昔から、よくいる。

他人が口から泡を飛ばして議論しているときに、横から顔を突っ込んできて「そんなことどっちでもいいだろ」的な発言を、さも「意見」のようなしたり顔で口にする人物が---。

当然、私は、そのような人物が大嫌いで、ぶん殴って来たわけだが---。

今回は、あえて「殴られ役」を買って出ようかという気持ちになった。



つまり、「前回都知事選における日本共産党の浅野批判が適切であったかどうか」について。


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私があえて「どっちでもいいだろ派」を選択する理由は明解であり、


石原が選挙に勝ち、その都政が継続したから


ということだ。
「結果論」を言おうとしているわけではない。
私の言わんとしていることは---。


ウィーナーテイクスオールの選挙において、負けるということは、どんな言い訳をしても「0点」


だということだ。

共産党が浅野氏に相乗りしたら、浅野氏は勝ったかも知れないということを言う人がいるかも知れないが、結果として浅野陣営は共産党を説得できなかったわけだから、民主党も浅野陣営も0点だ。

共産党に浅野氏を支持できない正当な理由があったと主張する人もいるかもしれないが、その主張が多数派を形成できなかったわけだから共産党も0点だ。



以上。




現在もなお、いろんなところでマニアックな議論がつづいているようだが、(そして、私は、そのほとんどを熟読していないことを公言する)、その議論はどちらが「よりよい0点」であり、どちらが「より悪い0点」か、口から泡を飛ばしているとしか私には見えない。
(えてして、日本共産党という政党は、負けた選挙に関して「状況を鑑みれば、勝利といっても過言ではない」というような主張をするのが、私にとっては、この政党に対する不信感の源になっている、ということは鮮明にしておく。ついでにいえば、このような言い訳にすぎない「党の公式見解」を繰り返す支持者が多いということも、共産党に対する不信感の源になっている、ということも公言しておく)


もちろん、

世界中のあらゆる事象のなかで「議論に値しない」ものなどは存在しない。ここには、日本にいながら、スペイン音楽の可能性について議論しているバカ(私)がいる。しかし、同時に---。



非友好的な議論に突入する価値がある議論と、ない議論があるんじゃないの



という問題提起もしておきたい。

最近、いくつかのブログ(や、そのコメント欄で)「人間扱いされなかった」という趣旨の文字列を見た(すべてのテキストに当たっていないので、本当に、そういう言動があったかどうかは、関知しない)、また、この問題に関連して、特定の個人を批判(一見した印象は、非難とか罵倒という表現が適切に感じたが)するためだけに新しいブログを立ち上げた人もいた。


「よりよい0点」か「より悪い0点」かという議論に、それだけの不快感を交換しつづける価値がある、とは、私にはとても思えない


リアルポリティクスとして考えてみるなら---。

政権交代が行われ、都議会においても民主党が多数を形成し、石原がレイムダックと化しているいま「前回都知事選における日本共産党の浅野批判が適切であったかどうか」などというのは

古代史に属するものだ。

もちろん、古代史もまた議論に値するテーマではある。しかし3年前の民主党と、3年前の共産党は、もうすでに過去の存在であり、ともに大きく変化を遂げようとしているなかで、この問題について、非友好的な議論を行うということは、邪馬台国と奴国のどちらが日本の正当な国家であるかということを必死で議論するぐらいなことではないかと思う。



いや、もちろん、邪馬台国と奴国のどちらが正当か、というのが議論に値したいというのではないが---。


それによって「相手をつぶす」目的の議論が行われ、ハッピーでないひとが増えていく・・・に値するテーマとはとても思えない。




「それ自体が目的」なのだとしたら、もはや何もいう気はないが---。