蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

Mi-26は何でも運ぶ

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謹賀新年2020

明けましておめでとうございます。
カピバラ
こ、今年は更新がんばります・・・。

ホーカー・シドレーP.1184-16

ハリアーⅢって何だったんだろうと検索していましたら横道にそれたというか横道に引きずり込まれまして。
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なんだコレ!?
テイル部に後ろ向きコックピットがある!

掲載されていたロシア語サイト→では1972年のAST-396 (Air Staff Target 396) に対するホーカー・シドレー案、P.1184-16との事。

AST-396はハリアー、ジャギュア、ファントムの後継となるSTOVL攻撃機を目指した物でした。

この後部コックピットがあまりにも怪しいのでフェイクを疑ったのですが、上記記事でソースとして紹介されていた「BAe P.1216: Supersonic ASTOVL Aircraft」(Michael Pryce著 Blue Envoy Press刊)の名前をツイッタで挙げたら著者さんから「(もう在庫が無いので?)コピーを10.95ポンド+郵送料でお送りしますヨ」とリプがあったのでとりあえず出所は担保された、とw

この後部座席は平面図に見える連装チューブに搭載されたミサイル、SRAAM(Short Range Air-to-Air Missile)や新型ASMを後ろ向きに発射する際の誘導役を担っているのだそうで、テイルコーン内に誘導用の小型レーダーが搭載されています。

「後ろ向きって何やねん」と言われそうですが、SRAAMは格闘戦用の高マニューバ性能が主眼となっていました。
SRAAM-3b
現在で言うところのオフボアサイト能力のはしりみたいな物ですね。
tail-dog
1968年に始まったSRAAMの開発計画は1977年に発射テストにまで漕ぎ付けました。
sraam-jawa
ハンターF.6(XG210)から発射されたSRAAMは期待通りのマニューバビリティを発揮します。
なんでも発射直後に回頭して母機に命中する寸前までいったという雪風(戦闘妖精の方ね)みたいなことまであったとか。

しかし毎度の事ながら英国防省は次期AAMとしてAIM-9Lの採用を決定し、SRAAM計画はポシャってしまうという規定路線。
それでもSRAAMで得られた技術は後にASRAAMの開発に活かされる事になります。

AST-396も実現はしませんでしたがSTOVL能力はAST-409に引き継がれ、ハリアーGR.5からGR.9までの新世代ハリアーの礎となりました。
また、STOVL能力を除いた制空戦闘機案の要求AST-403はタイフーンへと繋がることになります。

つまり1990年代以降の英国空軍機の系譜を遡るとこのP.1184-16という変態がいると…

The Great Indian Escape

第3次印パ戦争(1971年)の期間中、パキスタンは16名のインド人パイロットを戦時捕虜(POW)として捕らえ、パンジャーブ州ラワールピンディーRāwalpindī付近の捕虜収容キャンプに収監した。
その中の一人ディリップ・パルカーDilip Parulkar大尉は脱走を思いつく。パルカーのこの考えに同調した同房者、M.S.グレワルM S Grewal大尉とハリシュ・シンジーHarish Sinhji中尉が計画に加わった。
Dilip Parulkar, M S Grewal, Harish Sinhji. Image Credit
左よりD.パルカー大尉、M.S.グレワル大尉、H.シンジー中尉

3人の所属と捕虜になった経緯は以下のごとく。
  • パルカー大尉‐第26飛行隊所属、1971年12月10日、Su-7でパンジャーブ州ザファワールの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
  • グレワル大尉‐第32飛行隊所属、1971年12月4日、Su-7でパンジャーブ州ショーコットの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
  • シンジー中尉‐第29飛行隊所属、1971年12月5日、MiG-21でパンジャーブ州スルマンキの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
(※Su-7はSu-7BMK、MiG-21はMiG-21FL、ハンターはF.Mk.56と思われます)
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パルカーは'65年の第2次印パ戦争でも被撃墜、脱出(乗機はハンター)を経験しており、今回は3度目の脱出だった。

◎ラワールピンディー収容所
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パルカー達の監房には11名の捕虜が入れられていた。
収容所々長のオスマン・アミンOsman Aminは紳士的な人物だったので捕虜の待遇はかなり良い物だった。
夜間は各自の独房で寝なければならなかったが朝食から夕食までの間は捕虜同士の交流は自由だった。赤十字のスタッフが本国からの手紙や差し入れを定期的に届けていた。また、ジュネーヴ条約(「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)」)に則って週57ルピーが手当てとして支払われた。

