蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

「親に昔の事を訊いてみよう」⑤生活

●物価

――その基本的な…感じられる値段としてラーメン一杯いくらとかおそば一杯いくらとか
父:昔、ラーメン30円
母:そんなじゃなかったよー
父:50円?
――それが昭和30年代?
父:そう、30年代
――50円!
父:それが80円になってさ。150円になって
――今、ラーメンは500円出しても食べられる所は限られる(笑)

母:でも…結婚して逗子にいた頃、キャベツが120円だったからね
――あれ?今とそんなに変わんないじゃん
母:そー。その120円がさ。お父さんがお給料もらってくるでしょ?(その)半分が家賃だったの。だからその120円のキャベツが買えなかったの
――えっ…
母:高くて。それは憶えてる
――ああ、(一ヶ月の食費として)積み重なってくとね

母:7000円くらいだっけ?
父:何が?
母:家賃。7000円か6000円?1ヵ月。 とにかく(給料の)半分が家賃だったね
――初任給が1万いくら…
父:初任給が1万2千円。そんで大卒が1万8千円
――初任給が10万円超えたって驚いたそれは何年ぐらい?
父:何年後に?
――うん何年後かに
父:うんだって物価も上がってるからそんなもんだろうなって思うぐらいだよ
(※公務員の大卒初任給が10万円を超えたのは1980年代に入ってからだそうです)
――はは(笑)
母:キャベツは高かったよね(笑)今でも憶えてる。悲しかったもん(笑)
(※話を聞いてると両親が結婚時に住んでいたのは6畳1K風呂なし物件(しかも立地は東逗子)の筈ですが家賃の高さはちょっと意外に感じます。当時は住宅難が進行していたためかもしれません。また、キャベツの件は野菜特有の突発的な高騰もあるかもしれませんが、物価と給与のいたちごっこが進行していたことも窺えます。1950~1970年代の物価の目安はこちら→

●電話

――えーと、次は電話の普及率
父:電話、社宅になかった
母:社宅の時はねー、一番端の人がさ1台入ってて。呼びにくるの
――へぇー
母:それでね、それーって降りてって(笑)あれ大変だったね。一家に1台はだめだったんだよ
父:昭和46、7年だよ
(※父が勤めていた○○電気が生産拠点を静岡県湖西市に移したためこのあたりで転勤、社宅住まいとなった)

母:それでこの家建ててから(電話を)入れたんだよね
――逗子時代は?
母:逗子の時?無かったよね?あった?
父:ない
――電話でするような用事もなかった?
母:なければないでね(笑)
――まぁそれはたしかに
母:あったのがなくなると不便だけど元から無いんだから

――じゃそうすると一家に1台ってのが実現し始めたのは…
母:だって電話なんてさ、えーと…会社に入る頃(昭和37年?)だよね普及したの。それで外から…公衆電話からかけるのだってさ…どうやってかけんだ?って(笑)分かんなくて(笑)
――(笑)
母:番号なんて会社しかないもんね。あと個人の家に入ってないんだからさ。…あ。でも入ってたかな?

母:会社でデスクに電話があるでしょ?で、一緒に入った女の子が…自分の家からかかってきたんだったかな…。「もしもしぃ」って。…仕事してんだよ周りは。それなのにね「あ、お姉ちゃんだよー。ご飯食べたー?お母さんそばにいるー?お姉ちゃんね今仕事してんだよー」っていってさ(笑)皆で笑っちゃってね。「カワイイねー」って。電話っていうのに出慣れない?
父:そー(笑)
母:その子がさ。○×電気?(父に)あるでしょ?電車で見える。その社長の息子の所にお嫁に行ったの
父:へぇー
母:すごい素直ないい子だっていってね(笑)
父:何が幸いするか分かんないね
――そうか。電話のマナーってのもまだ全然なかったんだね
母:「ちょっと声が違うねー」とかさ(笑)皆で笑ったね、あの時は
――じゃ新人教育として電話の応対とかも…
父:新人?(自分が)新人の頃?
母:あの頃は会社に電話交換手がいて…こう差し込んで職場に繋げたの
父:新人の頃って何してたかねー
母:(笑)
――じゃ電話対応の教育みたいなのはなかった
母:ないねー
父:なかったね。だって特別さ、お客さんからぱっと(直接)職場にかかってこなかった
――じゃ交換手さんってのはそのあたりを(教育されてた)?
母:それは多分教育があったと思うよ

――電話の普及率ってのは意外な話だったね。そんなに遅れてたんだ
母:そう、遅れてたね。家建てて電話入れたのが(このあたりでも)早かったと思うんだけどその後の普及は早かった
――じゃあ、昭和47とか48とかそのあたりを境に…(普及率が急速に上がった)
(※電話普及率の推移についてはこちら→

●電気・家電

――じゃあ…もう一つ聞きたいのは…停電ってあった?
母:停電?
父:停電はめったにないよ。事故以外は
――『サザエさん』にも停電ネタって何回か出てくるんだけど…
父:電力事情でってのはないね。田舎だもん。都会はあった
――都会はあった?
父:家の方は田舎だからそんなに電力使う人がいない
――逗子の方が?
父:逗子の方は…なかったなー
――そっか…

父:電熱器なんかたくさん使ってたんだよね、昔
――煮炊きに…
父:そうするとブレーカーが落ちるじゃんね。…ヒューズかあの頃は。ブレーカーじゃなくて
(※プロパンガスの普及が昭和30年代との事→なので、炊事における電熱器使用の割合はまだまだ高かったと思われます)

――家電なんだけども…。最初に白物家電で入ってきたって物は
父:(母に)ねえ、うち洗濯機と冷蔵庫どっちを先に買ったかねぇ?
母:え~…
父:憶えてないね
母:うん
父:洗濯機だって2槽式からだもんね
母:(俺に)2槽は憶えてるでしょ?
――憶えてる、憶えてる。…そいやローラー(手絞り)が付いたやつ○○(母の実家)で見た事がある
1948
母:それはもっと前…
――うん、もう使われてなかったけど見た憶えがある
母:○○のおばあちゃん、すごい興味があるもんでね。冷蔵庫だって氷の入る冷蔵庫買ってさ(笑)まだよその家に冷蔵庫がないときに。氷毎日届けてもらってね
(※いわゆる「氷冷蔵庫」は昭和30年代も現役)
icebox

父:ガスコンロじゃなくて石油コンロだったりな
――石油コンロ!
toyotomi_S25
(石油ストーブで有名なトヨトミの石油コンロ。価格.comにこんな記事ページがあるとは知らなかった…→

母:石油コンロは知らないな~
父:俺は使ってたもん
――何かその辺は過渡期の物が一杯ありそうだよね。ガスが普及するのはもっと後だったでしょ?
母:そうだね~
――大抵はやっぱかまど?
母:そうだったね。最初はね。かまどだから木を拾いに行ってたの
父:杉の枝を
――(薪を)売ってる所があったりするわけじゃない?
父:買ったことないもんね?
母:買ったことないよね。山に取りに行ってた
――年中?
父:けっこう行ってたよね。2週間に1回とかさ
――冬に集めて貯めとくとかじゃなく?
父:そんな事はなかったね
母:貯めるってことはなかったね

母:結構遠くまで行ったけどね。歩く楽しみがあったから。遊びながらとかさ。冬なんか陽だまりの所で1日中遊んで拾って帰ってくるとかさ
――紐とか風呂敷とか持ってったの?
母:背負子っていうのがあって
――背負子に!
父:僕なんか背負子なんか使った事ないよ。紐で
母:○○ちゃん(母の末の妹)背負ってた(笑)木じゃなくて(笑)行きはいいけど帰りは眠っちゃうから

――冷蔵庫のない時代ってのは基本、その日その日消費できる物を買ってくる?
母:そうだね
――買い溜めなんてしなかった?
母:たぶん…だけどどうしてたんだろうねー(笑)
父:案外、忘れちゃうね(笑)


