夫婦二人で登った日本百名山

会社組織とそこに働く人間をどうしても好きになれなかったぼくは1990年夏、妻とまだ幼かった子供たちを連れて青森県岩木山に登りました。それからちょうど20年目の2010年7月、百番目の百名山「槍ガ岳」3180mの山頂に立ち、深田久弥の日本百名山を制覇することができました。その間、いろいろ奇怪な事件や事故、数々のアンラッキーやラッキーがありました。気力・体力などすべてに違う夫婦が二人で百名山を最後まで一緒に登りきることはとてもとても大変なことです。そんな百名山完登まで20年間のエピソードを画像とともにご紹介したいと思います。

登山

あとがき

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「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

関連ブログ
写真集「山と花と蝶」にもお立ち寄りください。
http://blog.livedoor.jp/jess8444-yamahanachou/

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ー夫婦二人で登った日本百名山ー
    あとがき

 深田久弥は著書「日本百名山」の後記で、
『日本人の心の底にはいつも山があった』と述べています。

 ぼくの場合、夏休みの宿題の「蝶」が確かにその大きな引き金を引いたことは疑いも無いことですが、それ以上に息苦しかった会社生活からの逃避が「山」であり、その中で行き着いた目標が深田久弥の「日本百名山」であったと感じています。
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 ぼくは、家から歩いて3分・自分の生まれ育った田舎の高校を出てまあまあの大学に進学して、一流の会社に就職し一流の経営者を目指しました。でも、期待に大きく胸を膨らませて入った会社は入社したその年に自ら辞め、再就職した2流会社ではまあまあの管理職にはなりましたが合併やらクーデターもどきの倒産などに遭遇するなど、経営者になるどころか社会人としての自分は不甲斐なく全くの期待以下だったのではないかと思っています。

 様々な事情はともあれ、世の中や他人に責任転嫁はできず、かといって己を責めたどころで解決しない心の暗闇に入り込むだけのもの。結局、人間たいしたことは出来ないもんだなあ・・・、と
妙に大人ぶった醒めた自分がそこにはあったような気がしています。

しかし、どう転ぼうと転ぶまいと、たった一度の人生。

なーんにも残らず、ただ焼かれた灰になって、
今はまだ小学生の孫たちが将来墓参りのときに、
”何かよくわかんないけど線香ぐらいあげてやろっか・・?”
みたいなことでは余りにも寂し過ぎるような気がしてなりません。

決して大げさなんかじゃなくていいそれは、ぼくにとっては何でも良かったようです。
どんな小さなことでもいいから、ぼく達夫婦が力を合わせ一つの目標に向かって一生懸命生きてきた何か確かな痕跡を後世に残したい。強くそう考えたのだと思います。
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《ジイジとバアバはこんな人だった、仲良くこんなことに挑戦してやり遂げたんだよ!だからみんな頑張ろうね!うん、わかった頑張るよ!》
と、すでに嫁いで行った3人の娘やそれぞれの旦那諸君、それに可愛い4人の孫たちが未来に向かって生きていくとき、少しでもその心の糧になって欲しい、と願った終着駅が妻と挑み続けてきた日本百名山であったとも思うのです。

ぼく達の場合、登山靴をはいて踏み出す一歩はせいぜい30~40cm。幼い子供ほどの歩幅ですが、それでも一歩一歩あきらめず歩を進めていけばどんな高峰でも必ず目標とする頂きに到着するものです。そこでは、年齢や性別それに社会的立場や貧富の差などは一切関係なく、とにもかくにもただひたすら自分の足で謙虚に歩き続けることのみが要求されるのです。
「大自然の中で、人はみな平等・・・」
ぼく達が百名山に傾倒していった大切な理由の大きなひとつであったのかもしれません。

深田久弥の日本百名山。
男女を問わず単独でやるのも大変ですが、ある日突然、専業主婦を外に連れ出し登山靴をはかせ重いリュックを背負わせられ、そんな妻と共に登り続けるのはとても大変なことです。

どのヤマが一番大変だった?との問いに、あれもこれも・・いやあの山も・・と言い出しますとキリがありません。
谷川岳の下山道でスリップし数メートル下に滑落した女房がダケカンバの大木に引っかからなければ百名山は愚か、ぼく達と家族の人生そのものがその瞬間、木っ端微塵に吹っ飛んでいたことでしょう。それは別格ですから、ぼくはその事件を否定しません。

しかしぼく達にとって大きなヤマ場は、何と言ってもやはり北海道日高山脈の最高峰あの「幌尻岳」ではなかったかと思っています。
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親切で優しくって頼りがいのある幌尻岳専門の山岳ガイドT氏との偶然の出会いとお導きが無ければ片道30数回にも及ぶ腰まで浸かるあの恐怖の渡渉は不可能でした。ぼく達夫婦にとって百名山成功のキーポイントはそこにあったと言っても過言ではありません。
遠隔地である上に難易度の高い北海道の百名山9座を一気にやってこれた背景にはその偶然とラッキーがあればこそですし、またそれがファイナルの穂高・槍へと順調につながっていったのではないかと確信しています。

百名山を登りきった今、その他にも感謝し御礼を申し上げなければならない方々が少なくありません。

少々身勝手ながら、ぼくが真っ先に感謝し称えたいのはやはり妻です。
重すぎる身体と肩に喰い込むザック。
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それと・・・それら何よりも、2500m越えで発症する高山病とそれに伴う猛烈な倦怠感と吐き気などすべてに耐え抜いてやり遂げたのですから・・・。
ぼくは、そんな女房に心から最大のエールを贈りたいと思います。

9人が疲労凍死したトムラウシ事故のあったちょうどその1年前、不安にビビリまくっていたぼく達を安全に山頂まで連れて行ってくださった山岳ガイドプロ中のプロ・北海道新得町のO氏夫妻とその仲間達にもお礼をいわなければなりません。

ぎっくり腰を起こしたとき、長野県警と応答してくれたり民間ヘリの都合をつけていただいた北アルプス涸沢小屋の主人S氏や半身不随のぼくに優しく対応してくれた若いスタッフの面々にも深く感謝しています。

「人間万事塞翁が馬」と言いましょうか、ぎっくり腰を起こしたが故に、その50日後リベンジで挑んだ(奥)穂高岳山荘で悪天候のため仲良しになった若い長野チームのS&Mちゃん夫妻、Fちゃん、Kちゃんたちとの出会いと不思議な『縁』。親子のような親近感のある良好な関係になるまで何故かあまり時間を要しませんでした。
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百番目の百名山「槍ガ岳」の項でその詳細を記しましたように、
もちろん、彼らによる上高地における感動のサプライズが百名山のフィナーレを無事に飾るべく、強力な後押しをしてくれ勇気づけてくれたことは、言うに及ばず生涯の大きな感動であり続けることでしょう。

99番目の奥穂高岳(2009年7月ぎっくり腰で失敗したとき)と100番目の槍ガ岳(2010年7月)のとき、TBS系ニュースワイド番組(Nスタ宮城)の中で2回にわたって(各10分間も)番組を編集し報道してくださったTBC(東北放送)の報道部デスク・斎川氏と槍の途中まで同行してくれ
SANY0042様々な密着取材をしてくれた佐々木記者ほか取材のためたびたび我が家に来訪していただきましたカメラや音声のスタッフの方々にも厚く御礼申し上げたいと思います。

百名山登頂後、TV放映をみて間髪いれずに電話やメールで祝福してくれた友人たち、祝勝会を催してくれた田舎の旧友やゴルフ仲間たち諸兄そして家族親族の各位にも同様です。

このような数多くの関係者や親しい友人達に支えられ、百名山達成の本当の歓びと感動を自分たちのものにすることが出来たように思います。

深田久弥氏の書かれた天下の名著「日本百名山」があればこそ、それに果敢に挑んだぼく達が一生涯の感動を得ることができたことは言うまでもありません。

この名著は利尻島の利尻山に始まり屋久島の宮之浦岳で終わっているものですが、著者は文学者のみならずまるで山岳歴史学者でもあるかのように百名山個々の歴史や表情あるいは素晴しさなどを巧みな文章で表現し、ぼくを飽くことなく魅了してくれました。
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当ブログの中にも、その中から数多くを引用させていただきました。
深田久弥さん、ありがとうございました。
427ページにわたる名著「日本百名山」(新潮社版第9刷)と久弥氏直筆のメモリアル「山ありてわが人生は楽し」を枕元においてぼくは毎晩安眠しています。

また、深田久弥の生まれ育った田舎(石川県)にある名峰「白山」下山後、深田久弥氏の生家を突然ご訪問させていただいたとき、どこのウマの骨かもわからないぼく達夫婦を奥座敷に通してくださったばかりでなく久弥氏が使われていたかっての書斎や遺稿などをお見せしてくれた上、菓子や湯茶のご接待までしていただきましたご親族・深田久弥氏の実弟卓弥氏と奥さまにも到底謝意を忘れることはできません。お近くに佇む深田久弥の文学碑をご案内いただき訪ねることができたのも忘れ得ない貴重な想い出となりました。
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最後になりますが、
昨年の8月から長期間にわたり当ブログをご愛読していただきました上、貴重なるご意見やコメントを賜りました多くの方々に格別の感謝とお礼を申し上げたいと思っています。
本当にありがとうございました。
当ブログの更新はひとまづこれで了としますが、まだ暫くの間、現状維持のまま公開させていただく所存です。
ご多忙のなか、充分にお読みいただけなかった項などございましたら
どうかごゆっくりと再読いただければありがたいものです。
また山好きのお知り合いの方にもご連絡していただければなおありがたいと思っています。
関連ブログ写真集「山と花と蝶」は(現在すこしネタ切れとなっていますが)今後も継続してアップしてまいりますので下記をクリックし、引き続きご覧ください。
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なお、恥ずかしながら次なるブログ
「日々の心・思うままに・・」(仮題)を準備中です。
準備でき次第、当ブログにて新ブログアドレスのご連絡をいたしますので
今後もお暇をみて時々チェックくださるようお願いいたします。

みなさま、永い間本当にありがとうございました。
またのお越しを心よりお待ちしています。
必ずお会いしましょう!
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                随筆ブログ                        
                 「夫婦二人で登った日本百名山」 完 








日本百名山登頂の全軌跡(3)

画像は拡大してご覧ください。
夫婦二人で登った日本百名山を連載しています。

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64番目の百名山「白山」下山後、石川県大聖寺町・深田久弥の生家を訪ねたとき戴いてきた深田久弥実筆のメモリアル(1999.7.16)

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   夫婦二人で登った深田久弥の日本百名山・登頂写真パネル

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                日本百名山バッジ




百名山登頂の全軌跡(2)

夫婦二人で登った日本百名山を連載しています。
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ー夫婦二人で登った日本百名山ー
       登頂の全軌跡(2)


  054.剣山       愛媛県 1998.04.30  

055.石鎚山      徳島県 1998.05.01  

056.大台ケ原山    三重県 1998.05.02  

057.伊吹山      岐阜県 1998.05.03  

058.常念岳      長野県 1998.06.06  

059.荒島岳      岐阜県 1998.06.20  

060.間ノ岳      山梨県 1998.07.20  

061.鷲羽岳      長野県 1998.08.07  

062.五竜岳      長野県 1998.09.20
  

063.大朝日岳     山形県 1999.07.03  

064.白山       石川県 1999.07.16  

065.悪沢岳      静岡県 1999.07.30  

066.赤石岳      静岡県 1999.07.31  

067.飯豊山      山形県 1999.08.18  

068.八幡平      青森県 1999.10.05
  

069.皇海山      群馬県 2000.06.18  

070.空木岳      長野県 2000.08.03  

071.塩見岳      長野県 2000.08.05  

072.剱岳       富山県 2000.09.05  

073.平が岳      群馬県 2000.10.01
  

074.宮之浦岳     鹿児島県2001.04.30  

075.開聞岳      鹿児島県2001.05.02  

076.霧島山      宮崎県 2001.05.03  

077.白馬岳      長野県 2001.07.27  

078.聖岳       山梨県 2001.08.14  

079.光岳       山梨県 2001.08.16
  

080.薬師岳      長野県 2002.08.12  

081.黒部五郎岳    長野県 2002.08.13  

082.水晶岳      長野県 2002.08.14                              

                            

083.大山       鳥取県 2005.08.11
  

084.笠ヶ岳      岐阜県 2006.08.15  

                             

085.雌阿寒岳     北海道 2008.06.26  

086.トムラウシ山   北海道 2008.07.02  

087.十勝岳      北海道 2008.07.07  

088.大雪山系旭岳   北海道 2008.07.10  

089.利尻岳      北海道 2008.07.14  

090.幌尻岳      北海道 2008.07.22  

091.羅臼岳      北海道 2008.07.27  

092.斜里岳      北海道 2008.08.01  

093.羊蹄山      北海道 2008.08.05  

094.大峰山(八経ガ岳)奈良県 2008.10.29  

095.祖母山      宮崎県 2008.11.02  

096.阿蘇山(高岳)  熊本県 2008.11.04  

097.久住山      大分県 2008.11.05
  

098.西吾妻山     福島県 2009、06.25  

099.奥穂高岳     長野県 2009.09.14
  

100.槍ガ岳      長野県 2010.07.22   

夫婦二人で登った日本百名山・登頂の全軌跡(1)

夫婦二人で登った日本百名山を連載しています。
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夫婦二人で登った
  深田久弥の日本百名山
―登頂の全軌跡―

                  

  001.岩木山      青森県 1990.08.04 

                              

  002.月山       山形県 1992.08.16 

  
  003.美ヶ原      長野県 1993.07.29 

  004.早池峰山     岩手県 1993.08.21 

  005.蔵王(熊野岳)  山形県 1993.08.29 

  006.安達太良山    福島県 1993.09.11 

  007.八甲田山(大岳) 青森県 1993.10.10
 

  008.磐梯山      福島県 1994.06.04 

  009.谷川岳      群馬県 1994.07.16 

  010.至仏山      福島県 1994.07.30 

  011.北岳       山梨県 1994.08.12 

  012.雲取山      東京都 1994.08.20 

  013.筑波山      茨城県 1994.09.17 

  014.木曽駒ヶ岳    長野県 1994.10.01 

  015.那須岳(三本槍岳)福島県 1994.10.09 

  016.赤城山      群馬県 1994.11.19  

  017.大菩薩岳     山梨県 1994.12.03  

  018.丹沢塔ノ岳    神奈川県1994.12.17  

  019.天城山      静岡県 1994.12.23
  

  020.両神山      埼玉県 1995.04.15  

  021.瑞牆山      山梨県 1995.05.05  

  022.金峰山      山梨県 1995.05.20  

  023.草津白根山    群馬県 1995.05.27  

  024.蓼科山      長野県 1995.06.10  

  025.奥白根山     群馬県 1995.06.17  

  026.会津駒ヶ岳    福島県 1995.07.08  

  027.四阿山      群馬県 1995.07.29  

  028.鳳凰山      山梨県 1995.08.05  

  029.武尊山      群馬県 1995.08.26  

  030.男体山      栃木県 1995.09.02  

031.立山(雄山)   富山県 1995.09.16   

032.御嶽山      長野県 1995.09.23

033.燧ガ岳      福島県 1995.10.08
 

034.甲武信ヶ岳    山梨県 1996.05.03   

035.乗鞍岳      長野県 1996.05.18  

036.八ヶ岳(赤岳)  長野県 1996.06.01  

037.恵那山      長野県 1996.06.15  

038.浅間山(黒斑山) 群馬県 1996.06.29  

039.焼岳       長野県 1996.07.06  

040.巻機山      新潟県 1996.07.20  

041.仙丈ガ岳     山梨県 1996.08.04  

042.苗場山      新潟県 1996.08.17  

043.火打山      長野県 1996.08.31  

044.妙高山      長野県 1996.09.01  

045.霧ヶ峰      長野県 1996.09.21  

046.鹿島槍ガ岳    長野県 1996.09.23  

047.雨飾山      長野県 1996.10.05
  

048.魚沼駒ヶ岳    新潟県 1997.06.22  

049.甲斐駒ヶ岳    山梨県 1997.07.05  

050.鳥海山      山形県 1997.07.20  

051.高妻山      長野県 1997.08.02  

052.富士山      静岡県 1997.08.16  

053.岩手山      岩手県 1997.09.20
  

               

フィナーレ「槍ガ岳」(3)

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ー百番目の百名山ー
 名峰・槍ガ岳(その3)

2日目:
2010年7月21日朝6時前、槍沢ロッジを出る。
ババ平の槍沢キャンプ地で小休憩、沢水で乾いた喉を潤す。チョロチョロだけど味はまた格別です。
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TBCのS氏は不慣れな登山の上、小型とはいえテレビカメラを携えながらの取材と連続するゴロゴロ岩の登りですでにバテ気味だ。朝とはいえ、後頭部をジリジリ照らす真夏の太陽も彼にはかなりきつそうです。

 東鎌尾根からの下山道と合流する「大曲り」を過ぎると登路は大きく右にカーブし様子は一変。まるで大舞台の幕が上がったように展望は華やかに開け、そこはもう別世界なのです。
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 槍沢を埋め尽くすほどの大雪渓が登山道を覆い隠し、ナナカマドやダケカンバなど生え揃って間もない新緑が青よりも濃い藍色の夏の空にまばゆいほどに映えているのです。
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これこそがまさに登山の醍醐味です。危険を冒し永く辛い登路に喘ぎながらも到達した者だけに味わうことができる登山冥利とはこのことを言うのではないでしょうか。

しかし、歩を進めるごとに雪渓の斜度はどんどんきつくなり滑落のリスクは高まってきます。一部アイスバーンにもなっておりアイゼンを装着すべきかどうか微妙です。
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できればアイゼンは装着したくありません。
ザックを下ろしアイゼンを取り出し安全なところで装着するだけのことなのですが、一旦登り始めてしまいますと正直なところ面倒だからです。

2日間同伴でカメラ取材を続けてきて下さったTBS系東北放送TV(TBC)のS氏とは相談の結果、登頂含めその後の記録はすべてぼくのビデオ映像に期待するとし、危険防止のため止む無くリタイアしていただくことになったのです。
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とても残念でしたが、安全かつ確実に槍の山頂を踏むためにはいたし方の無かったことでした。ぼく達は半ベソをかきながら固い握手をし、雪渓上でS氏と別れを告げたのでした(8:15)

槍沢の大雪渓は時折、右から左へそしてあるときはその逆へと、何度かトラバース(横切ること)して進んでいくのですが、そもそも傾斜地でありますし、その巾はせいぜい数十センチほど。ちょっとフラついただけでも滑落しそうで目が回り、傾斜の下方向を見ると太ももの内側がザワザワっとして脚がすくみます。

天狗原(てんぐっぱら)への分岐(9:00)を左に分け、槍ガ岳の開祖・播隆(ばんりゅう:越中生まれの念仏僧)が1828年7月、槍ガ岳登頂のあと、48日間修行した洞窟といわれる播隆窟(ばんりゅうくつ:通称、坊主岩小屋と呼ぶ)に手を合わせ(11:00)、SANY0038
少しアイスバーンになった雪渓をさらに上がっていくと右のピークに殺生ヒュッテが見えてきました。