捕虜たちは様々な関係筋の訪問を受けた。チャクララの空軍基地(ヌール・カーン空軍基地)司令が尊大な態度で自分の家のようにくつろげているか?と質問してきた時にはパルカーは「はい閣下、子供の頃に閉じ込められた小部屋を思い出します」と答えたのだった。

1972年2月になると傷病兵からインドへの送還が始まった。パルカーたちはその度送別パーティーを開いて単調な生活に変化をつけようとしていた。

戦争はすでに終わっていたが彼らの捕虜生活はまだ続きそうだった。パルカーは本国に帰還するまでは自分たちの戦争状態は終わらないと考えていた。

◎脱走計画
パルカーの脱走計画は当初誰からも相手にされなかった。そもそも『大脱走』のモデルとなったロジャー・ブッシェルに触発された計画なのだ。誰もがパルカーの誇大妄想を疑った(※収容後まもなくパルカーはつまづいて壁で頭を打ち、記憶が混乱した時期があったため尚更だった)。だがグレワルという賛同者を得て計画はにわかに現実味を帯び始めた。もう一人、V.チャティ中尉も計画に加わった。

  • チャティ中尉‐第27飛行隊所属、1971年12月4日、ハンターでミアンワリへの攻撃任務中PAFのF-6によって撃墜された。

この地域の特徴を調べてみると『大脱走』のような大がかりなトンネルは必要ない事が分った。収容棟を出て歩哨をかわし、敷地の塀と有刺鉄線を越えればすぐ大幹道(Grand Trunk Road:南アジアと中央アジアを結ぶアジア最古の主要道)に出る事が出来るのだ。

まずすべき事は塀に最も近い4号棟に移ることだった。警備員を含む施設職員を抱きこむ必要もあった。幸いこの収容所でも賄賂による買収は有効だったようだ。4号棟の部屋は4つの簡易ベッドを収容できる広さであり、パルカーは「鼻薬」でチャティ、グレワルそして自分を同室にする事に成功した。

次にパルカーは収容所長に地図帳を要求した。自身が解放後にミュンヘンオリンピックに行く計画を立てるために必要なのだと説明し、オックスフォード地図帳をまんまと手に入れた。

両軍が地雷原をはさんでにらみ合っているラホール地域を目指すのはリスクが高すぎた。まず北に向かって丘陵地帯にぶつかったら東か西に100kmほど迂回してウーリーUriかプーンチPoonch(どちらもカシミール地方の町)に至るのが賢明だ。このルートで最も困難と思われるのがジェラム川を渡る事だった。

逃避行には6、7日を費やす可能性があるため適切なサバイバル用具―背嚢、衣類、靴、コンパス、レーション、水、現金―を用意しなければならなかった。パラシュートの生地から背嚢を作り、耐Gスーツの気嚢が水袋となった。ドライフルーツとコンデンスミルクが栄養源となるだろう。現金を貯める為に倹約生活を余儀なくされた。

コンパスはパーツ一式がボールペンに納められるよう工夫された。使用する時は磁針をペンの先端で支えるという物だ。針の磁化などがどのように行なわれたかだけで一つの物語が出来るほどだった。

衣類に関しては全く問題なかった。人ごみに紛れ込むためパキスタン人の一般的な装束を作るまでも無く、家族からの差し入れで2枚のシャツとズボンがすでに入手できていたからだ。ロジスティクスの勝利だった。

この頃になってシンジー中尉がメンバーに加わった。彼はウルドゥー語/ヒンディー語/パンジャブ語の能力に劣っていたが並々ならぬ熱意でこれらの習得に励んだ。

パルカーたちは窓の鉄格子の取り付けをゆるめて押せば外れるように細工したが運悪く警備員に見つかり直されてしまった。

当然この事で詰問されたが知らぬ存ぜぬと肩をすくめるジェスチャーで誤魔化せてしまったようだった。

ある朝、インド国内にとらわれていたパキスタン人捕虜が銃殺されるという事件が起こった。このニュースを目にしたワヒダディンWahid-ud-din所長(アミンの後任)は激昂し、報復を口にしたため所内の緊張度は一気に跳ね上がった。
その中でもパルカー達の計画は着々と進められていった。昼は平静を装い夜になるとバルカーとグレワルはテーブルナイフや鉄釘、ドライバーといった物で壁を削り、人一人が這い出られる程度の穴を開けていった。シンジーは見張り役だった。4号棟脇の路地は歩哨が常に通る場所だからだ。

