2016年01月
2016年01月31日 07:00
女性たちの出身地
国防軍売春宿で働く女性たちは、ポーランド人、フランス人共に、すでに売春婦として活動していた女性、あるいは、売春宿の設置以降に応募してきた女性たちであった。
歴史家のレギーナ・ミュールホイザーは、売春婦の採用は、「従来の採用方法」と、「さまざまな形で強制された」女性たちの混合であった、と述べている。
女性たちの中に軍事スパイが混じっている恐れがあるため、女性たちは「政治的に疑いのない」必要があった。
国防軍による売春婦たちの選考は、「所属人種」の基準に基づいて遂行された。
ソ連には公式には売春婦が存在しないことになっていたため、全て「募集」という形で集められた。
ドイツ占領下のノルウェーでの売春宿で働いていた女性は、ノルウェー人ではなく、全てフランス人女性であった。
2016年01月30日 07:00
2016年01月29日 07:00
フランス占領地域における売春
国防軍の西部戦線に対する遠征は、フランスの幸福によって6週間で終了し、約150万人のフランス人が戦争捕虜、あるいは強制労働者としてドイツに送られたが、残された彼らの妻たちの中には、完全に一人で生活することを余儀なくされた。
そのために、ドイツ人兵士たちと関係を結んだり、時折の売春行為は、多くの女性たちにとっては生きるために手段でもあった。
フランス人のパトリック・ブリーンは、ドイツ占領軍兵士とフランス人女性との性的接触は頻繁に行われている、と述べている。
まもなく性病に罹患する占領軍兵士たちの数が激増していることが判明し、1940年9月29日、国防軍衛生管理局の管理下に置かれる売春宿を設置するように命令が下された。
さらには、フランスに多く存在する売春宿のうち、ドイツの衛生基準を満たす売春宿が選出されることになった。
国防軍兵士に繰り返して性病を移す管理下に置かれていないフリーの売春婦は強制収容所に送られ、その売春婦に対する取り締まりは、多くがフランスの警察の手によって行われた。
例えば、オルレアン市のフランス警察は、ドイツ前線司令部の衛生将校の命令によって、1941年10月、国防軍売春宿以外で働く売春婦を逮捕し、ジャージョウの収容所に送ることを司令した。
1941年10月から44年11月までの期間、周辺の少なくとも303人のフリーの売春婦が拘束された。
この収容所は国防軍売春宿と連携しており、1941年12月以降、占領軍は収容所から売春宿に女性を送り始めた。
形式上は、売春宿での採用は、収容者の理解と、志願申請によるものとされていたが、実際には、収容所から開放される数少ない手段のひとつであった。
国防軍売春宿で働くフランス人女性は、国防軍によって定期的に医療検査を受けており、病気に感染した場合には、個人の意志にかかわらず病院に送られた。
検査は国防軍衛生課の管理下で、医師免許を持つフランスの公務員によって実施された。
管理下にある売春宿以外での性行為は禁止されていた。
その理由は、性病の蔓延を防ぐためのものであったが、加えて、治安維持の目的でもあった。
女性たちがフランスのレジスタンスの連絡員として国防軍関係者に取り入られるのを恐れたのである。
また、兵士たちと一般女性が関係をもつことは、兵士の規律とフランス占領地区の市民に対する権威を失墜させることになると考えられた。
アンジェーの前線司令部軍医による1940年11月の報告書によれば、14ヶ所の売春宿に8,948人が出入りし、2,467回の性行為が行われたと報告されている。
1941年末ごろには、(北部地域約3分の2を占める軍事管理地区Bに143ヶ所の国防軍売春宿があり、1,166人の女性が働いていた。
港町のラ・ロシェルでは1942年に少なくとも250人のフランス人女性が売春宿で働いていた。
ル・マンの大聖堂の近くにあった売春宿では、主に市外からのドイツ人が利用していた。
+++続きます+++
国防軍の西部戦線に対する遠征は、フランスの幸福によって6週間で終了し、約150万人のフランス人が戦争捕虜、あるいは強制労働者としてドイツに送られたが、残された彼らの妻たちの中には、完全に一人で生活することを余儀なくされた。
そのために、ドイツ人兵士たちと関係を結んだり、時折の売春行為は、多くの女性たちにとっては生きるために手段でもあった。
フランス人のパトリック・ブリーンは、ドイツ占領軍兵士とフランス人女性との性的接触は頻繁に行われている、と述べている。
まもなく性病に罹患する占領軍兵士たちの数が激増していることが判明し、1940年9月29日、国防軍衛生管理局の管理下に置かれる売春宿を設置するように命令が下された。
さらには、フランスに多く存在する売春宿のうち、ドイツの衛生基準を満たす売春宿が選出されることになった。
国防軍兵士に繰り返して性病を移す管理下に置かれていないフリーの売春婦は強制収容所に送られ、その売春婦に対する取り締まりは、多くがフランスの警察の手によって行われた。
例えば、オルレアン市のフランス警察は、ドイツ前線司令部の衛生将校の命令によって、1941年10月、国防軍売春宿以外で働く売春婦を逮捕し、ジャージョウの収容所に送ることを司令した。
