2012年02月08日
トヨン、訓練でほめられる。
昨夜は−17度まで下がったが、今日は18時の時点でたった−3度だったため、いつも通りに訓練が行われた。トヨンはだんだん訓練の意味がわかってきたらしく、「訓練に行くよ」と言うだけでウキウキ、ワクワクしている。訓練ではまず、Spielkreisというのをやる。6人から8人くらいが20メートルくらいの間隔で円陣を組み、おやつを持って、いぬの名前を呼ぶ.円陣の真ん中に飼い主といるいぬは、呼ばれたらその人の所に走っていって伏せをしておやつをもらう、という単純な練習である。
トヨンがこの練習を初めてやった時、残念ながら零点をもらったのだった。初めて行った場所で、知らない人(おばさんが多い)に囲まれ、すっかり不安になったトヨンは呼ばれても徹底的に無視を決め込み、運動場でおちゃらけをしたのであった。つまり、およそ「悪いいぬ」という烙印を押されるにふさわしい行いを、徹底的にしてくれたのだった。
12月は訓練がほとんどなく、今年に入っても寒さのために中止になりがちだったが、その数回の訓練の間に、トヨンは目覚ましい進歩を見せてくれた。
まず、このアヤシイおばさんたちはみんな犬が好きで親切で、しかもおやつを大量に持っている。名前を呼ばれて走っていくと、黄色い声でほめてくれて、おやつをたくさんくれて、なでてくれる。こんな良いことはないじゃん!
というわけで、トヨンは大いなる意欲を見せ、その後のかくれんぼの訓練(Flachensuche)にいたっては、運動場を縦横無尽に駆け巡り、あっという間にオニを見つけるのである。今日は運動場の隠れ場に潜むオニを瞬く間に見つけ出し、「オニを見つけたら、その場で伏せをして次の命令を待つ」ということまでマスターしていた。
訓練士の話だと、ほわシェパは一般的に飼い主以外には冷淡で、オニを探すのにも興味がないそうである。実際、一緒に訓練を受けているほわシェパの「スカー」は、円陣には少し協力するものの(おやつがあっから、しゃあねえ、行ってやっか)、オニ探しを全然してくれないので(自分のパパ以外を探す必要性を感じない)、Mantrailingとか言う訓練の方をしている。そちらは、オニの持ち物(ハンカチとかパンツとか)の匂いをかぎ、飼い主と一緒にそのニオイの素を突き止める訓練である。
それに引き換えトヨンは、人に慣れていて、男の人も女の人も分け隔てせず、喜んでロケット弾のように駆け寄るので、訓練士も歓声を上げていた。この調子で上達していけば、有能な救助犬になれるかも、とまで言われて思わずにまにましてしまいました。
3月になったら救急手当の講義と実践のセミナーを受け、そしたら救助犬隊の制服をもらい、まず人間だけが補助員としての活動に参加するそうである。
ちなみに、人間や犬の制服や装備は、全て団体から寄与されることになっている。
私の属する団体は略称ASB, Arbeiter-Samariter-Bundという。サマリタは聖書のサマリア人から来ており、「情け深い人、苦しんでいる人の真の友」の意味がある。赤十字などと似た活動を無償で行っている。
ドイツには(多分他の欧州国家にも)その他Johanniter(ヨハネ), Malteser(マルタ)などがある。この二つは、昔の騎士修道会から発達したものである。
今では14世紀に悲劇的な全滅を遂げたテンプル騎士団だけが有名だが、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団はテンプル騎士団と並んだ三大騎士団と呼ばれ、十字軍などで同様に活躍していた。
マルタ騎士団は聖ヨハネからの派生、聖ヨハネ騎士団はもとから医療を専門とする騎士団で、今は両方とも医療の互助会として活躍している。
テンプル騎士団はフランス系、聖ヨハネ騎士団はイタリア系である。
ドイツ人はとにかく寄付するのが好きで、どこかで災害があったりすると、寄付が巨額集まる。これらの互助会も、普段からそういった寄付で賄われている。おかげで、ボランティアの私たちにも装備がただで支給されるのである。
なーんてことを書くと、トヨンがなんか騎士みたいにかっこよく見えてくるなあ。それにしてはとろ〜んとした騎士だけれども。
2011年11月30日
じゃじゃ、趣味を探す。

音楽家は大体、オタクで引きこもりで専門バカが多い。特に、ピアノやヴァイオリンをやってる場合、練習時間がえらく必要で、小さい頃からおけいこばっかりで本も読まなければ外で遊んだこともない、と言う人が少なくない。これは最近、他の音楽家仲間としゃべっていて初めて、わかったことだ。学生時代のワタクシを振り返れば、毎日本や漫画を抱え込み、練習をサボりまくって趣味に走っていたものであった。その頃の趣味は星覗き(天文観測などとは、おこがましくて、言えない。)に釣りに(オヤジ殿と行くのが常であった。サイフ付き〜)山歩き(ただのハイキング)だった。ドイツに来てからは、残念ながらその趣味を続けていけなくなってしまった。何とすれば、ドイツの大学は、日本のそれと違って勉強しないと卒業ができないのであった。かてて加えて外国語での修学は授業中に居眠りをしているとまったく理解不可能となり、授業中に居眠りが出来ないとなると、放課後の趣味はお預けになるのであった。夜はしっかり寝ないと次の日に差し障る。
と言うわけでドイツにやってきてはじめて「学校では勉強をする」ことを覚えたワタクシは、マジメに練習に勉強に励むようになったのだった。
そうして一応「プロ」の音楽家としてメシの種にありつき、何とか暮らしているが、オバハンになって少うし暮らしに余裕が出来てきた(注・経済的には、余裕が全然ない)ら、何か仕事以外のことをしたいな〜 と思えるようになってきた。
それで、ちょっと回りを見渡してみたら、「合唱団に加わる」という機会が訪れた。合唱は昔、音大でバロック合唱団で歌っていたこともあり、興味があった。それに、どうせ趣味をするなら堅気のドイツ人と交流するに限る。てなわけで探した結果、木曜日の20時から、この音楽室より徒歩10分の場所で練習している合唱団にめぐり合った。
行ってみたら、まあまあ面白かったので、しばらく行ってみることにした。が、一ヶ月で挫折した。理由は、
1.私は初見視唱が大得意で、もらった楽譜はその場で歌詞付きでほとんど間違いなく読めてしまう(英語はその限りでない)。しかも、絶対音感があるので回りが音程が狂っても絶対にずれない。=練習する必要がない。=飽きる。
2.私がいない間、トヨンは音楽室で待っているが、時々ハナでピアノの鍵盤を押すそうである。それで、きゅんきゅん泣いているらしい(アルベ談)
結局、2番目の理由が主であるが、挫折する頃には木曜の夜にも仕事が入ってしまったので、行けなくなってしまった。
数ヶ月前に、ツギコ先輩の家の近くになかなか素敵な公園を見つけた。名づけて、「Stellinger Schweiz」と言う。スイス人が聞いたらハナ水垂らして笑っちゃいそうな名前だが、シュテリング・スイスには、犬がたくさん集まる。そこで、もう一頭のほわシェパに出会った。「スカー」というその犬は、ただいま8ヶ月。スカーパパは清清しい感じのドイツ青年で、彼とは話が良く合った。そこで、救助犬の話を聞いた。
ドイツでは、Rettungshundestaffelとか何とか言って、いくつかの慈善団体がその訓練をしている。ドイツ赤十字でもやっていて、そこでは捜索犬の訓練や、ヘリコプターでの救助訓練、上級になると災害地捜索救助などの訓練も行われる。スカーパパが行っているのは、赤十字みたいな立派な所じゃないが、ASBサマリタとかいう団体がやっている所だ。そう言えば、ゆきが小さい頃にやってみようかな〜 と思ってやらなかったっけ。合唱で挫折したので、捜索犬ならトヨンも一緒なので、始めてみたのだった。
始めて一ヶ月経つが、いっとう最初の訓練は最悪だった。そういうのを、ドイツ語でEklat(悪い意味の方)とか、Desasterとかいう。要するに、トヨンは零点をもらったのであった。
つづく〜
追伸 一応、三ヶ月間見習い期間があってその後トヨンの適性試験があり、それに合格すれば二年間の訓練期間に入れます。まず、この三ヶ月をがんばってみようかな。
2011年08月13日
チョッとだけ怖い話
つい先々週のことである。トヨンと人民公園で遊んだ後、音楽室に戻って電脳をいじくっていた。トヨンは部屋にいるよりも、お外が見える廊下にいるのが好きで、私の部屋は一階にあるので、ピアノを弾くとき以外は大抵、扉を開けたままにしておく。
この建物はたぶん戦後建てられたもので、元々税関だった。今は一階にある昔の守衛室を私が音楽室として使い、そのすぐ上には画家がアトリエを持ち、建物の反対側の一階はアルベが占領している。二階は画家以外は物置として使われており、あとは地下階に塗装業者の倉庫と、やかましロックグループの練習室がある。
その日は画家はすでに仕事を終えて帰宅し、アルベもどこかにいっていなかった。トヨンと二人きりなので、気楽に扉を開けてトヨンはゆっくり廊下で寛いでいる。
と、いきなりどこからか
「バターン!」
と、扉が勢いよく閉まったような、大きな物体が倒れたような音がした。びっくりしたが、(きっと塗装屋だっぺ)と大して気にも留めず、そのまま電脳に向かった。
その数分後、廊下にいたトヨンが
「ぐるるるる」
といううなり声ともつかぬ声を発しながら、部屋に飛び込んできた。しっぽをまたの間に挟み、目はきょときょとしてるし、走り方もなんかヘンだ。
「どうした、トヨン?」
と言ったら、トヨンは一目散に私の元に走りより、ぴったり貼りついた。そして扉の方を向き、部屋の上の方の壁に向かってワンワン吠え出したのだった。ウーウーうなり声も上げたりして、ムカデでもいるのかと壁に目を凝らしてみても何もいない。
「大丈夫だよ、何もいないよ」
と慰めても、トヨンのうなり声とほえ声は5分くらい止まらなかった。その後落ち着いたものの、しばらく怯えて私から離れようとしない。
気分転換と、主玄関の鍵を開けて外に出、戻ってきたら、トヨンはきょろきょろと不思議そうな顔をしながら部屋のあちこちを点検し、異常がないのを確認したら安心したようにまた横になった。
何だったんたっぺ〜?
壁を凝視していた時に、背筋が寒くなったので、「こりゃ、オバケ野郎だナ。ここはオメの来っとこだねど。出でけ〜」と、お祈りをした。トヨンは背中の毛が逆立って私に張り付いていたが、しっかり立ってほえていたので、コイツは結構ボデーガードとしてイケるかもしんねな、とも思った。
その後は何事も起こっていない。
この町は、第二次世界大戦の時、大空襲に遭った。大きな鉄道駅の近くにあるこの辺も、かなりやられたそうだ。
程近いところにある「聖霊の野原」は隣にドイツ軍司令塔があったお陰で、徹底的に爆撃を受け、今は野原になっている。そこはいろいろな催し物があるが、司令塔の方は壁の厚さ2m以上もあるすさまじい造りで、爆撃にもへっちゃらだっただけでなく、アメリカの建造物破壊の専門家がお手上げだった代物である。
トラックも入れるほどの入り口のある建物は、現在は録音スタジオやら、太鼓たたきの練習やら、防音装置を必要とする人たちに使われている。
私もそこに音楽室を借りようか、なんて思っていたこともあったが、値段が高いし駐車場はないし、ツギコ先輩がオバケだらけだからやめた方がいい、なんて言うのでやめたのだった。
空襲の時に何百人もの人が司令塔の前に逃げてきて入れてもらおうとしたのに、お金を払った人しか入れなかったそうだ。それで、入れなかった人たち全員が亡くなったと聞いた。
日本やカトリックの国だったら、そういう所ではお坊さんが供養をしたりするものだが、プロテスタントはそういう事はぜ〜んぶキリスト氏に任せているので、供養することはない。でも、キリスト氏は他で手一杯でこちらは救済してくれないので、やっぱり助けてもらいたいオバケがわんさかいるらしいんである。
その点、ここは税関、まさか税金が払えぬ腹いせに焼身自殺、なんてことはドイツ人に限ってあるまいし、大丈夫だろ、と思ってたんだが。
その後、一枚くらい写ってないかしら、と数ある音楽室の写真(=トヨンの写真)をひっくら返して見てみたが、アヤシイ写真は一枚もありませんでした。ザンネン。
2011年08月07日
田舎の食堂その1
イタリア旅行での楽しみの一つは、外食である。もちろん、どこで食べてもおいしい保証はないが(特に大都会では)、ドイツなどよりも格段に美味いものは食べられる。ドイツでは食堂探しは至難の業で、知らない土地では祈るような気持ちで入店するのが常である。たかがメシを喰うのに、なんでこんな大冒険をせにゃならんのじゃ。というわけで、うちのコック兼情報部員のアルベの最新情報に従い、マロスティカより数キロ先にある、Breganzeという小さな町で食事をすることにした。ブレガンツェにあるワイン工場の従業員のお勧めである。
みんなが気軽に行くところ、というのでカプリにTシャツのいでたちで行ったら、結構格式のあるレストランなのでびっくりした。

