2021年01月26日
日曜講演会2021.01.24-2 名和達宣さん
日曜講演会2021.01.24-2 名和達宣さん
コロナ感染・拡大期、参加者の座席は、縦横2m位離されています。
講師の名和さんの前には、アクリル板であろうか、大きな衝立が置かれています。
勿論、親鸞センターの入り口、講演会場の入り口に、消毒液が置かれています。
講話は、9時30分の勤行からスタートですが、私が到着したのが10分前くらいです。
まず、一階で、お手洗いを済ませて、喫煙室で、一服です。
お手洗いが近くなり、よく、トイレを利用するようになりました。
自宅を出てから、ここまで、所要時間、1時間30分ほどですが、やっとのこと、
ここまでは、トイレを使わずに来れたということです。
体内に水分をためる保水力が弱くなっている。
排尿力が強くなっているとも言えます。
体が、徐々に干からびて行っているということでもあるのでしょうか。
外出するときは、意識して、早い目早い目にお手洗いを済ませます。
今、ここに、落在せる絶対他力の身体です。
そして、二階の講演会場へ、手すりを持ちながら、一歩一歩登って行きました。
階段は、登りはなんとかなりますが、下りは、手すりが無ければ怖いです。
「仏法(聴聞)は若きときにたしなめ」とは蓮如のことはです。
行歩もかなわず、耳も遠くなり、すぐ眠くなると、注意しておられます。
蓮如自身の実感でしょうか。
受付で、氏名、連絡先を用紙に記入です。
もし、クラスターが発生した場合の連絡のためでしょうか。
これも、感染症の疫学調査のひとつですね。
ただ、氏名も連絡先も偽って書けば・・・・。
ここにも性善説がありますね。
ただ、参加者の皆さんは、当然、マスクをしておられました。
講話が始まりました。
名和さん:
「皆さんは、この三者の中で、どなたに一番関心がありますか?」
挙手の結果、曽我量深が一番多かったようです。
当然と言えば当然でしょうね。親鸞センターでの講話ですから。
それでも、勿論、西田や大拙に関心のある人もおられますが。
そうそう、今回はスマホの電源を切っていましたので、講演時の写真はありません。
白板をつかっての補足説明などをされたりしましたが。
机は、最前列には、ありましたが、それより後ろは、椅子のみですので、
メモも取れませんでした。
次回は、下敷きのようなものを持参しよう。
以下は、配布資料の一部です。
※以下は、名和さんの解説ではなく、私の妄想です。
(1)西田と大拙
A
この表記も無意識かもしれませんが、西田幾多郎は「西田」、鈴木大拙は「大拙」と
略しますね。親鸞の愚禿と大拙という表記が真宗的な雰囲気を醸し出すのでしょうな。
「豪い」は、面白い受けとめですね。威張らないが威張っているということですかね。
早く回るコマは、止まっているように見えるが、猛スピードで回っているんですね。
「静即動」、あらゆる言語は、動詞ですね。名詞も動詞です。
それも「諸行無常」の意味です。
B
対話に相手が居ても、相手と言語を介しての対話ではない。
意見の賛同、同意でもなく、反論、反駁でもない。
相手の話は聞くが、肯定も否定もしない。
この辺りは、「不立文字」の禅の立場か。
インドに居た時、禅宗の駐在員が、禅問答のような問いを掛けてこられたことが
あった。内容は失念したが・・・。
この時、思ったのは、相手の問いも無化し、答えも無化す、「無」という「立場」、
無と言う立場とは、すでに言語矛盾であるが・・・。
体験として、「問」に捕らわれない、無執着体験です。
西田の言う、「純粋経験」でしょうか。
安田先生は、曽我教学を「感の教学」と言われた。
「感」とは、身体的本能ですね。
西田の純粋経験と同じでしょう。
安田先生の真宗学は「言の教学」だとも言われています。
これは、世親、曇鸞と継承されたどこまでも「対論」する立場ですね。
「言」とは、今流にいえば、「愛」でしょうか。「関わる」と言うことですね。
関りが愛であり、言でもって関わる。
禅宗は、ストレートに「離言法性」(仏・真実)に向かう。
その方法として、「只管打坐」と言う。
真宗は、言を「仮説」と捉えて、「方便」法身を見出したのでしょうね。
無数の苦悩する人間、苦悩も人の数だけある。
その対応に「方便」を見出した。
弥陀の大悲ですね。
「貴方と一緒に居たい」の「一緒」とは、距離の概念ではない。
アウシュビッツを生き延びたフランクルは、物理的な家族の存在・非存在は、
問題でなくなったと言います。「一緒」とは、物的あり方にかかわりが無くなった、
