看板学部と看板倒れ学部 - 大学教育は玉石混交 (中公新書ラクレ)
看板学部と看板倒れ学部 - 大学教育は玉石混交 (中公新書ラクレ)

著者である倉部史記氏は、現在進路指導の業界(?)にいてその名を見ない日はないというほど露出度の高い人物で、進路系のセミナーや講演には引っ張りだこである。最近ではニコ生でも「真☆大学デビュー」という番組を持ち、活躍の場を広げている。このブログでも2011年2月に『文学部がなくなる日』の感想を記しているが、大学職員から早稲田塾に転じ、現在フリーの「大学プロデューサー」という肩書きを持つ倉部氏とは、今年になってから初めてリアルの世界でも何度かお会いした。穏やかで感じのいい方だが、講演は実に見事な腕前で、物腰柔らかな語り口ながら明快で聴衆を引き込む話術はこの業界では白眉である。  
                        

倉部氏の待望の新著はすぐに読んだもののなかなか感想を書けずにいたが、ようやく少し余裕ができたので、ここにささやかながら記しておきたい。ただ、私が現在その任にある「進路指導部主任」という立場からすると「大学」はある意味での「取引先」でもある。予備校やその関係者もそれに準ずる場合がある。それゆえ、学校の教員は個人名で大学がらみのことを語るのはなかなか難しく、学校の公式な立場では当たり障りのないことしか書くことはできない。したがってこうした書物に関しても、ある程度自由に自分の考えが書ける匿名ブログで感想を書いていくことが多くなるのが悩ましいけれど、現在のところは失礼ながらご容赦いただきたい。


本書は、近年の「増えすぎた学部・学科」のために、進路選択をする生徒や学校現場が混乱している現実に対して一種の「交通整理」の役割を果たすものであると思う。高校生にとっても、進路指導の現場や受験生の保護者にとっても、混乱の極みにある進路選択の現状に悩まされており、こうした交通整理の必要性が急激に増してきているはずだ。


さて、第一章「間違いだらけの学部選び」では、1991年に改正された大学設置基準の規制緩和により、それまで29種類しかなかった「学士」が現在では670種類、しかもその6割以上がオンリーワン学位になっているという現実を指摘している。どの大学も他大学との違いを強調するあまり、中身のわかりにくい学部や学科を乱立させ、進路選択の混乱を招いている実情が、入学後のミスマッチにつながっていると述べる。ちなみに私は91年大学入学なので、この区分ならいわば「旧世代」となる。保護者相手の進路指導でもこの年代区分の持つ意味は意外に小さくない。

第二章、第三章では「看板学部」の成り立ちについて二つの方向性を指摘する。二章ではいくつかの大学の学部について歴史と伝統をひもとき解説を施している。「慶應の経済」、「中央の法」、「東洋の哲学」などの来歴が非常によくわかる。また、三章では慶應のSFCに代表されるような「必要な人材像から逆算してつくられた、『未来の看板学部』」に言及する。ここ数年のリベラルアーツを志向した国際系学部の増加もこの延長にあるという。信州大学の繊維学部や秋田大学の工業資源学部に言及しているところは進路指導関係者のマニア心をくすぐりそうだ。


第四章ではマーケティング的発想で作られた流行学部について問題点を指摘しているが、この部分の記述は実に巧みであり、なおかつ倉部氏の清廉な人柄が発揮された部分であると感じた。我々進路指導の現場にいる人間も思わず苦笑してしまうような珍学部名や、いかにもコンサルタントの口車に乗せられて作ったであろう学部については、ツッコミどころはいくらでもあるはずだ。しかしここで倉部氏は固有名を挙げてそうした批判をすることを注意深く避けている。たとえば受験生のニーズを分析した結果の学部名について述べたくだり、


最近なら、「国際」「子ども」「コミュニケーション」「ビジネス」「心理」「情報」「環境」「スポーツ」などの言葉が、これに当たるでしょうか。これらを組み合わせて、たとえば「国際情報コミュニケーション学部」とか「ビジネス心理学部」とか、「子ども環境学科」といった造語を、学部・学科名にするのです。
 試しに、右記のキーワードを適当に二つに組み合わせて、ウェブで検索してみてください。かなりの確率で実在の学部・学科が出てくることに、きっと驚かれると思います。

話の本筋からは逸れるかもしれないが、このように「一般化した問題提起」というのは案外難しいものだと思う。低偏差値で定員割れにもがいている大学の、藁にもすがるような思いでの改組の結果を嘲笑したり批判するような露悪的な書き方をする人も少なくはない。しかし、「看板倒れ」という事の本質が流行やニーズに右往左往する現実にあるということが理解されれば、個別の大学の姿勢を躍起になって取り上げるには及ばない。進路指導の現場にいながら大学に対して問題提起するときのスマートな姿勢だと感心してしまった。

