蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2

歴史に埋もれたヘンな物偏愛ブログ。ただし基本 拾い食いなので安全性(信憑性)に関しては注意だ!

ミス・アトミックボム

改めまして明けましておめでとうございます。
本年も低率生産になりそうですがよろしくお願いいたします。

さて、一発目は実は何年か寝かしていたネタです。


◎ミス・アトミックボム
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「ミス・アトミックボム」は1950年代の主にネバダ州それもラスベガスで発生した文化現象です。

その頃ラスベガスの急速な発展拡大を祝って毎年行われていたパレードと美人コンテストのテーマとして「アトミックシティ」が選ばれました。当時付近で盛んに行われていた軍の核実験を街の近代化の象徴としたのです。

ただしこのミスコンが「ミス・アトミックボム」を称していた訳ではありません。また「ミス・アトミックボム」と呼ばれた女性たちが全てコンテスト優勝者だった訳でもありません。

むしろ最初のミスコン優勝者に対して誰言うともなく「ミス・アトミックボム」という呼称が出来たのをきっかけに、原子力をモチーフとした服飾を身に着けたピンナップガール的存在全般を指して「ミス・アトミックボム」と呼ぶようになった、と言うのが正しいでしょう。

また当時のラスベガスでは核実験すら一種のショーとして鑑賞するツアーが組まれていました。その場に同行するコンパニオンガール(というかマスコットガール?)が自然発生的に「ミス・アトミックボム」と呼ばれ始めたという由来もあるようです。
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ちょうどこんな感じで。

代表的な「ミス・アトミックボム」の範疇とされる女性は5人。その内コンテスト優勝者は一人だけ。あとの4人はラスベガスにある有名ホテル(ダンスショーなどを行うナイトクラブ付き)のショーガール、そして全国区の有名歌手です。

◎マリー・ロウ・マイナーMary Lou Miner(1951年)
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いきなりですがこの人は「ミス・アトミックボム」に含まれません。
しかしその嚆矢とも言える存在なので採りあげました。
1951年4月7日に撮影されたこの写真はL. A. ヘラルド・エグザミナー紙に掲載された。
サンタモニカ大通り10333番地に建設された核シェルターを紹介するものだ。

シェルター自体は個人造ではなくデベロッパーによる商品らしい。
半地下式であり、入り口の脇には何故か郵便受けが設置されている。

マリー・ロウ・マイナーはキャンペーンガールとして登用されたようだ。
彼女は女優であり『Wild Women』(1951年)、『The Tin Man』(1957年:TVドラマ)などに出演している。

◎キャンディス・キングCandyce King(1952年)
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この人が(次のポーラ・ハリスさんから遡って)最初の「ミス・アトミックボム」範疇の人、という事になります。
キャンディス・キングは1950年代のモデル、ショーガール。彼女はラスベガスのラスト・フロンティア・ホテル(現在はニュー・フロンティア・ホテル)で働いていた時に写真のモデルに選ばれた。
ホテルのプールサイドでキノコ雲をあしらった水着を着たキングはカメラの前で様々なポーズを取った。
(後ろの木々に葉が無い点、プールサイドに日光浴らしい人影はあるがプールに入っている人がいない点から撮影自体は春先に行われた事が窺える)

写真は1952年5月9日、イブニング・テレグラフ紙、デイ・レコード紙で発表された。その際「ミス・アトミック・ブラストMiss Atomic Blast」という呼称が使用された。

残念ながらキングの詳しい経歴および撮影陣の情報はネット上で見つける事が出来ない。
また「ミス・アトミック・ブラスト」がどういう経緯で立ち上げられた企画だったのかも不明だ。

彼女が着ているキノコ雲をあしらった水着のデザインは後のリー・マーリンを5年も先取りしていたがマーリンほどの影響を残す事はなかった。

◎ポーラ・ハリスPaula Harris(1953年)
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1953年、ノースラスベガス商工会議所は、毎年恒例のパレードと美人コンテストに「アトミックシティ」というテーマを設定した。
美人コンテストでミス・ノースラスベガスに選ばれたポーラ・ハリスにはいつの間にか「ミス・アトミックボム」のあだ名で呼ばれるようになった。

