こんな生活

なかみつせいじ日記


 シネキャビンとは、録音スタジオ。主にピンク映画のアフレコからSE(効果音)、音楽を入れ整音、音の仕上げ作業をするスタジオである。オーナーは中村幸雄(映画クレジットでは中村半次郎)75歳。

  私も長年ピンク映画に携わってきてシネキャビン、そして中村さん(以降中村親父とします)には大変お世話になってきた。そのシネキャビンが本年2月をもって25年の歴史に幕を下ろした。

  私がピンク映画に出演し始めた1987年頃はピンク映画の録音は東銀座にあった銀座サウンドというスタジオが主だった。ビル売却による立ち退きを機に引退するという松田社長の意向を継ぎ中村親父は当時懇意にしていた映画「泥の河」(1981 小栗康平監督)などのプロデューサー故 木村元保氏のつてで新宿区の四谷4丁目のビル1階を借り、1993年シネキャビンを創設した。当時は次回作の音の仕上げ作業の納期が差し迫っていて急ピッチで仲間たちと手作りでスタジオに仕上げたそうだ。防音設備やガラス張りのブースなど簡易な作りは最後まで変わらなかったが充分その機能を果たし、またそれは出入りする俳優やスタッフたちが和める雰囲気だった。

  3年前までピンク映画はフィルム撮影。低予算がゆえ現場同時録音はせず後日、丸一日かけて録音スタジオでオールアフレコをするというスタイルだった。なので我々俳優は撮影を終えた台本を手に後日、四谷のシネキャビンへ行く。映写機でスクリーンに映し出された映像を見、マイク前に立って声を入れるのだ。初めて経験する女優さんなどはこのアフレコという作業が苦手な人も多かった。口が合わず(リップシンク)何度もテイクを重ね泣きそうになっている状況がよくあった。確かに撮影現場での空気感、テンションをマイク前で再現するのは大変な作業だ。そんな彼女にブースの中からモニターマイクで中村親父が明るく「よ〜し、じゃもう一丁いってみっか!」と励ますように言っていた。何度NGを出しても親父は俳優に苦言をいうようなことは一切なかった。「映画は俳優さんが一番なんだ。俳優さんを大事にせんといかん」というのが親父の口癖。これは東映テレビの録音部で鍛えられた親父の矜持らしい。当然俳優たちは中村さんが好きになる。アフレコが終わった夜、親父は「飲んでくか?」と声をかけてくれスタンドマイクをかたづけ、すぐ後ろのソファにくつろいでの飲み会が始まる。これが楽しくて楽しくて私などアフレコあとの飲み会を目的にシネキャビンにいそいそと足を運んだものだ。終電が終わり帰れなくなってもシネキャビンの2階は天井裏で配管がむき出しだが充分広く、親父がこさえた居住スペースで数人泊まることができた。酒飲みの私は時間を忘れて飲んでしまうことが多いので、このゆるい雰囲気が大好きだった。

  俳優たちだけにかかわらず監督、助監督、遊びに来た撮影部、編集部、音楽関係者とも中村親父はシネキャビンで酒を酌み交わした。特に世話になるのは出入りの頻度の高い演出部、若手監督や助監督たちは中村親父に相談やグチを聞いてもらったりガラクタ()収集癖のある中村親父のコレクション品の中から劇中に必要な物を小道具として無償で借り受けていた。戦国武将の鎧、甲冑や日本刀などもシネキャビンには並んでいた。また各組の打ち合わせ、衣装合わせ、本読み会場としてもシネキャビンのスペースを無償で提供していた。親父は「焼酎1本持ってくりゃいいよ」と言っていたがそれさえおろそかにして中村親父に甘える助監督も多かった。逆に金のない助監督たちには飯を食わせ酒やつまみを買ってきてふるまっていた。その助監督たちも成長して今やいっぱしの監督になっている。中村親父とシネキャビンのピンク映画に与えた功績は計り知れない。

