1940年末、「バトルオブブリテン」の最中に登場した「空中機雷」。
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この兵器の原点は戦前に遡る。
当時の戦術書はしばしば爆撃機編隊を攻撃する戦闘機の危険性を強調していた。
密集した20機以上の爆撃機からの防御十字砲火が迎撃戦闘機に多大な損失を与えるかもしれないと主張されたのだ。

したがって戦闘機が爆撃機を個別撃破するためにはその密集隊形を分散させる方法を編み出す事が重要だった。
考え出された方法は機雷原を敷設する事だった。
敵編隊の進路上に機雷のラインを設置すれば編隊は分散せざるをえないというわけだ。

多くの実験の結果、最適な機雷の仕様が決まった。
それは全長14インチ、直径7インチの円筒形のコンテナに納められ、重量141ポンドとなった。
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機雷は航空機からの投下後に展開する。
上から順に主パラシュート、緩衝コード、安定シュートを収納したアッパーハウジング、1ポンド爆弾、2000フィートのピアノ線、トーイングシュートを収納したバッグ、となっていた。

その作動は
①敵機がピアノ線を引っかけるとその衝撃で主パラシュートとアッパーハウジングが外れる。
②アッパーハウジングが外れると爆弾の安全装置が解除され、安定シュートが開く。
③同時にピアノ線を伝わった衝撃によって下部のトーイングシュートが開く。
④するとトーイングシュートは敵機によって引きずられ、ピアノ線上部の爆弾は敵機目がけて降りていく。
となる。

Long Aerial Mine (LAM)は「バトルオブブリテン」までの配備には間に合わなかった。
しかし、1940年秋の段階において戦闘機部隊にとって最大の問題となったのは敵の夜間空襲だった。

長期的には地上管制レーダー(GCI)によって誘導された空中要撃レーダー(AI)搭載のブリストル ボーファイターがその回答となった。
しかしそれらは開発の初期段階にあり、十分な配備にはまだ時間が必要だった。

そのため夜間爆撃に対して少しでも有効であると思われるは何でも投入された。
Long Aerial Mineもその一つだった。
機雷は夜間、本来の目的とは少し違った使われ方をする事になった。
敵編隊を分散させるためではなく、爆撃機を破壊する「航空機トラップ」となったのである。

機雷投下任務は高性能の機体を必要としなかった。
選ばれたのは時代遅れのハンドレページ ハーロウ双発爆撃機だった。
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ハーロウはあらかじめ二線級であることが予定された爆撃機だった。
大きな固定脚など旧式な部分が多く、その設計は爆撃機と練習機の中間的なものだった。
より高性能の機体が現れればすぐに後方任務に下げられる事が初めから考えられていたのだ。

最大積載状態で最高速度時速170マイル(高度2万フィートにて。そこまで上昇するのに46分)。
ハーロウは120発のLong Aerial Mine(総重量1700ポンド)を搭載するよう改造された。

作戦において機雷は200フィートの間隔で投下されたので、ハーロウ1機で全長4.5マイル、高度2000フィートの機雷原を形成できた。
個々の機雷の降下率は1,000ft/minであり、機雷原は2分間効果的な状態を維持できた。

1940年9月、改造ハーロウの第420航空隊がMiddle Wallopに編成され、12月には第93飛行隊に拡大、新兵器が実戦に投入された。
これらの任務ではハーロウは地上レーダーによって侵入機正面の投下ポイントまで誘導された。

12月22日の夜、P.L. Burke大尉は2機の敵爆撃機の前に機雷原を展開した。
その後間もなくレーダー上の光点の一つが突然消失し、敵爆撃機は「おそらく破壊された」と判定された。


第93飛行隊の Long Aerial Mine 任務でハーロウを操縦していた一人であるDennis Hayley-Bell大尉は後にこう語っている。

「”一人孤独にハーロウを飛ばす者” というのは長い時間の上昇と敵を待つ間に感じるかなりの孤独感を意味します。
不格好なハーロウは戦争をするにはふさわしくない機械でした。
とにかく鈍足でヒーターもなく、コックピットのシーリングはお粗末な物だったので高空では非常に寒かった。

レーダー管制官は私の方に飛んでくる敵爆撃機と思しきものを見つけるとその方向、哀れな侵入者の頭上1000フィート上空に私を誘導します。
投下の瞬間が迫ってくると侵入者の進路上に私を向かわせるため右や左への急角度のターンをする指令が飛んできます。
それから私は1秒未満の正確なインターバルで爆弾を投下する「ミッキーマウス」時計連動装置を作動させます。爆弾は200フィートの間隔で飛行機の後方に広がっていきます。

全ての機雷を投下するのに1分半ほどです。そこからはひたすら待つだけです。
幸運なら敵機がワイヤーを引っかけて爆弾を自らのもとに引き寄せた印である光が見えるでしょう。
しかし大抵は何も見えませんでした。

地上に被害を与える恐れがあったので機雷は通常、洋上で投下されました。
作戦の最初の頃は地上管制官は風の事を十分に考慮していませんでした。
そのため機雷のいくつかはBournemouthの付近に落ち、ワイヤーが送電線をショートさせました。
幸いにも皆がその停電をドイツ軍の所為と考えたので私たちは厄介事からは逃れられましたが」

Hayley-Bellの機雷投下任務での唯一の戦果は1941年3月13日の夜にドイツの爆撃機がリバプール、ハル、およびグラスゴーを攻撃するために海岸を越えて来た時だった。
クライストチャーチ近郊のSopleyレーダー管制所の指示で彼は侵入してくる爆撃機から約4マイル、3000フィート上方に位置した。

Swanage付近の海岸から12マイル沖に出た地点で機雷投下の指示を受ける。
少し待った後、彼は下方に小さな爆発を見た。続くはるかに大きな爆発はハーロウの機体を揺さぶるほどだった。

地上のレーダー管制官は目標としていた敵機は機雷原から外れた事を観測していた。しかしそこにもう1機の爆撃機が現れ機雷に接触したのだ。

Hayley-Bellは敵1機撃墜を記録した。

1941年3月11日から7月29日までの間、第93飛行隊は59回の迎撃任務で112回の機雷投下を行なった。
そのうち十分な効果が期待できる機雷原の展開はわずか16回だった。
結果として敵爆撃機1機が「撃墜」判定(Hayley-Bellの戦果)、3機以上が「おそらく撃墜」だった。

1941年の夏の間にはドイツの夜間攻撃は尻つぼみとなり、レーダー装備のボーファイターが十分に配備されるようになった。
それと比較してLong Aerial Mineはその効果の期待が非常に低いものとなり、1941年10月に使用が中止された。

第93飛行隊も1941年12月6日に解隊された。



…しかし何というか、嫌がらせ兵器を開発させたら英国の右に出るものはないですね。
しかも自国民に対して停電という嫌がらせまでしてしまった、紛う事無き英国兵器です。

("
World War II - Churchill's Aerial Mines Project"→を参考にさせて頂きました