1941年10月から44年11月までの期間、周辺の少なくとも303人のフリーの売春婦が拘束された。
この収容所は国防軍売春宿と連携しており、1941年12月以降、占領軍は収容所から売春宿に女性を送り始めた。
形式上は、売春宿での採用は、収容者の理解と、志願申請によるものとされていたが、実際には、収容所から開放される数少ない手段のひとつであった。
国防軍売春宿で働くフランス人女性は、国防軍によって定期的に医療検査を受けており、病気に感染した場合には、個人の意志にかかわらず病院に送られた。
検査は国防軍衛生課の管理下で、医師免許を持つフランスの公務員によって実施された。
管理下にある売春宿以外での性行為は禁止されていた。
その理由は、性病の蔓延を防ぐためのものであったが、加えて、治安維持の目的でもあった。
女性たちがフランスのレジスタンスの連絡員として国防軍関係者に取り入られるのを恐れたのである。
また、兵士たちと一般女性が関係をもつことは、兵士の規律とフランス占領地区の市民に対する権威を失墜させることになると考えられた。
アンジェーの前線司令部軍医による1940年11月の報告書によれば、14ヶ所の売春宿に8,948人が出入りし、2,467回の性行為が行われたと報告されている。
1941年末ごろには、(北部地域約3分の2を占める軍事管理地区Bに143ヶ所の国防軍売春宿があり、1,166人の女性が働いていた。
港町のラ・ロシェルでは1942年に少なくとも250人のフランス人女性が売春宿で働いていた。
ル・マンの大聖堂の近くにあった売春宿では、主に市外からのドイツ人が利用していた。
+++続きます+++
2016年01月28日 07:00
国防軍と親衛隊首脳部の見解
1939年9月9日、帝国内務大臣ウィルヘルム・フリックは、ドイツ国防軍の「作戦区域内」における、売春についての警察による新たなる取り扱いに関する規定を交付した。
野放しの売春婦に対する禁止と取締りによって、国防軍関係者に対する健康上の問題を避けるのを目的としたものであった。
売春は「特別な施設内だけ」で、ドイツの衛生機関の監視下のみによって行われるものとされた。
さらには、強姦事件、刑法75条で禁止されている同性愛行為が増加する恐れがあるため、性行為を禁じるのは適切ではない、と思われた。
陸軍最高司令長官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュは、「健康管理課に置かれていない女性との性行為はできるだけ避けなければならない」と命令した。
同時に、ドイツ軍兵士に対しては、「性行為はできるだけ自制すべきであり、特に結婚している兵士にとっては、これは当然のことである」と付け加えた。
陸軍最高司令部の軍医と補給将校は、1940年後半、占領フランス地区における兵士のための買収宿の設置と野放しの売春婦の取り締まりを開始するための2件の付帯条項を公示した。
その条項に沿って占領軍のための売春宿の選抜がなされ、そして没収されることになった。
この条項の執行に関し、1940年9月23日のB地区長で衛生幹部将校による状況報告書が残されている。
兵士たちのための売春宿は、ほとんどの大都市に設置されており、常に監視下に置かれている。加えて、バーリツ、ボルドー、ラ・ロシェル、ナント、アンジェー、ヴァンヌ、ラ・ボール、ローリアンには、「Absteigerhotel」と呼ばれるラブホテルが設けられている。
無認可の売春婦の強制捜査においては、司令部付医師の指令により、ほとんどの都市部では、フランスの風紀警察によって効果的な捜査活動が行われている。
これにより、かなりの数のフリーの売春婦が性病罹患者とみなされて拘束され、その処分のために連行された。
国防軍買収宿の従業員に対する労働条件、賃金、および、警察、医療管理に関しては、それぞれ事前に作成された明細リストに基づいて適用された。、
+++続きます+++
1939年9月9日、帝国内務大臣ウィルヘルム・フリックは、ドイツ国防軍の「作戦区域内」における、売春についての警察による新たなる取り扱いに関する規定を交付した。
野放しの売春婦に対する禁止と取締りによって、国防軍関係者に対する健康上の問題を避けるのを目的としたものであった。
売春は「特別な施設内だけ」で、ドイツの衛生機関の監視下のみによって行われるものとされた。
さらには、強姦事件、刑法75条で禁止されている同性愛行為が増加する恐れがあるため、性行為を禁じるのは適切ではない、と思われた。
陸軍最高司令長官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュは、「健康管理課に置かれていない女性との性行為はできるだけ避けなければならない」と命令した。
同時に、ドイツ軍兵士に対しては、「性行為はできるだけ自制すべきであり、特に結婚している兵士にとっては、これは当然のことである」と付け加えた。
陸軍最高司令部の軍医と補給将校は、1940年後半、占領フランス地区における兵士のための買収宿の設置と野放しの売春婦の取り締まりを開始するための2件の付帯条項を公示した。
