2011年10月

2011年10月28日

HT029


創価学会で、仏法を学んでいくなかで、
不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)という、
菩薩(ぼさつ)の話しが、
でてきます。

不軽菩薩というのは、
どんな人間であっても、
すべての人の中に、
仏性(ぶっしょう)という、
仏(ほとけ)のように、
清(きよ)らかで、強くて、素晴らしい、
最高の生命があることを、説くために、
すべての人間を、
礼拝(れいはい)して回ったという菩薩(ぼさつ)です。

そのため、みんなから、
うさんくさがられ、バカにされ、
石を投げられたり、たたかれたりして、
迫害(はくがい)を、受け続けました。

けれど、その行動は、
仏法(ぶっぽう)から見ると、
人間の生命を最大に尊敬する、
正しい行動だったので、
その功徳(くどく)によって、
不軽菩薩は、宿命を転換(てんかん)して、
成仏(じょうぶつ)し、後の世に(来世・未来世に)、
釈尊(しゃくそん/釈迦・ブッタ)となって、
生まれてきたという話しです。
ようするに、不軽菩薩は、
釈尊(しゃんそん・ブッタ)の、
過去世(かこせ)の姿だったということです。


その不軽菩薩の話しから、
まえに、幹部の人が、
『人は、実は、自分を写す鏡(かがみ)なんだ!』
という話しを、してくれた。

どういうことかというと、
人の中にある仏性(ぶっしょう/仏の生命)を、
たたえるということは、
実は、自分の中にある仏性(仏の生命)を、
たたえていることになり、
人を、たたえ、尊敬することが、
実は、自分自分を、たたえ、尊敬することになり、
自分の人生を、幸せの方向に、
大きく、開花させていくことになる!
というのです。

人というのは、自分の心に反応して、
自分の心に、対応して、
自分の心の鏡(かがみ)のように、感情や、しぐさや、
行動を、起こしていくという、
一面(いちめん)もある。

その人を、バカにして話していれば、
それは、伝わり、
相手は、冷淡(れいたん)な態度で、接してきます。
こっちが、尊敬して対応していると、
相手も、気持ちよくなって、
こちらを、尊敬してくれます。
そう、単純には、いかないけれど、
営業にしても、こっちが、
自信なく話していれば、
相手は、軽く、あしらってきます。
こっちが、自信を持って、堂々と話していると、
相手は、「そうかなあ!」と思って、
乗る気で、対応してくれます。

単純なようで、あたりまえのようだけれど、
確かに、そうだと思います。
『人は、自分を写す鏡!』

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

人を尊敬して接すれば、接するほど、
自分も、尊敬される。
それは、なんとなく、わかる。
けれど、ここには、無理がある。
いくら、人を、心から尊敬しろと言われても、
なかなか、実際には、難(むずか)しいことも、
あると思う。
また、ネックとして、人を、尊敬するためには、
自分の存在も、尊敬していなければ、
なかなか、できない!
自分の存在に大きな価値があり、
自分が生きているということに、
大きな尊敬を、感じることができなかったら、
確かに、人を心から尊敬するということも、
できないと思う・・・。
そこが、ポイントだと思う。

自分を、心から、尊敬しているという人は、
なかなか、いないと思う。
また、心から、自分は、尊敬できない!
というのが、本音(ほんね)だと思う。

自分を、尊敬するというのは、
ちょっと、おかしな表現かもしれないけれど、
自分は、本当は、ほんとうに強くて、
やさしくて、あったかくて、魅力(みりょく)があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!
と、わからせてくれる、
何かの存在が、必要となるのは事実だと思う。

普通、人間は、鏡を見て、
自分の姿を、認識(にんしき)する。
自分は、こうなんだ!と、
鏡を、見ることによって、
わかることが、できる。
けれど、それは、見た目、表面上のことにすぎない。

