蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

ザンビアの宇宙計画

1960年代に英国領から独立し北ローデシアから改名したザンビア。
独立後は国際連合にも参加し、主権国家として国威を内外に示す必要性に駆られていた。
経済、外交、軍事などと並んで政策として打ち出されたのが宇宙開発だった。

◎エドワード・フェスタス・ムクカ・ンコロソ
計画の指揮を執ったのがザンビア国立科学・宇宙研究・哲学アカデミーの創立者であるエドワード・フェスタス・ムクカ・ンコロソEdward Festus Mukuka Nkolosoだった。
Nkoloso
1919年生まれのンコロソは第二次大戦で北ローデシア連隊の通信部隊の軍曹を務め、戦後は小学校教師の傍ら政府の通訳となった。
その後独立運動に参加し、統一民族独立党(United National Independence Party)の治安委員に起用された。
国立科学アカデミーの設立は1960年だった。

◎宇宙計画
ンコロソは宇宙計画レースで米ソにすら先んじるつもりでいた。
彼の計画は1960年から'69年にかけてザンビアの人間を月に送り込むという物だった。
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候補はマーサ・ムワンバMatha Mwambwaという17歳の少女、そして2匹の猫だった。月への到達が成功すれば次の目標は火星とされた。

首都ルサカの郊外にある放棄された農場に仮の宇宙飛行士訓練施設が作られた。
訓練生はドラム缶に詰め込まれて未整地の丘から転がり落とされることになった。
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(↑動画にリンクしています)

ンコロソによればこれは無重力状態の感覚を掴むための物だったようだ。そしてやはり無重力状態をシミュレートするためにタイヤブランコが用いられた。
Mwambwa
(マーサ・ムワンバと思われる少女訓練生)

ンコロソによるといずれ火星へと至るこの計画の目標は「未開な」火星人へのキリスト教の布教を確立することであり、ザンビアが「星間空間の第七天国の支配者となる」事であった。しかし後に「この計画は火星にキリスト教への改宗の強要をするものではない」と語っていたとも言われている。

ザンビア初のロケットは高さ3m、直径2mの円筒形で、ザンビア初代大統領ケネス・デビッド・カウンダKenneth David Buchizya Kaundaにちなんで「D-Kalu 1」と呼ばれた。
Edward Makuka Nkoloso
D-Kalu 1
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(無論、これはロケットのペイロード部分でありエンジンなどは他にある。はずです)

ロケットは銅とアルミで出来ており、宇宙飛行にふさわしい物だとンコロソは主張した。(※ザンビアは銅が主要な輸出産品である)
予定では1964年10月24日の独立記念式典の日に会場のスタジアムから打ち上げられるはずだったが(安全上?)不適切であるため許可は下りなかったという。

またユネスコに対して700万ポンド(ザンビアポンド)の計画助成金を要求したとも、あるいは「民間の資金提供者」に19億ドルを要求したとも言われた。
この事は後に電力運輸通信省が「ザンビア政府としてはこれらの要求は行なっていない」と公式なコメントを発表したとされている。

この計画の参加者はンコロソによって造られた用語で「アフロノーツAfronauts」と呼ばれた。

◎その後
不運にも(あるいは当然の帰結として)計画は頓挫した。
ンコロソは資金の不足、マーサ・ムワンバ飛行士が妊娠によって親許に帰らざる得なくなった事、そしてメディアの注目による士気の問題で計画は失敗したと述べた。ロケットについては「妨害工作」があったと主張した。

ザンビア政府はンコロソの活動からは距離を置くようになった。
だがアフリカ発の宇宙計画は海外の関心を惹きつけ続けた。2012年、スペインの写真家クリスティーナ・デ・ミデルの自費出版による記念写真集「Afronauts」が上梓された。(※1)
2014年、短編ドキュメンタリー映画「Afronauts」(監督ヌオタマ・フランシス・ボドモ)がサンダンス映画祭で上映された。(※2)

