蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

Forgatten, but Filmed Failures 《その3》

【ロケット】
ロケットもまた「映像の世紀」に発展した技術であるためその凄まじい進化の様子が記録されていますが、「失敗さん」の数は少ないのが意外です。
おそらくゴダートの実験で注目されて拡散し、その後もっと大きな事件(第二次大戦)の陰に隠れてしまうまでの期間が短かった所為なのかも。戦争が終わった後は国家的な研究対象になってアマチュアが出る幕はなくなってしまいますし。

とりあえず多くのフィルムで観る事が出来る「失敗さん」は

《詳細不明:年代不明》
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これで空を飛ぼうとしてたわけではないでしょうが何故か「失敗さん」に並べられることが多い人です。

《詳細不明:1937年、米国》
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こちら→に「1937年8月」とありますがそれ以外の事は分かりません。
ロケットサイクルってリヒター()の時代から異様な本気度が漲っているのですが、これは飲み仲間で盛り上がってやってみました感があって微笑ましい(笑)
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異様な本気度の例

《GLORIA, the First Rocket Airplane:1936年、米国》
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これは調べているうちに当時の航空郵便&記念切手専門誌「AIRPOST JOURNAL」誌の記事を見つけました。
(こちら→の「Vol 7  1935-1936」の段の70、71に掲載されています)
記事を元にまとめてみました。

◎The FIRST ROCKET AIR MAIL FLIGHT

ロケットプレーンの名は「グロリア」。製造はロケットエアプレーン・コーポレーション。計画にはドイツ宇宙旅行協会が関わっていた。
翼と胴体の設計はグッゲンハイム航空学校(現ジョージア工科大学ダニエル・グッゲンハイム航空宇宙工学校)が協力した。

計画の出資者でありロケットエアプレーン社の責任者でもあるフレッド・W・ケスラーFred. W. Kesslerについてはニューヨークの実業家という以外は情報がない。
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「グロリア」のロケットモーターは燃料がアルコール、ガソリン、メタンおよび他の液体の混合物。酸化剤が液体酸素。圧縮された窒素ガスがポンプ代わりだった。ノズルはモネル(ニッケル合金)製。


最初の飛行イベントは1936年2月9日、氷に覆われたグリーンウッド湖のニューヨーク側から、ニュージャージー側のヒューイットを目的地に行なわれた。この日のために特別切手を貼って投函された手紙や葉書は6148通。
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集まった観衆は地元の名士を含めた500人あまり。50社のニュース映画の撮影班、カメラマン、ラジオの録音チームが押し寄せる一大イベントとなった。

開始は午後2時からだったが液体酸素の充填に手間取り発射の準備が整ったのは2時間後の午後4時だった。
まずは1号機がカタパルトに載せられ、アスベスト製の防護服を着たドイツ人技術者が長い松明でロケットに点火した。
そして……

現在観る事が出来る「グロリア」の飛行(の失敗の様子)は3パターンある。
①カタパルトから発進するもすぐに落下してしまう。→

②発射後迎え角が垂直近くになり失速して落下、氷上を滑走し始めた。滑走速度が十分に上がって機体が舞い上がったがロールをうって縦方向のフラットスピンの状態に陥って墜落。→

③発射後迎え角が垂直近くになり失速して落下、氷上を滑走して機体が浮上したところで主翼が折れて墜落。→
実はこれら3つの映像は2月9日と23日の2回の撮影分に分けられる。
まず2月9日は①だ。「AIRPOST JOURNAL」誌 1936年2月号によると
・1番機は点火したもののカタパルトの機械的故障からその場を動くことがなかった。

・2番機が用意されたがこちらもカタパルトを離れるやすぐに落下して氷上を30フィートばかり滑走して停止した。
とある。
この時点であたりには夕闇が迫っており、結局この日の実験は切り上げられた。

おそらく①は2番機の映像と思われるが、氷上に落ちた後30フィートも滑走しているようには見えない。と言うか落ちてそのまま停止している。

これは「AIRPOST JOURNAL」による「盛り込み」と思われるが翌3月号ではケスラー自身が「60フィートぐらい滑空して着地した」とか言ってしまっている。当時は失敗だったという事実を認めてさえいれば細かいディティールはどうでもよかったのかもしれない。「映像が重要な証拠になる」という認識が形成される途上にあったのだろう。検索しているうちに見つけたニューヨークの地方紙「THE RECORD」の1961年2月20日号では「9日の飛行は吹雪で中止された」とまでなっているので紙媒体がメディア主体だった(あるいはそれ以前の)頃の尾ひれの付き方というのは現在の我々が想像する以上のものだったはずだ。

また、ケスラーが「AIRPOST JOURNAL」誌 1936年3月号で語るところではロケットの製造段階でサボタージュがあったという。
液体酸素の配管がいじられており、タンクへの充填が出来ない状態になっていた。
ケスラーは発射前の充填作業の遅滞はこれが原因だと説明した。液体酸素はわずかしかタンクに入らない、マスコミには急かされるという状況で短距離飛行もやむなしと判断しての敢行だったがやはり燃料が足りなさ過ぎた。

サボタージュの犯人はエンジニアの一人だったがケスラーはその動機を「妬みだろう」とだけコメントしており、実際はどうだったのかは分からない。とにもかくにも「グロリア」の修復は夜を日に注いで行なわれた。


そして2月23日。またしてもグリーンウッド湖は盛況だった。
カタパルトも作り直され、燃料の充填もスムースに行なわれた。搭載される郵便物は全体の1/3だが遠距離を飛ぶ事を考えると幾分重量超過気味なのが懸念された。
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1番機の飛行は②の通りだった。だが機体はニューヨークとニュージャージーの州境を飛び越えていた。
というか作り直されたカタパルトは州境からわずか数フィートの所にあったのだ。