これが、もし、
自分の生命の、心の底まで、
見ることのできる鏡が、あったら、
自分の生命が、どういうものか?
認識することが、できる。

その、自分は、ほんとうに強くて、
やさしくて、あったかくて、魅力があって、
どんなこともに負けない、素晴らしい人間なんだ!と、
自分の生命の底から、
認識させてくれる『鏡(かがみ)』が、
実は、創価学会が、
祈る対象として、信望(しんぼう)している、
『ご本尊(ほんぞん)』なんです。
(ご本尊とは、日蓮大聖人が、仏(ほとけ)の生命を
 文字で表現しきった、
 紙などに描かれた曼荼羅(まんだら)です)

最強最高の自分を写しだす鏡!
それが、『ご本尊』!!

ご本尊は、仏の生命そのものを、
現(あらわ)している。
仏の生命というのは、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝(かがや)いた魅力的な生命なんだけど、
それは、そのまま、
自分自身の生命を、現(あらわ)してもいる!

すなわち、自分の中に、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝いた魅力的な生命が、
『明(あき)らかに、存在してる!』ということを、
伝えるために、『ご本尊』は、ある。

だから、『ご本尊』に、南無妙法蓮華経を、
となえる時、
『ご本尊』という、自分の鏡を見て、
強くて、あったかくて、やさしくて、
絶対に負けない、
最高に輝いた魅力的な自分自身を、
思い出し、また、
実際に、そういう生命が、
自分の中から、わき上がってくる。
だから、
本来の自分に戻(もど)ることが、できる!

『ご本尊』に、
真剣に南無妙法蓮華経を、となえていると、
それが、自然に身についていき、
無理をしなくても、
自然に、人を、尊敬する接(せっ)し方が、
できるように、なっていく。


ご本尊と南無妙法蓮華経のスゴサは、
悩みや問題が解決できたり、
夢や希望をかなえていけたりして、
計(はか)り知れない可能性があるけれど、
ご本尊に南無妙法蓮華経を、
となえていくことによって
自分の中から、最高の尊厳(そんげん)がわきあがり、
また、人も心の底から、
自然に尊敬できるようになっていくというのも、
この、『ご本尊』と、
南無妙法蓮華経の、スゴサだと思う!


ともかく、人は自分を写す鏡・・・。

人が、自分を写す鏡だとしたら、
その鏡を、最高に素晴らしく、
魅力的な鏡にするのが、
『ご本尊』の存在であり、
自分も、人も、
最高に尊敬する行為(こうい)が、
『ご本尊』に、南無妙法蓮華経を、
となえることに、なるんだと思う・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:14│こころ │

2011年10月24日

HT133


日蓮大聖人の御書(ごしょ)に、
諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)という、
御書が、あります。
(御書とは、日蓮大聖人が、書かれた、
 論文や手紙を、すべて、集めたものです。)

この御書のなかに、

『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と、
 唱(とな)えしが、二人、三人・百人と、
 次第(しだい)に唱え、つたふるなり、
 未来も又(また)しかるべし』

とある。

組織論(そしきろん)として、すべてに言えることとして、
その組織が、一人しか、いなかったら、
自分が、やるしかない。
それが、2人になると、だいぶ、楽になってくる。
自分が、できないときは、
変わって、やってくれる人が、いるからだ。
それが、三人になると、
劇的に変化が、起こってくる!
2人だけだと、その2人は、
自分と似かよった、
同じような趣味や、趣向(しゅこう)を持った、
狭(せま)い範囲の人しか、集めることは、できない。
ところが、これが、三人になると、
自分の趣味や趣向、性格とは、
まったく、違(ちが)うような人たちも、
仲間として、入れていけるようになってくる。

