オニード・ワシリエヴィチ・クルチェフスキー(Леонид Васильевич Курчевский 1880〜1937もしくは1939)はヤロスラヴリ州のベラスラヴリ-ザレスキーで教師の家庭に生まれた。
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モスクワの大学で数学と物理を学んだ後(学費滞納で2年で退学させられた、とあるけど当時のソ連で?)、

1916年にモスクワ防衛産業委員会の設計主任を務め、1918年からは最高国民経済会議(VSNKh)の発明委員会で研究室を持った。


1923年頃から彼は無反動砲(DRP : динамо-реактивных пушек = dynamic recoilless cannon)の研究を始める。
1924年にヘリコプター(とあるがオートジャイロっぽい)の開発に絡んだ資金横領の容疑で投獄されるが獄中でもDRPの研究を進めていた。

1929年に釈放されると翌1930年にОКБ-1 ГАУ(Опытно-конструкторское бюро - 1 Главного Артиллерийского Управления = Experimental Design Bureau #1 of the Chief Directorate of Artillery : 砲兵総局 第1実験設計局?)の設計主任となった。

1934年、兵站総局の特別プロジェクト(NKTP UUSR : Народный комиссариат танковой промышленности управление уполномоченного специальных работ = People's Commissariat of the Tank Industry  Office of Ombudsman of Special Works?)に任命された事により、クルチェフスキーはついに無反動砲を実現する機会を得た。

口径37mmから420mmまでの様々な砲が試作された。
最も有名なのが76mm BPK大隊砲だろう。だがこの無反動砲は薬室内で砲弾が破裂する危険性があった。
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2006-10-48

各種無反動砲は車両や航空機、駆逐艦などの様々なプラットフォームへの搭載試験が行われた。

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ハーレー(のコピー)に搭載された76mm無反動砲(MPK)。

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T-27豆戦車に搭載されたDRP 76mm無反動砲(SU-3)。軍でのテストで砲の不安定さ(弾道や取り扱いの安全性の両面で)を指摘され採用されなかった。

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航空機搭載用の76mmDRP
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アントノフANT-29DIP(Dvukhmotorny istrebitel pushechny : twin-engined cannon fighter) 。
102mm 無反動砲(2名の装填手を必要とする手動装填式だった)を搭載し、1936年に審査される予定だったが縦方向の不安定性など多くの問題を抱えていたため最終的に破棄された。
※その他の無反動砲搭載航空機についてはこちらを→

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駆逐艦「エンゲルス」( “Novik”級、全長102.4m、排水量1260t)に搭載された305mm無反動砲。設置場所を色々
(4カ所)と変えてテストされた。
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どすこーい!甲板上の人間と較べるとバックブラストによって発生した波の大きさが判る。
発射速度は1時間に1発!生産バージョンでは1分間に2発である事が求められたが
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砲口からの人力装填ではどう解決するつもりだったのか…。
また、同級の駆逐艦「カール・マルクス」にこの砲を5門(!)搭載する計画があったそうだ。


海空にまたがる大規模な実験が行なえたのは、ミハイル・トゥハチェフスキーやグレゴリー・オルジョニキーゼという実力者の支援があったためだった

だが運命の1937年が訪れる。

試作を繰り返したにもかかわらずクルチェフスキーの無反動砲は致命的な欠陥を改善できず、要求を満たす性能に至らなかった。
そしてついに後ろ盾であったトゥハチェフスキーによって「劣悪な兵器の設計」の廉で告発され逮捕されてしまう。

だが当のトゥハチェフスキーもその年に吹き荒れた赤軍大粛清によって5月26日に逮捕される。6月11日、裁判により死刑を宣告され即日処刑。

クルチェフスキーは同年11月25日に死刑の判決を受けた。処刑は翌26日とも1939年1月12日とも言われている。

クルチェフスキーの無反動砲は全て破棄され、その後のソ連における無反動砲開発は1942年まで停滞する事になる。
※この時代のロシアにおける無反動砲開発のもう一人の主役、コンダコフとその成果についてはここ→に詳しいです(うわ、投げた!?)
そこでも言及されてますが、開発を巡る状況を簡単に言うと1942年、ドイツ軍の無反動砲に関心を寄せたスターリンは特別委員会を立ち上げ1930年代のデータを再確認させました。この事により無反動砲の研究開発が再び活発化したようです。

ただし、委員会立ち上げ時にスターリンはクルチェフスキーに関して「好かんかった」旨の発言をしているようです。おお、怖わ。

クルチェフスキーはトゥハチェフスキー同様に戦後のスターリン批判によって名誉回復がなされている。
1956年の事だった。