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早いものだと思います。あれから7年、また3月11日が来た。

アメリカ人が『911の時、どこにいたか』と話し続けるように、日本人の多くは3/11が来るたびに『あの瞬間どこにいたか』と話し続ける。

私は当時、埼玉北部に住んでいてマンションの4階の自分の部屋で、パソコンに向かって仕事してました。

経験した事の無い大きく長い揺れ。ペットを抱えて、倒れそうな家具を抑えてた。



『もう終わるかな』と思っても終わらず、怖いと言うより困惑に近い感じ。

ゆったりとした長い揺れが続く中で、電気はついてた。ネットもつながったまま。

震源が東北と分かり、すぐに津波と思ったので、福島の親族に電話してもつながらず。

ネット回線を使ったスカイプでの一般電話をかけると繋がるものの、『津波が来るから神社の山へ』と言っても内陸なので『来ないから大丈夫』という返事。

常磐線の内陸側には届かず、叔父の家に津波は来なかったものの、別の親族の家は呑まれた。



子供の頃、夏休みに麦わら帽子を買った洋品店はぺしゃんこに潰れたし、海水浴場や海の家も消えた。

原発が爆発して、親族は避難。どこに避難したかがわかるのに約10日。

避難先で伯母も無くなったし、浜通り一体にいた親族もちりぢりになった。

東日本大震災での死者は約16000人。重軽傷は6000人。行方不明は2500人。

しかも当時の首相は、日本憲政史上最悪の首相と言われる菅直人。官房長官は、元・立憲民主党の枝野幸男。



活動家と過激派傘下の政治家が日本を仕切っていた。そういう意味で同時の日本人は運が無いと共に、政治家を見る目が無かった。

当時、寝る事も出来ず、ツイッターなどで親族の行方を知るものが無いか見ていた。

チャンネルを変えながら見ていて入ってくるのは、『●●壊滅、●●大火災』という情報ばかり。

翌日の朝、早朝のニュースで東京から飛んだヘリが映した風景。一面のがれき。

阪神淡路大震災の高速道路横倒しと共に、日本人が忘れないだろう景色。



数日して、計画停電。海外の報道や救助隊も入り、米軍の支援に日本人は感謝した。

そこで入ってきた韓国からのニュース。『日本沈没』と日本の震災にはしゃぐ韓国人の姿。

私の友人は当時ボストンで悲嘆にくれる彼をアメリカ人が励ます中、震災を祝って祝杯を挙げる韓国人グループを目にしている。

日本人がはっきりと韓国と韓国人に対して背を向けたのは、この時だと思う。竹島や翌年の天皇謝罪要求ではないと思う。それは加速させただけ。

『日本沈没』と喜ぶ韓国人を見て、日本人は韓国人が異質であると悟った。



韓国人とは決して理解し合えない。価値観が違う。互いに異質な存在であるという事。

韓国も日本との和解を望んでおらず、1000年続いた対立は今後1000年も続くだろうという事。

日本人はもう一度この日に、韓国・北朝鮮・中国とは共に歩む事は出来ないと言う覚悟を新たにすべきだろう。

好き嫌いではない。優劣でもない。憎む憎まないの感情論も必要ない。異質であり、共には進めないという事。

我々と彼らが関わるという事は互いに不幸になる事を示すという事を。