2番機には残りの郵便物が搭載された(1番機の懸念は何だったのだろう?)。ところがここで映像記録もまた全面的には信用できるものではないと思わせるような記述が出てくる。ケスラーによると「2番機はカタパルトを使用しないことにした。角度が急すぎて1番機のように失速してしまう可能性が大きかったからだ。そこで湖の真ん中から氷上を滑走させて速度を稼ぐことにしたのだ

改めて映像を見ると2番機と思しきロケットプレーンがカタパルトから発進している。だがその上昇の仕方は1番機を撮影した映像とよく似ている。滑走し始めた機体を慌てて追いかける人物がちらりと写っているがこの人物の動きも1番機のフィルムとよく似ているのだ。

ケスラーの記述は「しかし大きすぎるひずみが機体に生じた。あまりの速度に耐えられず翼が折れてしまったが再び州境を飛び越えることが出来た。滑走も含めた移動距離は2000フィートを超え、そのうち約1000フィートは空中にあったのだ」と続く。数字はともかくもディティールは映像の通りであり、そうなるとカタパルト発進or氷上発進の部分は映像よりもケスラーの言葉の方を信じるのが良さそうだ。

衆人環視の中で行なわれこの結果だが、ロケットモーター自体は壊れずに連続的な燃焼を続けたことからこの実験は「成功」とされている。一応州境を飛び越えたわけではあるし。

遅れに遅れた郵便物はヒューイットで2月23日の消印を押され無事にそれぞれの宛先に届けられた。

Forgatten, but Filmed Failures 《その2》

【サイクロジャイロたち】
サイクロジャイロは1930年代にかけて盛んに試作機が作られた、いわば「成功しなかったヘリコプターの一種」です。
このジャンル自体でかなりの数があり、現在もドローンでの使用が研究されています。
ジャイロミルタイプの風車(「パドルホイール」)が機体の左右についている飛行機、と想像されれば大体あってます(実際はもっと複雑な原理らしいのですけどね)。
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一覧となっているサイトがあります()が今回はあくまで「(コンピレーション)フィルムに残された失敗作」が主眼です。…いや、ジャンル自体が失敗と言えなくもないのですがw

《詳細不明:1909~1914、フランス
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国籍と年代だけで詳細が分からない機体です。
パドルホイールの回転を上げると振動で崩壊する様子がフィルムに収められており、この問題に手こずるうちに第一次大戦が始まってしまったといったところでしょうか。

《グレイグースエアウェイズ サイクロジャイロ:1937年、米国》
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ぱっと見完成度が高くて飛びそうな感じもしますがこちらも失敗作です。
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製造元のグレイグース・エアウェイズ社を設立したジョナサン・エドワード・コードウェルJonathan Edward Caldwellについて調べてみたらなんかもう「山師」という呼称がぴったりな人物で。

長くて申し訳ありませんがご紹介します。


◎ジョナサン・エドワード・コードウェルとグレイグース
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ジョナサン・エドワード・コードウェルは親族にとっても謎めいた存在だったし、彼の奇妙な経歴は新聞の切り抜き、パテント書類、ニュース映像などによって不自然な形でしか再現できない。

大学の記録によると、コードウェルは1883年3月24日にカナダのオンタリオ州ヘンソールHensallで生まれ、オレゴン州立大学で機械工学を専攻して1912年か13年に卒業した。
後の記録よれば1920年代に飛行機に興味を持ち、独学で航空力学の基礎を学び始めると共に学術書や百科事典から知識をスクラップし始めたという。

◎会社の設立
1923年2月、垂直離陸可能な航空機「Cyclogyro」(サイクロジャイロ)の特許申請を出願した。サイクロジャイロは胴体の左右に張り出した観覧車か水車のようなローターを持つヘリコプターの変種であった。

サイクロジャイロの特許は1927年夏に承認されたがコードウェルはさらに人力オーニソプターの特許を出願した。→
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1928年にこのオーニソプターの製造・資金調達のためにグレイグース・エアウェイズをネバダ州で設立し、デンバーで株式を販売し始めた。
(同時期にサイクロジャイロ製造のためにグラビティ・エアロプレーン社をやはりネバダで設立している)
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グラビティ・エアロプレーン社のメモ帳のヘッダ部分。1923年版「サイクロジャイロ」はこういうデザインだった。

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いきなり動画があったグレイグース社の試作オーニソプター(1929年)→

しかし実用的なオーニソプターの製造は失敗し、コードウェルは1931年に東海岸に事業の拠点を移した(最初はニューヨーク州オレンジバーグ、その後はニュージャージー州マディソン)。

1932年初頭、グレイグース・エアウェイズ社を新たに旅客・貨物輸送航空会社として再出発させた。妻のオリーブを社長に据え、自らは会計責任者を務めた。

1月14日に撮影されたニュースフィルムでは自社のオーニソプターのデモンストレーションを行なっている。エミル・ハリアーなるパイロットが操縦席に座っていたがもちろん飛行する事はなかった。
残されたインタビューの書き起こしによるとオリーブはグラハム・ベルやマルコーニを引き合いに出して「パイオニアに対する迫害は珍しい事ではない」と語っている。明らかにこの時点で批判的な人々との舌戦が始まっていたのが分かる。

その一方でオーニソプターの試作機はニュージャージー州のテターボロ空港で製造が始められた。グレイグースは株券100万ドル分の発行が認められた。
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おそらくその試作オーニソプター