と言うことでしょうか。
(続く)
コロナ感染・拡大期、参加者の座席は、縦横2m位離されています。
講師の名和さんの前には、アクリル板であろうか、大きな衝立が置かれています。
勿論、親鸞センターの入り口、講演会場の入り口に、消毒液が置かれています。
講話は、9時30分の勤行からスタートですが、私が到着したのが10分前くらいです。
まず、一階で、お手洗いを済ませて、喫煙室で、一服です。
お手洗いが近くなり、よく、トイレを利用するようになりました。
自宅を出てから、ここまで、所要時間、1時間30分ほどですが、やっとのこと、
ここまでは、トイレを使わずに来れたということです。
体内に水分をためる保水力が弱くなっている。
排尿力が強くなっているとも言えます。
体が、徐々に干からびて行っているということでもあるのでしょうか。
外出するときは、意識して、早い目早い目にお手洗いを済ませます。
今、ここに、落在せる絶対他力の身体です。
そして、二階の講演会場へ、手すりを持ちながら、一歩一歩登って行きました。
階段は、登りはなんとかなりますが、下りは、手すりが無ければ怖いです。
「仏法(聴聞)は若きときにたしなめ」とは蓮如のことはです。
行歩もかなわず、耳も遠くなり、すぐ眠くなると、注意しておられます。
蓮如自身の実感でしょうか。
受付で、氏名、連絡先を用紙に記入です。
もし、クラスターが発生した場合の連絡のためでしょうか。
これも、感染症の疫学調査のひとつですね。
ただ、氏名も連絡先も偽って書けば・・・・。
ここにも性善説がありますね。
ただ、参加者の皆さんは、当然、マスクをしておられました。
講話が始まりました。
名和さん:
「皆さんは、この三者の中で、どなたに一番関心がありますか?」
挙手の結果、曽我量深が一番多かったようです。
当然と言えば当然でしょうね。親鸞センターでの講話ですから。
それでも、勿論、西田や大拙に関心のある人もおられますが。
そうそう、今回はスマホの電源を切っていましたので、講演時の写真はありません。
白板をつかっての補足説明などをされたりしましたが。
机は、最前列には、ありましたが、それより後ろは、椅子のみですので、
メモも取れませんでした。
次回は、下敷きのようなものを持参しよう。
以下は、配布資料の一部です。
※以下は、名和さんの解説ではなく、私の妄想です。
(1)西田と大拙
A
この表記も無意識かもしれませんが、西田幾多郎は「西田」、鈴木大拙は「大拙」と
略しますね。親鸞の愚禿と大拙という表記が真宗的な雰囲気を醸し出すのでしょうな。
「豪い」は、面白い受けとめですね。威張らないが威張っているということですかね。
早く回るコマは、止まっているように見えるが、猛スピードで回っているんですね。
「静即動」、あらゆる言語は、動詞ですね。名詞も動詞です。
それも「諸行無常」の意味です。
B
対話に相手が居ても、相手と言語を介しての対話ではない。
意見の賛同、同意でもなく、反論、反駁でもない。
相手の話は聞くが、肯定も否定もしない。
この辺りは、「不立文字」の禅の立場か。
インドに居た時、禅宗の駐在員が、禅問答のような問いを掛けてこられたことが
あった。内容は失念したが・・・。
この時、思ったのは、相手の問いも無化し、答えも無化す、「無」という「立場」、
無と言う立場とは、すでに言語矛盾であるが・・・。
体験として、「問」に捕らわれない、無執着体験です。
西田の言う、「純粋経験」でしょうか。
安田先生は、曽我教学を「感の教学」と言われた。
「感」とは、身体的本能ですね。
西田の純粋経験と同じでしょう。
安田先生の真宗学は「言の教学」だとも言われています。
これは、世親、曇鸞と継承されたどこまでも「対論」する立場ですね。
「言」とは、今流にいえば、「愛」でしょうか。「関わる」と言うことですね。
関りが愛であり、言でもって関わる。
禅宗は、ストレートに「離言法性」(仏・真実)に向かう。
その方法として、「只管打坐」と言う。
真宗は、言を「仮説」と捉えて、「方便」法身を見出したのでしょうね。
無数の苦悩する人間、苦悩も人の数だけある。
その対応に「方便」を見出した。
弥陀の大悲ですね。
「貴方と一緒に居たい」の「一緒」とは、距離の概念ではない。
アウシュビッツを生き延びたフランクルは、物理的な家族の存在・非存在は、
問題でなくなったと言います。「一緒」とは、物的あり方にかかわりが無くなった、
と言うことでしょうか。
(続く)
j0318h at 07:48│Comments(0)