朝になると彼らは寝台の上に毛布をかけて「脱出口 」を隠し、壁の削り屑を差し入れの箱に隠したのだった。二人はモルタルを剥がしレンガを一つずつ取り外した。外側から見れば壁は無傷だがその内側は石膏漆喰の外皮だけが残っている状態となった。

1972年7月27日、ついに準備は整った。

翌28日夜に決行しようとしたが意外な落とし穴が立ちはだかった。外壁が破れず拳大の穴が開いただけだった。石膏ではなく硬いセメントだったのだ。結局この日は中止となった。

幸運にもこの時の小さな穴は誰にも見つからなかった。穴を開けやすくするための作業が続けられていた。その間にシンジー中尉は重要な情報を手に入れた。夜間バスの運行表だった。

◎決行
そしてついにその日が訪れた。

1972年8月13日、脱獄が決行された。
この日はパキスタン独立記念日の前日であり、祝賀ムードと週末が重なった事もあり、所内の警備は手薄となっていた。
さらに夜になると嵐が発生し、パルカー達の行動を隠してくれた。
チャティ中尉は残り、出来る限り脱走の発覚を遅らせる役割を引き受けた。
この時点での目的地はアフガニスタンのトールハムTorkhamとなっていた。

大幹道へ向かった一行はカイバル峠のトレッキングに向かう旅行者を装いペシャワール行きのバスに乗り込んだ。
パルカーとグレワルがパキスタン空軍の士官、シンジーはその友人という設定だった。

バスが満員になるまで出発を待たなければならなかった。うとうとしかけたシンジーの肩を車掌が叩いてウルドゥー語ではなくブロークンな英語で運賃を要求した。3人は彼らが周囲から浮いている事を自覚し動揺した。しかしもう引き返すことは出来ない。

そして彼らの逃避行はペシャワール郊外のジャムルードを経て国境からわずか8kmのランディ・コタルLandi Kotalで終わった。3人の風体や行動を不審に思った地元住民の通報によって当局に拘束されたのだ。

一行は鉄道沿いに歩いて国境を越えるつもりでいた。しかし、国境に最も近いパキスタン側の駅であるランディ・カーナLandi Khanaより先がアフガニスタンの要求によって1932年末に閉鎖されていたのを知らぬまま、そこまでの道のりを住民に聞きまわっていたのだ。
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(1932年当時のランディ・カーナ駅)

◎脱走劇の終幕
3人は地元警察の留置場に拘留された。
殺気立った群衆によるリンチやあるいはその襲撃を恐れる警察による勝手な銃殺もありえる。
パルカーは意を決してオスマン・アミンに電話をかける許可を取り付けた。電話口のアミンは驚きと不快感を露にしたがカイバル地区の行政長官(テシルダーtehsildar)に3人の身の安全を保証させると約束した。

最終的にパルカー達はラワールピンディーの捕虜収容キャンプに送還された。ワヒダディン所長は彼らに30日間の独房監禁を宣告した。
ワヒダディンはパルカーたちを残りの捕虜と共にさらに警備が厳重なライオールプル(現ファイサラーバード)の刑務所に移送する事にした。ライオールプルにはインド陸軍兵捕虜500人以上が収監されており、管理の一元化が図られたのだ。


1972年11月下旬、当時パキスタン首相だったズルフィカール・アリ・ブットZulfikar Ali Bhuttoは捕虜の本国送還を宣言した。
帰還者は、1972年12月1日にワガWahga国境で英雄として歓迎された。
パルカーらの脱走劇はすでにインド側にも知れ渡っていたのでアムリトサルAmritsarの空軍基地で10人のIAF将校が大歓迎を受けた。 彼らは夕方にデリーまで飛び、久しぶりに家族と再会したのだった。

パルカー大尉はこの脱走を指揮した事も含めた長年の功績により1983年にVishist Seva章が授与された。
250px-Vishisht_Seva_Medal



