蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

XV-5Aの事故

ライアン社のXV-5A 2号機(62-4506)の事故の様子(1966年10月5日)を収めた映像がありました。
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(↑動画にリンクしています)

地上から3台のカメラ、そしてオンボードカメラ1台の計4つの視点から事故の様子が捉えられています。
XV-5Aはヘリコプターに代わるレスキュー任務機を視野に入れていたのでこの事故の時も遭難者のピックアップをシミュレートした実験を行なっていたようです。
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この種の実験は何回か行なわれていて、それまでの遭難者役はダミー人形が使われていました。
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それ故か英語Wiki→などには「このダミー人形がリフトファンに巻き込まれて事故につながった」と記載されていますが、映像を見る限り、事故が起こった時は実際に人間をピックアップしようとしていたようです。

1.XV-5Aからフックが下ろされていきます。
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2.それを地上の遭難者役の人がキャッチしレスキュースリングに接続。
 吊り下げが開始され足が地面から離れているのが影から分かります。
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3.ところがいかなる理由からか遭難者役の身体がスリングをすり抜けて落下。
 後ろに転倒してしまいます。
(※2つ目のフッテージを見ると身体をスリングに通す時間的余裕が無く、腕だけで
   掴まっていたので危険だと判断したように見えます)
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4.フックに接続されたスリングだけが上昇を続けます。
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5.スリングはさらに機体に接近。
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6.そしてスリングがカメラの視界から消えるとその直後に
 切断されたワイヤーが写ります。
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7.この時の別角度のカメラにはリフトファンから煙?を噴出す様子が写っています。
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8.機体はゆっくりと降下を始め
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9.ついにハードランディング。
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パイロットのボブ・ティットルは射出座席を作動させますがほぼ水平方向に打ち出されてしまったためパラシュートの開傘が間に合いませんでした…。
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62-4506の損傷は重大な物ではなかったのでライアン社は各種改良を加えてXV-5Bとして実験を継続しました。
それほどまでにXV-5にかける期待は大きかったのですが、米陸軍が空軍の圧力によって固定翼機の運用を放棄してしまったため計画そのものが破棄されてしまいました。

本日の新鮮な感じ画像

オランダ海軍のホーカー・シーホーク(FGA.50)は
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サイドワインダーを搭載できたそうでその見た目はなかなか新鮮です。
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というかオランダ海軍って空母持ってたんだ?というも一つ意外な(失礼)点が。
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シーホークを搭載していたカレル・ドールマン(HNLMS Karel Doorman, R81)は2代目で先代(HNLMS Karel Doorman, QH1)ともども供与・売却された元・英国空母なんだそうです。

検索したところ活動の様子が動画でありました。結構貴重な記録なんじゃないでしょか?
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(↑動画にリンクしています)

とは言っても出てくる機体はS-2トラッカーばかりで、撮影された1963年には対潜哨戒が主な任務になってたんかな~、と思ってしまいます。

そして
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マーシャラーとかLSO(着艦誘導士官)とかは面白くある事を運命付けられた人たちなのではないか、とも思ってしまいました(笑)

気をつけよう。暗い夜道とアブロ・アンソン

アブロ・アンソンにまつわる逸話で有名なのはオーストラリアで起こった空中衝突事故でしょう。
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1940年9月29日にニューサウスウェールズのブロックルズビーで空軍第2飛行訓練学校のアンソン同士が上下に重なるように衝突した事故です。

上になったアンソン(N4876)のエンジンは停止。
下のアンソン(L9162)は乗員が2名とも脱出。

その状況でN4876のパイロットは重なったままの2機をなんとかコントロールして胴体着陸に成功したという顛末です。


ところが何気なく検索していたらこんな画像が。
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やはりアンソン2機の「ピギーバック」ですけどブロックルズビーの事故とは様子が違います。下の機体が車輪を出してる…。
 
これ、カナダでの事故だそうです。
日付は不明なのですが恐らく1940年代前半でしょう。
やはり飛行訓練学校の2機(上:JS193 下:JS167)が夜間のタッチアンドゴー訓練をしていたところ、着陸のタイミングを誤ったJS193が滑走中のJS167の上に乗っかってしまったのだそうです。

そこ、「夜中にJSがJSに乗っかったのか」とかニヤニヤしない!(ニヤニヤ)
先生に言いつけるよ?

そしてアンソンが練習機という羊の皮をかぶったとんでもないケダモノである事を示す写真も!
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ホイットレーにまで乗っかるという…。
というかホイットレーを襲うってかなり特殊趣味のスメルが漂ってくるのですが。

こちらの画像はIWMにも解説付きで掲載されています。→
1943年10月19日、スコットランド、マレーシャー(現マレー)のキンロス基地で管制の指示を誤認したアンソンが離陸滑走を始めたホイットレーの上に降りてしまったのだそうです。

その他にも
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工場に乗っかったり

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「湖の乙女がいたんだ!」と言ってそうだったりホントにやりたい放題ですよ?

お知らせ

ライブドアブログさんから通知がありまして、来年2018年1月末をもってlivedoor プロフィールが廃止されるそうです。
livedoor プロフィール - プロフィールレポート

プロフィールの廃止自体はブログ主の自分にしか関係は無いのですが、その影響でweb拍手のコメント機能も無くなるとの事(拍手機能そのものは残ります)。こちらは読者の皆さんにも関わる事なのでお知らせする事にしました。

今年に入ってから色々と機能が削られていってます。特に不便を感じるわけでもないのですが(不満と言えば動画GIFを貼ることが出来ないというかめちゃメンドいという点ぐらいか)ブログ自体の衰退がいよいよ顕著になってきた、という事でしょうか。

ツイッターに移る頃合を見計らうべきかとも思いますが、あれは「会話」のテンポのツールなので自分は苦手です。瞬発力が壊滅的なもので。

ボビー・キース “ザ・ウェザーガール”