その条項に沿って占領軍のための売春宿の選抜がなされ、そして没収されることになった。
この条項の執行に関し、1940年9月23日のB地区長で衛生幹部将校による状況報告書が残されている。
兵士たちのための売春宿は、ほとんどの大都市に設置されており、常に監視下に置かれている。加えて、バーリツ、ボルドー、ラ・ロシェル、ナント、アンジェー、ヴァンヌ、ラ・ボール、ローリアンには、「Absteigerhotel」と呼ばれるラブホテルが設けられている。
無認可の売春婦の強制捜査においては、司令部付医師の指令により、ほとんどの都市部では、フランスの風紀警察によって効果的な捜査活動が行われている。
これにより、かなりの数のフリーの売春婦が性病罹患者とみなされて拘束され、その処分のために連行された。
国防軍買収宿の従業員に対する労働条件、賃金、および、警察、医療管理に関しては、それぞれ事前に作成された明細リストに基づいて適用された。、
+++続きます+++
2016年01月27日 07:00
第二次世界大戦中の、ドイツ国防軍の売春宿に関する話です。
これも、Wikipediaからの訳になります。
++++++++++++++++
ドイツ国防軍の売春宿
https://de.wikipedia.org/wiki/Wehrmachtsbordell
ドイツ国防軍売春宿と、親衛隊士官用売春宿は、ドイツ軍兵士、および親衛隊関係者のための売春施設であるが、国防軍首脳部により、第2次大戦中にその占領地に設置されたものである。
軍用売春宿は、強制収容所内に設置された売春施設とは区別されている。
戦時中に占領地域において、約500ヶ所のこれらの売春宿が設置されたが、ドイツ占領地区であるデンマークではその存在を見なかった。
++++続きます++++
これも、Wikipediaからの訳になります。
++++++++++++++++
ドイツ国防軍の売春宿
https://de.wikipedia.org/wiki/Wehrmachtsbordell
ドイツ国防軍売春宿と、親衛隊士官用売春宿は、ドイツ軍兵士、および親衛隊関係者のための売春施設であるが、国防軍首脳部により、第2次大戦中にその占領地に設置されたものである。
軍用売春宿は、強制収容所内に設置された売春施設とは区別されている。
戦時中に占領地域において、約500ヶ所のこれらの売春宿が設置されたが、ドイツ占領地区であるデンマークではその存在を見なかった。
++++続きます++++
2016年01月26日 07:00
大晦日に、1977年実況録音の、カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーの聞いた。
本当に便利になって、Youtubeで、アマチュアからプロのオーケストラによる、さまざまな演奏を聞くことができるが、結局は、この演奏にたどり着くんですよね。
まあ、自分自身としては、「Mr.ベルリン・フィル」であった、オーボエのローター・コッホの演奏が聞きたくてこの動画を見ているんだが、息を吹き込んで真っ赤になったあの顔がなんともたまらんのですよ。
噂では、かなりお酒が好きで、アル中だったという話もあるんですがね。
あの当時のスーパースター、ホルンのザイフェルト、フルートのツェラーなどがいます。
よく見たら、後にコンサートマスターになる安永さんが第1バイオリンの末席で演奏しているのを見つけました。
https://www.youtube.com/watch?v=KIUlUSWfILU
本当に便利になって、Youtubeで、アマチュアからプロのオーケストラによる、さまざまな演奏を聞くことができるが、結局は、この演奏にたどり着くんですよね。
まあ、自分自身としては、「Mr.ベルリン・フィル」であった、オーボエのローター・コッホの演奏が聞きたくてこの動画を見ているんだが、息を吹き込んで真っ赤になったあの顔がなんともたまらんのですよ。
噂では、かなりお酒が好きで、アル中だったという話もあるんですがね。
あの当時のスーパースター、ホルンのザイフェルト、フルートのツェラーなどがいます。
よく見たら、後にコンサートマスターになる安永さんが第1バイオリンの末席で演奏しているのを見つけました。
https://www.youtube.com/watch?v=KIUlUSWfILU
2016年01月25日 07:00
2016年01月24日 07:00
2016年01月23日 07:00
売春施設の利用者
売春施設を利用者は、幹部収容者と呼ばれる収容者たちであった。
1943年にボーナスシステムが導入された後、その他の収容者による利用も許可された。
この売春施設の親衛隊隊員による利用は禁じられており、同時に、ユダヤ人収容者とソ連軍戦争捕虜たちによる利用も禁じられていた。
売春施設の利用は、最初は体力的に丈夫な収容者によって、頻繁に利用されていたが、後にはその数は急激に減少した。
政治犯の多くは、モラル上の理由で、この売春施設の利用を拒否した。
そして、生き残りをかけて毎日のように戦っているほとんどの収容者にとっては、このような施設は、全く無意味なものであると同時に、グロテスクなものとしか映らなかったのである。