ンコロソは科学振興を掲げてルサカ市長を務めたがその業績は成功とは言い難い物だった。その後カウンダ大統領によって独立運動記念館の館長に任命された。また政府による呪術師(witch doctors)の支援を支持している。彼は「呪術師たちはアフリカの(伝統的な?)医療技術を傷つけるキリスト教的価値観の“解毒剤”であり医師と共に活動すべきである」と主張した。しかし彼自身は呪術の習得はしなかったとも述べている。

1972年に館長職を退くと1983年にザンビア大学で法学士号を取得した。'85年に1941年-1945年大祖国戦争勝利40周年勲章(Jubilee Medal "Forty Years of Victory in the Great Patriotic War 1941–1945")がソ連から授与されている。
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また、退役軍人協会の会長を務め名誉大佐になった。

1989年3月4日にンコロソは死去し、国葬が執り行われた。

2016年、ケネス・カウンダ元大統領(当時92歳!)はインタビューに対して「(あの宇宙計画は)本物ではなかった。が、何よりも楽しい物だった」と答えている。
無題
(↑動画にリンクしています。関係者へのインタビューを含めた30分のドキュメンタリーです)
(※1)

(※2)
AFRONAUTS4Press
ボドモ監督のHPhttps://nuotamabodomo.info/

ヘリック "バータプレーン”

すっかり春めいてきたと思ったら雪見桜となったり色々不安定な気候ですね。

さて今回はオートジャイロのようでオートジャイロではない微妙な立ち位置の試作機です。



◎ヘリック "バータプレーン”Herrick Vertaplane
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1930年代に米国で開発された固定翼機と回転翼機の中間のような航空機。
開発者のジェラルド・P・ヘリックGerard P. Herrickは「コンバーチプレーンの父」と呼ばれている。
(※「コンバーチプレーン」→
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ジェラルドは大西洋横断を成功させたリンドバーグをパリで迎えた駐仏大使、マイロン・ティモシー・ヘリックの従兄弟だった。

彼は1927年にコンバーチプレーンを作るための理論構築を始めた。基本的には複葉機で、上の主翼が回転して揚力を生むというものだった。

ただしヘリックはこの回転翼機構は一種のパラシュートと考えていた。離陸・着陸の段階での緊急事態に対応する手段だったのだ。
したがって回転翼はオートジャイロと同じく動力駆動はされず、オートローテーションで機体の降下速度を減少させるための物だ。

この技術の核心は固定・回転いずれの状態にあっても揚力を生み出せる対称的なキャンバーを持つ翼の開発だった。
ジェラルドはフィラデルフィアのフランクリン研究所のアレクサンダー・クレミン、ラルフ・マクラレンの協力を得てHV-1と呼ばれるプロトタイプを設計した。

HV-1はヒース・エアクラフト社製造の低翼単葉機にマストを介して剛性の高い上部テーパー翼が取り付けられた複葉機だった。
(※ヒース・エアクラフトについてはこちらを→ ただどの機体がベースになったのかは不明です)

翼長7.32m(24ft)のこの上部翼は典型的なオートジャイロのローターブレードのようにはヒンジ可動ではなかったが、前進側と後退側との間の揚力差を補填するためにボールベアリングを使用したティルトヒンジマウントに取り付けられていた。

オートジャイロのように上部翼を回転させての短距離離陸も可能であったが回転翼モードから固定翼モードに戻すことが出来ないため、その場合は(固定翼時の)高速巡航を諦めなければならなかった。

HV-1は1931年11月6日に初飛行した。

その後固定翼モードからオートジャイロモードへの転換が試みられた。
高度1220m(4000ft)で滑空を開始し、1067m(3500ft)で上部翼のロックを解除した。翼は数回転した後突如その回転速度が低下した。そのため機のコントロールは完全に失われた。パイロットは脱出したもののパラシュートの開傘が完全でなかったため墜落死した。

