2016年07月02日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 8

第2ガス室跡の写真です

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2016年07月01日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 7

第2ガス室跡の写真です。
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2016年06月30日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 6

収容者たちの荷物は略奪され、「カナダ」と呼ばれる倉庫で仕分けされ、ドイツ国内に輸送されました。
そのバラック群跡です。
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第3ガス室跡
第2,第3ガス室は、脱衣場とガス室が地下にあり、チクロンBを投入して殺害した後、ゾンダーコマンド(特別作業班)と呼ばれる収容者によって焼却が行われました。
1回の殺戮1500人のために5-7キロのチクロンBが投入され、所要時間は15-20分程度だったとのことです。
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2016年06月29日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 5

「サウナ」と呼ばれた建物。
ここで衣服を脱がされ、全身の毛髪を剃られてシャワーを浴びせられました。
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剃髪室の表示
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剃髪室
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シャワー室の表示
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シャワー室
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衣服は蒸気消毒され、仕分けられました。
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2016年06月28日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 4

収容所内部のバラックが並んでいた場所です。
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630方メートルの貯水池です。
親衛隊員のプールとしても使用されたとのこと。
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引き込み線です
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ここでハンガリーからのユダヤ人が投げ出され、選抜作業が行われました。
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ブロックフューラーシュテュツーベンと呼ばれた幹部囚人の詰め所。
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このそばを通ってガス室に送られていく人たちの様子。
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2016年06月27日

アウシュヴィッツービルケナウ強制収容所 3 

収容所内部から見た司令塔
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2016年06月26日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 2

収容所の敷地は720x1130メートルの広さで、3ヶ所にわけられ、合計174棟のれんが造りのバラックを予定していました。

左側が最初の第1バラック群で、後ほど女性収容所として使用され、その左が第2バラック群、そして右側が、現在では有刺鉄線が張られていない、当時「メキシコ」と呼ばれ、ハンガリーからのユダヤ人が収容されていたバラック跡になります。
中央上部は「サウナ」と呼ばれたシャワー室、「カナダ」と呼ばれた倉庫があり、その左側には第4,第5ガス室がありました。

また、左側上部には第2,第3ガス室がありました。
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よく紹介される強制収容所の引き込み線と司令塔
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司令塔から見た木造バラック群
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木造バラック内部
元々は52頭の馬を収容する厩舎として使われたもの
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簡易トイレ
殆どの人達が飢餓による下痢の症状を持っていた。
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暖房用のストーブ。
燃料はほとんど支給されなかったとのこと
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2016年06月25日

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 1

1941年10月15日、アウシュヴィッツ基幹収容所から3キロほど離れた場所に2番めの強制収容所であるビルケナウ強制収容所の建設が正式に決められました。

そこに行く途中、「Judenlampe(ユダヤ人降車場)」と呼ばれる場所があるので行ってみました。

ここでは、ビルケナウ収容所の引き込み線が敷設される1945年5月まで、ヨーロッパ各地から強制輸送されてきたユダヤ人たちが貨車から放り出されるように降ろされて、荷物を略奪され、多くの人達がガス室に送られました。

引き込み線
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到着した人たちの様子
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家族と引き離される子どもたち
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所属の建物
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数百先に見えるバラック群
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2016年06月24日

アウシュヴィッツ強制収容所 19

1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツに到達し、そこで見たものは、約6千人に登る生ける屍となった人たちでした。

この人達は、ドイツ軍が「ソ連軍が到達することまでには生き延びれないであろう」と思われて放置された人たちで、直ちにソ連軍の医療隊の助けを受けました。
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それと同時に、ポーランドのゲットーの悲惨さ、ソ連、バルト3国でのドイツ親衛隊によるユダヤ人虐殺が明らかにされました。

ポーランドのワルシャワやクラコフなどのゲットーが撤収され、アウシュヴィッツに送られたのですが、人々は「これ以上はひどくはならないだろう」という一縷の望みを託してアウシュヴィッツに送られてきました。

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殺戮された死体、殺戮の現場
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2016年06月23日

アウシュヴィッツ強制収容所 18

ナチスドイツが戦争に負け始め、ソ連軍が接近し始めると、アウシュヴィッツの証拠隠滅を図るために1944年11月頃から、収容者たちは、ベルゲン・ベルゼン、マウトハウゼンといったドイツ本国ににある収容所に向かって輸送されるようになりました。

アンネ・フランクと姉のマルゴットはベルゲン・ベルゼンに輸送され、そこで死亡しました。

また、「死の行進」と呼ばれるように、歩いて移動を強いられました。

移動の図解
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ある市民が秘密裏に撮った「死の行進」の模様の写真
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死の行進を目撃し、チェコ市民に助けを呼びかけるビラの写し(ドイツ語で書かれています)
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2016年06月22日

アウシュヴィッツ強制収容所 17

一応、収容者たちには、月に2回、郵便の出し入れが許されていましたが、ハガキは15行、手紙は25行(?)以内に書くことを制限され、ドイツ語で書かねばなりませんでした。