だから、組織は、三人になった時から、
劇的に発展していく。
これが、組織を発展させていく原理(げんり)だという。

一人から二人へ、二人から三人へ・・。
この原理なくして、組織は、
現実的に、広かっていくことはない。
だとしたら、組織を強くする鍵(かぎ)は、
やっぱり、一対一の誠実な対話なんだと思う。
最も、地味(じみ)なようで、これしか、
組織を、強くする方法は、無いんだと思う。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
青年から、どうしたら、
組織を、強くできるか?と、質問され、
「それは、一人の人間と、会っていくことだ!」
と、答えてくれたそうです。

一人を、大切にすることが、
組織を、強くすることに直結する。

現代という時代は、「大きな組織の中では、
オレの力なんて」とか、
「俺が、いくら、がんばったって、
 日本が、変わるわけではない」とか、
一人の力を、過小評価し、
卑下(ひげ)する傾向にあると、思う。

けれど、さっきの組織論からいうと、
それは、まったく、逆だということになる!
巨大な組織を、強くする、ということは、
一人の人間を、強くする、一人の人間を、最大に尊敬する、
一人の人間の価値(かち)を、最大に評価していく!
これしか、ないということだと思う。

そして、この結論として、言えることは、
巨大な組織よりも、はるかに大きな価値が、
一人の人間には、ある!
巨大な一国を、左右できるだけの、
偉大(いだい)な力を、持っているのは、
実は、たった一人の人間だと、
いうことになる!

だから、一人の人間を、ぜったいに、
卑下(ひげ)しては、いけない!
一人の人間の価値を、最大に認め、
賛嘆(さんたん)している組織や、国が、
結局は、栄(さか)え、発展していく。

一人の人間の価値を、過小評価し、
バカにしている組織や、国は、
やがては、滅(ほろ)んでいく運命に、
あると思う。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

一人の人間の幸せを、考える時、
そのネックにあるのは、
自分という一人の人間の価値を、
最高最大に認めてほしい!
自分の生きている価値を、
最高最大に感じて生きたい!
ということでは、ないかと思う。

だから、
その一人一人の切実(せつじつ)な願いを、
かなえることができる団体が、
伸び、発展していくことになる。


日蓮大聖人が、南無妙法蓮華経を、
となえだした時、一人だった!
だが、やがて、2人、3人と増え、
最終的に、南無妙法蓮華経を、
となえるようになったのは、
日蓮大聖人の生前中に、
全国の日本人の十分の一にまで、
なったそうです。

しかも、これは、一国をあげて、
日蓮大聖人と、その門下を、
迫害(はくがい)し続けてきて、
それでも、それだけ、
南無妙法蓮華経が、広がってきたと、
いうことです!

さっきの組織論から、考えていくと、
南無妙法蓮華経は、
あらゆる、一切(いっさい)の迫害を超(こ)えて、
一人の人間の価値を、
どこまでも、最高最大に、たたえ、
最高最大に、開花させていく、
『最強の人間讃歌(にんげんさんか)の法則(ほうそく)』
なんだと思う。
まるで、消えることのない太陽の炎(ほのお)のように、
こころと生命を、幸福にし、
王者のように輝(かがや)かせてくれる!!

だから、どんな迫害も、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
人間の生命に起こる変革。
すなわち、
一人の人間の生命に、
最大の価値と無限の可能性を開く『革命』を、
はばむことは、できなかったんだと、思う。


現在では、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
24時間、世界のどこかで、
必ず、南無妙法蓮華経を、
となえている人がいるそうです!
日蓮大聖人の予言(よげん)どおりに、なってきた。

それは、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)が、
人間の価値と可能性を、
最大に開花させてきた結果であり、
ひとりひとりの悩みや問題を解決し、
夢や希望を、かなえてきた結果だと思う。

それは、
ひとりの人間を、
現実に強くし、
現実に幸せにしてきた。

ひとりの人間を
強く幸せにしていくならば、
結局(けっきょく)、
それは、
社会を、
世界を、
強くし、
幸せにしていく結果となる。

ゆえに、
この創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰ほど、
世界に、平和と、幸せと、希望の世界を、
ひろげていく方法はないと結論(けつろん)しても、
なんの問題もない・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 08:49│幸せ │