後の調査ではロックが解除された時に激しい揺動によってヒンジマウントが破壊され、上部翼がプロペラに接触した事が分かった。

ヘリックはこの悲劇に臆する事なくHV-1の改良を進めた。
HV-2Aとなる新たな機体は外観こそHV-1とあまり変わらない物だったがいくつかの重要な変更が組み込まれていた。エンジンはより強力なキナーB-5(125馬力)に変更され、
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ボールベアリングのティルトヒンジマウントはゴムの揺動ストッパーを備えた。

HV-2Aは1933年9月に完成したがその時点でヘリックの資金は底を突き1936年まで飛行試験を行なう事ができなかった。

資金の目処がつき試験が再開され、新しいテストパイロットとしてジョージ・タウンスンGeorge Townsonが招かれた。
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この若く熱心なパイロットは後にケレットXO/YO-60やパイアセッキPV-2、XHRP-Xなどのヘリコプターを次々と飛ばすことになる。

1937年7月30日にタウンスンは固定翼モードからオートジャイロモードへの転換を成功させると年末までに100回以上の転換飛行を行なった。HV-2Aの新しいローターマウントの安全性が証明されたのだ。

ある飛行ではタウンスンは異常な振動を感じたため民家の庭先にオートジャイロモードで着陸した。そしていくつかの調整を行なうとオートジャイロモードのまま帰還したのだった。

HV-2Aは固定翼モードで161km/h、オートジャイロモードで105km/hで飛行できた。オートジャイロモードでの離陸距離はわずか18m、着陸速度は19km/hまで減速が可能で最初のタッチダウンから数ヤードで停止が可能だった。

しかし再びヘリックは資金を使い果たし、HV-2Aのこれ以上の開発(複座化が予定されていた)を諦めなければならなかった。
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(スミソニアンに収蔵されている複座モデル?の模型)

1943年、ヘリックは同軸反転式ヘリコプターのHV-3を計画したが実現しなかった。

1949年、ラムジェットを用いたチップジェット式コンバーチプレーンを計画したが資金が集まらず断念した。
tipjet

1958年、ヘリックの子供たちはHV-2Aをスミソニアン協会に寄贈し、協会はそれをVTOL技術の最も初期の例の1つとして受け入れたのだった。

HV-2Aは現在、メリーランド州シルバーヒルに展示されている。
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今回HV-2の名称をタイトルでは「バータプレーン」としましたが英語ソースでは「Convertoplane」だったり「Vertaplane」または「Vertoplane」だったりと妙にバラバラです。
スミソニアンは「Vertaplane」→なのでそれに合わせました・・・。

「世紀の取り引き」(" Deal of the Century " : 1983)のF-19

ウィリアム・フリードキン監督がコメディに挑戦した珍しい作品「世紀の取り引き」(" Deal of the Century " : 1983)にF-19Xという名称の戦闘機が登場するとの事で、DVDを取り寄せてみました。

《物語のあらすじ》
個人の兵器ディーラーであるエディ・マンツ(チェビー・チェイス)は中米の国サン・ミゲル共和国で反政府ゲリラ相手の商売をしていました。彼の常宿には大手兵器企業ラックアップのセールスマン、デボトがいましたが会社が売り込もうとしている無人戦闘機「ピースメーカー」の完成が遅れ6週間も足止めされている間に離婚の危機となり精神的に追い詰められていました。
結局、デボトは自殺してしまいます。が、その直後に本社からのゴー・サインが・・・。
マンツはそれを商機とみてサン・ミゲルの独裁者エルドサ大統領に「ピースメーカー」を売り込み、契約を勝ち取ってしまいます。

ところが「ピースメーカー」はお披露目の最中に暴走。米軍の採用は見送られ、そのニュースを見たエルドサも契約を破棄してしまいます。

大金をかけた計画をフイにできないラックアップ社の重役ストライカーは、一度は契約までこぎつけたマンツの手腕を見込んでエルドサとの再契約を獲ってくるように依頼するのですが・・・。
マンツの相棒であるレイ(グレゴリー・ハインズ)は「キリスト教に目覚めた。もうこの商売はやっていけない」とか言い出したり、デボトの妻を名乗る女性(シガニー・ウィーバー)が言い寄ってきたりと怪しい雲行きに・・・。
ま、簡単に言うと「失敗作ED-209のセールスに困ったオムニ社の売り込み奮闘記」みたいなもんですね(笑)