ストラトビジョンの記事でAFVN(Armed Forces Vietnam Network)の「お天気お姉さん」ボビー・キースについて触れたのですが、2009年に行なわれた彼女のインタビューを見つけました。
http://www.historynet.com/interview-with-bobbie-keith-the-weathergirl.htm

軍属(と言っていいのか分かりませんが彼女が所属していたAIDは軍と密接な関係にある組織でした)の立場から見たベトナム戦争と、新しいメディアであるテレビと戦争との関わり方(それも報道ではなく娯楽に近い所。マクロス的です)という点で興味深いものです。

訳してみましたが結構長めです。そしてアメリカ人はベトナム戦争の話になると討論モードになってしまうらしく、インタビュアーさんがかなり意地の悪い質問を連発しています。それに対するキースさんの反論もタランティーノ映画のダイアローグを聞いてるような…ええい、それで慣れてるじゃろ?! とにかくそれらの点は覚悟してお読みください。



●インタビュー:ボビー・キース“ザ・ウェザーガール”
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サイゴンのTVスタジオ。カメラがパンすると全米天気図の前に立つミニスカートのブロンド娘が挨拶する。
「それでは第175無線研究中隊の皆さん―」そして例のキュートな声で番組を締めくくる。「―明日まで、天気に恵まれた楽しい夜をお過ごしください」
するとボックストップスのヒットシングル「ザ・レター」(※1967年)が鳴り響く。「飛行機のチケットをくれないか 急行列車じゃ間に合わない―
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(↑動画にリンクしています)
ボビー“ザ・ウェザーガール”は曲に合わせて踊り始める。
こうしてAFVN(Armed Forces Vietnam Network)一番の人気番組「Weatherwise and otherwise」は、若く冒険心あふれるAID(Agency for International Development:アメリカ合衆国国際開発庁)の職員であり士気を鼓舞するボランティア、ボビー・キースによって終わるのだった。

キースは子供時代の大半を海外で過ごした。彼女の父親は第二次世界大戦と朝鮮戦争に従軍した古参であり、ベトナム戦争中は陸軍の情報将校だった。日本で高校を卒業し、東京の上智大学に2年間在籍した後、彼女は1966年に両親と一緒に米国に帰国した。
その後、冒険と国に奉仕する道を模索していた19歳はAIDに加わりベトナムに赴いた。全くの無名状態から始めた夜のAFVNニュースの天気予報で、はつらつとした彼女の姿は1967年から1969年にかけてベトナムで働いた何十万人ものアメリカ人の記憶に刻み込まれたのだ。

彼女は殺伐とした世界にいる者の目を放送で和ませるコミックリリーフの役目を果たしただけでなく、DMZからデルタ地帯まで何百という部隊訪問に従事した。キースはベトナムを去った後、20年にわたって国務省の仕事で世界銀行に勤める事になりTVでのキャリアをすっぱりと捨て去ったが、ベトナムで戦った若者たちにわずかばかりでも心の慰めを届ける事ができた事を今でも人生最高の栄誉としている。
2008年、キースは女優のクリス・ノエルChris Noelとともに全米ベトナム退役軍人会長賞の芸術・文化優秀賞を受賞した。

現在はフロリダに住みながらベトナム退役軍人会の活動や若者・愛国者団体向け講演の援助を続けている。

■ベトナムへの旅立ち
◎1966年、あなたは19歳の時にベトナムへ行く仕事を選びました。なぜそうしたのですか?
私は軍人の子供(※Army brat)で長女だった。母が第二次世界大戦で海軍の看護婦だったように家族全員が直接、あるいは間接的に軍に勤めていたの。でも私は軍組織向きのタイプじゃなかった。ほら、軍規とかちょっとね…。ちょうどAIDがボランティアを募集してたから海外援助プログラムで働くのはより有意義だし馴染みやすいと思ったの。
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そもそも家族がそんな風だったから「国のために何かしないとアメリカ人じゃない」と考えてたわ。国のために何か良い事をする方法は常にあるの。
平和部隊(※Peace Corps:米国版海外青年協力隊)に行く事もできたけど平和部隊はちょっときつかったし活動地域ではなんの援助も無かったの。
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海外援助プログラムはサポートの体制がしっかりしてた…宿泊施設とかもね。 それに冒険を求めてたからベトナムに行くのは願ったり叶ったりだったの。


◎AIDの訓練はどんな物でした?
軍とは全く正反対だった。軍隊が戦争環境に入るように訓練される時は殺す事を叩き込まれるでしょ?でも私たちは人々の心を掴み取るように訓練されたの。私たちはベトナムの国土、歴史、経済、政治情勢をすべて学んだあと3週間ベトナム語の訓練を受けたけどとても難しい言葉だった。発音が聞き取れないと憶える事もできなかったわ。

もちろんドミノ理論についてはみっちりと教え込まれたわ。だから皆トンキン湾事件を事実と信じ込んでた。思うに誰もが正しい事をしていると信じてたのね。海外援助プログラムも農村部で活動するものとばかり思ってたわ。多くの人が知らないでしょうけどAIDプログラムで180人の看護婦が働いてたけどその大半がハワイで1年間、広範な語学訓練を受けていたのよ。


◎1967年4月にベトナムに着いた時に驚いた事や考え直した事はありますか?
予想していたのよりもはるかにモダンだったわ。サイゴンには美容院、フランス料理のレストラン、ナイトクラブ、洋服店もあった。カルチャーショックだったわね。
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(1967年のサイゴン市内)

それと「ホーチミンの復讐」と呼ばれていた赤痢。着いてから3週間目、通りにロケット弾が打ち込まれたのでバルコニーに出てみたの。それが「なんて事、これは現実なんだわ」と思った瞬間。どんな近代的な都市で快適に暮らしていようが全然危険なのには変わりはないわけ。
ロケットが着弾した時女の人がぐったりした子供を抱えて逃げていくのが見えた。その子が助かったかどうかずっと考えてたわ。
例えば屋上でステーキのディナーを食べたりジントニックを飲んだりしている時に曳光弾が上がったりヘリがそこいら中を飛んでたりするは本当に奇妙な光景だった。戦争が進行中!そんなシュールな事をどう理解したらいいと思う?