殺生(せっしょう)ヒュッテは、もともと表銀座縦走コースの大天井岳(2922m)から西岳を経由し東鎌尾根を通って槍ガ岳に通づる喜作新道をつくったことでも有名なあの小林喜作が建てた(狩猟のための)山小屋であり、歴史は槍ガ岳山荘などより古いようです。
「上(山頂直下の槍ガ岳山荘)は超満員でも、うちはガラガラだよ!」と少しすねたように小屋主が言っていたのが僕にはむしろ心地よく、その日の宿泊としたのです。
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客が少ないのは「殺生」という名前が影響しているのかも知れません。
殺生ヒュッテのその日の宿泊客はわづか10数人。4組のふかふかの布団が敷かれた部屋があてがわれ、ぼく達二人は大の字になって極上の休息を得ることが出来たのでした。
百番目の百名山「槍ガ岳」はもうすぐ。
目の前に聳え立ち、まるでぼく達を待っているようです! (つづく)
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写真上から
*キンバイソウ咲く初夏の槍沢
 中央奥は大喰岳(おおばみだけ3101m)、その左は中岳(3084m)
*ババ平キャンプ地から槍沢
*まるで天国・初夏の槍沢に立つぼく
*楽園の妻・槍沢の登山道にて
*危険な雪渓を慎重に歩く妻
*TBC(東北放送)記者S氏
*播隆の坊主岩小屋
*家族的な殺生ヒュッテのスタッフ
*目前・槍ガ岳(殺生ヒュッテから)
*ゆっくり・ゆったり極上だった殺生ヒュッテ 

フィナーレ槍ガ岳(2)

画像は拡大してご覧ください。

槍見河原で、「えー?あんなとこまで行くのー・・・??」
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。
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ー百名山フィナーレー
   槍ガ岳へ(2)

槍・穂高の分岐となっている横尾まで上高地から梓川沿いに延々と続く11kの林道を3.5時間で歩きましたが、その日は何故か疲れません。
いつ爆発するかわからないぼくの「腰」も快調です。
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あの、感動のサプライズを演出してくれた「長野チーム」がぼく達の背中をグイグイ押してくれていたのでしょう。

「あそこまでしてぼく達を応援してくれる彼等のためにも、何としてでも槍の山頂に立ち無事下山しなきゃ・ね!」
と、登りながらぼく達は何度会話したことでしょうか。
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正午近く、登山道から唯一槍の穂先が見えるという槍見河原に到着。
清流・槍沢(梓川の源流)のずっとずっと天空遥かかなた上方に目をやりますと、霞むように聳え立つ槍の穂先が確かに見えているではありませんか。
水平距離でまだ7、8キロは先です。
「えェ~?、あんなとこまで行くのォ・・・?、コワーイ!!」
と、あきれていた妻でしたが、その表情には明るい笑みがあり、
「私も頑張るわ、だからあなたも一緒に頑張ろうね!」
と、希望に満ち溢れた顔でもありました。


上高地を発って7時間、約16キロの登路に耐えその日の宿泊地”槍沢ロッジ”に到着です。
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99番目のリベンジ穂高の時もそうでしたが、永年ぼく達の山行スタイルだった自炊はぎっくり腰予防のため封印し、2食つきの小屋泊まりとしましたのでザックはせいぜい10キロ程度。これなら身体にはかなり楽チンです。小屋に到着したらすぐカイロを貼り腰部を温ため昼寝休息。SANY0050
大好きな写真撮影も腰のために極力控え、とにかく百名山のフィナーレを飾る「槍ガ岳」の無事登頂に全神経を集中する僕でした。(つづく)






写真上から
*百番目の百名山・槍ガ岳(殺生ヒュッ 
 テから)
*長野チームの3人
  (宮城県の我が家を訪問時、奥松島
  付近をドライブ2010年1月)
*はるか天空に槍の穂先が見える
  槍見河原 
*生ビール(@1000円)で乾杯する
  TBCの記者S氏と妻(登山初日の宿泊地・槍沢ロッジにて)
*槍まであと6キロ、これから本当の辛い登りが始まる
  (槍沢ロッジの庭先にある道標)

リベンジ!奥穂(2)

画像は拡大してご覧ください。

悪天候がもたらしてくれた素晴しい人たちとの出会い・・と、
99番目の百名山「奥穂高岳」をリベンジ!

「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。


ー99番目の百名山ー
 リベンジ!奥穂高岳(2)
IMGP8968

3日目(2009年9月13日):
 いよいよ99番目の百名山「奥穂高岳」に登る日です。

前日までの烈しい風雨は去り、涸沢小屋付近の朝は深い霧に覆われていましたが薄日が差し込んできそうな気配です。気温8℃。
まあまあでしょう。

 その日のぼく達は、涸沢から奥穂をピストンし涸沢小屋に戻る予定だったため、小さめのザックでしたので涸沢のガレ場をぐんぐん快調に登っていきます。この頃になりますと妻の体力もかなりついてきたのでしょうか、長期間にわたって妻を苦しめぼくを悩ませてきた女房の高山病もいつしか影を潜めていました。
SANY0051

ところが・・・、
小屋を出て1時間と少し、穂高岳山荘へと続く危険な岩稜帯(ザイテングラート)を登り始めた頃、辺り一帯は濃い霧に覆われて、まったく視界がききません。
SANY0056
それに、まだ朝8時前だというのに、何故か上方から大勢の登山者たちが次から次へと降りてくるではありませんか。

まだ30℃を超える残暑の続く平地ではまったく考えられないのですが、穂高岳山荘から奥穂への登路が全面凍結し、中高年の単独女性(40代)がどうやら滑落死(即死)したらしいんです。さらにその日、前穂付近でも2人亡くなり、前述のヘリ事故と合わせますと計6人が亡くなったということになります。いかに危険な山岳エリアに身を置いているのかが良くわかり、気持ちが引き締まるというより許せるなら今すぐ引き返したい気分にさえなるものです。
(詳細は当ブログ「日本百名山・人との出会い」
http://blog.livedoor.jp/jess8444/archives/1146373.html
をクリックしぜひご覧ください。)

結局その日、奥穂への登路は閉鎖されましたのでぼく達は白出のコルに建つ穂高岳山荘に予定外の停滞と宿泊を余儀なくされたのでした。
しかし、世の中というのは不可思議なものです。
それがまた素晴しい人たちとの予期せぬ出会いを演出してくれることになるんですからね・
・・!SANY0065
(詳しくは、当ブログ最高の出会い・長野チーム(1~3)http://blog.livedoor.jp/jess8444/archives/1146373.html
などをぜひもう一回お読みください)

4日目(2009年9月14日):
 ぼく達の祈りが通じたのでしょうか。
手指に息を吹きかけるほど気温はかなり冷えましたが、その日は朝から久しぶりの快晴。
しかし、登山道の閉鎖は解かれとはいうものの、鋭角的に上に伸びる危険な岩稜帯は至るところに厚く霜が降り、アイスバーンになっています。

ハシゴ・クサリ、またハシゴ・・・SANY0086
穂高岳山荘が真下に見えるほど、いきなり急な斜面の連続でしたが、互いに声を掛けあい、一つひとつの足場と動作を確認しながら7:30分、ぼく達はついに99番目の百名山「奥穂高岳3190m」の山頂に立ち、50日前の汚名を返上、リベンジを成し得たのでした。 

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写真上から
 *ついに奥穂高岳山頂に立つ(右奥の岩稜はジャンダルム)
 *涸沢のガレ場にて
 *厳しい岩稜帯ザイテングラート
 *若い長野チームとの素晴しい出会い(穂高岳山荘)
 *穂高岳山荘からいきなり危険な急登に頑張る妻
 *涸沢まで下山し「感無量」万歳するぼく
 *最終日、お世話になった涸沢小屋を後にする      

さあ、
ぼく達の日本百名山もいよいよフィナーレ。
時は2010年7月20日。
「槍ガ岳」に向かう初日、
早朝の上高地で
考えられない感動のサプライズが・・・!
                      (つづく)



                                                                                                                          

リベンジ!奥穂高岳(1)

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SANY0143

リベンジ奥穂高岳はうまくいったのか・・?
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

関連ブログ
写真集「山と花と蝶」にもお立ち寄りください。
http://blog.livedoor.jp/jess8444-yamahanachou/

99番目の百名山
 リベンジ!奥穂高岳

 満を持して挑んだ99番目の百名山「奥穂高岳」でしたが、涸沢で起こしてしまった予測できないぎっくり腰に涙の下山・・・。
傷心のまま帰宅したぼくは一週間の安静のあと、ただひたすらリハビリ&ストレッチに専念する日々を送るのでした。

 トイレのとき、やっとお尻が拭けるようになったのは発症後3週間ほど経ってからです。4週目には日常的にしている森林公園の90分トレーニングやゴルフの打ちっぱなし練習ができるまでに回復しました。SANY0003

懸命なリハビリをしながらも、北アルプスに雪が降る前にもう一回何とかならないか・・と内心、強く考え続けていたぼくは妻に、
「9月、もう一回奥穂高岳に挑戦しよう!」
と申し出ました。
8月末のことでした。

 その年、もう山は終わったとしてすでに醒めていた妻は猛反対です。そりゃ、そうです。穂高直下の涸沢まで行ってあの辛酸を舐めさせられたのですから・・・。
妻の意見や態度はむしろ当然でした。でも、どうしてもあきらめ切れなかったぼくは烈しい口論の末、妻を説得したのです。

 断腸のぎっくり腰からほぼ50日後の2009年9月7日、自宅を出ると前回と同様、道の駅に車中泊しながら2日間かけて長野県松本市へ。今度の駐車場は沢渡ではなくその少し手前・安曇村の道の駅「風穴の里」です。縁起をかついだつもりでした。SANY0002

全快したとはいえ、いつ爆発するか自分にさえわからない爆弾を腰に抱えて不安は隠せませんでしたが、平地にはまだ真夏の暑さが残っていましたし、ずっと晴天が続いて登山には絶好のコンディションです。SANY0001

9月10日早朝、沢渡に向かうと駐車場に車を置きいよいよ上高地から横尾に向かいます。
映画『剱岳・点の記』の著名な監督・木村大作氏と横尾までずっと一緒に歩き感激しました。彼は横尾から槍ガ岳に向かいました。SANY0015

いつぎっくり腰がまた再発するか気遣いながら歩くのは異様に疲れるものです。

 ぼく達は横尾山荘に一泊、翌朝快晴の涸沢をゆっくり登っていきました。SANY0030
 前回、7月のときはまだ厚い雪渓に覆われまるで冬山のような涸沢でしたが登山道にまったく雪はありません。今度はゴロゴロとした巨大な岩稜を乗り越えながら涸沢小屋に到着です。
縁起をかついで今回は涸沢ヒュッテに、とも思いましたが女房とも相談した結果、前回いろいろとお世話になった小屋の主(あるじ)やスタッフにお礼を申し上げるため、あえて涸沢小屋にしたのです。
まだ10:00でしたが、腰を冷やさぬよう大好きな写真撮影さえ控え、ひたすら休息につとめました。

快晴の北アルプスの空を数機のヘリがひっきりなしに飛び交います。IMGP8961
どうやら奥穂付近で急病人の救助に向かった岐阜県警のヘリがジャンダルムに激突し正・副操縦士が即死したようです。急病人も亡くなったとのことでした。不安がよぎります。

 腰を気遣う女房の”優しい”監視の目もあって、ぼくは無事翌日を迎えることができたのです。
ところが・・・・、
その日(7月12日)は夜明け前から猛烈な雨と風が吹き荒れていました。平地の感覚で山と対峙することは極めて危険です。
悪天候を突いて奥穂や北穂に向かう登山者も多数いましたが、ぼく達にはそんな体力も自信もありません。これ幸いと、その日は小屋に停滞し身体を休めることとしたのです。(つづく)

写真上から
 *涸沢小屋テラスにて(奥は前穂高岳)
 *懸命にリハビリトレーニング(自宅そばの森林公園)
 *道の駅「風穴の里」で自炊・車中泊(9月9日)
 *『剱岳・点の記』監督 木村大作氏と(横尾山荘にて)
 *巨大な岩稜を呈する涸沢(中央奥が目指す奥穂高岳)
 *奥穂ジャンダルムに岐阜県警のヘリが飛ぶ






涙の下山・奥穂高岳

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99番目の百名山「奥穂高岳」
まさかのぎっくり腰に涙の下山・・・・・
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ー99番目の百名山ー
いよいよ大詰め・奥穂高岳へ(2)

翌7月20日は朝から晴れ上がりまさに絶好の登山日和でした。
横尾山荘を6:30に出るとしばらくは殆んど傾斜もなく7:30に本谷橋。
休憩後、いよいよ本格的な登りです。

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涸沢(からさわ)には予想以上の残雪があり四苦八苦でしたがSANY0108
涸沢ヒュッテを経由し昼前には無事涸沢小屋に到着。そのままさらに3時間、穂高山荘まで登りたいほどの体調でしたが、女房の高山病予防のためにも標高約2400mの涸沢で1泊したほうがベターとの判断をしました。

久しぶりの晴天、目の前に広がる白銀の涸沢カールとそのはるか頭上に聳え立つ穂高の峰々には仰天するほどの感動でした。
SANY0123
小屋に着き荷物を下ろすとぼくは着替えもせず、またろくに休憩もとらず場所を変えアングルを変えながら日が暮れるまで写真を取り捲りました。

真夏の太陽が山の端に隠れると気温はぐんぐん下がり5℃以下に。
冷えを心配した女房はフリースとゴアテックスをぼくに持ってきてくれましたが、時すでに遅しだったのでしょうか。

夕食と洗顔を済ませ翌日の準備で中腰になったとき、一瞬 腰に独特の違和感を覚えました。持病の
”ぎっくり腰”を発症したのです。
SANY0158
その1年前の冬(2008年2月)、はるばる向かった北海道ニセコスキー場を目前にして発症したぎっくり腰。同3月、九州の久住山登山開始直後にアイスバーンで転倒し十字靭帯の損傷。
そして・・・またしてもやってしまった自分・・・。
そんな自分に目いっぱい腹を立てますが、ぼくにもどうにもすることができません。

高山病も発症せず快調そのものの女房に僕はただひたすら謝るのみです。
さすがの妻も、予測のつかない大トラブル3連チャンにあきれた表情は隠せませんでしたが、それでも嫌味のひとことも僕には言わず、ただ健気にぼくを介護してくれました。
何度も何度も本当に申し訳ないことをした・・・、と女房には今でも詫びていますし言葉にならないほど感謝もしています。

経験者ならきっとお分かりと思いますが、
ぼくのぎっくり腰は発症するとしばらくは何もできません。
座る・立つ・横になる・寝返りを打つ・手や顔を洗う・・・など日常生活の上で最低限必要なことでさえまったく不可能となります。水洗トイレで水を流すノブさえ押せなくなるのですから、やっとの思いで便座に座っても排便後にお尻は拭けません。

2日間ほど小屋で安静を保ちながら長野県警にレスキューヘリの出動をお願いしましたが命に別状がないとダメなのでしょうか、訳のわからない理屈をつけられて断られてしまいました。

その日は数十年ぶり、涸沢でも皆既日食の見えた記念すべき日でもありました。

小屋の協力もあって、已む無く荷揚げ用のヘリに乗せてもらうことになったのです。でも帰り便だからといってタダではありません。
後日請求書が届きましたがン十万円です。

涸沢小屋のヘリポートから上高地まで涙の下山は、なんと5分です。

緊急避難的に松本市内のホテルに1泊後、コルセットでがっちり腰部を固め、高速道路で12時間かけ傷心のまま宮城の自宅に戻りました。
庭先でオニユリの大輪が咲いていました。
SANY0023
杖をつきガックリと肩をおろすように玄関先に立つぼくに、
「過ぎたことは仕方ないよ、しっかりとリハビリしてまたやればいい・・」
と、そんなことを言われ勇気をもらえたような気がしたものです。

捲土重来!奥穂高岳

写真上から
 *雄大な涸沢カール
 *涸沢の大雪渓を登る妻
 *涸沢ヒュッテでまずイッパイ
   日本一の生ビールでした。後景は奥穂高岳
 *またしてもダウン”ぎっくり腰”涸沢小屋特別室にて
 *傷心のぼくを力強く迎えてくれた庭のオニユリ



99番目の百名山「奥穂高岳」へ

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失敗は続くものです・・。
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いよいよ終盤・日本百名山
ー99番目の百名山ー
 北アルプス・奥穂高岳へ(その1)
SANY0140

ぼく達夫婦の日本百名山もいよいよフィナーレに近づいてきました。
残るはあと二つ。
百名山のフィナーレを飾るに相応しい北アルプスの奥穂高岳(3190m)と槍ガ岳(3180m)のみです。

2009年夏ぼく達は準備万端にして梅雨明けを待っていましたが、その年はまるで天空の水道管が破裂したかのように梅雨が上がらず大雨が降り続きました。
それでも気象庁は7月14日、関東甲信越地方の梅雨明けを高らかに宣言。
しかし・・・・・、荒天はその後しばらく続いたのです。

ちょうどその頃、夫婦二人で挑戦し続けている日本百名山の趣旨に賛同し関心を示してくれていたTBS系TBC(東北放送TV・本社仙台市)が記録報道番組制作のため、連日のように我が家に来られてはトレーニングの様子や準備あるいは夫婦で百名山に挑戦する心模様などについてテレビカメラ&スタッフによる収録が続いておりました。
したがって、99番目の百名山に挑む、ということ以上に異様な緊張感がぼく達には漂っていました。

7月16日、宮城県の自宅を出ると(経費節減のため)一般国道を長野県松本市に向かってひたすら走ります。途中、栃木県と長野県の”道の駅”で2泊、いつものように妻と二人だけの楽しい楽しい自炊と車中泊です。SANY0009SANY0012
18日昼前に上高地の玄関口である沢渡(さわんど)駐車場に到着。やはり大雨で、翌日の登山予定に一種独特の猛烈な不安がよぎります。SANY0023

しかし翌19日(土)降り止まない雨の中、万全の装備で沢渡を出発。
明神~徳沢など、4時間ほどゆっくりと上高地と梓川の雰囲気を楽しみながら初日の宿泊地・横尾に到着したのですが、登山二日目の翌日、残雪の涸沢を登り切ったぼくを待っていたのは・・・・?(つづく)
SANY0060
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 写真上から
  *奥穂への道標(涸沢小屋北穂への分岐にて) 
  楽しいひととき(道の駅にて)
   *上高地の玄関口・沢渡(さわんど)付近 
  *上高地・梓川に架かる河童橋を背に
    (雲の奥に穂高連峰がそびえ立つ)                          

いよいよ終盤・日本百名山

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百名山、残るはあと15。
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ーいよいよ終盤・日本百名山ー
”苦渋”を舐めさせられた大分「久住山」

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84番目の百名山・北アルプス孤高の山「笠ヶ岳」を終えると残すは
あと15。
残り15座を大別しますと
 ①北海道9座
 ②紀伊・九州地区4座
 ③穂高岳・槍ヶ岳
となりました。

話は少し前後しますが、
2003年に一番上の兄が急逝しますと、それまで茨城県の常陸太田市(ひたちおおた)の自宅で一人のんびりと余生を送っていた母(大正5年生まれ)は体調を崩します。
2004_0611テスト画像0019行き場を失った母を、(ぼくは三男なのですが)ぼくは、仕事の都合上その当時生活していた茨城県つくば市内の狭いアパート(2LDK)に引き取ることになりました。

2007年が明けると、その年ぼくが定年して塩釜に戻るのをまるで知っていたかのように、1月8日 大好きだった母はつくば市内のとある病院で
91歳の命を閉じ永遠の眠りにつきました。
      (はじめに⑥・兄の死、母の死の項をお読みください)