とりあえず今回の本題。
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兵器ショー「ARMS for PEACE '84」に展示されるF-19X。
「F-19」と銘打ってはいますが特にステルス性能がある訳ではありません。

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コックピット後方にエアブレーキ。多分F-84Fのを少しカットして使ってます。

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ノーズギアは何の流用だろう?(ダブルタイヤです)

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機首はシャークノーズというかシャクレ気味。
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タキシングの様子はハリボテ的な「ヤワさ」を感じさせません。かなりしっかり作られてるみたいです。

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コックピット内部はなかなか全体を見渡せるカットがありません。
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グラスコックピット化が進んでいるのは流石です。

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ノズル周り。推力偏向なんでしょうか?

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GUNはこんなのです。よくあるなんちゃってガトリング。

この映画の陰の主役といえる無人機「ピースメーカー」は元デザインがシド・ミードですが登場するモデルはほぼ別物です。「未知との遭遇」のモデルメーカーだったグレッグ・ジーンが勝手に変更してしまった(笑)との事です。
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兵器産業の話だからという訳でもないでしょうが、「アイアンマン」そっくりなシーンが出てきてちょっと驚きます。

しかしコメディ映画でよくあるラストの「登場人物たちのその後」というのはいつ始まった伝統なんでしょうねw

ヒラーの「モンスター・チョッパー」計画

1942年、スタンリー・ヒラーが弱冠17歳の時に創立したヘリコプターメーカーがヒラー社のスタートラインでした。
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以来1980年代にフェアチャイルドに合併・吸収されるまで独創的な同軸反転ローター機やチップジェット、ティルトウィング、フライングプラットフォームなどを開発し続けました。 
企業としては消滅しましたが同社の博物館は本社の所在地だったカリフォルニア州パロアルト近郊に現在もあります。→

ヒラーは小規模なメーカーでしたがそれ故開発のフットワークが軽かったらしく、公式の航空史には出てこない機体がこの博物館にはあるようです。
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J-10というNOTAR機がその代表格でしょう。試作機と当時の写真は残っているのに解説がほぼ見当たりません。
そして検索の最中にさらにとんでもない計画機とその模型が同博物館にある事が分かりました。時は1965年、アポロ計画関連です。 解説しているページ→があったので訳してみました。



●「モンスター・チョッパー」

数年前、 Aviation Weekは航空宇宙産業の歴史家たちが思わず身震いするような小冊子を発行した。
それは長年にわたる米国の防衛産業の統廃合を示す2ページのフローチャートだった(ああ、知ってるとも。私たち航空宇宙史家はオタク(geek)だよ)。

1980年代を表す表の左側には何十もの会社があり、それら全てが航空宇宙関係ではないものの防衛産業の主要なプレーヤーたちだった。

ヒューズ、フェアチャイルド、フォード・エアロスペース、ライアン、ヴォート…。それら数十社の企業は1980年代に徐々に合併を始め、その後1990年代までにさらに統廃合が進み2001年に残っていたのはわずか5社だった。ゼネラルダイナミクス、ボーイング、レイセオン、ロッキード・マーチンそしてノースロップ・グラマンだ(この傾向をさらに10年先まで敷衍すると、これら5つの企業はついに1つのスーパー企業に統合されるだろう。スカイネット...もしくは「神」の誕生だ。いずれにしても良い事ではない)。

このフローチャートとその非常に多くの企業の統廃合の歴史を表す簡潔なグラフィカル表現については多くの興味をそそられる。
しかし、この表には顧みられない側面がある。それは多くの企業の合併‐あるいは潰し合い‐が1980年代に集中して起こっているという事だ。

かつてアメリカの航空宇宙産業が膨大な数の航空機製造業者で構成されていた時代があったがそれらは時と共に忘れ去られ、今日では彼らが製造した航空機の写真が興味本位な書籍に載っているに過ぎなくなっている。