という訳で5回のお付き合いありがとうございました。

子の立場からすると親という存在をつい記号的に捉えがちですけど親もやはり人の子で、話を聞いてみれば自分と同じく様々な感情や記憶を経てきているのだと実感できます。

歴史も「大文字」な存在だと味気ないものですが、個人の記憶や感情の「味」を含むことによってとても興味深い物になるのでしょう。

…だけど。
最後のところで思い知らされたのは「ルーティンなものは意外と忘れちゃう」という事でした(笑)
人間は忘れる生物でもあります。(ドヤ顔)

「親に昔の事を訊いてみよう」④就職・社会人生活

●就職・社会人生活

――(母に)えーと、たしかヘリコプターのパイロットを一時目指したという事を…
母:横須賀ね。聞きに行った(笑)
――で、説得されて帰ってきたんでしょ?
母:女は駄目って(笑)
――それは高校卒業の時?
母:えー?いつだったろう。うん多分ね。それくらいだろうね
――職業を選び始めた頃にそれ…
母:そういうのでもないの。空飛びたかっただけ(笑)
――なんじゃそりゃ(笑)

――とりあえず、昔、お父さんから『流行りだったから企業に就職した』っていう話を…
父:なんにも流行りじゃないよ
――いや、聞いた
父:何の流行り?
――『当時の流行りだから企業に就職したけどもよくよく考えたら職人の方がよかった』って(退職後に)ポロッとこぼした事あったよ?
父:うーんそうかな?
母:職人ね。だからもっと知ってれば良かったもんね

母:お母さんはさ、おじいちゃんに…何だっけ、デザインを自分で描いてたの。そしたらおじいちゃんがそれを見て京友禅?とかねそういう仕事をしたら?っておじいちゃんが言ってくれたの
母:だけどさ、そこまで考えてなかったね。後々になってそういうのを探してみれば良かったと思うんだけど。その時には頭にそういう仕事がね、どういう物かって知らなかったからね
父:テレビも無いしな。昔な
母:そうね。情報も無い?先生に聞いてもさ、そういうの(の求人や職業)が有るのか無いのか先生も知らないじゃんね。『もっと真面目な考えを持て』とか言われて(笑)
――僕が高校の頃はそういうの知ろうとしても先生としては進学率の方が大事だからさ『大学に行ってから考えればいいよ』って言われる。大学も今度はやっぱり就職率の方をやってるから全然こう…(笑)まぁ(歳が)それぐらいになったら自分で考えろって話だけど
母:良い先生に出会うとね、その子の得手不得手?そういうのをよく見ててくれてさ

――で、改めてお父さんなんだけど。流行りって言うぐらいに企業就職っていうのは急速に伸びたの?
父:だってさ…高度成長時代だもん
――いわゆる『金の卵』ってやつ?
父:中学生は『金の卵」、高校生は『銀の卵』
――銀の卵…
父:言わねえよ(笑)そんな事は
――言わねえのか(笑)

――でも工業高校という選択をしたのはそれは好きだから…

父:それはやっぱりそうだよね。昔から電気の事が好きでさ。叔父さんの引導もあったんだろうし
――でも求人としてはそういう方向が…
父:そうそう、電気通信だからね。電気通信科だから
父:変わった所では味の素とかさ川崎水道局とか勤めたやつもいるよ。特別電気のことが好きじゃなくて飯食えればいいやってぐらいのね。でも後で考えたら味の素とか○○電気よりよっぽど良かったってな
――(笑)
父:就職する頃は「バカだなあいつらは。そんな勉強した事が役に立たないような所に行って」って思ったけど。企業行って実際に仕事し出せばさ、たいして(関係)ないんだよな

――そういう…何だろ?そう求人が急に増えたって事はそれ以前だと就職浪人ってのは
父:聞いた事なかったなー
母:聞いた事ないね
――じゃもうポンポンポンポン
父:そう、復興期だからなー
母:全員就職できたよね
父:中学だってね、すごい優秀なやつが就職したりしてたからね
母:でも(中卒就職は)そんなにいなかったね
――じゃ、(大学)進学率はそれほど上がってなかった?
母:ほとんど高校までは行ったね。(中学の)クラスでさ3人か4人が就職するくらい?
――高校が普通だった じゃ大学に行くのは珍しかった…
母:そんなに多くなかったね、クラスで4、5人?


●通勤

――もう一つ知りたいのはですね、通勤を始めた時にラッシュが始まったっていう実感みたいなのは…。もう既に始まってた?
母:すごかったよね
父:始まった、じゃないよな。もう。始めからだよね
505f48

母:何だろうね、あの人の多さは…
父:やっぱりね(列車の)本数がね、本数がないとかさ。車両がねえとかさ。それなのに京浜地方に勤めるやつとかさ通学するやつが多くなっちゃってさ…
母:だってさ、冬なんてオーバー着るでしょ?ボタンがよく…
父:ちぎれた?
母:ちぎれてね。だから何回もボタン買って来てはさ。で、バックは抱えてないとどっか行っちゃうし。もう怖かった。降りられなかったらどうしようって…
――それは昭和30年代にはすでにすごい状態だったと?
母:すごかったよ…。だって活気があったもんねえ
父:昭和34年?(会社に)入ったのは?だって37年だよなあ?昭和37年に就職したんだと思うんだよ
(※37年で正解のはず)
――お父さんは○○電気でしょ?始めから
父:始めからね。そういう○○電気とか電気通信・測定器の会社が好きだったから

●入社試験

――入社試験ってどうだった?
父:入社試験?
――筆記があって、面接があって…
父:そうそう
――それは変わんなかった
父:そう、会社でやったよ。東京のね、蒲田の本社でね
――なんか今みたいな、こう、すごく見極められるみたいなものではなかった?
父:そうでもないなー。やっぱり学校の成績とそれから会社での筆記試験と。それと面接だよね。総合評価だよね
――その面接の部分で、例えば今はグループ面接やってディスカッション能力だとか…
父:そんなのはないよ
――入社動機みたいな(基本的な)のとか
父:だよ。でも複数で受けた事はないよ。一人で、単品で受けた
――それは古きよきっていうか伝統的な試験だった…
父:そうだねー

――割と…自信はあった方?
父:うん?自信? 自信あんまりなかったけどね。なかったけれども落ちても他へ行けばいいやと思って(笑)
――(笑)
父:その前にビクターへ行ったんだ
――ビクターへ?
父:ビクターへ行って受かってたんだ。だけれどもビクターってのはさ、単なる生産工場じゃん
――ほー
父:そりゃ開発とかいろんな事もあるよ。だけれども○○電気の方が内容的に魅力だったね。電子機器、測定器だからね

父:それで学校にもそういう測定器とかあったじゃん?○○電気の測定器が。だからこういう会社だっての分かるじゃん
――あらかじめ馴染みがあった
父:ブリッジだとかねえ。測定器類があったから

●人気の職業

――当時は例えばスポーツ選手とか…漫画家なんかもそろそろ稼げる職業として出てきたと思うんだけども…。そういう変わった道に進んだ人とかいる?
父:…高校の時のやつなら…小説家になったやつがいるけどね
――へぇ
母:誰?
父:ヤマダツトム君。だけどペンネーム知らないけども
――それは賞とかに応募して…
父:いやその過程はぜんぜん知らない。何十年か経ってさ、「おい、あいつ小説書いて食ってんだって」って聞いただけ(笑)


――じゃ、特定の職業が人気だったとか…例えばバブルの頃に一躍飛び出してきたのはコピーライターとかあったけど
母:糸井重里
――新しく出てきて…多分すみ子おばあちゃんの頃は電話交換手だったと思うんだけど
父:うーん。そだね。憧れの職業だったかもしれない。(母に)何かあった?そういうの
母:よく分かんないけど…バスガイドになった子がいたね
――へえ~
母:女の子の憧れ?一つのね
――歌にもあったくらいだし?
母:うん、そうそう
――いや…歌にあったのは車掌さんの方か?
母:うん、そうじゃなくてバスガイド
父:歌詞の中では「バスガール」っていうけどね
母:あれはもっと古い時代だからね
父:そんな事ないよ。コロムビア・ローズの『東京のバスガール』(1957年)なんてある
8da218
――ああ、…はとバス観光みたいなの当時からあったの?
母:そうそう(※はとバス観光は昭和24年から)