全てが順調に見えた。
同年9月にニュージャージー州の司法次官補であるロバート・グロスマンが詐欺の容疑でコードウェルを告発するまでは――。

グロスマンはコードウェルが自社株の51%をオーニソプターのパテントで担保していることを指摘した。彼によると「被告企業は株式証書に添付することが要求される内部収益証印が発行されるに足る資金を有していなかった」。また「非実用的なオーニソプターの製造に何千ドルもの同社の資金が浪費されていた」とも指摘している。「実用的な航空機を作るのに十分な知識を持つ者が一人もいなかった」のだ。

コードウェルとグロスマンの論争は長期化し、最終的に12月、法廷は「発明者(=コードウェル)は12月中に試作機を完成させデモ飛行を行なう事。それまでの期間株式の発行を停止する事」を決定した。

恐らくコードウェルはグロスマンを納得させることが出来なかった。数ヵ月後にはグレイグースはニュージャージーを撤退してニューヨークに移転したからだ。しかし移転先でも当局がコードウェルの事業に対していろいろと疑問を投げかけ始めた。

◎流転の連続、そしてディスクロータプレーン
1934年、コードウェルは家族と共に拠点をワシントンDCに移した。当時の電話帳によるとコードウェルはホワイトハウスから3ブロックしか離れていないニューヨークアベニューにグレイグース・エアウェイズの事務所を開設した事になっている。

同じ頃、コードウェルはメリーランド州証券取引委員会に対してグレイグースの新プロジェクトである「ディスクロータプレーン」の目論見書を提出した(グロスマンは、1932年に既にディスクロータプレーンの作業を始めていたと訴状に記している)。コードウェルが提出した書類によると彼はこの機体を「安価かつ安全で多目的に簡便に使用できる航空機で、小さな庭や建物の屋上での離着陸が可能」であり「4、5人乗りで最も安価な自動車を下回る価格で販売されるだろう」としていた。

それ以前にも円形翼を試みた発明者はいたがコードウェルのアプローチは独特の物だった。直径12ftの羽布張りの円形翼が回転するのだ。
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着陸脚の配置から見るに初期の「ディスクロータプレーン」。傍らに立っているのはコードウェルの息子のカール。

それは翼と(オートジャイロの)ローターの組合わせとして機能した。円形翼の縁に小さなブレードが取付けられ、機体が前進するとアセンブリ全体が回転するようになっていた。動力は小型の9気筒空冷ラジアルエンジンと2翅プロペラによる。操縦翼面は尾翼の方向舵と昇降舵+エルロン(エレボン)だった。機体構造は鋼管溶接フレームに羽布張りと当時の航空機の標準的なものだった。

離陸時は通常のオートジャイロと同様だが、巡航高度に達するとローターハブのブレーキを作動させ、水平飛行で約100mphの速度で飛行している間は翼を静止位置にロックする。この手順を逆に行なえば垂直に近い着陸が出来る、とコードウェルは主張した。

ディスクロータプレーンの試作機は1936年から38年の間のどこかの時点で完成し、民間航空局(CAA)は「NX99Y」の実験登録番号を発行した。

◎サイクロジャイロの再来
1937年頃、コードウェルは1923年のサイクロジャイロのアイディアを復活させ、改良を加えた試作機の製造を開始した。それは1930年代の「ポピュラーサイエンス」誌などの表紙を飾った(やはり非実用的な)飛行機械の一つだった。
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胴体の左右に取り付けられたのは3枚羽根の「パドルホイール」であり、今回はその回転軸は機軸と平行となっていた。
125hpのエンジンがパドルホイールを回転させ、垂直離陸が可能な推力が発生するはずであった。

後にコードウェルの協力者の一人は高度6ftの「試験的な浮上」に成功したと述べている。
しかしサイクロジャイロが実用化された形跡はない。やはりデモンストレーション止まりだったのだ。


コードウェルはこれら野心的なマシンの詳細な設計のために専門の航空技師を雇用している。J・オーウェン・エバンスはサイクロジャイロとディスクロータプレーンの設計に参加し、機械工のウィラード・ドリッガーズは機体の製造に協力した。ワシントンのカトリック大学工学部教授であるルイス・クルック博士はサイクロジャイロの風洞試験に協力している。

さらにコードウェルは垂直離着陸とホバリングが可能な航空機の軍事的利用価値を予測して陸軍航空隊に彼の計画を持ち込んだ。しかし残念ながら航空隊は興味を示さなかった。


◎グレイグース最期の日々
1937年後半から1938年初めにかけて、おそらく株主たちからの圧力を受けたコードウェルはドリッガーズにディスクロータプレーンのテスト飛行を行なうよう説得した。
だがドリッガーズは完成にこぎつけることが出来なかった。コードウェルの先鋭さは彼の手に余る物だったのだ。

それでもディスクロータプレーンはワシントン郊外のベニング競馬場跡地で行なわれたイベントに参加する事になり、そこで初の飛行テストが行なわれた。

後のドリッガーズの証言によると「スロットルを開くと回転する円形翼によって一気に40ftの高度まで上昇した。さらにゆっくりと上昇を続けているようだった」。ドリッガーズはコースを変えようとして機体が反応しないことに気付いた。このまま上昇を続ける事に恐怖を感じた彼はすぐにエンジンをカットした。機体は離陸地点から200ヤードの所に叩きつけられるように着地したが幸いにもドリッガーズは無傷だった。

機体の損傷も着陸脚の損傷だけだった。修復ついでに最新の前輪式に改められたがグレイグースの資金と時間をさらに奪う形となった。
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撮影年不明の一枚。画面左がジョナサン・コードウェル、操縦席に座るのがジョン・ガンツ(後述)、機体後部にいるのがカール・コードウェルと思われる。