2007年夏の終わり、ぼくは待ちに待った定年を茨城県の筑波で迎え
宮城県塩釜市の自宅に7年ぶりに戻ることができたのです。

定年すると、精神的・時間的束縛は皆無です。
ぼくは、もう嬉しくってうれしくてたまりません。
だって、朝何時におきて何時に寝る・・なんてもう関係ないし
だいたい、大嫌いな会社に行かなくていいんですから・・・。

そんな幸せな気持ちの中で、
ぼくは次のように残った15座の登頂プランを立てました。

2008年春(4)・・・久住山(大分県)、祖母山(宮崎県)、阿蘇山(熊本県)
            大峰山(奈良県)
      夏(9)・・・北海道(雌阿寒岳、トムラウシ山、十勝岳、
           大雪山系旭岳、利尻岳、幌尻岳、羅臼岳、斜里岳
           後方羊蹄山)
2009年夏(2)・・・(北アルプス)奥穂高岳、槍ガ岳

ところがです。
計画はうまく行かないものです。
まだ春浅い2008年3月、仙台港から太平洋フェリーで名古屋・大阪を経由し湯煙のあがる別府に上陸したぼく達は愛車を久住山登山口(牧ノ戸峠)に走らせました。
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その2日前、季節はずれの降雪があり、久住山の登山道は至るところがアイスバーンになっていました。もちろんアイゼンを携帯し、いつでも装着できる状態にはしていましたが登山開始直後、思わぬところでスッテンコロリン!右ひざを氷に豪打し十字靭帯を烈しく損傷してしまいました。
SANY0419SANY0420
現地総合病院でMRIを撮る始末となり歩くことさえ適わなかったぼくは敢え無くリタイアとなったのです。
「久住」ならず、まさに「苦渋」の山でした。

そのリハビリに3ヶ月ほど要しましたが、その年の夏、延べ50日間に亘る自炊生活(車中泊)を楽しみながら北海道にある百名山9山を無事達成!
(詳しくは、定年退職と北海道の山、幌尻岳の奇跡、羅臼岳などの項をお読みください)

さらに同年の秋、千日回峰行で有名な奈良県大峰山(八経ガ岳)、九州の祖母山、阿蘇山をやったあと錦秋に彩られた久住山をリベンジし、妻と二人18年を要してきた日本百名山もあと二つ。
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いよいよ本当のゴールが見えてきたのです
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写真上から:
*久住山頂に立つ(2008年11月)
*まだ元気だったころの母(常陸太田の実家で)
*草紅葉の久住山頂から由布岳を遠望
*十字靭帯を損傷した場所:
  ここで、こういう風に・・・と示すぼく(負傷9ヵ月後)
*阿蘇山(高岳)を登る 
*湯布院の街を俯瞰

高山病との闘い・笠ヶ岳(3)

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最悪の高山病にさいなまれながら・・・。
飲まず喰わずに耐えた妻。84番目の百名山「笠ヶ岳」へ・・・。


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記憶に残る山(4)
 北アルプス・笠ヶ岳(3)

2日目:
 いよいよ正念場の2日目、山荘から一気に笠ヶ岳山頂直下の山荘までの8kmほど、Up&DOWNのきつ~い長丁場です。
その前日、あまりの暑さに水をガブ飲みした女房にはありありと疲れが残っており、顔も少しむくんできています。疲労とあいまって高山病の前兆が明らかに出てきています。それに、普段は明るい女房が無表情です。緊張しているのでしょう。0608北ア笠が岳Pentax1 095

鏡平山荘から早朝いきなりの急登1時間はかなりきついですが
弓折岳(2592m)の稜線に出ると大展望が開けてきます。これがあるから止められない、山歩きの大きな醍醐味の一つです。
でも、大きなザックを背負って高山病と闘いながら登下降を延々と繰り返す妻にはそれを味わう余裕など少しもありません。ただただ、ひたすら耐えるのみです。

 山荘から5時間、大ノマ乗越(のっこし)などの厳しいアップダウンを経てまだかなりの残雪の残る秩父平に到着(大きな岩は秩父岩といいます)。0608北ア笠が岳Pentax2 090
標高2700mのそこはまるで天国のようです。残雪と咲き誇る可憐な高山植物たち(黄:シナノキンバイ 白:ハクサンイチゲ)。絵になります。0608北ア笠が岳Pentax2 074
北方向には薬師岳、黒部五郎岳、鷲羽岳。東に少し目を向けると西鎌尾根と飛騨沢に沿った稜線が突き上げるように交差するあの槍ガ岳。そして穂高へ延々と続く3000m級の連嶺。0608北ア笠が岳Pentax1 158
これから向かう笠ヶ岳方向をみると、まるで湘南海岸のように柔らかに彎曲(わんきょく)しながら気の遠くなるような稜線がどこまでも続いています。0608北ア笠が岳Pentax2 068

ぼくは感嘆の声をあげながらカメラのシャッターを切りますが女房に笑顔はありません。素晴しい景観に反応することもなく、もう完全に無口になっています。
いつも、可愛そうだと思いますがその日の目的地はまだかなり先・・・。さらに数時間はかかりそうです。
山で愛情は必要ですが、へたな同情は弱気を生じさせてしまいます。山では頑張ってもらうしか方法はないのです。それが出来なくなったとき、それを「遭難」というのです。
ぼくにはどうすることもできません。0608北ア笠が岳Pentax2 015

でも・・、我が女房はここからが強いんですね。
疲れた、だるい、何も食べたくない・・・程度のことは言いますがそれ以上の弱音は決して吐きません。
歩速はガクンと落ち休憩も増えます。もちろんぼくはそれに合わせます。妻はグチを言わず、とにかく黙々として耐え続け目的地まで踏ん張るのです。0608北ア笠が岳Pentax2 026
0608北ア笠が岳Pentax1 140
抜戸岳(ぬけどだけ2813m)を過ぎ笠ヶ岳山荘直下のテント場に着くころになると妻の顔は高山病ですっかりむくんでいました。途中、歩きながら何度もなんども苦しそうに嘔吐しました。

11時間歩き続けて夕闇せまる17:00前、やっとその日のゴール笠ヶ岳山荘に着きました。
妻は、翌日の下山途中まで食事はおろか、一滴の水さえ受け付けませんでした。あてがわれた寒々しい部屋でザックを降ろすと倒れるように横になり、まるで死んだように寝込んでしまったのです。

3日目:
翌朝早くぼくにたたき起こされ、気温2、3度ほどの厳寒のなか、84番目の百名山「笠ヶ岳」の山頂(標高2898m)に立つ妻の目には、槍・穂高連嶺の向こうから出ずる朝の爽やかな陽光に輝くたくさんの涙がありました。
真夏の暑さと重いザック、どうにもならない高山病との闘いに打ち勝ち、永い間の懸案だったあの笠ヶ岳を登り切った「自信」と「感動」に満ち満ちとした、まさに「誇り」の涙だったのではないでしょうか。
 0608北ア笠が岳Pentax2 038
 0608北ア笠が岳Pentax2 066                           
0608北ア笠が岳Pentax2 062その翌々年の2008年夏、定年したぼくと女房は、永年の懸案であった北海道にある百名山(9山)に挑戦したわけですが、
笠ヶ岳往復でついた体力と自信が功を奏し、トムラウシや幌尻岳など最難関であったはずの北の大地の百名山を比較的楽に征服できたのです。
(第4章、北海道の百名山へ・遥かなるトムラウシ・幌尻岳へ・・・などの項をお読みください。)

写真上から
*二日目、早朝いちばんのきつい登り 
*まるで天国・秩父平付近の残雪と高山植物
*(左)美しい4本の稜線が天を突く槍ガ岳(秩父平から)
 (右)遥かなる笠ヶ岳への見事な稜線(秩父平付近から)
*真夏のガス沸き立つ稜線
*(左)秩父平への急登(左)、
  (右)完全に力尽きた妻(笠ヶ岳山荘直下のガレ場付近)
*黎明・槍穂高連嶺(笠ヶ岳山頂から)
*下山路から笠ヶ岳(左:ぼく、右:妻)

北ア・笠ヶ岳(2)

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烈しい高山病と闘いながら、それでも妻は登る・・・
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ー記憶に残る山ー
 北アルプス「笠ヶ岳」 その2 鏡平山荘
     2006年8月14~17(山小屋3泊4日)
0608北ア笠が岳 032

 登山口の新穂高温泉を早朝5:30に出て初日の宿泊地・鏡平山荘に着いたのは14:30でしたので所要時間はなんと9時間というわけです。
妻のザック重量は13k、ぼくのは16k。
昭文社刊登山地図上の標準コースタイム(ただし休憩時間は含まず)は約6時間ですから、まあ一般的には幾らなんでも掛かり過ぎ。
0608北ア笠が岳Pentax1 010休憩を入れても7.5時間内で到着するのが普通です。
したがって極めて大幅にオーバーと言わざるを得ません。
ゴルフに例えますと、パー72のところを、そうですねぇ・・・、
まあ、120くらいでラウンドした、って感じでしょうか(笑)。

でも、当初からこれがぼく達夫婦の登山なんです。
焦って歩いてみても途中でぶっ倒れるだけ。身体に負担がかかればかかる分だけ妻の高山病は発症しやすくなり症状がいっそう深刻になるだけです。ですから、とにかく「ゆっくり、ゆっくり・・・」。
標高500mの山を2時間かけて登る時も、3776mの富士山を10時間かけて登る時も常に同じペース。どこまでも”ゆっくり”がぼくと女房の約束であり、何よりもぼく達の登山の大原則なのです。

ということで初日から長時間を要しましたが鏡平山荘に無事到着。0608北ア笠が岳Pentax1 006
前号で写真を掲載しましたが山荘のテラスで生ビール(中)を飲んだくらいですから妻の高山病はまださほど重症化していません。
なんとなれば、山荘の標高は約2300m、それまでの経験値から女房の高山病は凡そ2500m超から発症し重症化するのです。

なお、鏡平山荘は槍・穂高連峰の絶好の展望地として有名です。当日の夕刻、日没までその劇的瞬間を狙いましたがガスがかかり叶いませんでした。0608北ア笠が岳Pentax3 008
0608北ア笠が岳Pentax1 057
鏡池のほとりで、ぼくがカメラを構えて待機していた2時間ほどの間、女房は相当疲れていたのでしょうね、そばでグッタリでした。
山岳特有の(蚊のようなハエのようなうるさい)虫に刺されるのを嫌がって、ゴアテックス(雨具)を頭からスッポリ被っていたのです。この画像は妻には内緒でアップしています(笑)。0608北ア笠が岳 042
                             (つづく)

画像上から
 *登り始めて4時間
   まだ新緑の秩父沢で休憩
 *スジボソヤマキチョウ
 *ウラギンヒョウモン
 *槍の穂先が見えた
 *鏡池から穂高連嶺夕景
 *グッタリする妻




高山病に耐えた妻・笠が岳

通常の縦走路から外れた孤高の山・笠が岳。
未曾有の高山病にやられた妻は・・・
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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記憶に残る山(4)-
北アルプス・笠ヶ岳(2897m)その1

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 前号でご紹介しました通り、最難関のひとつ、薬師(80)~黒部五郎(81)~水晶(82)への大縦走を2002年に遂行したのに、84番目の百名山・笠ヶ岳は実はそれから4年後の2006年の夏になってしまいました。
 それは、2003年夏に、ぼくの長兄が肺がんで急逝(62歳)したからです。ひとたび身内に不幸があると向こう3ヵ年は盆法要などが続くため夏休みはまったく身動きが取れなくなるからです。

 深田久弥はその著書「日本百名山」の中で、
『笠ヶ岳という名前の山は全国に沢山あるが、どこから望んでも笠の形を崩さないのは北アルプスの笠ヶ岳だけであり文字通りの名峰「笠ヶ岳」である。』と評し、0608北ア笠が岳Pentax2 013
『北ルプスを登って笠ヶ岳を見落とした人はあるまいがその頂上に立った人は案外少ないようである、それは通常の縦走路から大きく外れているからである。』と述べています。

 深田久弥が言うように笠ヶ岳は、表銀座あるいは裏銀座とさえ言われる北アルプスの幾筋かの主稜線から西に大きく外れていますので、ぼく達夫婦には山小屋間の距離と歩行時間にまったく自信が無く、その難易度はトップランクの一つであり続けました。したがって永年、ぼく達にはなかなか実行に踏み切れない独特の「山への怖さ」が笠ヶ岳にはありました。

 しかし、82番目の水晶岳を終えると後はもう北海道の9山と九州の一部、そして最後に計画していた穂高・槍を残すのみとなっていましたので「笠」から逃れるわけにはいきません。

 先にも述べましたように兄の諸々の法要や供養を済ませた
2006年夏、岐阜県新穂高温泉から小池新道を登り鏡平小屋に1泊。0608北ア笠が岳 0890608北ア笠が岳 088







    

 二日目に気の遠くなるような稜線をたどりながら、ぼく達は84番目の百名山・北アルプス・笠ヶ岳に挑んでいったのです。
                                 (つづく)
写真(上から)
 *残雪季の笠ヶ岳(上高地・焼岳の登路から)
 *笠ヶ岳の雄姿(秩父岩2670m付近から)
 *槍・穂高連峰絶好の展望地・鏡平小屋   
 *極上のイッパイ(@800鏡平小屋にて、初日)                           
                      

記憶に残る山(3)

IMG2892220kg近いザックを背負っての大縦走は、汗と雨と涙と感動の6日間・・・。
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ー記憶に残る山(3)ー
薬師岳~黒部五郎岳~水晶岳(黒岳) 大縦走
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 98年8月、61番目の百名山「鷲羽岳」を新穂高温泉から登ったとき、あと2日の休みがどうしてもとれず、すぐ北隣りの水晶岳を残して下山してしまうという、サラリーマンならではの大失敗をしてしまいました。

 といいますのは、深田久弥が著書「日本百名山」のなかで水晶岳(別名:黒岳)について、

 『北アルプスの中でもっとも奥深い山である。たいていの山はその頂上から俯瞰すると平野か耕地か煙の立つ谷か何か人気くさいものを見出すが黒岳からの眺めは全くそれを絶っている。四周すべて山であり文字通り北アルプスのどまんなかであって俗人を払った仙境である』
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と記述していますように、その山の頂に立つにはどこから入っても2、3日を要するまさに秘境中の山域なのです。

 鷲羽岳から帰宅後、すぐ隣りに聳え立っていた水晶岳を残して下山した自分を後悔し、
「たった2日くらい、仕事なんか何とでもなったのに・・バカだよなあ、        
オレって・・・。」 と、ボヤくことしきりの自分でした。

 だからといって水晶岳のみを登るには余りにも非効率すぎるしもったいない。どうせなら・・・ということで薬師岳・黒部五郎岳をセットにした”北アルプスの大縦走(5泊6日)”をやるということになったわけです。
しかし、黒部五郎岳に行くには前泊の太朗平小屋から(ぼく達の体力で)どう少なく見積もっても10時間~11時間のアップ&ダウンに耐えなければならず、途中に泊まる小屋は避難小屋といえども皆無、という体力的には正に難コース中の難コースでした。

時は2002年8月。
初日、2日目、富山県側の折立登山口から太郎平を経て80番目の百名山・薬師岳をピストン(太郎平小屋に2泊)。IMG28717
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3日目
、北の俣岳を経て黒部五郎岳(No.81)を登り雄大な黒部五郎カールを下り黒部五郎小屋泊。
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4日目、三俣蓮華岳・三俣山荘を経て黒部源流をたどりながら水晶岳(No.82)の山頂を踏み水晶小屋泊。
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5日目、水晶小屋を発ち大雨でまるでドロ沼化した雲の平を下り薬師沢小屋へ。
最終日、太郎平まで登り返し一気に折立まで下山。

6日間の歩行距離は約50k、歩行時間約50h。
全食事回数17(すべて自炊)
ザック重量(ぼく:20k、妻:15k)
ザックの重さと余りの長距離。
高山病独特の吐き気とだるさに耐えながらも歩き続けた妻。
だからこそ、汗と雨と涙と、そして凄まじい感動の6日間でありました。
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写真上から
 
*黒部五郎カールを流れる沢水を汲む
*山行概念図
*黒部五郎カールから望む水晶岳(黒岳)
*81番目の百名山・黒部五郎岳山頂(2840m)
*長大な尾根をもつ薬師岳
*太郎平小屋にて
*悠久の黒部五郎カール
*優雅に佇む黒部五郎小屋
*あの黒部川、最初の一滴(黒部川源流)
*自炊(黒部五郎小屋)
  食事込みの宿泊者が食事する場所は冷暖房完備で綺麗ですが、
  自炊宿泊者の自炊場はだいたいこんなものです。
*6日目、折立に下山したぼく
*可憐に咲き誇る高山植物
 ウサギギク(左)・ミヤマダイコンソウ(右)
*カミナリが落ちて割れたとの伝説があるカミナリ岩(黒部五郎カール)
*15k超のザックを背負い6日間の縦走に耐え抜いた妻

感動の共有

感動の共有が幸せの原点・・・

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ー深田久弥の日本百名山ー
なぜ、「夫婦二人で・・」だったのか?

 
中高年の登山ブームの中、深田久弥の日本百名山を単独で制覇した人は国内でも沢山いると思いますが「夫婦で・・・」となるとかなり限られてくるのではないでしょうか。H/Pなど検索してみても、皆無ではありませんがやはり少ないようです
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  山行のあと、彼岸などで田舎にいると、ぼくの姉たちは妻に向かって怪訝そうによくこう言っているのを耳にします。


S(女房のニックネーム)ちゃん、あなたはよくガマンしていつでもF(ぼくの名前)と一緒にいられるわねえ・・、いやにならないの?」

 

 誰だって、どんな夫婦だって、

愛し合って一緒になった夫婦なのに、

片時も離れたくなかったはずなのに・・。

だから一緒になったんでしょう?

 

それなのに・・・。

多くの場合、永い年月はそんな夫婦の汚れのない愛を打ち砕き、固い絆を破断させていくものです。

「それは何故なのでしょうか?」

 

 当ブログの前書きにも書きましたし、電子書籍の別冊・自伝的小説「Lagrima(涙)-愛・くるしくてー」http://p.booklog.jp/book/14740 に詳しく記載しましたが、ぼく達には耐えられない逆境のなか、やむを得ないとは言え「かけおち」という本来あってはならない不純な形で夫婦になりました。

愛くるしくて表紙哲学の木sizeテスト
 それだけに、ぼくには妻を愛し相互に尊敬しあい何がなんでも二人で幸せにならなければ・・、という強い自覚と責任がありました。もちろん今なお、あります。

 

でも、ぼくの妻に対する愛情表現はやゝスタンダードではなかったせいか、彼女のぼくへの理解はしばらくの間、

「いちいちうるさい、細かい・・」だったようで、ぼくの妻に対する「愛」の本意はなかなか伝わらなかったようです。


 それは中学から大学を卒業するまで、総じてぼくは体育会系の運動部で厳しく育ってきたからではないかとも考えています。

 

気力的・体力的にはもちろん体系的にも、或いはまた烈しい高山病に苦しみながら挑戦し続けてきた深田久弥の日本百名山は、妻にとって大変過酷な挑戦でした。

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その苦しみや辛さは筆舌に尽くせないと思います。

でも、『“過酷”だからこその達成感』をぼくはどうしても妻に味合わせてあげたかったのです。人に頼まれてやるのではなく、どこまでも自分の強固な意思と力で一つの課題をやり遂げる充実感をどうしても実感して欲しかったのです。


 その充実した達成感から、

「人間の期待する幸せって、こういうものよね。これが本当の幸せってことなのね・・・!」

と、人間の為しうる現実的な幸福感を知って欲しいと願ったからでした。

 

「感動の共有が幸せの原点である」と、一世を風靡したTVドラマ“北の国から”の著名な演出家であり作家でもある倉本聡さんは言っています。

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だから、ぼくは嬉しいときも悲しいときも妻と情報を分かち合い共有したい、と願ってきました。
 そのために夫婦は可能な限り一緒に居ることしかない、と考えたのです。

 


しかし、

先にも述べさせていただきました通り、いずれ迫り来る死。

 その直前、まだ少し意識があるときに、

「人生、とっても楽しかったよ。

いやな顔もせず、ずっと君がぼくに付き合ってくれ、そばに居てくれたおかげだよ!

