1940年、第2次大戦開戦以来のドイツ軍の破竹の進撃によって英国軍は大陸からの撤退を余儀なくされた。
バトル・オブ・ブリテンが始まり英国本土への直接侵攻が現実味を帯びてくる。
国民の恐れは高まり、父ちゃんの留守を預かる母ちゃんはサバイバリストと化し姉ちゃんは刹那的な恋に生きるようになり田舎の爺ちゃんは「こんな風に人生分からんモンだから真面目にやるだけ損じゃぞ」と碌でもない考えを孫に吹き込みその孫の周囲でも空襲で両親を失った女の子が数ペンスのために男子の前でスカートをたくし上げ(見るだけ)粋がった悪ガキが「汚い言葉を使ってみろよ」と絡んでくるも躊躇無く「F××k」と言うと「こ、こいつ、…勇者だ!」と一目置かれたり始業式で学校が誤爆されて「ありがとう!総統!」と大喜びしたりしていた(以上、ジョン・ブアマン監督の自伝的映画「戦場の小さな天使たち」〈"HOPE AND GLORY" 1987〉より)。

1940年5月からホームガード(初期はLDV:Local Defence Volunteers 地域防衛義勇隊と呼ばれた)が編成され17歳から65歳までの男性150万人が登録したがフランス撤退の際に大量の兵器が失われていたため深刻な装備不足が露呈した。
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最初期のホームガード。マフィアの記念写真ではない。
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時の首相ウィンストン・チャーチルと軍は即時に大量生産が可能な急造兵器の採用を進める事になる。


◎スミスガン(3 in. Smith Gun)
スミスガンはドイツの英国本土侵攻に備えて陸軍やホームガードで使用された限定的な対戦車砲である。
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フランスからの撤退で陸上兵器の多くを失ってしまったため、残存する対戦車砲(840門がダンケルクで遺棄され、国内には167門しか残っていなかった)は正規軍に優先して配備され、ホームガード用の兵器が不足していた。

ウィリアム・H・スミス退役陸軍少佐が急造の対戦車兵器としてスミスガンを設計し、チャーチル首相へのデモンストレーションを経て1941年に生産に入った。

砲身長およそ54インチ、口径3インチの滑腔砲を車輪に載せ、射程500ヤードで対戦車・対人砲弾を発射する事が出来た。
2つの車輪の間は装甲板が取り付けられこれが防盾となった。
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砲として使用する時は全体を横倒しにして一方の車輪を砲の台座とした。
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これによって左右360度、上方40度の射界を確保できた。
車両で牽引できる重量だったが(約604ポンド)、そのようには設計されていなかったので車輪を破損する恐れがあり、牽引は禁止されていた。
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有効な兵器と期待されたものの、いくつかの問題点が明らかになった。
実際の有効射程は約100〜300ヤードであり、しかも人力で移動させるには重すぎるなど扱いにくい兵器だったため「使用者を殺す」という恐ろしい評判となってしまった。

生産性の問題で1942年まで配備されず、ホームガードや陸軍の飛行場警備部隊に配備され始めてからも砲弾は1門あたり6、7発しか支給されなかった。

これらの問題にも関わらず多くのホームガード部隊は「支給されたものの中で最も良い装備だった」と後に評している。


◎ブラッカーボンバード(Blacker Bombard,29mm Spigot Mortar)
ブラッカーボンバード(または29mmスピゴットモーター)は第2次大戦初期にスチュワート・ブラッカー国防義勇軍(Territorial Army)中佐が開発した歩兵用対戦車榴弾発射器である。
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ホームガードの対戦車装備の深刻な不足を補う意図で開発されたものであるが、唯一、チャーチル首相の介入で採用された兵器である。

ブラッカーは1930年代からスピゴットモーターの研究を始めていた。
1937年にパーネルエアクラフト社の協力を得て開発した物を歩兵用軽迫撃砲コンペ「アーバレスト」に出品するがエキア社(スペイン)のSBML2インチ迫撃砲に敗北した。
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SBML2インチ迫撃砲)

しかし軍はブラッカーのアイディアに関心を持ち、軍事情報調査局(MIRc:後の国防省1課〈MD1 または「Churchill's Toyshop」として知られる〉)でレジスタンス支援用の兵器として研究を続けられた。
そしてドイツによる英国本土侵攻の恐れが高まった1940年8月にチャーチルはその大量生産を命じた。
アラン・ブルック陸軍参謀総長などはブラッカーボンバードの有効性に疑問を呈していたが、ホームガードを中心に正規軍でも採用された。

その軽量さ(112〜360ポンド)を評価した若い兵士の間で受け入れられ、14000基が発注された。
20ポンドの対戦車榴弾、14ポンドの対人榴弾を最大1分間12発、100ヤード投射する事が可能であり、近距離であれば戦車の撃破も「おおよそ可能」とされた。
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1941年に配備が開始され1942年7月までに22000基が生産された。
しかし1941年11月頃にはボンバードの適性についていくつかの部隊から懸念が出ており、その一部はトンプソン機関銃との交換を求めるか使用の拒否さえした。
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しかし、ボンバードの支給は、政府がホームガードを重要視している証左となり、また、武器の無いホームガード部隊も武装する事が出来た肯定的な面もあったとされる。
技術的には対潜兵器ヘッジホッグの基礎ともなった。