ディスクロータプレーンを完璧な物にするには5000ドルばかり資金が不足しているとされたが問題解決に対するコードウェルの関心は明らかに失われていた。――そして彼はさらに風変わりなVTOLロータークラフト(従来型の胴体が一切省略されている)の設計に取り組み始めていた。

その後コードウェルはグレイグースの株式が、P・D・エリスとA・L・E・サムソンという人物らとの連名で「Rotor Planes Inc.」として再編されるであろう新企業の株式に交換されたことを投資家たちに通達した。

1939年、コールドウェルはグレイグース・エアウェイズを閉鎖しドリッガーズとエバンスと共にボルチモアに事業の拠点を移し、街の西側にあるエドモンソン・アベニューに工房を開いた。

そこではアナランデル郡在住の航空技師ジョン・W・ガンツを助手として雇い入れた(おそらく報酬は「Rotor Planes Inc.」の株だったはずだ)
コードウェルの最新の「ロータプレーン」は以前のディスクロータプレーンの円形翼の中央に胴体の代わりとなる円形の部分を設けるものだった。
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◎コードウェル失踪
1940年、メリーランド州の証券取引等監視委員会が「Rotor Planes Inc.」の査察を行なった。

コードウェルの姿はすでに無かった。彼の家族――妻のオリーブと息子のカールも姿を消していた。自宅には洗濯物が残されており、慌しく立ち去った事が窺えた。そしてディスクロータプレーン(NX99Y)も消えていた。

コードウェルの足取りはそこでふっつりと途切れている。
そしてその事は急速に忘れ去られた。
グレイグースの株主たちはそうではなかったろうが、世間は激化する戦争でもはやコードウェルや彼の奇妙な飛行機たちどころではなくなっていたのだ。

だが、世界規模の乱痴気騒ぎが収まった後、コードウェルの名が再び世間を騒がすことになろうとはこの時点では誰も予想していなかっただろう。


◎UFOブームで甦った過去の亡霊
1949年5月、プロジェクト・グラッジ(Project Grudge)の調査官が元グレイグース社株主を名乗る人物から「同社が『空飛ぶ円盤』と似たような物を作っていた」という連絡を受けた。

プロジェクト・グラッジはケネス・アーノルド事件以後、米国内で相次いだ未確認飛行物体の目撃・遭遇事件に対して空軍が設置した初の公的なUFO調査グループ「プロジェクト・サイン」の後継組織だった。

メリーランド州のイースタン・ショアの住民である通報者は周囲で盛り上がるUFOブームに接してコードウェルのディスクロータプレーンを思い出したのだった。

調査スタッフの間でも「空飛ぶ円盤」が地球産(terrestrial)なのか、あるいは地球外産(extraterrestrial)なのかで対立がくすぶり続けていた。そこに現れたコードウェルのロータプレーンはこの議論に決着を付ける物かもしれないと期待された。

同年6月にボルティモアにある空軍特別捜査部(OSI)第4区にコードウェルと彼の飛行マシンの捜索が命じられた。

OSIはメリーランド州警察に協力を仰いだ。
アナランデル郡の2人の保安官が恐らくはジョン・ガンツを探し当てたのだろう。彼らは8月にはグレンバーニー Glen Burnie(ボルチモア郊外)に捜査範囲を絞り込み、ローラー作戦の結果パンフリーPumphrey農場が浮かび上がった。


8月19日、州警察とOSIが農場の今は使われていないタバコの葉の納屋に踏み込むとそこには破損したディスクロータプレーンの残骸と部分的に完成した新型ロータプレーンがあった。(当時のニュースフィルム→

「ボルティモア・イブニング・サン」紙のカメラマンも同行していたためこの発見はスクープとしてその日の夕刊の紙面を飾ることになる。
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当時の新聞の紙面を飾った写真に写っているのはディスクロータプレーン(NX99Y)の残骸だろう。また他紙(St. Petersburg Times 1949年8月20日)のキャプションにはこれらが「10年前の実験に使われた残骸」とある。これはジョン・ガンツがその場にいて証言したのだろう。
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ガンツが捜査に協力し、現場に同行していたと推測できる証拠はイブニング・サンの写真だ。発見されたロータプレーンの上でガンツにポーズを取らせ、「コードウェルは10年先を行っていた」とコメントさせている。
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推測を重ねるしかないのだがガンツは1940年のコードウェル失踪時にこれら試作機の隠匿に手を貸したのだと思われる。ただ、どの農場に隠したかを忘れてしまった(夜中に行なったとすればなおさらだ)ため州警察は一軒一軒しらみつぶしに調べるという手段に出たのだろう。

新型ロータプレーンと思われるもう一つの機体はコードウェルが失踪直前に構想していたマシンの特徴を備えていた。前出の「St. Petersburg Times」によると直径14ftの合板製で、コックピットとエンジンが内蔵されていた。加えて機体の上下に取り付けられる金属製リングがあり、リングにはそれぞれ4枚のブレードの取り付け基部があった。2つのリングは互いに反対方向に回転するようになっていた。
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この時点で空軍はコードウェルの過去のロータプレーンは実際に飛行しており、現在の「空飛ぶ円盤」はその改良型だと信じていたようだ。コードウェルについて「現在は国内のどこかにいて、彼かあるいは他の誰かが開発を続けているのではないか」とし、またある記者がロータプレーンで「空飛ぶ円盤」が見せたような高速の動きが出来るのかと質問したところ「ジェットなどの適切な推進装置なら可能だ」と返答しているからだ。