◎AIDでの仕事はどんな物でした?楽しんでいましたか?
事務的な仕事だったわ。秘密文書の記録とかね。仕事を楽しんでたけどそれ以上にみんなが楽しかった。
その頃はチョロン地区のPSYOPS(Psychological Operations:心理作戦)本部の隣にあるAID別館の産品輸入プログラム(Commodity Import Program:CIP)で働いてた。
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(チョロン地区。サイゴンの中華街でした)

さらに隣がBEQ(Bachelor Enlisted Quarters:独身下士官宿舎)でよく朝食やランチに行ってたわ。沢山の公共医療関係の人たちが私たちのビルにオフィスを構えてた。誰もがとても献身的で頑張っていたわ。不平とかを聞いたことがなかった。週末も休み無く働いてるのも珍しくなかったの。

■アフターアワーズ
◎どんな娯楽がありましたか?
BEQやBOQ(※Bachelor Officers Quarters:独身幹部宿舎)で映画をやってて。「ムービー&ポップコーンナイト」が有名だったの。それとパイナップルパレス(?ナイトクラブ?)があっていろんな記者が来てたからベトナムで何が起こっているのか知る事ができたわ。安全な場所だったから私が好きな場所のひとつだった。戦場カメラマンのアル・チャンAl Changも居たのよ。
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彼はハワイ生まれだからウクレレを弾いて大使館の女の子たちがフラを踊ってた。ささやかだけどハワイアンパーティーをやったりね。そこに座ってるだけで記者さんたちから色々話を聞けたんだからすごかったわ。私はそこにいた人たちの写真を撮ったりしていたの。


◎クラブでの会話でベトナム戦争の本質をめぐる論争になったことは?
軍人の間ではなかったわ。絶対にね。当時そこにいたおかげでドラッグカルチャーに出会わなかったのは幸運だったと思うわ。

一時期は50万人も兵隊がいたのよ。滑稽な言葉を使うけど兵士たちが到着するタンソンニャット空軍基地に招かれたときは「100万人目の男(one-millionth man)」に会うつもりで行ったの。彼らが飛行機から降りてくるタラップの下に立って自分にこう言い聞かせてたわ。「到着した100万人目ではなく、無事にここを去る100万人目の男を歓迎すべき」と。本当に滑稽でしょ?100万人の兵士を歓迎したがってた国のニュースにも当てはまるわ。

その時点で何人の兵士が亡くなっていたのか知らなかった。1969年にベトナムを去る時、私たちは軍の規模が縮小している事を知った。撤退は始まってたのね。つまりベトナム化政策(Vietnamization policy)。戦争は南ベトナム人に任せ、訓練したら出て行こうっていう。ドラッグカルチャーが起こったのは男性たちが戦争に食い潰されてしまうと感じたからでしょうね。とても悲しい事だわ。

私たちの悪い癖は戦争の影響が身の回りの全てに及ぶという事を無視しがちだという事。それについて語られなければ戦争は存在しないか自分に影響は及ばない物だと思ってしまう。

今振り返ってみると当時政府が何をしていたのか少し懐疑的になるわね。機密指定解除されたトンキン湾事件を見てみて。あの事件は絶対起こってなかったけど開戦を正当化する決断がなされて私たちは戦争に突き進んで行った。だからこそ不思議に思うのかもしれない。政府の言う事を精査したら政府が嘘をつく事もありえると理解するでしょうね。でも政府のために働いてる時は政府が真実を伝えてくれていると信用しているものよ。


◎ではベトナムに行った時と去る時とで態度が変化したと感じましたか?
去る時には明確な変化があったわ。私はニュースメディアの事は分からないし、報道の仕方の心理学を理解しようとも思わない。私が言いたいのは誰もが正しい理由があってそこにいたという事。間違いと知りながらベトナムに行った人はいない。私たちは皆、ドミノ理論を信じてたわ。みんな正しい事をしていると信じてたのよ。もっと信じ込ませられる事だってありうる。そんな時に例えばテトみたいなことが起こると戦争になるのだと思うわ。

そういえばテト攻勢は「テレビ戦争」って呼ばれたけどその場に居合わせた私よりも父と母の方がテレビで多くを見ていたでしょうね。ニュース報道を見て両親の方が恐怖を感じたかもしれないわ。現地の私の方は何が起こってるのか判らなかったもの。「聞こえはするけど見えない」のよ。


■テト攻勢中のサイゴン
◎テト攻勢中のサイゴンはどんな感じでしたか?
私は花で有名なグエン・フエ通りのダウンタウンのホテルに住んでた。
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(1966年のグエン・フエ通り)

文字通り街の中心のね。つまり戦闘は目の前まで来てたの。完全にパニック状態だったわ。職場があったチョロン地区は特にひどくやられてた。
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(テト攻勢直後のチョロン地区)

何週間も働けなかったから女の子たちはみんなでホールや洗い場の仕事をしたの。兵隊さん向けのボックスランチを作ってたわ。友達のパット・ザネラと病院に行こうとしたら通りの向かいの劇場からベトコンが撃ってきた。大慌てで避難したわ。

それからジープで工兵大隊に食事を持っていこうとしたらゴミの山から突然ベトコンが飛び出してきて撃ちまくりだしたの。「ママ、もう家に帰りたい。もうたくさん」ってなったわ。その夜はジントニックを飲みまくったと思う。恐怖のただ中だった。そして戦争の現実もね。