●母の履歴書

母:お父さんはずっと○○電気だったじゃん。私はあちこち
父:うん、あちこち
母:最初に勤めたのが小さい会社だったの。それでね、共産党が強かったの、あの頃
――うーん
母:それで小さい会社を潰すのね。どういう訳か知らないけど
――どういう事?
母:よく分かんないんだけどね。それでね同じ職場に共産党員が二人いたの。女の子が。知らないそんな(どこの政党支持かなんて)の
――うーん
母:どうも話が変だったのね。でも仲良しだったの。すごい素直な子だから。そしたら会社からね探偵が付けられてさ、お母さんに
――おぅ…
母:それで一週間?共産党の集会に行くんじゃないかって尾けられてね。で、行った事なかったわけ、結局ね。でも家に帰るまでが全て記録されたの。で、怒って辞めたの
母:それを後から…一ヶ月くらい経ってから場長から「何でもなかったからね、実はね…」って聞かされて。びっくりして辞めたの。直に聞けばいいのにね「共産党員ですか?」って(笑)

母:で辞めてね。再就職しなきゃいけないじゃん?で、印刷会社に試験受けに行ったの。二つ、印刷会社と東京の…今で言う英語の塾みたいなのあるじゃん。そのテープ作る…ほんと(その業種の)はしりの会社の試験受けたの

母:で、先に印刷会社(の採用通知)が来ちゃったの。(印刷会社の)社長さんが女の人だったの。逗子の人で。「家に遊びにいらっしゃい」って言われて遊びに行ったらその人もお琴やっててすごい意気投合しちゃって

母:会社行ったら最初は校正の仕事やらされたの。しばらくしたら経理も任せられる人だって思ったらしいの、その社長さんが。で経理課に異動になっちゃったの。経理やってたらそしたら東京からね、採用通知が来たの
――ははぁ(笑)
母:それでその社長さんにさ「実はこういう訳で…」って。お給料倍だったし東京が。「どうしたもんでしょうか?」って相談したらね、「それはあなたのために東京に行った方がいいですよ」って言うの。で東京に行ったんだけど
――うん

母:テレコ作る?6畳ぐらいの広さにさ機械が入ってて…。マザーテープを作るのね。マザーテープを作るのには東京の色んな小さな録音する所が点在して…今でもあるでしょ?
――あるある
母:そこに行って外国の人を呼んで…本(教科書)作るのはそういう係の人がいてね。で、英語とか50…すごい言葉があんのね、色んな言葉が
――(笑)
母:世界中で。50いくつあった気がするよ。それで本になって印刷されたのを向こう(録音スタジオ)で読んでもらうの。(それを今度は)ヘッドホンしてさ、日本人の耳で一番聞きよい、っていうか理解しやすい(テイクの入った)テープを切り貼りするの。それでそこにピアノの音楽をさ、10回ぐらい弾いてもらって、その音楽をバックに入れてそれも切り貼りして、一本の(マザー)テープを作るわけ
母:それをね、今度は大きな会社に持っていって一本のテープから90本出来る。ガーッって回って
――コピー機(デュプリケーター)ね
母:そう。そこへ持っていって印刷してもらうとラボチューター、ラボって機械があったの。それを女の人が生徒に聞かせてさ。それをやる仕事だったのね

母:で、その機械が壊れるとお母さんが直したの(笑)ドライバー持って「何でこんなのが分かんないの」とか言って(笑)そういう仕事を2年やってたの
――なんだ。機械はいじれるんじゃない(笑)(※母は機械オンチ)
母:そうだねー(笑)それで関連の会社の人がどう作るのか聞きにくるから教えてやったりしてた。アルバイトの大学生にも教えたり

――テープって話が出たけどそれはオープンリール?
母:えっと…
――丸いのに入っててテープ引き出して
母:ううん、普通のテープ、このくらいの(テープ幅と勘違いしたのか指先で示す)
――カセットテープじゃない?
母:カセット…。なんて言ったら良いんだろ?
――カラオケの(8トラックとかの)みたいな?
母:普通のさ、うちなんかで使うテープ
(※フィリップス社がいわゆるコンパクトカセットの規格を出したのが1962年=昭和37年であり当初は会話録音用だったので普通にカセットテープだったと思われます)
first_ Philips_cassettes_Type EL1903_1963
(フィリップス社の初のコンパクトカセットテープEL1903。実際にはNorelcoブランドで発売されました)
86866a

母:その会社、外資系だったの。だからNHKの英語の時間とかテレビでやるでしょ?そういう人たちが集まって本を作ってたの。だから相当お給料よかったと思うよ。男も女もないの
――たしかに
母:それで初めて外資系の会社だったから出来栄えで給料くれるの。それで朝8時から5時までいなきゃいけないっていうんじゃなくて。仕事が終われば後は自由。そのかわり終わらないと徹夜でもやらされんの
――それほんとに外資だね
母:外資なの。で、お給料はいいんだけどボーナスは少ないっていう(笑)
――そういう給与体系みたいなもの…
母:だって銀行振り込みだったもんね。まだ日本のお給料が封筒に入ってたのに。すごい進んでた
――おおー。(父に)「立つ給料袋」って経験した事がある?
父:無いよー。だってその頃には振り込みになっちゃってたんだもん
――じゃそういう(立つ給料袋)のは(振込みシステムを)導入できない企業のしかも景気のいい所の…
父:そうだね。物価も上がっていったから
(※実際は100円札が最高額紙幣だった時代に給料が万越えしたから「立つ給料袋」があったとも。1万円札が発行される(1958年=昭和33年)ようになると給料袋は一気に薄くなったらしい)

「親に昔の事を訊いてみよう」③学校生活と子供の感覚

●遠足

――遠足とかそういうのは既にあったの?小学校の頃から…
母:小学校…遠足はね、学校に泊まったね。親がご飯の用意してくれて、それで一泊したね
父:憶えてない
母:えー、やだ…。学校に泊まってね、それから担任の先生がさ、宿直の時みんなで遊びに行ってね。夜の学校を(懐中電灯で)照らしながら歩いてお化けごっこしたりね

――林間学校とかは…

母:林間学校はなかったね。遠足らしい遠足は…動物園
――どこ(の動物園)?
母:(父に)動物園行ったよね。上野の動物園
父:野毛山だよ
母:野毛山、そうそう。それでさ鶴の前でお弁当食べたら(鶴が)羽ばたきしたらいっぱいゴミが飛んできて(笑)
――(笑)

母:それとかね、潮干狩り?
父:潮干狩り行った。金沢八景
――当時の動物園ってそんなに(動物が)いないでしょ?
母:けっこう動物いたよ
――何年生?
父:3、4年生
――昭和28年?10歳だから
父:そんなもんだね
――じゃ、動物園の復興は意外と早く進んでたんだね
母:そうだね

●給食

母:完全給食?お弁当持っていかないの5年生ぐらいから
――やっぱり脱脂粉乳のミルクとか
母:最初はね。だけどそのうち牛乳になって。一週間に何回か学校給食?食べてた。コッペパンとかさ。その他はお弁当だった
母:ストーブがあったからそこにみんなお弁当乗せてさ(笑)
――やる事は一緒だ(笑)
母:すごい臭いがしてね(笑)

――お弁当の中身は…卵焼きってのが「巨人 大鵬 卵焼き」ってある種ステータスな?
母:卵が高かったんだもん
――じゃ最初は佃煮みたいな?
母:何が入ってたろう?…てんぷらとかね
――てんぷら(笑)
父:ゆうべの残り物
――ああ、そうか!
母:残り物とかだよね。てんぷらを甘辛く煮たのとかね。でも卵焼きとか、煮物とか。梅干は入ってたね、必ず

父:鯨のしょうが焼き
――鯨って食糧難の対策として(一般に)出てきたからそんなに伝統食って訳じゃないよね?
母:うーん、伝統食ってのがどういうのか分かんないけど…
――普通に食べられてた?
母:うん、普通に。臭くなくて良かったよね
――僕も鯨肉の記憶はあるけれど、この間、飲み屋で出たのが全然(記憶と)違ってた。臭くて(笑)
母:生で、お刺身で食べるのもあったよね
――それが普通に食卓に上がってた?
母:うん、普通普通。ベーコンとかさ
父:公務員の貧しい家庭(※自分の家の事)でも食べてた