当然の事ながらこの空軍の見解はセンセーショナルなニュースとなって全国を駆け巡った。

しかし、早くもほころびが現れ始めていた。
20日、イブニング・サンのライバル紙である「ボルティモア・ニュースポスト」が別の空軍スポークスマンの「グレンバーニーのマシンはあまりに前時代的であり、『空飛ぶ円盤』とはなんら関係が無い」との発言を報じた。

日曜日(8月21日)には空軍の見解はひっくり返っていた。「ボルティモア近郊で発見された2機の実験的な航空機は報告されている『空飛ぶ円盤』現象とはなんら関係が無い。(発見された航空機の)その性能は報告されている『空飛ぶ円盤』の飛行特性と合致する所がない」

空軍はドリッガーズを見つけ出していた。
コードウェルのディスクロータプレーンについて聞き取りを行なった後、ロータプレーンではUFOの説明には不足であると結論付けたのだ。

報道は一気にトーンダウンした。
コードウェルがUFOの製作者でないとすればやはりソ連か異星人のものなのか。しかし人々は回答を得られなかった。
プロジェクト・グラッジの方向性はプロジェクト・サインで「説明不能」とされた事例を目撃者の心理的問題で片付ける方に舵を切っていた。疑問は有耶無耶にされていったのだ。

唯一はっきりしていた事、それはコードウェルが結局見つからなかったという事だ。

グレンバーニーで発見されたロータプレーンの写真は今日でもUFO関連の書籍で採り上げ続けられている。
だがコードウェルのその後は今も分かっていない。没年も不明だ。

Forgatten, but Filmed Failures 《その1》

いつもお越しくださりありがとうございます。
先日このブログへのアクセス数が60万を超えました事をご報告すると共に篤く御礼申し上げます。

という訳で記念特集いきます!

さて、皆さん一度は下の動画をご覧になった事があると思います。
Novel Cycleplane (1923)
具体的にどこで見たかは憶えてなくても滑走してきた飛行機らしき物がクシャッと自重で?崩壊してしまう映像はユーモラスな印象を強く残すでしょう。

「ははぁ、フィルムの質感から相当古いもので、多分ライト兄弟と動力飛行への一番乗りを争ってた誰かさんの作だろう」と想像されるでしょう。
「それにしたってこんなに翼を増やして自分の重みで潰れてしまうとか昔の人は浅はかだなあ、ふふん」とも思われるかもしれません。

じゃあ、みんなはこれが何か知ってる?
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――飛行機が飛ぶのは当たり前という現代の常識に胡坐をかき、黎明期の試行錯誤をその名前も知らんと上から目線で笑いのめす、そんな現代人の何と多い事か!

自分もそんな一人です。
たしかに彼らは失敗し、航空技術の敗者として歴史の彼方に消え去りました。しかしその映像は残ったのです。せめてその名前だけでも掘り起こしてみよう、というのがこの特集の趣旨です。

◎映像はどこから来たのか?

現在、これら実験機の映像はYouTubeで検索すれば芋づる式にいくつも見る事が出来ます。ただ、その多くが何かから切り出してきた断片的なものです。
オリジナルというかオリジナルたちがどういうフィルムだったかを推測できると思われるものは以下の2本。
EARLY EXPERIMENTAL AIRPLANES & FLYING MACHINES
"AERONAUTICAL ODDITIES"(1930年代末?)→

THE 'WRONG' BROTHERS AVIATION'S FAILURES
"THE 'WRONG' BROTHERS  AVIATION'S FAILURES"(1920年代?)→

"AERONAUTICAL ODDITIES"は冒頭のクレジットにある通り米陸軍航空隊が作った(「ASSEMBLED」とあるので製作したのではなくかき集めてきた、といった体でしょう)コンピレーションフィルムで、ハースト・メトロトーンやパラマウント・ニュースといった名前が堂々と出てくる通り、新聞社や映画会社のニュースリール提供の下に作られたのでしょう。

"THE 'WRONG' BROTHERS~"はパテ社制作で自社のニュースリールを元に作っていると思われます。

またある機体を調べている最中に海外のフォーラムで"GIZMO"という映画タイトルが出てきました。IMDbでも映画の特定は出来ませんでしたが投稿者の説明からすると劇映画ではなく上記2例と同種のコンピレーションフィルムのようです。恐らくTVが登場するまでに同じようなフィルムが何本も作られたはずです。

ただし元になっているニュースリールは散逸してすでに存在しないでしょう。

"AERONAUTICAL ODDITIES"のように(お上が許諾を取った証拠として?)クレジットが残されているのは稀な例で、それらがカットされたいわば「名無し」の映像集たちが20世紀後半では(権利者もよく分からないまま?)TV番組で使用され、そして現在ではYouTubeで見られる動画の源流になっているのでしょう。

◎映画 "Master of the World"(「空飛ぶ戦闘艦」:1961年)

調べているうちに "Master of the World" という映画に突き当たりました。
1961年公開、ジュール・ヴェルヌ原作のこの作品は冒頭に「名無し」の映像集が使われています。

ありがたい事にIMPDb内に登場する機体たちのリストが作られていました。→

多くの機体が「Unidentified Aircraft」となっています。しかし調べて判明した機体もありますのでそれには「」と機体名を付けています。部分的にしか分からない物は「」です。これらは次回以降に順次ご紹介していく予定です。

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Unidentified
500px-Master_of_the_world9
Unidentified
500px-Master_of_the_world10
Unidentified
500px-Master_of_the_world12
Unidentified
500px-Master_of_the_world14
Gerhardt Cycleplane
500px-Master_of_the_world16
Unidentified
500px-Master_of_the_world20
Unidentified

(Willard E Blain's
ornithopter)
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Taylor McDaniel
inflatable rubber
glider
500px-Master_of_the_world26
Etienne Oemichen
N°7 Helicostat
500px-Master_of_the_world27
Unidentified

