西原理恵子の「ぼくんち」のなかにこんな言葉があります。
「生きていくためには、九九が出来て新聞が読めればいい」
九九に関しては、商売や博打ができないからで、新聞を読めないと、世の中がどうなっているのか最低限の知識も得られないから。だから、文字なんか書けなくても新聞程度の文章が読めればいい・・・というような話でした。

これは至言だと思うんですね。考えてみると、社会に出てから2次元方程式とか、(古文の)かかり結びとかが必要になったことはほとんどない。ま、この時代ですから付け加えれば「辞書片手に、英語の大体の意味がわかる」ということぐらいでしょうか?

ところが、
中学3年の子供と話していると、いまではこのレベルにまったく達していない生徒が相当数いるそうです。
中3になって九九がわからない。「偏見」や「起伏」という言葉を知らない。I have a book を訳せない。そんな子が、クラスに1人や2人じゃない人数いる。

「日本の将来」を考えたとき、これはかなりやばいことじゃないかと思うわけです。
まともな社会生活を送るのに必要な能力を与えられないままに、義務教育を終えるわけですから。

ここで、多くの人は不思議に思うはずです。
「九九なんて、むずかしいものじゃないから、教えればいいじゃないか」と。
そうなんですよね。小学校3年程度の学力と、中1の夏休みぐらいまでの英語力があれば、人間は大体生きていける。

ところが、いまの中学というのは、
九九ができない子どもたちに、解の公式とか、因数分解とか、三平方の定理を教えようとする。

んなもんわかるはずがない・・・というより、彼等にとって数学の時間は拷問ですらあるわけです。

結果として、彼等は、極端に学力がないままに社会に放り出されていく。それは、彼等にとって不幸であると同時に、社会にとっても非常な負荷となってくるでしょう。

最近、なぜか(笑)
「コミュニケーション能力がまったく欠けた」人々の書く文(と称するもの)を目にすることがよくある。多くの場合、4行ぐらいで、1行目と2行目、2行目と3行目のつながりが、まったくわからず、いきなり4行目で結論となる。

そして、彼等の「意見」が論理的に成り立っていないことを説明しようとしても、理解できずに荒れ狂う。

でも、これは一概に彼等の責任ともいえないわけです「文章を読んで理解する」というカリキュラムにあったはずの教育と訓練をみごとにスルーして、大人になっているわけですから。恐ろしいことに、この潮流はさらに加速していく気がしています。

どうしましょう?