+++続きます+++
売春施設を利用者は、幹部収容者と呼ばれる収容者たちであった。
1943年にボーナスシステムが導入された後、その他の収容者による利用も許可された。
この売春施設の親衛隊隊員による利用は禁じられており、同時に、ユダヤ人収容者とソ連軍戦争捕虜たちによる利用も禁じられていた。
売春施設の利用は、最初は体力的に丈夫な収容者によって、頻繁に利用されていたが、後にはその数は急激に減少した。
政治犯の多くは、モラル上の理由で、この売春施設の利用を拒否した。
そして、生き残りをかけて毎日のように戦っているほとんどの収容者にとっては、このような施設は、全く無意味なものであると同時に、グロテスクなものとしか映らなかったのである。
+++続きます+++
2016年01月22日 07:00
対象となった女性
これら売春施設で働く女性は、ラーフェンスブリュック女性強制収容所から送られてきた女性たちであった。
親衛隊は、最初は女性たちに「6ヶ月の業務終了後に強制収容所から釈放する」と伝え、「自分の意志によって」申し出させることを試みたが、その後には、女性たちにはどのような作業であるかを知らせることなく、その選抜が行われた。
現在、その名前が判明している女性の数は180名であるが、実際には200〜220人が10ヶ所の強制収容所の売春施設に拘束されていたと考えられている。
その多くは、「非社会的」とされ、強制収容所に送られたドイツ人女性たちであった。
それ以外には、ポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、そしてジプシーと呼ばれたシンティ・ロマの女性たちであり、ユダヤ人女性は存在しなかった。
+++続きます+++
これら売春施設で働く女性は、ラーフェンスブリュック女性強制収容所から送られてきた女性たちであった。
親衛隊は、最初は女性たちに「6ヶ月の業務終了後に強制収容所から釈放する」と伝え、「自分の意志によって」申し出させることを試みたが、その後には、女性たちにはどのような作業であるかを知らせることなく、その選抜が行われた。
現在、その名前が判明している女性の数は180名であるが、実際には200〜220人が10ヶ所の強制収容所の売春施設に拘束されていたと考えられている。
その多くは、「非社会的」とされ、強制収容所に送られたドイツ人女性たちであった。
それ以外には、ポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、そしてジプシーと呼ばれたシンティ・ロマの女性たちであり、ユダヤ人女性は存在しなかった。
+++続きます+++
2016年01月21日 07:00
10ヶ所あった各収容所の売春施設の詳細
収容所名 : マウトハウゼン
利用期間 :1942年6月〜?
利用建物 : バラック第1号棟を改装
設置場所 : 集合場所 洗濯場向かい
現在の状況 : 修復
収容所名 : グーゼン
利用期間 : 1942年秋〜?
利用建物 : 独自の建物
設置場所 : 集合場所、入口の建物(Jourhaus)の隣
現在の状況 : 民間住宅
収容所名 : フロッセンビュルク
利用期間 : 1943年夏〜?
利用建物 : 独自の建物
設置場所 : 勾留棟の後方、収容所の端
現在の状況 : 解体、土台のみ残存
収容所名 :ブーヘンヴァルト
利用期間 : 1943年7月16日〜1945年4月
建物 : 独自の建物
設置場所 : 病棟と小収容所の間
現在の状況 : 解体、土台のみ残存
収容所名 : アウシュヴィッツ基幹収容所
利用期間 : 1943年10月〜1945年1月(収容所撤収数日前まで)
建物 : 第24a番ブロック(第24番ブロックの2階)
設置場所 : 収容所入口の左側
現在の状況 : 博物館古文書保管所(ドアの覗き窓が残存)
収容所名 : アウシュヴィッツ・モノヴィッツ
利用期間 : 1943年の秋〜?
建物 : ?
設置場所 :収容者バラックと野菜畑の間
現在の状況 : 破壊
収容所名 : ノイエンガンメ
利用期間 : 1944年の春〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 収容所の外部(周辺は柵で囲まれた)
現在の状況 : 破壊(土台一部残存、慰霊碑)
収容所名 : ダッハウ
利用期間 : 1944年5月11日〜1944年末
建物 : 独自の建物(第170aブロック、あるいは第31番ブロック))
設置場所 : 収容所の北東隅
現在の状況 : 破壊
収容所名 : ザクセンハウゼン
利用期間 : 1944年の夏〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 「死のゾーン」と呼ばれた地域、周囲に2重の柵)
現在の状況 : ?
収容所名 : ミッテルバウ・ドーラ
利用期間 : 1945年初頭〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 収容所北側
現在の状況 : 破壊。土台の一部残存、慰霊碑
収容所名 : マウトハウゼン
利用期間 :1942年6月〜?
