第3次印パ戦争(1971年)の期間中、パキスタンは16名のインド人パイロットを戦時捕虜(POW)として捕らえ、パンジャーブ州ラワールピンディーRāwalpindī付近の捕虜収容キャンプに収監した。
その中の一人ディリップ・パルカーDilip Parulkar大尉は脱走を思いつく。パルカーのこの考えに同調した同房者、M.S.グレワルM S Grewal大尉とハリシュ・シンジーHarish Sinhji中尉が計画に加わった。
Dilip Parulkar, M S Grewal, Harish Sinhji. Image Credit
左よりD.パルカー大尉、M.S.グレワル大尉、H.シンジー中尉

3人の所属と捕虜になった経緯は以下のごとく。
  • パルカー大尉‐第26飛行隊所属、1971年12月10日、Su-7でパンジャーブ州ザファワールの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
  • グレワル大尉‐第32飛行隊所属、1971年12月4日、Su-7でパンジャーブ州ショーコットの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
  • シンジー中尉‐第29飛行隊所属、1971年12月5日、MiG-21でパンジャーブ州スルマンキの攻撃任務中に対空砲火によって撃墜された。
(※Su-7はSu-7BMK、MiG-21はMiG-21FL、ハンターはF.Mk.56と思われます)
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パルカーは'65年の第2次印パ戦争でも被撃墜、脱出(乗機はハンター)を経験しており、今回は3度目の脱出だった。

◎ラワールピンディー収容所
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パルカー達の監房には11名の捕虜が入れられていた。
収容所々長のオスマン・アミンOsman Aminは紳士的な人物だったので捕虜の待遇はかなり良い物だった。
夜間は各自の独房で寝なければならなかったが朝食から夕食までの間は捕虜同士の交流は自由だった。赤十字のスタッフが本国からの手紙や差し入れを定期的に届けていた。また、ジュネーヴ条約(「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第3条約)」)に則って週57ルピーが手当てとして支払われた。

捕虜たちは様々な関係筋の訪問を受けた。チャクララの空軍基地(ヌール・カーン空軍基地)司令が尊大な態度で自分の家のようにくつろげているか?と質問してきた時にはパルカーは「はい閣下、子供の頃に閉じ込められた小部屋を思い出します」と答えたのだった。

1972年2月になると傷病兵からインドへの送還が始まった。パルカーたちはその度送別パーティーを開いて単調な生活に変化をつけようとしていた。

戦争はすでに終わっていたが彼らの捕虜生活はまだ続きそうだった。パルカーは本国に帰還するまでは自分たちの戦争状態は終わらないと考えていた。

◎脱走計画
パルカーの脱走計画は当初誰からも相手にされなかった。そもそも『大脱走』のモデルとなったロジャー・ブッシェルに触発された計画なのだ。誰もがパルカーの誇大妄想を疑った(※収容後まもなくパルカーはつまづいて壁で頭を打ち、記憶が混乱した時期があったため尚更だった)。だがグレワルという賛同者を得て計画はにわかに現実味を帯び始めた。もう一人、V.チャティ中尉も計画に加わった。

  • チャティ中尉‐第27飛行隊所属、1971年12月4日、ハンターでミアンワリへの攻撃任務中PAFのF-6によって撃墜された。

この地域の特徴を調べてみると『大脱走』のような大がかりなトンネルは必要ない事が分った。収容棟を出て歩哨をかわし、敷地の塀と有刺鉄線を越えればすぐ大幹道(Grand Trunk Road:南アジアと中央アジアを結ぶアジア最古の主要道)に出る事が出来るのだ。

まずすべき事は塀に最も近い4号棟に移ることだった。警備員を含む施設職員を抱きこむ必要もあった。幸いこの収容所でも賄賂による買収は有効だったようだ。4号棟の部屋は4つの簡易ベッドを収容できる広さであり、パルカーは「鼻薬」でチャティ、グレワルそして自分を同室にする事に成功した。

次にパルカーは収容所長に地図帳を要求した。自身が解放後にミュンヘンオリンピックに行く計画を立てるために必要なのだと説明し、オックスフォード地図帳をまんまと手に入れた。

両軍が地雷原をはさんでにらみ合っているラホール地域を目指すのはリスクが高すぎた。まず北に向かって丘陵地帯にぶつかったら東か西に100kmほど迂回してウーリーUriかプーンチPoonch(どちらもカシミール地方の町)に至るのが賢明だ。このルートで最も困難と思われるのがジェラム川を渡る事だった。

逃避行には6、7日を費やす可能性があるため適切なサバイバル用具―背嚢、衣類、靴、コンパス、レーション、水、現金―を用意しなければならなかった。パラシュートの生地から背嚢を作り、耐Gスーツの気嚢が水袋となった。ドライフルーツとコンデンスミルクが栄養源となるだろう。現金を貯める為に倹約生活を余儀なくされた。

コンパスはパーツ一式がボールペンに納められるよう工夫された。使用する時は磁針をペンの先端で支えるという物だ。針の磁化などがどのように行なわれたかだけで一つの物語が出来るほどだった。

衣類に関しては全く問題なかった。人ごみに紛れ込むためパキスタン人の一般的な装束を作るまでも無く、家族からの差し入れで2枚のシャツとズボンがすでに入手できていたからだ。ロジスティクスの勝利だった。