◎何が起こってたのかはよく知られている所ですがその時のテト攻勢はどのように見えましたか?
人々はベトコンのやぶれかぶれの攻撃と見ていたわ。戦闘では私たちは勝ったけどテト攻勢の報道はアメリカ市民を誤解させた。実際に何が起こってたか本当に理解していなかったと思うわ。テト攻勢どころかベトナムでの戦いでは私たちは一度だって負けてないのよ。でも報道はその事に一切触れなかった。その意味では「テレビ戦争」の中では確かに負けてた。でもそれは「後からなら何とでも言える」ってこと。あの真っ只中にいたらそんな風には考えないだろうし考えられない。常に楽観主義者であり続けること―それが「良き米政府職員」の条件の一つよ。


◎テト攻勢は最も恐ろしい経験でしたか?
実際、一番恐ろしかったのは「5月攻勢」(※May Offensive:1968年5月のテト攻勢の第2波で“Little Tet”、“Mini Tet”と呼ばれる)。
たしかに住んでる所のすぐそばだったからテトは怖かったわ。でもその時はクアンチ省の海兵隊基地を訪問してた最中に攻撃を受けたから退避壕の中でじっとしてなければならなかった。海兵隊に守られていると分かってたけど地域の周辺に敵が侵攻してるのは確かだしどうなるか分からないままだった。1969年の5月攻勢の時はベトコンは30日間毎朝のようにロケット弾をサイゴンに撃ち込んでたわ。目覚まし時計が要らなかったほどよ。私はベッドのマットレスをバスタブにかぶせてその下で寝てたわ。そう、建物が壊されても大丈夫なようにね。
カントーで看護婦をしてた友達のコニーとジューンはもっとすごい経験をしたそうよ。テト攻勢のときにベトコンが家に侵入してきたからベッドの下に隠れてたんですって。

クアンチ省の海兵隊基地に行ったのはAIDの仕事かって?
違うわ。そのときはもうAFVNでウェザーガールをやってたから週末恒例の部隊訪問ね。でも私が幸運だったのはAIDはそうした正規外の活動をボランティアでするのを許してくれるほど自由度と柔軟性のある職場や人々だったという事ね。


■AFVNのウェザーガールに
◎どのようにしてウェザーガールになったのですか?
事故みたいなものね。誰にでも起こりうるって事。ベトナムに来て半年後、グエン・フエ通りのインターナショナルハウスで友達と昼食を摂っていたの。そこにレイ・ナッシュ大佐がやってきてこう言ったの。「君はウェザーガール向きだ」
冗談かと思った。大佐はこれからスタジオで20人ほどの女性を面接すると知っていくらか真面目な話だと思うようになった。半信半疑のまま面接に行って採用されてもまだ信じられなかったの。あの仕事はボランティアで報酬は受け取ってないわ。


◎自分が出ている番組を観たことは?
無いわ。全然ね。だってテレビが無かったんですもの。テレビに映ってる自分を見たら止めちゃってたかもしれない。家に居るときはたいてい音楽を聴いてたわ。アパートに住んでたのは全てAIDの職員だったから通常はみんなで集まって夕食を食べてた。ホテルに移ってからも一月ぐらいの間はAIDの人たちと屋上で食事をして翌朝の仕事に備えて早めに寝てたの。だからテレビを観る習慣が無かったのね。


◎ウェザーガールになって何か変化した事は?
AIDで働くためにサイゴンに行ったのだけれどアメリカ人女性が少なかったせいかすぐにいくつもの肩書きを持つことになったわ。私たちは「丸い目(Round Eyes)」って呼ばれてた。でもTVショーに出るようになったらずいぶん箔が付いたわね。どこへ行くのにも人の目を集めずに済まなくなったという事だけれども。有名になって一挙手一投足にも注目されるようになるのってやっぱり恥ずかしい。

ショーで得た経験は貴重だったわ。報酬は無かったけれどDMZからデルタ地帯まで私を知らない人がいなかったくらいだから百万ドル以上の価値があったと思う。友達と一緒にやった中で最高だったのはロンビンやタンソンニャットからデルタ地帯までヘリコプターで郵便物を届ける仕事。心温まるものだった。1967年のクリスマス、バーバラとパットと私はデルタ地帯に飛んでサンタクロースと一緒にLSTやPBRボートを廻ったの。LST乗員のラリー・ウェザラルとは今も連絡を取り合ってる。そんな関係が30年も40年も続いてるのってとても素晴らしい事だわ。


◎ウェザーガールとしての部隊訪問は頻繁に行なわれていたのでしょうか?
ほぼ毎週末ごとになにかしらあったわね。義務じゃなくて任意だったけど。スタジオか私に連絡が来るの。「キャブ(Cav:騎兵隊)は土曜日のお越しをお待ちしております。一晩中でも」って。最初の1つがサイゴンの周辺防衛をしていた第199軽歩兵連隊だった。その後も頻繁に訪問したけどエスコートが付いてくれてね。いつも士官が案内してくれたの。そういう決まりだったのだけれど。レッドキャッチャーズ(※第199軽歩兵連隊の事)はLOH(軽観測ヘリ)に乗せてくれたわ。
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色んな人と会えたのはとてもいい思い出よ。今も彼らの記憶の一部である事、そして今でも再会の機会があって、例えばデニス・ヘインズの結婚式に招待されたりとか、とても誇らしい事だわ。

第1騎兵師団を訪問した時なんか名誉隊員にしてくれた。今も会合や親睦会に行っているわ。40年間忘れる事のできない光栄な事よ。
ブルーマックス大隊(※第20野戦砲兵連隊 第2大隊)でもコブラヘリコプター(AH-1G)に乗せてくれた上に名誉隊員にしてくれたの。
(※攻撃ヘリが砲兵隊の管轄だったというのが驚きです)

海軍は独立記念日に空母エンタープライズに招待してくれた。信じられなかったわ。控え室の前に護衛の兵士が付いていたの。そうする必要が分からなかったけど。会場では1000人の兵隊の中にいるただ一人の女の子状態だったけどみんな紳士的だったから怖くはなかったわ。


◎部隊訪問は全部で何回ぐらいだったのでしょうか?
日記をとっておけば良かったわ。何百回よね。「冒険を求めてた」って言ったでしょ?