お魚がおいしそうだったので、私は今日の定食を頼んだ。15ユーロナリ。カルパッチョなどの前菜に、混ぜごはんがお子様ランチのように乗っていて、これでお腹いっぱいになった。足りないかな〜 と思ったのだが。(と、後で思い出したが、朝ごはんを山のように食らった後だったのであった…)
その、魚のカルパッチョ。魚の間にあるぱりぱりのクラッカーみたいのは、私にはおいしかったが、おひ姉さんは「こんなもんいらないから、もう一切れ魚が欲しかった〜」との感想であった。
こういうきれいな盛り付けを見ると、なんとなく京料理を思い出す。昔、友だちに連れて行ってもらった蕎麦屋では、500円出してすんばらしい漆器の器に蕎麦が一口しか入っておらず、とても悲しい思いをした。その店は皇族の方々もいらっしゃるとか、店の雰囲気やら食器の素晴らしさが売り物なのだと、ともだちは言っていたが、夷の東人にはそういうことはどうでもいいのであった。蕎麦屋に入ったら、しっかり蕎麦を食いたい。ただし、おひ姉さんは、京女である。
今回、最高点をもらったもの。デザート三種を小さくまとめたもので、5ユーロ。これが高いか安いかは、人によって意見が違ってくるだろうが、5ユーロ出してどんぶり一杯のパンナ・コッタを食べるよりはいいと思う。デザートは、ほんのちょっと、おいしいものを食べた後に口に含むくらいが楽しめる。
TPOを心得、食事の間はテーブルの下に大人しくしている。最近は必ず潜り込んでくれるが、時々潜り込みにくい、下が狭くなってるテーブルにも無理やり潜り込むのである。ここは割りに場所もあり、石の床が冷たくて気持ち良かったみたい。写真を拡大して見る方は、脇の方に見えているみっともない大根足は、無視してください。
もっと写真があるのだが、なぜかアップロードできなかった。残念。
外食は、まともにしようと思うと一回に一人20ユーロ以上はかかる。今回は三回しか外食しなかったので安く上がったけれど、もう少し外食しても良かったかねえ、とはおひ姉さんの意見であった。それはそうだけど… ビンボー人は、つらいぜ。
Trattoria la Cusineta
Via Pieve,19 - 36042 Breganze(VI)
0445 873658
2011年07月30日
イタリアに行ったよ
7月の初めから二週間、イタリアに行ってきました。行った場所は、三年前にも行ったプレ・ドロミテ。前と同じ宿に泊まり、近くの町の観光とハイキングだけしてきました。ヴェネチア近郊に住んでるおともだちにも会いたかったけど、今回は遠出はやめときました。来年も行く予定なんで、その時連絡しますね〜今回の参加者はアルベと私とトヨンとおひ姉さんとヴィリ。この間はいぬいぬがもう年を取っていてあまりハイキングができなかったので、ハイキングの用意をして行きました。って、せっかく前に買ってあったハイキング用の棒をしっかり忘れ、結局その辺で拾った木の棒を使ったのでありました。
山間の小さい町、フェルトレの近くにあるチスモン・グラッパにある山の上のおうちを二週間借り、ごはんはアルベが作りました。メシに関しては便利なオトコであります。
上の写真は、ヴィリも連れて小ハイキングをした時のもの。いぬはやっぱり野原の真ん中が一番似合う。
トヨンは若いから、外に出したら勝手に散歩をするかと思いきや、いぬいぬみたいに庭からぜんぜん出ようとしませんでした。ただし、柴犬ヴィリは放したらそのままロケット弾丸と化し、野原の向こうに消えてしまうので、そのお陰でトヨンはヴィリ専用捜索隊員の頭角を表し、訓練されてしまいました。
「ヴィリはどこ?さがせ〜 連れて来い」
と号令をかけると、よっしゃ〜 とばかりに駆け出し、どこかからヴィリを探して連れて帰ってきてくれます。便利だのう。
近くのマロスティカという町に行きました。ここの中央広場には超特大碁盤があり(多分モザイクだろう)、毎年9月頃に人間チェス大会が行われます。中世の服に身を包んだ男女がチェスの駒よろしく飛び回るそうな。でも、途中で自然の欲求が起きたら、どうすんだっぺ。
お昼ごはんの後(これは次項で)、マロスティカ城址に上りました。アルベの話だと、13世紀だか14世紀だかにこの辺りは大変横暴な領主が治めていたことがあって皆に憎まれ、いつか殺されたとか。そんなヤツが住んでたのかねえ、へえ、と言いながら上ろうとしたら、アルベは「ひざが痛いし、トヨンにはこんな狭くて急な階段は体に良くない。だから、下で待ってる」とか抜かしたのでありました。
それで、二人を残して上りだしたら、トヨンはきゃんきゃんきゅうきゅう大声で泣き出して、ものすごい勢いでアルベを引っ張り、有無を言わさず上ってしまいました。
満足トヨン。
暑かったけれど、南伊ほどじゃなくて、やっぱり山は良いのう。
2011年05月21日
4月の旅行
今年の復活祭はいつもよりもぐっと日にちが遅く、4月半ばだった。それで、復活祭のお休み二週間は4月の後半になり、ちょっと時間ができたので、3泊4日で数年前にゆきやのえるとも行った事のある、モーゼル川に行くことにした。今回はPunderichという、かなりトリーア寄りの町で知り合いの家に泊めてもらえることになった。トヨンの親友、ヴィリと、飼い主のおひ姉さんは、そこから50メートルほどのこじんまりとしたホテルに宿泊である。今回訪れた町はコッヘムとトリーア。コッヘムでは、町の川に面した大通りにある、アイスクリーム屋さんでお茶をし、ちょこっと歩いただけだった。ヨーグルトアイスが絶品なのだ。ただ、それが食べたかっただけ。そのためだけに40キロも走る私たちって… バッカみたい。
今回の希望は、トリーア訪問だった。トリーアにはローマ時代の遺跡がわんさかあり、特にPorta Nigra黒い門は有名だ。町は思ったよりも大きくて遺跡は町のあちこちに散らばっているので数時間では見られず、大浴場跡だけ見て帰ってきた。そういう野外博物館は、ドイツでは基本的にいぬ同伴OK なので、私は旅行は大体そういう所だけ行くことにしている。
アルベが教会を見学している間、大人しく肩を並べて待ついぬいぬ。かわいいよねえ(親バカ)。
宿泊先のワイン製造業のおじさんの家には、ゴールデンレトリーバーがいた。いぬいぬが自分のテリトリーに押し入っても怒るどころか、熱烈歓迎でさっそく遊び始める。近くのモーゼル川にも一緒に散歩して泳いだりして、とても楽しかった。
前に宿泊したErnstよりも、こっちの方が断然良かった。今度はツギコ先輩も連れて来ようねえ、とおひ姉さんと話し合ったのだった。
食事はまあまあだった。おじさんが教えてくれた食堂は本当に良かったが、やはりドイツではイタリアみたいなわけにはいかない。日本人は食道楽が多いので、その意味ではドイツ旅行はちときつい。
2011年05月16日
「シューベルティアーデ」もどき

音楽家は音を出すのが商売だが、人前で恥をかかぬ程度の演奏をするためには、練習場が必要だ。ところが、この練習場は見つけるのが至難の業で、見つけてもこちらの足元を見てか、やたらと値段が高かったりする。それで、今使っている練習場は町の真ん中な上、一軒家でいくら音を出しても文句を言う人もいず、値段も払える程度と、天国のような生活である。もともと税関として使われていたこの建物は、数年後に予定されている地域開発のために取り壊されることになっているが、それまで好きに使ってもいいことになっている。一階は私とアルベで占拠し、地下はロックバンドが練習にがんがん使い、二階は絵描きのアトリエ、それから物置になっている。
最近アルベは重い腰をやっと上げて仕事場をきれいにして、いろいろな催しに使用するようになった。その一環として、せっかく家内にタダで使える音楽家がいる、というわけで、月一回程度の割合で演奏会+ワイン試飲・お食事会を開くことにした。もちろん、有料である。
一回目はアルベの希望でシューベルトの「水車小屋の娘」全曲を演奏することにした。何年か前にテノール歌手のヘニングと美術工芸博物館でやったヤツだ。部屋は絵描きのホモロレンツォが設え、料理はアルベ、音楽は私の担当である。
これからピアノも必要になるので、私のチビベーゼンドルファーをザールに移した。150センチしかないグランドピアノはどこにでも置けて、便利である。そしたら、ロレンツォがこのようにガラクタを使って素敵な一角を作ってくれた。彼は、安価な材料で趣味良く部屋を飾れることで有名だ。お花は買ってきたが、それ以外の植物はその辺から採ってきたものだ。
今回はしかし、1835年製のフォルテピアノを使用した。骨董品のピアノは弾きこなすのが難しいが、音量が大きすぎないのと、ウィーン式の軽い打鍵のお陰で、歌の人を邪魔することがなくて楽チ〜ンである。気にせず音が出せるから、モダンのピアノよりも繊細な音色が作れるのが長所で、とにかく私には弾き易い。

演奏会の間はフォルテピアノの隣にある小部屋にトヨンを閉じ込めておこうと思ったら、扉を閉めるときゅんきゅん泣くので仕方なく開けてやった。そしたら、演奏会の間中大人しく楽器の下で寝ていた。観客によると、曲によってぐったり寝てたり、足をばたばたやったり、しっぽを振ったりと振り付けが上手かった由である。
観客は30人程度、聴きながら食前酒をかたむけ、休憩には発泡酒がふるまわれ、くつろいだ雰囲気だった。ここは音響は今ひとつ良くないのだが、よく考えてみれば、シューベルトだって自作の演奏会は友だちのうちの居間でしたことが多かったはずで、ビーダーマイヤー時代と呼ばれるその頃の居間はじゅうたんを敷き(多分)、分厚いカーテンをかけて、ソファや椅子に座った人々はお酒を飲んだりタバコを吸ったりしながら演奏を楽しんでいたに違いないんである。その意味で、この演奏会は真に様式にかなった会ではある、とはヘニングの言であった。

演奏の後はアルベが五つのワインを紹介し、ロレンツォの給仕で食事が始まった。ロレンツォのばら色「おホモちゃんソース」は大好評で、味に狂喜した客がお代わりを求め、めんどくさくなったロレンツォは大きいボールのまま客に渡したら、みんなして寄ってたかってパンでふき取ってぜ〜んぶ食べてしまった。
ワインをしこたま飲み、お腹を満たして大満足の客の三分の一は、自家用車を建物の前に駐車したまま、タクシーで帰っていった。
来月は、シチリア島民のサンティのギターコンサートをすることになっている。その時は、私はジュリアーニのギター協奏曲の伴奏をする。さっそく、移動したグランドピアノが役に立つわけだ。
2011年04月19日
震災前の骨休み
イタ公は、一般的に日本人みたいにしゃかりきになって働く人が少ない。家族営業のような、一人一人の働きが即明日の食事の質にかかわってくる場合には、連中は本当に汗水を流して働く。ところが、生活の保障があると、働いたりするのは恥とばかり、たちまちナマケ心を起こすのであった。さて、一応自営業を営んでいるうちの亭主は、毎日夜も寝ないで昼寝して仕事をしていたので、かなりへばっていた。人が好いので日曜日の夜中でも、「ワインを運んで欲しい」とお客さんに言われれば、運んでしまう。いくら休め、と言ってもうちにいる限りはきっちり休むことができないので、一泊二日でヨソの町に逃げることにした。
近場でメシが美味く、いぬが遊べる所、と言えば、北海に位置するSt.Peter-Ordingに限る。この町には去年の夏にお姉さま方とトヨンを連れて行っていて、そこにあるホテルでおいしい魚料理を食べたので、今度はそこに泊まってゆっくり食事や散歩をしよう、ということになったのだった。

ホテルで食事をしようと思ったら、水曜日はホテルが休みで誰もいなかった。宿泊客は鍵を渡され、「勝手にやってください」と放っておかれる。気楽で良かったけれども、誰もいないガラガラのホテルはちょっと気味が悪いなあ…
お昼ごはんは、町に出て適当にレストランに入って食べたら、結構おいしかった。ドイツの食事は概して塩味がきついことが多いのだが、ここのは薄味だった。私が食べたのは、「ホルシュタイン州風カツレツ」。一体何が「ホルシュタイン風」かと思えば、カツレツの上に目玉焼きが乗っているだけだった。それに付け合わせがベーコン入り焼きじゃがいも。これを一品食べたら、もう夕ご飯は要りません。
食後はへばりアルベをホテルで寝かせ(ただひたすら寝てました)、おひ姉さんと飼い犬のヴィリと一緒にホテル前の海岸を散歩した。

この辺りの海岸はWattenmeer綿の海と呼ばれる、遠浅の砂浜が広がっている。周りにはいくつか島が点在しているが、干潮になると、島と島との間に道ができて、徒歩で渡ることができる。そういう道筋には迷わないように棒が立てられているが、案内人なしで渡るのは、ご法度だそうである。夏になると、島の徒歩渡りのツアーが多く組まれている。いつか行ってみようかな。