彼女は街の近代化を原爆のキノコ雲で表現した商工会議所の山車に乗ってパレードに参加した。

ハリスに付けられた「ミス・アトミックボム」が一連の文化現象全般を現す言葉の始まりとなった訳だが1954年以降のコンテスト優勝者の扱いがどうだったのかは不明だ。
おそらくは一般人(モデル志望とかではあったかもしれませんが)だったためか近影という物が存在していません。しかしこの人が「ミス・アトミックボム」と呼ばれた事が全ての始まりだったと思われます。


◎サリー・マクロスキーSally McCloskey(1953年)
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空中に浮かぶキノコ雲と戯れるように踊るダンサーの姿を捉えたもの。
この一連の写真はアップショット=ノットホール作戦の「ディキシーDIXIE」実験(1953年4月6日)の時に撮影された。
ダンサーの名前はサリー・マクロスキー。
彼女はサンズ・ホテルSands Hotelのショーガールだった。

撮影場所はラスベガス北西にあるチャールストン山地(標高2,289 m)のエンジェル・ピーク。(衛星写真→
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ディキシー実験はMk.5核爆弾(核出力11キロトン)を使用し爆発高度は6000ft(約1830m 標高1283mの地点における)と当時最高だった。

これらが他の「ミス・アトミックボム」と最も異なる点は米政府の公式な写真アーカイブ(National Nuclear Security Administration Nevada Site Office Photo Library 現在はNevada National Security Site)に収蔵されているという事(一時は他の写真と合わせてfrickrで公開されていたようだが現在はアカウントが削除されている)。

初出はオークランド・トリビューン誌1953年6月28日号に掲載された「ANGEL'S DANCE」という記事だ。
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二人の「ミス・キュー」
◎マルグリート・ピアッツァMarguerite Piazza(1955年)
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1955年の2月から5月にかけて行われた一連の核実験「ティーポット作戦」はたびたび強風による延期があったため「ミスキュー作戦」("Operation Mis-Cue":miscueは演劇用語でキューサインを受け損なうの意)とあだ名された。

おそらくは核実験への国民の理解を深めるために軍はあえてこのあだ名を実験のドキュメンタリー映像のタイトル("Operation Cue")に使ったりした。

当時有名なオペラ歌手だったマルグリート・ピアッツァを「ミス・キュー Miss Cue」に選んだのもこうしたパブリシティの一環だったと思われる。

1955年5月1日に発表された写真はサンズホテルのプールサイドで撮影されたものだ。水着姿のピアッツァが軍人たち(おそらく作戦の各部門責任者)によってキノコ雲型の冠を戴冠される様子が写し出されている。
奇妙な事ですがこれら一連の写真は多くの場所でピアッツァではなくもう一人の「ミス・キュー」であるリンダ・ローソンと説明されてきました。

おそらく原因は写真をアーカイブしているネバダ大学が付けたキャプションのためだと思われます。(最近になってリンダ・ローソンとするページへのリンクが404となり、ピアッツァとする新たなページが作られています)→


◎リンダ・ローソンLinda Lawson(1955)
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もう一人「ミス・キュー」の称号を冠された女性がいた。
当時サンズホテルのナイトクラブ、コパ・ショールームのキャストだったリンダ・ローソンである。
おそらくは客寄せとして「ミス・キュー」を使いたいがピアッツァを長期雇用できないホテル側がローソンを選んだと思われる。

ローソンは既に歌手としての実力を伸ばしつつあり、1960年代以降何枚かのアルバムを発表する。
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また女優としても活動の場を広げた。出演作はTVドラマが多く、初期は『ヒッチコック劇場』、近年は『ER 緊急救命室』(第11シーズン:2005年)である。

◎リー・マーリンLee Merlin(1957年)
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最も有名な「ミス・アトミックボム」はリー・A・マーリンである。
この頃には核実験は一種のショーとしてラスベガスのツアーの一部となっていた。
ラスベガス・サン紙のカメラマン、ドン・イングリッシュはプラムボブ作戦の時期に合わせて、前身頃に綿のキノコ雲をつけた水着(ただしブリジット・ジョーンズのニッカーズ(knickers:婦人用下着。腹まで覆うパンティーの一種)のように見えるとの指摘あり)を着たリー・マーリンの写真を発表した。

マーリンは核実験鑑賞ツアーを企画したサンズホテルのナイトクラブ「コパ・ショールーム」のショーガールの一人であり "ミス・アトミックボム "としてツアーに同行していた。