本当にありがとう!」

ぼくは妻にそう言って、あの世に旅立ちたいと願っています。 


 そのためにも、妻よ!

君は、君の大好きな“さだまさし”の関白宣言のように

たった一日でもいい、ぼくより長生きするんだよ。

きっと、約束してくださいね。

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「日本百名山」の著者・深田久弥氏急逝の地 茅ヶ岳(山梨県)

 

謹賀新年


本年も、随筆「夫婦二人で登った日本百名山」を宜しくお願いします。

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ー前のページより続くー

 最良の想い出は最良の人生

 
死ぬと思ったとき、考えるのは「想い出」だけ』

 

正月早々少し昔の話しになり恐縮ですが、1991年、外洋ヨットレース中、艇が転覆し数人のクルーが次々と死んでいったとき27日間漂流した後、奇跡的に助かった佐野三治さんが回想録の中で述べた有名な言葉です。


 また過日、世界中の人々をTVに釘付けし感動と涙を誘った南米チリ鉱山の落盤事故救出のドラマ。
奇跡的に助かった33人の方々にとって70日間命をつないだものはやはり唯一「家族」だったそうです。

 

誰しも未来のことはある程度想像することはできますが、それはどこまでも推測です。

しかし、生きてきた過去はそのすべてが事実として存在し、まして楽しい想い出や実績はキラキラと輝いて人生を明るくしてくれるものです。

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ぼく達にもいづれ必ず死が訪れます。

これだけ不確実な世の中にあってさえ、「死」は100%確実なのです。

心臓は自分の意思で動いているわけではありません。どんなに強い意志で「動け!」といっても動くわけではありませんし、
「止まれ!」といっても止まるものではありません。


 しかしその燃料はいつしか切れ、必ず心臓は止まります。

それが何時なのか、ただ誰にもわからないだけです

 

死の直前に、もしまだ意識があるとするならば、最愛の妻や家族を思い浮かべ、みんなと過ごした楽しい想い出がぐるぐる回る走馬灯のように身体中を巡るのでしょうか。

 

 少しおデブちゃんで運動能力にやや難のある女房をムリやり連れ出し、かなりの危険を冒しながらもひるまず挑戦し続けて20年、遂に登りきった深田久弥の日本百名山でしたが、その原動力は僕のこんな「死生観」に因るものではないかと思っています。

 

 登山・スキー・テニス・ゴルフ・・、と・楽しいお酒。SANY0027

 
 妻や家族そして友人たちと、これからもずっと愉快な想い出づくりに精を出したいと思っています。

「最良の想い出は最良の人生」だそうですから・・・。




                                              

新しい年へ・・・

新年まで、あと1時間足らずです。

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新しい年へ
希望をつないで行こう!
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            後方羊蹄山山頂小屋からニセコアンヌプリ

自分を信じ
爽やかに、力強くまい進しよう!
願えばきっと叶うのだから。
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人間、生まれて死ぬまで

激動の2010年、静かにもうすぐ過ぎて行きます。
つたない当ブログをご愛読いただきました皆様に心から感謝申し上げます。
スローペースですが、まだまだ続きます。
来年も何卒よろしくお願いします。

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人間、生まれて死ぬまで


夫婦二人で登った日本百名山」には余りふさわしくないテーマかもしれませんが、後述しますぼく特有の「死生観」が20年かけ妻と挑戦し続け成し遂げた百名山の根源にあったのではないかと思っています。少し窮屈な話しになりますが、どうかガマンしてお読みいただければありがたいものです。

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それは・・・・、
小学校6年から中学1年生になったあるとき。
学校で実施した定期健康診断で、校医がぼくの薄っぺらな胸に聴診器を当てながら首をかしげ

「心雑音がだいぶひどいなあ・・。
恐らく心臓弁膜症でしょう。烈しい運動は厳禁。
命を縮めたくなかったら無理せず生きていくことだな・・・」
と言われたことがありました。


 ぼくは、小学校の高学年から子供駅伝の選手でしたし、中学校ではテニス部に所属し、かなり活躍していました。


しかし「ぼくは長生きできないんだ・・・!若くして死んでしまうんだ・・!?」


12歳になったばかりのぼくが、自分の「命」と「死」を明確に認識した瞬間でもありました。IMG448

 

 63歳の誕生日を間近に控えた今日まで、テニス・スキー・ゴルフ・登山など、かなり過激なスポーツを繰り返してまいりました。時折、身体が動かされるほど大きな動悸や不整脈に見舞われますがそれは極めて稀で、それ以外特に異常は見当たりません。むしろ運動をすればするほど脈拍は少なくなり、弁膜症どころか逆にスポーツ心臓ではないかと錯覚するほどです。

 

 しかし・・・。

12歳の少年のショックは余りにも大きすぎました。

しっかり焼きついた傷は、その後50年経った今もなお癒えてはいません。

これがトラウマというものなのでしょうか。


「人は必ず死ぬ、とすれば人生とは生まれて死ぬまでの空間なんだな・・・?!、それなら、やりたいことは全部やり抜かなきゃ・・。」

 

と、確かな「死生観」が、まだ幼なかったぼくの心奥深くにその根をおろしてしまったのです。(つづく)

写真上:小学生3年のころ(左隣りは祖母、2歳下の妹)
写真下:中学生2年のころ

三伏峠の謎(2)

真夜中の林道で出会ったズブ濡れの男は死者の亡霊だったのか?
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三伏峠の謎(2)

 
翌早朝5:00、ぼく達はそんなことなどすっかり忘れその日の目的地・三伏峠小屋に向かってただひたすら急峻な登山道を登って行きました。IMG25778

正午近くに峠小屋に着き簡単な昼食をとるとまもなく、妻は寝袋にスッポリと身を包み寝込んでしまいました。その前日まで、千畳敷から空木岳まで3日間縦走の疲れが一気にでてきたのでしょうね。ぼくも、いつの間にかうたたねをしていました。

PM3:00ごろだったと思います。
かって遭遇したことも無いような烈しい雷雨に目を覚ましました。外は、不気味な鉛色に濁った南アルプスの空を左右に引き裂くような閃光、そして全身を縦に突き抜くような雷鳴・・。

夕方になり雷雨がおさまった頃、今度は小屋の中がなにやら騒がしくなっています。
どうやらその日の午前、塩見岳を登頂した中高年のご夫婦が悪天候の影響もあったのか、下山中に離れ離れになり三伏峠小屋に着いた奥さんが待てど暮らせど到着しない旦那さんの捜索願いを小屋のスタッフにしたとのことです。

緊急に編成された捜索隊はその晩、3班に分かれ三伏山(沢)方面・豊口山分岐方面・塩川方面など真夜中近くまで探し回ったようですが手がかりは皆無だったようです。
捜索願いを出した奥さんは気が動顚(どうてん)していたのか、小屋を後にするとそのまま塩川登山口方向に下山して行ったとのことでした。
捜索に加わった小屋のスタッフはまるで吐き捨てるように
呆れた顔で言いました。
「あの奥さんは、山に旦那を捨てに来たんだね!」と・・。

行方不明の旦那さんの年齢や格好・装備などを何気なく伺いますと、どうもその前日の夜遅く、ぼく達が真っ暗闇の鳥倉林道で出会ったズブヌレの男に似ていましたが、時間軸が少し合っていませんでしたので、いくらなんでもその時のぼく達には「まさか・・??」としか思えずそれ以上深く考えることはありませんでした。
IMG25851翌日、僕たちは71番目の百名山「塩見岳」の山頂に立ったあと塩見小屋に1泊し、翌々日の昼前に三伏峠小屋を経て豊口山分岐まで何とか無事下山してきた時のことです。
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捜索願いを出し、すでに塩川方面に下山したと思われる奥さんが行方不明の旦那宛てに書き残したのでしょうか、
光さんへ、豊口登山口で待っています。美枝子
と、黒のサインペンで書かれた一枚のメモ(A4版)が分岐付近の雨に濡れた大きな岩に貼り付けられていたのです。
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それを見てぼくと女房は顔を見合わせ驚きました。
奥さんが下山していったのは塩川登山口なのに、
メモには豊口登山口・・・と???。

後日情報によりますと、
その旦那さんは下山途中、奥さんと離ればなれになったあと道に迷い、豊口沢付近で疲労凍死したとのことです。

豊口登山口に向かう晩、鳥倉林道の隧道付近でぼく達が見た
ザックを背負ったズブ濡れ中高年の登山者の哀れな姿はやはり「死者の亡霊」だったのかもしれません。IMG25885

そんな事件に遭遇してから早や10年・・。
今なお、どう考えても納得のいかない不思議かつ不可解な出来事なのです。






                      
 

記憶に残る山・羊蹄山

画像は拡大してご覧ください。

山頂で泣き崩れた妻は・・・。
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後方羊蹄山(しりべしやま)

2008年夏。IMGP6532

 北海道にある日本百名山9つのうち8つを踏破したぼく達は後方羊蹄山を残すだけとなっていました。

 難関だった大雪山系トムラウシ山や利尻岳・幌尻岳・羅臼岳を何とか乗り切っていましたので、まさに向かうところ敵なしの気分だったように思います。


 特に、 往復数十回にもわたる激流「額平川」の渡渉に耐え登りきった超難度の山「幌尻岳」の成功は大きな自信となっていました。


 斜里岳を下山したあと清里町の道の駅「パパスランドさっつる」で一泊(車中泊)。温泉で登山の疲れをとった翌日、弟子屈―足寄―上士幌―鹿追―夕張―恵庭へと、知床の付け根から西方向に北の大地を一気に走り抜け「花ロードえにわ」で車中泊。

恵庭市内のコインランドリーで2時間、たまりに溜まった汚れ物を洗濯したのです。

 

その後、羊蹄山の東側山麓に位置する道の駅「名水の郷・京極」を経由し、羊蹄山の登山口・真狩(まっかり)村キャンプ場に到着しました。

SANY0002 

羊蹄山は、山中まったく水が無いというのに山麓周辺はなんと素晴しい湧き水ばかり。浸透性の高い火山岩でできた山なのでしょうね。降り積もった大量の雪や雨は岩の中深くに染み入り、おそらく何十年かを経て地表に伏流水となって沸き出てくると思われます。

 
羊蹄山には4つの登山コースがあります。ぼく達が選んだ登山ルート「真狩コース」はかの有名な演歌歌手・細川たかしが生まれ育った街・真狩村(まっかりむら)を起点とするポピュラーなコースです。真狩村で、細川たかしはまさに英雄。羊蹄山を真正面に望む一等地に彼の等身大の像が建てられていました。SANY0019


「北ぁのォ~酒場通りにはァ~・・・」♪♪
ぼくも、得意の喉を一つ、披露して・・(笑) 


 登山口の標高はほとんど無く、
1900m近い山頂まで登山道は南斜面をまっすぐ直登する格好で伸びています。
羊蹄山には沢も水もまったく無く、飲み水およびその日の自炊に必要な水はぜんぶザックに入れて背負わなければなりません。したがって妻にはかなりきつく、相当バテたようでした。

 

直径6、7百メートルはあるのでしょうか。深さ200mほどのすり鉢型をした迫力のある噴火口を右に大きく廻り込みながら無事山頂に立った時、妻は大きく泣き崩れました。IMGP6549

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 遠距離であり、それに要する経費や時間が膨大にかさむことなど
のほか、難易度的に極めて難攻不落だった北海道の百名山9座を
ワンチャンスで一気に踏破したのです。


 命の危険をもおかし、長く辛い登・下降路に耐え抜きながら登り続けてきた日本百名山も93を数え、もはや残りわずか・・。

そんな複雑な思いが、山頂直下の厳しい岩稜を登り切ったとき一気に吹き出るものが妻にはあったのかも知れません。

 

 北海道の百名山9座を二人で無事登りきったという感動と安堵感は例えようもなく大きなものです。その計り知れない感激を山頂で共有したぼく達は、体力的にも時間的にもその日の下山は不可能と判断し、9合目付近にある粗末な避難小屋に泊まることにしました。IMGP6547

ぼくは日本酒、妻は焼酎の水割り。 
いつものように楽しい晩酌と自炊をしながら、ニセコアンヌプリの山向こうに沈み行く夕景を心行くまで眺めていたのです。
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記憶に残る山・剱岳

IMG26071画像は拡大してご覧ください。

滑落の危険と死への恐怖と闘いながら・・・
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超一級の困難さを伴う山
    -北ア・剱岳(その2)ー前号からつづく

 剱岳(2998m)は、北アルプスの長い稜線が日本海に向かって一気に薙落ちる直前に超然として聳えている山です。

 そのアルペン的山容は国内では随一でありまさに眺めて良し、登って良し。名山中の名山と言っても過言ではありません。


 「南の重鎮を穂高岳とすれば北の俊鋭は剱岳」と日本百名山の
著者・深田久弥が称するにまさに相応しい山なのです。

前剱から剱岳本峰
 

 しかし・・・・、
 剱岳へのアプローチはどのルートを通っても超一級の危険性と困難さがあり、それを克服しなければその頂きには立つことはできません。
 この険しさが剱岳を登山者の挑戦から永年遠ざけてきたのでしょう。
 しかし明治40年(1907年)ついに当時の陸軍測量官であった柴崎芳太郎は長次郎谷からのドラマチックな登頂に成功し(詳しくは、木村大作監督映画「剱岳・点の記」をご参照ください。)
また翌々年には日本山岳会が登山家として初めて登頂し、
永年閉ざされていた剱岳登山への固い扉が開かれたのでした。

 

 ぼく達が剱岳を目指したのは2000年9月初旬。

立山駅に車を置き、室堂から雷鳥沢・別山乗越を経て剣山荘に自炊泊をしました。


 小屋のすぐ前に一服(いっぷく)剱、その向こうに前剱。そのまたずーっと奥に、巨大な岩壁となって立ちはだかる剱岳の岩峰。


 一服剱から見ると、垂直にそびえ立つ前剱の岩肌にまるでハエがしがみ付いているかのような登山者の異様な光景。

その様は、それまでやってきた70余りの百名山の自信を瞬時にして崩されたほどショッキングな光景だったのです。

 IMG26110

「えっ・・???」

「まさか、あれ・・人じゃないよね・・?」

「あの斜面、登っていくの・・・???」

 カニのヨコバイ2

 IMG26111













  登りも下りも視覚的にはほぼ垂直の岩稜。


 滑落すれば、あっという間に数百メートルは滑り落ちるだろうと思われる厳しい岩稜と残雪の急斜面に、
かって経験したことのない“奪われる命の恐怖感”を覚え、足はすくみ四肢が震え出し

吐き気さえしてくるのです。

 

剣山荘から登り3.5時間、下り3時間。

しかし妻は、ぼくにひと言の弱音も吐かず、

72番目の百名山「剱岳」を無事成し遂げたのでした。

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 ネガフィルムの保存状態が悪く
 画像にキズがありお詫びします。
 どうか、ご容赦ください。

記憶に残る名山

超一級の困難さを伴う北アルプス剣岳・・・
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ー日本百名山ー
  記憶に残る山(1)

“よく私は人から、どの山が一番好きか?と聴かれる。

私の答えはいつも決まっている。一番最近に行ってきた山である。その山の印象がフレッシュだからである。“

 

これは、「日本百名山」の執筆者・深田久弥が編集後記に書いた有名な一節です。

 

 百名山の中で、ぼく達が一番最近に登った山は(100番目の)槍ガ岳でありその一つ前は(99番目の)奥穂高岳です。

 百名山を踏破し終えて一番記憶に残るのはどこ?と訊かれれば、深田久弥氏が言うように、それはやはり「穂高であり槍!」でしょうか。


 「穂高と槍」は現代日本人のいわゆる”山キチ”達にとって、まさに憧れであり山そのもののような気さえします。

「穂高と槍」登頂の感動と記録は本ブログの最終章近くで詳しく述べますので、今回ここではそれ以外の山について一つ二つ記したいと思います。

 となりますと、そのトップはなんと言ってもあの「剱岳」でしょうか。
木村大作監督の著名な映画『剣岳・点の記』でかなり有名になった北アルプス・あの「剣岳」です。
どこから登っても超一級の危険と困難さを伴う岩稜の山です。

その想像できない恐怖と感動の詳細は次号以降をお楽しみに・・。

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クマとの遭遇

写真は拡大してご覧ください。

クマとの遭遇を回避しなければ・・・・
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クマ除けの笛

熊による被害が連日のように相次いで報道されています。
知床のヒグマimage002

 100年ぶりの猛暑が長期間続いたため、ドングリやブナの実がならない、あるいは充分育たずに地表に落ちてしまうため熊のエサが大幅に不足しているとのことのようです。

 

本州にヒグマは棲息せずツキノワグマのみです。ヒグマと比べ
ツキノワグマはおとなしいといわれていますし向こうから人間を襲うことは基本的にはないとされています。


 それなのに最近の報道によれば、向こうから人間の住む庭先や家の中にまでやってきて爪でひっかく、咬むではありませんか。

熊にしてみれば、こんな空腹のままでは到底冬眠できない、ということなんでしょうね。

 

 人間とその他の動物との決定的な違いは何なのでしょう?