海岸のどん詰まりまで、橋げたが組まれていて、その上を歩く。砂浜を歩いたっていいのだが、所々水気を含んでずぶずぶ沈んでしまう所もあり、歩きにくい。いぬどもは喜んで砂浜を歩いていたが、ちびのヴィリは足が砂に取られて沈んでしまい、難儀していた。干潮時は砂浜は向こうに見える建物まで広がり、夏の海水浴時は人でいっぱいになるのである。

この辺りはいつも風が強く冷たい。だから、冬場にこの辺りを散歩する人は完全装備をし、しっかりお腹に詰めてから出かける。この日も大変寒かったが、それでも散歩をする人がかなりいた。ドイツ人はとにかく寒さに強い。いぬどもも、引き綱から解放されて、大喜びで走り回っていた。ヴィリなんか、放してもらった瞬間にロケット弾になっちゃった。
アルベはホテルでたくさん寝て、ぼーとして、ツギコ姉さんと温泉プールに入って満喫していた。冬の北海は刺すように寒いが人は少なく、犬を遊ばせるには最適である。
みんなで楽しく遊んで二日目はやっと開いたホテルのレストランでおいしいものをお腹いっぱい食べて、わいわい帰ってきて次の日の朝7時、ぼけら〜と朝まだきを楽しんでいたら、ラジオのニュースが「日本で大地震発生、大津波が東北を襲いました」と告げ、それでいっぺんに目が覚めたのであった。
2011年02月03日
電脳故障
それは、日本へ出発する前の日だった。豪雪で各国の空港が閉鎖され、案の定、フランクフルト行きの飛行機も餌食となり、欠航でとてもマズイことになっていた。
昨今はこういう場合、電脳でもって各情報が集められて便利である。去年も同じように雪でフランクフルト行きの飛行機が欠航になり、それを知らずにノコノコと空港へ出かけていったら全然飛べないことがわかり、往生したのであった。もっとも、そのお陰でゆきと一日楽しい日が送れたからよかったのだが。
再びこういう愚を犯さぬために電脳を駆使していたら、いきなりネットから放り出され、画面に「機械は停止しています」たら文章が表示され、それっきり電脳君は沈黙を守っているのであった。
現代生活はどうやら電脳ナシでは成り立たなくなっているらしいが、私としてはそういうものからは独立していたい、と言う思いもあり、沈黙電脳をほっぱらかしておいたら、あちらこちらから苦情がやってきた。
プログラムを送ったのに、返事が来ない。合わせの時間はこれでOKか、返事しろ〜 まだ生きてんの?
そんで、しゃーないのでアルベの電脳を使用することにした。三日前に電脳会社に電話したら「会社に送ったら直してやる」ということなので、保証期間内のこともあり、修理してもらうことにした。その内また使えるようになるであろう。
ちなみに、自宅の方には固定電話も引いていない。本当は電気もガスも切りたいところだが、シャワーが浴びられなくなるし、冬場は暖房を入れていないと湿気が上がって家にカビが生えるので、仕方なく使っている。
数年前にクソ田舎の農家に住んでいた時は、お風呂はお湯を沸かして入り、真冬に暖房ナシ、というトンデモない生活をしていたこともある。別に志があってしたことではない。金欠のために、灯油が買えなかっただけのことである。
トヨンは元気である。ここの所二週間ばかり胃袋と腸にバイキンがたまり、吐いたりゲリをしたりしていたが、注射と薬のおかげでごはんが食べられるようになった。下痢はともかく、吐いていると体から栄養が逃げてしまってやせて体が弱るので、お医者さんに行ったのだった。
アルベは仕事場を広げて何やらすてきなホールを作った。実際の作業には他のイタ公たちが当たっていたが、大変イタリア的な改修方法である。すなわち、改修するための資材は、ヨソからタダで失敬するのである。中世のローマ人が、旧ローマ帝国の建築物から資材を失敬した、あの方法である。呆れ〜
2010年12月02日
トヨンと演奏会

一昨日からドイツは急に真冬になった。まだ11月だというのに初雪が降り、北ドイツのいくつかの地方では50センチからの積雪があった由である。明日、私が仕事に行くことになっている町では学校は休校になったそうなので、この天気が続けば、明日は大人しく音楽室にこもっていた方がいいかもしれない。今日のお昼休みにうちの前の公園で遊んだが、あまりに天気が良くてきれいなので、思わず写真を撮ってしまいました。水溜りも池もがちがちに凍っているのでトヨンも汚れず、今までうすら汚れて茶色くなっていた体が、だんだん白くなってきた。
今朝の気温は−9度で、昼間は−5〜6度、夜は−12度まで下がるそうである。ここまで寒くなると、大変気持ちが良い。ただ、まだそんなに寒くなるまいとたかをくくっていたので、真冬用のブーツがなく、足が冷たいのが難点である。
今年初めもゆきが死んじゃう直前に−20度まで下がり、現在も使用中の靴で2時間散歩したら、足先が凍りつき、難儀したものであった。ちなみに、ゆきのヤツは死ぬ一週間前まで大変元気で、厳寒の中、数時間の散歩を要求していたのであった。でかい態度で飼い主をハナ先で躍らせる事を常としていたいぬだったが、いなくなるとやっぱり、寂しい。トヨンがいてくれて、本当に助かったよ。
まだコドモででかい態度はとらないトヨンだが、そろそろ小学高学年の域にまで成長してきたので、小学生のガキのごとく、コ生意気である。
先日、ある寒村のちっこいが立派な北独バロック式教会で、チェンバロの演奏会をさせてもらった。なぜチェンバロかと言うと、教会には楽器が置いてなくてピアノの演奏会ができないからだ。それで、運送費のかからないチェンバロになったのであった。
私は一応歴史的鍵盤楽器を弾くので、いろいろな型の楽器に合わせたプログラムを用意している。演奏会の依頼があるとその数本のプログラムを提示するのだが、どこもかしこも不況の昨今、みなさん一番安上がりのプログラムを指定してくるのであった。それで、安上がりプログラムは何回も弾けて上手になれるのに(録音を聞いてげろげろ、となりましたが)、高級プログラムの曲は一向に上達しない、と言う状態になるのであった。
夏にグランデプントを事故でおシャカにした後、「楽器と犬が同時に入る車」であるどぶろくを買ったので、運搬の助っ人さえあれば問題なく楽器が運べる。最初は、トヨンはアルベに面倒を見てもらおうと思ったのに、ヤツは「仕事が忙しい」とばかりに拒否しよったので、冬は車中で蒸し焼きになる心配がないのを幸い、連れて行くことにした。教会の管理人のおばさんはいぬが大好きで、おやつまで持っていたので、トヨンが教会に侵入しても咎められることはなかった。ドイツって、ホントにいい国だなあ。せっかく入れたのに、調律の間ずっときゅんきゅん泣き続け(音出しをやめると静かになった。なんなんだっぺ〜)、ジャマ臭いので、結局車に放り込むことになってしまった。散歩はしたけれども、いつもの散歩量よりもだいぶ少ない。
チェンバロとトヨンが車に詰まった状態。トヨンはどんどん大きくなっているので、もう入りきらないのではと心配したが、丁度良く楽器と座席の間に収まってくれた。でも、楽器の下に乗ることがわかると、逃亡を図るのであった。それをとっ捕まえて乗せると、このように悲しげな顔をするのである。演奏時間はきっちり60分だが、その間に曲の説明などをするので、1時間半ほどで演奏会は終わった。説明の方は一応言うべきことはメモしていくが、私は原稿を読み上げるのが苦手なので、原稿を書いたことがない。よって、かなりアヤシイなんちゃってドイツ語での講義となり、一体ドイツ人どもはちゃんと理解しているか疑問があるのだが、好評だったそうである。
再び楽器を車に運び込み、助っ人のおじさんが私の音楽室目指して去って行った後、大問題が起こった。
ずうっと大人しく寒い車の中で待っていたトヨンは、車から出してもらった途端、道化師と化したのであった。雪の積もった教会の庭をうけけ、うけけ、とはしゃぎながら飛び回り、誰かが捕まえようとすれば飛び退ってわんわん吠える。おやつを見せても全然だまされてくれず、挙句の果てにはどこかにいなくなってしまった。仕方がないのでアルベに電話をし、助っ人をワインとおいしいつまみでもてなすことを命じ、トヨン捕獲に乗り出した。ようよう三十分かかってトヨンを捕まえ(暴れたら満足したらしく、自首してきた)、音楽室に車をぶっ飛ばした。
着いてみたら、助っ人のおじさんはワインと高級つまみですでに出来上がっていた。ゴキゲンでチェンバロを部屋に運び、ハナ唄を歌いながら家路に着いたのであった。検問に引っかからなきゃいいけど〜
トヨンの一件のせいでどっと疲れが出て、次の日は一日中ぐったりしていた。ゆきだったら、のえるも、こういう時は何時間でもガマンして協力を惜しまなかったものだ。こんなアホな事は、絶対しなかった
。...ゆきとのえるに会いたいよぅ。2010年11月10日
じゃじゃ、労働する。

11月はドイツでは一番気が滅入る月である。寒いし雨はびしょびしょ降るし、日の入りも早く風邪引きが増える。そんなもんだで水商売が増える時期でこちらは休みがない。うちにいてテレビとお話しててもつまらないし、かと言って外に出て行く気にもならず、演奏会やら屋内娯楽が目白押しになるのであった。というわけで、こちらも稼ぎ時である。ドイツの経済が持ち直してきたお陰か、最近また生徒の数も増えてきた。去年、高校を卒業したやつらが一挙に五人もいなくなってからあれやこれやで懐具合が悪くなり、ここ一年ばかり亭主に手を出し、
「亭主のギムだっぺ〜 うちらはふーふなんだど。だから、カネ出しナ」
とすごんで生活費を巻き上げて暮らしていたのであった。
仕事が増える、ということは、音楽家にとってはおうちでの精進を意味する。ドイツ人の音楽家がよく言っているが、
「Wenn ich verdiene, arbeite nicht. Wenn ich arbeite, verdiene nicht.」
と言う状況である。verdienenとはお金を稼ぐと言う意味で、稼いでいる間はarbeitenができないんである。arbeitenは働く、と言う意味なので、音楽家にとっては練習が仕事のうちで、しかも無報酬なのであった。
これが、電気工や大工だったら、交通費も時給も請求し、たとえその仕事が失敗であっても、そのツケは客に来ることが多い。日本ではどうか知らないが、ドイツでは、とにかくそうだ。自分たちの失敗した仕事でも、請求書にはその分の時給がしっかり加算される。払いたくなければ事務所を怒付くしかない。
それが、音楽家の場合は演奏会で実際に演奏した分だけしか支給されない上、とんでもない安い値で高レベルの演奏を要求されるので、腹立たしい限りである。アホらしいので、そういう仕事は出来るだけ断っている。
去年、音楽室を自宅とは別に借りるようになってから、練習の便が格段に良くなった。借りている物件は町の真ん中の大きな駅から徒歩十分の、元税関の建物である。今では誰も使っておらず、私とアルベが一階を占拠し、二階では絵描きのお兄ちゃんがごそごそ仕事をし、地下階では時々ロックバンドがガンガン合わせをしているのみで、どんなに騒ごうとトヨンが寝そべろうと、だ〜れも文句を言わないのである。とても気持ちがいいので、最近では自宅よりも音楽室にいる時間の方が長く、冬時間になってからは母に電話をするために(朝11時頃にすると、日本は19時)音楽室に寝泊りするようになった。自宅には諸事情あり、電話を引いていないんである。
この辺りはドイツ鉄道会社の持ち物の土地で、我々の建物の裏は雑木林のみである。夏の終わりごろになると、何とかベリー類がたわわに実り、誰も採る人がいないので、アルベと二人でバケツに沢山採ってジャムにした。

天気がいい日はトヨンと気持ちよく散歩が出来る。この土地はかなり広く、電車が縦横無尽に走るのが見られる。残念ながら、三、四年後にはこの辺りは開発されて3000戸からのアパートが建設される予定で、その頃には我々も物件を引き払わなければならない。ただ、シュトゥットガルトで鉄道会社が中央駅周辺を開発しようと工事を始めたら住民の抵抗を受け、工事が難航したりしてるので、ひょっとしたら、ここも同じことが起こるかもしれない、と期待はしている。環境破壊反対の旗印でも上がれば開発は大変難しくなる。