利用建物 : バラック第1号棟を改装
設置場所 : 集合場所 洗濯場向かい
現在の状況 : 修復
収容所名 : グーゼン
利用期間 : 1942年秋〜?
利用建物 : 独自の建物
設置場所 : 集合場所、入口の建物(Jourhaus)の隣
現在の状況 : 民間住宅
収容所名 : フロッセンビュルク
利用期間 : 1943年夏〜?
利用建物 : 独自の建物
設置場所 : 勾留棟の後方、収容所の端
現在の状況 : 解体、土台のみ残存
収容所名 :ブーヘンヴァルト
利用期間 : 1943年7月16日〜1945年4月
建物 : 独自の建物
設置場所 : 病棟と小収容所の間
現在の状況 : 解体、土台のみ残存
収容所名 : アウシュヴィッツ基幹収容所
利用期間 : 1943年10月〜1945年1月(収容所撤収数日前まで)
建物 : 第24a番ブロック(第24番ブロックの2階)
設置場所 : 収容所入口の左側
現在の状況 : 博物館古文書保管所(ドアの覗き窓が残存)
収容所名 : アウシュヴィッツ・モノヴィッツ
利用期間 : 1943年の秋〜?
建物 : ?
設置場所 :収容者バラックと野菜畑の間
現在の状況 : 破壊
収容所名 : ノイエンガンメ
利用期間 : 1944年の春〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 収容所の外部(周辺は柵で囲まれた)
現在の状況 : 破壊(土台一部残存、慰霊碑)
収容所名 : ダッハウ
利用期間 : 1944年5月11日〜1944年末
建物 : 独自の建物(第170aブロック、あるいは第31番ブロック))
設置場所 : 収容所の北東隅
現在の状況 : 破壊
収容所名 : ザクセンハウゼン
利用期間 : 1944年の夏〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 「死のゾーン」と呼ばれた地域、周囲に2重の柵)
現在の状況 : ?
収容所名 : ミッテルバウ・ドーラ
利用期間 : 1945年初頭〜?
建物 : 独自の建物
設置場所 : 収容所北側
現在の状況 : 破壊。土台の一部残存、慰霊碑
2016年01月20日 07:00
ブーヘンヴァルト保護勾留収容所では、1943年より、「収容者がより高度の作業成績を上げるため」という目的で売春施設が設置された。
そのための女性は1943年7月に16人の女性収容者がラーフェンスブリュック女性強制収容所から輸送され、売春を強要された。
1944年5月11日、ダッハウ強制収容所で売春施設の利用が開始されたが、そのために6人の女性がラーフェンスブリュック強制収容所から送り込まれてきた。
これは、所長のオスヴァルト・ポールによる作業規定により、特に好成績を上げた収容者のために、さらなる作業成績を上げさせるために、やる気を出させるのを目的としたものであった。
この施設は同年末に撤収された。
+++続きます+++
そのための女性は1943年7月に16人の女性収容者がラーフェンスブリュック女性強制収容所から輸送され、売春を強要された。
1944年5月11日、ダッハウ強制収容所で売春施設の利用が開始されたが、そのために6人の女性がラーフェンスブリュック強制収容所から送り込まれてきた。
これは、所長のオスヴァルト・ポールによる作業規定により、特に好成績を上げた収容者のために、さらなる作業成績を上げさせるために、やる気を出させるのを目的としたものであった。
この施設は同年末に撤収された。
+++続きます+++
2016年01月19日 07:00
アウシュビッツ第一強制収容所(基幹収容所)の売春宿は、親衛隊は建設プラン第93号として第11番ブロックの後方に売春バラック建設を予定していたが、ハインリッヒ・ヒムラーの司令により、1943年6月に第24aブロック(現在の博物館文書保管室)に設置された。
1943年10月より、特別扱いされている幹部囚人に対する報酬として、売春施設の利用が開始された。
親衛隊監視兵の利用は禁じられていたが、彼らはアウシュヴィッツ市内にある売春施設を利用していた。
強制収容所内売春施設では60人以上のドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人の女性がアウシュヴィッツビルケナウ収容所から選抜され、アウシュヴィッツ第一収容所と、アウシュヴィッツ第三収容所モノヴィッツ2ヶ所の売春施設のために送られた。
この2ヶ所の売春施設は収容所が撤収される数日前まで稼働されていた。
+++続きます+++
1943年10月より、特別扱いされている幹部囚人に対する報酬として、売春施設の利用が開始された。
親衛隊監視兵の利用は禁じられていたが、彼らはアウシュヴィッツ市内にある売春施設を利用していた。
強制収容所内売春施設では60人以上のドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人の女性がアウシュヴィッツビルケナウ収容所から選抜され、アウシュヴィッツ第一収容所と、アウシュヴィッツ第三収容所モノヴィッツ2ヶ所の売春施設のために送られた。
この2ヶ所の売春施設は収容所が撤収される数日前まで稼働されていた。
+++続きます+++
2016年01月18日 07:00
先月、日韓外相会談が行われ、いわゆる従軍慰安婦の件に関し、「最終的合意」がなされたらしいが、ナチスドイツの強制収容所内に売春施設があり、それこそ強制売春が行われていた、ということが判明している。
で、Wikipediaで検索したところ、その記事が出ていました。
https://de.wikipedia.org/wiki/Lagerbordell
