映画の話ではない。

先の国会での安倍総理大臣のヤジを見て、まず頭に浮かんだのが「存在の耐えられない軽さ」という言葉だった。GDP(国内総生産)世界第3位の国家のトップがこんなに軽い存在でいいのかというのが率直な感想だ。

国会で野次を飛ばしている姿もしっかりとテレビ中継された。口を尖らして「日教組!」と叫んでる姿はとても一国の首相といった風格はなく、それどころか小学生の低学年に見えてしまった。
その恥ずかしい姿は、テレビという媒体を通じて全世界に流れている。イギリス議会ならば大スキャンダルじゃないだろうか。

この野次について野党から追及された際には、
「なぜあの時、日教組といったかといえば、日教組は補助金をもらっていて、そして、教育会館というものがあるわけでありますが、教育会館から献金をもらっている議員が民主党にはおられて、それに対する質問をかつてかつて我が党がした時に、「これは別の団体だから関係ない」というのが、当時の民主党の政府としての大臣が答弁した見解であったわけでありますから、それをどう考えるかという指摘をしたところでございます」
と答えているのだが、実はこの認識も間違っていたことが指摘される。
もともと日教組は補助金をもらっていないし、教育会館から献金してもらっている民主党の議員もいなかった。

「正確性を欠く発言があったのは遺憾であり訂正する」

それに対する安倍総理の予算委員会での発言である。
政治家がよく使うこの「遺憾」という言葉の意味は、「『思い通りに事が運ばなくて残念だ』という意味で、期待したようにならずに、心残りに思うこと」であり、決して謝罪しているわけではない。
あれだけ、日本の政治のレベルの低さを世界に発信しておきながら、謝罪するつもりはさらさらないらしい。

考えてみれば、ここ数年いや十数年、日本の総理大臣を初めてとする政治家先生のレベルがどんどん落ちているように思う。
少なくとも、かつての総理大臣には国会での態度という面だけでも自覚があったように思う。
とにかく、一国の首相たるもの軽々しくあってはならない。それだけで他国からは十分に馬鹿にされてしまうことがわからないのだろうか。

これは、安倍氏個人の責任だけではないだろう。彼を取り巻くブレーンがいないのか、馬鹿なのか。
政治家もある意味でパフォーマーでなければならないというのは、アメリカ大統領を見るまでもなく、小泉純一郎という、いわば安倍晋三の師匠的存在をみていればわかるはずなのに。

ISに殺害された(生存説もあるにはありますが)後藤健二氏を取り上げたときの日本とアメリカのトップの発言にもそれが見て取れる。

<オバマ大統領>
「イスラム国による凶悪な殺害を非難する」
「後藤さんは勇気をもって、報道を通じてシリアの人々の苦境を世界に発信しようとした」
「アメリカは後藤さんの家族と後藤さんの愛する方々と共にあり、・・・」

<安倍総理大臣>
「政府として全力で対応してまいりましたが、誠に痛恨の極みであります。非道卑劣な卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚えます。テロリストたちを決して許しません」


どう思われるだろうか。
オバマ大統領が、後藤健二氏の活動を以前から知っていたとは思えない。当然、彼のブレーンが書いた原稿を読んだものだと思われる。だが、その中で後藤健二氏が命を賭けてまで取り組んできたライフワークについてしっかりとコメントしている。
もちろん、政治的利用だと見る向きもあるのは知っている。しかし、真意がどうであろうと、後藤氏の偉業を称えていることは日本人として誇りに思うところだ。

それに比べて、安倍総理の言葉の軽さはどうであろう。
後藤健二氏が、これまで何をしてきたのか、何をしようとしてきたのか。総理に説明するブレーンはいなかったのだろうか。安倍氏のコメントについても、軍事強化の言い訳に利用しているのではという批判もある。
本心はわからない。だが、あまりにも当たり前すぎるメッセージになんの心も感じられない。

なぜ、自国のトップが一人のジャーナリストの死を活かしてやろうとしないのか。
安倍総理は彼の書いた本を手にしたことがあるのだろうか?

このことで、安倍首相には心底がっかりしていたところへ、冒頭の「日教組!」発言である。
もう、総理大臣としては期待もしないけど、せめて国会ではどっしり構えてこれ以上恥を世界にさらすのはやめていただきたい。日本人がみーんなバカだと思われてしまうのだけは、勘弁してください。

最後に後藤健二さんの著書を紹介しておきます。4冊とも子どもたちに向けた素晴らしいメッセージにあふれています。