トヨンの新しいおともだち。おひ姉さんがトヨンに感化されて自分もいぬが欲しくなり、とうとう柴犬をもらってきたのだった。名前は、ビリじゃない、ヴィリである。三ヵ月半のくせになかなか豪胆で、トヨンの図体に恐れず飛び掛り、トヨンの額に引っかき傷を作ってくれた。大人しいし、殆ど吠えないし、トヨンよりも高い値段を出して買った甲斐があったというものだ。柴犬は引き綱を離せないそうなので、時々一緒に囲いのあるいぬ遊び場に行っている。
今晩も音楽室にお泊りである。あ〜 この解放感。善き哉。
2010年10月22日
トヨンの不幸
ともだちと遊ぶのが何より大好きなトヨンだが、今日、お医者さんから今度の月曜日まで暴れ禁止令が出た。今週の始め、朝の散歩にアルベと出たら、近所のロットワイラーがいた。
このロットワイラーは、1歳半でマッチョ盛り、とにかく力の抑制が効かないので、近所でもあまり評判が良くない。ついでに、飼い主のおばさんもあまり評判が良くないらしい。
数週間前にトヨンと少し遊んで割りに上手くいっていたので、おばさんが喜んでまた遊ばせようとした。そしたら、ロットワイラーのヤツはその巨体でトヨンに思い切り体当たりをし、トヨンは悲鳴を上げてひっくら返った。
アルベは私と違って用心深いので、早々にトヨンを引き揚げさせた。ところが、それからびっこを引くようになったのだった。
ここ二、三日様子を見ていたが、びっこは一向に治らず、暴れ仲間と会うと痛いのを忘れて駆け回るので、遊んだ後は特に痛そうだ。時々きゅんきゅん泣いたりするのでさすがに心配になり、今日お医者さんに診てもらった。
お医者さんに行ったら、それほど患畜もいず、みんな受付の所にいた。トヨンを見て、
「まあ!何て大きくなったの!これが、本当にあのトヨン!?」
と感嘆の声を上げた。男の先生も、「コイツはえらくでかくなるなあ」と言い、ひとしきりみんなになでてもらってご満悦であった。
診察結果は、やはり捻挫で、炎症止めと痛み止めの薬(おいしいらしい)をもらい、月曜日にまだ良くなってなかったらレントゲンを撮ることになった。前足の右ひじを痛めてるとかで、ひじの蝶番のところの骨を痛めた可能性もあると言う。もしそういうことになっていたら、しっかり治しておかないと後で神経痛に発展する可能性もあり、のえるみたいになったら大変だ。
それで、暴れ時間の13時前には家から出ていなければならなくなった。近所のいぬが遊んでいるのを見ようものなら、きっと大泣きするであろうから。普通の散歩はしてもよい、とのことである。

そうなれば、やることはただ一つ。寝ることである。ここ数日、やはり寝ていても痛みがあったのかもしれない。お薬を飲んでごはんを食べたら、クラヴィコードの下で爆睡していた。

ちょっと痛そうに右足を上げている。それにしても、トヨンてあんまりハンサムじゃない。かわいいけど、何かボケた顔をしている。↓いぬいぬと比べてみよう。

今日の体重、32,6kg。8ヵ月半になるところだから、後何キロくらい大きくなるのかな。
2010年10月18日
トヨンの幸福

先週から二週間、秋休みで時間があるので電脳の前にも座れるようになった。ここの所、トヨンの暴れ時間は13時から15時になっていて、12時半くらいから窓の前に座ってきゅんきゅん言うのが日課になった。
ゆきのこいぬの時は近所に若い犬がいず、年寄り犬はガキいぬなんか相手にしてくれなかった。それで勢い、ボール遊びをすることになり、ボールキチガイになったら今度はゆき自身に他の犬に対する興味が失せ、のえるもそれにつられて他の犬と接触できなくなったので、二匹とも他の犬とは仲良く出来なかった。
トヨンの場合は一人っ子なのと、幸い近所に若い犬が多くて遊び友だちができたのだった。
ドイツでは13時から15時は昼休みで、13時になると近所のいぬ飼いがそぞろ集まってくる。全然来ない日もあれば、10匹近く集まることもあり、楽しいひと時が過ごせる。

トヨンと、一番のともだち、グーフィーが暴れている所。その下にいるのは5ヶ月齢のブルドック、ゾンネ嬢である。ブルドックだから足は遅いが、果敢に大きいいぬにアタックをかける。今まで一番小さかったが、この間から3ヶ月齢の超大型犬、ブルーノが来て、少なくとも数週間はお姉さんぶることができるのであった。
他のいぬたちは14時になると帰ってしまうので、時間がある日はグーフィーと更に遊ぶことになる。

茂みの中を駆け回ったり、泥の中でごろごろしたり、池に飛び込んだり、とにかく元気で駆け回る。この日は二匹で芝生の原っぱにアナを開けて遊んだ。適当な水分を含んで柔らかくなっている地面は手で掘るのに丁度良く、二匹で力を合わせてかなり大きな穴を掘る。

キタナクてやんなっちゃうが、こういう満足気な顔を見ると、やっぱり許せちゃう。今日は泥んこになってるわけじゃないから、いいか。でも、肥溜めに飛び込むのは、やめてね。

二時間たっぷり遊んで別れた後は、ご覧の通り、白い部分が少なくなっていた。乾けば土は大体落ちるし、ブラッシングすればある程度きれいになるのでお風呂には入れない。ドイツは幸いなことに湿気が少なく寒冷なので、お風呂に入れ過ぎると肌がスカスカになるのである。それはニンゲンも同じことで、日本みたいに毎日お風呂に入っていると、体全体、粉ふきイモの如くになるのであった。
汚いトヨンは幸せなトヨンだが、家の掃除がタイヘン...
2010年10月17日
忘れぬうちに
面白い夢を見た。回りの景色は何となくボケててはっきりしないが、多分自然のいっぱいあるいい所。気が付いたら山小屋の中にいて、そこで姉がしきりに本を読んでいた。
「あ、お姉ちゃん、何してんのさ」
と声をかけたら、姉は顔を上げ
「アンタ、あの世って、どういう所か知ってる?」
と訊く。そんなの知るわけないじゃん、まだ行ってないんだから、と答えると、
「アンタね、あの世に行くと、次にこの世に来る準備のために訓練所に入るのよ。そこで試験に合格すれば来れるし、しないといつまでも訓練しなきゃなんないのよ。厳しいんだよ」
とか言う。
「げー。死んでまで学校に入んないといけないのお。やだなあ。あの世では楽しく遊べるかとおもったのに」
で、お姉ちゃんはそれで何してんのさ、と訊いたら、このナマケ者メ、と言う顔をした姉が
「アタシね、そこのトレーナーに指名されたの。だから、勉強中。しっかり準備しとかないとタイヘンなんだよ」
と答えた。
「そんなの、向こうに行ってからしたらいいじゃん」
「それじゃ、遅い」
そういえば、赤ん坊はみんな記憶も何もない真っ白だねえ、でも、訓練が厳しいのに何でこんなに悪いヤツが多いのかねえ、そりゃアンタ、不良品はどこにでもあるわさ、あの世の品質管理ってテキトーだね、なんてしゃべってるうちに、どこかのドイツ人の子供の誕生会に来ていた。
そこでは中世の町並みの通りの真ん中で、子供のお母さんがケーキを切って分けていた。やっぱり南ドイツのケーキの方がおいしいねえ、なんていいながら食べていたらお遊びの時間になって、きれいな庭にいて子供たちとボールで遊んだ。
遊んでいたら、ゆきがテニスボールをにちゃにちゃ噛んでいるのに出会った。
「テニスボールは歯をダメにするから、別のボールを使いなさい」
と言ったところで、そんな心配をする必要はもうないということに気が付き、久しぶりにゆきとボール遊びをすることにした。そしたら、ゆきはまだちょっとよろよろしていた。
「死んだらさ、もう痛いのも何もなくなると思ったんだけど」
とゆきに言ったら、ゆきは肩をすくめて
「習慣かしらねえ」
と言った。ところで、のえるはどこかいな、ゆきは会いに来てくれたのに、のえるはもう来てくれないの?
するとゆきが
「会いに行けばいい」
と言うので後ろを振り向いたら、そこは高山の野原で、たくさんの人が体操をしていた。
(ああ、訓練所ダナ)
はっきりはしないが、人間も動物も、大きいのも小さいのもいっぱいいて、楽しそうに体操をしている。その一番前でのえるがにこにこしながら体操していた。
のえるの所に行きたかったけれども、なぜかその前にガラスが張ってあって行けないので、「のえる〜!」と叫びながら手を振った。
そしたら、のえるは私を認めて手を降り返した。いぬののえるの姿にもう一つの姿が重なり、いつの間にかのえるは髪の毛から足の先まで真っ白な男の人の姿になっていた。一生懸命降り返す手はとても大きかった。
いぬは手なんか振れないもんね。必要に応じて姿が変わるらしい。
(あの世っちゃ、便利なとこだナ)
などと感心しているうちにトヨンにべろりんちょと舐められて目が覚めた。
夢の通りなら、あの世は確かにいい所みたいだ。だけど、そんなに勉強しなきゃいかんのかね。姉の談だと、最初は「あの世概論」から始まる由である。もう忘れたが、その後あの講義があって、この実習があって、と聞いてるだけで目が回りそうだった。
...この世にいるうちに、いっぱい遊んどこうっと。
2010年10月15日
トヨンいろいろ
上の写真は、夏にお姉様方を連れて海に行った時である。フーズムの近くに位置するザンクト・ペーターオルディングは、夏になると観光客でにぎわう。海岸のかなり近くまで車で乗り入れることが出来、お一人様5ユーロを払えば、それで駐車場並びに遊泳券一日券となるので、朝から一日中海にいる客も多い。最初はいぬ用砂浜に行こうと思ったのだが、他の犬の飼い主たちに聞いたら(相当数いた)そこでも引き綱を付けなければならないし、そこはFKK、丸裸推奨者たち用の砂浜の向こう、と言うことなので行く気が失せた。すっぽんぽんの連中の脇を抜けていく勇気はない。
それで、トヨンには我慢してもらって引き綱を付けたまま、海に入った。
大きくなったトヨンはすでにゆきのお下がりの胸当てを使っている。この日はまだかなりガボガボだったが、今では丁度良い大きさになった。
町の中で見かけた犬の置物。トヨンは警戒して近付かない。普通、他の犬を見ると大喜びで挨拶に行くのに、身動き一つしないいぬに戸惑っている様子である。そういえば、ゆきもこういう置物にはものすごい警戒心を示していた。

今日のトヨン。もう、全然抱っこできなくなった。多分既に30キロは越しただろう。この分ではものすごいどでかいワンコになりそうである。早く成長しすぎると骨や関節の成長の妨げになるので、おやつは殆ど与えていない。良い事をした時のごほうびは、ほめるだけである。

5月のトヨン。3ヶ月になる頃である。

そして、9月末のトヨン。同じ布団の上に寝ていると、成長振りがよくわかる。
でっかいけれども、やることはまだコいぬちゃんである。ともだちと遊ぶのが何より好きで、最近は13時になると前の公園に若いいぬたちが集まるようになった。常連はサディーにマヤ、ゾンネにバディにグーフィ。それに、今週からブルーノが加わって、毎日まっくろけのけの日が続いている。それについては、また後日。
2010年10月10日
雨天決行

どこの国にも国民的作家というのが存在するが、ドイツの場合、それはゲーテでもシラーでもなく、カール・マイという日本では無名の作家がそれであろう。1842年生まれのカール・マイはアメリカ西部開拓時代を舞台にした冒険小説を多く書き、その主人公、インディアンのウィンネトゥは一寸前までドイツの少年少女のヒーローだった。
同僚のフラウケもウィンネトゥに憧れたタイプで、6歳の時はウィンネトゥとケッコンするの!と叫んでいたそうである。マイの本はもちろん、読破したのであった。
今のガキどもはドイツ人も英国産の「はりぼて」シリーズばかりを読んで、マイの本を読むことはとんとなくなった。日本の吉川英治みたいなものであろう。
「ウィンネトゥ」はそれでも吉川英治の宮本武蔵とは異なり、舞台上では今でも英雄である。Bad Segebergバート・ゼーゲベルクという町には野外劇場があり、毎年ウィンネトゥの劇が上演されている。
毎年ポスターを眺めながら「せっかくドイツにいんだから、一回くらい行っでみねと」と思いつつ、伸ばし伸ばしにしていたら、それを聞きつけたフラウケが招待してくれたのであった。この町の近くでこの10年以上仕事してるちゅうに!
森あり湖ありのこの美しい町には小高い山があり、カルクベルクと呼ばれている。昔は、そこにお城が建っていたそうで、お城はいつか崩れて山の頂上も陥没してしまった。その代わり、そこの洞窟は一年を通して温度湿度が一定に保たれ、清浄な空気が流れているので、気管の病気治療にも使われるそうである。また、その洞窟はドイツでも少なくなってきたコウモリの住処にもなっており、生物学者の研究にも役に立っているとか、ちょっとした博物館である。実は、私はこの洞窟に入ったことすら、まだない。
余談だが、いぬいぬはこのすぐ近くで産まれたので、ゆきの本名は「Angie von dem Kalkberg」、のえるは「Benni von dem Kalkberg」という。
この野外劇場は、その陥没した部分を利用して舞台が作られ、手前が白人の村、右手奥がインディアンの村、真ん中にゴーストタウンが作られ、奥上方に鉄道のセットがそれぞれ置かれている。主要な役者は前の広場で演技するが、その情景によってそれが村になったり、廃墟になったりする。

ドイツの定番、ビールに揚げたジャガイモ!
出かける前にアルベにどういう服を着たらいいかと相談したら、「観劇なんだからきちんと良い格好をするべきだ」と言われた。悩んだが、ヴェローナのアレーナならともかく、ローマ時代の遺跡ではないので(遺跡には違いないが)ジーンズを履いていったのだが、アルベの言う事を聞かないで大正解であった。
フラウケの所に行ったら、いつもエレガントな彼女は登山にでも行くような装備を持ち、雨具も完備の重装備である。
「え、雨が降ったら屋根でもつけるんじゃないの?」
と訊くと、大笑いされた。そんなことするわけないじゃん(古代ローマだってそのくらいはしたのに?)、雨が降ったら役者も観客も雨にぬれたまま一堂に会するのよ、え、雨天延期ぃ?そんな話は聞いた事もないわ、気象庁が暴風雨警報を出せば中止されるでしょうけど。
ということで、実際、ざざ降りの中をみんなびしょびしょになって最後まで強行するということであった(近所に住むアンネリ談)。ひぇ〜 さすが、ゲルマン人。日本でそんな事をやったら、肺炎患者が続出するであろう。
車での移動中は雨が降っていたが、会場に着いたら雨もやみ、あまつさえ太陽も出てきて公演中はくもりのまま、大変観劇しやすい気温だった。