つたない訳ですが、小生がその記事を訳したものを数回に分けて掲載します。
+++++++++++++++++++++++
ドイツの強制収容所内売春施設
1942-45年において、10ヶ所のナチスドイツの強制収容所内に男性収容者のために、彼らの労働成績を上げる活力となることを目的として設置されたものである。
歴史家のローベルト・ゾンマー氏によれば、ナチスドイツの強制収容所、および絶滅収容所では210人の女性が売春を強制され、そのうちの174人の氏名が判明している、とされている。
その歴史
この収容所内売春施設の設置の考案がなされた、帝国親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーが、マウトハウゼン強制収容所、およびその周辺の採石場を視察した時である。
強制収容所の収容者に対して、特別報酬の制度を導入することにより、その労働力を完全にまで略奪することを目的としたものであった。
親衛隊が「ゾンダーハウス(特殊な家)」と婉曲に表現した施設を、特権収容者がその利用を許可された施設である。
ハインリッヒ・ヒムラー 1942年 :
私は特に、自由な形式をもって、勤勉な収容者に売春宿の女性たちを割り当てる、という手段の必要性を感じている。
1943年5月、「収容者に対する報酬、許可、供与に関する労働規定」が全ての強制収容所に対して導入された。
これにより、労働において、より優れた成績を達成した男性収容者に対しては、軍隊の髪型、タバコの支給、より頻繁な手紙の交換、売店での購入、そして収容所売春施設の利用が許可された。
ハインリッヒ・ヒムラーの命令により、1942年6月、マウトハウゼン強制収容所に、合計10ヶ所のうちの最初の売春施設が設置された。
対象となる女性は、「非社会的」と位置づけられた女性たちであった。
この女性たちの中には、例えば、ナチス国家への協力を拒否したり、「BDM」(ドイツ少女連盟)の入団を拒否した女性たち、さらには売春婦や「非社会的」であると決定づけられたことを逃れられない女性たちも含まれた。
売春を強制されたこれら多くの女性は、女性強制収容所であるラーフェンスブリュックから輸送されてきた女性たちであった。
この女性たちが性病に罹患した場合は、人体実験のために送られ、妊娠した場合には強制中絶手術が施された。
+++続きます+++
で、Wikipediaで検索したところ、その記事が出ていました。
https://de.wikipedia.org/wiki/Lagerbordell
つたない訳ですが、小生がその記事を訳したものを数回に分けて掲載します。
+++++++++++++++++++++++
ドイツの強制収容所内売春施設
1942-45年において、10ヶ所のナチスドイツの強制収容所内に男性収容者のために、彼らの労働成績を上げる活力となることを目的として設置されたものである。
歴史家のローベルト・ゾンマー氏によれば、ナチスドイツの強制収容所、および絶滅収容所では210人の女性が売春を強制され、そのうちの174人の氏名が判明している、とされている。
その歴史
この収容所内売春施設の設置の考案がなされた、帝国親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーが、マウトハウゼン強制収容所、およびその周辺の採石場を視察した時である。
強制収容所の収容者に対して、特別報酬の制度を導入することにより、その労働力を完全にまで略奪することを目的としたものであった。
親衛隊が「ゾンダーハウス(特殊な家)」と婉曲に表現した施設を、特権収容者がその利用を許可された施設である。
ハインリッヒ・ヒムラー 1942年 :
私は特に、自由な形式をもって、勤勉な収容者に売春宿の女性たちを割り当てる、という手段の必要性を感じている。
1943年5月、「収容者に対する報酬、許可、供与に関する労働規定」が全ての強制収容所に対して導入された。
これにより、労働において、より優れた成績を達成した男性収容者に対しては、軍隊の髪型、タバコの支給、より頻繁な手紙の交換、売店での購入、そして収容所売春施設の利用が許可された。
ハインリッヒ・ヒムラーの命令により、1942年6月、マウトハウゼン強制収容所に、合計10ヶ所のうちの最初の売春施設が設置された。
対象となる女性は、「非社会的」と位置づけられた女性たちであった。
この女性たちの中には、例えば、ナチス国家への協力を拒否したり、「BDM」(ドイツ少女連盟)の入団を拒否した女性たち、さらには売春婦や「非社会的」であると決定づけられたことを逃れられない女性たちも含まれた。
売春を強制されたこれら多くの女性は、女性強制収容所であるラーフェンスブリュックから輸送されてきた女性たちであった。
この女性たちが性病に罹患した場合は、人体実験のために送られ、妊娠した場合には強制中絶手術が施された。
+++続きます+++
2016年01月17日 07:00
最近、毎日のように株価が下がっているみたいですね。
1929年にアメリカで株が大暴落し、その時代に、「アメリカがくしゃみすると、日本は肺炎になる」と言われていたらしいが、昨今では、中国の株が日を追うごとに暴落して、市場が開いたとたんに急激に暴落して、市場閉鎖、ということが頻繁に行われているらしいですな。
まあ、多かれ少なかれ、日本企業は中国との貿易に関係しているわけだし、GNPが日本を追い越しして世界第2位にいるわけだからして、日本の株価に影響を与えるのは当たり前でしょうね。
この1,2週間の動きであたふたするのも分からねいでもないが、長期的に考えると、危険分散ということで、今までのように中国だけに対する投資を控えて、インドとか、他の国に注目してもいいんじゃないの?