  中村親父は鹿児島県の甑島(こしきじま)出身、私は同じく九州熊本出身。だからというわけではないが親父は私のことを可愛がってくれた。これは銀座サウンド時代からそうだった。ある程度年数を重ねたある日、二人で飲んでいると親父が私に「お前がピンク映画の俳優たちをまとめろ」と言ってきた。「???」となったが、実は私なりに考えていたことがあったので後日ピンク映画の後輩俳優たちを10人ほど集めて飲み会をすることにした。当然シネキャビンという場をお借りしてだ。私はピンク映画に留まらず広く俳優活動したいが後輩たちはどうなのか、当然皆も同じ気持ちなわけで、その飲み会は大変ポジティブな意見の飛び交う有意義なものになった。映像演技に関しての勉強会、また仕事を待つ俳優ではなく仕事をとってくる俳優でなければならないという趣旨のもとプロダクションという体系を作って営業活動も開始した。以降毎月その飲み会をひらきのちに30人の大所帯になった。

  シネキャビン中村親父主催で毎年、ピンク映画関係者を呼んで夏と年末に納涼会、忘年会をやっていた。最盛期は100人を超えるスタッフ、俳優、ファンたちが集まって会場の外まであふれる盛大な宴会だった。亡き大杉漣さんも参加してくださったこともある。様々な個性が一堂に集うので諍いが起きることもある。女優にセクハラする馬鹿者もでてくる。また年々ピンク映画の製作本数も激減し参加者は減少していった。中村親父がある時私に「お前がこの会を仕切れ」とムチャぶりしてきた。「こおいう会は役者が仕切るのが一番いいんだ。俺はあくまで裏方だからよ。シネキャビン主催って名前は消せ」、なんのこっちゃ分からなかったが私は「はぁ」と生返事してまた考えた。当時ピンク映画の配給会社はエクセスフィルム、新東宝、OP映画の3社、監督は30人ほどいたか(正確なデータなし)と思うが、私はそのほぼ全部に出演していてそこそこ顔が広いので飲み会幹事もできるかなと思い、つい引き受けてしまった。現在は私の判断で形態を変え、夏はシネキャビン近くの中華料理屋で関係者のみの納涼会、冬はファンの人にも来てもらい曙橋スタジオをレンタルしての忘年会。全盛期ほど多くはないが60人近くの宴会になっている。そしてその宴会が終わり二次会に流れるのは結局シネキャビン。広くもないスタジオにギュウギュウに入って持ち込み酒でいつ果てることのない宴会が続く。親父も含め酔いつぶれた奴は2階の天井裏でガーガー寝ていた。皆シネキャビンが大好きだった。

  以前私は自家用車で撮影現場に直行しており、新宿近辺で撮影が終わると必ず四谷のシネキャビンの前を通る。夜、灯りがついていると「おっ、親父いるな」と思い立ち寄る。と、出迎えてくれる親父の嬉しそうな顔。埼玉の自宅へ帰るのがおっくうな親父はよくシネキャビンで寝泊りしているのだ。車を駐車して二人で酒飲んで語り合う。二人で飲む時は馬鹿噺もそこそこに好きな映画の話し、ピンク映画の今後についての話しなど普段皆の前では語らない事を夜更けまでぶつけ合った。当然帰れないので民宿シネキャビンのお世話になるわけだ。こんなことがもう何回あったか数えきれない。