◎ホームガードパイク(HomeGuard Pike)
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ホームガードパイクの開発はチャーチルが1941年6月に陸軍省に宛てた「全ての国民がたとえ鎚矛や槍のような物しか無くとも武器を持つべきである("every man must have a weapon of some kind, be it only a mace or pike.")」とした書簡による。

陸軍省は(残念な事に)この書簡を文字通りに受け取り、1941年7月に25万の余剰銃剣を金属パイプに溶接した物の製造を命じ、1942年初期には全国のホームガードに配備された。
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さすがにこれに対してホームガードから適切な武器を要求する声が上がり、士気の低下と議会での追求を招いた。
その後も士気への影響を懸念した地区司令部は早々にパイクを処分してしまった。

◎No.76特殊焼夷手榴弾(No.76Special Incendiary Grenade)
No.76特殊焼夷手榴弾(No.76Special Incendiary Grenade。またはA.W.bomb、SIP手榴弾:SIPはSelf Igniting Phosphorus=自己着火リン)はリンの発火性を利用した焼夷手榴弾である。
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1940年7月、オルブライト&ウィルソン(Albright & Wilson)はRAFに対して白リンを使用した焼夷弾の発火装置のデモンストレーションを行なった。
安全性に懸念があったため空軍は着火材としての白リンに興味を示さなかったが自己着火ガソリン爆弾のアイディアは採用した。

No.76特殊焼夷手榴弾という正式名があったが初期にはA.W.bomb、さらにはSIP手榴弾として広く知られた。
ノースオーバープロジェクター(※後述)用だったが投擲しての使用も可能であり1941年8月の段階で600万以上が生産されたという。

SIP手榴弾は(比重によって上から)ベンジン、水、黄リン、そして生ゴムの薄片が封入されたガラス瓶である。
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普段はベンジンと黄リンの間に水が隔離層として存在している。
生ゴムの薄片は使用時に中身を撹拌する目的であったが、中でゆっくりと溶ける事から保存期間の目安ともなった。
目標に当たってビンが割れると空気に触れた黄リンが発火し、ベンジンが燃え上がる。

SIP手榴弾はホームガードのみに支給された。
安全のため水中で保存する事が厳命され、屋内での保存は禁止された。
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しかし、より現代的なドイツ戦車に対してこのような火炎瓶タイプの兵器が有効であるか疑問視する声もあった。
実際、ファーンボロで行なわれた実験では目標となった戦車の乗員は「少しも脅威を感じなかった」と述べた。

ホームガードは有事に備えてSIP手榴弾を自前の貯蔵庫に隠していたが、それら全ての貯蔵庫が記録されていた訳ではなく、さらに記録が失われてしまった場合もある。
戦後に貯蔵庫が掘り起こされる事もあり、その場合は爆破処理されている。


◎ノースオーバープロジェクター(Northover Projector)
2.5インチ投射器(Projector,2.5inch)はノースオーバープロジェクターとして広く知られている限定的な対戦車兵器である。
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1940年にホームガードのロバート・H・ノースオーバー少佐によって考案され、チャーチル首相へのデモンストレーションの後に生産された。

簡素な尾栓を備えた金属チューブを三脚に取り付けた物で、ありふれたマスケット銃の雷管によって着火された黒色火薬によって弾体を打ち出す。
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射程は最大で300ヤード。有効射程は100〜150ヤードだった。

ノースオーバーは10ポンド以下で生産できる兵器を意図していたが、この兵器に必須の三脚の値段はそれには含まれていなかった。

そのような安くて簡便な構造であったがいくつかの問題点があった。
三脚が壊れやすいので移動させるのが難しく、ホームガードの兵士達は独自に台車やサイドカーに搭載したりする改造を加えた。
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また、弾体として使用していたNo.76特殊焼夷手榴弾が薬室内で割れ、投射器本体を損壊したり操作員を負傷させる傾向にあった。
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(一応こういうワッズ?を介していたのだが…)
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さらに発射時の砲腔内圧が弱いという欠点もあった。
かと言って発射用の黒色火薬を増やせば焼夷手榴弾が薬室で割れやすくなり、それを恐れて火薬の量を減らせば全く飛距離が出ないというジレンマを抱えていた。
首尾よく発射できたとしても黒色火薬は大量の煙を発するため敵に発見されやすかった。

1940年に生産が始まり1943年までに19000基近くがホームガードに配備されたが結局は他の兵器に置き換えられた。
1941年にはより軽量で扱いやすいノースオーバープロジェクターMk.2が開発されたが生産はごく少数にとどまっている。