カリフォルニア州パロアルトに拠点を置いていたヘリコプター製造企業であったヒラー・エアクラフト社もそんな企業の一つだ。

ヒラーは前世紀中盤に隆盛を誇ったがハワード・ヒューズによるいかがわしい(そしておそらくは違法な)工作の結果陸軍との契約に失敗した。ヒューズ社のOH-6Aカイユース(または「ローチ」の名が有名か)はベトナム戦争で陸軍の標準的な軽観測ヘリとなり、ヒューズは陸軍との取引きで多額の損失を出したもののOH-6の子孫たちは大成功した機種となった。

対してヒラーの提案であったOH-5A(FH-100)は契約を得られず商業用ヘリとしても成功することはなかった。
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やがてヒラーはフェアチャイルドに吸収合併され会社としては消滅した。今日ではその製品はほぼ飛んではおらず、同社の主だった遺産はパロアルトの国道101号線(ベイショア・フリーウェイ)沿いにある小さな、しかし歴史的意義の大きい博物館に収められている。

だがヒラー社のさらに大胆な提案は1965年に行なわれていた。
ローターの直径がフットボール競技場の長さよりも大きい巨大なヘリコプターだ。それはサターン5の第1段目を輸送するだけでなく、切り離されパラシュートで降下してくるそれを空中でキャッチする事が可能だった。
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非常識すれすれどころか非常識そのもののようなアイディアだが当時、つまり1960年代半ばというのはNASAが国家予算の5%を獲得していた絶頂期でありこれは現在の10倍以上の数字だ。NASAはあらゆる研究(原子力ロケット、イオンエンジンから100人を収容可能な宇宙ステーションまで)を主導していた。宇宙分野において合衆国は完全にソ連に水をあけていたのだ。出来ない事などなかった。

だから大きな契約実績のない、そして6人乗り以上の大型ヘリを作った事もない小さなヘリコプターメーカーという肩書きが何だと言うのだろう?

もちろん結果から言えばヒラーはこの巨大ヘリを作らなかった。研究費も得られなかった。たとえこれほど気違いじみた提案でなかったにしても実現はしなかったであろう。NASAの予算額はピークを迎え、そして下がり始める時期にあった。一方でケープ・カナベラルの建設予算が計上され、もう一方でリンドン・ジョンソンは「他の事」(※ベトナム戦争)で金を必要としていた。財務省がNASAの予算に多くの「脂肪」がある事を認識しだしたのだ。

ヒラーのこの提案で残されたのは今も同社の博物館にある模型とNASAに提出された迷惑な提案書だけである。

だが。
この小さなヘリ製造会社がどんな大きな想像力を示したのか興味深くはある。

ヒラーはこのアイディアを少なくとも提案書のタイトルには「ヘリコプター」とは記さなかった。ブースター回収のためのロータリーウィングシステムと呼んでいたのだ。
提案書には「サターン5の第1段目の回収には様々な方法があるが全てが複雑さ、取扱いの難しさ、着地の衝撃による損傷、海洋汚染などの欠点がある」と述べられていた。

ヒラーのヘリコプターは「ブースターの軌道要素中で回収する」とある。つまり「空中で」という事だ。また、ブースターのパーツのクレーンもしくは空輸手段として使用される。
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それはまさに怪物となるはずだった。
ローターの直径は120m以上、空虚重量200t、最大積載量は250tで総重量は453tだった。
提案書によればこの巨大ヘリはロケット発射場かもしくは適切な設備のある飛行場からブースターの再突入空域に向けて発進する。発進時は内部、および外部燃料タンク(どれほど大型の増槽であろうことか!)を装備できる。

計画ではヘリコプターは再突入空域で最大6時間、高度4500〜6000m(15000〜20000ft)で滞空するとされていた。ブースターを視認すると高度3000mでの接触に向かう。

サターン第1段目(S-1C)はパラシュートによって降下速度よりも前進速度が速い進入経路を辿ってくる。ヘリコプターはその進入経路に沿って後ろから上に向かって接近し、ブースターと軌道を一致させるように下降する。