脇役に一人だけ本当のアジア人がいた。中国人が洗濯屋をやっている設定だが、もうちっとまともな看板にならんのかね。

役者は全員マイクを装備しているので、台詞は良く聞こえる。ただし、テレビ俳優が多いらしく、主人公を始めとして台詞回しがあまり良くなかった。数人、舞台俳優もいたが、さすがに舞台の連中は演技が違う。スタントも上手だった。
主役は昔は長いことピエール・ブライスというフランス人が演っていた。現在は、トルコ人である。なぜか、国民劇なのにドイツ人は主人公にならない。何でだろう。

観劇の後、舞台後方の山に登って舞台を裏からのぞいた。山から舞台を眺めて左方に町が広がり、その向こうに湖が見える。きれいな所だねえ。一時期は私はこの町に家を探していたこともあった。見つかりかけてたのに、田舎に住むのが嫌なアルベの抵抗にあって断念したのであった。もったいないことしたな。
洞窟にも入って見たかったが、もう6時も過ぎて閉館になったので、帰路に着くことにした。車に乗ってまもなく、雨がまた降り出してざざ降りになった。その夜はずっと降っていたので、夜の公演は役者も観客もじっとガマンの子で行われたのであろう。

それからしばらくして、合唱の伴奏の仕事が入った。そこで見た貼り紙。
注意! 来週、どうやら教会関係のグループが夜どこかに集まってゲームをするらしい。シュヴァルツェンドルンという所に集まるらしいが、その下が問題である。
台風のごとき豪雨や雹や洪水の時のみ、CZIに集合します。(体育館か何かであろう。それにしても、洪水でも遊ぶ気かね)
とあり、太文字で
悪天候と言うものは存在しません、あるのは、不適当な衣服のみです。
と書いてあるのだ
。この民族って、どこまでもガマン大会が大好きなのよねえ...
2010年10月06日
お里帰り

結局、事故車は「完全おシャカ」扱いとなり、新車を買うことになった。保険が払うお金より、修理代の方が高くつくからである。「二度あることは三度ある」の言葉どおり、うちはこれで事故完全おシャカ三台目である。全然怪我をしてないのもなかなかすごい。ゆきとのえるが護ってくれたのかもしれない。それに、買ってから4年も経たないうちに十二万キロも乗ってしまったので、どっちにしてもそろそろ故障が出てくる頃だったと思う。
本当は超小型車の「500」チンクエチェントが欲しいと思ったのだが、アルベに「ゼイタクすぎる」と言われたのと(実際プントよりも高い)、トヨンを見た車屋が
「この子が成犬になったら、こんな車には乗りませんよ」
と言う意見を出したのと、演奏会のために楽器を運ぶ+トヨンを乗せる用があるのとで、トラックに近い「ドブロ」(愛称どぶろく)を購入することになったのだった。大型車である
。車が来るまで二週間近くかかるので、車も借りられることになった。そのお金ももちろん、加害者の保険が払うのである。で、他人の金なのを幸い、乗りまくることにした。
お姉様方を連れて海に行き、あとはおひ姉さんの付き合いで子犬を見に行き、そのついでにその近くにあるトヨンの実家も訪れることにしたのだった。
トヨンの実家には、おかあさん犬のウラナ・スカイ(4歳)と、妹いぬが二匹住んでいる。アリスとアイーシャという。
アイーシャの方は、なぜか毛の細胞が目の中に住み着いてしまい、目の中に毛が生えてしまった。その手術が終わってから里子に出されることになっている。そのためにわざわざハンブルクのいぬ眼科で手術を受けたのである。ちなみに、この眼科の専門家のリネック博士はもともとゆきとのえるの主治医で、のえるの大病もこの人のお陰で治った経緯がある。今は動物眼科医院を経営している。北ドイツの動物眼科では一番評判が良い由である。

庭に入った途端に妹にど突かれてうろたえるトヨン。妹たちはいつも二匹でいるせいか、つるんでいろいろ悪さをやらかすらしい。ソファなんか、ニンゲンが出かけてる間に二匹でアナを開けて、中の綿やら何やらを引き出してぐちゃぐちゃにしちゃったそうだ。アイーシャはともかくアリスの方は他のいぬと全然仲良くできず、いぬの学校に行っても劣等生で、穏やかで大人しいおかあさんとは似ても似つかぬ性格とか、飼い主のおじさんはびっくりしてしまったそうだ。

ものすごいガウガウ攻撃を受けて、ベンチに非難するトヨン。このベンチにいる時だけは、何とか攻撃を避けることができた。私たちが庭の向こうでコーヒーを飲んでいる間、こちらに来ようとするたびに妹たちに攻撃され、ベンチに避難するのだった。時々おかあさんがそれを叱り付けると一時やめるが、すぐにいぬテロが始まる。まあ、いぬ同士で折り合いを付けて下さい。と、私はほっぱらかしておいた。

たまに優しくしているように見える時もあるが、すぐにガウガウが始まる。この兄弟姉妹は男の子3匹、女の子が4匹だったが、女の子は最初からかなり活発で、ケンカも多かった。この性格がどこから来たのやら皆目検討が着かない、とはおじさんの言である。

「コイツ、どうやって料理してやろうか」とばかりに顔を見合わせる二匹。いくら苛められてもトヨンはじっと耐え、大人しくなすがままにされていた。こういう性格のいぬは街で暮らすには適当で楽だが、ちょっと情けなくもなった。完全に名前負けしてる...
ほわシェパ協会が「スタンダード」と規定している性格は、
落ち着いている。どんな状況でも怯えたり、攻撃的になったりしない。
と言う項があるのだが、してみるとトヨンは一応スタンダードに適応はしているのであろう。
ところで、子犬を見に行った場所の近くで、面白い通りの番号札を見たので紹介したいと思う。

ドイツではそれぞれの道に「何とかシュトラーセ」と通りの名前が着いているが、その「...通り2番」が、垣根についてるのだ。見えますか。垣根を上手いこと刈って「ZWEI」2番、と出ている。良い考えだねえ。でも、夜になったら見えないぞ。
2010年10月03日
ミソ漬けの夜

子供の頃、読んだ中国の話にこういうのがあった。ある禅師とその弟子が庭にいて、若い弟子が木に登って何事かをし、降りてくる。あとほんの1メートル位の所まで降りてきたところで禅師が、
「気を付けよ」
と弟子に声をかける。それから数秒後、弟子は木から落ちた。
弟子が師に
「なぜ、木の上にいる時は何もおっしゃらず、殆ど地上に着いた時に声をかけたのですか」
と問うと師曰く、
「危うい所にいる時は、注意を怠らぬのが常である。安全な時ほど、失敗があるのだ」
と。
多分、「道徳」の時間か、漢文でやったのだと思う。とにかく、これは良く私が思い出す話である。
南イタリアで心臓が止まるかと思うような道路をあちこち車でムリムリ走り、何と引っかき傷一つ作らなかったのだった。
帰りの道中は、アルベがオーストリアで沈没したので、その後はうちまで私が運転することになった。かの有名な日本人の大好きな新白鳥城の近くのフュッセンからドイツ入りし、アウトバーン7番を一直線に北上するのみの、かくも単純なコースである。
出発してから私はずっと寝て食って過ごしていたので、大変元気であった。午後3時位から走り出し、夜中の12時半には家まであと50キロ、約30分にせまっていた。アウトバーンは片道三車線で空いているので160キロぶっ飛ばして走っていたのだった。
アルベは後ろでトヨンの場所を横取りしてイビキをかき、隣りではおひ姉さんが私を気遣って一生懸命起きてくれていた。
この近くに、友達が住んでるんだよねえ、めんどくさいから、今から押しかけちゃおうか、でも、もう時間も遅いしねえ、明日、彼女休みだよ、なんて言い合いながら友達の住む町のアウトバーン出口を過ぎ、何となく上記の話を思いだしていた時だ。
前方1キロ程度の所に、トラックが警告灯を出して路肩に停まっているのが見えた。それで少しスピードを落とし、右から真ん中車線に変更したのだった。
その時、真ん中車線に大きな黒い物体が見えた。咄嗟に左車線変更を試みたが、バックミラーにものすごいスピードで飛ばしてくる車が見えたので、これは危険と判断し、車線変更を行わず、そのままかなりの速度で物体にぶつかった。ドカン、と大きな音がして車は物体に乗り上げ、そのまま走り続ける。上手くいったじゃん、と思った瞬間に後ろで眠っていたアルベが
「ぎゃああああ」
と迷惑至極な悲鳴を上げ、こちらの心臓がどきどきしてしまった。無事だったかな、と思うのも束の間、車の前からもくもくと煙が上がってきたので
「こりゃダメじゃ」
と警告灯を出しながら路肩に駐車した。降りて車を点検したら、ご覧のように前方部分があごが割れたみたいに落ちかかり、血ならぬ水がしょわしょわと流れてきた。冷却装置がいかれたらしい。こうなったらこれ以上は走れない。
回りを見渡したら、もう一台小型車と、何と子供5人も乗った大型車が路肩に停車していた。大型車から黒人の美人のお母さんが降りてきて、
「誰も怪我はありませんか。大丈夫ですか。警察はすぐ来ます」
と声をかけてきた。
我々の前方に停めた小型車の運転手もやって来て、怪我もなくてよかったねえ、なんて言ってるうちに警察の人がニコニコとやって来て現場検証を始めた。
聞けば黒い物体は路肩停車中のトラックのタイヤで、完全に明らかな事故なので問題はない、明日警察に電話してくれれば詳細は知らせます、あ、すぐに保険会社に連絡してくださいね、牽引車は手配したのですぐに来ます、とテキパキ処理をしてくれ、牽引車が来るまでアウトバーンの路肩で待つことになった。

最初はこうやってみんなで待っていたのだが、そのうちアルベは
「キミはしっかりしてるから、事故処理くらい自分で出来るでしょ?これはキミの車」
などと冷たい事を抜かし、トヨンも外にいるのを幸い、自分だけさっさと後部座席に潜り込んで布団を引っかぶって寝てしまった。
オンナ二人顔を見合わせ、「何よ、これ?」
待つうちに今にも心臓発作を起こしてぶっ倒れるんじゃないかと思うようなデブのおっさんがぜーぜー言いながら現れ、悪態をつきつつ我々の車を牽引して近くの彼の修理所まで連れて行かれた。
私たちはぜーぜーおっさんがフィアットのお店まで車を我々ごと持って行ってくれることになったが、もう一組の小型車は大変だった。そちらも私の同じ型のフィアットグランドプントだったが、そちらはタイヤと完全に正面衝突したお陰で殆ど全壊の状態だった。ニンゲンに何事もなかったのが奇跡のようである。運転手のお兄さんはへらへら笑いながら、
「オレ、この車を10日前に買ったばかりなんだよ。あと三時間でボクの仕事が始まる〜 どうやってあと250キロも走るやら〜」
とヤケクソ状態であった。彼らは何と、タクシーで250キロの帰路に着いた模様である。
車を運んでもらい、ようよう家に帰ったら時計は5時を指していて、既に空が白んでいた。
それで、歯をみがいておしっこをして、ねました。

2010年09月26日
都会訪問
クソ田舎に泊まっていた私たちだが、町への遠足も、少しはした。リエティ、アッシジ、ファルファなどだ。アッシジは、言わずと知れた、聖フランチェスコの町である。聖フランチェスコは動物の保護者としても有名で、従ってフランチェスコ派修道院の人たちは、概して動物好きが多い。で、アッシジの町自体にも、いぬを連れた観光客が少なからずいた。
この町は10年程前に地震で多くの歴史的建物が倒壊し、教会もかなり破壊された。前に来た時は地震前だったのだが、見事に復興され、大量の観光客の便宜を図るべく、大駐車場も完備されたりして、イタリアでは珍しく機能している町であった。
それでも中世の町並みは変わらず、道が狭くて車がロクに通れないので、近所の子供らがその辺で遊んでいた。可愛い男の子がいたのでカメラを向けたら、ご覧の通りにポーズを作ってくれた。イタリアのガキは生意気なのが多いが、無邪気で元気でかわいらしい。
サンタ・クララ教会の前では、フランスの高校の修学旅行に出会った。
これまた可愛いおフランスの女の子に大変優しくなでてもらっているトヨン。この子は10分近くトヨンをやさしく、やさ〜しくなで続け、トヨンはすっかり力が抜けてころ〜んと寝てしまった。女の子がいなくなってからも、トヨンを起こすのにかなり時間がかかった。いぬに産まれてきて良かったねえ。
それ以外にも、ファルファの修道院を訪れてみた。日本では全然有名じゃないが、9世紀にカール大帝が礎を築いた由緒ある修道院で、居住する修道士の数こそ少ないが、貴重本が相当数納められている。10年以上前に訪問した時は拝観料がタダで、リューベック音楽大学の某チェロ教授の双子の兄かと見まごうごときそっくりさんの修道士が、丁寧に教会の歴史や収蔵品の説明をしてくれたのであった。
それが今回は、2007年に改修されたとか、拝観料は9ユーロ、歴史専門家のおばさんが説明者だった。案内はイタリア語のみだが、極めてはっきりとゆっくりとした講義をするおばさんなので、少々イタリア語が出来て歴史に明るければ、わかり易い。ヘタクソなイタリア語で多少質問もしたが、きちんと答えてもらえた。しかし、改修代を稼ぎださにゃならんとはいえ、9ユーロは高い。
私たちが見学をしている間、アルベとトヨンは近くの公園で待っていた。トヨンは毎日のように成長を続け、ゆきとのえるが6ヶ月目まで使っていた首輪が、早や4ヶ月で使えなくなった。それで新しい首輪を買ったのだが、この旅行から帰ってきたら、最早それもきつくなっていたのだった。
今年の夏は日本は猛暑だったそうだが、イタリアも大変暑かった。あんまり暑いので、いぬもねこも体力温存を測って日陰で昼寝をしている。トヨンが近付いても、近付き過ぎない限りは動こうともしない。誰とでも遊びたいトヨンは、ねこナンパをも試みるも、却下され続け、ひっかかれたりして落胆していた。

