『添野義二 極真鎮魂歌』

本当にあと少し待って下さい


新潮社の厳しい校閲部の洗礼を浴びながら、現在着実に校正が進んでいます。新人スタッフながら仕事が抜群に出来る---おまけに美人でおしとやかな大和撫子、Sさんが私の付き人兼アシスタント兼秘書に就任。校正作業も彼女がドンドン進めてくれて、大助かりです。唯一、心配なのが「B型オンナの浮気性」。でも、本当に理想的な秘書に恵まれた。


当初の予定では『添野義二 極真黙示録』というタイトルを予定していた。しかし、内容を考えたら黙示録でなく、鎮魂歌じゃないか! 新潮社の担当者のアドバイスで『添野義二 極真鎮魂歌』になる予定。

鎮魂歌--- Requiemとは、滅びた者たちへの追悼を意味する。要は、大山倍達の死後、極真空手は多くの裏切り者によって滅びつつある、その現実を明らかにした憂いの作品だ。

添野義二、添野ユリアナ夫妻が救世主になれるのか? 救世主は士道館か?

『空手バカ一代』から大山倍達を知り、最強たる極真空手を追求した。1960-1990年代までの極真魂。

極真魂の有無を問う。

1980年代、いわゆる「文字狩り」がメディア界に氾濫しました。戦後民主主義を旗印にした日教組を中心に「差別語」なる言葉を一方的に排除しようと一大キャンペーンが張られたのです。

たしかに「差別語」廃止運動には一定の正義もあったと私は思っています。しかし、言葉は生き物です。時代の変化によってその意味合い、ニュアンスは変化します。また一見「差別的」であっても、語源を辿ると全く差別的でないものも少なくありません。不公平を意味する「片手落ち」は「片・手落ち」であり「片手・落ち」ではありません。しかし多くの出版社は抗議を恐れて使用禁止にしました。挙句に「類は友を呼ぶ」「百聞は一見にしかず」なども日教組に「忖度」して禁止にする版元まで出てくる始末。

私は時に「キチガイ」と書きます。狂人が良くてキチガイがダメな理由が分かりません。英語のcrazy=クレージーは何故問題にされないのか? 私たちは日常的に「キチガイ」と口にします。あえて書きますが、「カタワ」「メクラ」「ツンボ」などの言葉を普通に使う人は殆どいないはずです。何故なら、それらには悪意や蔑視が潜んでいることを私たちは知っているからです。これらの言葉も半世紀前は通常語でした。「言葉狩り」の功績がここにあるのかもしれません。

しかし現在でも日常語として生きている言葉を一方的に排除する姿勢はおかしいと断言します。特に近年では「ヘイトスピーチ」云々で大騒ぎです。私は「朝鮮」も「支那」も蔑視語だとは思いません。歴史が教えてくれる真理です。だから私は朝鮮、支那と呼ぶし、「朝鮮、支那は嫌いだ」と公言します。差別的な思いは一切ありません。だから朝鮮人、支那人の友人は少なくありません。彼らとは「個人的」な付き合いだからです。差別ではなく、彼の国の政治、教育、社会風土が嫌いなのです。


私にとってFaceBookは決して必要な存在ではありません。むしろ今後はブログに力を入れていくべきだと考えています。しかしFacebookには様々な利用価値があります。それよりもFacebookで知り合ったトモダチに対する親愛の情も予想以上に大きく、女性の方々の投稿にはドキドキ、時にはウキウキ気分にも。


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