 ぼく流に言えば、それは「理性」の在否ではないでしょうか。


 ヒトを除く野生動物の行動原理は「生きるために食べ、種を保存するために交尾し子育てする」ことのみです。
 もっと端的に言えば「生および生殖本能」のみだけで生きているということです。もちろん、そのためにはいかなる手段をも選ばない、ということなんですね。


 食べるためには手段を選ばない、のですからエサが無ければ人間の住処(すみか)だろうとどこだろうと、道徳観念など皆無のクマにとってみれば自分が生きるために平気で侵入し田畑を荒らしまわるのはむしろ当然のことと考えなければなりません。

 

 登山中、そんな本能的かつ獰猛(どうもう)な“熊”との遭遇をどのように回避するか、は百名山を安全かつ確実に達成する上でもっとも大切な一つの課題でもありました。

ぼくだってクマは怖いですが、妻はぼくより遥かに怖がります。

 

 クマと出会ったらどう逃げるのか?ではなく、安全登山のためにはクマと絶対に出会わないよう対策をとることが肝要!と考えるべきです。

 

 そのためにも鈴やラジオなど、頻繁に音を出し「ここにヒトがいるよ~」と人間側からクマに知らせることが一番だと言われています。

山中に生息するクマは、音を察知すれば自ら危険を察知し遠ざかっていくのだそうです。

 

 クマとの不用意な遭遇を避けるためぼく達は、
①鈴②ラジオのほかに、
③クマ除けの笛を
常に携帯し、”音出し”を励行しました。


 学校で体育の先生が使う笛とは形状が違い、縦長のカプセル型で長さ7
cm。ネジ式になっているカプセルの中を開けるとその中に“In Case Of Emergency”と書いてあり、
氏名・年齢・住所・血液型・緊急時連絡先など万が一のときの主要情報を書き込むようになっているのです。

  クマ除け特性の笛を首から下げて歩く妻

SANY0057

 江戸時代の捕り物帳で鳴らす「ピイィィ~・・・・・・・」というかなり甲高い音色がしますし、音の通りはかなりの優れものです。
子供でも誰にでも簡単に吹けますし、これならかなり遠くのクマにも聞こえます。

 

ただでさえ苦しい登山中、特に登りのとき笛を吹き続けるのは息苦しく体力を消耗しますが、クマ恐怖症だった妻は視界のない潅木帯やハイ松の茂みを抜け切るまで懲りずによく吹き続けていたものでした。

 特にヒグマのいない利尻山を除く北海道の百名山、その中でもとりわけ“ヒグマの巣窟”と云われ「ヒグマと会わないほうが珍しい」とさえ言われている羅臼(らうす)岳の往復(12時間)は消耗する体力はさることながら、ヒグマとは絶対に出くわさないよう相当の神経を使い果たしたものです。

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  ヒグマの巣窟と云われる知床・羅臼平から知床連山Jul.2008

 その甲斐あって、20年にわたって日本百名山を主体に全国各地の山々を登ってきましたが、一度たりとも登山中にクマと出会うことはありませんでした。


今となっては、
「ちょぴり、見たかった気もするけどね・・」
などと、不謹慎な冗談を言ったりしています・・・。

PTSD

画像は拡大してご覧ください。

空木岳直下の山荘で起きた酸欠事件・・・。
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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空木岳
 木曽殿山荘でおきた事件(つづき)
    ーついに、パニック障害発症!ー

**はじめに**

今年8月5日に起きた南米チリの銅鉱山落盤事故。

700mの地下に閉じ込められた33人の作業員たちが、70日間という気の遠くなるような時間を経て全員無事救出まであとわづかとなりました。

33人の凄まじい生命力と奇跡的な生還に感動し、世界中が涙を流しながら生中継するTVに釘付けです。本当に良かった、よかった・・!
世界中が「命」に対し一つになれる喜びをも感じています。

でも・・・・・・・・・、
何日か何ヶ月か、あるいは何年後かに・・・・・。

予測もしない落盤事故で、一瞬にして地下700mの暗闇に閉ざされたとんでもない恐怖体験に、強いPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症を懸念しています。

                      ******

 今回は、前々回(木曽殿山荘で起きた酸欠事件①)の続編として、
それが大きなきっかけとなり実際に強烈なPTSDを受け考えたこともない「パニック障害」を発症したぼくの悲痛なる体験談をご紹介したいと思います。

 2001年から定年でリタイアする2007年末近くまで、勤めの関係上ぼくは茨城県つくば市内のとある閑静なアパートに妻と二人で住んでいました。

母は、父親が死んだあと10余年、ぼくの生家である茨城県常陸太田で大好きだったパッチワークをしながら一人で悠々自適の余生を楽しんでいました。しかし、2003年に長男が亡くなると、
米寿近かった母親をひとり放ったらかしにはできず、紆余曲折はありましたが最終的に狭いぼくのアパートで引き取る格好となったのです。

 

その頃、ぼくはある自動車関連産業の会社で人事・労働および総務関係の責任者として内外ともに多忙な日々を送っておりました。


 しかし狭苦しいアパートに、大好きだったとはいえ年老いた母親が疲れて帰宅したぼくの目の前に常に居続けるるということは、ぼくには時としてストレスとなって微妙に蓄積していったのです。

 

ある悲劇が、突然ぼくを襲ったその日、
それは2005年1月の、とても寒い日でした。


 虎ノ門で業界の会合に出たぼくは会議中から微熱・咳・鼻づまりがひどく、早々に帰宅し軽く夕食だけ済ませるとすぐ就寝しました。

 

 2時間ほど熟睡した頃だったでしょうか、微熱のせいか、どうにもならない暑苦しさと寝ていられないほどの息苦しさを感じたぼくは突然立ち上がり、


「あああああ・・、死ぬぅ・・苦しいィ・・・!!」


 と、まるで気でも狂ったかのように、訳のわからない事を大声で喚きながら部屋中を走り回り、片っ端から部屋中の窓を全開しました。


 隣りで寝ていた女房は何が起こったのか理解できず、


「あなた、あなた・・どうしたの?
 怖い夢でも見たの? 落ち着いて!あなた・・・・!」


 と、荒れ狂いだすぼくの身体を押さえようとします。


 ぼくの目はギラギラとし、何かに怯(おび)え瞳孔が開いたように見開いていて、
まるで妖怪のようだったと思います。

 

 氷点下ほどの冷たい外気が部屋中を一気に冷やしていきます。


 なのに・・・・、
 それでも、ぼくは、


「苦しい・・くるしくて呼吸ができない・・・!」


 と大声で騒ぎたてながら、今度は着ていたパジャマを脱ぎ捨てると下着だけになり、ベランダから身を乗り出すように顔を外に向けて何度も何度も深呼吸をしたのです。


 風邪で鼻が詰まっていたため、口を大きく開け、いかにも苦しそうな息遣いです。

 

 口呼吸だけでは酸欠しそうな、かって経験したことの無い「奪われる命」の恐怖なのです。


 でも・・、

 実はそれは・・・・・・、


 ちょうどその5年前、中央アルプス空木岳直下の木曽殿山荘で起きた酸欠事件の恐怖体験にフラッシュバックしたいわゆる“
PTSD(心的外傷後ストレス障害の結果だったのです。

 

 自分の素肌を冷気にさらし皮膚呼吸の助けを借りないと苦しくてガマンできない、まさにあの日あの真夜中に起きた信じられない
”酸欠”の恐怖概念に襲われたのでした。
  
                                (次号につづく)

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体力トレーニング

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百名山は体力勝負です!
非力なぼく達「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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ー宮城県塩釜市ー
   四季伊保石公園

 ぼく達とて、どこにでもいる普通の夫婦です。

 いきなり百名山が可能になったわけではありません。


 20年前、岩木山から登り始めた頃。ぼく達二人はまだ若かったので特に体力的に懸念はありませんでした。しかし50代の後半になると腰が重いのヒザが痛いの・・となり、トレーニング抜きで百名山完登はあり得なかったと思います。


 体力補強の方法は、


 ①日々のトレーニング(ウォーキングとストレッチ)

②テニス

③ゴルフ

④軽登山


 です。
 その中からまづ日々のトレーニングについて簡単にご紹介
いたしましょう。

 

ぼくは、学生時代から硬式テニスをやってきています。

そこで必要とされる大切な要素は、


「①技術②体力③精神力」と教えられてきましたが、それは登山でも全く同じと考えています。
 たとえばテニスで、このコースに打って出ればこのコースに返ってくる・・との予測(アンテシペーション)は大切な技術要素ですがこれを登山流に換言すれば、この天気図ならこの時間に雷雨がくるから何時に出発し遅くとも何時にはその日の目的地に到着しなければならない・・というように危険予知と同じ性格のものと考えられます。

 

 また、「技術・体力・精神力」はそれぞれ別個のものではなく
同一の訓練の中で、それぞれが密接に関連しながら少しずつ養われていくのではないかと思っています。


 そこで「夫婦二人で登った日本百名山」にとって体力的にはまさにその原点ともいうべきぼく達二人の自主トレの現場を少しだけご紹介したいと思います。

 

 

まづ、その第一は伊保石(いぼいし)公園です。

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 週に2、3回ではありますが、春夏秋冬・風雨降雪にかかわらずぼく達が体力を保持するためトレーニングを行っている素晴しい森林公園です。

 

 お世辞にも品のいい名前とは思えません。


「伊保石」とは、イボのようにゴツゴツと突起した表面のある岩や石、という説があります。


 確かに、草木を植え込もうと我が家の庭をスコップで少しでも掘りますと、すぐ「イボ石」にぶち当たり作業にはかなり手間取ります。ぼくは何となくその由来に納得しています(笑)。

 

 その公園は、宮城県塩釜市が所有し管理する広大な森林公園です。


 森林、といいますとずっと山の中、と思われがちですが自宅からわづか徒歩5分。
ぼくの住んでいる団地の隣り、というより団地の中に伊保石(森林)公園がある、という感じでしょうか。

 管理センターの付近は赤松中心の植栽ですが少し奥にはいりますと、”
こなら、かえで、栗、朴(ほう)の木、もみじ、山桜”など落葉樹メインで、春の芽吹き・秋の紅葉など楽しめるところです。
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もちろん多種多様な野草にも出会います。
ミズバショウ、ショウジョウバカマ、黄ショーブ、マーガレット、フシグロセンノウ、キツネノカミソリなど四季折々に目を楽しませてくれるのです。

 積雪は少なく、せいぜい
20~30cm程度。

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ぼく達は通常それを「伊保石トレ」と称し、登山靴をはき10キロ未満のザックを背負うなど一通りの装備をして出かけます。


 百名山を終わった今も「伊保石トレ」は僕たち夫婦にとって日々の生活リズムを作ってくれる、まさに基本です。


 ただし、トレといってもトレーニングだけではありません。

 実は、春から初夏にトレーニングすると多くの山菜が同時に「トレ」るのです(笑)。


 お役所的に言えば、本当は自然保護の立場から採ってはいけないのかもしれませんが、もし山菜採りを
NGとすれば、それはそれで大変寂しいことです。

 山菜はルールさえ守れば毎年のように再生しますし、それよりも何よりも、忘れてならないのは人間は自然界のものを採取し食してのみ生きている生物なのですから・・・
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それはさておき、季節の順に申し上げますと。

フキの薹(とう)、たらの芽、わらび、こしあぶら、ぎぼうし(うるい)、ふき、みず・・となります。

 

特に今年は野菜がかなりの高値で推移していますし、なかなか手がでません。

少しだけ多めに採取できたものは湯がいて小分けした後、冷凍保存。食べたいときに解凍し食卓に出しています。


わづかな年金でほそぼそと生活しているぼく達には一石二鳥の嬉しい天の恵みです。

 

 トレッキングコースは幾通りもありますが、最長でもぼく達のペースでせいぜい1.5時間です。コースは常に整備されており不審者も皆無ですので、安全上の不安はありません。

 しかし、公園とはいえ自然の地形をそのまま利用していますのでアップダウンは結構きつく登山経験のない人がそのコースを歩けば途中でへばり、うまくいっても恐らく2.5~3時間はかかるのではないでしょうか。
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百名山いくつかの事件

ぼくのパニック障害を引き起こすきっかけになってしまった空木岳。
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ー中央アルプス南部の主峰「空木岳」ー
    木曽殿山荘でおきた命のハプニング①

 2005年以来、ぼくは「パニック障害」に苦しんでいます。


 その大きなきっかけとなった、ある百名山登山との係わりについて以下に記録したいと思います。

 

 2000年8月初旬、長野県駒ヶ根市の千畳敷(せんじょうじき)から観光客でごった返す正面の宝剣岳の方ではなく濁沢(にごりさわ)大峰を経て、ぼく達はだれも居ない檜尾(ひのきお)避難小屋に一泊し、その翌日、ちょうど70番目となった百名山・空木(うつぎ)岳を目指していました。

   誰もいない檜尾避難小屋に寝る    剣岳2831m    

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 結構きついアップダウンを繰り返しながら熊沢岳・東川岳などのピークを越え午前11時前には木曽殿越(きそどのごえ)と呼ばれる鞍部(あんぶ)に建つ木曽殿山荘に到着。IMG25665


                                                                   予期せぬ大雨にそのまま素泊まりとしたその日の夜のことです。

IMG25746 IMG25702

 







その時期、夏山登山はまさにハイシーズン。

その日の山荘は超満員で宿泊スペースはたたみ1畳に二人、という山小屋の条件としては最悪。

テントを持参すればよかったね・・などと無いものねだりをする気分になるものです。

 

ぼく達は自炊・素泊まりだったため2階の屋根裏部屋に案内されました。

どの山岳エリアでもそうですが、自炊客は二食付きの登山客と比し、ガスコンロなどを使って思い思いに食事をするため、かなり粗末な小屋をあてがわれるのが普通です。

 

そこは三角屋根の角度がそのまま天井の角度になっていて、ぼくはまさにその角。見るからに狭苦しい感じのする場所でした。

斜めになった屋根にガラス窓はありましたが採光用でどうやら開かないようです。

 

食事を終えぼく達は7時に就寝しましたが、しばらくして異常な暑苦しさを感じ目を覚ましました。室温は20℃くらいあったのではないでしょうか。


 時間は、夜中の11時を廻っていたと思います。

少しだけ寝汗をかきましたので上半身を起こしました。真っ暗闇の中、周囲を見渡しましたが何人かの方がため息をつくように、やはり寝苦しそうにしているのです。

 

しばらくはぼくもガマンしていましたが、息をするたびにどんどん息苦しさを感じるようになります。深呼吸をしてもだめです。すればするほど苦しくなるような気さえしてきたのです。

顔と上半身に汗が吹き出るようになってきました。

女房はぼくのすぐ隣りで向こうを向きスヤスヤ寝込んでいます。

 

熟睡している周囲に気遣いをすればするほど息苦しさは増し、それまでは感じなかった鼓動が大きく脈を打ち始めました。


 (くるしい、くるしい・・・、
      このままでは窒息しそう・・・・!)

 

苦しくてくるしくて、そのままでは発狂しそうになったぼくは隣りで眠る女房をゆすり起こすと無言で突然立ち上がり、まるで脱兎(だっと)のごとく階下の土間まで一気に走り降りて行ったのです。

 

山小屋固有の重く頑丈で、開きにくい戸をこじ開け外に出ました。

 

誰もいない標高2700mの稜線から見上げる真夜中の空は満天の星空。まるで宇宙遊泳でもしているかのようです。


 真っ暗闇に向かって深呼吸を幾たびかし、小屋に戻るとぼくは階上には行かずそのまま土間で横になりました。息苦しくて2階から一階に避難してきた人達がそこには数人いました。


 どうやら、その日は宿泊者が満杯だったため、一酸化炭素が階上の狭い場所に充満し酸欠状態になったのでしょう。息苦しかったのはぼくだけではなかったようです。

翌日、快晴の早朝。
命からがら急峻な岩峰を登り、何も無かったかのようにぼく達は70番目の百名山「空木(うつぎ)岳」の登頂に成功し、バカ尾根と言われるほど長~い池山尾根を駒ヶ根高原に下り、その足で次なる百名山・南アルプス「塩見岳」の登山口に向かったのです。
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     真下に小屋を見て急峻な岩稜を登る Aug.2000

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 その時の「酸欠」事件が、その5年後、ぼくにとんでもない「パニック障害」を引き起こすことになるとは知る由もありません。
                                 (つづく)

本当にあった怖~い話し。
百名山いくつかのミステリーから「水上温泉ホテル・真冬の怪談」はいかがでしたか?

予告
鳥肌が立ち、もっと奇妙な怪事件②「南アルプス塩見岳・三伏峠の謎」は
後日あらためて連載します。
どうか、ご期待ください。

百名山いくつかの大事件から

今も、解明できないミステリアスな事件。
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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百名山いくつかのミステリー


 
利尻から屋久島まで全国に分布する日本百名山を20年に亘って登っていると、様々な事故や怪我はもちろんですが奇々怪々で不思議な事件にも遭遇するものです。


 その中から背筋がゾクッとするような怪談めいた二つのミステリーをご紹介したいと思います。
ここにご紹介するのはフィクションではなく、まさにノンフィクション。
 ぼく達夫婦が出くわした本当にあったこわーい事件です。


群馬県
水上温泉ホテル
でおきた
        ―真冬の怪談―


 
ぼく達の登山は春から秋まで。

 とはいいましても、大きな山に登るのはせいぜい6月~9月までのわづか4ヶ月間でしょうか。


 春は残雪が多く雪崩(なだれ)の危険性が高いし、紅葉真っ盛りの10月になるといつ降雪があるかわかりません。
したがって春と秋は標高500m前後の里山で体力トレーニングをし、全く登山をしない真冬はスキーで体力の衰えを防ぐしかありません。

 

薄気味の悪い奇怪な事件は、そのスキーに出かけた真夜中。
群馬県は水上温泉で起きたのです。IMGP7498

 

 時は1997年1月のとある週末金曜日。


 当時、ぼくは東京市ヶ谷の本社に勤務していました。

その日は最初からスキーに行く予定だったため、社内関係者とはできるだけ顔を合わせないようにし、何とか定時で退社しました。

 ぼくは
JR京浜東北線で川口の社宅に戻りました。

 金曜日の夜 出かけるときは女房があらかじめ荷物や食事等あるいは寝床の準備を当時の愛車PAJEROにし、ぼくの帰宅後、遅滞無く出発できるようにしておくのです。

 

 外環状道から関越道に乗り、水上インターから5分の水上ノルンスキー場がその日の目的地です。

ゲレンデ上部からは白一色の男性的な谷川岳のほか、百名山のひとつ武尊岳(ほたかだけ)の雄姿を見ながらダイナミックな滑走を楽しむことができる穴場的スキー場なのです。
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 連日深夜0時までナイター営業をしているため、定時退社すればその日のうちに2、3時間はたっぷり滑れるのでぼく達は週末よく通っていました。


 その日は細かい雪が深々と降り続いていてとてもロマンチックな景観でした。谷川岳の麓(ふもと)でもあり水上一帯は結構の豪雪地帯です。

 

 会社組織において中枢部の一員として一週間業務に精励し、金曜日の夜出て高速をひた走り真夜中近くにナイタースキー・・・は、独特の開放感とは別に結構身体には応えるものです。


 さすがに疲れるし寒いし、ぼく達は23時過ぎにあがりました。


 普通ならスキー場の駐車場でヒーターをつけたまま車中泊ですが、その日の降雪状況から車で寝るのは危険と判断、水上温泉付近まで戻ってラブホ(当時はまだモーテルと言ってました)に潜り込んだのです。

 

チェックインが終わったのは午前0時頃。

雪は烈しさを増し積雪量は5,60センチだったでしょうか。

 

 若かりし頃、マンネリ化した夫婦生活を打破しようと幾度かラブホに出向き、夫婦生活に刺激と活性化を図ったことはありましたが、その日はそれ以来、本当に久しぶりでした。


 妻は入浴を先に済ませぼくを待っています。
入浴後、ぼくは妻の待つベッドに潜り込みました。


 週末独特の開放感と不思議な世界を演出するナイタースキー、深々と降り積もる大好きな雪、そして久しぶりに妻と迎える非日常の世界。
二人の気分が乗りノリだったことは言うまでもありません。

 

 妻の暖かく、マシュマロのようにふくよかな身体に唇を寄せていったその時・・・。

 

“トントン、トントン・・・”

 

 と、部屋の外でドアを叩く乾いた、硬い音がしたのです。

 

ぼくは妻と顔を見合わせ、

「ん?なに、あれ・・・?聞こえた?」

 

非日常の夫婦生活を迎えようとしていた妻もぼくも、一瞬にして氷りつき鳥肌が立ちました。ぼくは、聞き違いではないかと妻に確認しましたが、

「ううん、聞こえた。

誰かしら、こんな夜更けに・・。何かこわいわ・・・」

 

妻にも同じ音がはっきりと聞こえていたようです。

気味悪くぼく達は一切の動きを止め、聞き耳をもう一度たてました。

何秒か、抜けるような静寂が過ぎたあと、またふたたび

 

“トントン、トントン・・”

 

もはや錯覚ではありません。

(こんな夜更けにいったい誰が、何のために・・?)