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2016年06月21日

アウシュヴィッツ強制収容所 16

ハンガリーの展示バラック
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1944年5月頃からハンガリーのユダヤ人、約40万人がアウシュヴィッツに送られました。
その任務を遂行したのがアドルフ・アイヒマンでした(右下)
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2016年06月20日

アウシュヴィッツ強制収容所 15

19-21,28番バラックは、「病棟バラック」と呼ばれ、病気になった収容者が収容されましたが、医療施設、医薬品などはほとんどなく、もはや助からない、と思われた場合、フェノールが心臓に注射されて殺害されました。
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フラスでは、パリ郊外のドランシー収容所に集められました。
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抵抗を呼びかけるフランスの記事
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2016年06月19日

アウシュヴィッツ強制収容所 13

ブロックの何棟かは、オランダ、ハンガリー、フランス、ベルギー、チェコなど、それぞれの国から輸送されてきた人たちの資料が展示されています。

オランダのユダヤ人の生活の模様を展示したパネル
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アムステルダムのユダヤ人居住地区の告示をしたポスター(オランダ語とドイツ語併記)
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ドイツ軍の空襲を受けたロッテルダム
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アンネ・フランクハウスの隠れ家の入口
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アンネ一家が輸送された時のリスト
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2016年06月18日

アウシュヴィッツ強制収容所 12

ホルスト・シューマン、エドヴァード・ヴィルツ、カール・クラウベルクなどが断種手術人体実験を行った10番ブロック
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「死の天使」と呼ばれたメンゲレの人体実験となったロマの子どもたち
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10番ブロックと11番ブロックの中庭にある「死の壁」と呼ばれた処刑場の壁
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「懲罰ブロック」と呼ばれた11番ブロック。
このブロックの地下室で1941年9月3-5日に約600人のソ連兵捕虜と250人のポーランド人がチクロンBでの殺戮実験が行われた。
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地下懲罰房
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他の収容者の代わりに飢餓死刑を受けたマキシミリアン・コルベ神父の懲罰房
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4人が立ったままの懲罰を受けた懲罰房
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2016年06月17日

アウシュヴィッツ強制収容所 11

オーケストラに迎えられて収容所に帰る模様
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夕食の支給時にも嫌がらせを受ける
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就寝
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死亡した仲間を担ぎながら収容所に帰る収容者たち
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懲罰を受ける収容者
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2016年06月16日

アウシュヴィッツ強制収容所 10

収容所内のトイレ
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洗面場
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日々の暮らしのイラスト
鐘が鳴らされて、Kapoと呼ばれる監督囚人によって叩き起こされます。
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洗面の様子
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コーヒーの支給
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「働けば自由になる」と掲げられたゲートを出て強制労働に出る様子
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労働の様子
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2016年06月15日

アウシュヴィッツ強制収容所 9

強制労働のために生存を許された人たちの生活の模様です。


最初はわらを敷いただけの床で寝かされ、のちほどになってわらの入った袋の上で寝かされました。
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後に木製の3段ベッドになります。
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支給される食料は、朝は「コーヒー」呼ばれる出し汁、昼は具の少ないスープ、夜は約300グラムのパンに少量のマーガリンやソーセージなどで、合計1500-1700カロリーで、大人が生きるには少なすぎました。そのため、常に空腹で、食べ物を探していました。
ある収容者は、「パンは非常に貴重なもので、しばしば物々交換の対象となった」と証言しています。
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2016年06月14日

アウシュヴィッツ強制収容所 8

殺戮に使用されたチクロンBの空き缶です。
粒状の石(?)に青酸ガス系化合物を沁み込ませたものです。
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チクロンBの配送手配の電報
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ビルケナウ収容所の第2,第3ガス室の模型です。
左側から収容され、脱衣場に向かいます。
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ガス室の模様です(右側の部屋)
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火葬場の写真(下)
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1944年5月からハンガリーからのユダヤ人約40万人が輸送されてきました。
殺戮した人たちの処理が火葬場だけでは不可能となり、野焼きが行われました。
写真は密かに、ゾンダーコマンド(特別作業班)と呼ばれるガス室での作業を行う人達の一人が撮ったものです。
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2016年06月13日

アウシュヴィッツ強制収容所 7

アウシュヴィッツに到着し、14歳未満の子どもたち、45歳以上の大人や病人、妊娠中の女性、身体障害者、そして労働に耐えられないと思われる人たちは、すぐにガス室に送られ、「シャワーを浴びる」という名目で衣服を脱がされ、「靴は靴紐を結んでおくように」と指示されて、ガス室に送られました。

アウシュヴィッツ第一収容所には1基、ビルケナウには4基のガス室がありました。

第一収容所のガス室です。
元々は弾薬庫として使われた場所になります。
現存するのは戦後に再建されたものになります。
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ガス室内部
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天井の小穴からチクロンBが投入されました。
1500人を殺害するのに5-7キロのチクロンBが使用され、20分前後で殺戮が完了しました。
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死体焼却場です。
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