2011年10月20日

HP194


まえに、インターネットで、
2チャンネルという書き込みを、見ていたら、
創価学会の話しが、のっていた。

「創価学会にだって、悪人は、いるじゃないか!」
とか、
「創価学会の人が、みんな、善人ではない」
とかいう話しを、していた。

それは、そうだと思う。
創価学会に反逆(はんぎゃく)した人たちだって、
もとは、創価学会だったわけだし、
まあ、悪人だから、創価学会から、
出ていったわけだけど、
もとはといえば、創価学会員だ。
創価学会は、どんな人でも、幸せにしたい!と、
願っているわけだから、
いろいろな人が、創価学会に入ってきて、
当然だと思う。
けれど、信心が、狂(くる)ってしまったら、
その人は、狂っていく。
仏法(ぶっぽう)の原因と結果の法則(ほうそく)には、
一点の狂いもない!
だから、仏法の信心が、狂ってしまった人が、
おかしくなるのは、
逆の意味で、この仏法が、
真実の法則であることの証明だと思う。

創価学会に入っても、
信心がなくなり、創価学会員を、
バカにするようになった人が、
幸せになったら、おかしい!
それとは、まったく逆の、
悲惨(ひさん)な結果が、出て当然だと思う。

だから、逆に、仏法の信仰を、
素直に、純粋にやっていると、
思いもよらなかった幸せを、つかめるのも、
仏法の道理(どうり)だと思う。
勘違い(かんちがい)してもらっては、
困(こま)ると思う。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)も、
どんな悪人であっても、
創価学会員である以上、なんとか、
良くしよう!良くしようと、
心を、砕(くだ)いていたように思える。
けれど、ひとたび、
創価学会に牙(きば)を向いたならば、
絶対に、許さない!
なぜかと言うと、その悪を、許したら、
創価学会の清浄(せいじょう)な世界が、
壊(こわ)されてしまうからだ!
創造(そうぞう)は、一生、
破壊(はかい)は、一瞬。
ほんとうは、一瞬の気の緩(ゆる)みも、
許されないのが、人生だと思う。
だから、悪は、許さない。


ともかく、仏法(ぶっぽう)は、きびしい!
勝つか、負けるかだ。
単純に考えると、この世界は、
悪人が勝つか、善人が勝つかの戦場だと思う。
中途半端は、ありえない!
善人が、おとなしくしていれば、
悪人は、いい気になって、
どんどん、のさばっていく。
悪人というものは、際限(さいげん)を知らない。

日本人は、「これくらいは、
許してやれば、いいじゃないか」とか、
そういう、中途半端な黙認(もくにん)を、
美徳(びとく)と、考える傾向があると思う。
けれど、それは、
あきらかに、間違(まちが)いだ!
そんなことをして、悪人が、反省するとでも、
思っているのだろうか!
そんなことは、絶対にない。
悪人というものは、気を許せば、
許すだけ、際限なく広がっていくものだ。

ドイツが、昔、ナチスだった人たちを、
許さなかったのも、そういうことだと、思う。
ナチスの悪人を、たとえ、地の果(は)てまでも、
追い詰(つ)め、断罪(だんざい)していく。
それが、人間としての、誠実な、
真実の生き方だと思う。

だから、創価学会も、悪人を絶対に、
許さない。
ほんとうに、くどいようでも、
はたから見たら、みっともないように見えたとしても、
徹底して、悪を責(せ)め、追及(ついきゅう)しつづける!
それが、人間の正義を、善を、強く高め、
自分を、世界を、平和に、幸せにしていく、
法則であり、方法だからです。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