 

ぼくは慌てふためき、無造作に寝巻きを羽織り、覚悟を決めました。

ゆっくり、しかも用心深くドアを開けたのです。

 

ところが・・・、

ドアの外には誰も居ません。

深々と雪が降り積もっているだけです。

部屋に入るとき僕たちが付けた二人の足跡さえ完全に消されていました。

誰かがドアに近づいてノックしたなら、足跡が残っているはずです。

それが・・・・

全くありません。

ノックの音を聞いてからまだ2、3分。

降り積もる雪が足跡を消したとは到底考えられません。

 

余りの気味の悪さにぼくも妻も顔面蒼白。

完全に凍り付いています。

 

#9ダイヤルで受付を呼び事実関係を話しました。

部屋の周りを慎重にチェックしてくれましたが異常は見つかりませんでした。

 

「足跡もない。でも、そんなはずは無い・・」

 

どう考えても解せない事件。

余りの気味の悪さに耐えられず、ぼく達はまた再びスキー場に戻り駐車場で車中泊としましたが、眠れるはずなどありません。

エンジンも車内灯もつけたまま、恐怖で震えが止まらない最悪の週末となってしまったのです。

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 水上温泉付近を流れる湯桧曽川から谷川岳を遠望 Jan.1997

百名山・人との出会い

長野チームの連中はもう、娘以上の息子・娘たちです。
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ー百名山・最高の出会いからー
     長野チームの子たち(その3)

(前号からつづく)

メールに書かれた内容を整理してみると、どうやら次のようです。


 下山後、上高地から沢渡(さわんど)の駐車場に戻った4人は自分たちの車のすぐ斜め向かいに、全国行った先々のシールがベタベタと張り付いたぼく達のらしい車を発見。

 「まさか?」

 と思ったようですが見ると「宮城」ナンバー。
色もスカイブルーで合ってる。となって、さっそく写真を撮った、とのことでした。

 BlogPaint


 日本を代表する観光地である上高地には、自然環境保護の立場から指定された大型バスもしくはタクシーでしか入山できません。

 したがって、上高地に入山する観光客や登山者はすべて
沢渡(さわんど)という、ずっと手前の駐車場で自分の車を置かなければなりません。

 おそらく相当数ある駐車場に数千台、いや数万台の車が駐車していたに違いありません。にもかかわらず、たまたま同じ駐車場、しかも目の前に・・だなんて。


 到底、考えられません。ぼくと女房は、この写真を見たとき、顔を見合わせため息をつきながら超ウケ!です。


「いくら何でも・・偶然といっても、ここまで・・・?」


 と、余りにも信じられない偶然さにただただ驚くばかりでした。

 

この、沢渡駐車場での「偶然」が、もしなければ長野チームとぼく達との関係もここまで発展してなかったのかも知れません。


 ここまで来ると「偶然」ではもはやなく、それは「必然」ではないかとさえ思えてきたのです。

 人と人との出会いは目に見えない不思議な「縁」。
60余年の人生を振り返ってみても記憶に無いほど、本当に珍しい出来事でした。

 

それからというもの。


 彼らとぼく達は携帯メールや電話でひっきりなしに情報交換が始まりました。

登山すれば山頂から写メ、宴会には生ビールで乾杯の写真など。双方とも頻繁に情報の交流をしています。

 

2009年の晩秋、旧い仕事仲間たちとのゴルフで木曽駒に出かけていったときの帰途、Sちゃんの仕事場である蓼科の超高級ホテルに一泊。SANY0032

その翌日、すべての客がキャンセルしたほど大雨の中で
Kちゃんと3人でしたゴルフの後、SM夫妻の自宅アパートにお邪魔し
Mちゃんの気持ちイッパイの手料理でカンパーイ!SANY0049


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2010年の正月過ぎには、雪降る中を長野からはるばる仙台まで。松島湾でかきクルーズをし、牛タンも食いながら生ビールを飲みたい!とのことで、Fを除く3人があっという間に我が家に来襲し2泊も。          
                                           

 長野チームとのいわば親と子の関係を超える仲睦まじい交流はどんどん膨らみ深まるばかりです

              
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解説:このあと、僕たちが百番目の百名山「槍ガ岳」に挑戦した
本年(2010年)7月20日の早朝、登山口の上高地でとんでもないサプライズがありました。

若い「長野チーム」の、ぼく達に対する健気(けなげ)な優しい愛情は一体どこから来るのでしょうか。

予測をはるかに越えた彼らの「サプライズ」に後押しされたようにぼく達はその2日後の7月22日、遂に百番目の百名山「槍ガ岳」3180mの山頂に立ったのでした。

とんでもない「上高地のサプライズ」については後日また連載します。どうかご期待ください。

百名山・人との出会い

その出会いは「偶然」ではなく、むしろ「必然」だったのかも・・?
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ー最高の出会いからー
    長野チーム(その2)

(前号からつづく)

彼らはそれぞれ数年~10年近く、カナダで観光ガイド関係の仕事をして最近帰国した仲間だそうです。

 なるほど、堂々としていてどこからともなく満ち溢れてくる自信のようなものは、そういったインターナショナルな経験に裏打ちされたものだったのかも知れません。
 みんなハツラツとして輝いていました。すぐに、ぼくは納得しました。

 

親と子ほどの年齢や世代の違いを超え、ぼく達は打ち解けるのに時間はかかりません。
山の話題やスキー・カナダの話し・家族・ゴルフの話し
etc、愉快な話は尽きることなく延々と続いたのです。

 

彼らは自分たちの話をするだけではなく、巧みにぼく達に話題を仕向けるなど、エンターテイメントにもなかなか長けた能力を兼ね備えていました。


 翌日登る奥穂は僕たちにとって99番目の百名山(リベンジ)であったこと。というのは、その前年、涸沢でぎっくり腰を発症し奥穂を目の前に涙を呑んでヘリで上高地に下山したこと。
 前日泊は涸沢小屋(彼らは涸沢ヒュッテ)であったこと、
ぼくの車は薄いスカイブルー色の日産セレナで北海道などあちこちのシールがベタベタ貼り付けてあることなど・・。

 そこが標高3000mに建つ山小屋の食堂とは思えないほど豪華な夕食の時間までに、ぼく達はすっかり仲のいい友達同志になっていました。
 

 99番目の百名山「奥穂高岳」を無事踏破し宮城県の自宅に帰宅した数日後、長野チームの一人、元気がとりえの可愛いいKちゃんから写真添付のEメールが届いていました。


抜粋してみますと、こうです。


 『・・・(略)、
  あの翌日、下山途中、心の折れそうな場面にも遭遇しましたが

 ただただ、安全第一で仲間と無事下りてきました。

 

 ところが・・


 なんと!最後に!そこで!まさかの!

 出来事がありました。


 「絶対にそうだ!」

 っと確信しつつ皆んなで写真を撮りました。

BlogPaint
  添付されてきた写真 左前からS&Mちゃん夫妻、Fちゃん、Kちゃん

       (車はまさしくボクの愛車NISSANセレナです)

 どうですか?

  お父さんたちの車だったら

 超~ウケルぅ~(笑)!

 

 仙台にみんなで遊びに行きたいので

 その時はよろしくお願いします!』

 

というものだったのです。

 

百名山・人との出会い

奥穂高で出会った素晴しい若者たち・・、
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

また、関連ブログ
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http://blog.livedoor.jp/jess8444-yamahanachou/


日本百名山・人との出会い


 永年、登山をしていると奇妙な事件にも遭遇しますが、またいろいろな人にも出会うものです。


 登り・下りですれ違うひと。登山途中の休憩や食事のとき隣り合せになったひと。


 長時間のきついアップダウンに耐えた後、やっとの想いで山小屋に到着し着替えた後の食事や団欒のときに親しくなる場合が圧倒的に多いのは僕たちだけではないと思います。


 人間同士というものは不思議なもので、どんなにそばにいても特段の挨拶もせずスッと通り過ぎてしまうひと、少しだけ興味を示し話しはしてみるものの関係が深まってはいかないひと、ついさっき出会ったばかりなのになぜか波長が合いもっとお互いのことを深く知りたくなるようなひと・・・。


相手の年齢・性別などとは無関係に、山小屋ではそういうことが往々にしてあるものです。

 
 いや、社会における人間同士の出会いや相性とはまさにそういうものなのでしょう。
 

 下山のあと、山の上であるいは山小屋で撮りあった写真を交換したり挨拶状を交わしたり、あるいは何年にも亘って年賀状のやり取りをしたりした人たちは結構いましたし現在も少しはいます。

でも、その殆んどはどちらからともなく自然消滅的にまた疎遠になっていくものです。

 

実際、登山を共にしあるいは山小屋で親しくなった山仲間は沢山いましたが、下山後あらためて「再会」し酒を飲みかわし、はたまた双方の家を行き来した山友達は、ぼくたちの場合これから記します「長野チーム」以外、これまでに皆無です。

 

 

最高の出会い

―長野チーム(その1)―


 
これから登場する若い4人組みを、ぼく達は通称「長野チーム」と呼んでいます。

4人のうち3人が長野県に住んでいるからです。

BlogPaint
それは、99番目の百名山「奥穂高岳」をリベンジしたときのことです。


 その日(2009年9月13日)、朝はまあまあの天気だったのですが秋雨前線の影響があったのでしょうか、小屋を出て1時間もたたないうちに気温はぐんぐん下がり霧雨まじりで視界のない悪天候となりました。

SANY0056 ぼくたちはその日の朝6時半、前泊していた涸沢小屋を出て厳しい岩場のザイテングラートに差し掛かると、その上部からかなりの登山者が降りてくるではありませんか。


早朝、穂高山荘から奥穂に登り始めた登山者(女性40代)がアイスバーンで滑落して即死、
登山ルートが閉鎖されたとのことでした。

 SANY0054

 
実はその前日(2009,9,12)も大変な事故が頻発。


岐阜県警や報道陣のヘリが涸沢・穂高付近の上空を引っ切り無しに飛び交い、物々しく異様な雰囲気だったのです。

IMGP8961
   奥穂高・ジャンダルムを飛ぶ岐阜県警の救助ヘリSep.2009
 

概要はこうです。


 まづ、ジャンダルム(奥穂高山の西側付近にありもっとも危険とされる岩峰)付近で発生した急病人の救助に向かった岐阜県のヘリが尾翼のプロペラを岩場に引っ掛け墜落し正・副操縦士2人とも死亡。残念ながら救助を求めた患者も死亡。

ほかに疲労凍死2人、などでした。

 

下界では30℃を越える残暑がまだ厳しいというのに、標高3000mの世界ではアイスバーンだの凍死だのと、自分たちがその時どれだけ厳しい場所に身を置いているかを改めて思い知らされ、脚がすくむような怖い思いで真冬のようなザイテングラートを登り切り白出のコルに立つ穂高山荘に9時到着しました。

 

 登山ができなければ日が暮れるまで山小屋で時間をつぶすしかありません。9月中旬とはいえ3000m近い穂高山荘内は日中にもかかわらず10℃以下。まるで平地の真冬並みですが節約のためか暖房はなかなかつけてくれません。


 暇つぶしと寒さ対策を兼ね、大勢の登山者は思い思いに好きな場所を陣取り、真っ昼間、いや、時間的に正しくは朝からビールや酒を飲んで歓談しています。

SANY0064
    長野チームとの出会いの瞬間。穂高山荘にてSep.2009
    -左からFちゃん、S&Mちゃん夫妻、ぼくの妻S、Kちゃんー     
                  (右端の方は本文とは関係ありません)
 

 その中に、ひときわ目立つ男女二人ずつ計4人のグループがいました。

 4人とも年齢は30代、我が家の3人の娘たちとほぼ同世代です。男
二人はなかなかのイケメン。二人の女性もとても可愛くて明かるそうです。

 

それぞれ500mlの缶ビールを片手に持ち、周囲に気遣うことも無くグイグイ飲みながら、ワイワイ・ガヤガヤと大きな声で愉快に話しています。


 悪天候の中、かなりの登山者が右往左往する小屋の中で周囲をものともせず、異様に輝いていた彼らを見た瞬間から、ぼくは何か不思議な若者の魅力を彼らに感じていたのです。

                                      (つづく)

大事件(その1-2)


自分たちの未熟さをイヤと言うほどに知らされた
谷川岳における妻の滑落大事件。

当サイトでは「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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ー百名山いくつかの大事件よりー

谷川岳滑落大事件(その2)
 Jul.1994

その直後、登山道を下から登ってきた男性二人のうち一人が、持っていたロープをザックから取り外し、別の一人がいち早く自分の身に縛りつけると崖を下り、あっという間に妻を引き上げてくれたのです。


 彼らの動作は見事でした。

まるで救出ドラマを見るような一瞬の出来事でした。IMG8589

 

もし、ダケカンバに引っかからなければ恐らく数百メートルは滑落し全身バラバラになって即死していたはずです。救助してくれた男性二人に氏名と住所などをお尋ねしましたが

「当然のことをしただけですから・・」

とだけ言い残し足早に山頂方向に登っていきました。

 

挑戦し始めたばかりの日本百名山。


 斜面が違うといえども1千人にものぼるクライマーの命を奪ってきた谷川岳が、
まさに身を持ってぼく達に教えてくれた百名山・命の教訓だったのです。

 IMG10148

1千人ほどのクライマーの命を呑み込んだ厳冬期谷川岳・魔の一の倉沢 

 ぼく達は2010年7月22日、百番目の百名山「槍ガ岳」3180mの山頂に立ち、夫婦二人で日本百名山を何とか無事に完登しました。

 しかし、「魔の谷川岳滑落大事件」について、その日二人で約束した通り3人の娘たちには今なお話していないのです。



大事件(その1)

まさに「命拾い」をした谷川岳。
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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―百名山いくつかの大事件から

(その1)谷川岳滑落大事件


 
20年にわたって挑戦してきた百名山の中で、というより60余年の人生のなかでここまでギリギリ「命」の限界を試されたことはありません。


“九死に一生を得る”とはまさにこんなことをいうのでしょう。

 

 1990年青森県「岩木山」から始まった百名山への挑戦はその後、月山(山形県)・美ヶ原(長野県)・早池峰山(岩手県)・蔵王地蔵岳(宮城県)・安達太良山(福島県)・八甲田山(青森県)・磐梯山(福島県)と、東北近県の山を中心に進んでいきました。

 

 百名山制覇を明確に認識していたとはいえ、登り始めてわづか3年。登った百名山はたったの上記8つです。


山に関する心構えや知識あるいは装備などはまだまだ未熟であり、まさにそれを証明するような大事件が起きてしまいました。

 

 それは1994年7月16日、
 群馬県のあの「谷川岳」の登山道で起きました。
                
IMG10148                                                                   

IMG21753
1千人近いクライマーの命を奪ってきた魔の谷川岳「一の倉沢」

1987年以来ずっと妻Sが書き続けてくれている記録帳「山と花と蝶」③に記されたものを原文のまま記載します。

 

「94,7,15(金)~16(土)谷川岳1962m 晴れ

 

7月15日(金)

退勤後、社宅に戻り夜8:00出発

戸田西~練馬~関越に乗る

水上インターで下りる。

谷川岳駐車場22:30着

思ったより車の数は少ない。布団を敷いていたが段差があり寝心地はよくない。

23:00近く寝るが、夜中かゆくてかゆくて目が覚める。 

 

7月16日(土)

 5:20起床。快晴、気持ちの良い朝です。

洗面をし朝食をとり6:20ロープウエイに乗る

天神平6:40


 さすが谷川岳、早朝にもかかわらず人がいっぱい。

男性的な万太郎山を右に見ながら快調に歩く

本当に満足そうなF(ぼくの名前)IMG8608

とにかく暑い、あつい!
水は水筒2本・ジュース2本・ヤクルト5本。

足りるだろうか

喉が渇いて仕方ないわたし、


「ゴクゴク飲むな!」

飲むたび、Fに叱られる

 

肩の小屋9:15

下を見れば駐車場が見えるのに

山登りは結構きついものです

ミカン・おにぎりを食べて休む

山頂トマの耳に向かう

F「うんち!!」のため私は一人でトマの耳に向かう

 IMG8628
下山開始10:30

疲れたのか何なのか

事故はこんなとき起こるのか

11:50ごろ、

私は足を滑らせ左側の断崖絶壁に落ちた。

一瞬、何が起きたのか自分でもわからない

 とっさに何かに手をかけた

私の身体が何かに引っかかって宙に浮いてる

 

Fと他の男性2人

ロープを使って私をあっという間に担ぎ上げてくれた

 

私は膝がガクガクだった

本当に助かってよかった

 

熊沢避難小屋12:10

早く下山してビールが飲みたい

頭の中はビール・ビールでいっぱいでした

 

13:00リフト乗り場に到着

このとき飲んだビールは最高だった

 

でも・・・山に行くのが少し怖い。


      *******
 

“九死に一生を得る”

とはまさにこのことをいうのでしょうね。

 

 登り優先というルールを妻が知っていたかどうかはわかりません。


 その時妻は、列を為して登ってくる登山者たちに道を譲ろうと、狭い登山道の左側(崖側)に寄ったのです。その瞬間、小粒の浮石(小砂利)に登山靴のソールを滑らせ
すぐ左の断崖にまっさかさまに転落したのです。


 正直、妻の数メートル先を行くぼくには何が起こったのかとっさにはわかりませんでした。


「キャアーッ!」

という悲鳴に驚いて振り向くと、すぐ後ろに居たはずの女房が居ない。居なくなってしまったんです。

                             (つづく) 

 

IMG8660
  滑落付近の断崖に咲く高山植物と万太郎岳(左奥)Jul.1994

山行中の食事


旅先と山行の食事は自炊が基本。
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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山行の基本は自炊


 
車では行けない宮之浦岳(屋久島)を除く日本百名山すべて、ぼく達の移動手段はマイカーでした。

 

 自宅を出て登山口に到着するまで車で移動中の食事はもちろんのこと、避難小屋泊まりであれ食事付き小屋泊まりであれ、僕たちは3食とも基本的に「自炊」でした。

SANY0012SANY0027 












 テント山行の人たちは別としますと、小屋宿泊の登山者は朝と晩2食を山小屋で食べるのが普通です。昼食についても、小屋におにぎりやお弁当(だいたい千円)をお願いする登山者もかなりいます。

 

「自炊は面倒くさいし、だいたいザックが重くなる」

というのがその主たる理由だと思います。

山中に何泊するかによって違いが出るのは当然ですが、食べたいものを入れていくとザックの中身は食材だけでもすぐ2、3㎏~数㎏に膨れ上がってしまうからです。

 

 山小屋の宿泊料金は北アルプスと南アルプスで少し違いますが北の場合凡そ2食付9千円、素泊まりで6千円前後が標準です。

 
 従ってぼく達の場合、二人ですから一泊だけでも6千円節約になるわけです。

20年間の長丁場ですからこれは、大きいですよねえ・・。

 

僕たちの「自炊」山行には経済的理由のほか、実はぼく達夫婦ならではの楽しみ方があったからでもあるのです。

 

宮之浦岳(屋久島)など飛行機で移動する場合などは少し状況が違いますが、ふつう自宅を出て登山口に到着するまで2日~数日かかることは頻繁にあります。


 高速を使う場合はサービスエリアやパーキング、一般国道の場合は道の駅の駐車場に駐車し、出来るだけ他人の迷惑にならないようなところにキャンプ用の椅子やテーブルをセットし女房とイッパイやりながら煮炊きをし食事をします。
これがなかなか楽しいんですね!
なぜか気分がとにかく豪華になるんです。

SANY0427SANY0086




                  日SANY0005が暮れる前に後片付けをし、日が暮れたら即、寝てしまいます。


適当な駐車場がなく、セブンイレブンなど比較的大きなコンビニの駐車場で真夜中にたたき起こされ叱られたことも実はありました。

 