母:パンなんかも4歳ぐらいから食べてた
――4歳…、昭和22年くらいから?
母:コッペパンとか…こんな細長いのとか
――それは町のパン屋さんで?
母:うん、パン屋さんがそばにあってね。そこに(コッペパンを)縦に割ってさピーナッツバターかジャムか…両方好きだったな。給食もそうだよ。ピーナッツバターかジャムが挟んであって
――挟んで出てくるわけ?
母:そう
――僕らの時代なんかは袋入りの(ジャム)とかが
母:ああ、そういうのじゃない。塗ってあったの
――バターとジャムと
母:そうそう。だけどバターなんて言ったってまがいもの?
――ショートニングくさい?(笑)
母:うん、だからあんまり好きじゃない。おじいちゃんがそれをいっぱい付けて…それで胃が悪くなってね(笑)相当わるいのだったんだね
父:マーガリンって鯨の油から作るんじゃないの
――当時のマーガリンは?鯨から作った…そうなのかな?
母:いやー…分かんないけど。(給食に出てきたのは)バターじゃなかったね

――給食が始まった時牛乳ってフツーにアルマイトの容器とかで出てきたの?
母:牛乳?
――瓶じゃなかったでしょ?
母:瓶じゃなかったね。なんかこうやって注いでた気がする。親が来てやってくれたような気がするよ。だからけっこう親が学校に来てたんだよね


●栄養補助?

――僕らが幼稚園時代はたとえば肝油ドロップが配られてたけどもそういうのはあった?
母:肝油ね~。自分のうちで種もらって育てた
――え?
父:それはヘチマだろ
――肝油はサメ…
母:肝油じゃなくて、それじゃ何…?何だっけな~。こんな大きく育つの。その実を持っていくの、学校に
――なにそれ?(ジョン・ウィンダムかジャック・フィニイか!?という戦慄)
母:植物で種もらってさ…えーと…ひまし油
――あ~
母:夏の間にすごく大きくなるの。それを学校で回収してひまし油作ったんじゃないかな…
449px-Ricinus_communis001
(ひまし油の原料となるトウゴマ、何か異星植物感が漂ってます)

――それを食べるわけじゃないんだ
母:食べるんじゃなくって…
――(作った油を売って)学校の収入になるの?
母:どうなんだろ?そんなの全然知らないけど…とにかく蒔いて、ドサドサに生って…(父に)やらなかった? あ、庭がないとね(笑)
母:とにかくビタミンBなんとかが足りなかったからそれで補ったわけ
――ひまし油で?(ひまし油というと「1941」での「もーしもーしかめよー♪」ぐらいしか思いつかないので混乱している)

――学校で加工するの?絞る機械とか…

母:よく分かんないけどとにかく実を持って行ったね。それでラミネートしてもらって…

(※こちらのページ→のコメント欄に「戦時中にトウゴマの種を学校でもらい、家で育てて実を持っていく。油は飛行機の燃料になった」というコメントがあります。実際にはひまし油は燃料ではなく潤滑油として使用されていました。その他にも工業用原料として広い用途があるため生徒が育てて学校から企業に提供、あるいは買い取りのシステムが戦後もしばらくは続いていたものと思われます)

●フリーダムだった学校と先生

――昨日、漫画の模写絵を描いてやったっていう話をしてたけどそういう…得意な技能を持ってると得ではあった?
母:クラスでね、「好きな人」の投票をするのがあったの。いつも(自分が)3番以内に入ってたよ
――投票って何?放課後とかにするの?
母:ううん、授業中に。授業やってる時に
――ええー?
母:だってねもっと自由だったの。だからね、音楽やんのがヤダってみんなが言うでしょ?「はい」って手を上げて。そうするとね、お寺(我が家の菩提寺)があるでしょ?あそこまで行って野球やって帰ってくるの

母:だけど先生がね、外に出る時堂々と出ていくと校長先生に見つかるから「隅っこを通って一人ずつ順番に出ていけ」って言うの(笑)帰ってくる時もさ何気なーく入ってくる(笑)そんなの(校長)先生は知ってるだろうけどね(笑)
――それは担任の先生が特別そうだったって事?
母:担任の先生が「よし、野球やりに行こう」って言うの
――学校全体はそういうわけじゃないでしょ?
母:他のクラスは知らない。けどよくやったの。近くの小さな山に行って昼寝したり。その山に防空壕があったから探検したり
――自由だね~
母:すごい自由だったね。…あれが良かったのよ。結局思い出なんて…勉強してる思い出なんてないもんね

――当時はまだ受験中心じゃなかった?
母:ないよね…。(父に)頭のいい子はあった?
父:あったよ。…(自分の成績が)416人中8番だった
――それは全校?地域?
父:学年。学年で416人もいたんだぜ
母:(私は)数学が3番だった。今、何にも憶えてないけど(笑)
――416人て多いね
父:50人学級だったかな
――50人!?僕の時でも45人学級だった
母:移動クラスってのがあった
――移動クラス?
母:生徒の数のほうが多くて教室が少ないの。だから移動するの。国語はこの教室、数学はこの教室って

――印象に残ってる先生って…
母:だからその野球する先生(笑)それでさ、音楽の先生だけが女の人でくるの。そしたら担任の先生がね机の下に隠れてね、授業の様子を見てるの。それで(授業)終わり間近になって見つかっちゃったの。そしたらその女の先生が泣き出してね。「卑怯な事をする」って言って(笑)「とんでもない事だ」って言ってね。でもみんなは楽しかったの。(担任の)先生が隠れて聞いてるでしょ
――笑いをこらえるのが大変だった?(笑)
母:そうそう(笑)
――けっこう個性的な先生は僕の時代でもいたけど…

母:先生の家に遊びに行ったりしたもんね
父:俺も行ったよ。小学生の時ね鎌倉のヤマウチ先生っていう大学出てまだ少しの…。2、3人で泊まりに行った
――泊まりに行った?
父:先生もそのつもりでちゃんと用意してくれてた。次の日海水浴連れてってくれたな
――それは今だと考えられないだろうね

――僕が小学校3、4年生の時の担任、井上先生が昔兵隊だったって言ってたけど。兵隊上がりの先生って…
母:兵隊…は知らないけど…
父:もう死んじゃったけど高校の担任だった先生が予科練出身。でね、「総員起床!」って言われて30秒で全部(服を)着るんだって。だからね、「終戦になってから近所で火事があったときに30秒で正装して出て行ったのは俺だけだ」って(笑)そう自慢してたよ。その先生の所にも遊びに行ったな。国府津にいたから

●男子のつとめ

――授業以外のクラブ活動とかは…
母:あったと思うよ。でもほとんど遊んでたもんね(笑)
父:(クラブ活動があったのは)小学校じゃないよ
――中学から?
父:電気部だった
――電気部言ってたね
母:(私は)バレー部
父:それでね、友達押さえつけて100Vとか(笑)
――外道だ(笑)
母:昔からこうだったんだね(笑)

――僕らの(小学校の時は)クラブと部活は区別されてた
母:クラブと部活と違う?でも(自分たちの時代は)クラブ活動って言ったよね
――授業の一環としてクラブ活動があって放課後にやるのが部活
母:へぇ

父:それで友達の家行ってね、5人ぐらいで行って1人を押入れに閉じ込める、でバルサン香って知ってる?
――あのバルサン?
父:それを入れるの。そしたらそいつさ2B(にーびー)弾が来ると思って耳ふさいで待ってた(笑)
――とりあえず外道確定(笑)
母:確定だね(笑)自分はやられなかったんでしょ?
父:だって発案するのが俺だもん
母:今で言ったらいじめだよね
父:でも仲良く遊んでたよ
母:自分がそう思ってるだけでさ(笑)