往々にして現実はこんな物なのでしょうが脱走する側もされる側もユルめなのが意外でしたw

この脱走劇は最近になって(2016年頃から?)クラウドファンディングによる映画化が進められ、今年の6月に公開されたようです。
official_trailer
(↑動画にリンクしています)

フランク・B・ロビンソンの奇妙な自叙伝

今回はおそらく当ブログの読者さん達にとってなんともカテゴライズに困るネタのはずです。
でも調べちゃったから何らかのアウトプットをしときたかったの。
ゴメンちゃい。(謝れば済むというものではない)

1950年代初頭のアメコミ界では「核戦争ジャンル」が存在しました。
Atomic War! #3
Atomic Attack #7
Atom Age Combat 1952#1 (#1)
感覚的には「コンバット!」に核兵器がプラスされた程度の気軽さでバカスカキノコ雲が立ち上る内容。(もちろん中にはきっちりカタストロフを描いた部分もあります)

で、これらのコミックを調べていた所、こういうチラシの画像を見つけました。
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あー、うん、「原爆のおかげで戦争が終わるよ!神様ありがとう!」なヤツね、と思ったのですが文言を訳してみるとどうも様子が違う。
It has brought to the human race the first scientific proof of the radio-active, atomic power of the spirit of god in U.S.-for we-too are composed of atoms.

それは人類に放射性の、原子力として顕された神の御心の最初の科学的証明を米国にもたらしました - 私たちもまた原子で構成されています。


For 20 years we have been teaching that all the power of the universe exists, not only for us, but in U.S. It is the Sprit of GOD. That most flashingly brilliant, dynamic, electrifying power this world will ever know.

20年の間、私たちは宇宙のすべての力が存在することを伝えてきました。それは私たちだけでなくアメリカにもあります。それは神の御心です。この世界で最も光り輝き美しくダイナミックかつ目の醒めるような力はこれまでなかったでしょう。


Power to achieve every good thing you need in this life.
Power to make you well, both in body and spirit.
Power to produce a super-abundance of material and spiritual wealth awaits you because the LAW GOVERNING THESE THINGS ACTUALLY EXISTS IN YOU - NOW.
We teach you how to intelligently find and use this actual and literal power of the invisible GOD.

あなたがこの人生で必要とするあらゆる良いことを成し遂げる力。
体と精神の両面であなたを健やかにする力。
非常に豊富な物質的かつ精神的な富を生み出す力はあなたを待っています。なぜなら、これらのものを支配する法則はあなたの中に実際に存在するからです。
目に見えない神のこの実際のそして文字通りの力を知的に見つけそして使う方法を私達はあなたにお教えします。

「原爆は戦争を終わらせる正統な手段」とかいった政治的主張ではなく、どこか超然とした信仰一筋なものを感じさせる文面。

このチラシ、短命に終わったキリスト教の新興宗派である「サイキアナPsychiana」の物でした。
教祖はフランク・B・ロビンソン。
Frank_B_Robinson_with_Document
非常にカリスマっぽい眼力の持ち主で、その人生も含めてキャラクター造形の格好の材料になると思いましたのでサイキアナの英語Wikiを訳してみました。



◎サイキアナ(Psychiana)

サイキアナは1928年にフランクリン・B・ロビンソン Frank Bruce Robinson(1886~1948)を創始者とする「ニュー・ソート(New Thought:19世紀の米国で始まったキリスト教の新宗派の一つ→)の流れを汲む宗派。本拠地はアイダホ州モスコーMoscow。雑誌広告やダイレクトメールで信徒を勧誘する手法を取っており、それはその後もほとんど変わっていない。

サイキアナの最初の広告は1929年、ワシントン州スポケーンSpokaneの出版社の雑誌に掲載された物だった。ロビンソン自身が書いた「私は神と対話した(実際に、そして文字通り) "I TALKED WITH GOD (yes I did, actually and literally)"」という手記がロビンソンの写真とともに巻頭に掲載された。
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ロビンソンが謳う「健康、富、幸福の確約」に関心を持ちコンタクトした人々は隔週刊のメールマガジンによる説教の購読契約を結んだ。
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ロビンソンは印刷機を購入して出版社「サイキアナ社」を起業し、スピリチュアルなテーマに関する様々な著作と共に自身の回顧録「フランク・B・ロビンソンの奇妙な自叙伝Strange Autobiography of Frank B. Robinson」を発売した。
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(モスコーのサイキアナ社屋)

