カルチベーターNo.6は第2次大戦初期に英海軍が開発した塹壕掘削機の秘匿名である。
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カルチベーターNo.6はそれ自体が掘削した塹壕で車体の大部分を隠しながら敵陣に向けて前進するもので、軽度に装甲が施されている以外は武装などを持たない。
敵陣に達すると追随してきた歩兵(可能であれば戦車)の通路となる

当初は「ホワイトラビットNo.6」の名で知られていたがこれは公式の秘匿名ではない。帽子から兎を取り出してみせるようにアイディアを出すチャーチルへの比喩がこの名称に込められたとも言われている。
後により正体を連想しにくい(※そうかい?)「カルチベーターNo.6」に名称が変更され、さらに「N.L.E.トラクター」へと変更された。チャーチルは本機が「チャーチルのモグラ(Churchill's mole)」、試作車両が「ネリー(Nellie)」と呼ばれていたと後に語っている。

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(※)カルチベーター(Cultivator)は耕耘機の事なので秘匿名としてふさわしかったかどうか…。

全長77ft6in(23.62m)、総重量130tと陸上兵器としてはかなり巨大なもので、相当数の製造が予定されていた。
本機の開発・製造はチャーチル本人が熱心に支援しており使用の機会が無いと明白になってからもなおかなりの期間作業が続けられていた。
最終的にごく少数が製造されたが実戦に使われる事は無かった。
チャーチル自身は後に「責任は私にあるがなんら悔い改める所はない」と語っている。


◎発端
チャーチルは第1次大戦中の1915年2月に「陸上戦艦委員会」を創設し、そこで生み出されたのが戦車という新兵器だった。
この頃からチャーチルが抱いていたアイディアの1つが地中を掘り進んで敵の前線に奇襲をかける兵器だった。

第2次大戦の勃発によって海軍大臣に返り咲いたチャーチルは新兵器の開発を提唱した。
1つは「オペレーション・ロイヤルマリーン」で使用された河川用機雷(※ただしこのアイディアはエドワード・スピアーズ将軍が「自分がチャーチルに進言したものだ」と抗議するケチがついた)

そしてもう1つが上記の突撃用塹壕掘削車両だった。

開発は当初、海軍建艦部(Department of Naval Constructors)の監督下で行なわれ、大量生産すら計画されていた(対して陸軍省は乗り気ではなかった)。

チャーチルはこの兵器が第1次大戦で確立された塹壕戦法を無効化し、今度の戦争を連合側の有利に導くものと見ていた。
実際、戦争のシナリオはマジノ線とジークフリード線どちらかの攻略が鍵となるとの見方が強かった。

ー夜間、支援砲撃に守られながら中間地帯を密かに掘り進み、敵の防衛線に一気に攻撃をかけるーこれがチャーチルの描いたイメージだった。

1939年10月に軍需省内に「海軍陸上器材局(Department of Naval Land Equipment = NLE)」という秘密部署が設けられ艦艇設計のベテランであったJ.H.ホプキンスが「カルチベーターNo.6」の設計を任された。
開戦によって設計陣はバース(Bath:現エイヴォン州の都市。温泉で有名)に疎開し、ホプキンスは初期試算をフランク・スパナーという才能ある、しかし未熟な技師に委ねた。


◎開発

カルチベーターNo.6は機能的には2×2mの塹壕を掘り進むだけのシンプルな作業をこなすだけのものだ。
掘削器の種類と、掘り進むだけの持続的な馬力の確保が成功の鍵とも言えた。

しかし当時、設計者が参考にできる現実の機械はドイツの鉱山で使用されていた巨大なバケット掘削機だけだった。
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第1次大戦でドイツが使用したとされる塹壕掘削機

最初に構想されたのは塹壕の深さと幅に相当する大きさの円形カッターを持ち、約1000馬力(掘削と走行とに半々を振り分ける)のエンジンを持つものだった。

これは後に大型のプラウ(鋤)とシリンダー型カッターの組合わせに変更された。
プラウが塹壕の上半分(約2ft6in=0.76m)を開削し、垂直に配置されたシリンダー型カッターが下半分を掘削する。
掘削された土砂は塹壕の両脇に排出され、プラウの両脇に取り付けられた翼がそれをさらに遠くに押しやる。
ホプキンスはこのコンセプトを模型とともにチャーチルに提案した。
チャーチルはこれを気に入り、試作車の製造費用に100万ポンドを承認した。

海軍はカルチベーターNo.6の製造をラストン ビュサイラス社(Ruston-Bucyrus Ltd.)に依頼した。
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ラストン ビュサイラスは歴史のある重機メーカーである。

チャーチルは1939年12月6日に「ラストン ビュサイラスは1941年3月までに200輌の掘削機を製造する予定であり、さらに戦車用のより幅の広い塹壕掘削機を提案している」と語っている。

1939年12月12日、実際に作動する4ftの模型が完成し、チャーチルの前でデモンストレーションを行なった(模型は付属品とともに棺に似たマホガニーの箱に収められて列車でバースから運ばれたため駅ではそれを目にした多くの人が哀悼の意を表した)
土壌を模したおがくずと工作用粘土の混合物の上でそれは見事に作動。チャーチルは「葉巻を放り出すほど」喜んだという。
模型はその晩にチェンバレン首相をはじめとする首脳陣に披露された。
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(これは現代に作られた模型ですが…)

