ゆとり教育が見直されようとしている。
ゆとり教育が完全に実行(っていう表現も変なのだが)されたのは、2003年である。この年度から、公立の学校では完全週休二日制となり、学習内容も以前から比べると約6割程度になり、総合学習というものが始まり、小学校の低学年からは社会と理科が無くなり生活という授業が始まった。
そして2007年の今、ゆとり教育のせいだかなんだかの検証が中途半端なまま、学力低下が社会問題化し、学習内容を強化しようという議論が出てきている。

さて、ゆとり教育ってのは、なんだったのだろうか。
キッチンスタジアムの鹿賀丈史主宰とは違って、私の記憶は確かではないのだが、そもそもは受験生の自殺やら、15の春に泣く中学生の増加なんかが問題となって、こんなに詰め込んでちゃ子どもが可哀想じゃないか、もっとおおらかにのびのびと学問に取り組めるようにしようってのが発端で、そんなに詰め込み教育ばっかりやってるから、落ちこぼれもいっぱい増えるんだ、だからごっそりと勉強する量も減らしましょう、ってのがゆとり教育の目的だったように思う。

ゆとり教育が始まって、落ちこぼれも減らないし、受験生の自殺はニュースにはならなくなったけど、別の理由での自殺が増えちゃったり、元々大学受験やせいぜい高校受験を受験戦争だと呼んでいたのに、今では小学生が受験戦争でおかしくなっちゃってる。結果としては、ゆとり教育になってしまって、ますます公立中学なんて行ってたんじゃぁ、いい大学に行けませんよ、とばかりに私学中学受験がブームになって、今年は子どもが減っているのに、史上最高の受験者数だったってのも、やっぱり変ですよね。

ゆとり教育のウラ事情には、昔からの教師たち(っていうか日教組かもしれませんが)の念願だった一流企業並みの週休二日制が本当の目的だったって噂があるくらいなんだけど、今の現場では、授業数が足りないと嘆いている。授業数が足りないのなら、また土曜日も復活して、授業時間をしっかり確保すれば済む話だと思うのだけど、そうはならないらしい。教師は働いてりゃいいんだ、なんて言う気は毛頭無いけど、大事な子どもたちの将来が教師の肩にも掛かっている以上、夏休みと冬休みで充分休日が確保できるんだから、がんばってよ、って言いたくもなる。

個人的には、ゆとり教育の基本的理念は間違っていないと思う。ただし、それは学習内容の精査に限られるべきであって、言ってみれば義務教育の中学校までにキッチリと習得すべき学習範囲を定め、それについては授業時間を増やしてでも、叩き込むってのが正しいんだと思う。授業時間が増えたとしても、その分学校の授業だけでしっかりと勉強が身に付けば、そのほかの時間を有意義に過ごせるし、それこそが本当のゆとりだと思う。
なのに、実施されてしまったゆとり教育が生み出したのは、スカスカの教科書と事務処理に追われる教師と塾の売上げ拡大ってのが悲しい。っていうか笑ってしまう。

とまあ、そういういろんな関係者のいろんな思惑があって、結局はゆとり教育って失敗だったのよ、だから早いとこなんとかしましょうや、っていう議論になっちゃってるわけだけど、ゆとり教育を始める前に、授業数減らして、学習内容減らしたら、学力がある程度低下するだろうって、誰も考えなかったんだろうか?僕の子どもたちは、まさにこのゆとり教育のど真ん中で小学生をやってるんだけど、僕はゆとり教育が始まった時に、これじゃ相当に学力低下がおきるよなぁ、だって教えてないんだもんなぁ、でもまあ、その分他にも大事なこともあるしなぁ、子どもの勉強って学校の授業だけじゃないもんなぁ、とムリヤリ納得もしていた。それを、今になって、たった4年で、あれは失敗だった、いや、良かれと思ったんだけど、えらいことになってしまった、早急に学習内容を増やすから、って言われても、今度は納得できない。

教育制度ってのは、ある程度は変化していくものだと思うし、また変化しなければならないとも思う。でも、それは相当に慎重にしなくてはならないはずだ。教育が成功か失敗かってのは、実はその教育を受けた子どもが大人になって、その子どもたちにどういう教育が出来るかって言うところまで行って、もっと言えばどんな人生を送れるかってところでしか判断ができない。なにしろ、教育ってのは人間の文化の伝承事業なのだから、たった4年間であっても、その影響は何年も続くのである。たった(しつこいようだけど)4年で失敗したなんて結論を出されるような改革は、絶対に許されるものじゃぁない。失敗の教育を受けた当事者である子どもたちは、確実に犠牲者となるのである。

自然災害ならば、犠牲者もあきらめるしかないけど、システムは人間が作るのだから、失敗の教育の犠牲は、明らかに人災なのだ。誰がどうやって責任を取るの?
何度も言うが、ゆとり教育の根本思想は間違っていたとは、現段階では言い切れないのだと思う。(正しかったとも言えないけど)
でも、それだけの改革をするには、教師や保護者や子どもに関わるすべての大人たちに、その意味を徹底的に広める必要があった。また、受験制度と詰め込み教育の歪んだ関係を徹底的に検証して、手を入れておく必要があった。はっきりいって、準備が足りなかったのだ。準備が足りないままに始めちゃったゆとり教育ではあったけど、だからってまたもや充分に検証もしないままに方向転換して、良くなかったはずの昔の教育に戻して、違う形での犠牲者が出てきたらどうするつもりなのだろう?

今、やるべきなのは、もう一度ゆとり教育を取り入れたころの原点に戻って、昔の教育システムの何がいけなかったのかを検証することじゃないだろうか。受験を苦に自殺する子どもたちが二度と出さないような制度をつくることが必要なのだ。15の春に泣いたっていいじゃないか、人生は長いんだ!と言い切れる社会が必要なのだ。教育産業という業界の情報に惑わされることなく、子どもの可能性を語れる親になることが必要なのだ。教育制度は国が作るのかもしれないが、運用するのは現場の教師や保護者なのだ。制度ばかりいじくりまわしても、期待される効果は限定的なのだ。それどころか、副作用の方がきつくなったりするものなのだ。いろんな立場の大人が、いろんな関わり方をするのが教育であって、それらのバランスが崩れてしまうと、犠牲になるのは子どもたちなのだ。
ゆとり教育を始めてしまったからには、ゆとり教育を否定するだけではなーんにもならんのだ。
教育制度の見直しこそ、ゆとりを持って慎重かつ大胆に進めなければならない。