ただし、よく、誤解(ごかい)されるのは、
創価学会員は、なにも、
善人になるために、信心しているのでは、ない。
そうではなくて、
幸せになるために、信心をしている。
はたから見て、なんの、けがれもないような、
いわゆる、石にも棒(ぼう)にも当たらないような、
そんな善人になる必要は、
なんにも、ない。
この、けがれた、みだれきった世界に、
生きている以上、
ひとくせも、ふたくせも、あって、
当然だと思う。

日蓮大聖人の時代に、
大聖人の弟子で、
四条金吾という素晴らしい弟子が、
いたけれど、
彼は、武士だ。
武士といえば、人を切ることを、
商売としているとも言えるから、まあ、
悪く言えば、人殺しだ。
よく考えたら、こんな悪人は、いない。

けれど、それは、生きていく上で、
しょうがないことだとも、言える。
仏法は、そういう現実の中で生きている人間を、
ひとりも、否定しない!
ひとくせも、ふたくせも、あろうが、
どんな境遇(きょうぐう)の人であっても、
その人間の生命の中に、
輝(かがや)かしく、素晴らしい生命を、見いだして、
ひとりひとりが、生活の中で、
実感(じっかん)でき、満足していける最高の幸せを、
つかませてくれる。
それが、仏法だと思う。

あえて言えば、
どんな傾向性がある人間であっても、
幸せという観点(かんてん)から見て、
その人が、最大限に生かされていく。
自分の人間としての傾向性が、
すべて、プラスへと、変えられていく。
よく、コメディーで、
自分が、悪意でやっているのに、
それらが、すべて、良い結果を生み、
なぜだか、幸せになってしまうという、
ドラマが、ある。

上の例は、少々、おおげさだけれども、
創価学会が実践(じっせん)してる、
南無妙法蓮華経の仏法を、真剣に、
実践していくと、
ほんとうに、そうなっていく。
不思議(ふしぎ)だけれど、
それが、南無妙法蓮華経の力であり、
仏法が、生命に及(およぼ)ぼす、
素晴らしい力だと、思う・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:31│日常 │

2011年10月16日

HT066


まえに、聖教新聞の、
「わが友に贈る」に、
(わが友に贈る、は、池田先生
[創価学会インターナショナル会長]が、
毎日、新聞に、のせてくれている短い、
4・5行のメッセージです)

『幸福の軌道(きどう)は、
 
 すべて御書(ごしょ)にある!』

と、書いてあった。
(あとの文章は、忘れました・・・笑)

『幸福の軌道は、
すべて、御書にある!』
スゴク、心に残った。
御書というのは、日蓮大聖人が、
書かれた論文や手紙を、
すべて集めたものなんだけど、
その中に、幸福の軌道のすべてが、ある!
ということだ・・・。

なぜだろう?
本を読むのが好きな人は、
だいだい、心の支(ささ)えのように思っている、
本が、あったりする人が多い。
それは、その本を読むと、元気になる。
勇気がわく。希望が、出てくる。
自分の励(はげ)みになる等が、あげらける。
しかし、『幸せの軌道のすべてがある!』
と、言い切れる書物が、あるだろうか!
それが、『御書(ごしょ)』だという。


日蓮大聖人は、
貧しい漁民の子として生まれたが、
子供のころから、お寺なので、
勉学に励(はげ)んだ。
当時は、お寺や寺院は、学校のようなもので、
一流の寺院は、現代の大学に、等(ひと)しかった。

日蓮大聖人は、超優秀な子供で、
とんとん拍子(びょうし)に、学位を取得し、
なんと、17才で、仏教の総本山といえる、
比叡山(ひえいざん)で、今でいう、教授になっている。
現代的に言えば、天才的な頭脳を、
持っていたんだと思う。

しかも、日蓮大聖人には、誓い(ちかい)があった。
それは、全民衆を、不幸から救いたい!
はるか未来にまでわたる、全民衆を、幸せにしたい!!
ということだった。
そして、日蓮大聖人は、
とうとう、自らの生命で、
仏法の真髄(しんずい)である南無妙法蓮華経を、
悟(さと)っていく!
この時点で、日蓮大聖人は、躊躇(ちゅうちょ)した。