写真は全国に配信され人気を博した。写真は現在でも文化的アイコンとして流通している。リー・マーリンは最後の "ミス・アトミックボム "でもあった。
リー・マーリンの後継となる「ミス・アトミックボム」が出なかったのは何故かというと一時的な核実験停止を挟んで’58年以降の核実験は地下化が進んだためと思われます。ネバダ実験場での大気圏内核実験は1958年後半のハードタックⅡ以降は1962年のサンビーム作戦が最後で、4年もイベントがなければ鑑賞ツアーも廃れちゃいますよね・・・。


◎おまけ:ロシアの「ミス・アトム」
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ソ連時代にはなかったものの、2004年からロシアでも原子力に絡んだミスコンがありました。それが「ミス・アトムМисс Атом」です。

参加できたのは原子力産業に勤務する(または大学の核物理研究に携わっている)18~35歳の女性で2009年のコンテストには400人もの応募があったそうです。
その様子はGIZMODOさんでも採り上げられていました→
ちなみにこの年の優勝者はエカテリーナ・ブルハコワさん。
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コンテストは2011年で終わりみたいですが、あー、つまりその…そういう事ですね…。
ご配慮痛み入ります。

明けましておめでとうございます。

明けちゃった(テヘ
本年もよろしくお願いいたします。
ミルねえさん03
(ミル姉さんですw)

CLB 75 Tank

すっかり秋めいてまいりましたー(棒)

今回はリクエストを頂きましたのでCBL75 Tankの解説(ワタクシクオリティですが)をば。
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この戦車、以前の「ビッグホイール」シリーズで関連事項として調べてましたのでソースはいくらか揃っておりました。

CLB 75は1916年後半から1917年初頭あたりに製造された装甲車両です。
カリフォルニア州サン・レアンドロにあったC・L・ベスト・ガス・トラクションカンパニーC. L. Best Gas Traction Companyが手がけたものでごく少数(おそらく2両)が生産されました。

「CLB」は同社の創業者であるクラレンス・レオ・ベストClarence Leo Bestに由来します。
Clarence Leo Best
また、一般的に「CLB 75 Tank」と呼ばれていますがCLB社は「トラックレイヤーTrack Layer」と呼称していたようです。
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車体の構造は同社のCLB75トラクター(実はホルト社のHolt 75トラクターはこのCLB75のライセンス生産でこちらも「トラックレイヤー」という製品名だったようです)に天地逆の舟型の装甲(ボイラー用の鋼鈑で装甲厚は不明)をかぶせたものです。「ボブ・ゼンプル・タンク」同様の装甲トラクターのカテゴリーに入るでしょう。
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(中身のCLB 75 “トラックレイヤー”)

車体上部には旋回砲塔が設けられていました。2門の砲か機関銃が搭載される予定だったそうです。残されている写真ではダミーの砲身のように見えます。
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発砲しているように見える写真もありますが写真合成(レタッチ)か擬似的な発火装置ではないでしょうか。

またCLBタンクには別バージョンが存在します。
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箱型ボディのタイプでこちらの方が初期型のようです。
車体前面に砲身がありますが舟型の内部図解から察せられる通りダミーでしょう。

面白い事にこちらのタイプは動く所が見られる動画がありました。→

いずれにせよあまり実用的な車両ではなかったようです。
歩兵(カリフォルニア州軍)と行動している写真は演習というかデモンストレーションであり、後に車両は広報用に使用されていましたが1920年代にはスクラップ処分されてしまったとの事。
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CLB社も1925年にホルト社と合併してキャタピラー社Caterpillar Tractor Companyとなります。

で、
そのホルト社も同時期に似たような車両(Holt 75 Tank)を作っていました。
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やはり(と言うべきなのか)同社の75H. P. トラクターに装甲を被せたものでその形もCLBのものと良く似た舟型なので紛らわしいw
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(75H. P. トラクターは野砲の牽引用に欧州でも広く使われていました)

こちらの装甲は2~3mmというスペックが伝わってきました。
前部(写真では向かって左側)に75mmの沿岸砲1門、さらに前後に2丁ずつの機関銃、車体上部の旋回砲塔に機関銃1~4丁が予定されていました。
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車体に対する足周りの相対的小ささを見ると何となく分かる通り不整地走破性能は非常に限られたものであり、CLBタンク同様に「パレードタンク」以上の物ではなかったようです…。

