昨年の年末は体調を崩し、年賀状すら書けなかった。
通院しながら4日から稽古。
通院しながら4日から稽古。
そんな訳でブログ更新も・・・そこで今回のブログは正月から体験した夢と幻影二つの体験談?を。
信じるか信じないかは・・・
勢いあまってか、夢から現実に飛び込んできた「う」という夢の声
一月二日の朝、見ていた夢(正確には夢の声がと言うべきか)が夢に戻れなくなってしまった。
弾みでかこちら側、つまりわたしの部屋・・・そう、現実に飛び出してきてしまったのだ。
(「うっそぉ~」と言われても仕方がないが・・・本当なんだ)。
その声は「う」という甲高い声だった。
「う」「う」「う」とその声は、部屋へ迷い込んだ蝉や蜻蛉や蝶のように、あるいは蝙蝠や小鳥のように部屋中を飛び回っていたが・・・
しばらくするとその声は聞こえなくなった。
おそらく本棚か箪笥の裏にでも隠れたんだろう。
気になるのは、その声がうまく夢の世界に帰れるかどうかだった。
もし帰ることが出来なくなるってことになったら、その声は人間が宇宙で生きることが出来ないように、酸素不足(「夢見る不足)かな?)か何かで死んでしまうかもしれないってことだ。
いや仮に生きることが出来たとして、もし帰ることが叶わないということになると、わたしに何らかの災いがあるのだろうか?
あるいは、わたしが帰してやるための何らかの手助けをして、その声を夢の世界へ帰してやることが出来たとしたら・・・何か良いことが起きるのだろうか?
あるいはわたしが次の夢を見ることで、いとも簡単にその声は夢の世界へ帰ることが出来るのだろうか?
わたしは「う」「う」「う」と呼んでみたが何の反応もなかった。
これは「夢だ。夢が思い余って現実に飛び込んできたという夢だ」と、それ以上のことを考えるのをやめ、劇団員たちとの初詣の準備を始めた。
その後、初詣をすませ、毎年行っている新宿の居酒屋へ、
その後、ラーメンを食べたいと『博多天神』に向かったが休日だったので、バンド仲間のジーザスの行きつけの中華料理屋へ。
その後、「もう少し吞もう」と居酒屋『清瀧』へ向かったが満員だったので「しょうがない、カラオケに行くか」とカラオケに。
その後、みんなと別れて、独り新宿・花園神社の初詣の様子を見に行った。




*これは一月七日、七草粥を火にかけ、明日からの仕込みの日を待ちながら書いたものです。
なぜその後について書いたか・・・つまり朝見た《現実に迷い込んだ夢の声「う」》に関わる何かが今日一日の行動にあったかもしれないことを確認するためだったんだが・・・


普段は雲を撮っている。が、影の長くなる冬の自分の影も面白いと思い


最近、少年時代とか高校時代の思い出が鮮明に甦る病い?
最近、少年時代とか高校時代の思い出が鮮明に甦る。
とにかく鮮明なんだ。
最近の街の風景より鮮明に見えると言ったら、笑われるか、気味悪がられるだろうが、しかし、本当に鮮明に見えてしまうんだ。
「うん、確かに奇妙な現象だな・・・何かの前触れだろうことは間違いないと思うが・・・まさかね・・・ありきたりな死神、貧乏神を見たわけじゃないからね・・・いずれ、良きにしろ悪しきにしろ、知ることを望むか、知らないでいようことを望むか・・・」とアメリカで買ったコカ・コーラの空瓶にハンモックを吊って、黄昏の南国ビーチ気分を味わっているサンセット・サーファーのジュジェイエーが口をはさんできた。
「知らない方がいいと思うが・・・まさかね・・・」
「お迎えか?」
「んん~ん・・・年齢的に無きにしも非ずだろうが、一種の冴えかも知れんしな・・・」
「冴え?」
「う~ん・・・なんて言うか・・・閃きのために起こる冴え現象というか・・・あんた、また新曲や演劇の演出をやるんだろう?そのための才能を閃きさせる前触れ的現象ってやつかもねってことさ」
「なるほど・・・」
わたしは正月の残り物の数の子を口にしながら、頭の中で再生される記憶(思い出し)映像を4K、8K、16K(まだないかな)画面で見てるかのように楽しんだ。
「いいさ、死をも辞さぬつもりで、何の前触れか待ってやろうじゃん、知ってやろうじゃん・・・宝くじが当たる暗示かも知れないしな・・・」すると、ケロケロ声で「失くしたものが帰ってくるかも知れないし・・・」という声・・・その声は、江ノ島に行った時に買った身長25センチ、横幅25センチの四方形の蛙の置物の声だった。
いずれにせよ時待ちといったところか・・・・
*これは一月七日、七草粥を火にかけ、明日からの仕込みの日を待ちながら書いたものです。