(James A. Crane's
“American Eagle)

500px-Master_of_the_world30
Unidentified
500px-Master_of_the_world31
Unidentified

(Gustav Lilienthal's
ornithopter)

500px-Master_of_the_world36
Douhéret Hélicoplane
500px-Master_of_the_world37
Unidentified

(John W. Pitts’
Sky Car)

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Unidentified

(“Gloria” The First
American Air Mail
Rocket )

500px-Master_of_the_world42
Unidentified
500px-Master_of_the_world43
Voisin Archdeacon
Hydroplane
500px-Master_of_the_world45
Bonney Gull
500px-Master_of_the_world47
Wright Flyer I

また、このリストには無くとも他のフィルムで見た憶えのある機体も織り交ぜながら、判明した範囲でご紹介していきたいと思います。

とりあえず今回は有名どころです。

◎ガーハートサイクルプレーンGerhardt Cycleplane
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冒頭でも登場した恐らく世界で最も有名な「失敗」が記録された人力飛行機です。→

1923年、オハイオ州デイトンのマーコック基地でミシガン大学航空工学部長フレデリック・ガーハートが設計し、基地スタッフの協力で製作されました。
最初は製作メンバーの資金持ち寄りでこっそりと作られていたのが後に専用のハンガーが与えられたというのが「プロジェクトX」味のある話。

最初の飛行は1923年7月に無人のトーイングで行なわれ、安定した飛行に成功したようですが、後に人力で飛行しようとしたところ映像にも残っているようにクシャリと崩壊してしまいました。
一応飛行は出来たのに、失敗の様子だけが最も有名になってしまった残念な例です。

◎フランツ・ライヒェルトFranz Reichelt
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こちらも映像に残された有名な例です。→
エッフェル塔から自作のジャンプスーツでいわば最初のパラシュート降下を行なおうとしましたが失敗して墜落死してしまった人物です。
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ライヒェルトは1879年ウィーン生まれ。1898年にパリに移住し、1909年にフランス国籍を取得しました。

1911年にフランス航空クラブが重量25kg以内で安全に使用できるパラシュートに1万フランの懸賞金をかけました。
仕立て屋としての経験があったライヒェルトは試作品を作り上げ、ダミーによる実験を成功させました。しかしその試作品は懸賞の規定には大き過ぎるものでした。

そこで小型化したスーツタイプの物をいくつか試作する事になりました。
初期のテストでは上手く作動せず、ライヒェルト自身脚を折ったりしたのにもかかわらず、「開傘に必要な高度に足りていないからだ」と信じていたようです。

そこでパリ警察に掛け合いエッフェル塔からの降下実験を行なおうとしました。最初は拒否されましたがその熱心さについに警察も折れ1912年2月4日に実験が行なわれることになりました。

警察はダミーを使用した実験と考えていたのですがライヒェルトは自身で行なう事を寸前まで明かしませんでした。

当然、それを知った警察や友人たちはライヒェルトを制止しようとしました。
安全対策はどうなっているのか尋ねられたライヒェルトは「その安全性の証明を自ら偽り無く行なうのだ」と言ったそうです。

午前8時22分、ライヒェルトは塔の下の群集に向かって“À bientôt”(すぐにお会いしましょう)と呼びかけるといくらかためらった後飛び降りました…。

ルネ・ルイ・リゥのオーニソプター

1930年代のかなり本気度が高いオーニソプター、リゥ 102T アレリオンRiout 102T Alérionについては2013年にも記事にしていますが→当時は情報が少なく「作られたが飛ばなかった」「現在は一部が博物館に展示されている」ぐらいしか分かりませんでした。

先日何気なく検索してみたところ、102Tの詳細が記載された海外ブログがありました!→
そして驚くことに102Tの製作者は1910年代にもオーニソプターを作っていたという驚愕の事実も。
今回そちらも併せて訳してみました。
まずはその1910年代のオーニソプターです。


◎デュボワ=リゥ・オーニソプター
1900年代の初期、フランス人技術者ルネ・ルイ・リゥRené Louis Rioutは自動車から航空機に関心を移していた。当初はグライダーやプロペラ機を設計していたがまもなくその興味はオーニソプターに移っていった。

1907年には自身の設計による模型オーニソプターの飛行を成功させた。その飛行距離は1909年に50m、1910年には170m、1911年には220mとなった。

1910年末、リゥは羽ばたき翼とオーニソプターの設計に関する特許を取得。1911年には英国、米国でも特許を取得した。→

特許にはクランクによる羽ばたき機構と羽ばたきによる翼の「ねじり」が解説されている。
「ねじり」によって、翼が振り上げられる時は空気をかき分けるような形状に、そして翼が打ち下ろされる時は空気を捉えるような形状になるのだ。また、翼にはスプリングが仕込まれており打ち下ろされる時のパワーによって「ねじり」の度合いが調整されるようになっていた。
US1009692-1

1913年、リゥはジャン・マリー・デュボワJean Marie DuBoisと組んでフルスケールのオーニソプターを作り上げた。
正確には製造におけるデュボワの役割は不明なのだがオーニソプターはデュボワ=リゥ・モノプレーンと呼ばれた。

機体は鋼管フレームに羽布張りの構造で垂直尾翼は下側に突き出していた。胴体からわずかに張り出すような形の水平尾翼はあったが昇降舵のないものだった。コックピットは主翼の間に位置し、着陸脚の配置は尾輪式だった。35馬力のビアレ タイプA 3気筒エンジンは機首に置かれていた。
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オーニソプターの大きな問題は離陸時にどのようにして飛行可能な速度を得るのかという点だが、デュボワ=リゥでは滑走時にエンジンで車輪を回すという手段がとられた。エンジン後部からプーリとベルト伝達で主車輪の車軸に回転を伝えるのだ。
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機体が浮上するとクラッチ切替えでエンジンは羽ばたき機構に接続される。