――お父さんは転校生だったんでしょ?
(※父は母親、つまり僕にとってのおばあちゃんが連れ合いとの死別を2度も経験しているため、熊本(最初の夫―父の実父、大陸で戦死―の実家)→六浦(おばあちゃんの実家)→横浜(2番目の夫―交通事故死―)→逗子、と半分地元民なのに転校生という奇妙な立場だった)
父:転校生の1番最初の任務は…喧嘩をすること
――(笑)
父:ケンカをしたやつとはずっと仲いいから。今も付き合いがある
母:(笑)
父:だからいじめなんてなかった
――いや今言ったじゃん(笑)人に電流流すわ煙でいぶすわ(笑)でも今の(いじめ)よりかはカラッとしてたんだろうね。無視だのお金をたかるだの
母:そういうのはないね
父:そういうのはない
母:みんな貧乏だったもん。物があふれてるって事なかったからね。誰が持ってて誰が持ってないとかじゃなくて

●安全の感覚・米軍関連

母:(親が)みんな働いてたから…子供が子供の面倒みてたからね。上の子が下の子みるとか近所の子が近所の子みるとか。親がみてないんだから
母:小学校6年生くらいの子を頭にさ、4歳とかみんな逗子海岸に泳ぎに連れて行ってたんだから。よく死ななかったと思うね~(笑)今思うと怖い(笑)
――うーん(笑)
母:誘拐されなかったしね。よく平気だったと思うね~
父:そうだね~
母:それでだんだん知恵がついてくると行きは歩いていって帰りは電車なんだけど、1人逗子駅に置いてきちゃって。1時間に1本ぐらいしかないのをまた戻って(笑)平気でやってた、そういうのを
――その何だろ、安全の感覚みたいなのは今とは全然違う…
母:そうだね。誘拐されるなんて夢にも思わないもんね

――実は昭和22年に…多分4歳ぐらいだと思うけど、池子の弾薬庫の爆発事故があったみたいなんだけど憶えてる?
母:憶えてない…。憶えてないけどね、池子から出てきたジープ…トラック?米軍のトラックと横須賀線が衝突したの。それですごい大事故になったのよね。それは憶えてる
(※昭和32年5月14日に逗子、東逗子間の池子踏切で久里浜発東京行きの列車が米第8憲兵隊のトラックと衝突。列車は先頭2両が脱線し米兵2名と乗客15名が重軽傷→
IMG_0315
(現在の池子踏切。6月の法事の際に撮ってきました。逗子警察署のHPに昭和33年の写真があります→

――事故はそんなにあった事じゃない?
母:事故?あんまりそういう事故はなかったと思うけどね。その事故はすごいひどかったんだよね
――じゃ米軍関係で「注意しろ」みたいな通達が学校であったりとかは…
母:だってさ、フェンスになってるから別に中でアメリカ人がスポーツやったりしたのは見てたよ

母:そんなに…耳に届かなかっただけかもしれないけど事故はなかったような気がするね。だって横須賀みたいに歩いてないもんね、外を
――ああ、そうね。その(敷地の)中にしかいない
母:だってあそこ通学路だったの。歩いてた、米軍の横を
――うん
母:横須賀線だって米軍の人たちが乗って…
――今でもそれはそうだよね
母:でもだいぶ少なくなったね。昔はすごく多かったけど
――それはプライベートで?軍服着て?
母:軍服着てる人が多かったかな…。でも普通の格好してる人もいてね、「京都行った事ある?」って訊かれた事がある(笑)

――じゃあそんなに悪い噂みたいなのは無かったのね
母:うん。耳に届かなかっただけかもしれないけどさ、学校でも「気をつけろ」とかそういうのは無くて

母:あ、でも鷹取山越えで中学校に行くのは女の子はダメって言われたの。だけど好きでね、山歩くの。つららとか食べながら行ったりして。そしたら校長先生が出口で待っててさ(笑)捕まった事ある
――女の子ダメってのは不審者?
母:あのね、自殺する人が多かったみたい、あの山で
――ああ、うん…
母:今は拓けたからそんなことも無いだろうけど。遠回りになるんだよね米軍のキャンプの方通ると。(山越えは)上り下りするからそんなに変わんないんだろうけど近く感じるんだろうね、直線だから(笑)
――僕の小学校の時も○○の方に抜ける山道があってそこに不審者が出るから一時期通行禁止になった事がある
母:へえ~。…今はどこにでもいるもんね
――でも手品をやってくれるおじさんだとかね、そういうのは容認されてた?(笑)多分いまだとそういう人たちも事案扱いだろうけど
母:ああ~
――子供の相手をしてくれるおじさんってけっこう昔はいたよね
母:今はダメだろうね~
――治安に関しては(母の)子供の頃の方がよっぽどヤバかったでしょ?
母:そうだね~。でも一人で平気で歩いてたし(笑)

「親に昔の事を訊いてみよう」②文化風俗

●ラジオデイズ

父:『ラジオの普及率』?ラジオは普及してたよね~。だって僕らは自分で作ったもんね、マイラジオ
――そういう自分で作るっていうのはある種ブームというか…
母:けっこう作ってる人居たね
――少年の嗜みみたいな感じなの?
父:いやーそんな事ない。やっぱ頭のいい人だけで(笑)
――さらっと自慢を織り交ぜてきた(笑)
母:なにげなくね(笑)

父:それっていうのはね、葉山の叔父さんが横須賀の海軍の通信隊にいたの。終戦になった時に皆は自転車とか毛布を持って辞めたわけ。ところが叔父さんはダンボール2、3杯の電子機器、部品。真空管とかコンデンサーとか抵抗とかトランスとかそういうのを持って帰ってきた。で、死んだおばあちゃんに叱られたわけ。「こんな役に立たないもの!」つって(笑)「自転車持ってくれば良かった!」とか「毛布持ってくればもっと良かった!」とかいろんな事言われて(笑)でも葉山の叔父さんはそういう人だから。で、その部品がぼくが中学1年ぐらいになるまであった。いろんな物みんなが使っても。再生バリコンとかさコイルだとかトランスだとかST管とか
――すごいじゃん。一通り揃ってる
父:要するにそういう物が作れるように叔父さん集めてきたんだと思う

母:お父さんは叔父さんに恵まれてたよね。いろんな事教えてもらったり
――でもさすがに回路組むには雑誌とか…
父:そうだよ、もちろん。たとえば並4ラジオの作り方とか回路が載ってるから
――雑誌名とか憶えてる?
父:『ラジオ製作』(※『ラジオの製作』(1954~1999))
――近年まであった気がするその雑誌
母:へぇ~

父:並三ラジオ、並四ラジオ、高一4球、それから5球スーパーヘテロダインでどんどん高級化してく
――こういちよんきゅう?(表記の仕方を教わる)
父:普通のラジオは3球でもいいんだよ。でも高周波一段増幅すると感度が良くなる
――うん(←分かっていない)
父:ST管だからね。6D6とか6C6とか6ZP1とかさ
tubecollection20122
――うん(←ますます分かっていない) そういうのを作っている人たちの間でこう、情報交換の場とかあったわけ?
父:ない。もうほとんど本。でも俺中学に入ってから電気部だったからね。高校は通信科だったから勉強はすごかったけどね

――ラジオは普通にあった感じ?
父:うん
母:どこの家にもあったね。だって5時になるとみんな居なくなっちゃうんだから。みんな自分の家に聴きに帰ってた
父:テレビは…オリンピックの時かな。今の天皇の御成婚の時とか

――ラジオ(番組)っていうのはさっき…なんだっけ「3時のあなた」じゃない
母:3時のあなた?
――違う(笑)
父:『君の名は』(1952年)
母:ああ、『君の名は』だったねぇ

――ラジオドラマ?
父:そうそう
母:親が聴いてたね
父:春樹と何だっけ、真知子。それ映画化した時は佐田啓二と…誰だったっけ
母:京子…香川京子じゃなくて
父:高峰秀子、じゃねぇよな(※岸恵子でした)
1953_6

父:それから子供の時は『笛吹き童子』(1953年)それから『紅孔雀』(1954年)。小学校3年か4年の時

●紙芝居と漫画

――そのタイトルからちょっと…。紙芝居的なものは来てた?
母:来てた
父:来てたけど一回も見たことない
母:近所のおじさんがやってた。紙芝居を。(父に向かって)ね?宗ちゃんの叔父さんが紙芝居屋さん
――近所の人がやってた(笑)
母:すぐそば。すぐそばの人でね。水あめこうやってやって(練る動作)買って読んでもらってた

