スポーツは、一定のルールがあり、審判の判定に従う。
戦争はどうか。いくつかの戦争でも味方は敵を殺すために手段と方法を選ばず無条件勝たなければならない。
ルールが存在するスポーツは、相手を競争し、ルールがない戦争は相手を敵と規定する。
最近の韓国の政治は、ギリシャのプラトン(BC 427〜BC 347)の時代に召喚されたようだ。
両極端な理由に基づいて、私の方では善良な存在であるイデアであり、相手はイデアの影である悪としている。
与党は陣営論理の正義に囚われ、自分たちは正義の良い存在で、政権を批判する政治勢力は悪に追い込んで積弊勢力とみなす。
今日の韓国の政党政治は、まさに戦争レベルの悲しい現実を示している。
ムン・ジェイン政権が、口癖のように叫ぶ平等・公正・正義は、空虚な響きになり久しい。
清廉ではなく破廉恥、良心の代わりに非良心が席を横取りした世界になった。 「君は吠えていろ。私は私の道を行く」である。
政権の二重性が溢れている。 「民主党を取り除こう」という新聞のコラムを書いた高麗大で、教授を民主党が検察に告発し、昨年大学のキャンパスに入って大統領批判壁新聞を付けたという理由で一人の若者が罰金刑を言い渡された。
大学側が「私たちの意思に反して不法に侵入したことがない。処罰を望まない」という意見を出したにもやたら起訴された。
イ・ジェミョン京畿道知事は、自分の政策に反対意見を出した租税財政研究者を「清算しなければなら積弊」と言語テロを加えた。
与党議員は、盧武鉉前大統領とムン・ジェイン大統領を太宗に例えたし、大統領府報道官は、ムン大統領を世宗になぞらえて龍飛を呼んだ。
このように、政権与党は、自分たちが批判受ける批判メッセージではなく、批判した人物を攻撃する。
その後、ムン派と呼ばれる激しい支持者が、命令を受けた猟犬のようにくっついて批判者を満身創痍にする。
英国の小説家であり、民主的社会主義者であるジョージ・オーウェル(1903〜1950)は、「社会主義は好きですが、社会主義者たちは好きではない」という意味のある言葉を残した。
政治でも何でも現象に直面して、自分自身を省察するところから、真の発展が始まるものだ。
引用元 https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=110&oid=025&aid=0003045098
ムン・ジェインは見事なほどに『私たちの為の政治』をしていると思いますね。
ただその『私たち』は主権者である韓国国民全てではなく、『従北左派のド左翼』であるだけで。
パク・クネ弾劾前から、客観的に見てれば気が付くはずなのに、権力者を叩き放題で相手も無抵抗、叩かなければ損・・みたいな千載一遇のチャンスに観察力を失って、夢中になったツケ。もともと観察力も無いし。
聞き逃した韓国人が悪い。それは民主党の鳩山を一時とはいえ信じた多くの日本人も同じ。途中で気が付いたから救いはあるけど。
韓国が結果として左派の手に落ちたのは、イ・ミョンバクとパク・クネの甘さにあるとも言える。
韓国は左派と右派が50/50。一種の教祖的に、左派はキム・デジュンとノ・ムヒョンを崇め、右派はパク・チョンヒを崇める。
どんな政策を訴えても国民の半数は反対する、保守政権10年間で、反共を国是とする韓国は左派の力を削ぎ、寛容さや妥協を訴える時間があった。
だが反共を訴えて半数の抵抗に会う事より、国民の95パーが飛びつく反日を安易に利用してしまった。
深刻な国内対立の是正・緩和より、反対されない反日を政権基盤として、左派の機嫌を伺い慮った。
ムン・ジェインは国内的には同じ失敗を繰り返さず、ひたすら左派の権力基盤の強化に邁進し、パク・クネのように対立側に気を使うこともなく、迷いもなく右派の力を削ぐ事に注力してる。
パク・クネは最低限のルールに縛られる者であり、ムン・ジェインはルール無視のヤクザのようなもの。反則を厭わないのだから、ルールを守る者が勝てるはずがない。
韓国人に左派の本質を見抜く力がなく、ムン・ジェインの『主語』が誰かを考えることもなく、目の前に投げられたパク・クネの首や反日に、よだれを垂らして飛びつく事しか出来ない視野の狭さを悔いるしかない。
『韓国は2度内戦をするしか国家として機能しない』と書いたのは、韓国内の意思統一・半島内の意思統一という意味で、韓国はこの国内内戦を70年間政争として延々と続けてるだけ。
韓国左派の論客が言う『親日派を粛清しよう』という保守派殲滅の指針は、ある意味では合理的というか、それ以外方法がないという事でもあり、韓国内に寛容さ・すり合わせする気がないという事でもある。
それはもう言葉通りルール無視の戦争であって、右派が世論を気にして腰が引けているうちは、韓国の右派に勝ち目はない。