この頃になってシンジー中尉がメンバーに加わった。彼はウルドゥー語/ヒンディー語/パンジャブ語の能力に劣っていたが並々ならぬ熱意でこれらの習得に励んだ。

パルカーたちは窓の鉄格子の取り付けをゆるめて押せば外れるように細工したが運悪く警備員に見つかり直されてしまった。

当然この事で詰問されたが知らぬ存ぜぬと肩をすくめるジェスチャーで誤魔化せてしまったようだった。

ある朝、インド国内にとらわれていたパキスタン人捕虜が銃殺されるという事件が起こった。このニュースを目にしたワヒダディンWahid-ud-din所長(アミンの後任)は激昂し、報復を口にしたため所内の緊張度は一気に跳ね上がった。
その中でもパルカー達の計画は着々と進められていった。昼は平静を装い夜になるとバルカーとグレワルはテーブルナイフや鉄釘、ドライバーといった物で壁を削り、人一人が這い出られる程度の穴を開けていった。シンジーは見張り役だった。4号棟脇の路地は歩哨が常に通る場所だからだ。

朝になると彼らは寝台の上に毛布をかけて「脱出口 」を隠し、壁の削り屑を差し入れの箱に隠したのだった。二人はモルタルを剥がしレンガを一つずつ取り外した。外側から見れば壁は無傷だがその内側は石膏漆喰の外皮だけが残っている状態となった。

1972年7月27日、ついに準備は整った。

翌28日夜に決行しようとしたが意外な落とし穴が立ちはだかった。外壁が破れず拳大の穴が開いただけだった。石膏ではなく硬いセメントだったのだ。結局この日は中止となった。

幸運にもこの時の小さな穴は誰にも見つからなかった。穴を開けやすくするための作業が続けられていた。その間にシンジー中尉は重要な情報を手に入れた。夜間バスの運行表だった。

◎決行
そしてついにその日が訪れた。

1972年8月13日、脱獄が決行された。
この日はパキスタン独立記念日の前日であり、祝賀ムードと週末が重なった事もあり、所内の警備は手薄となっていた。
さらに夜になると嵐が発生し、パルカー達の行動を隠してくれた。
チャティ中尉は残り、出来る限り脱走の発覚を遅らせる役割を引き受けた。
この時点での目的地はアフガニスタンのトールハムTorkhamとなっていた。

大幹道へ向かった一行はカイバル峠のトレッキングに向かう旅行者を装いペシャワール行きのバスに乗り込んだ。
パルカーとグレワルがパキスタン空軍の士官、シンジーはその友人という設定だった。

バスが満員になるまで出発を待たなければならなかった。うとうとしかけたシンジーの肩を車掌が叩いてウルドゥー語ではなくブロークンな英語で運賃を要求した。3人は彼らが周囲から浮いている事を自覚し動揺した。しかしもう引き返すことは出来ない。

そして彼らの逃避行はペシャワール郊外のジャムルードを経て国境からわずか8kmのランディ・コタルLandi Kotalで終わった。3人の風体や行動を不審に思った地元住民の通報によって当局に拘束されたのだ。

一行は鉄道沿いに歩いて国境を越えるつもりでいた。しかし、国境に最も近いパキスタン側の駅であるランディ・カーナLandi Khanaより先がアフガニスタンの要求によって1932年末に閉鎖されていたのを知らぬまま、そこまでの道のりを住民に聞きまわっていたのだ。
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(1932年当時のランディ・カーナ駅)

◎脱走劇の終幕
3人は地元警察の留置場に拘留された。
殺気立った群衆によるリンチやあるいはその襲撃を恐れる警察による勝手な銃殺もありえる。
パルカーは意を決してオスマン・アミンに電話をかける許可を取り付けた。電話口のアミンは驚きと不快感を露にしたがカイバル地区の行政長官(テシルダーtehsildar)に3人の身の安全を保証させると約束した。

最終的にパルカー達はラワールピンディーの捕虜収容キャンプに送還された。ワヒダディン所長は彼らに30日間の独房監禁を宣告した。
ワヒダディンはパルカーたちを残りの捕虜と共にさらに警備が厳重なライオールプル(現ファイサラーバード)の刑務所に移送する事にした。ライオールプルにはインド陸軍兵捕虜500人以上が収監されており、管理の一元化が図られたのだ。


1972年11月下旬、当時パキスタン首相だったズルフィカール・アリ・ブットZulfikar Ali Bhuttoは捕虜の本国送還を宣言した。
帰還者は、1972年12月1日にワガWahga国境で英雄として歓迎された。
パルカーらの脱走劇はすでにインド側にも知れ渡っていたのでアムリトサルAmritsarの空軍基地で10人のIAF将校が大歓迎を受けた。 彼らは夕方にデリーまで飛び、久しぶりに家族と再会したのだった。

パルカー大尉はこの脱走を指揮した事も含めた長年の功績により1983年にVishist Seva章が授与された。
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往々にして現実はこんな物なのでしょうが脱走する側もされる側もユルめなのが意外でしたw

この脱走劇は最近になって(2016年頃から?)クラウドファンディングによる映画化が進められ、今年の6月に公開されたようです。
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(↑動画にリンクしています)