっと一言》 

 ある病室の窓から、二人の人が外を見た。 
 一人は、上の星を見て、詩が生れ、
 一人は、下の泥を見て 不平を言った。 
 わたしたちの環境が、どのように苦境の場であろうと、我々が見ているものによって、その見ているものに似て人生は作られてゆくのではないでしょうか。 
 友よ、あなたは毎日何を心の目で見て生きているのですか。

ヘブル12 : 2 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
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2007年02月11日

イエスを告発する者

ヨハネ8:7
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

1)裁かれるべき立場の人間が、裁き主である神の子を告発している人の心の傲慢さを見る。

2) 聖書は、他者を裁く為にあるのでなく、自分に語られているもの。

3)救い主が来られたのは、世を裁く為ではなく世を救う為である。  

(ちょっと一言)    

 私は自分が嫌になるほど自分の利害得失にこだわっている。人に良く思われよう。人より偉く見られたい。人より清いと思ってもらいたい。自分の方が幾らかでも他人より得をしたいと思っている。こんな私の最後的祈りは「こんな罪人の私を憐れんでください」である。

ルカ1 8 : 13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
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2007年01月27日

慰めよ 私の民を

イザヤ40:1
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と あなたがたの神は仰せられる。 

 現代人の多くは、社会の中で命令的な言葉、攻撃的な態度、とげある言葉などで深く傷付いている。そういう心の傷をご存じである主は、慰めの言葉を語って下さる。

1)あなたの救い主がすぐそばに居られます。 乳飲み子を慈しむ親のように。

2)この世での労苦から解き放たれて、休息できる場所をあなたの為に備えています。

3)「人は捨てても、私は決して捨てない、見離さない。」 このように最愛なる友となってくださる主イエス様がすぐそばにいてくださることは、何という力となることでしょう。

(ちょっと一言)

ピリピ4:13
私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです。 

 ある盲人の方がご自分で作られたという、紐で作られた伊勢エビの置き物を見せていただいた。目のご不自由な方が作られた作品とは、とても信じられないような上手なできばえであった。自分はやらない先からできないと思いがちだが、ともかくもこの方のように、前向きにやってみようと励まされた。
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