  そんなシネキャビンという場所がなくなる。フィルムからデジタルビデオ撮影に移行し同時録音になりピンク映画でアフレコという必要性がなくなったのだ。音の仕上げも各監督たちがパソコンで出来てしまう時代だ。2組の監督が最後までシネキャビンでのアフレコを継続し数組の監督が音の仕上げのみシネキャビンに依頼してこの3年、それだけでは経営が成り立たないのは分かっていながら中村親父はシネキャビンを継続してきた。が、それも限界。親父は決して閉める理由をそうとは言わない。「会社とケンカできる監督がいなくなったからよぅ。もうやってても意味がねぇんだ」と言うだけ。昔から中村親父はピンク映画監督たちに「もっと会社とケンカしろよ」と言ってきたのだがおそらく誰もその意味を分かっていない。「監督は会社とケンカしろ」これも親父の口癖。傍で聞きながら私も「今はOP映画の一社独占、制作本数も年間30数本になりそれを撮らせてもらおうと10数人の監督たちがしのぎを削っている。予算も限られ撮らせてもらえればありがたいという今の状況で会社とケンカなんて…。滝田洋二郎さんがピンク映画で活躍したあの時代とは違うんだよ」なんて心の中でぼやいてた。しかし先日、シネキャビン解体作業を手伝っていた時、親父に改めてそれを言われて俳優の私がハッとなった。親父は続けた「自分がホントにやりたいと思う映画を撮りゃいいんだよ。それを会社に何度も何度もぶつけて駄目だと言われたらウソついてでも撮っちまやいいんだよ。クビになったっていいじゃん、それをやんないから映画が面白くないんだよ」。フィルムは無くなったがスクリーンという晴れ舞台でたくさんの人に監督の意思を共有してもらえるという環境は変わらない。スクリーンから情熱が飛び散るような作品に今後も関わっていきたいと思った。

  10日間かけてシネキャビンの解体撤去作業は行われた。相変わらず業者に頼まず仲間内だけでの手作業。最後の3日間私もお手伝いさせてもらった。シネキャビンに関わった録音スタッフの方々、そして私のように中村親父にお世話になった有志でそれは行われた。他の録音スタジオではありえないような古い機材類、いくらかは映画博物館や東京芸大などに寄贈し他は全て廃棄。物持ちのいい(悲)親父のおかげで捨てる機材、家具類、道具類の多いこと多いこと。私はトラックをレンタルしてその廃棄物を横浜の産廃業者まで往復する役回り、何往復したか分からない。解体途中の2月26日の夜には池島ゆたか監督の呼びかけでシネキャビンを惜しむ会があった。もはや状況が状況なので大々的にはできないがシネキャビン愛の女優男優スタッフたち20名ほどが集まり素敵な飲み会になった。機材類や仕切り壁などがなくなり瓦礫のみ積まれた状況に全員が愕然とし涙を流す人も。

  「ここは梁山泊だね」と故 若松孝二監督がシネキャビンを訪ねた折、中村親父に言ったそうだ。これは昨年立ち上げられたエクセスフィルムのホームページ(URLは下記)の工藤雅典監督が聞き手による中村親父インタビューの記事で初めて知った。シネキャビン開設当初の頃だろうから親父はすでにシネキャビンを交流発展の場にしようとしていたことが分かる。梁山泊(りょうざんぱく)とは中国の水滸伝にでてくる山東省の西部、梁山のふもとにある豪傑や野心家たちが集まって夜な夜な酒を酌み交わした場所。私は豪傑を気取る気はないがシネキャビンでアフレコをして演技の訓練をし、夜な夜な酒を飲んでは映画の行く末のことを語った日々が忘れられない。シネキャビンという梁山泊はなくなったがここで過ごした日々のことは我々の心に一生刻まれるだろう。

  中村親父は現在75歳。聞くところによるとまだまだ映画製作への野心があるようだ。どういうカタチで今後、音屋(おとや)中村半次郎の名前が映画にクレジットされるのか楽しみだ。

あなたの家にまでおしかけて行って、まだまだ飲みますぜ中村親父、「うひーっひっひっひ!」というあなたの笑い声を聞きに。

 

2018 3なかみつせいじ

シネキャビン5

 今は次のステップへ準備中なのだがホント時間がかかる。
次のステップとはまた映画製作のことだ。今度は監督をやる。今はそのモチベーションで生きている。 企画はできているが配給まで具体化したら発表します。その具体化に時間がかかってるということ。でもまあ近々というとこまでこぎつけてるということで久々に記事をアップした次第です。

で、 基本私生活などwebに乗せることはやめているのでここに書く事は自分の作品の宣伝が中心なのだが現在際立った宣伝事項なし…、と思ってたら久々PGの林田くんから嬉しい連絡があった。

11/5(土)久々舞台挨拶立ちます。
ラピュタ阿佐ヶ谷にて『色道四十八手 たからぶね』上映!!
ドイツで開催された映画祭2015ニッポン・コレクションで審査員特別賞も獲得したこの作品、各地での上映を続けてまいりましたが東京上映はおそらく最後か!!??