ヘリコプターの重心からぶら下がっている引っ掛けフックでピックアップシュートを捉えると徐々にブースターの重量(※乾燥重量で約140t)を引き受ける。ブースターが完全にヘリに吊下された状態になるとパラシュートはしぼみヘリの215m下にブースターが位置することになる。
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その後ヘリコプターはブースターを引き揚げ、水平に回転させてヘリコプターの真下に抱え込むと打ち上げエリアかまたは陸上の他の目的地に向けて帰投するのだ。
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もちろん、S-1Cステージは打ち上げ地点から650km(350nm)以上離れた地点に落下する。世界最大のロケットブースターを抱えたこれまた世界最大のヘリコプターがこの距離を往復帰投する事の実現可能性は如何ほどだったことか。たとえば風の影響はどうなるのか?

そしてヒラーの提案では言及されていなかったが、回収地点近くの船から運用された方がはるかに効率的だったはずだ。もちろん使用される船は空母にしろ平台船にしろかなり大型でなければならない。もっともこのコンセプトでは小型にしようがないのだが。

思い出して頂きたいのはヒラーがこれを「ヘリコプター」とは呼んでいなかった事である。ヒラーが長年取組み陸軍への売り込みに失敗したコンセプト、チップジェット・ローター・システムなのだ。

これは3枚のローターブレードの先端に1基か2基のジェットエンジンを搭載した物であり、最大6基のエンジンの他にテイルローター用の7番目のエンジンが後部胴体に搭載される。ローターはヘリコプターのように非常に速く回転する必要はなく、1秒に1回転程度である。

しかしそれでも、前進するローター先端が音速に近づくことになる。大きいだけでなくかなり騒々しい物になったはずだ。

NASAがこのアイディアにどのような反応を示したのかは分からない。開発資金を出さなかったのが答えとも言える。

おそらくは自嘲的に笑い飛ばした後に仕事に戻ったに違いない。やはり実現しようのないほど馬鹿げた宇宙計画の研究に、だ。

「ビッグホイール・タンク」たち(米国編)

さて、最後は米国です。

1915年頃は直接戦争に参加していなかった米国ですが、欧州で開発されつつある新兵器にはまず車両メーカーが関心を示しました。工業国として目覚しい発展を遂げていた米国では戦争以前からそれとは関係なく様々な走行装置が試されていたのです。

その中で履帯式戦車の原型となったのは米国ホルト社製の装軌式トラクターでしたが実は当のホルトが計画していた戦車はビッグホイール式でした。これは想定していた戦場がニューメキシコの砂漠地帯だったためと考えられます。

◎150トン「陸上砲艦Field Monitor」(1915年)
150トン「陸上砲艦Field Monitor」は成長著しい米国産業界の力と共和党の第一次大戦参戦への期待が生み出した物だった。
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当初の計画では1916年には建造されると予想されていた。また使用目的も南部国境地帯の広大な平原や砂漠で越境を繰り返すメキシコ民兵への対抗策だった。
(※革命勢力である護憲派内で対立していたカランサ派を米国が政府承認したため、これに反発したビリャ=サパタ派がニューメキシコ州をゲリラ攻撃していた)

しかしパンチョ・ビリャ討伐軍にも参加していたジョン“ブラック・ジャック”・パーシング将軍はこのアイディアを否定した。彼は馬にこだわり支援的な目的以外での自走車両を認めていなかったのだ。

米国ではあらゆる種類の装軌車両がテストされていたものの、いわゆる「ビッグホイール」方式に対してまだ楽観的な見方がされていた。

「陸上砲艦」は前後2対の巨大な車輪(直径20ft=約6m)を2基の蒸気エンジン(スチーム・ホイールタンク用にドーブル・エンジニアリング社の協力で開発した物)で駆動する。