少なくとも、「歴史がどうたらこうたら、戦犯国がどうたらこうたら」という話は出ないでしょうから。
1929年にアメリカで株が大暴落し、その時代に、「アメリカがくしゃみすると、日本は肺炎になる」と言われていたらしいが、昨今では、中国の株が日を追うごとに暴落して、市場が開いたとたんに急激に暴落して、市場閉鎖、ということが頻繁に行われているらしいですな。
まあ、多かれ少なかれ、日本企業は中国との貿易に関係しているわけだし、GNPが日本を追い越しして世界第2位にいるわけだからして、日本の株価に影響を与えるのは当たり前でしょうね。
この1,2週間の動きであたふたするのも分からねいでもないが、長期的に考えると、危険分散ということで、今までのように中国だけに対する投資を控えて、インドとか、他の国に注目してもいいんじゃないの?
少なくとも、「歴史がどうたらこうたら、戦犯国がどうたらこうたら」という話は出ないでしょうから。
2016年01月16日 07:00
すでに還暦を過ぎてしまって、早い話が、ジジイ、あるいは老いぼれ、と呼ばれてもおかしくない歳になったわけだが、自分自身を振り返ってみると、何を取っても「中途半端」、あるいは、「いい加減」な人生を送って来たんだなー、と思う。
中学生の頃から、「医者になりたい」、と思っていたが、自分の悪いのは、「じゃあ、かなり勉強していい成績を取らないといけない」ということを分かってはいたが、そのための努力らしい努力をしなくて、簡単にあきらめてしまった。
その後で、望んで音楽家の端くれになったけども、音楽大学を出ていたわけでもない。
そのための基本が全くできていなくて、単にアマチュアの延長で終わってしまい、ちゃんとしたプロになれなかった。
今でこそ、ドイツ旅行のお客様のための日本語ガイド、個人ハイヤー、ドイツ語通訳、として辛うじて食べてはいても、ドイツ語の専門教育を受けたわけでもない。
で、ドイツ在住の日本人ガイド業務も30年目に突入したが、いまだに生活が安定するほど稼いでいるわけでもない。
今頃になって英語の大切さを感じて、英語のテキストなどを読んではいるものの、全然うまくならない。
フランス語も同様。
何だか嫌になりますね。
「医者になれることができたのなら、どんな人生だっただろうな?」、「音楽家としてある程度のレベルまで行っていたら、どんな人生だっただろう?」、ということを考えることがある。
誰かさんみたいに、「これでいいのだ」、という悟りが開ければいいんですがね。
中学生の頃から、「医者になりたい」、と思っていたが、自分の悪いのは、「じゃあ、かなり勉強していい成績を取らないといけない」ということを分かってはいたが、そのための努力らしい努力をしなくて、簡単にあきらめてしまった。
その後で、望んで音楽家の端くれになったけども、音楽大学を出ていたわけでもない。
そのための基本が全くできていなくて、単にアマチュアの延長で終わってしまい、ちゃんとしたプロになれなかった。
今でこそ、ドイツ旅行のお客様のための日本語ガイド、個人ハイヤー、ドイツ語通訳、として辛うじて食べてはいても、ドイツ語の専門教育を受けたわけでもない。
で、ドイツ在住の日本人ガイド業務も30年目に突入したが、いまだに生活が安定するほど稼いでいるわけでもない。
今頃になって英語の大切さを感じて、英語のテキストなどを読んではいるものの、全然うまくならない。
フランス語も同様。
何だか嫌になりますね。
「医者になれることができたのなら、どんな人生だっただろうな?」、「音楽家としてある程度のレベルまで行っていたら、どんな人生だっただろう?」、ということを考えることがある。
誰かさんみたいに、「これでいいのだ」、という悟りが開ければいいんですがね。
2016年01月15日 07:00
冬のシーズンに入り、12月から1月、2月まで、ほとんど仕事が入っていない。
まあ、これは毎年のことではあるが、不摂生な一人暮らしをしていて、早い話が、自宅でゴロゴロしているか、酒を飲んでいるか、インターねとサーフィンばっかりしていて、それが深夜に及ぶこともある。
「明日は仕事で〇〇に行かなきゃ」ということもないので、その日の時間配分などは全くいい加減。
先日、ウトウトしていて、起き上がったら、時計が6時を指していた。
「ちょっと早いが、まあ起きるか」と思いながら、シャワー、洗面をした後にメールを確認、インターネットサーフィンをしていたら、もう8時を過ぎていた。