ラピュタ阿佐ヶ谷 http://www.laputa-jp.com/laputa/main/#2
2016/11/5(土)〜11/11(金) 連日21:00〜上映

【舞台挨拶】(登壇者は予定)
◆11/5(土) 上映後 岡田智宏、佐々木麻由子、なかみつせいじ、ほたる、野村貴浩、井川耕一郎監督

【トークショー】(登壇者は予定)
◆11/11(金) 上映後 井川耕一郎監督
★ご入場者プレゼント 
ご入場者先着にて『たからぶね』【 35mmカットフィルム&ポストカード】をプレゼント!!(数量限定。なくなり次第終了)

7月30日映画「おやじ男優Z」がついにアメリカ、NYでの上映を果たす。

とはいえ1回こっきりのイベント上映。どれほどお客さん来てくれることか…。
そしてニューヨーカーはこの映画にどんな感想をもってくれるのか…。
心配で仕方ないが今回は私はNYには行かない。身を削っての宣伝活動は昨年いっぱいでけりをつけたし、
早く次の展開を、という気持ちでいっぱいだからだ。

主催の桜井さん、小田さんに上映成功を託し、祈るのみ。よろしくお願いします。13516227_1058735750840684_7485227330038758285_n13559212_893708960758691_4009788503644766697_o
 

自主映画「アリエッタ」撮影、無事終了しました。
6日間(内一日撮休)かかりました。なかなかできない体験をしました。裏方ハーフ出演ハーフ。疲れ果てました。
私の仕事はここまで。
編集、仕上げ作業は監督のもの。あとはお任せです、はてさて。
この映画、いつ完成して公開できるかもまだ分かりません。その時は改めて監督を筆頭にスタッフ・キャストの紹介、ストーリー紹介、撮影日誌、撮影秘話など書くつもりです。
私は友人のShinさんに現場スチール写真を依頼しました。写真は
Shinさんが遊びで作ってくれたポスター画像。
主演竹内ゆきの は最終日には登場人物 礼子 そのままに見えました。
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幻の映画となるかどうか…。今はShinさんの写真でくくっておきます。

DSC_0016また出ました、私の悪い癖
一昨年、とある自主映画監督から私のホームページに 出演依頼がきました。
当初私はホームページを設立したばかり、アクセスがあったこと自体に嬉しくその監督と 「じゃ会って話ししようよ」 となりました。偶然彼も私と同じ横浜在住。 東神奈川駅近くの居酒屋で対面しました。
40代後半の彼は某映画学校出身、卒業後は介護のバイトをして金を貯めて夢である自主映画の初監督をしたいとのこと。実相寺昭雄監督信望者。差し出された脚本は暗い話しではあるけど熱情も感じ悪くはありませんでした。学生の実習製作、超低予算インディーズ、頼まれれば全て拒まず受けてきた私は今回も出演を快諾しました。

 しかし私はその後、素人監督ならではの "とんちんかん" を思い知ります。
その脚本は実は彼の創作ではなく彼の友人に書かせたもの。スタッフ・キャストも、ほぼネットで募った人たち。私に声を掛けたのもユーロスペースに貼ってあったポスターで名前を知り、ネットで検索しただけとのこと…。私のことはネット上の情報しか知らなくピンク映画もそれ以降勉強したそうです。
本人いわく 「私は学生時代から人望がなく一緒にやろうという映画仲間もいないんです」…さもありなん、なかなかのアナーキーな男です。
つまりこの映画制作のブレーンは監督と脚本家の二人だけ。危うさを感じ私はできる限りのアドバイスはしたつもりです。少なくともと思い主演女優には知り合いの華のある女優さんを勧めました。

で、その後監督とは何度も会い、打ち合わせをして昨年8月の撮影にこぎつけます。
が、クランクインの直前メインスタッフのカメラマンのドタキャン、撮影はバラシに。仕切り直しで延期になります。私は人心掌握のできていない監督に怒りました。やはりネットで募集した人材などアテにできないということです。