「もし、自分が、悟った仏法の真髄(しんずい)、
 南無妙法蓮華経を、人々に説いたならば、
 想像を絶する迫害(はくがい)にあうであろう!」

なぜなら、当時の宗教というものは、
自分の権力を、思うがままに、あやつるための、
道具にしかすぎず、
権力者にとっては、民衆を、
自分たちの奴隷(どれい)にする、
かっこうの、材料であり、隠(かく)れみのだったからです。
もし、真実の仏法(ぶっぽう)である南無妙法蓮華経を、
広められてしまったら
自分たちの私腹(しふく)を、こやすための宗教が、
否定されてしまい、商売、あがったりとなり、
とんでもない!
だから、日蓮大聖人を、亡(な)き者にしようと、
徹底的に迫害してくるのは、目に見えていた。
だが、この南無妙法蓮華経を、説かなかったら、
不幸に、あえいでいる人々を、救うことはできない!
だったら、説くべきだ。
けれど、迫害に負けて、
途中で降参(こうさん)するようだったら、
最初から、説かないほうがいい!
その、とてつもない葛藤(かっとう)の中で、
日蓮大聖人は、すべての民衆のため、
もっと言えば、未来の全世界の民衆のために、
究極の法(ほう)である『南無妙法蓮華経』を、
説こうと、決断する!

そして、予想どうり、
とてつもない命に及ぶ、迫害を受けながらも、
全民衆のために、残されたのが、
この『御書』だと、考えていいと思う。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

御書は、
人が、普通、本に期待する、
その本を読むと、元気になる。
勇気がわく。希望が出てくる。
励みになるというレベルでは、ないと思う。

最高の哲学(てつがく)と、最高の幸せの法則(ほうそく)を、
生命に刻(きざ)むことのできる書物、
それが、御書なのだろうか!

御書には、すごく、わかりやすい部分もあるけれど、
すごく、難(むずか)しい部分もある。
日蓮大聖人は、手紙を送った相手によって、
頭の良い人には、難しい内容を、
なもない庶民には、ほんとうに、
わかりやすい内容を、というように、
自由自在に、表現を変えている。

創価学会では、
よく、「御書根本」とか、
「御書を、心肝(しんかん)に染(そ)める」
とか言う。

それは、御書が、
自分の人生を、幸せに導いてくれる!
あるいは、
自分の人生を、勝利してゆくための鉄則が、
御書に、すべて、ふくまれている!
ということだと思う。

けれど、御書は、難しい・・・。
(だって、古文で書いてあるから・・・)
現代では、創価学会の機関紙である聖教新聞や、
月刊誌『大百蓮華(だいびゃくれんげ)』などで、
御書の一部分を抜粋(ばっすい)して、
現代語に訳(やく)して、解説してくれているけれど、
それにしても、御書は、
理屈で理解しようとするには、
やはり、限界がある。

どういうことかというと、
本当の意味では、御書を理屈で理解しようとしても、
それだけでは、
『自分の人生を幸せにすることは、できない!』
ということです。

御書が、人々の夢や希望を、かなえ、
幸せに導(みちび)くのは、なぜかというと、
それは、自ら、南無妙法蓮華経を、となえて、
仏法の実践(じっせん)をするなかで、
その実践の中で、自分の生命で、
御書の内容を、感じとっていくからだと思う。

御書を、
現実の人生の、幸せを切り開くための、
書物にするためには、
やはり、自分で、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
実践するしかないということです。
それ以外、
『御書』を、『幸せ』 『人生の勝利』
に直結(ちょっけつ)させていく方法は、ないでしょう・・・。


ともかく・・・
それにしても言えることは、
人間の、幸福への軌道を、
あますことなく、明確に、
表現しきっている書物は、
『御書』しかない!
ということだと、思う・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 15:25│ │