◎最も奇妙な体験は何でした?
私たちはみんなグエン・フエ通りのホテルに住んでた。私がいたホテル・アスターはドミニクという名前の有名なフランス人が経営する人気のフランス料理レストランの隣にあったの。ドミニクにはエレイナというフランス系ベトナム人の愛人がいた。彼女を嫉妬させるためでしょうけどドミニクはエレイナがパリに行ってる間に私と関係を持ったと言ったらしいの。

ある晩シェ=ジョ=マルセル・ナイトクラブで記者の人たちといたら派手な女の子がやってきて突然私に掴みかかってきた。それがエレイナね。彼女は短剣みたいに爪を尖らせてた。私は彼女の鼻を殴って鼻血まみれにした。男の人-多分CIAの人だったと思うけど-が私たちを引き離した。私は怒り狂ってたわ。エレイナが殺し屋を差し向けると言ったから何人かの護衛が必要になったわ。

レオにこの事を話したら彼はエレイナに「ボビーには50万人の米兵がついてるぞ」と言ったのね。私はそんなに気にしてなかったのだけど数人の護衛を引き連れて歩く事になってしまった。ベトコンですら私を暗殺しようとはしなかったのにエレイナはやろうとした。

むしろ興味深かったのはシェ=ジョ=マルセルがCIAの巣窟(hangout)だというのが分かった事。たくさんの裏の物事がそこで進行してたわ。ある晩シェ=ジョ=マルセルに行ったら撃ち合いがあって大混乱になったの。上階のプールに逃げなければならなかった。ヤミ市場のギャング同士の銃撃戦でベトコンとは関係なかったけど心底震え上がったわ。


◎バーの商売女に髪に火をつけられたという話は都市伝説ですか?
一度冒険してグエン・フエ通りの裏通りであるツ・ド通りTu Do Streetのバーに行った事があるの。ツ・ド通りは休暇中の兵隊が出入りするような場所で私たちはそうとは知らずにそこに踏み込んだのね。
Bar girls on Tu Do Street1970
(1970年の
ツ・ド通りと“Bar Girls”)

基本、兵隊たちは礼儀正しかった。その頃は騎兵隊が幅を利かせてたの。だから皆、紳士的だった。ところがその店にいた女の一人が私の髪にタバコの火を着けようとしたの。幸いにもある兵隊さんが気付いてグラスの中味を髪にかけてくれた。さらに二人がビールを頭からかけて火を消してくれた。女は自分たちの縄張りを「丸い目」が荒らそうとしてると思ったのね。


◎失礼ながらすごいお話です。そういう女性たちと知り合いになったりしましたか?
ホテルの角を曲がった所にある仕立て屋を使ってたのでその路地を通らなければならなかったの。通る度に女たちに罵声を浴びせられてた。黙って歩き続けたわ。ついにある日お高くとまるのは止めようと考えた。彼女らを無視するんじゃなくて友達になろうって。実際そうした。バーで一緒にお茶を飲んだり。本物のサイゴン茶、お酒じゃなくてね。色々と話をして彼女たちの英語の上達にもなった。彼女たちの境遇は育ってきた環境ゆえだという事もわかった。全員が家族を養っている事もね。教育を受けたがってたわ。人生を変えたがってたしビジネスを始めたいとも考えてた。実際、みんな商才があったわ。「夜の女」なんて呼べないほどね。しっかりとした良い人たちだったけど環境が普通の生活を許さなかったのね。

私たちはバーのスツールに脚を組んでおしゃべりしてたけどそばを通る人には脚が丸見えだった。行き来する男たちが女の中に「丸い目」が混じってるのを2度見してたわ。私たちはそれを見て大笑い。それ以来何人かのベトナム人女性といい友達になったわ。
仕立て屋の女性はとても腕が良かった。たった10ドルと一晩の待ち時間でドレスを手に入れることが出来た。服作りに素晴らしい才能を発揮してたわ。美容院も同じく素晴らしかった。

■「テストステロンジャングル」の中で
◎「何故わざわざベトナムに来たのか」と訊かれた事はありますか?
それは例えば「なんでこんな所に来た?頭がおかしいのか?」とか「ここはお前の居場所じゃない」という態度みたいなものね。当時そういうのは「女性は守られるもの」と考えたがる男性から出ていたと思うわ。思い出してみて。彼らは女性が戦闘に出ることを許可しなかった。
私にとっても男性にとってもショッキングな状況に出会ったことは何度もあるわ。
一度、女性と会うことなんか期待できそうも無いジャングルに長いこといた兵士たちと会ったのだけども…。彼らも動揺したけど私も動揺したわ。


◎訪問した部隊の兵士たちがその後すぐに負傷したり戦死したりするのではと考えた事はありますか?
それは物事のプロセスを省略しすぎよ。LSTやPBRボートの乗員たちが休暇を過ごすコンソン島Con Son Islandに行った時の事を思い出すわ。
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(コンソン島)

美しい白い砂浜で素晴らしいステーキパーティーを開いて、その後私は飛行機に飛び乗って比較的安全なサイゴンに戻り、兵士たちはデルタ地帯の戦場に戻る。そういう事よね?でもそれは全てを隠そうとしてる。私たちの対処メカニズム(※coping mechanism:精神的苦悩や問題に対処するために働く身体のしくみ)よね。ステーキを食べ、ジントニックを飲み、照明弾を眺め、ヘリの音を聞いて‐それを無視しようとするの。本当に奇妙な事を教えてあげましょうか?ベトナムではヘリのローター音を聞いて鳥肌(goose bumps)の立たない人はいないのよ。