宿では私たちの寝ていたベッドが広くて背が低いので、暑さが和らいできた頃からこのように入り込むようになった。朝、必ず顔をべろりんちょとなめられて目が覚めるのであった。
今回の旅行はおいしいものも食べ、楽しく遠足をして事故もなく、平穏に過ぎた。宿を引き払ったら、再び1800キロの旅である。全て順調に事が運び、うちから50キロ、あと30分で旅行も終わり、というところまで行ったのだが、...そこで、ミソがついたのであった。
つづく(といいな)
2010年09月20日
ハイキングに挑戦

日本では、中高年の登山が流行しているようだが、私はハイキングが好きである。いわゆる、ワンダーフォーゲルというヤツだと思う。このワンダーフォーゲルはドイツ語で、Wandervogelと書く。「渡り鳥」の意味で、19世紀に都会の青少年のロマンティックな自然主義に則って作られたものらしく、自然の中を楽しみながら歩くのが主な趣旨で、高等技術の必要な登山とは趣を異にしている。もっとも、これは青少年のクラブだから、オバハンはもう関係ないのではあるが。数年前にモンテ・グラッパ(プレ・ドロミテ)に行った時は、ハイキングをしようと思ったら、どこもかしこも二千から三千メートルの山ばかり、年を取ったいぬいぬが歩けるようなコースはなかった。
今回はトヨンも若いし、せっかく山岳地帯に来るのだからとドイツの山岳用品のお店で地図や案内書を探したら、そういうものが殆ど存在していないことが判明した。南イタリアには山岳なんぞを勤しむようなヒマ人はいないと見え、探し当てた資料には、
南伊の山岳地帯の詳細な測定は、イタリア陸軍が50年代に行ったのが最後です。
とあった。
北イタリアはオーストリアも近いし、ドイツ系も多いので、山岳コースがかなり整備されている。大体、山登りとは、生活に困らない閑人がするものである。南イタリアはその点、農業がまだ盛んで大企業もあまり進出していず、さりとて観光にも力を入れていないので、ローマやナポリなどの大都会を除けば、観光客も少ない。
知らない山の中をうすうす歩いて遭難してもつまらないので今回は諦めていたら、珍しくも日曜日のミサに行ったアルベが、付近の山岳地図を見つけてきた。見れば、地元の登山愛好者が開発したらしく、2008年の発行となっていた。これから続けていくつかの南イタリアの詳細な山岳地図が発行される模様である。
せっかくなので、宿泊地から歩いて行ける、「Sentiero 4」、4番目の小道を行ってみることにした。
目的地は、モンテ・モスカ、ハエ山である。その裏の山にはポルコ・モルト、死んだブタ、などというとんでもない名前がついていた。なんかくさいなあ。
暑いので水をたっぷり持ち、お弁当も作って出発。山道に入る直前に、そこの農家で確認をした。彼らが言うには、
「まっすぐ行かないと、ハエ山に着かないでフォンテ・フェラーラに着くよ」
とのことで、その時は何のことだろ、くらいだった。
さて、山道を歩き出したら、これがものすごく歩きにくい。狭い道には大小の石がごろごろ落ちていて、気をつけないと捻挫をしてしまいそうだった。アルベはくるぶしまである靴を履いていたので良かったが、私は軽登山靴だったので、ちと足元が危なかった。北伊のプレ・ドロミテでは問題にならなかった靴だ。
30分くらい歩いたら、まっすぐ行く道と、右に折れる道とに分かれていた。「小道4番」は、赤いペンキで右に折れる方の道を指していた。(さっき、農家の人が言ってたのとちがうな)と思ったし、地図も小道4番はまっすぐ行くように書いてあったので、首を傾げたが、はっきり指示してあることだし、今日はこっちに行ってみるかい、と指示されている方向に向かうことにした。
時々岩の上や木に書かれた赤いペンキの指示に沿いながら、それから1時間半くらい歩いたのだが、どう見ても地図に書いてあるのと違う。変だ、ヘンだと思っているうちに、肉焼き台がいくつか設置されている広場に出た。
小屋が一軒建っていて、牛馬が数頭、草を食んでいた。ふと見ると、そこに立て札があり、それには「Fonte Ferrara」と書いてあった。それで、農家の人が言ったことに初めて合点がいったのだった。要するに、何でだかはわからないが、地図に記載された「小道4番」と、山中の指示が違っているのだ。さすが、南イタリア...地図も信用できないんかい。地元の人は知ってるからいいけどさ...恐らく、指示の方が間違っているのであろう。
汗をかいたし、誰もいないので二人ともTシャツも靴も脱いで太陽の下で乾かし、お弁当を食べた。
初めてのハイキングで疲れて水を飲みながら眠ってしまったトヨン。アルベも30分ほどイビキをかいて寝ていた。
休憩の後で、奥の道を歩いて見ようかとも思ったけれど、地図と指示標識が一致しないことがわかったので、とんでもない山中で夜を迎えることになったら大変と、来た道を戻ることにした。
アルベもトヨンも歩きにくい道をさっさと降りていく。私はヘタに歩いて転んで捻挫したくないので、ゆっくり歩いた。
今回の教訓。
1.ドロミテだったら二千メートル級で必要となる、くるぶしまでの登山靴を用意する。聞けば、他の道もこういう風に歩きにくいらしい。
2.コンパスを用意し、場所を確認しながら歩く。地元の人の情報の方が、山岳協会の支持標識よりも確か。
数日後、近くの村にアルベが行った時、あるバーでその話をした。そしたら、客の一人が
「ウシやウマどもは大人しくしてたかい」
と訊く。なぜかと問えば、その牛馬はその農夫のもので、
「雄牛が一頭いるんだが、あいつは機嫌が悪くなると近くにいるニンゲンを襲う悪いくせがあるんだよ」

そういえば、あの肉焼き台。あそこで、牛肉を食するニンゲンも多いことであろう。...くわばら、くわばら。
2010年09月15日
トヨン、試練にあう。
お待たせしました。工場での食事の数日後、今度はマルコの自宅に遊びに行った。自宅は、ロレンツォ村を越えた向こう側にあった。まず、村に行くまでにくねくねの狭い道路を祈るように走り、村に入ったら最初の道を右に折れる。折れる角度は、ほとんど180度であった。折れたらこれまた大変急な坂を上がる。それだけでも怖ろしいのに、そういう時に限って対向車なんかが来たりするのであった。
やっとこさ坂を上がったら、今度は同じくらい急で狭い坂道を降りることになった。そういう場所だから、時速30キロ以上は出せない。ひ〜 と悲鳴ならない声を上げながら、やっぱりマルコのうちに泊まらなくて良かったねえ、なんて言っているうちに、道路の真ん中にトラクターが止まっていて、そこで道は終わっていた。場所は、オリーブ畑のどど真ん中である。右側には門があり、柵の向こうで怖ろしげな巨大なハスキー犬が吠え立て、そうこうしているうちに多数のいぬの吠え声が近付いて来た。トヨンは既に、逃げ腰である。
現れたのは、これまた巨大なマレンマーノ犬二頭に、小さめの雑種だった。連中は近付いてくるなりトヨンに飛び掛り、トヨンはものすごい悲鳴を上げて地面にころがっていた。
こいつらが、マルコのわんこなのであった。ハスキー犬はお隣の犬だということで、かなりマレンマーノとは仲が悪そうだった。
丁度道路の舗装中で、これ以上車は走れないので、うちまで数百メートル歩いた。歩いている時もトヨンはいぬどもにど突かれ、押し倒され、着く頃にはすっかり怯え切ってしまっていた。
客間は、200平方メートルは軽くありそうな部屋だった。古いヤマハのグランドピアノと立派なドラムセットが置いてあり、ソファに何十人も座れそうなオリーブの木で作った大食卓が二つ、まだ走行可能な50年近く前のフィアット500なんかも停まっていたりして、なかなか豪華な館であった。もともと馬小屋だか牛小屋だか改築したとかで、よく見れば工事現場の趣きもないではなかったが、温暖な土地柄ゆえ、それで十分なのであろう。改築好きなドイツ人が見たら胃袋を押さえて悶絶しそうなうちであったが、私としてはびっちり直しまくった家よりも好感が持てた。
家の中にはいぬどもは入ってきてはいけないので、客間はトヨンの安全地帯だった。それでも勇気を出していぬどもが見張っていない扉から外への世界を試みたトヨン。この数秒後、反対側の扉からものすごい勢いで駆け回ってきたいぬどもにまたもや突き倒されて、すっかりしょげていた。このうちに泊まっていたら、きっとトヨンは心身症になったことであろう。
ここのうちのいぬどもは50ヘクタールのオリーブ園をテリトリーに放し飼いになっているので、限りなく野犬に近い。

こういう風に、扉の前でがんばっているのである。もちろん、何かおいしいものがもらえるのでは、という期待もある。
このうちにはネコも多く、いぬが野犬なら、当然ネコも限りなく野良に近いのであった。

こういう風に食べ物の推移を見張り、
それとなく皿に近寄ってみたり、挙句の果てには食卓の上に手を出して叱られながらも、果敢に挑戦していた。
あまりに量が多いので、さすがのアルベも食べきれず、ありがたくおこぼれを頂戴するネコども。トヨンもちゃっかり尻馬に乗るものの、ネコどもの図々しさには及びもつかない。
食事の後、ニンゲンどもがおしゃべりに興じている間、動物たちは忙しく立ち働いていた。すなわち、残り物漁りである。まずネコが大きい焼肉台に飛び乗り、肉を漁り始めた。ところが、肉を見つけるとマレンマーノがそれを横取りするので、にゃんこは焼肉台の奥の方に引っ込んで、肉を貪るのであった。