私の悪い癖はここからです。一度受けた仕事は最後までやり遂げたい。トホホな監督だけどなんとか一本(映画を)撮らせてあげたいという気持ちになりました。スケジュールがずれるとスタッフもキャストも逃げていきます。私は改めてメインスタッフ・メインキャストのコーディネイトを引き受けてしまいました。 ラインプロデューサーというやつですかね。もう、一出演者から逸脱しています。

当初のブレーンの一人の脚本家はノイローゼで連絡とれなくなり台本の改訂にも関わりました。と言うのはこの監督、知り合った俳優を台本の役を増やしてまで取り込んで行こうとするんです。おかげで当初のメイン3人のストーリーが どんどん散漫になっていきます。またもやメチャクチャです。 「オメ調子乗んな!!!」  注意しつつ監督の希望も渋々反映してやっと最終稿が仕上がりました。

4月にクランクインします。
この ヤバイ映画の顛末。また報告します。次は崩壊という事態もありえます

やっと私の出演したwebCMがオンエアされたので語ります。 もちろん酔っ払ってます

このオーディションがあったのは一昨年の今ごろ。なかなかメインキャストが決まらず、以前もお世話になった某キャスティング会社の方が是非にと、時間を裂いて私一人のために別日にオーディション受けさせてもらいました。その時初めてCMのコンテと趣旨を知りました。驚きました。私がやっていた「おやじ男優Z」の豆田満男役の延長だったからです。
当時はまだ「おやじ〜」は公開になっていなくホント偶然だったんです。私は嬉々としてカメラ前で演技しました。
翌々日早くも合格の連絡。…嬉しかった。
そして"螢男"スーツのフィッティング(衣装調整)に調布の特殊造形工房に2回も行きました。フィッティングと動きテストも念入りにやりました。そして撮影予定日は一昨年の8月。静岡県のとある山村が舞台でした。が、台風接近で延期。
突如クライアントさんも手を引きすべてが仕切り直しになります。
待っても待っても再開の連絡がなく、忘れかけていた頃、やっと昨年秋10月末に撮影インするとの通達が来ます。
体型も変わっていないか確認するため、また調布にフィッティングと動きテストに行きました。ワイヤーで吊るされるためアクションチームも参加します。

そして初秋、螢なんか出るわけないだろ!!と思える寒い中、栃木県佐野市で3日間の撮影が始まります。特殊造形スタッフ、アクションスタッフ、メイクさんのフォローで私はのびのび演技できました。共演の奥さん役、子供たちとも別れ難い程愛おしい関係が作れました。すごく才能のある監督さんで的確な指示のもと演技ができました。今までCM撮影は何回か経験がありますが3日間もかけてじっくり撮る撮影は初めてです。夢のように楽しい時間でした。アクションスタッフが一番懸念していたハーネスを付けてのワイヤー吊り、私は一切股間に(笑)苦痛もなく、高所恐怖もないバカですからスイスイ撮影は進みます。まるでヒーローのように共演者・スタッフからもてはやされます。…ただバカなだけなんですけどね。 ひとつだけ辛かったのは"螢男"スーツ着たままではトイレも行けず食事もできず。脱着に時間がかかるので昼飯抜きで一人つんのめってるしかなかったことですかね

撮影は無事終り、ついに正式なクライアントさん(インディペンデントインキュビレータ)が付き、つい先日web配信が始まりました。現場で撮ったセリフなどカットされ2分間にまとまってますが監督の才能の凝縮です。是非視てやってください
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/FfKXjIWlov0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>" target="_blank" title="なかみつせいじ出演「螢男」">


 