◎サイキアナの教義

サイキアナの教義におけるロビンソンの考えは伝統的な形而上学を源とし、ニュー・ソートの一つに分類できる。ロビンソンはサイキアナのレッスンでは肯定 (affirmations) 、肯定的思考 (positive thinking) 、自助 、精神的な治癒などの概念を採用し、信徒の勤勉さには身体的健康と物質的繁栄が見返りとして現れると強調した。(※あの「マーフィーの法則」はこうしたニュー・ソート的考え方のパロディとして登場した)

ロビンソンは「サイキアナ」という名称が夢の中に「降りてきた」と語り、悪びれる事なく自身を預言者と称した。そしていずれは自分が世界的な革命の精神的支柱になると考えていた。その一方で組織をモスコーの本部以上に拡大する事はほとんどせず、自身が全てに厳密に対応することを好んだ。
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(印刷作業中のロビンソン(右端))

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(信者、ではなく従業員のDM封入作業風景)

◎サイキアナの活動をめぐる論争とロビンソンの生い立ち

サイキアナは大恐慌の時代に急激に信徒数を増やしたが、その「ビジネス的」な性質やロビンソンが繰り広げた伝統的なキリスト教に対する厳しい批判が多くの保守層の反感を買うことになった。

アイダホ州の連邦裁判所は、ロビンソンが不法滞在の外国人であるとする反サイキアナ派の提訴を受け、国外追放を審議し始めた。ロビンソンは自分が英国出身であることを認めたうえで、自分は父親のニューヨーク滞在期間中に生まれたので米国市民であると主張した。

ロビンソンは英国バッキンガムシャー州の生まれで、幼い頃から父親と共にカナダのオンタリオ州と合衆国を行き来する生活だった。
独り立ちしてからはカナダ騎馬警察と海軍出入りのメンテナンス業を営んでいたが、やがてアルコールに溺れるようになって廃業した。

1919年にパールという名の女性と結婚し薬剤師の職に就いた事で更正の道を歩み始めた。宗教への傾倒はこの頃に始まったとみられる。

神学院(Bible Training College)に通ったがその内容に満足できなかった。口がうまく、誇大妄想の傾向があったロビンソンは従来のキリスト教の教義に自らを当てはめる事を良しとしなかった。ポートランドに居住していた1925年頃から彼は彼が「現代の神(Now-God)」と呼ぶ内的な力を説いた新しい宗教に関する著述を始めた。

1928年には勤務していたドラッグストアチェーンの経営者に午後6時にシフトが終了するポストへの異動を承諾させた。これによってロビンソンは著述の時間を得ると同時に、後にサイキアナの発祥の地となるアイダホ州モスコーへと転勤したのだった。
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(ドラッグストア勤務時代のロビンソン(右端))

ロビンソンは不法滞在をめぐる裁判に敗訴し国外退去を命じられた。

彼は英国ではなくキューバに向かった。キューバ滞在中にアイダホ州上院議員ウィリアム・ボラがビザ取得を手配してくれた。そのためロビンソンはすぐにアイダホに戻り、1942年に米国に帰化したのだった。

◎サイキアナの評価とその後

ロビンソンは他人の富、特にそれを表すミンクのコートなどを騙し取る傾向があった。そのため信者の財産を奪うと非難された事もある。

作家のミッチ・ホロウィッツは2009年の著作「オカルト・アメリカOccult America」
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でロビンソンに一つの章を割いて記述し、総合的にはロビンソンはサイキアナの運動に対しては誠実であり、有用な教えやアドバイスを提供していると結論付けた。

さらにサイキアナは成功したもののその収入の多くが数千通のメールマガジンの作成費と郵送料に充てられ、ロビンソンの年収は2009年換算で13万ドル程度とした。

この額は全国の平均年収を上回るがホワイトカラーのそれとは比較にならず、その生活は決して豊かではなかったと見られる。

1948年にロビンソンが死去すると妻のパールと息子のアルフレッドがサイキアナの活動を継承しようとした。
しかし5年後、アルフレッドはセントルイスからの買収の提案、さらにアイダホ大学への資料提供を断ると事業を閉鎖した。アルフレッドは長老派を信仰しており父親の神学的信念を受け入れなかったためとも言われている。

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