見つけた肉を盗られまいと死守を試みるにゃんこ。そのネコに向かって怖ろしげな唸り声を上げるいぬ。肉を取り上げると一口でそれを飲み込み、さらにネコを威嚇するのである。ネコはそれにもめげず、肉探しを続けるのであった。こいつら、一体エサをもらってるんだろうか。
大量のワインと、70年代のイタリアヒット曲のカラオケで盛り上がり、午前2時を過ぎてようよう引き揚げた。アルベのヤツはほろ酔い加減で運転席に座り、再び隘路を今度は結構ものすごいスピードで上り下りしたのであった。げに怖ろしきはイタ公の運転である。
2010年08月22日
ご招待
所は、Poggio San Lorenzoである。これまた丘の上にある村で、くねくねとクソ狭い道路を車でうんしょ、うんしょと上がっていかねばならない。馬力のある車でないと、途中で止まったりしたら大変だ。私の車は一応90馬力あるので、重いニンゲンを乗っけても難なく走ることが出来た。その町の中心にある、アガムメノン家経営のオリーブ油工場が目的地である。
アガメムノン家は、この村の有力者らしく、一族があちらこちらに住んでいる模様である。トロイア戦争に出てくるアレと同じ名前だが、れっきとしたイタリア人だそうで、工場主のマルコの奥さんは、冗談みたいにエレナという名前がついていた。ギリシャなら、ヘレネーである。ピアニストである。
イタリア人にご招待を20時に受けたら、20時には絶対にメシにはありつけない。着いたら、当然、工場には誰もいず、電話をしたらヌシがやってきた。
時間がたっぷりあるので(お腹が空いたよう)、まず工場見学をした。
これは、門を入ってすぐに見える、古代ローマ時代の油絞り。下の階に行くと工場と、それに半分趣味であろう油に関する骨董品がずらっと並んでいる。馬車やいろいろ20世紀初頭まで使われていた品物の数々が展示されていて、時々学校の遠足などで子供らが見学に来るそうだ。
こちらは、現在使われている油絞り。オリーブをつぶすための臼は昔どおり同じ石を使い、今では馬やろばでなく、モーターを使って絞る。ちなみに、この機械はデンマーク製で、もともとこの会社は船のモーターの会社で、油を絞るのに船のモーターが一番適しているのだそうだ。それで今では、この会社は油絞り機も作って儲けているのである。
むかしむかし、ある所で使われていた、油壺が所狭しと置かれている。
この村、Poggio San Lorenzoは、マルコの話によると、紀元二世紀にあった、あるローマの女大富豪が建てた大別荘が元だそうである。彼女のダンナはもっと大金持ちだったとか、彼女よりも遥かに広大な土地を持ち、このサビーナ地方に君臨していたらしい。紀元65年あたりだかにヴェズヴィオ山の大噴火があってポンペイやエルコラーノが壊滅しているから、それより程ない時代の話だ。その頃、既にこの辺りはオリーブ油の産地だったのだ。
ローマ市に行けばもっと大規模な物が見られるが、その頃からある、水路。村の3,5キロ先から流れてきているとかで、今ではここの水を使うことはないが、使用可能だそうだ。
サビーナ地方はローマ市の水源でもあり、50パーセント以上をまかなっているとか。半砂漠のトスカナ地方と違って緑が多い所以である。
階段をちょっと上ってバルコニーに出ると、一面に自然が広がっている。こんな所に立っていると、何となくお姫様になった気分で、ひらひらドレスでも着れば良かったかしら、なんて思ったりする。
壁の外とは引き換えに、村の中は全部石畳が敷き詰めてあるので、トヨンの用足しのために村の外まで出なければならなかった。
イタリアの村の中は、自然を隔絶して存在している感がある。個人の家や、アパートのバルコニーにはちょっとした庭や緑があるが、それ以外は石畳のみ、雨が降ってもぬかるみにはならないものの、いぬを連れて歩きにくいこと、この上ない。村が小さいのはその点、助かった。
マルコの友達が来て、二人で台所で何やらごそごそやっていたと思ったら、見学してビールなぞ飲んでいる間にごちそうがワンサカ出てきた。さっき覗いた台所にはなーんにもなかったのに。
おみやげに超特大スイカを持っていったら、ともだちがそれを二つに割って、下を平らにして置けるようにし、果肉をフォークで少しこそいで細かくして、それに赤ワインを一本、どくどくと注いでいた。冷たい甘い果肉に(結構いい)ワインの味が染み込んでとてもおいしかった。アルベなんかずい分食べてたけど、誰が運転するんじゃい。酔っ払ってあんなくねくね道路を走るんかい!
トヨンは、みんなから主菜のステーキをもらい、ホネもたくさんもらって嬉しそうだった。おかげで、乳歯がどんどん抜けてます。
後日、アガメムノン家の本宅で会うのを約束して、お別れしました。もともとは、その家に泊めてもらう予定だったのだ。結局それを断ってアグリトゥリスモにしたのだが、その決断は正解だった。その顛末は、この次。
2010年08月19日
お散歩

サビーナ地方は、農業地帯である。ローマ時代のサビーナ人は、何回か戦争をした後はローマ人と割りに初期の頃から仲良くしていたそうだ。なかなかの美男美女が多く、ローマ時代の扮装をさせたらさぞかし似合うだろうな、という風貌をしている。ちょっとフン族みたいなサルデーニャ人よりも背が高く、色白で髪の色も薄い。性格は、百姓が何しろ多いので、アタマは固く、新しいものはキライで、ヨソ者はあまり信用しない。私たちの泊まったアグリトゥリスモの近くは、ほとんど全部農家だった。それで、朝早く散歩に出ると、ヒツジの行進に出会う。最初の一週間はとても暑かったので、早起きして散歩に出た。八時過ぎるとおてんと様が元気よく姿を見せるので、暑くって歩いてられやしない。

ヒツジの群れに仰天して逃げ惑うトヨン。音楽学校のそばの川の土手にもヒツジは放牧されていた。しかし、数が少なかったし、ヒツジは柵の向こうにいたので、このように顔を付き合わせることはなかった。私は引き綱があんまり好きじゃないのだが、この時ばかりは引き綱を使っていて正解だった。「しっぽを巻いて逃げる」とは、正しくこの事である。

引き綱に阻まれて逃げることが出来ない、トヨン。

夜になると、大抵の農家は早い時間に店じまいなので、ゆっくり散歩ができる。とはいえ、どこのうちもいぬは放し飼いにされ、明らかに獰猛と見えるいぬだけが繋がれたり檻に入ったりしていて、前を通るだけでワンコの大合唱が始まる。やかましいったら...イタリアのいぬも、よく吠える。ドイツでは、やたらと吠えるいぬは「悪いいぬ」の烙印を押されてしまうので、吠えないようにしつけるのが常である。
この辺りのいぬは放任主義で生きているのでかなり野性的で、それに比べてトヨンはいい所のおぼっちゃん、みたいだった。今までとまったく違ういぬ文化(?)に触れて、カルチャー・ショックのトヨンであった。カルチャー・ショックはまだまだ続く。
2010年08月15日
アマトリーチェ風パスタを食べる。
ドイツ国内にもきれいで素敵な所はいっぱいあるというのに、わざわざイタリアまで来るのは、一つにはアルベが時々イタリアの空気を吸わないとおかしくなるのもあるが、とにかく美味いもんが食いたい。
の一言に尽きる。
今回は特に、グルメで通のおひ姉さんも一緒とあって、アマトリーチェにパスタを食べに行くことにした。
場所は、ホテル・ローマである。アルベがどっかから情報を拾ってきて、既にドイツからホテルに電話して必要事項はそろえてあったのだった。すなわち、
1.アマトリーチェ特産パスタが食べられること。
2.いぬ同伴許可のこと。
イタリアはドイツと違って、いぬ禁止のレストランが多い。ただし、今回も痛感したのだが、イタリアのわんこはしつけができていない。
ホテル・ローマはどうやら老舗らしく、レストランは食堂、と言った方がぴったりする感じで、何となく懐かしい雰囲気だった。70年代の雰囲気かな。壁にはこの食堂を訪れた有名人や前法王や政治家の写真と肖像画がかけられ、有名レストランということだが、日本の昭和時代の大衆食堂ととにかく似ていた。外の風景は絶品だったよ。
こんなにたくさん前菜を食べて、

パスタを食べたらお腹がはちきれそうになった。イタリア人は、これに更に肉料理なんか食べたりするんだよね...
このアマトリーチェ風ソースは、Guancialeという、ブタのほっぺたから作ったハムと、玉ねぎと胡椒とオリーブ油とペコリーノチーズを使って作る。それにトマトを入れると、上記のような写真になる。「通」は、トマトを入れない白いソースで食べるそうである。グアンチャーレとオリーブ油は新鮮で高級なものを使うのは、言うまでもないことである。
このソースを作るレストランは多くあるが、いわゆる「ホンモノ」を食べさせる所は、イタリアでも少ないそうだ。日本のソバ屋みたいなものか。
忙しく給仕をするおじいちゃん。忙しくとも笑顔を絶やさず、トヨンに挨拶することも忘れない。ヨハネ・パウロ二世と一緒に笑顔を見せている、おじいちゃんの若かりし頃の写真があった。いくつなのかは知らないが、年をとってもこうやって颯爽と働く姿は清清しい。
食べ終わった頃になって、トヨンが急にきゅんきゅん鳴き出した。大人しくしていたいぬがこういう風に鳴く時は、緊急時である。コーヒーもそこそこに、私だけホテルを飛び出した。トヨンは用を足す所を一生懸命探したが、古い町のこととてそれに見合った緑地がない。
必死に探し回った挙句、いつの間にか車を停めた駐車場に戻ってきていた。そこには、丁度いい緑地があった。良かったね。
後の二人と落ち合って、トヨンと近くのスカンダレッロ湖で遊んだ。アルベは、どこぞのワイン屋に行ってしまった。その情報も、食後に駐車場で遇ったアマトリーチェ市民から得た情報である(その人は、トヨンが必死に用を足す情景を一部始終見ていた)。全然知らない人と30分以上も話し込めるなんて、すごいね。
ちなみに、その全然知らない市民は、後になってアルベの知り合いの知り合いだったことが判明した。ついでに、二日後に我々の宿泊所で結婚式があり、そのケータリングはホテル・ローマだった。で、食堂にいた若い連中と再会してしまったのだった。
そのワイン屋でアルベはまたまた新情報を得、「高地で作られる貴重で高級なはちみつがある」と、湖から30分走って、Rocchette Amatriceなる村まで、蜂蜜を買いに行った。そこで買ったはちみつは、本当においしい。箱ごと買ったので、まだ何ヶ月かは食べられる。
最近ドイツではみつばちの病気が流行っていて全滅してしまうことも多く、ハンブルク近郊の果物の村アルテスラントでは大問題になっているのである。
まいにちまいにち外食をしていると、食べ過ぎ飲み過ぎでコレステロールはたまり、体重も増えてロクなことはない。ご招待もあるので、このあとはしばらくおうちごはんをすることにした。普通、イタリアは食材が豊富に見つかる。ところが、我々のいた村はあまりに辺鄙すぎて、お店がロクにないのであった。あとは、アルベの手腕にかけるのみである。
Hotel Roma
サイトはどうやらイタリア語のみ。がんばって読んで見よう。
2010年08月10日
Casperia訪問
カスペリアは本当に小さい町である。散歩をしてもせいぜい1時間もあれば町全体が見られる。ただし、この町も丘の上にあるので、ぜいぜいひいひい言いながら歩かねばならない。水曜日にメルカートがあります、と告知板に書いてあったので、早起きして行ってみた。朝市は付近から新鮮な食材が集まり、雑貨も服も何でも買えるので、楽しい観光になる。数年前に姉と行ったフェルトレの朝市はとても面白かった。
で、行ってみたら、このカスペリアでは、たった三件の服飾屋が出ているだけだった。あまりにも解せないので、アルベ得意のバーで情報収集をしたら、「メルカートと銘打つのもおこがましい」という答えだった。がっかりしてその日はカフェラテを飲んで帰ってきた。
町入り口の近くにあるワインバー兼レストランは、眺めのいいテラスがついていて、夜涼しくなってからワインを傾けながら夜景を楽しむには最適だと思った。
町は、このあたり特有の中世の町、道路は全て石畳で、狭くくねっている。
上方の広場の一角。かなりの数のアパートに、「売ります」「貸します」の札がぶら下がっていた。このあたりは定住者は少なく、大抵はローマ市民の別荘である。だから夏は町の人口は数百人から千人以上になる。ある町では、夏の人口3000人、冬になると20数人、になるそうだ。
狭い坂道に面したアパートの一つ。ちょうど改築中で、これが出来上がったら売りに出す、とのことであった。階段の下は台所、上は寝室で、奥の方に便所とシャワーがある。右側にもう一つ小さな部屋があって、そこも寝室にできそうだ。窓が道路に面した所以外は一つもなくて暗い感じがするが、外のお日様ぎらぎらから中に入るとすうっと乾燥したさわやかな空気が肌に当たって、実に気持ちが良かった。
こういう所の住人はみな家の前にいすやベンチを置いて、そこを社交の場にする。
そして夏は外は脳みそが煮えたぎるほど暑くなるので、家の中に太陽の光が入り過ぎぬよう、よろい戸を閉めたりする。
こういうおうちもいいなあ、いくら位かなあ、なんて思ったけれど、石畳しかない中世の町は、いぬいぬ向きではないのであった。車がほとんど通らないので、こういう町はネコ天国である。
昔泊まったカンタリーチェという町はそれこそ3000段からの階段から成り立っており、私たちが泊まった家はその中腹に位置していた。改築はロバを使って行ったとか、階段一段一段の丈が高くて上り下りに苦労した。そこでも、窓という窓の外にはニャンコどもが鈴なりになって寝ていた。どの階に行っても、窓の外は屋根なので、ニャンコは路地に下りることなく、屋根を伝って町中を歩けるからだ。
車中からやっと撮れた一枚。どの町も、大体こういう風である。ロッカアンティカなどはもっとずっと険しい断崖絶壁になっていて、トールキンのミナス・ティリスを思い出させる様相である。このコッタネッロはかなりなだらかな方だ。カスペリアやロッカアンティカの全体写真も撮りたかったのに、イタリア式海賊運転のお陰で一枚も撮れなかった。いくら「ゆっくり走れ〜」と叫んでも、聞く耳なんぞ持ってはいないのであった。
ドライブ中のトヨン。別に車窓に興味がないので、寝るより他にすることはない。ほどよく冷房の効いた車中でうとうとするのが楽しいらしい。そういや、うちのおフクロさんも、ドライブ中にこんな顔して寝てたなあ。
月齢五ヶ月を過ぎ、乳歯がだいぶ抜けてきた。奥歯一本と、牙が抜けつつある状態。この後、二週間の間に残ってた乳歯が立て続けに抜け、血もいっぱい出て時々苦しそうだった。お肉やホネをがしがしやり過ぎたせいかねえ。
2010年08月09日
田舎の旅
私は、昔から都会が大の苦手である。東京に住んでいた時は、人ごみに出ただけでアタマが痛くなり、時には高熱を出すことすらあった。自分でも呆れるくらい、酸欠とスモッグと暑さにはすぐに体が反応するのである。というわけで、大都会に旅行することは私には拷問にも等しく(特に夏!)、いぬを連れた旅行をするようになってからは都会はとんとご無沙汰している。
イタリアの大都会を旅行するには語学力だけでなく、かなりの忍耐も強いられる。
私にとってはイタリア都会とは、
1.値段がやたらと高い。
2.ボラれる。
3.スラれる。
4.イジメに遭う。
5.メシが不味い。
所である。このようにロクな事がないので、都会は避けるに限る。4番に関しては、都会のイタリア人は意地が悪いのが多い。その人となりを知ればいい人も多いには違いないのだが、旅行者として都会でイタリア人に接すると、嫌な気持ちにさせられることが往々にしてある。
この前に姉に付き合わされたヴェネチアでは、パスタが全然おいしくなかった。ああいう所では、名所旧跡を見てお買い物をたっぷりしてさっさと去るがよかろう。
私は今までローマなどでも、ボラれたりスラれたりしたことはないが、そういう事をされるかもしれない、という緊張感を持って歩いていたら、ゆっくり古い町並みを楽しみながら歩くことができない。
今回の目的地は、ラツィオ州はサビーナ地方の、カスペリアという町である。このあたりの町はどこも小さく、高い丘の上に作られているので、町の中は車が入れないか、入れても道路がやたらと狭く坂だらけで、道を間違えるとドツボにはまって進むも戻るもまからなくなってしまう。
ここは、到着した日に夕食をとりに行った町、ロッカアンティカ。駐車場が良くわからず下のほうに停めたら、食堂は町の上方だったので、ふうふうひいひい言いながら登山をする羽目になった。普段まっ平らの北ドイツに住んでいる私たちにはとてもつらい。同行のおひ姉さんは青息吐息で私が手を引っ張って上った。こんな苦労がなかったら、中世の町にもっとロマンティックに浸れたのにい。
そういえば、私たちは二人だけでイタリア旅行をしたことがあまり、ない。お友だちに声をかけると必ず、誰か同行することになる。
今回は、大先輩のおひ姉さんが同行することになったのだが、同行するに当たってかなり警告は出しておいた。その警告とは、
1.予定は全て未定である。
2.アルベが五分と言ったら、一時間は計上するべし。
3.アルベがおしゃべりを始めたら、少なくとも三十分のロスを覚悟すること。
もっとも、この警告は私だけが出したものではなく、今まで同行した人たちなどから既に聞いていたらしく、ま、休暇なんだから急かさないでのんびり生きましょう、と言ってくれたので、三人で行くことになったのである。しかも、彼女はトヨンのほとんど代母さんである。トヨンがうちに来る前、私とほとんど毎週キールに通ってくれたのであった。それで、トヨンも大喜びだったわけだ。
アルベと行動すると、えらく時間がかかる。三十年近くドイツに住んでいて、今だにイタリア時間で生きていられるのが大変不思議で不可解なのだが、とにかくそのままだから、こっちも時々大爆発を起こす。しかし、二十年も一緒に暮らすとこっちも感化されてきて、もーアタシゃあ日本には帰れねえ、と思う。
日本人の感覚から言えば、「のろま」「ぐず」だが、その代わり、彼とイタリアを旅行して不味いものを食わされたことはない。また、買い物をすれば、必ず市価の半額ほどでモノが手に入る。なんとすれば、ヤツの情報収集はかなりのもので、新しい町や村に到着すると、必ずバーに立ち寄って、そこにいる人々から情報を聞き出すのである。その手腕たるやFBIも真っ青なのだが、それをもっと駆使して稼いでくれればいいものを、肝心なところでは役立たず、と愚痴をこぼしても後の祭りでこちらはケツ叩きに専念せねばならぬ。
おひ姉さんはかなりなグルメで、ツギ子先輩の話によると、不味いものを食べた時の彼女は大変キケンなそうで、美味いものが保障され、運転手付きとなれば、少々の時間のロスは許せるのであろう。お姉様はちなみに、イタリア語も解される。
なんにしろ、イタリアではえらい僻地に掘り出し物があり、それを発見するのが楽しみである。遺跡にしろ、食堂にしろ、「地球の歩き方」にもドイツの観光案内本にも出ていない、面白い、いい所がいっぱいある。もちろん、ドイツにもあるんですよ、でも、メシが不味いからやだ〜
2010年08月08日
アグリトゥリスモに泊まる。
大体予定通り、無事に生きて帰ってきました。ハンブルクから一気に南下すること1260キロメートル、Ponti sul Mincioという町で泊まった宿、la Montinaは、宿そのものよりも食堂が有名である。敷地内にニワトリ等を飼い、それをしめて供するのである。したがって、昨今のぶよぶよブロイラーとは違い、本当にニワトリの味がする。前菜も、野菜やハムがふんだんに出て、食いしん坊のイタ公どもも大満足出来る所なんである。
10年以上前から、私たちはイタリア旅行に使っているのだが、北伊料理でもここのは絶品なので、いつも楽しみである。しかも、いぬいぬOKと来ては行かないわけにはいかない。
一日に一気に1200キロ以上走るのはつらいが、ここの夕ごはん食べたさに、ニギリメシ片手に海賊船のごとくぶっ飛ばして夕飯時にはたどり着くのである。
今回は、着いたそうそうレオンベルガー犬のネルソンの歓迎を受けた。月齢六ヶ月とあって遊びたい盛り、イタリアの農場の例に漏れず放し飼い状態である。それで、ヒマを持て余して結構なイタズラをやらかすらしい。
やっぱり遊びたい盛りのトヨンは早速遊びまくっていた。