休暇中の兵士達のちょっとした話をするわね。長期間勤務の後に許可された素敵な事の1つは休暇の競売に参加できることだった。私は落札して台湾に行ったの。乗り込んだ飛行機では私はスチュワーデス以外の唯一の女性だった。旅の道連れになったのは若い兵士の集団だった。私は台湾に着くまで「休暇心得」を教えてたの。もちろん男性向けのよ?そして現地では私はリゾートホテルに向かい、彼らはストリップに行ってそれから靴をぴかぴかにしてくれることも含めて何でもしてくれる女の子と宿にしけこむわけ。対して私は何にも無い。それが男性と女性との表と裏なのね。なんとも滑稽だった。
彼らが引っかけた女の子たちはショッピングにも付いてきて私が詐欺に会わないようアドバイスしてくれた。皆で「猿の惑星」を観に行ったわ。
ジンギスカン料理を食べた後はブラブラして刺青屋で蝶のタトゥーを入れたりしたの。
休暇が終わると彼らは戦場に戻っていった。そしてあなたは彼らがその後どうなったのかを疑問に思ってるわけ。


■ウェザーガールの生活
◎明らかにあなたはセックスシンボルでしたよね?
自分がセックスシンボルだと思ったことは無いわ。むしろ兵士たちが国に残してきた女の子みたいに扱われてた。当時の私はホワイトショルダーズの香水をつけてたの。私と会った兵士たちは「ああ、恋人がこの香水をつけてました…。彼女を思い出します」と言ってた。私は彼らが故郷に残してきた愛する人を思い出させる存在だったの。私をセックスシンボルとして見ていた人はいないと思うわ。ピンナップを飾ってたとしてもね。

私は映画スターじゃない。ラクエル・ウェルチじゃない。ハリウッド的存在どころかそうした魅力は無かった。単純に「アメリカン・ガール」としてあそこにいたの。誰にだって出来た事よ。やるかやらないかだけだわ。私は基地育ちだから軍というテストステロンに満ちたとても排他的な組織を理解して対処する事ができただけだと思うの。


◎搾取されたり利用されてると感じたことは?
無いわ。テレビ局の人たちは私の多くの敬意を払ってくれた。素敵な人たちだったわ。皆を兄弟と思ってる。本当に良くしてくれたのよ。
その人が望むように扱ってあげたり、「OK、あなたは私の兄弟だ」という待遇を提供すればその人はあなたの兄弟のように振舞ってくれるし、あなたを兄弟として接してくれる。問題などあったはずも無いわ。


◎ショーを批判された事はありましたか?
ええ、2度ほどね。例えば各地の気温を身体にペイントした時とか。
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でもあれを性差別的と考えてた人はいないと思うわ。私も含めてね。多少大胆すぎであったとしても。当時は知らなかったのだけれどあれはゴールディ・ホーンが「ラフ・イン」(※コメディ番組「Rowan & Martin's Laugh-In」)で始めた事なのよね。
goldie hawn Laugh-In 1968
(その「ラフ・イン」でのゴールディ・ホーン)

誰か-多分エルズワース・バンカー(※米大使館)の誰かだと思うけど-がクレームを入れたのね。だからそれで終わりだった。あの回をTVで観てたら同じ事を考えたかもしれない。でもやってる時はそうは思わなかった。私たちは単純にコミカルにしたがってただけ。お堅い時間枠ではなかったしね。

最近経験した面白いことは‐フロリダの高校生相手に講演する機会があったの。あらかじめ先生たちには「ベトナム戦争にも女性は参加していてその多様性は驚くほどだった」という事を話すつもりと伝えていた。
(当時の記事の)スクラップブックを持っていったら子供たちはビキニ姿の写真に驚いていた。「どうしてこんな小さなビキニを選んだの?」って。私は今時の子の方がよっぽど紐っぽい水着を着ることを知ってたからこの反応には面喰ったわ。
MichelineBernardini
(1947年、人類で初めてビキニを着用したフランス人女性ミシュリーヌ・ベルナルディーニ)

当時の人たちはへそ丸出しのビキニを非難してた。でもフランス人はその上を行ってて私が着た事のないくらい小さなビキニを着けてたわ。

それとアメリカ大使館は「アフリカの女王号」タイプのボートを持ってて25ドルか30ドル出せばサイゴン周辺の船員つきクルーズで船上パーティーができたの。その中にフランス人女性がいたら大半はトップレスだったのよ。
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(こういうスタイルのボートです)

私が初めて参加したパーティークルーズは10人ほどであたりをヘリコプターが飛びまわってる中で行なわれたの。2人のフランス人の女の子がトップレスで舳先に立ってたから(見とれた)ヘリコプターが事故を起こすんじゃないかと思ったわ。


◎ゴールディ・ホーンと「ラフ・イン」ショーはご存知でしたか?
知ったのは帰国してからね。それまでは「ラフ・イン」の名前も聞いた事がなかった。本国から来たスタジオの人たちは知ってたでしょうけど。それまでの人生のほとんどが海外暮らしだったからアメリカ文化の多くを知らないままで、当時もそんなに変わらなかった。ベトナムを離れてもさらに30年、国務省の仕事で海外にいたわ。だから帰国した後も自分の国に慣れるのに時間がかかったほどよ。