ともあれこの章では看板倒れ学部がなぜ生まれ、そして受験生がなぜ混乱するかがよく分かる。そして今後も増え続けるだろうという予測も十分頷けるものである。


第五章では「看板に映る時代の変化」ということで、主に理系の大学の改組について現状が述べられているが、興味深いのは、関西学院大学と聖和大学の合併や慶應大学と共立薬科の合併に代表される、企業のM&Aのような形での「学部の価値浮上」について指摘している部分だ。


「集中と選択」が経済界の常識になったあおりで、教育の現場も効率的な組織戦略を迫られているのが現実であるが、その場合に各々の大学が築き上げてきた伝統や校風はどのような形で引き継がれるのだろうかということは興味深い。私が受験生の頃、泉麻人と田中康夫の共著『大学解体新書』という本が売れていたが、この本は大学を偏差値ではなく「ブランド」でランキングするという、実に「80年代的」なアプローチをしていた。軽薄な本という評価もあるかもしれないが、大学の「学風」というものへの関心という点ではなかなか貴重な取り上げ方だったように思う。私はかねがね大学の「学風」について世間がもう少し関心を寄せてもいいような気がしている。学問の世界でも「東大系」「京大系」「東北大系」などというのは学風・方法論が大きく異なり、だからこそ在学生や卒業生のアイデンティティも鮮明で、大学の多様性が発揮される側面であるのだから。


第六章「これからの学部選び」は学校関係者必読だと思う。 昨今の進路指導が、生徒自身の主体性を重んじる方向に傾き過ぎたこともあり、生徒自身が自己認識や社会認識が未熟なまま、いわば思い込みで進路選択をしているという問題は、意外に語られることが少ない。私も進路指導の時に、志望学部への思いが強い生徒が意外にもその学部について実に偏った知識しか持っていなかったという場面にはしばしば遭遇した。だからこそ、あとがきに次のように記す倉部氏の言葉は、高校の教員にとって等しく価値を持つものだと思う。

就きたい職業から逆算して進路を計画させる従来のやり方では、『想像できない未来』に対応することはできません。(中略)今後は、深い霧の中でも限られた情報を元に自分で道を選び、状況を判断しながら、安全に運転していく力を鍛えるのが、進路指導の目的になるでしょう

ブロガーの時代から「マイスター」のハンドルネームで名を馳せた倉部氏が投げかけた問題は大学にとっても進路指導の現場にとっても、そしてマスコミにとっても実に示唆に富むものである。大学進学率が60%に届こうかという時、大学とは何か、進路選択とは何かという問いはもっと考えられてもいいはずだ。その意味で、大学情報の「マイスター」の存在は今後ますます貴重なものとなってくるような気がする。



さて、せっかくの機会なので倉部氏の見事な交通整理にちょっとした抜け道を試みたい思いにかられたので自説も加えさせてもらえば、私はかねがね進路選択について、もう少し「偶然」や「縁」の働きを高く見積もってもいいのではないかと考えている。


高校生や高校の教員がどんなにあがいたところで大学の学問の本質を捉えることは困難である。そのくらい学問の世界は深遠なものだ。それならば、進路選択について一応自己分析をしたり将来像についての見通しは考えたりするものの、基本的には「遊びの部分」を残しておいた方がいいと思う。滑り止めに全然興味のない学部を受けてみたり、「女子が可愛い」という理由で志望校を決めてみたり、嫌いな勉強を徹底的に除去した結果受験できる大学を選んでみたり。つまり運命に身を委ねる部分を残しておくということだ。


こんな生徒がいた。上智大学が第一志望で一生懸命勉強してきたが、早稲田大学は受験するつもりはなかった。念のため受験を勧めてみたところ、上智大学は補欠で早稲田に合格した。結局上智は繰り上がったものの、すんなりと自分を受け入れてくれた早稲田に気持ちが傾き、結局第一志望の上智ではなく早稲田に入学した。


案外受験なんてこういうものではないのか。進路が決まるというのもこういう何気ない運命のいたずらが支配しているものではないか。「将来のことを考えて進路選択しなさい」なんて説教する大人の中にも、実はなりゆきで入った大学で思わず専門分野にのめり込んだという人も少なくないのではないか。そう考えると、大学が改革を進めた結果爆発的に増えた学部や学科は、もしかしたら「よく中身がわからない」という点において、受験生との「運命の出会い」を成就しているのかもしれない。それがどんな結果になったかは、今のところまだよく分からない。でもそれはそれでいいような気もする。社会に出れば大学以上に何が起こるか分からない世界が待っているわけだから。