ウーメラのシーヴィクセン

ファイアストリークを検索していたらちょっと変わった形の機首を持ったシーヴィクセンの写真が出てきまして。
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調べてみたらFAW.1のXJ481、例の機首にはカメラが搭載されています。
XJ481は豪ウーメラでレッドトップやマーテルミサイルの試験に従事していました。
(※世傑177にもカラースキーム図がありますが一番後ろなので見落としてましたw)

ウーメラで同じ任務に就いていたシーヴィクセンFAW.1は3機。
英海軍のテスト飛行隊所属機でXJ481の他にXJ488とXJ476です。

◎XJ481
全体に白塗装の時期もありますが有名なのが白黒ツートーンの塗装です。
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1958年9月初飛行、同年11月就役。初めから実戦部隊には配備されず当初は夜間飛行、甲板離着艦の試験機でした。
1960年3月にウーメラに移送され各種ミサイルの試験に使われる事になります。
白黒塗装は1968年頃から1974年の退役時まで。

機首に装備されたカメラはTVマーテルのシーカーと同等の物のようです。
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XJ481自体が「擬似的なTVマーテル」となり発射母機役のXJ488とのデータリンクを試験したそうです。
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また、主翼パイロンにドロップタンクの前半部分にTVマーテルのシーカーを搭載した写真も出てきました。
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退役後1981年までヨービルトンFAA博物館で屋外展示されていましたがポートランドで標準的なシーグレーと白のペイントスキームで再塗装され、ヨービルトンに戻されました。
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その後、1985年にイクストンIlkestonに、1986年にサウサンプトンに移動。3年間の屋外展示の後ハンプシャーのフリートランズ(海軍機の修理工場がある)で修復を受けました。この時特徴的なカメラ付き機首が通常のノーズに戻されたようです。
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その後2001年にヨービルトンのFAA博物館に移され現在もそこに保管されています。


◎XJ488
黒い塗装に白い稲妻が入った特徴的な塗装の機体です。
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就役は1959年4月。空中給油装置、バリアネット、標的曳航装置などの各種試験に従事しました。

1973年に退役するとボスコムダウンで消火訓練用機材に転用されましたが機首部分だけは民間に渡り1990年代初頭までポーツマス近郊のボーンヤードで保存されていました。
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その後レストアラーに引き取られ、修復後はイースト・サセックスのロバーツブリッジ航空協会博物館で展示されています。


◎XJ476
全面白塗装の機体。初飛行は1957年11月。
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ウーメラでのテストに使用された後に英本国に戻りました。

1973年9月21日にボスコムダウンに着陸した際、主脚のタイヤがバーストして主翼下面にダメージを負う事故を起こします。修理はされず、同基地の消防隊の予備機材扱いとなりました。

XJ488同様に機首部分のみがハンプシャーのサウサンプトンにあるソレント・スカイ博物館に展示されました。

その後はボスコムダウン、オールドサラム博物館のBDAC(Boscombe Down Aviation Collection)に長期貸与されています。
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ヴィクター・アラート

お久しぶりです(爆)

よもやこんな事態になろうとは昨年の改元の頃には考えもつかなかったのですがいかがお過ごしでしょうか・・・。

昨年9月、こんなツイートをしとりまして
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このとき「チャック・イェーガーが西ドイツ駐留時代に核攻撃任務に就いていて(いざ事が起これば)生還はほぼ諦めていたそうです」というリプライを頂きました。

その後しばらくしてこの核攻撃任務についての記事を見つけました。→
「ヴィクター・アラート」もしくは「クイック・リアクション・アラート」と呼ばれていたそうです。
以下、訳してみました。



1953年に就任したドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、ソビエト連邦の大規模な通常軍事力による欧州同盟国への脅威を公式に認識した。NATOは現役のソビエト175個師団による侵攻の可能性、さらに125個の予備師団が1ヶ月以内に配備可能な状態にあるという事実に直面していた。米国も戦争に疲弊したNATO諸国も、ソ連に匹敵する軍隊を再構築する余裕はなかった。