1940年1月22日にラストン ビュサイラスに正式な発注がなされ、チャーチルは模型を携えてフランスに計画の支援を要請し、(不承不承ながらの)合意を得た。
2月7日には200輌の「インファントリー」と、より全幅の広い(戦車用の)「オフィサー」40輌の製造が承認された。

だが、製造は最初の段階から躓く事になった。
ラストン ビュサイラスが使用を望んでいた最新のエンジン、ロールスロイス・マーリンの供給が空軍省から拒否されたのだ。
代替として挙ったのがデイビー パックスマン社(Davey, Paxman and Co.)の軽量ディーゼルエンジン(600馬力)を2基搭載するという案だった。
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この変更による設計のやり直しは大きな賭けだったがいくつかの利点ももたらした。
エンジン2基を掘削と走行に振り分ける事で機構的な単純化が図れた事、ディーゼルエンジンはガソリンを燃料とするマーリンよりも安全性が高いという事だった。


◎構造
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カルチベーターNo.6のプロトタイプ(「Nellie」という愛称はNLEのもじり)は幅7ft6in(2.29m)、深さ5ft(1.5m)の塹壕を1時間あたり0.42〜0.67マイル(0.68〜1.08km)掘り進む事ができた。排出する土砂が塹壕の両脇に2ft(0.61m)の壁を形成するので合計で2.1mあまりの深さの塹壕を掘り進む事になる。地上を走行する場合の走行速度は時速3.04マイル(4.89km)だった。
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77ft 6in(23.62m)の全長の内、先頭の30ft 6in(9.30m)は掘削器(重量30t)であり。この部分は上下に振る事ができた。

残りの車体部分は輸送時に2つに分割可能だった。前半分が全長23ft4in(7.11m)、重量45t。後半分が全長28ft4in(8.64m)、重量55t。全幅はともに6ft3in(1.91m)だった。
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履帯の幅は2ft(0.61m)で地上を走行する場合はクラッチ操作による方向転換が可能だった。
塹壕を掘り進んでいる場合は車体側面の油圧式「ひれ」を塹壕の側壁に押し当てる事でわずかながらの方向転換が可能だった。
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◎競合者の出現
1940年4月、リムペット機雷の開発者であるセシル・ヴァンデピール・クラークが全く違う発想の塹壕掘削機を陸軍工兵隊に提案した。

彼のアイディアは装甲車両に取り付けられた油圧式の衝角から爆薬を地面に挿入し、爆破によって穴を穿ちながら前進するというものだった。

この方式による車両はカルチベーターNo.6よりもはるかに軽量かつ単純になるはずだった。しかも地雷や対戦車障害物にも対処可能な上に爆薬を仰角を付けて発射する事もできるため、カルチベーターNo.6にはない自衛・攻撃手段を持つ事になる。
唯一の欠点は1時間あたり250ヤード(228.5m)という前進速度の遅さだけだった。

この事はすぐさまカルチベーター開発チームの知る所となった。
クラークはチャーチルの科学顧問だったフレデリック・リンデマン教授の面接を受け、年間1000ポンドでNLEの補佐官を務める事になった。
しかしこれはクラークのアイディアが彼の手を離れNLEの管理下に置かれる事を意味する。

クラークの「塹壕掘削機」はNLEによって速やかに破棄された。

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クラークの顔写真というのが一切出てこないのですよね…。
リムペット機雷の試作品を装着しているのがクラーク本人と言われているのですが
やはり顔が写っていない…。


◎チャーチルの執着
1940年のドイツによる電撃戦の衝撃はカルチベーターNo.6がもはや無用の長物である事を関係者に認識させた。
チャーチルはヘイスティングス・イスメイ軍事首席補佐官とエドマンド・アイアンサイド参謀総長に宛てた書簡で次のように述べている。
“戦争によってもたらされた変化はカルチベーターNo.6の有用性に決定的な影響を与えた。
カルチベーターNo.6は様々な作戦で攻撃的にも防御的にも使える可能性を有しているが、もはや敵の要塞線を突破する唯一の手段足り得なくなった。
私は本日、軍需省に生産計画を半減する事を命じた。これは数日中に1/4になるだろう。
余剰の資材は戦車の生産に転用できるだろう。”
間もなくカルチベーターNo.6の生産予定数は33輌までに縮小され、7月にはホプキンスに別の仕事が与えられた。

しかし計画は完全にキャンセルされた訳ではなかった。
英国は本土侵攻の危機に直面しており深刻な戦車不足の中で計画はまだ有用性があるとチャーチルは考えていたのだ。カルチベーターNo.6という秘匿名がこの段階になってN.L.E.トラクターへと変更されたのもそれを裏付ける事実とされている。

このチャーチルの執着は第1次大戦で「モグラ」を実現できなかった自身の挫折に起因すると言われている。

Nellieの愛称を持つN.L.E.トレンチングマシーンMk.I の試作車両は様々な問題を抱えながら1941年5月に完成し、参謀本部の勧告を無視する形で1942年1月にかけて試験された。

最終的に5輌の「インファントリー」が完成したが戦時中に4輌がスクラップ処理された。
4輌の「オフィサー」も製造途上にあったが1943年5月に未完成のまま破棄された。

最後の「インファントリー」が解体されたのは1950年代だったという…。



それではここで一曲、Oi!パンクの新星(当時)、トイドールズの「Nellie the Elephant」をどうぞ !

See You Next Time!(できる限り爽やかに)