各車輪は個別にギアボックスを持っており、それは車体のトランスミッションに接続されていた。
武装は2門の6インチ海軍砲で車体の前面に並列に配置されていた。(6インチ砲は当時の米海軍艦艇副砲として一般的だった)
副武装はコルトM1895重機関銃が予定されていた。車体上に2つある砲塔にそれぞれ2挺ずつ、その他に6挺の計10挺が搭載される。

5インチ砲、6インチ砲は沿岸砲台用の予備砲身が多数あり、弾薬も備蓄があった。そこで車載用マウントに適合された92本の6インチ砲身と28本の5インチ砲身が海軍から貸し出される事になった。

だが前述の通り陸軍の関心は薄かった。やがて準備段階から進まぬうちに第一次大戦は休戦となり、「陸上砲艦」用に用意されていた6インチ砲、5インチ砲の砲身は海外に売却された。

◎スチーム・ホイールタンク(1916年)
1915年、ホルト社は150t「陸上砲艦Field Monitor」を提案したが陸軍の関心は薄かった。1916年に軍は検討の後「陸上砲艦」計画への援助を打ち切った。

ホルトの開発者たちは基本的な特性を見直し、より小型の車両の開発を自主的に続ける事にした。すでにヨーロッパでは同種の装甲車両が実現されつつあることに重大な関心を寄せていたからである。
改良のためのアイディアはこれら先駆者のものを拝借した。「Steam Wheel Tank」の「Tank」の名称も英国からの拝借だった。

開発は1916年後半から1917年初頭に始まったと見られる。
基本的に「陸上砲艦」のアイディアの流用ではあったがその全長は3分の1になった。車輪の配置は車体前部に一対の直径8ft、幅3ftの駆動輪を、車体後部に直径4ftの方向転換用のローラー(圧延鋼製)を持つ3輪式に改められた。
エンジンはケロシンを燃料とするボイラーと75馬力のドーブルDoble蒸気エンジンが2基ずつ搭載された。
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大きさと重量の減少で「陸上砲艦」に搭載予定だった6インチ砲は積めなくなったため主武装はより小口径の物に変更された。
75mmヴィッカース山砲(QF 2.95-inch mountain gun?)1門が車体前面に、もしくはQF6ポンド砲(口径57mm)2門が車体両側のスポンソンに搭載される予定だった。副武装はブローニング.30口径重機関銃2挺。装甲は6~15mmだった。
QF2.95inchMountainGun
QF 2.95-inch mountain gun

試作車は1918年2月に完成した。
3月から5月にかけてアバディーン試験場で評価試験が行なわれたがその性能はあまり思わしい物ではなく、計画は破棄された。

◎Fredrick Wagner Armored war-tank(1918年)
1918年に特許申請されたビッグホイールタンク。→
US1292170-0
US1292170-2
車輪の他に補助的な履帯式の走行装置も備えた複合的な車両。
何気にこうしたアイディアとしてはかなり早い時期に登場している。

◎Anton J Jehlik Armored Vehicle(1916年)
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側面図では「あーはいはい、ビッグホイールね」な形をしてますが
US1195680-0
平面図では「ロードローラーだ!!!」
敵陣を踏み潰しておいてさらに後方の砲で残敵を掃討するというこの時代に多い無慈悲な仕様。→

◎F. X. Lauterbur Tractor(1919年)
モノホイールタイプのアイディア→
US1313095-0

US1313095-1
このアイディアの変わった所は複数の車両を横一列に連結できるという事!!
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夢の「幅1kmを一気に更地にする」無敵車両が実現したかも!?

ところで発明者さんのミドルネームが「X」って珍しいなと思ったのですがAlexander:アレキサンダーのニックネームであるXander (ザンダー)、Xandy (ザンディ)、そしてXavier (ザヴィアー=ザビエルの英語読み)、Xenon (ゼノン)などがあるそうです。


あとビッグホイールの仲間っぽいものにポーランドのArmored Kresowiec(1919年)とかがあったのですが。
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サイズ的には当時よくあったスタイルのトラクターの装甲化な気がします。
(それ言っちゃうと身も蓋もない・・・)
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