――絵心のある人ってやっぱそういう(職業)の選んだり?
母:よく分かんなかったけど面白かったね。みんな近所の子が寄ってきてね、なんか買わされてさ
――タイトルとかは憶えてる?
母:うーん…憶えてないなぁ
――オリジナルだった?
母:うん、多分あのおじさんが描いたんだと思うよ
――お話も?
母:お話も。…でもどんなのだったかねぇ。牛若丸とかそんなのだったかもねぇ
――でも(続き物で終わりは)引っ張るんでしょ?明日も来てくれって
母:うん?いや近所のおじさんだったから全部やってくれた
――ああ、じゃそれは人によるんだね

(※紙芝居は戦前からある娯楽ですでにかなり組織化されていたので、もしこのおじさんが独立営業だとしたら珍しい例かもしれません→

母:でも男の子(向け)のが多かったね。女の子の白雪姫とかは無かった
――でもそれは女の子も聴いていたの?
母:うん、もちろん。だってお母さん『少年クラブ』(講談社:元『少年倶楽部』1946年から『少年クラブ』)取ってたんだもん(笑)
――なんかすごいのが来たぞ(笑)
母:『少女クラブ』(講談社:元『少女倶楽部』1946年から『少女クラブ』)っていうのもあったんだけど『少年クラブ』を取ってたの。『赤胴鈴之助』とかああいうの大好きだった(※赤胴鈴之助は少年画報社『少年画報』1954年から連載)
f12a
父:それは新しいな
母:そう?え、でも小学校の時だよ、たしか
父:もっと前(※少年クラブの存在期間を指す?)
母:付録がよかったのよ。付録が欲しくて買ったんだもの。けっこういい付録があって…なんだか憶えてないけど

――値段は憶えてる?
母:値段は憶えてないねー。でもお小遣いで買えるくらいだから
――まぁそういう(価格)設定にはなってるだろうね
(※週刊ではない頃の漫画雑誌の当時価格の情報は意外と少ないです。ここ→の「お値段のモンダイ」というコラム、そして「戦後における『少年倶楽部』の誌面構成と読者の様相」(PDF)の「3.5 表紙および価格の推移」を併せて読むに『少年クラブ』は1946年中に1円20銭から4円あまりに高騰、翌1947年には10円から18円。1948年には20円。廃刊直前の1962年には160円になります。『少年画報』は1948年創刊号が35円。1953年に100円、1959年に120円、1962年は160円と1960年代初めにはすでに自分たちにも馴染みのある価格帯になっていたようです。つまり両親が買っていた頃は100円前後になるようで、前回の「1回の駄菓子代が5円」という話を考えると、感覚としては自分と同じく「プラモ(当然アオシマの合体シリーズ=100円)を我慢してテレビマガジンを買うべきか?」という葛藤があったはずだと思うのですがw)

母:それでその漫画をね、スケッチブック買ってもらって写して描いてたの。そしたらおじいちゃんが「この本より上手いよ」ってほめてくれた事がある(笑)
父:昔の雑誌で『冒険王』(秋田書店:1949年創刊)ってのも…
母:だって頼まれるんだもの、描いてって。で描いてあげてたのみんなに
父:子供の時から変わんないよ。成長してない(笑)

――今チラッと『冒険王』の名前が出たけど
母:あったね
父:その中で一番面白かったのが『沙漠の魔王』(福島鉄次 作:1949~1956年)ってやつ。知らない?
maoh
母:知らない…。(自分の漫画読書暦は)赤胴鈴之助で最後は手塚治虫だからね
――当時は漫画?それとも絵物語?
母:赤胴鈴之助は漫画だよ
父:沙漠の魔王は漫画じゃない
――挿し絵つき小説?(※ジャンル的には「絵物語」)
父:そうそう。(母に)おまえ幼稚だったから(笑)(※絵物語もアメコミみたいなものです)
母:そう漫画ばっかり読んでた。それで6年生になった時に「漫画読むのはバカだ」って言われてね(笑)
(※いわゆる「悪書追放運動」の全国的盛り上がりが1955年なのでちょうど合致します)
jpg large

――貸本漫画ってのはあったの?
母:違う、買ってきて読んでた
父:貸本もあったことはあったよね
母:貸本てのはあまり記憶が無い…
父:友達同士でこう回(し読み)したのが多かったよね
母:そうそう
父:だってさ5人いれば5冊読めるんだもんね

――でも実際貸本漫画屋さんってのはあったの?
父:あったよ
――逗子の方?
父:いや沼間にもあったよ。(扱ってたのは)漫画ばっかじゃないけどね

●映画・そして父の伝説

父:『高校の時に何が流行ってたか』…憶えてないな~
母:憶えてないねー
父:あ、それでも映画観るのが流行ってたな
母:映画も観にいかなかった…
(※父は山岳部、母はバレーボール部に所属していた。部活動はけっこう忙しかったらしい)
父:『アラビアのローレンス』

母:映画館ってどこにあったの?お父さん
父:映画館?鎌倉にもあったよ。逗子にもあった
――ああ、あるだろうね。テレビが普及する前でしょ?
父:そう

――当時(料金は)いくらくらい?
父:……(母に)いくらくらい?
母:知らない。観に行った事なかったから…
(※映画の平均入場料金の推移はこちら→ 掲載されている数字は子供料金など割引料金との平均なのでこの数値の1.3~1.5倍くらいが大人料金?)

母:小学校の校庭でさ、夏休みに映画やったの。白い幕張ってね。それは観にいったけど
――巡回で来るの?学校がやるんじゃなくて
母:学校じゃなくてね、大人の映画だった(笑)
――あー(笑)
母:子供は観ちゃいけないって言ってね。でも観ちゃった
――あ、じゃあそういうのは夏祭り的なものの一環なわけ?
母:うん、夏休みになると来てたね。(父に)観たことある?
父:あるよ。沼小(沼間小学校)でやってたじゃん。グラウンドで
――それ、町が呼ぶわけ?
母:なんだろう…知らない。小さい時だから
父:自治会みたいなのがあったんじゃないの?
母:あったんだろうねぇ。きっとね
父:まさかPTAが呼んだとも思えないしなぁ
母:ドサ廻りみたいなもんじゃないの?
父:いや、お金取らなかったじゃん。町内会費とかから出てたんじゃないのかな

――大人向けっていってもアダルトじゃないんでしょ?
母:子供向けじゃない大人の映画って事だったんだろうね。憶えてないもん、何やったか(笑)
父:原爆の映画やった。原爆の映画
――そんなのあったんだ…
父:『赤城の子守唄』(1957年)とか
母:また(笑)…変わってない、ともかく

――…以前聞いた中で非常に印象に残ってるのが、デートの時に『グリーン・ベレー』(1968年)を観にいったってのが…
large_iTlO0aSU0x7M8A4SGHSBJSjItuc
母:そー!!(手を打つ)もー気持ちが悪かったー!
父:『グリーン・ベレー』じゃないでしょ
母:そうよー!「映画観にいこう」って(誘われて)、行ったらもうね~戦争の映画でしょ?初めてだよ?二人で映画観にいったの。もう気持ち悪くて途中で出てきたの
――初映画が(笑)
母:もうアレだけは忘れない

父:でもこのごろ一緒に(DVD)観るじゃん
母:いやじゃん。戦争のは2階で観てもらうようにしてる。もーなんか(当時と)全然変わってないの
父:セガールとシュワルツェネッガー、シルベスタ・スタローン、それは観るよ、一緒に
母:(笑)
――でもこの(TV)サイズなら大丈夫でしょ?
母:『グリーン・ベレー』は気持ち悪いよね、アレ
――スクリーンが大きかったからでしょ?
母:それも前の方でさ~ …思い出しちゃったよ。二人で映画観にいったのそれだけだよね。初めて観にいって…それっきり
――じゃ二人でまた観にいきだしたってのはごく最近なんだ
母:うん、でも年に1、2回?