アイゼンハワーは、唯一の合理的な対抗策はヨーロッパに拠点を置く空軍のジェット戦闘機に「戦術的な」核爆弾を装備することであると判断した。これらは大規模なソ連軍とインフラを標的にして抑止力となるか、あるいは第三次世界大戦を効果的に戦う方法を提供することができるとされた。

このアプローチの利点は、米国はすでにかなりの数の原爆を保有していたのに対し、1949年にようやく最初の原爆実験を成功させたロシアは(まだ)持っていなかったことである。

主な標的は「フルダ・ギャップ」であり、ソビエトの大規模な機甲部隊が西ドイツに流入するための論理的な地理的要衝であった。そこにボトルネックがあれば、NATO は侵攻に対応するための貴重な時間を稼ぐことができた。
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北大西洋理事会(The North Atlantic Council)は1950年9月にNATOのこの戦略を承認しており、戦術核兵器は必須とされていた。空軍はジェット戦闘機と核兵器を対にした「クイック・アクション・アラート」(後に「ビクター・ アラート」と呼ばれる)を編成して対応した。
(※陸上の阻止手段として考案されたのがブルーピーコックなどの核地雷でした)

この任務は最初にアメリカの戦闘機パイロットが、後にNATO各国空軍のパイロットが参加し、大規模なソ連軍に対する主に片道切符的な核攻撃を計画・準備した。

いくつかの目標はNATOの基地に十分近く帰還が可能であった。しかし、ほとんどの場合戦闘機の作戦行動半径が限られていたため、核爆発を逃れられたとしてもパイロットが機体を捨てて友軍の勢力下にある地域に徒歩で向かわなければならないことを意味していた。


◎大部分が未経験
アイゼンハワーの決定後すぐに新型F-100Cスーパーセイバーは、ヨーロッパ全土でF-84G戦闘爆撃機とF-86迎撃機に取って代わり始めた。

F-100はF-84や86より大きく、より速く、より長い航続距離を持っていた。
「Hun」は、イギリス、西ドイツ、スペイン、イタリア、トルコの戦闘機部隊に納入された。また、モロッコのシディ・スリマンABには訓練群があり、オランダにはF-100Cを装備した防空戦隊があった。

ヨーロッパを拠点とする戦闘機の主翼は、新型の核爆弾Mk7を搭載する任務を負っていた。
彼らの目標は飛行場、鉄道基地、レーダーサイト、主要な橋など。NATO軍に襲いかかるソ連の大軍を遅らせたり止めたりするのに役立つものなら、何でも対象としたのである。

1950年代後半から1960年代初頭にかけてF-100C戦闘機パイロットの幹部はほとんどが未経験者であった。主に23歳で飛行学校を卒業したばかりのパイロットが多く、F-100で最低限の訓練を受けただけであった。

約250から300時間の飛行時間で、(特に核攻撃任務を想定した場合)空力特性の要求が高い操縦をこなさねばならず、非常に高い事故率に苦しんだ。

核作戦では、特別に改造されたF-100Cは、Mk 7核爆弾を左中間パイロンステーションに、200ガロンの燃料タンクを左アウトボード翼ステーションに、同様の燃料タンクを右インボード翼ステーションに、そしてより大きな275ガロンの燃料タンクを右中間ステーションに搭載するようにプログラムされていた。それだけの燃料を搭載しているにもかかわらず、スーパーセイバーの戦闘行動範囲は限られていた。

本拠地から450海里(518マイル)以内の近距離の目標は往復できる可能性があった。これらの近距離目標では、大統領命令のH時間(武器搬入時間)宣言を待つ間、目標付近での20分間の待機時間が許されていた。それでも戦闘機の飛行中にH時間の宣言が遅れれば、片道の任務となる。しかしパイロットたちはこれを仕事の一部として受け入れていた。

いくつかの目標は1,000マイル以上離れていた。
さらに遠方の目標の一つはウクライナのキエフの南西約60マイルに位置するソビエトの防空センターであった。攻撃ルートの一部はウィーンまで高高度で飛行することになっていた。

兵器や運搬方法は時を経て進化したが、F-100C の主要な技術は低高度爆撃システム(LABS)の肩越しトスボムの手順であった。目標に近づくと、パイロットはすでに空の主翼増槽を捨て、指定された地点で地上50フィートまで降下した。