本日2016.1.6 「おやじ男優Z」DVDが発売になりました
予約開始当初から大変な反響、空乃雲之Pの報告によると発売日の今日、Amazonランキングの日本映画部門でまさかの第2位にランキングされた瞬間があったそうだ。 坂ノ上朝美人気もさることながら、Zパンダの草の根宣伝活動、全国各地26箇所におよぶ赤字覚悟の上映活動、また上映イベントを主催してくれた方々、映画パンフレットやDVD付録パンフレット編纂を無償でやってくれたお竜さん…などなど。
それぞれの情熱が凝縮したDVD です。池島監督の意向で、ありったけの特典映像も付けられました。さすが池島監督、サービス精神旺盛。それが爆発的売れ行き。うれしい。
この映画は本当に思い入れの強い作品でした。ヒロインの坂ノ上朝美をはじめ私の娘役の星野ゆずも引退、題材に大きく協力してくれた日高ゆりあも引退。AV助監督役の久保田泰也くんも家庭の事情で引退。そしてこの映画で仲良くなった板前役の秦野敦崇くんの死。彼らは皆私の大事な大事な可愛い後輩たちでした。それぞれの思い出を語ったらここには書き尽くせません。
池島ゆたかという男は凄い監督です。彼らは皆池島作品に出演したことを誇りに思いながら去って行ったと思います。
この映画がピンク映画の枠を超え全国区になったことをきっと喜んでくれているでしょう。
いつものごとく酔っ払って書いています。ここで今まで発表しなかったエピソードを一つ。
一昨年12月「おやじ男優Z」の初号試写が行われた後、池島監督は関係者にさんざん叩かれます。尺が長すぎる、展開がゆるい、いくつかのシーンまるごとカットしたら、台本も無視してシーンの順番も変えたら…etc。確かに当初ゆうばり映画祭へ出典するインディーズとしては100分越えの作品は異例でした。興行としても回転の早い短編が好まれます。 苦悩の末、池島監督は多少の直しだけでほぼそのままで完成作として発表しました。
理由は、「たとえ1シーンしか出てなくてもこれだけ頑張ってくれた俳優を切ることはできない、冗長と言われ世間にこき下ろされても全て監督の俺の責任だ」です。
私はそんな池島監督を尊敬します。そして翌年のゆうばり映画祭からの私のバカ丸出しの宣伝活動でした。

で、本日DVD発売。 よかった、池島ゆたか 男になった。12507405_1662955667311263_7471737866098463980_n
 

「おやじ男優Z」はピンク映画館で終結します。
 水面下で進めてきましたピンク映画館上映、大蔵映画蠅斑單膣篤超乃雲之プロデューサーの許諾を得
本年12月25日〜31日の一週間の年末興行の枠をいただきました。いよいよ終結です。
26日土曜日、上野オークラ劇場での舞台挨拶はファイナルイベントにふさわしいお祭り企画にしてやろうと思っています。私が構成・演出をかってでました。"おやじ男優Zバンド"のパフォーマンスも考えています。
また翌27日日曜日は横浜の光音座でも舞台挨拶を行います。 
これが最後です。今年いっぱいをもちまして「おやじ男優Z」は終焉を迎えます。  

しつこいほどこだわって語り続けてきた映画「おやじ男優Z」
ついにDVD発売の情報が流れました。すなわち監督もプロデューサーも"これで映画上映は終結"とくくったわけです。
2年あまり書き続けてきたこのテーマも終焉に向かいます。
映画はスクリーンで観てもらってこそ映画。それが終われば1ソフトとなります。
はいそれは当たり前。"終わらない映画"と言われてきましたが、 いつまでもそこに寄り添っていては次がありません。私自身もそろそろけじめをつけないといけません。

で、この映画の終着点をどうするか?
実は前々から私には案がありました。それはこの映画の発端を言えば皆さんも合点していただくと思うのですが。
数年前、大阪の西成で我がプロデューサー空乃雲之はホームレスらしきオヤジに声をかけられます。
「この金で池島ゆたかに映画を撮ってもらってくれ」
癌で余命を宣告され、なけなしの金で人生最後の願いを空乃氏に託したのです。 