●流行の音楽

父:『音楽の流行の変遷。たとえばGSが流行る以前の若者音楽』?憶えてないな~。GSの前?加山雄三?
母:うん
父:が流行ってたね
母:その加山雄三の後?ほら伊藤ゆかりとかいっぱい出てきたじゃない。なんとかミエ(※北原三枝=石原まき子?)とか三人娘(※美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)とかソノダマリ…だっけ?(※園部毬子=園まり?)
母:それとザ・ピーナッツ!TVが出来てからね

父:(思い出して)そうだ!五月みどりだ!
母:もうやだお父さん(笑)
父:だって会社の慰安会って日劇だぜ
――日劇でやったの
父:日劇に観劇に行くのが会社の慰安会だった。それが五月みどり
母:『屋根の上のバイオリン弾き』とか観にいったね
父:五月みどりがまだ19(歳)とかさ

――え、じゃ会社の慰安会で観劇とか普通に
父:ずっとじゃないよ。その次の時は箱根に行くとかさ
――あ、そういう事ね。企画する人によって違うのか
母:職場ごとだったし
父:日劇は会社あげてだったな
――ホール埋めなきゃならないもんね(笑)

父:『太陽族って周りにいた?』…いなかったな~
母:太陽族はいなかったね~
父:我々よりもちょっと年上ぐらいじゃない?
母:うん、(石原)慎太郎の(年代)ね


●ファッション。主にJK

――じゃあ文化風俗の分野の最後でファッション
母:ファッション?
――お母さんの方が詳しい話題かと
母:うーん…。おばあちゃんが作ってくれてたからなぁ
――作ってたんだ(笑)

母:おばあちゃん服(を作るのが)上手だったの。会社の面接なんかもおばあちゃんが作ってくれたワンピースで行ったり(笑)
――すげー(笑)
母:だから洋服とか…友達が高校卒業してそういう(アパレルの)仕事に就いて、で「洋服作りたいんだけど」って生地持っていって初めて作ってもらったの、おばあちゃん以外の人に。そしたらすごく高くて…

母:とにかく毛糸(のニット)だとか全部作ってくれてたからそれが当然だと思ってた
――でもさすがに高校とかになるとおしゃれな子とか周りにいて…?
母:高校は制服だったから…。でもブラウスなんておばあちゃんが作ってくれたから他の人とは襟の違うのとか着てた
――それは注目されたりした?
母:いやあまり気にしなかったけどね(笑)
――気にされなかった?(笑)
母:ブレザー?上に着てたから襟だけちょっと違っててもね。ただソックスが短いか長いかとかさ
――ああ、うんうん

母:スカートの丈が膝ギリギリかちょっと上かとかね、そういうのは拘ったね
――そういうのはあんまりとんがりすぎちゃうと先輩から目を付けられたりとか?
母:いややっぱり流行しててソックスは白じゃなくて紺とかさ。ソックスの色でおしゃれしてた。長さとかさ
――やっぱそれはサイクルが早かった方なの?
母:そうね。1年と2年では違ってたかもしれないね~
――ほとんど今と一緒だよね
母:そうだね。今と一緒だね。スカートの短さとかは今ほどじゃないけど(笑)いっこ折るとかさ(笑)そのくらい
――でもその違いっていうのは短いスパンでくるんでしょ?
母:というか場所によって
――場所によって?
母:遊びの時、部活の時とか遊びに行く時は短くしていくとかさ。3つぐらい折ってね
――(笑)
母:先生がいる時はいっこぐらいとかさ(笑)
――昔からやってたんだね、それは
母:靴の後ろ踏んで歩いてたね、女の子は。踏んでソックスを長く見せる?
――涙ぐましいねそれ
母:そー、でもそれぐらいしかなかったもんね、おしゃれって。髪染めるわけじゃないしさ
――髪型ってどうだったの?
母:ほとんど決まってたね。長くしてる子もいなかったし
――いちばん目に付くからね、校則的なもので
母:全部がほとんど(校則で)決まってて、でも中にはお化粧してきた子もいたね。眉書いてきたりとか
――へぇ、それはすぐ見つかっちゃわないの?
母:先生ももう公認?頭のいい子で「もうしょうがないね」っていう感じの子とかさ。その仲間の子達がみんな(眉を)剃って書いてくるとかね
――…昔からあったんだね、それは(というか治外法権な優等生ってまんまマンガやん!)

――私服ってのは?
母:バレー部だったから(笑)半袖になんて言うの…ブルマーみたいな。ずーとそんなのだったもんね。夏休みなんかもほとんど部活?あとはおばあちゃんが作ってくれたから気にしたことなかった。…自分で買ったのはいつだろうね?やっぱり働き始めてからだろうね~
――それだともう…昭和36年?(正確には昭和37年)

母:そうだ!ミニスカートが流行ったんだ。ツイッギーがね
――おー
tumblr_n19g31BfUi1rxk0p1o1_500
母:すごく痩せてて…
父:顔色の悪い発育不全の栄養失調(笑)
――ひどい言われようだ(笑)
母:あの頃みんな痩せたがったの。あれがカッコよくてね。細い脚でさ
――ああ、じゃファッションモデルの元祖みたいな
母:そうねー。モデルってのを意識したのがその頃かもね。ま、テレビが入ってからね
――ああ、その影響力は大きいだろうね
(※ツイッギーの初来日は昭和42(1967)年)

40万アクセス記念企画「親に昔の事を訊いてみよう」①

昨日、当ブログのアクセス数が40万を越えました。ありがとうございます!

今回はやります、記念企画。
5月からちまちまと準備してましたが、今冷静に見てみると「誰の得になるんだろうか?」とちょいギモンなテーマ。
ええい!このためにICレコーダー買ったんだョ!他に使い途ないのに!だから許してヒヤシンス(←逆効果)

このテーマを思いついたのはサミュエル・フラー監督の『東京暗黒街・竹の家』(1955)を観たからです。
220px-Houseofbambooposterart

昭和30年の東京・神奈川・山梨にロケした初のカラー作品でありそこに写し取られた当時の風景はカルチャーショックを受けるほどの物でした。
とくにクライマックスの浅草松屋デパート屋上の様子とその向こうに見える東京の街並みはインパクトがあります。
4876g
この映画を観た事で、現在世に流布する昭和ノスタルジーはどちらかというと東京オリンピック以降の経済成長が軌道に乗り出してからの物が主で、終戦~昭和30年あたりまでの掘り起こしというのは意外と進んではいないのではないか?という思いが出てきました。

そして誰かに聞き取りをしようかと考えた時最も手近だったのが両親だったという訳です。
2人とも
・昭和18年生まれ
・逗子育ち(逗子市沼間。駅としては横須賀線東逗子が一番近い)
・高卒後、東京に就職
というスペックです。

…ま、実際にインタビューしてみると10代後半の記憶の方が多いとの事で、やはり高度成長期に片足をかけているのですがそれでも興味深いことを聞けたと思います。

インタビュー内容を分類したら、5回分のジャンルとなりましたので今回は「①」として
「子供~少年期の遊び」です。


●子供の頃の遊び          

母:お父さんってさぁ、あれだよ、鉄砲とかさ。普通の人の遊びとは違う…
――鉄砲ってモデルガン?
母:違う、猟銃
――空気銃?
父:散弾銃
――へ?
父:散弾銃
――散弾銃?まだ免許制じゃなかったの?
父:免許制だったよ
――それ無免許?!
父:(笑)
――それ(銃)どこで買うの?
父:いや、隣のおじさんが持ってた(笑)
母:ね、そんな事ばかりやってるから…(笑)

――それで山に狩りとか行ってたの?
母:ウサギとかね
父:ウサギじゃないよ
母:鳥?
父:鳥だよ。山鳥とかさ。ヒヨ(ドリ)とか益鳥で捕ったりしちゃいけない物もさ、気が付かないで撃っちゃったとかさ
一同:(苦笑)

――それはアレ、売りに行ったの?
父:ううん、食べちゃった
――食べた(笑)そっか
父:蛋白源だもん

――何年生ぐらい(の時に銃を撃っていた)?
父:6年生ぐらい
――6年生!?(笑)
母:(笑)ね?信じられないでしょ?