そして、エンジンのアフターバーナーを最大推力にして、時速575マイル(500ノット)で目標に向かって突進。適切な地点で4Gを一定に保ちながら引き上げ、インメルマン・マヌーバ(ハーフ・ループ)を行う。その間、パイロットはHunの計器パネルに取り付けられたクロスポインタゲージを使って、航空機の目標への軌跡と彼の適用されたG力をモニターする。
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垂直に近い引き起こし姿勢のLABSで爆弾を放出し、それは目標に向かって弧を描くことになる。
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投弾後、核爆発から逃れるためにパイロットに与えられた時間はわずか54秒(最高速度で約10マイル)だった。爆弾は1,500フィートの高さから落下すると、その破壊的な衝撃波を最大化するために電波高度計で爆発する。一方、パイロットは核爆発による強烈な閃光の脅威に直面し、失明する可能性があった。
これを軽減するために、パイロットは片方の目を覆うアイパッチを着用し、もう片方の目が閃光で失明しても機能するようにしていた。

この時点で機体の燃料はほとんど残っておらず、加えてソ連の報復攻撃で本拠地がすでに破壊されている可能性が高かった。また、目標地域には他の戦闘機や、W5核弾頭を搭載した米国空軍のTM-61Aマタドール・ミサイル(1962年にTM-76Bメイス地対地ミサイルに置き換えられた)など米軍の核攻撃が行われていたはずである。これらのいわゆる「無人爆撃機」は、米空軍の第701戦術ミサイル飛行隊によって西ドイツの基地から発射されることになっていた。

近くにはパイロットの逃走に適した地域がいくつかあったが、若いパイロットたちが考案した(楽観的な)脱出・生存計画は、中立国スウェーデンかフィンランドに向けて燃料が尽きるまで北上し続けるというものだった。

中立地帯に到達しなければ、ついさっきその頭上に核爆弾を投下したばかりの人たちに捕えられた場合の生存可能性はまさに問題であった。


◎「ブルー・ボーイ」
核戦争のための訓練は、Mk7爆弾がどのような構造で、どう活性化し、どう起爆するかについて、空軍全体の教室で戦闘機パイロットに教育することから始められた。これには、兵器運搬技術や計器盤に取り付けられたクロスポインターゲージの使用に関する訓練が含まれていた。

核訓練飛行中のスーパーセイバーの特別な懸念事項は、離陸時の総重量の大きさであった。搭載形態は3つの主翼パイロン燃料タンクと、 "ブルーボーイ "(パイロットたちからは"シェイプ "と呼ばれていた)と呼ばれる訓練用模擬弾で構成されていた。"ブルーボーイ "は実際の核爆弾Mk.7と大きさも重さも同じだった。

この形態は非対称的に翼に取り付けられた3つの外部燃料タンクで構成されていたため、"シェイプ "無しに訓練飛行を行うには細心の注意が必要だった。
1-E3構成として知られているこの訓練形態は飛行訓練時間を出来るだけ長くとるためのものであったが、一方で突然の核アラートに備えて実弾をすぐに搭載することができるように1つのパイロンを空けておくものだった。
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しかし、ヨーロッパの典型的な悪天候の中でこれらの低空の訓練任務は多くの事故や事故寸前の事態をもたらした。
1957年、西ドイツのラムシュタイン基地を拠点とする53rd TFSは1年で2人のパイロットを失った。1959年には西ドイツのビットブルグ基地を拠点とする36th TFWはその年の後半に多数のF-100Cを失った。

事故や事故寸前の事態には霧の中から突然現れた教会の尖塔を危うく避けたり、丘の上の木々に飛び込んだりといったケースも含まれていた。脱出に成功したパイロットも(※パラシュート開傘に必要な高度に足りず)死亡する事がしばしばだった。

ある事故ではルクセンブルク近郊の丘の上の木に衝突し機体は大きく損傷した。パイロットはなんとか着陸を成功させたが機の損傷はひどく、廃機にせざるを得なかった。

1-E3構成は激しいマニューバー中の問題ももたらした。急激な左ブレイクを試みる際に、不均等に配置された増槽がヨーを誘発し、突然右に振れる可能性があったのだ。そのため、3タンク構成での模擬ドッグファイトは禁止されていた。それでも若いパイロットたちは何が起こるかを理解しながら、とにかくよくそれを行っていた。