機体の全幅は10.5m。重量は360kgで最高速度は135km/hと予想された。

1913年末から1914年初頭にかけてリゥはオーニソプターのテストを行なったがエンジンの問題に突き当たった。この問題はエンジンの作動不良だったのか出力不足だったのかはっきりしない。

だがこの問題が解決を見る前にリゥは第一次大戦に徴兵されてしまう。1916年になってようやくデュボワ=リゥの開発を再開することを許可された。

理由は不明だがエンジンはノーム=ローヌの50馬力の物に換装された。
その後のテストでデュボワ=リゥは離陸に成功したとされている。だがその直後に墜落し、機体は大破してしまった。
この事故での死傷者は奇跡的にいなかったものの、リゥは再び前線に戻らなければならなくなった。
そしてオーニソプターもそれ以上の進展を見ることは無くなった。

機体の喪失と第一次大戦中の通常型航空機の発達を見ればリゥはオーニソプターを諦めてもおかしくはない。だが彼は20年も経ってから次なるオーニソプターの開発にとりかかるのだった。


◎Riout 102T Alérion
戦後、リゥは2枚の羽ばたき翼を持つ新たなオーニソプターを設計した。設計改良が続けられたがこのようなマシンの製作に興味を持つ人間は現れないままだった。

1927年から1933年の間、リゥはベルナール航空機(Société des Avions Bernard)をはじめとしたいくつかの企業で働いていた。ベルナールではシュナイダー杯のレーサープロジェクトに携わっていた。

1933年、リゥは国防省の下部組織Service Technique de l’Aéronautique (STAé:航空技術部)に対してオーニソプターの設計図とこれまでの研究データを提示した。提案には2枚羽根と4枚羽根のオーニソプターの模型が含まれていた。

それぞれの重量は100グラムと500グラムで実際に100メートルを飛行して見せた。この結果を受けてSTAéは電気モーターを動力とする1/5スケールモデルの製作を命じた。

1/5モデルの製作は1934年11月に始められ翌1935年2月1日に完成し、イシー=レ=ムリノー Issy-les-Moulineauxの風洞で200時間にわたるテストを受けた。
テスト結果は上々でリゥの設計の実現可能性が認められ、90馬力のエンジンで時速200kmの速度が出せるとされた。

STAéは風洞実験用にフルスケールのオーニソプターの製造を命じ、1937年4月23日、リゥはプロトタイプの製造契約を結んだ。

オーニソプターはリゥ 102T アレリオンと名付けられた。alérion(またはavalerion)とはワシほどの大きさの神話上の鳥である。
220px-Alérion.svg

全長は6.4m。全幅は8.0m。乾燥重量が500㎏で全備重量が630㎏だった。
葉巻状の胴体は鋼管フレームとアルミの外皮という構造。密閉式のコックピットは機首に位置していた。片側2つずつの着陸脚は胴体への引き込み式であり左右の間隔は1.3mだった。
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コックピットの後方に2組の金属骨組み+羽布張りの羽ばたき翼がある。その取り付けヒンジは胴体の中央部分を占める大きな物だ。この機構のすぐ後ろに75馬力のJAP(John Alfred Prestwich)OHV Vツインエンジンが搭載されていた(型式名は不明)。

設計図では羽ばたきのストロークは上方40度、下方10度の50度とされているが正確な羽ばたきの仕方は不明だ。恐らくはデュボワ=リゥ・オーニソプターに似た物だったと思われるが残された102Tの写真では前後一組ずつの翼が両方上げ位置にあったりあるいは交互に上げ位置下げ位置となっていたりするので単純にクランクシャフトに接続されていたようには見えない。

機体の製造はクルブヴォワCourbevoieのエミール・トゥーネリンÉmile Tonnelline社で進められ、最終組立はべリジー=ヴィラクブレーVélizy-Villacoublayのブレゲー社で行なわれた。

いくつかの予備テストの後、102Tはシャレ=ムードンの風洞テストに臨んだ。1938年の事だった。
最初は翼を静止させて2分間持続させるテストが行なわれた。続いて羽ばたきテストが行なわれる予定だったが20分間のテストで羽ばたき(動力を接続しての)が行なわれることはなかった。エンジンが予定の出力を出せなかったためと記録されている。

1938年4月12日、再び風洞試験が行なわれた。3時間あまりの安定性テストの後、羽ばたきテストに入った。風速は時速130km(約36m/s)。だがエンジンの回転数を4500rpmまで上げた途端、次々と翼が折れ曲がってしまった。
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この事故によってSTAéは資金と技術的援助の打ち切りを決定した。事故の前にリゥは改良を提案していたがそれも却下された。

破損した翼はすべて廃棄されたが胴体だけは何とか保存されることになった。
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現在、102TアレリオンはアンジェAngersのエスパスエアパッション地域航空博物館Espace Air Passion Musée Régional de l’Air(アンジェ=マルセ地域航空博物館)でレストアが進められている。
(博物館公式サイト→ 収蔵品が分かる旧?サイト→

その後の航空研究史にも幾度かオーニソプターが登場するが成功例はない。
リゥ102Tアレリオンのような人力ではない動力羽ばたきの試みはその中でもさらに少数派だ。


と、言う具合に機体とその開発に関する情報はかなり詳細に分かりました。

その一方でルネ・ルイ・リゥさんの情報は依然として少ないままです。
生没年すら分かりません。

102Tが破棄されたその後どうされたのかも分かりません。
1938年というとすぐに第二次大戦が始まろうという時期です。おそらく年齢的にはすぐに前線に向かったという事はないでしょう。
レジスタンス活動に身を投じたのか、あるいは逆にドイツに自分を売り込もうとしたのか。
興味の尽きない所ではあります。