訳も分からずその金は受け取らなかった空乃氏はピンク映画監督池島ゆたかに興味を持ちリサーチします。

 「ピンク映画館とは、年配の日雇い労働者やセクシャルマイノリティなど、社会で弱者と見做されるような人々が、一時だけでも日常を忘れるために、クシャクシャの1,000円札を握り締めてやって来る場所である。池島ゆたかは彼らの想いを汲んで作品を撮り、彼らと一緒に泣き、笑える監督である。ならばあの男性への手向けになるような作品は、やはり池島にしか撮れないのだろう」 

そして空乃氏は東京に出向き自費を投じて池島監督に直談判します。

これが映画「おやじ男優Z」の原点なのです。
1年前渋谷ユーロスペース で始まったロードショー。おかげさまで全国各地の一般上映館で上映させてもらいました。
終着点として私はピンク映画館で上映したいと思っています。とは言えこの映画はセクシーシーンこそあれどピンク映画としては作られていません。地方のピンク映画館はオファーしても二の足を踏まれます。
空乃氏は本年11月
大阪西成のライブハウス会場での上映を 決めました。
そこで私の願いとしては、今やピンク映画の聖地と呼ばれている東京、上野オークラ劇場 を候補として考えています。西成のおっさんはそこには居ませんが同じ境遇境涯で池島映画に共感してくれるお客さんであふれているのです。彼らは渋谷ユーロには行けない人たちなんです。

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はい、今夜も酔っ払ってます。

で、今回は 坂ノ上朝美 について。映画クランクアップと同時に引退してしまった元グラビアアイドル。
その潔さには感服 です。残していった作品(写真集)がこれだけ売れて2年近く世間で騒がれているのに全く音沙汰なし。 関連Webサイトにコメントの一つも入りません。私と違い間違いなく故郷で地に足のついた生活を送っているのでしょう。あえてスマホやPCなどから隔絶した生活を選んだのかもしれません。

映画のストーリーと同様に共演した私は彼女の本名も、連絡先も知りません。 試写会で再会することもなくクランクアップの時が本当の最後になりました。深夜の公園でした。9月の末、半袖短パンの衣装では震えるほど寒くなってきた季節でした。彼女は助監督から渡された花束を抱え涙をこらえていました。

映画初主演(ヒロイン)ということでそれなりの演技訓練をして臨んだ現場。 監督他スタッフ、共演者のオヤジは慣れ親しんだ様子の人たち。アウェー。その中に一生懸命溶け込もうと必死だったはずです。それが初日の1シーン目から監督のダメだしの嵐。私は相手役でもあり 、先輩ヅラしてできる限りのアドバイスとフォローをしようと思いました。

強い女の子です。監督のダメだしは愛情なのだと、すぐ察知して心が折れることなく声が弱まることなく食らいついていました。私などのフォローなど一切いらない子でした。翌日からはこちらの芝居に 一つ上乗せしてくるほど腹が座っていました。

私は撮影中、不覚にも目に" ものもらい"ができてテンションが落ちそうになったり、天候で撮影が滞ったりと不安や焦りに苛まれる中、一番マイペースを保ったのは 坂ノ上朝美 かもしれません。まさしく映画のとおりです。いつしかオヤジたちは坂ノ上 演じる" ゆりあ "を中心に動いていたのかもしれません。 

演技が上手とは言いません。ほぼ素人です。ただ感心するのは監督の指示のとおり大きな声で生き生きと演技をしていたことです。その声の耳心地。これで納得してしまうんです。これは映画完成後、何度も観ていて思います。真っ直ぐな、淀みのない声なんですね。


彼女が残した最後のブログにこういう文があります。
『坂ノ上朝美は、もう、いなくなりますが、来年公開予定の映画、女優魂をぶつけた、オヤジ男優Zが、みなさんへの最後のプレゼント?です。私がいなくても、作品はずーっと、生き残るんです。写真や、DVDや、映画館での映像…ずっと残ります。』
池島ピンク映画の名作「next」に 『人は死ぬでも、映画は生き続ける!』 という名台詞がある。彼女はおそらくクランクイン前に池島映画をDVDで観て勉強していたのだろう。そしてそれを体感したのだろう。

坂ノ上朝美 私は彼女の決意をあの時 分からなかった。もう一度だけ会いたかった。労ってあげたかった。


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