整備上の問題もあった。ブルーボーイはMk7と同様に1,680ポンドの重さがあり、その重さと左翼パイロンタンク内のジェット燃料の重さが相まって、左のランディングギアのタイヤに大きなストレスを与えた。
その結果、離陸時にタイヤが故障することが多く、大きな事故が多発した。ランプや滑走路上のナットやボルト、ネジなどの異物によるタイヤの損傷もあったが、多くの場合は機付長が夜明け前の飛行前点検の際に、重い装備形態に備えてタイヤの空気圧を上げていなかったことが主な原因であった。
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(※ZELってもしかしたら滑走路無し離陸以外にも離陸分の燃料消費を省いたり、FODの可能性を減らす意味合いもあったかも知れませんね・・・?)

◎Green Light Means Armed
アラート任務の日には、各飛行隊の4人のパイロットが真夜中にビクターアラートを開始した。

ラムシュタイン空軍基地では53rd TFSのパイロットたちは、士官クラブでの深夜の歓談から直接指定された航空機に到着することが多かった。パイロットや機付長は核武装した航空機が駐機されているシェルターまで自家用車を走らせた。近くに武装した警備員がいたが、たいていは10代の新兵で、むしろシェルター擁壁の裏の森から聞こえる鹿やイノシシの鳴き声の方を警戒していただろう。

パイロットはエンジンを始動させ、核爆弾のコアを所定の位置にセットし、コックピット内で緑色の「武装」ランプで確認した後、今度は逆の手順で赤色の「武装解除」ランプを点灯させた。この後、航空機のエンジンを停止し、機体を固定した後、パイロットは自動車で警戒クルーのトレーラーに移動し、Gスーツとサイドアームを着用し、簡易ベッドやソファーに横になって眠りにつく。

パイロットで中尉だったゲイリー・バーンヒル氏は、1959年のある日、来訪した将軍が警戒任務中のパイロットに「機付長がいなくても航空機を発進させ、タキシングして離陸させることができるのか」と尋ねたのをきっかけに、このような緩和されたアラート手順が変更されたと話している。質問されたパイロットは考えてみた結果、第三次世界大戦を自分で始めることは可能だと答えたのである。

その後まもなく非常に詳細な「二人体制」が義務付けられた。この手順ではアラート機に犬を連れ武装した警備員の存在が必要とされた。衛兵は警戒任務のパイロットと機付長の顔写真を8×10枚撮らなければならなかった。

欧州連合国軍最高司令部、ローリス・ノルスタッド司令官は、ラムシュタインを個人的に訪問し、これらのより厳格なセキュリティ手順の実施を確認した。

ヨーロッパでのF-100Cの就役は比較的短期間で、最初は改良型のF-100Dに取って代わられた。より合理化されたMk 28やMk 43の熱核(水素)爆弾などより新しい核兵器も取得された。そして1961年5月には、戦術的な核任務のために特別に設計され、電子的にも洗練されたF-105Dサンダーチーフがスーパーセイバーに取って代わり始めた。

サンダーチーフは全天候型の能力を有していたが一部の目標に対しては往復任務の能力は十分ではなかった。通常搭載されていた武器は胴体内部爆弾槽に搭載されたMk28またはMk43であった。
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758px-Mark-28_bomb_being_transported_to_an_F-100
(Mk.28自体はF-100への搭載も可能でした)

空軍の戦闘機による核搭載任務はヨーロッパでは完全になくなったことはなく、ソビエトそして後のロシアの脅威度の満ち引きに伴ってその重要性が増したり減ったりしている。今日では米国空軍のF-16戦闘機とF-15E戦闘機は、必要に応じて戦術的な核兵器を投下することができる「デュアル能力」を備えている。B61核爆弾の最新版が開発中であり、準備が整い次第F-35AライトニングIIへの搭載が認定される予定である。

核爆弾搭載形態のF-35のテストは2016年から行われており、空軍の計画ではF-35が英国のRAFレイクンヒースに配備された後、すぐに(おそらく2020年代初頭に)、ヨーロッパで核攻撃任務を果たすことができるようにすることを求めている。

Screenshot_2020-05-04 Quick Reaction Alert (1965)
RAFの「クイック・アクション・アラート」(動画にリンクしています)

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