◎天気予報はユーモアの伝達手段であり、放送をもっと面白くする手段となり得るのでしょうか?
それが私たちがやろうとしていた事よ。権力というのは物事に難しい顔をさせたがる物なんじゃないかと思う。私たちは放送終了が「Weatherwise and otherwise」である事を腹立たしく思ってる人たちがいることに気付いたの。何が人々の不興を買うか分からないわ。例えば一度、余剰品の野戦ジャケットを着て出た事があるの。別にふざけてじゃなかった。ジャケットは膝下ぐらいまであったけどボトムスの方を履いてなかったの。そしたら誰かがものすごい剣幕の電話をかけてきて大騒ぎ。普段履いてるミニスカートよりも丈が長かったというのに皮肉な話よね。
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今まで言った事がないのだけれどあのミニスカートはサイゴンの例の仕立て屋で作ってもらった物なの。シングルのミニスカートですごくぴったりに作られてたからスコートみたいだった。まったく見事な「慎み深さ」ね。あのスコートでヘリコプターに乗り降りしたり飛行機に出たり入ったり、階段を登ったり降りたり…私の「慎み深さ」をこれでもかってくらい見せつけてくれたわよ。「今現在スコートと呼ばれてる物の発明者は私だ」って言いたいくらい。


◎誰が「Weatherwise and otherwise」の構成を考え出したのですか?
ポール・バルドリッジPaul Baldridgeね。すごく真面目な人よ。性差別主義者ではなかったわ。全くね。彼は素敵な兄と言ったところ。私という妹を守ってくれる人よ。どこに行っても、私が何をしたとしてもね。


◎放送には何回出たのですか?
何百回になるわ。週に6、7回出てたわけだから。週末にスタジオにいない場合は事前に録画したの。

◎天気予報を事前に?
衣装をちょっと変えたりね。以前の放送を紛れ込ませたりとか。気温は変更されなかったわ。「暑い」か「さらに暑い」しか無いんだもの。モンスーンの季節は雨と言っておけば60%は当たり。「今日は2時から雨になります」と言えば大抵そうなるの。だから事前収録でも2、3日はスタジオを離れる事ができたわ。


■注目を集めて笑わせろ
◎たくさんギャグをやりましたが何が一番面白かったですか?
たぶん放送電波に乗らなかった部分よね。スタジオのみんなは私の緊張をほぐすためと台詞をとちらせる(※flub one's lines)ためにいつも何かしら仕掛けてきたわ。床を匍匐前進したりとかは序の口。いきなりバケツの水を浴びせられたりちょっと上達したからマイクを切られたりとか呪われてるのかと思ったわ。
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服にピンマイクが付いたままだったから驚いた。感電はしなかったみたいだけど。
みんながいつ何をしようとしてるのか分からなかった。ハロウィンの時なんか箒にまたがってワイヤーで吊るされてバイクの上に降り立つんだけど-ほとんど落っことされたようなものだった。

私たちは真剣にバカをやってた。それでも視聴者から「陳腐だ」と言われてしまう時が来たの。私も放送を観ていたらそう思ったかもしれない。でもそういう風に考えてなかったのね。悲劇的な事がそこら中にあると笑ったり笑わせたりしたくなるものよ。それ以外に戦場にいるという恐怖から逃れる手段がある?


◎番組の終わりを個人的なメッセージや曲のリクエストで締めくくる事がしばしばありましたね?
そういうリクエストが来るようになったからね。故郷へのメッセージとか曲をかけたりとか。「プラウド・メアリーProud Mary」(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、1969年)なんか人気のある曲だった。
Proud+Mary+Born+on+the+Bayou
(↑動画にリンクしています)
視聴者が電話をかけてきて「君が踊るのが観たい」とかね。通常の番組の締めくくりは訪問した部隊や個人への謝辞だったのよ。


◎誰かをお手本にしていましたか?それともまったくのオリジナルスタイル?
ほとんどがアドリブよ。番組を始めた頃は差し棒を持って椅子に座ったままあまり動かなかった。そしたらスタジオのみんなが「立った方がいい」と言ったの。その後BGMが流れるようになったわ。最後のダンスもアドリブ。


◎その後は毎回番組終わりに踊るようになった?
ええ、番組を降りるまさにその回までね。たぶん誰かが「彼女はもう続投させられない。『ボビーからおやすみを。こちらはWeatherwise and otherwise。良い夜を』と言えないじゃないか」と言ったんだと思う。私はそう言う代わりにアンカーマンに指示を出して番組を締めくくるようにしていたから。


◎当時、あなたは自分がベトナムで最も有名な女性の一人だと思ってましたか?
色々な行事に招かれるようになったからそういう自覚はあったと思うわ。でも私がそういう人物だからではなく、単にテレビに出ているからだと認識したの。それでもすごく感謝してる。部隊訪問で多くの事を見てさらに多くの事ができたのだからサイゴンのオフィスにいるよりずっと有益だったわ。

初めてスタジオに連れてこられた時、ディック・エリスやスタジオのみんなが家族のように接してくれたわ。でもどこに行くにも注目されるようになってしまった。恥ずかしい思いをしたくないから極力目立たないようにしないと。
ボブ・ホープUSO(United Service Organizations)ショーで座席を取るために歩いていただけで会場全体が沸くんだもの。2万人もいる会場よ?死にそうになったわ。
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そしたら「ボビー、私たちと御一緒に」って一般席ではなく軍の席に招かれたのが救いだった。最近、その場に居合わせた一人からその時の写真が送られてきたのよ。素敵なことじゃない?!