 山小屋泊のとき、ぼく達の山小屋到着は昼前後の時間帯が大半でした。

ずいぶんと早いとお思いでしょうが、
それは、午後の山は天候が急激に変わり雷雨などに遭遇するなど大変危険だからです。
 出発は早朝4時~5時、その日の目的地到着はどんなに遅くても昼すぎが目安という、いわゆる「はや立ち・はや着」を終始厳守しました。

 

ですから、山小屋に着くと夕食まであり余るほどの時間があります。

付近を散策したり昼寝したり、あるいは高山植物の写真撮影することなどのほか、たいしてすることはありません。
ぼく達は小屋付近のテーブルに陣取ると
小屋でビールを買って乾杯。

そのあと妻は持参したワインか焼酎、ぼくは日本酒を少しだけやって
その日の安全登山を互いに祝福しあい翌日の山行プランを確認しあうのです。

0608北ア笠が岳 088
         北アルプス鏡平小屋にて Aug.2006


 妻は、さきイカ・チーズ・チョコレート・煎餅など、よくそこまで持ってきたねというほど種々雑多な摘みをザックから小出しします。得意がったようにぼくに勧めます。


 ぼくは余り摘みませんが、妻は
「摘みがないと飲む気がしない」
と、口癖のようによく言います。
 高山病にさえならなければ、わが家の奥さんはかなりの呑ん兵衛のようです。

 

その後、少し昼寝をし身体を休めると夕食時、また同じようにします。

酒を飲み腹が減ると、何種類もの持参したレトルト食品の中からその日の好みを選びガスコンロで沸かした湯を入れ、数分待って食べるだけです。山でする食事は極めて簡単で質素なものです。

でも、美味いんです。とてつもない贅沢感を覚えるものです。
これは、不思議なものです。
食後、妻は大好きなコーヒーを、ぼくはココアか昆布茶を。

 

そこに居るだけで、己の存在がいかに小さいかを教えてくれる恐ろしいほどの大自然。恐れ慄く(おののく)ほど大きな山の端に沈み行く夕照を眺めながら超贅沢な時間が過ぎていきます。

0608北ア笠が岳Pentax3 013
        夕景・北アルプス鏡平池から穂高連峰Aug.2006


 そんな夫婦二人だけの、悠久の時間(とき)を共有し
 共に過ごしたい。


 それが「自炊」山行を選択したぼく達の大きな理由の一つでもあ
 ったのです。

あと二つ「穂高と槍」

あと二つ「穂高と槍」
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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あと「二つ」穂高と槍


 
2008年夏に北海道の9山を無事踏破し終えたぼく達は、気力・体力とも自信に満ち満ちてまるで別人のようでした。

 その年の秋、まだ残っていた紀伊の大峰山(八経ケ岳)と阿蘇山・祖母山、
IMGP6727SANY0029それに時ならぬアイスバーンで十字靭帯を損傷し「苦渋」を舐めさせられていた久住山など関西・九州方面の山をあっけなく登ると、残る百名山は「あと二つ」となっていたのです。

IMGP6731
  黎明・お釈迦様の涅槃(ねはん)像と云われる阿蘇連山 Nov.2008
 

ぼくの雑記帳「山と花と蝶」①によれば、穂高と槍が最初の登山スケジュールに登場してきたのはどうやら1996年のようです。

その年に登ろうと思っていた山は北岳・間ノ岳、槍・穂高など15山でした。


 実績は14山で、数的にはまあまあでしたが中身は計画したものとだいぶ違っていました。
次年度からも毎年のように槍・穂高は実行計画に顔を出していました。お盆前後に夏休みをとって登りたい、との気持ちが強かったようでした。

 しかし、その割にはよほど躊躇していたように思います。何故なら、あくまでも槍・穂高は縦走するものとの認識が強く、後回しになって行ったのは縦走路中のキレットに対する恐怖が先に立っていたからではないかと思っています。


 しかし理由はともあれ、登る順番が繰り下がれば下がるほど槍・穂高は百名山の中の単なる一つではなく、ぼくの中では「百名山のフィナーレを飾る山」に意味合いが明らかに変貌していったのです。
IMGP9755
    槍沢・殺生小屋から仰ぎ見る槍ガ岳3180m

IMGP9802
   槍ガ岳から穂高連峰・中央奥が奥穂高岳3190m      


次回は
「自炊と避難小屋」についてアップ予定です。

羅臼岳へ

羅臼の頂で、
「もう、これも見納めかもな・・。」

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知床の鋭鋒
 ついに「羅臼岳」へ

 幌尻岳は、ひ弱なぼく達夫婦が日本百名山を踏破できるかどうかという伸るか反るかの大きな、おおきな賭けでありました。

 

結果は一世一代の「運」にも恵まれ「大吉」で大成功でしたが、ぼく達二人の気持ちと身体はボロボロでした。

 濁流と化した額平川の渡渉を経て長い林道を下山してきたぼく達にはもはや車中泊の元気はなく、苫小牧まで戻って東横インに二泊、たまりに溜まった衣類の洗濯なども兼ねて完全にダウンの二人でした。SANY0001

 

  トムラウシから利尻・幌尻とやってくるとぼく達には、それまでには皆無だった「自信」らしきものが少なからずみなぎっていたような気がします。


 IMGP6323一般的な岩尾別登山口の木下小屋をまだ真っ暗の早朝4時過ぎ、一番で発ったぼく達は姿の見えないヒグマの猛烈な恐怖と闘いながらも、あの長丁場「羅臼」を登り7時間、下り5時間でやってのけました。IMGP6304

 

 雪渓のない仙人坂のきつい登りが効いたのか、妻は羅臼平で股関節の強い痛みを訴えました。最後の30分は巨大な岩石がゴロゴロするきつい登りでしたが、顔をしかめながらも良く頑張って登りきりました。SANY0085

 

まるで円形劇場のような羅臼平を挟んでそのすぐ向こうの三ツ峰、サシルイ岳、オッカバケ岳・・・・そして荒涼たる茶褐色の生々しい噴火の肌をみせる硫黄山まで東方向に一直線に続く知床半島の見事な背骨群。

 SANY0088

(生涯もう、これを見ることはないんだろうな・・?)

 

ゴツゴツした羅臼岳の頂で、知床の峰々とその向こうにきらきらとスカイブルー色に輝くオホーツクの海を見ながら、ぼく達は時が経つのを忘れ深いふかい想いに耽るのでした。





幌尻岳の奇跡

「ぎっくり腰」初期の痛みは懸命の冷湿布と安静で改善されてきましたが
前にかがんだり身体を捻ることは今日現在殆んどできません。
いつものことながら辛くミジメです。

99番目の百名山「奥穂高岳」に向かったとき(2009年7月)も二日目の涸沢で発症し、荷揚げ用のヘリで上高地に下ろされました。

目標を直前にしたときのぎっくり腰は例えようの無い「屈辱感」と
「情けなさ」にさいなまれるものです。

百番目の百名山「槍ガ岳」のとき、発症せずに済んで本当によかった、
今で本当によかった・・・
と、いま改めて思っています。

ぎっくり腰独特の腰部の違和感に耐えながら
夫婦二人で登った「日本百名山」を連載しています。

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幌尻岳の奇跡(その2)

幌尻岳は北海道の中央南部・日高山脈の盟主で
「ぽろしり」とはアイヌの言葉で「大きな山」という意味です。

日高山脈一帯は「原生地域」と呼ばれ、
山小屋はもちろんのこと森林伐採もふくめ
人の手がまったく入いってないわが国最大の原生地域なのだそうです。

したがって、幌尻岳の山頂に登るにはどのルートを選択しようとも
川の渡渉は避けられないようです。

では、前号のつづきを以下にアップしましょう。
       
        ****************

ところが・・・、

  

駐車場に戻りエンジンを掛けた頃、ぼくと同世代くらいの年齢でいかにも品の良さそうな方がジープ車で一人こちらに向かって来ました。

車から降りるとトランクから2、3mはあるような数本の長い棒を取り出しました。その両端は真新しい朱色のペンキが鮮やかに塗ってありました。
登山道や河川の維持保全をするお役所の方とお見受けし、僕のほうからちょっとだけ声を掛けてみました。

  

 「こんにちは、ご苦労様です。お尋ねしますが、それ・・なん
ですか?」

  「こんにちは。あ、これですか?SANY0007
あのね、これ渡渉棒(としょうぼう)といいましてね。
登山者が額平(ぬかびら)川を渡渉するとき、安全を確保するための棒なんですよ・・・」

 

 「えっ?!
ということは、これからどなたかと幌尻に行かれるんです
か?」

 「はい、私は登山道の管理を委嘱されてましてね、同時に幌尻岳の登山ガイドをしています。今日は岡山の方から見えるある登山グループを待ってるんですよ。SANY0002

十数名なんですがね。もう間もなく来る頃なんですけど。
幌尻に行かれるなら、どうです?
ご一緒しませんか?お二人ではなかなか不安でしょうし。
二人増えたからといってどうということもありません。
私からもメンバーの方にはお願いしてみますから・・?」


「えっ・・?! 本当ですか?いいんですか・・・?」

  

  余りに突然の出来事にぼく達は唖然とし、何がなんだか分かっていない。

 結婚からサラリーマン生活に至るまで、「運」をあまり味方にできなかった自分には、その時、何が起ころうとしているのかさえ理解できませんでした。


( こんなことって、あるんだろうか・・・?)


ウソみたいだけれど、この大一番に及んで一世一代の「ツキ」が廻ってきたに違いない。
そう思っても、ただ顔を見合わせ、何をどうしたらよいのか混乱して頭が廻りません。


それには幾つかの理由があったのです。

 

まづ第一に、前述の通り、幌尻山荘の宿泊予約はその翌日であったこと。従って幌尻山荘にその日は絶対に泊まれない。


 第二に、山行に必要だった食料等の準備が未了であったこと。


 万一、遭難したときを考慮し普段から余分に非常食を持参することはあっても少なめにして山に入ったことはそれまでに皆無でありました。

しかし、駐車場から平取町までガタピシャの林道を片道2、3時間ほど掛け今さら買出しにでる余裕時間などあるはずありません。


 でも・・・、

いまやらなければ翌年になる。また北海道に渡らなければならない。

いや、急いては事を仕損じるだけだ、急がば廻れか・・?

 

神の思し召しか、それとも地獄への使者なのか?

どうしよう、どうしよう、どうする・・・?

やる?やらない?


 岡山の登山グループの人たちがチャーターバスで到着するまで十数分間はあったでしょうか。

ぼく達は、パニック状態の中でまさしく大いなる決断を迫られていたのでありました。

 

「よしっ、行こう!食料は、二人で半分ずつ分ければいい・・、二日や三日なら何とかなる!」


 ぼくは決断し、妻にそう言いました。

「そうね、これを逃したらチャンスなくなるかもね!」

 

 妻も呼応するかのようにそう言って頷きました。


 車に戻ったぼく達はそれから数分間、ただ黙々と荷揃えをしザックに無造作に詰め込んで行ったのです。

渡渉用の靴なども含めザックは重く大きく膨らみました。
 

駐車場から5キロほど向こう、林道終点からいよいよ恐怖の額平川渡渉が連続します。

深さ2、3mもある真っ青に透き通る淵に恐怖し、激流にそそり立つ岩壁をガイドの指示に従いつゝへつり通ります。

背丈の低い妻は、時として腰部近くまで額平川の激流に身を浸し30数回渡渉を繰り返しました。
危険極まりない額平川渡渉の動画、以下をクリックしてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=2ZgIB5_84Ow&feature=youtu.be

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夕刻前、ひとまづ避難小屋に着きました。
宿泊日が一日ズレた件はガイドT氏が何とか小屋番のオヤジに話をつけてくれましたし、もちろんぼくも事情を話し平身低頭お願いしました。

渡渉でずぶ濡れになった衣類や靴をところ構わず干すのですが
折から接近しつつあった低気圧のため、まだ雨は降っていませんでしたが低く垂れ込めた雲の下では乾くはずなどありません。
 

 岡山のグループは用意してきた豪華な食事で宴会を開いていましたが、ぼく達は少し離れたところで顔を見合わせながら一つのラーメンを、それでも幸せそうな顔をして二人で仲良く分け合いました。SANY0049

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翌日は低気圧が接近する中、ザックを最小限にして早朝4時半には小屋を出て山頂を目指しました。登る正面方向に戸蔦別岳(とったべつだけ)の見える稜線に出た辺りから濃い霧が立ちこめ、風も雨も強まり展望どころではありません。

SANY0086 まるで真冬のような冷たい風雨にさらされながら、ただ黙々と山頂を踏んだあと他の登山者に会うことなく足早に下山。小屋に戻ったころ額平川はもはや濁流になりつつあったのです。SANY0087

 


SANY0083








ゴーゴーと音を立て褐色に濁った飛沫を上げはじめた額平川に


(ひょっとしたら呑み込まれるかもしれない・・・?)


目の前に迫る「命」の恐怖を感じながら、ぼく達は寡黙になって川を渡りまた渡り返し、ただひたすら登山口の駐車場に向かって渡渉を繰り返して行くのでした。

 

一度は完全に諦めかけた幌尻岳。

低気圧接近による悪天候のもとでの登山でしたが、まさかの「運」を味方につけギリギリのセーフでした。

 百名山の中で数ある最難関のひとつ、北の大地の「幌尻岳」を無事に乗り切ったぼく達二人には自信がみなぎっていました。


 その二日後、まるで何も無かったかのようにぼく達は次なる百名山・知床の羅臼岳(らうすだけ)に向かって快調に車を走らせていましたが
カーラジオでは「一昨日から昨日に吹き荒れた低気圧の中、幌尻岳から下山中だった中高年の登山者二人が額平川付近で亡くなりました」との他人事とは思えない悲しいニュースが流れていたのです。


次週予告

 92番目の百名山・知床半島の主峰「羅臼岳」を連載する予定です。
 キタキツネやエゾシカの愛くるしい映像にもご期待ください。

臨時ニュース

お詫び

実は、10日ほど前からなんとなく不調だったのですが
持病の『ぎっくり腰』を発症してしまいました!

3、4日後には何とかパソコンに向かえるように回復し
ブログ更新できるよう努力したいと思っています。

どうか、それまでご容赦を・・。
今後ともどうか宜しくお願いします。

SANY0035

次回は「幌尻岳の奇跡」(その2)をアップする予定です。
どうかご期待ください。

第4章北海道の百名山へ

山はいい。自分の人としての存在がいかに些細で小さなものかをただちに証明してくれる。だから逆らわず素直に生きていこう!
「夫婦二人で登った日本百名山」を連載しています。

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遥かなるトムラウシ


(その1)雌阿寒岳1499m

   苫小牧に上陸した後、花の山・アポイ岳で足慣らしをし、まるで真冬
  のような襟裳岬などを観光しながらぼく達は雌阿寒温泉から雌阿寒岳
  をピストンしました。       寒々しい烈風吹きさらす襟裳岬 Jun.2008
IMGP5031


   治りきれない喘息や膝・腰など、身体的に大きな不安を抱えたま
  まの登山だったため、標準コースタイムの倍ほどかけて有毒ガスの臭
  いがぷんぷんする山頂に立ちました。
  
   下山後、コバルト色に輝く「オンネトー」(湖)から見る雌阿寒岳は百
  名山としての風格を充分備えていました。

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 今なお烈しく息づく噴火口Jun.2008
    
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                   オンネトーから仰ぎ見る雌阿寒岳 Jun.2008

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(その2)トムラウシ山(大雪山系)2141m
 
  オンネトーで、すがすがしいエメラルド色を満喫したあと阿寒
 湖・摩周湖・屈斜路湖と立ち寄り上士幌を経由していよいよトム
 ラウシの登山基地である新得町に入りました。

  ぼくの本当の気持ちは、「神の遊ぶ庭」と言われるあの大雪を
 大縦走し、トムラウシの山頂に立ちたかったのです。

  遥かなる山・トムラウシまで天空の稜線歩きをしたかったとい
 うのと、コヒヨドシなど希少種である高山蝶が飛び交う高山植物
 のお花畑をどうしても見たかったからでありました。

   計画当初は黒岳や旭岳から入いり、避難小屋泊まりでトムラウシ温泉もしくは天人峡に下山を考えていました。

 現地関係者に問い合わせすると、

「その時期、小屋は学生でまづ満杯。泊まれる保証はありません。さらに水・食料を持っての大縦走はかなり危険が伴う」
といわれ、迷いましたが断念した経緯がありました。


  結果的に、それはそれは大正解だったのです。

  
 ぼく達が短縮登山口からテント一泊でトムラウシを往復した翌年(2009年)のほぼ同じ時期、

天人峡から大雪の尾根を縦走しヒサゴ避難小屋に宿泊した19人の縦走ツアー登山者のうち9人が悪天候のため疲労凍死するという、日本中を揺るがす大遭難事故がトムラウシ山頂直下でおきたのです。
 3人のプロガイドがついていながらにおきた夏山の大惨事でありました。皆さんにもまだ記憶が新しい山岳事故であったと思います。

 

   ぼくは、現地山岳会の方々から電話で聞き取ったご意見やコースタイムと自分たちの体力等を勘案し、


①短縮登山口からとはいえ、自分たちに日帰りは無理。

  ②最低でも山中1泊

  となると、


③登山計画路上に小屋はないのでテント持参

  ④テントおよび備品や一泊二日に要する水・食料は自力では負担が大きすぎる。


 特に、北海道の沢水はキタキツネが媒体する「エキノコックス」という命にかかわる疫病に感染する恐れがあるため飲料には不適であることが大きな妨げになり、通常の飲み水(二日で最低でも一人4
L)の他に食事用の水(二人で5L?)を持参しなければならない。

 

  などから


⑤ガイドを頼まなければ自力でトムラウシは到底不可能!


