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韓国人質問者

朋党政治について。朋党政治は我が民族の党派性の一部である。

これが良くないと言うが、その理由をちょっと説明してくださいますか?



韓国人回答者1

朋党政治は、儒教政治で現われる自然な現象です。

​中国、特に宋にも朋党政治がありました。

​我が民族の党派性と朋党政治は何の関連もなく、 そのような主張は、日本の植民地時代、日本人が朝鮮人を劣等な存在に洗脳させるために作り出された捏造された主張です。
 




韓国人回答者2

党派の争いをただ否定的にだけ見るのは、日帝植民史観によって生じたものです。

もちろん朋党の弊害もあったが、最も大きな効用はお互いにお互いを牽制しているのです。

つまり、独裁が不可能だということです。

党派争いの時は少しでも難癖をつけて楽しく叩くのに、もし不正がばれたら、そのまま終わりですからね。

ここで王の役割が重要ですが、一方にだけ偏らず、適切に調整して国政を導けば、不正腐敗が起こることはないでしょう。

このような王としては粛宗、英祖がいます。

​朋党政治が終わり、純祖の時代から勢力も政治が始まり、牽制勢力が失われてからは、あらゆる不正腐敗が蔓延し、朝鮮が滅亡する原因となりました。



韓国人回答者3

もともと最初は儒教で物事を決める時、自由に意見を出すなどしたが、言葉が間違っていたり喧嘩になったりしました。

そして今日の二元的な政党体制と似ています。

ちなみに、これは中国でもやったことです。



引用元 https://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=336926058&qb=7J2867O47J247J2AIOyXtOuTsSDrr7zsobE=&enc=utf8&section=kin&rank=6&search_sort=0&spq=0


秦の君主・孝公と商鞅が初めて会った時、商鞅は『帝の道』を説くが、孝公は話に飽きる。

次に会った時、商鞅は一ランク下げた『王の道』を説くが、孝公は理解しない。

そこで3度目に会った時、『覇者の道』を説いたところ、夢中になって聞いたという。

商鞅は『3代で天下を取る』方法を話したのだが聞き入れられず、『すぐに強国になる道』を説いた為に、3度目で夢中になった。

商鞅は厳正な法律で、国民や官僚を律し強力な中央集権国家を目指す法家と言っていいが、その極めて厳正な法運用の為、恨みを買い誅される。

しかし『やると言ったら必ずやる、ダメと言ったら絶対ダメ』という政治で、秦が強国になるきっかけを作った。

だが秦も中華統一後、15年で滅び、厳正な法家について行けなくなった中華は、法家の代わりに儒教をその根幹として採用することになる。

そこで儒教の論語・孟子・大学・中庸の四書が必須になり、李氏朝鮮にも引き継がれる。

朋党政治というのは、同じ主義主張や利益集団による党派政治で、それは今の韓国を見てもそのまま受け継がれてる。

もし秦の孝公が、『すぐに強国になりたい』ではなく『孫の代までになればいい』と言って、緩やかな法家を選択していたら、中華史が変わり世界史が変わってた可能性はありますね。

ただもう今は韓国人の背骨にまでしみ込んで、指一本動かすにも国論が二分するお国柄ですから直ししようがない。

しかも一つの国の中に、保守韓国と従北韓国というイデオロギー分裂があるわけですから、内乱してでも国論統一しない限り、延々と韓国人で相争う事になる。

無駄な事してますよw