外を見ると全く明るくなっていない。
なんと、夜の8時だった、というわけ。
本当に不摂生もいいとこだ。
それにしても痩せないなー。
まあ、これは毎年のことではあるが、不摂生な一人暮らしをしていて、早い話が、自宅でゴロゴロしているか、酒を飲んでいるか、インターねとサーフィンばっかりしていて、それが深夜に及ぶこともある。
「明日は仕事で〇〇に行かなきゃ」ということもないので、その日の時間配分などは全くいい加減。
先日、ウトウトしていて、起き上がったら、時計が6時を指していた。
「ちょっと早いが、まあ起きるか」と思いながら、シャワー、洗面をした後にメールを確認、インターネットサーフィンをしていたら、もう8時を過ぎていた。
外を見ると全く明るくなっていない。
なんと、夜の8時だった、というわけ。
本当に不摂生もいいとこだ。
それにしても痩せないなー。
2016年01月14日 07:00
2016年01月13日 07:00
思い出した。
ドイツの日本人ガイドをしてまだ駆け出しの頃なので、そろそろ30年ほど前の事になる。
こちらの手配会社からの要請で、ロマンチック街道の出発点であるヴュルツブルクの商工会議所での通訳業務の仕事を受けた。
その当時乗っていたアウディのオンボロ車で出かけたのだが、途中で車がエンコし、日本で言うJAFに当たるACACに電話して応急修理をしてもらい、結局1時間ほど遅れて到着した。
当然お客様はホテルにいない。
そのまま商工会議所に向かい、遅れたことをお詫びして、すぐに通訳業務にかかる。
グループは日本の大手製パン会社の若い人たちで、引率者によれば、「クリスマスに売るのに、もうケーキでもないだろう。それでドイツのシュトレンの焼き方を指導してもらいにきた」とのこと。
今となっては、日本でも結構売れてきているようです。
ドイツの日本人ガイドをしてまだ駆け出しの頃なので、そろそろ30年ほど前の事になる。
こちらの手配会社からの要請で、ロマンチック街道の出発点であるヴュルツブルクの商工会議所での通訳業務の仕事を受けた。
その当時乗っていたアウディのオンボロ車で出かけたのだが、途中で車がエンコし、日本で言うJAFに当たるACACに電話して応急修理をしてもらい、結局1時間ほど遅れて到着した。
当然お客様はホテルにいない。
そのまま商工会議所に向かい、遅れたことをお詫びして、すぐに通訳業務にかかる。
グループは日本の大手製パン会社の若い人たちで、引率者によれば、「クリスマスに売るのに、もうケーキでもないだろう。それでドイツのシュトレンの焼き方を指導してもらいにきた」とのこと。
今となっては、日本でも結構売れてきているようです。
2016年01月12日 07:00
仕事も暇になったし、こういう時こそ生牡蠣が気兼ねなく食える。
仕事の忙しい時期は生牡蠣が食いたくても、当たると入院騒ぎになって仕事にならないので、それが怖くて、お客様は食べても、こちらは我慢することにしている。
お客様が当たったのであれば、何とか処理もできるが、逆だとそういうわけにも行かないので。
そういうわけで、先日、いつものように130キロほど離れたシュトラスブールのAuchanというメガスーパーマーケットに行って生牡蠣、今回は大きめのもの、それもボルドーの南側とノルマンディの産地が違うものをそれぞれ10個ほど買ってきた。
全部で25ユーロほど、約4千円である。
ということは、1個200円で、安くはない。それでも食いたいんだからしょうがないよね。
早速開けて絞ったレモンを垂らし、リースリングのワインで頂く。
うめーなー。
翌日は残りの10個を頂くことにする。
仕事の忙しい時期は生牡蠣が食いたくても、当たると入院騒ぎになって仕事にならないので、それが怖くて、お客様は食べても、こちらは我慢することにしている。
お客様が当たったのであれば、何とか処理もできるが、逆だとそういうわけにも行かないので。
そういうわけで、先日、いつものように130キロほど離れたシュトラスブールのAuchanというメガスーパーマーケットに行って生牡蠣、今回は大きめのもの、それもボルドーの南側とノルマンディの産地が違うものをそれぞれ10個ほど買ってきた。
全部で25ユーロほど、約4千円である。
ということは、1個200円で、安くはない。それでも食いたいんだからしょうがないよね。
早速開けて絞ったレモンを垂らし、リースリングのワインで頂く。
うめーなー。
翌日は残りの10個を頂くことにする。