ショート・サラファンド

すごい美人さんがいました。
これだけスタイルが良くて大きかったのに短命で終わってしまったのが勿体ないな~。


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ショートS.14サラファンドはショート・ブラザーズ社によって製造された複葉飛行艇である。
偵察機として軍用に計画された。1932年の完成当時は英国最大の飛行機であった。

ショート・ブラザーズ社のオズワルド・ショートは1928年にシンガポールII 飛行艇に続き、より大きな発展型を構想した。
彼はショート・ブラザーズ社がドルニエ Do X(当時最大の航空機)に匹敵する飛行艇を設計・建造することができると信じていた。

この新しい航空機はS.14と命名され、ショート・ブラザーズは資金調達のための予備図面を用意した。
ショートは自社の主任設計士アーサー・ゴージArthur Gougeと空軍元帥ヒュー・トレンチャードに対してこのような大型航空機の実現可能性を説得し、ついに仕様書R.6/28に基づいてS.14に資金を提供する航空大臣の言質を得ることができた。

Short S.14の設計はゴージが担当した。
計画は官民の合弁事業として進められ、空軍省が6万ポンドの資金を提供しショート・ブラザーズが残りを負担した。
完成すれば大西洋横断が可能な大型の複葉機飛行艇になるはずだった。

1/14スケールの模型を用いたRAEの風洞実験は満足のいく結果となり、航空機の建造は1931年中頃に開始された。
帆布張りの主翼は上下同スパンでありわずかに後退角を持たされていた。大きな翼にかかる荷重のため、その桁はジュラルミンではなくステンレス鋼でできていた。
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S.14の6基のエンジン(ロールスロイス・バザードⅢ)は流線型のナセルに前後タンデムで搭載された。

下翼の翼端側にはフロートが装備されていた。この フロートの底はステンレス鋼製であったが、交換可能な亜鉛プレートを取り付けるようになっていた。 亜鉛板はアノード(電極)として作用し、航空機の他の部分で腐食が発生するのを防いでいた。

S.14はシリアル「S1589」を与えられ最終的にはサラファンドSarafandと呼ばれた。
主翼長は120フィート(36.6 m)、全長89.5フィート(27.3 m)、全高30.3フィート(9.2 m)。
空虚重量は44,740ポンド(20,293 kg)、満載時重量は70,000ポンド(31,752 kg)だった。

上部翼は2,110米ガロン(7,987L)、下部翼は1,272ガロン(4,825L)の燃料を搭載できた。また6基のエンジンには、それぞれ28.5ガロン(45.9リットル)の冷却水タンクと16ガロン(25.7リットル)のオイル用タンクがあった。

航続距離は1,450マイル(2,334km)、最大上昇高度13,000フィート(3,962m)、
最高速度は153mph(246km/h)だった。

大きさ的にはドルニエ Do Xには及ばず当時世界第2位となった。


しかしサラファンドは商用輸送を意図されなかった。軍の長距離爆撃機・偵察機として期待されていたのだ。
実際に武装が施される事はなかったが機首、尾部に1箇所ずつ、主翼後方の胴体上部に2箇所銃座が設けられていた。
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(※尾部の銃座が確認できる写真。垂直尾翼ラダーのタブの取り付け方が前時代的でそぐわない感じでもあります)

機内は士官室(ward-room:士官食堂?)があり乗員室には合計6つの折りたたみベッド、また個室トイレがあるなど10人の乗員に対して十分すぎるほど豪華だった(しかも各セクションはインターフォンで連絡可能だった)。

胴体後部には予備エンジンを搭載するスペースがあった。小型のジブクレーンも搭載されていたので洋上でのエンジン交換も可能だった。

操縦席はフルクローズドでパイロットと副操縦士はタンデムで搭乗した。
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(※おかげでコックピット周りがしゅっとした印象)

サラファンドはロチェスターのショート・ブラザーズ第3工場で建造されていたが上の主翼を取り付けるとここの建物には収容できない事が分かった。結果として1932年6月15日に進水したサラファンドはメドウェイ河下流の造船所に曳航され、そこで上部翼が取り付けられた。

完成したサラファンドは6月30日にあらためて進水し、操縦士ジョン・パーカー、副操縦士オズワルド・ショートの手によって初飛行に成功した。
機体のコントロールは軽く、バランスが取れており、あとは少々の微調整しか必要としなかった。
7月11日の公開飛行では滑走開始後19秒で離水、最高速度は150mph(241km/h)に達し、約40分間飛行した。
Short_S14_Sarafand-13

追加的な試験飛行を何回かこなした後、1932年8月2日にフェリックスストーの海上機実験機関(MAEE)に送られた。

MAEEは大荷重時に滑走距離が大幅に増加すること、前後のプロペラに起因する振動の問題、、特定の条件下で着水時にポーポイズを起こす傾向があることを確認した。また、気温の高い南方で運用された場合、冷却の問題が起こるだろうとも指摘された。

1933年後半にステンレス鋼張りの底部に腐食が発見されたためアルクラッド材に交換された。
さらに振動とポーポイズの問題に対処するために、主翼支柱と船体に変更が加えられた。

1934年4月29日にサラファンドは再進空し、MAEEによる様々な実験飛行に引き続き使用されたが飛行するよりも係留されている時間の方が長くなっていた。
1936年、複葉のサラファンドは旧式機と判断されスクラップ処分となった。

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