超大型犬なので、すでにすさまじき図体をしている。五ヶ月のほわシェパとしては大きい方のトヨンなんかより、ずっと大きい。そのかわり、動きは鈍重だ。
朝起きてトヨンを外に出し、ゆっくり朝ごはん、と思っていたら、隣のテーブルに座っていた家族連れのおとうさんが、
「多分、あなたの犬がニワトリを襲っていますよ」
と、のんびり言う。犬どもの遊んでいる方向を眺めたら、トヨンがしっかりと口にめんどりを銜えていた。
叱ったらすぐに離したが、幸いめんどりには怪我はなかったようだ。叱っていたら、ネルソンのヤツは雲隠れしてしまった。ともだちを見捨てて逃げおって。
私たちが宿にいる間、二匹はほとんど一緒に遊んでいた。へとへとになるまで駆け回っていたので、私たちが出発した日は、きっとイタズラも出来ずに寝てしまったことだろう。
広い庭とおともだち。いぬには最高のひと時。
ここの朝ごはんはハムや果物が、イタリアにしてはそこそこの量が出る。もっとも、前の晩に食べ過ぎてるから、このくらいでちょうどいいかも。
あとは、目的地まで、約500キロ。楽勝だね。
この町の近くにあるBorghetto(だったと思う)は、私の好きな町。そこにある老舗のレストランはトルテリーニ発祥の地だそうで、今回は行きそびれたが、出来るだけ食べに行くようにしている。昔は町を流れるミンチョ川で泳げたけど、今はどうかな。
Agriturismo La Montina
2010年07月18日
遊びに行くよ
ドイツ時間日曜日朝より二週間ほどイタリアに行ってきます。猛暑だって。げろげろ。一昨日お医者さんに行ってトヨンの体重を量ってもらったら、既に22キロになってました。トヨンのお母さんは24キロしかないので、あと一ヶ月もすればおかあさんよりも大きくなる勘定です。しかしそれにしても、デカイ。ゆきは37キロ、のえるは40キロで、それでも月齢五ヶ月の時はこれほど大きくはなかったのです。と言うことは...ひええええ。
それでは、行ってきます。
2010年07月14日
水泳訓練

暑い日が続くドイツである。暑いので、エルベ河に行ってみた。ちょっと遠いけれど、キャンプ場がある所まで行くと、いぬ用砂浜Hundestrandがある。いぬ用だが、週末の午後など、散歩日和の時に行くと、二本足が大量に甲羅干しをしており、ジャマ臭いこと、この上ない。それで、行くのは必ず日の入りの直前である。誰とでも仲良くできるトヨンは、早速お友だちを見つけて水に飛び込んだ。しかし、泳ぐのはまだヘタクソで、足の着かない所では絶対に自分から泳ごうとしない。だから、水着を持っていないのにトヨンと一緒に水に入り、半ズボンのオケツのところがびしょびしょになった。おもらしじゃないよぅ。

向こうから走ってくるいぬを座って待ち受けるトヨン。水が浅いからこんなことできるけど、深い所だったらどうするんだろう。
一時間以上たっぷり水遊びをして、うちに帰ったらお腹が空いて、ごはんを用意している私の顔をじっと見据えながらつたーとよだれを流していた。
楽しかったね。また行こうね。
で、日曜日からイタリアはラツィオ州、サビーナ地方という、だ〜れも知らない所に遊びに行ってきます。泊まる所は、ここ。
http://www.caprarecciabianca.com
グーグルで調べたら、うちからこの村まで1670キロメートルだそうです。ちいと遠いなあ。
2010年07月11日
おおきくなったよ
寒冷地帯であるはずのドイツだが、いきなり真夏がやって来て、連日30度を超える暑さである。日曜日などは37度まで上がるそうで、今週で夏休みになってくれたのでほっとしているところである。ドイツの建物は概ね冬仕様に建てられるので、上階に行くごとに室温が上がっていく。部屋が南西方向に向いていようものなら中はサウナ状態となり、生物はことごとく蒸し焼きになるのである。
それでも我々ニンゲンは着物を脱いでしまえば何とかなるが(しません。したら、グロいぜ)、いぬいぬやネキはそうもいかず、大変な苦労を強いられることになる。「トムとジェリー」のトムは暑いと体の前のファスナーをじゃーと開け、靴下ステテコ一枚の姿になって涼んでいたが、普通の動物にはちょっと難しい。
上の動画は、5月18日に撮った物である。毎日のように「犬が欲しい〜」と母親を悩ませているサラが、トヨンと遊んでいるところ。6月初めにお医者さんに行ったら既に16,7キロになっていて、お医者さんに「この子はでっかくなるわよ〜」と言われた。

これは、6月29日の様子。この週から急に暑くなったので、この日は近くにある湖で泳がせてみた。と言うのは、この一週間前に学校の前の散歩道を使ったら、いきなり水路に飛び込み、その中で「ごろごろ」してくれたのだった。その水路は流れがとても悪い場所だったので、とっても真っ黒だった。というわけで、その後トヨンはペンキで塗ったみたいにまっくろけ、しかもものすごく臭かった。一緒に遊んでいた犬が嫌がって逃げたくらいだから相当な臭いだった。タオルで拭いたりしてみたもののペンキは全然取れず、仕方がないのでそのまま車に乗せた。学校にはそんな格好で入れない。それで、生徒の助言に従ってもうちょっとマシな湖に行ったわけだ。
まっくろトヨンの写真は、残念ながら撮ってる余裕がなかった。なにせ、まっくろのまんま甘えてこっちに飛び付くのだ。やめて〜 と逃げれば逃げるほど、喜んで飛び付く。

7月5日のトヨン。普段は大人しくて言う事も大体聞くのだが、時々いきなりたがが外れることがある。そうすると、わんわん吠えて人の回りを飛び跳ねて、捕まえようとするとホイホイと逃げる。公園でやる分には良いけれど、一度公道でやられて閉口した。幸い夜中だったので車が通ってなかったが、本当に危ない...
そういう時は叱ったり、捕まえようと追いかけると逆効果なので、公道から遠ざかる方向に早足で歩く。そうするとついてくるので(一人ではいたくないようだ)、ベンチでもあったらその辺に座るか立ち止まるかして携帯をいじったりして、興味のないふりをする。危ない方に行ってしまいそうになったら呼び寄せ、姿を隠す。そうするとまたついてくる。
この方法だととても時間がかかってハラが立つのだが、しかたがない。それでも自分から大人しく足元に来てくれれば怒りを抑えてごほうびをあげるが、私がとっ捕まえた時は首根っこ押さえつけて激しく叱る。
こういうおふざけは発作みたいなものなので、原則的には公園内では好きにさせ、叱らないようにした。公道でやらかした時だけ声を荒げて叱っていたら、少なくとも公道ではしなくなってきた。
ゆきは家出娘だったが、こういう悪ふざけは一度もしなかった。だから、こういう苦労もなかった。ただし、トヨンがたちまちのうちに習得した「bei Fuss」(出来れば引き綱を使わずに、飼い主のすぐ横を歩調をあわせて歩く)は、教え込むのが大変だった。家出娘は人に歩調を合わせるのが好きでなかったようだ。5歳頃までにはもちろん修得してみぎ、ひだり、の号令にも従えるようになったけれども。

音楽学校で肉付きホネをほおばるトヨン。いつもいぬメシを買っているAlsa社で「イタリア本場のパルマハム、肉をとった残りのホネ、いぬの退屈しのぎに最適!」というのがお買い得になっていたので買ってみた。私がレッスンをしている6時間の間、本当にずっとかじっていた。おかげで、永久歯がもう出てきてるのに抜けてなかった乳歯も抜け、ハムの最後の筋の部分と格闘して楽しかったようだ。パルマハムにも、こういう使い方があるんだね。
来週末から、トヨンはイタリアデビューである。ゆきは1歳の時、のえるは6ヶ月でイタリア旅行をした。のえるの時はサルデーニャまで行ったのだった。行く前に何とかまた更新します。