あっというまの1ヵ月のひとりっこ生活を終えてJHCHCに帰ってきました。
少しほっとしたような気持ちもありますが、この1ヵ月をどう活かしていくかが大切だなとも思い、少し身の引き締まる気持ちもあります。
少し長くなりますが、最後に関わった患者さんから学んだことを、書き残したいと思います。



その彼は、40代の男性で、頭の病変があるようでした。
しかし、入院した日の昼過ぎからSpO2が下がってきており、呼吸苦と腹痛を訴えて酸素とモニターを開始し、ポジションを調整して様子を見ていましたが、夜にかけて発熱と、不穏が出現、夜中に徐々に悪化していました。
付き添っている妻もパニックになっていて、不穏で指示に従わない患者にナイフを差し向ける場面もありました。
私は、彼が急変しないか不安でたまらなく、病院のスタッフにDrに診察を依頼するか、せめて解熱剤を投与できないか相談してみましたが、「大丈夫、朝になったら相談するから。熱はさっきカロナールを飲んでいるから。」と言われ、気にかかりながらも、クーリングをして一晩を過ごしました。

一夜明け、不穏も、酸素化も一段と悪化し、プノンペンの病院に搬送することになりました。

しかし、救急車でいざ出発しようとしたときに彼は心肺停止となり、胸骨圧迫をしながらプノンペンまで搬送しました。
救急車は、何回も混雑する車の間を縫ってすさまじいスピードで走り、激しく揺れて、私は何回も救急車内で頭をぶつけたり車内で転びました。
転んで立ち上がる間、自分が手を止めた分だけ指に着けたパルスオキシメータ―(カンボジアの救急車にはモニターはありません)の脈拍の数字は落ちていきます。
その数字を見ながら、隣の妻の泣き叫ぶ声を聞きながら、「自分がこの手を止めたら、彼は間違いなく死んでしまう。」と強く思いました。
人の命を自分が預かっていることを、これほど強く感じたのは生まれて初めてでした。


おそらく30分ほどで病院に到着しましたが、彼の手足はもう冷たく、残念ながらその場でお看取りをする形となりました。



カンボジアでは、病院で亡くなった方は、救急車で家まで送り届けることが多いそうです。
私たちも、プノンペンからそのまま彼を生まれ故郷(彼は実家を出て病院の近くで働いていました)まで、送り届けることになりました。
プノンペンから3時間30分くらいはかかったでしょうか、ベトナムの国境に近い、奥地の家まで向かいます。

車内で、妻は涙を流し、少し落ち着いて、というのを幾度となく繰り返し、隣に座っていた私は、ひたすら彼女の肩をさすり、救急車内にあった小さなガーゼで彼の顔や手足を少し拭いてあげることしかできませんでした。
彼女は、子供が3人いるの、今日は一度彼を自宅に連れて行ったあと、そのまま私たちと病院に戻り、翌日子供を連れてまたこの村に帰ってくるのだと言いました。



自宅につくと、すでに多くの親戚や村の人が集まっていました。
彼を自宅にお見送りし、手を合わせ、帰途へつきました。
彼の集落を出るとき、遠くでお葬式の音楽が流れはじめたのが聞こえ、「本当に彼は死んでしまったのだ」とこのとき改めて実感し、とても悲しく、悔しい気持ちになりました。


また長い道のりを戻りながら、妻は茫然とした顔で、外を眺めていました。
これからどうやって生活していくのだろうと思いましたが、私には想像もつかず、そしてお手伝いできないことをもどかしく感じました。
せめて、昨晩から一睡もしていない彼女に、そしてまた明日長い時間をかけてこの村に戻ってくる彼女に少し体を休めてほしいと思い、椅子のスペースを空けて少し横になってもらいました。

病院の手前で彼女は救急車を降りました。私は彼女の肩をそっと抱き、さすり、手を振って見送り、彼女は夕方の市場の人波に消えていきました。
時刻はすでに夕方の4時半をまわっていました。

病院に着くと、院長先生が「彼は、頭蓋内病変があったと思うが、本当にpoorで、プノンペンに行っても治療できるお金がないから、我々もどうするか考えあぐねていた」と教えてくれました。



カンボジアにきて3ヵ月が過ぎましたが、この国の医療の現状を初めて突き付けられたように思います。これは氷山の一角なのかもしれませんが…

病院にアクセスできない。
病院にアクセスできても、お金がなければ十分な医療を受けることができない。一家の大黒柱を失っても、保証やケアがあるわけではない。

私は彼の身体面のことだけをみて彼を搬送すべきでないか、と思い、それをスタッフに相談しました。院長先生の話を聞くまで、私はもっと早く搬送できていれば、と思わずにはいられませんでしたが、スタッフは、経済面のことを鑑み、搬送してもお金が払えなければ治療を受けられないことが予測できたから、ぎりぎりまでこの病院でみることを選択していたのだと思うと、自分の提案はとても安直なものだったのではないか、と複雑な気持ちになります。

そして、お金がなくて十分な医療が受けられなくても、彼が過ごす最後の時間となったあの夜に看護だからこそできることはもっとあったのではないか、と、この数日間、あの日を振り返りながら、考えています。
彼のポジショニングをもう少し工夫できなかったか、少しでも安楽にできるように口腔ケアしてみればよかったか、妻のパニックが少しでも落ち着くように、関われなかったか…。



医療リソースも、お金も、限られているからこそ看護が関われる意義や可能性を、この患者さんとの1日に学びました。
少しネガティブな振り返りになってしまいましたが、この1日のことを、彼の最後の姿を、あの妻の表情や、人波に消えていった彼女の背中を忘れずに、「自分にできることは何だ?」ということを、もっと問い、考えながら、これからの日々を前を向いて過ごしていきたいです。
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※写真は、彼の村のエリアを離れるときに、救急車から撮った写真です。