との結論に達したのです。
不測の事態が起きたときに、ということも無かったわけではありませんが、それよりはむしろただ単純に体力的に荷物が背負えない、という判断が強かったように思います。

 

全国各地に出向いていってはそこそこの登山経験をしてきたボクたちでしたが、だからといってそれまでプロのガイドさんに「連れて行ってもらった」ことは皆無でした。

 不経済というのも確かにその大きな理由の一つでしたが、きちんとした登山道のついた山を登るのに何で?、
というある種プライドのようなものもあったのでしょうか?。

 

ところが、定年前後になると庭の手入れやゴルフの後など、どうということのない日常生活の中で腰の不調を頻繁に感じるようになってくるのです。


 お付き合いでやった週末ゴルフの翌月曜日、当時住んでいた筑波から都内に出向いて会議に出席するとき、首都高速運転中にギックリ腰を発症。
にっちもさっちも行かず救急車のお世話になり、そのまま都内の病院に担ぎ込まれたこともあったほど、ぼくのギックリ腰は年々深刻化して行ったのです。

 

 インターネットでトムラウシ登山ガイドをあれこれ検索し、最も信頼感のもてそうな北海道新得町在住のプロガイドO氏に決め早速電話。深田百名山の中でも最難関のひとつ、遥かなるトムラウシに向かうのでした。
               展望台から望むトムラウシ山
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その2 携行品のチェック

感動の共有が幸せの条件。「夫婦二人で登った深田久弥の日本百名山」を連載しています。

携行必需品一覧表
 


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                延々と続く・ながーい長い 北アルプス笠ヶ岳からの帰路 Aug.2006

 山行のとき、「忘れ物」は時として命にかかわる大切な要素です。
持ち物は「携行必需品一覧」として保存し、準備にかかるとき常にそれにそって持ち物の準備とチェックを怠りませんでした。

 携帯電話やデジカメの普及により充電器や
SD
カード、専用のバッテリーなどと少しずつ持ち物に変化はでてきましたがその都度補完し、常に最新版管理を徹底していきました。


ぼくの場合、と言っても半分以上は妻と共通していますが、一般的な事例を示しますと以下のようになっています。


登山用具等


アイゼン・ステッキ・軍手・登山靴・靴下・チョッキ・膝サポーター・虫除け網・
ラジオ(乾電池)・山岳地図・タオル・スタッフバック・ゴアテックス上下・ ポシェット・水筒(3L)・ガスボンベ(2)・コンロ一式・ザック(大・小)・ ザックカバー・ヘッドライト(電池)

薬品等

ヌカカ特効薬・虫除けスプレー・精神安定剤(F)・血圧降下剤(S)・ボルタレン(鎮痛剤)・ホッカイロ・インテバン(筋肉痛消炎剤)・冷却スプレー・消毒液・化膿止め・カットバン・下痢止めストッパー・点眼薬・アミノバイタル(疲労回復)

写真関係

カメラ(2)・三脚(大・小)・電池(替え)・
SDカード・バッテリー(替え)・充電器(SANYO & PENTAX)・セルフタイマー・レンズ(望遠・マクロ)・カメラザック

生活用品

ヒゲソリ・携帯電話・充電器・歯ブラシセット・財布・小銭入れ・車内用コンセント・同電源コード

衣類

パンツ(替え)・シャツ(半そで・長袖・替え)・柔らかい枕・靴下(替え)・
ベルト・フリース

食料等

レトルト食品・ラーメン・非常食(スティックパン・カロリーメイト・ソーセージ・チョコ・せんべい・ゼリー・チーズ)・
レモン・梅酢・ポカリ粉・ヤクルト・日本酒(○)・ワイン・焼酎

その他

捕虫網・三角缶・携帯用展翅板・展翅用ピン・はかり・爪切り・道の駅の本・パソコン(コード類含む)
 

ただし、いつでも上記のすべてを持参するわけではありません。
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           北アルプス笠ヶ岳の帰路・秩父岩付近にて休憩 Aug.2006


 その時々の山行の種類、すなわち日帰りか泊まりか、1泊なのかそれ以上かなど、あるいは季節やその山の難易度等によっても組み合わせが微妙に変化していきます。


もちろん、妻の持ち物とぼくのとでは違いがあるのは当然です。
 

 常に身の安全を考えていますと、ついあれもこれも・・・となりがちです。そうするとザックがどんどん重くなっていきますから、その辺の調整と判断にはいつも充分な時間と気を使うところです。

次回予告

 

  飛び上がって歓んだ定年退職(2007秋)。

 そして、ぼく達夫婦「日本百名山踏破」のまさしくその「命運」を分けた北海道日高山脈の盟主「幌尻岳」でおきたとんでもないハプニングなど、2008年夏に9つある北海道の百名山に臨んだエピソードを数回にわたってアップして行こうと考えています。
どうぞご期待ください!

なお、関連ブログ
写真集「山と花と蝶」にもどうぞお立ち寄りください。
 http://blog.livedoor.jp/jess8444-yamahanachou/

第2章 仕事と山

第2章.

仕事と山
  --疲弊しきった心の逃げ道--

 

 株)H製作所を退職したあと、ぼくが永年勤めた会社(鉄鋼メーカーA)は1987年(昭和62年)双方の親会社であるN(株)主導のもと同族会社Tと合併し新生TA(株)として再出発を果たしました。
 合併会社において、主要部門の長はその大半がNとT出身者で占められていたのです。


 合併新会社において、40歳にならんとしていたぼくは人事労働部門(東京本社)の課長職に抜擢され、社員の昇格昇給など重要な人事管理制度の統一に向けた企画立案を任されましたが、その殆んどすべては新会社で木っ端微塵に粉砕されていくのです。

 姑にいびり倒され逃げ場を失った嫁のように、ぼくのプライドは音を立てながらガタガタと大きく崩れて行きました。


 その間、ぼくの心と身体はガマンの限界を超え疲弊しきって、ノイローゼになるほどの耳鳴りとめまいや吐き気などをもよおす「突発性難聴」と「中心性網膜脈絡炎」という視野を失うような重篤な病気を発症してしまいました。
 
 業務を優先せざるを得なかったぼくはその逃げ道を唯一、週末たびの「山」に託していくこと以外、他に方法は無かったのです。

 

それでも会社合併による幾多の後遺症群を何とか克服し、ある主力事業部の管理部長という要職を拝命しバリバリと業務をこなし、そこそこ出世街道を歩んでいると、今度は(親会社Nの)言うことを聞かないK社長(N株式会社の元副社長)と親会社N経営トップ層とのすさまじい確執が表面化し、NとTAの親子関係が急速に冷えていきました。


 1998年(平成10年)秋、親会社のNはわが社を「倒産」ではなく、商法上の「任意清算」という手続きをとることによって遂に豪腕社長Kを追放するに至りました。


 まさに、わが国鉄鋼業界の歴史に残る屈辱的かつ破廉恥な大クーデターと言っても過言ではありません。


 両経営者層の腹黒い足の引っ張り合いと裏取引などを目の当たりにしたぼくは余りにも薄汚れた大人社会に耐え切れず、クビを取られた社長Kの後を追うようにその直後、依願退職をしたのです。

 最後の勤めを果たし帰宅したぼくはその日の深夜、女房を連れ、組織社会の醜い出来事を懸命に忘れようと、まるで何かに取り付かれた様に奥秩父の山・金峰山に向かって愛車PAJEROを走らせて行ったのです。

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               奥秩父・金峰山々頂・五畳岩付近にて Oct.1998

ぼくの生育暦(2)

しかしそんな息苦しい環境もなんのその、ぼくは勉学やスポーツ、またさまざまな文化や音楽にも親しみつつ伸びやか且つ大らかに育って行ったような気がします。

 

1967年(昭和42年)春、団塊世代を象徴する、いわゆる受験戦争の荒波を越え父親の母校でもあり父の強い要望でもあった東北大学(法)に合格し、人生唯一の親孝行をしたと思っています。


 厳格だった父親が

「よくやった!!お前の欲しいもの何でも買ってやる!」

と、ぼくを褒め称えてくれました。

 ぼくは田舎の街の老舗だった楽器屋さんで当時一番値段の高かった1万2千円のクラシックギターを買わせてもらったのをよく覚えています。今もときどきそのギターを取り出して弾くのですが、旋律の中からその頃の時代の独特の香りがしてくるようです。


 いずれにしても父親がぼくを誉めてくれたのは前にも後にもその一回だけでした。

 

魔の受験戦争から開放されるとテニス一色に塗りつぶされた幸せな4年間をぼくは杜の都・仙台で過ごしました。

 

卒業(1971年3月)と同時に、幼いころから憧れていた(株)H製作所に入りましたが最初に配属された経理部で背向かいだった女性(現在の妻S)と恋愛関係になり結婚にまで発展したのです。
しかし、父親と会社関係者の猛反対に合いこじれにこじれ、僕達は日毎に追い込まれて四面楚歌状態となって行くのです。

結局、その年の暮れNHKの紅白歌合戦が佳境に入った頃、無一文のまま東京に、まさに命がけの「駆け落ち」をし、正月休み明けを待って入籍しました(1972年1月)。空襲で焼け残った大田区石川台のうす汚いボロアパート(6畳1間)でハシ1本もない生活はまだ若過ぎたぼく達二人には余りにも残酷でしたが、一方、自分たちの力で本当の「自由」を勝ち取った画期的な瞬間でもありました。

 

時に、妻は19歳・ぼくは23歳。


 少し大げさな言い方になりますが、現在の妻とぼくの、「命」と「生活」の原点はまさしくここにあったと言っていいと思うのです。

(詳細は別冊:岡 史彦著「ラ・グリマ」 http://p.booklog.jp/book/14740 をお読みください。
         電子本になっていますのでスマホなどでページめくりしながら読めます。)
                                              


関連ブログ 写真集「山と花と蝶」
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第1章

第1章 ぼくの生育暦

 

1948年(昭和23年)、茨城県のとある町でぼくは生まれました。

 

祖父・倉吉(1867慶応元-1931昭和6)は無尽会社(今の銀行)や郵便局、薪炭業などを多角経営する実業家でありました。仏壇下の保管棚に現存する幾多の書簡から推察いたしますと徳富蘇峰先生など歴史上の著名な人物と密接な親交があったようです。E231046E


 町に上水道がまだ無い昭和の初期頃、自費でボーリングし悪戦苦闘のあげく水源を探り当て、鯨の背中のような高台にあった街の中心部まで地下水を吸い上げ上水道設備を設置し、終いには市に無償で寄付をするというまさに尊敬に値するおじいさんなのです。

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詳細は

別冊:**六郎著 「さく井(さくせい)の話」

****市の歴史散歩(第8章、郷土の人物P64-67)

輝く茨城の先人たち

  http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/senjin/index.php?Detail=true&no=112

 

などをご参照ください。

 

また、祖母は前述の西山荘で黄門さまにお仕えした武将の末裔でありました。

 

そのようなことなどが多分に影響していたのでしょう。

子供や学生には「学問」だけが崇高とされ、男女間の恋愛などはもっとも不謹慎と蔑まれ家の内では話題にすることさえ固く禁じられ、極めて偏った厳格さの中で育ちました。

すなわち、ぼくの大好きだったテニスや音楽・昆虫採集などはことごとく学問の妨げとされ、今日の時代では到底考えられない息苦しい家庭でありました。

 

母は茨城県北相馬郡(現、取手市)で5人兄弟の長女として富豪の家に生まれました。

 幕末の日本に燦然と輝く勝海舟等と深い係わりをもちながら利根運河の開削にその生涯を捧げた、郷土歴史を語る上で欠かせない偉大なる人物「広瀬誠一郎(1837天保8-明治23)の末裔ですが亭主には絶対服従でぼくが知る限り父の前でその首を横に振ることは皆無であったように思います。

広瀬誠一郎と利根運河
http://www3.ocn.ne.jp/~kumaken/kouon/2008hirose.pdf


輝く茨城の先人たち

 http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/senjin/index.php?Detail=true&no=92

 

 

 

はじめに(最終)

夫婦で生きてきた、
    せめてもの「証」にと・・


特に何のとりえも無いぼくたち夫婦は「深田久弥の日本百名山」から計り知れない「幸福感」を得ることができました。

 自分たちも含め多くの人は人生70~80余年に亘り永き命を生きていくわけですが、ぼくが思うにその間、自分が期待し考えるほど大したことはできないものです。そのような中で、ひ弱なぼく達夫婦が二人で力を合わせ励ましあって百名山を登りきれたということにぼく達はいま大満足しています。


 深い縁があって夫婦になったぼく達二人が、仲良く精一杯生きてきたよ!という「生きた証」を3人の娘とそれぞれの旦那たち、それに愛くるしい4人の孫たちにも残せたような清々しい気持ちにさえなるのです。

 

「百名山に費やしたあの1000万円があれば海外旅行も
 行けたし、もっと沢山ゴルフだってできたのにね・・」

 「そうだな、うんうん・・・」

 などと、たわいもない話しにアハハ・オホホと腹を抱えて笑いながら、まだ夕方の4時半にもならないというのに山談義を摘みに女房と二人、今日も楽しく晩酌をしています。


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はじめに(10)

深田久弥の生家を訪ねる

 石川県の白山を下山した直後、突然でしたが加賀市大聖寺町に「日本百名山」の著者・深田久弥さんの実家を訪ねました。

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           白山下山のあと、深田久弥氏のご生家にて Jul.1997

 実弟ご夫妻から書斎や貴重な遺稿など拝見させていただいたばかりでなく、湯茶のご接待を受け「山ありてわが人生は楽し」という深田さん実筆の色紙をいただいてきたのは忘れ得ない大きな感動でもありました。
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                    深田久弥氏の文学碑にて

 ある年の晩秋、深田さんが登山中に急逝(1971年)した山「茅ガ岳」にも登り、感謝と深い祈りを捧げてきたこともあります。
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              深田久弥終焉の地 茅ヶ岳(山梨県)Dec.1995           

はじめに(9) 

負担となった大きなザック

 ぼく達夫婦の登山は初めから基本的に自炊でした。


知識も、体力も技術も無いのになぜ?とお思いでしょうが、その答えは極めて簡単で単純。たいした出世も出来ず、ごくありふれたサラリーマンでしかなかったのに、山だのスキーだのテニスだの、今度はゴルフだの・・・と、「ストレス解消」を名目にしながら遊び三昧だったボクたちには、ただただお金に余裕が無かったからです。IMG25754
       大きなザックを背負って南アルプス空木岳の急峻な山頂付近を登る妻(Aug.2000)

椹島から悪沢岳・赤石岳のとき(1997年7月・4泊5日)や有峰湖から薬師・黒部五郎・水晶岳をやった時(2002年8月・5泊6日)などは妻もぼくも着替え・食料等20キロ近いザックを背負ってのかなりきつい縦走だったと記憶しています。

 例えば、素泊まりなら一泊5000円が二食付きになると9000円。二人ですから一泊に付きその倍×日数分、は経済的にかなりの持ち出しになります。
 乏しいお金のために体力を犠牲にして山行の殆んどは素泊まり&自炊で通しました。経費節減とはいえ、高山病と相俟って体力の無い女房には本当に本当に苦痛を強いてしまったと思っています。そんな妻には、お詫びと感謝と両方の気持ちで一杯です。


 北の果て利尻山から南国屋久島の宮之浦岳まで長~い日本列島を大縦断しなければ到底果たしえない深田百名山。
 20年間に亘る移動・移動の連続で、どう少なく見積もっても
1000万円はゆうに費やしたのではないでしょうか。

 

はじめに(8)アンラッキーとラッキー

①アンラッキー 

20年もの間、百名山を登り続けていると様々かつ不可解な出来事や事故に遭遇します。アンラッキーも沢山ありましたが、ラッキーも少しはないと百名山は達成できなかったような気がしています。

 

谷川岳下山路における妻の大滑落事故(94年7月)、南ア塩見岳三伏峠付近で出くわした今なお不思議でたまらないミステリアスな遭難事件(2000年8月)。

 春まだ浅い2008年3月・仙台港からフェリーで別府に着いたその日の早朝、久住山登りの第一歩・時ならぬアイスバーンでスッテンコロリンとやってしまったぼくの右ひざ十字靭帯損傷。

 99番目の百名山(奥穂高岳)のとき・二日目の涸沢でギックリ腰を発病し荷揚げ用のヘリで上高地へ涙の下山(2009年7月)等々。

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               2009年7月 北アルプス涸沢付近でギックリ腰


②ラッキー

一方、30数回もの渡渉を余儀なくされるという北海道日高の額平川、その濁流を見ただけで怖くなり撤退を決めた直後、たまたま出くわしたプロのガイドさんから「もし良ろしければご一緒にどうですか・・?」と声かけられ、まるでキツネにつままれ夢遊病者のようにただひたすら付いて行った幌尻岳。

このとんでもないツキが無かったら、ぼく達の百名山制覇はおろか、恐らく今頃はまだ北海道の山をウロウロしていたに違いありません。
 このとき二日間、本当に懇切丁寧にリードしてくれたガイド
T氏がぼく達二人の百名山を成功に導いてくれた偉大なるキーマンと感謝しています。

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                         百名山制覇の成否を分けた額平川(幌尻岳)渡渉


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はじめに(7)どこにする?百番目の百名山

また、100番目の百名山をどこにすべきか、まだ見ぬ山にぼくは茫洋としていて迷いがあり決めかねていました。最後の山として、利尻山やトムラウシ山などいくつかの候補はありましたが「奥穂高」や「槍ガ岳」もかなり有力な百番目の百名山候補のひとつであったような気がします。そこそこの標高があり、尖がった格好いい山を百名山のゴールにしたいという想いが強IMGP5383かったのです。IMGP6065













利尻山(北海道利尻島)           トムラウシ山(北海道大雪山系)

                                         

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穂高連峰(長野県北アルプス)

                      槍ガ岳(長野県北アルプス)
0608北ア笠が岳Pentax2 044
 

はじめに(6)兄の死・母の死

 まだ岩木山と月山しか登っていなかった1993年、ぼくは深田久弥の「日本百名山」を明確に意識していました。その年の初め、ぼくは年度別に(とはいっても、数年先までですが・・)百名山の登頂計画を作成し、原則それにそって一つずつこなしていく決意をしていたのです。

 もちろん、そのプラン通りに行ったためしはありません。進捗を見ながら毎年見直すいわゆるローリングプランとしました。
さらに一つのけじめとして、どんなに遅くとも60歳定年までに百名山完登としました。
 ところが、世の中そうはうまく行かないものです。

 2003年ごろ、やっとの思いで取れた10日間ほどの夏休みに北海道の百名山を計画し準備がすべて整ったその直後に7つ年上の長兄が肺がんで亡くなります。
そうなると、その翌年の夏や翌々年の夏は法要となり向こう3シーズンにわたり夏山への身動きはまったくといっていいほど取れず、タイムスケジュールがどんどん遅れて行くのです。
 
 ぼく達はその頃、目指す百名山を80近く登っていましたので百名山完登への闘志と脂はかなり乗り切っていて、いけいけムードだっただけに不幸にも亡くなった実兄を弔うことより
「なんでこの時期に死ぬの・・?」
などと、極めて不謹慎な気持ちにさえなったものでした。兄貴は、いまごろ天国でそんな僕たちをさぞ恨んでいることでしょう。
 遺影の前で毎朝手を合わせ、お詫びしつつ兄の冥福を祈っています。

 その4年後の2007年1月に、今度は大好きだった母が亡くなります。

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母葬儀070111008

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はじめに(5)妻と山と高山病

 妻のせつ子は、ぼくと一緒になった頃、自分の意思で、すでにテニス(硬式)をしていました。中学・高校までは軟式テニス、大学入学以降は硬式テニスを本格的にしてきたぼくからみれば女房のそのレベルは初級者の域を出てはいません。でも、よほど好きだったのでしょうね、子育ての合い間を見ては時間があれば1年中、とにかくテニステニス・テニスに明け暮れていたようです。

 蝶採集に、妻は子供たちの要求もあったせいか快く同行し協力もしてくれましたが、あるときぼくが誘ったスキーと登山だけは頑なに拒否し、
「それでも・・・というなら離婚する!」
とまで言い出しかねないほど険悪な気配さえあったのです。

 結婚したときと比べると約15キロ近くも太り、いわゆるおデブちゃんとなった女房を連れて山歩きをするのは何かと大変なことです。
30分と続けて歩くことは出来ず、ぼくの同意を得ないまま、ところかまわずベタッと座り込むと水ばかり飲んで、
「もうダメ、もうダメ・・!」
と、今にも泣きそうな顔をしていたものでした。

IMG6452

 登る山の標高が少しずつ上がっていくと今度は顔面蒼白になり立ち止まって烈しく嘔吐するようになっていきました。最低でも12,3キロのザックを背負って長時間のアップ&ダウンはその頃の妻にとって地獄のような辛さだったと思います。
 かろうじて水は飲みましたが食事はおろかチョコレートや菓子などの行動食さえ受け付けません。少しあとでわかったのですが妻の場合、凡そ2500mを超えると決まって発症した高山病だったのです。

 百名山のうち約3分の1は2500を越える高峰ですので、ぼく達夫婦の百名山踏破は、同時に「妻の高山病との闘い」であったともいえるのです。
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