(※い、一応「拳銃等の所持」「拳銃等の発射」「拳銃等の譲渡し等」「拳銃実包の所持」鳥獣保護法第八十三条、全てについて時効(公訴時効)ですからね!?)

父:ほんで中学になってから今度さ、散弾銃のおじさんが居なくなったから空気銃にしてさ
――う、うん。…昔、家に小学館の生活図鑑(※「小学館の学習図鑑シリーズ」の「保健の図鑑」)みたいなのあったじゃない?それに猟銃…「空気銃を人の居る所で撃っちゃダメ」みたいなのあったから昔は普通に空気銃撃ってたのねと…
父:うん、空気銃はね火薬使わなかったから免許制でもなんでもない、ただ許可証があればいい
(※許可制は昭和30年の銃砲刀剣類等所持取締令改正から)

――それはやっぱ流行ってたと言うのがある?
父:けっこう使ってたね、みんな
(※戦前からスズメやヒヨドリを獲って食べるのは一般的だったので空気銃は多くの子供が持っていたのだそうです)

――空気銃って当時いくらくらい?
父:いくらぐらいだろ?知らない。どっからか出てきたから(笑)
(※検索で見つけた光文社『少年』1954年4月号の広告→では3000~5000円。もちろんこれは新品の場合で、前述の理由から中古品には困らなかったのでしょう)
――…はぁ
父:それでさ、長いと持って歩くのに不便だから銃身を切ってみたりさ
――ソウドオフをやるな(笑)で、それが中学生ぐらい…
父:それが中学生ぐらいだな。山へ行って柿を撃つとかさ
母:今でもその続きじゃん。(山歩きに)ナイフ持ってってバシーッと切ったり。ずーっとそのまんま(笑)
父:成長しない(笑)


父:子供の頃の遊びって、そんなに… ベーゴマ、メンコ、な
母:ベーゴマは流行ってたねー
父:それからパチンコ。ゴムカンの事ね
――ああ、うんうん
母:自分で作ってパチンコやってたじゃん、ビー玉がギューンっていく

――それは別に猟に使ったわけじゃない?単純に的遊びみたいな
父:そうそう
母:代表的なのは縄跳び、ゴム跳び、かくれんぼ…
――外でやるのは(自分たち世代と)一緒だね
母:ああ、家の中で?ビー玉におはじき、えーと、お手玉。強かったのよ
父:誰が?
母:私と○○ちゃん(母の妹)が。あの辺で代表選手。だから大体ね、おはじきなんて全部持って帰ってきちゃう(笑)勝って

――それは例えば他の地区の子供の所へ殴りこみに行くとか…?
母:そうそう。「今日やろうね」って言うじゃん?それで袋に入れて持っていくわけ。ジャラジャラさせながら。それの倍ぐらいもらって帰ってきちゃう、(妹と)二人で
母:それで小指細くしてね。こう(おはじきの間を)通すのに細くしてさ

――細くするってのは…
母:こうやって(小指の先をつまむ)ずーっとやって通すの(笑)
――(強くつまんで)クセを付けとくのね。纏足みたいな事するのかと思った(笑)

母:あと逗子海岸まで泳ぎに行ったりとか
父:それは行ったね。それで浪子不動でさ…
母:歩いていったんだよ。子供が
父:それでブシ(※トコブシ?)を拾ってさ。焚き火の中に入れて食うとかさ
母:ウニ採ってさ。バケツに入れて逗子駅行ったらさ、酔っ払ったおじさんが「これどうする?」って聞くから。どうするって何も考えてなかったから「ちょうだい」って言うからあげたの。そしたら「ウニは美味いんだぜぇ」って言って(笑)知らなかった、美味しいの(笑)

母:ザリガニは美味しかったけどね
――ザリガニ捕れたの?
母:ザリガニなんてたくあんで釣ってた

――あそこら(沼間)へんは昔田んぼあったの?
母:田んぼもあったけど川(※田越川)で釣ってた
――あの川で
母:あの川。今は鮎がいるんだって
父:そうか、お前の遊びってそういうのか
母:そう、釣りが面白かったね~。ザリガニもうバケツに一杯釣れるの。そうすると近所のおばさんが「それちょうだい」って言うからあげるでしょ。(後で)真っ赤に茹でられたザリガニが届くの

――それが小学生くらい?
母:小学生だね。低学年

●駄菓子など

――買い食いはするの?
母:買い食い… 紙芝居で
父:(笑)
母:とかね。○○(母の実家)の家の坂おりると2軒目ぐらいにナミコさんってあったの。あそこが駄菓子屋さん
――僕はプラモデル買いにいった

母:それでよく、だるま飴っていうの?このくらいの…
――だるま飴?
母:ダルマの形をした…サツマイモの甘味だと思うの。買いに行って食べてた。隠れて
父:何それ?
母:知らない?みんな知らないのよね。けっこう好きだったの

――うーん
母:これくらいの(指先で。5cmくらい?)子供だったからね。今だとこのくらい(一回り小さく)かもしれないけど。棒が付いてるの

――棒の先にその飴が付いてる?
母:そうそう。で、多分サツマイモ?の甘味をね、固めた…と思うの。それを隠れて、親に見つかると怒られるから

――それが一個いくらくらい?
母:5円…とか。そのくらいじゃなかった? 5円拾って買いに行ったこともある(笑)(父に)5円なんて(小遣いとして)もらわなかった?
父:5円ね~
母:よくパンも買って食べてた

――パン?駄菓子のパン?
母:違う、コッペパン

――パン屋さんのパン?
母:パンにピーナッツクリームとかジャムとかはさんであるの。細長いの、こんな
――へぇー

――駄菓子の種類ってそんなに多くなかったの?
母:駄菓子はいっぱいあったよ

――メーカーがたくさんあったって事?
母:うん、こぶとかさ、売ってたもん。都こんぶ
父:浅草とか行くと復刻してるとかあるじゃん
母:種類はたくさんあったんだけどお母さんはそのだるま飴が好きだった
母:麩のお菓子とかも売ってたよ。キャラメルでもね飴でもバラで売ってた

――ああ~
母:楽しみだったよ。色がきれいで。赤いのとか黄色いのとか
――うん

母:ナミコさんって美人だった。優しくてお母さんみたいな感じでね、行くと座って話しして、飴なんても舐め放題舐めてね、もうこれぐらいなら親に見つかんないなって頃に帰るとかさ
――(笑)

(※「だるま飴」については会津若松に同じ名前の庶民菓子がありますが、母に確認した所それとは違う物だそうです。「さつまいもの甘味」とある事から原料も違うでしょう。調べていたら「芋飴(サツマイモ水飴)」なるものを発見しました。→ さつまいもに麦芽を加えて糖化させるもので現在も鹿児島で生産されていますが、戦後期は千葉などでも生産されていたようです。鹿児島産の芋飴を母に送ったところ「昔のに比べて甘さが控え目」との感想が返ってきました。駄菓子としての「棒付き芋飴」はつい最近まで生産されていたようですが…→

●少年期以降の遊び

父:『遊びに行くのはどこ?』
――それは大体中・高生を想定した質問なんだけど
母:遊び…

――横須賀?横浜?
母:横須賀にスケートに行ったり
父:そんなの1年に一ぺんぐらいだに
母:冬、横須賀にスケートリンクがあってね。小学生の頃から久里浜のおばあちゃん(※自分にとって高祖母)家に遊びに行ってたから横須賀なんて近いもんよ
父:俺は(山岳部だから)山に行ってたな


父:大きくなってから(の遊び)はね、会社のやつらはね、麻雀
――まぁそこらへんは…
父:カラオケ
――カラオケって80年代からでしょ?
父:そうだね。それから渓流釣り。…ゴルフ。猫も杓子もゴルフ。で、父さんはこの4つは何もやらなかった

――入社したての頃は…若者的なそれ(遊び)は
母:でも入社した頃ってさ、1時間半通勤にかかるから…。大変だったね
父:会社の仲間、同僚と飲みには行ったけど。蒲田だからね
母:駅で泊まった人だからね(笑)


あ、画像がほとんど無いものになってしまった。
次回は少しは増えます。増えるはずです(汗

記事検索