◎逆に有名になったことの利点はありましたか?
色々な人に会えた事ね。ラクエル・ウェルチもその一人。彼女は1967年のボブ・ホープUSOショーに参加してた。彼女と会ったのは大使館のパーティーで、私は案内係をやってたの。ボブ・ホープは尊大な人だったけどラクエル・ウェルチはすごく控え目な人だった。


■賞賛と不条理
◎何十万人もの男性があなたのイメージをベトナムの好きな思い出のひとつとして捉えていることはどう思いますか?
難しいわね。友達にテレビで私を観てるって言われても驚くもの。期待してない種類の事だわ。今でも手紙や写真を受け取って、その中で褒めそやされたり持ち上げられたりってのも同じ。


◎なぜあなたにはそのような永続的な影響力があると思いますか?
ある晩何気なくテレビのチャンネルを変えてたらドキュメンタリーに目が止まったわ。テレビの戦争史についての番組でナレーターがこんな事を言ってた。「アメリカが戦争に行く時、私たちはアメリカ文化や娯楽も持っていくのです」そしてこう言ったの。「ベトナム戦争ほどではありませんがばかげた事はいくつもあります。…ボビー・ザ・ウェザーガールを思い出します。天気予報ですら本国にいるようにしなければならなかった!」おかしかったわ!戦場にいる兵士たちは故郷の情報に飢えていたって事を知らないのが不思議だった。兵士たちは私たちのやる事を見て故郷を思い浮かべるの。多分、アメリカ式にやる理由はそれだわ。


■ベトナムを去る
◎1969年11月にあなたはAIDの仕事とベトナムを離れましたがそう決心する何かがあったのですか?
人々の間で撤退の話や兵士の士気の低下が囁かれ始めて突然幻滅というか…なんと言えばいいのか分からないけど負ける予感のような物を感じたの。

AIDを辞めた時は気落ちしてた。正しい理由で正しい事をしていると思ってたりそう教え込まれていたのが全て事実ではないと分かったらやはり落ち込むわね。

要するに…多くの人が亡くなったのをどう合理化すればいいのか?国土の荒廃をどう合理化すればいいのか?そういうたくさんの感情が渦巻いていたわ。

人間というのは実践的で合理的になろうとするもの。でも幻滅したり物事を合理化しきれなくなったら逃げ出すしかなくなるの。私の場合それはAIDの辞職だった。ベトナムを去って…1974年まで本国には帰らなかったわ。ベトナム帰還兵たちは心を癒す機会もなかったのに私は何年も逃げていたの。


◎現在はドミノ理論を合理化できますか?
多くの人々が「私たちは正しかった」と言うでしょうね。共産主義の拡大を食い止めたって。歴史の評価はまだその事について定まってないわ。でもその時代を生きてこれたのは幸運だったと思う。

出会った人々全てを愛してるわ。私たちは皆正しい理由であそこに行ったと思う。誰も間違った理由で行ったとは思わないわ。


◎ベトナムを離れた後はどこにいたのですか?
「心の平穏を取り戻す休暇(sanity sabbatical)」ね。カトマンズが好きだったから最初にそこに行って、それからデリーへ。そこでイスラエルに行く話になってキブツで働いてたの。それからしばらくの間トルコに行って、その後ギリシアで生活してた。ダカール、セネガルのあとドイツに行ってライン=マイン空軍基地で働いた事もあった。


◎その後政府の仕事に戻ったのですね?
ワシントンDCに行って国務省の仕事に就いたわ。1975年に再びドイツに渡ってその後はヨルダン、パリ、トルコ、そしてモロッコ。どの国も好きだったわ。そして最終的に1989年に本国に戻ったの。そこで初めてベトナム戦没者慰霊碑の事を知ったの。すぐに案内のボランティアを始めたわ。戦争の真実と向き合うことが出来るという事であそこ以上の場所はないわ。刻まれた5万8千人以上の人々名前を見れば否応なくね。そういう非常に説得力のある慰霊碑だからボランティアの一人であったことは非常に名誉な事だわ。
今でも慰霊の日と退役軍人の日にはワシントンに行って慰霊碑でのボランティアをしようと思ってるの。


■顧みる時
◎現在フロリダでも退役軍人との仕事をしているのですか?
ブレバード郡では、毎年4月に国内最大のベトナム退役軍人交流会が開かれてるの。参加者は国内どころか海外からも来て期間中はキャンプ生活をしてる。まるでベトナムに戻ったみたいよ。キャンプ場に行けばみんなからすごい話を聞けるわよ。ブレバード郡のベトナム退役軍人会は国内最高の交流会を開くために年中頑張ってるわ。参加者の支援や滞在場所、食事の世話をするためのトランジショナルセンターも運営してるの。


◎あなたが誇りに思っているあの戦争から学んだ他の事は何でしょうか?
いつも話しているのは民間人資格でベトナムにいた女性たちの事ね。
AIDの女性看護師たちは農村部の集落の原始的な環境で働いていた。知られていない話だけど、ベトナムでの女性の労働にくわしいアン・ケルジーはベトナムで58人以上の女性が亡くなったと報告しているわ。
ハイスクールでこうした女性たちの話をする時はどんな質問にも答えるようにしているわ。


◎2009年になって全米ベトナム退役軍人会長賞の芸術・文化優秀賞を受賞するのはどのようなお気持ちですか?
本当に驚きだわ。報せを受け取った時は思わず「私が?」と言ってしまった。それ以上はすっかり言葉が出なかったわ。
ベトナムにいた事が認められ、それが喜ばれてるという事は本当に名誉だったわ。
40年経っても人々が記憶に留めてくれていたというのは驚くべきことね。
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(もう一人の受賞者、クリス・ノエル)

◎現在、退役軍人たちと会った時は何を話しますか?
とにかくまだ語られた事のない話が数多くあるの。彼らにはそれを記録として残すべきと言っているわ。歴史の一部であり、私にとっても途方もない人生経験なのよ。
彼らは無数の愛すべき思い出を私にくれたし、私も彼らが国のためにした事すべてを大切に思ってるわ。私たちは生きている歴史なの。

ドーナッツ・ドリーズ(※Donut Dollies:ボランティアの従軍看護婦の事)の彼女らの使命を表す言葉が好き。
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「凄惨な状況の中に1秒でも家庭にいる感覚(touch of home)を持ち込めたなら、あなたの仕事は果たされた事になる」ってね。その考え方に倣うなら-例えばあなたがホワイトショルダーズの香水をつけていてそれが誰かに故郷や故郷の恋人を思い出させたのなら-それはあなたが受け取る最大の賛辞になるのでしょうね。

―終わり―

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