2011年10月12日

HP072


このまえ、
うちの会社に、エホバかなんかの、
キリスト教の、勧誘かなんかの女性が、来て、
うちの会社の、ある上司の人が、
対応したんだけど、
「人が、何を信仰しようと自由だが、
 宗教を、人に勧めるのは、
 間違っている!
 だいたい、宗教というものは、
 昔は、必要なものだったかもしれないが、
 現代では、必要のないものだ!
 宗教は、無いほうが、いいんだ!
 だいたい、お賽銭(おさいせん)を投げて、
 手を合わせて、幸せになるなんて、
 ばかげているし、
 宗教なんて、人間を、たぶらかす、
 害毒(がいどく)にしか、ならない!」

と、言っていた。

確かに、世間一般に考えられているものが、
宗教だったら、
うちの上司が、言うことは、
正しいと思う。
確かに、日本人的な宗教の考え方では、
宗教は、ほんとうに、ばかげていると思う。
ともかく、みんなが、やっているから、
なんとなく、余興(よきょう)で、やっている。
手を合わせているものが、
ほんとうは、何であるのか、
調べもしないで、
なんとなく、手を合わせている。

観光宗教、あるいは、葬式(そうしき)宗教というのものは、
観光や金儲(もう)けに都合(つごう)がいいように、
かってに、適当に作り出された、
『でたらめの産物』と言えるので、
拝(おが)んでいるものの内実(ないじつ)は、
はっきり言って、
『げてもの』だと思って間違(まちが)いないです。

そんなものに、手を合わせている。

ところが、
手を合わせるということは、
人間の生命的には、
あなたに(拝[おが]んでいる対象に)、
命を、ささげますよ!という意味と、
科学的な効果とが、ある。

だから、祈っている対象が、ゲテモノや、
化け物(ばけもの)だったら、化け物や、ゲテモノに、
命を、ささげることになって、
自分の生命が、ゲテモノや、化け物に、
影響(えいきょう)されるので、
自分の人生に、悪影響を、およぼしたり、
不幸を、もたらすことは、あっても、
100%、幸せになることは、ありえない!

それが、観光宗教や葬式仏教、
神社信仰だと、言えます。

だから、うちの上司が、言っていることも、
まんざら、間違ってはいない。

ただし、そう言えるのも、
世間一般の日本人レベルでのことです。

もっと、レベルを上げた考え方をすると、
うちの上司の言ったことは、
間違っている。
ちょうど、幼稚園児には、正しいと言えることも、
大学生からみれば、間違っているようなものです。

幼稚園と大学生の例え(たとえ)は、
おおげさのように、聞こえるかもしれないけれど、
はっきり、言わせていただくと、
日本人の宗教に対する考え方は、
「幼稚園なみ」と、言わざるをえません。
宗教には、正邪(せいじゃ)があることを、知らない。
そして、その宗教に対する
無知(むち)、無認識(むにんしき)が、
多くの不幸を、もたらしているのも、
事実です。


話しは、もどりますが、
確かに、うちの上司が言う様に、
世間一般で考えているようなものが、
宗教だったら、はっきり言って、
そんなものは、やらないほうが、いいし、
かえって、やったら、害(がい)になります。

ただ、そのレベルで、考えている人は、
それより、はるか上のレベルにある、
現実生活と、哲学(てつがく)と、科学と、信仰に、
一点の矛盾(むじゅん)も起こらない、
一点の無駄(むだ)もない、
『仏法(ぶっぽう)の哲学』が、あることを、知らない。
また、知ろうともしないし、
信じようともしない。

よく、創価学会のことを、
調べもしないで、また、実践(じっせん)してもいないのに、
偉(えら)そうに、バカにしたことを
話す人が、いますが、
一見、偉そうに見えますが、
仏法の哲学を、知っている人から見ると、
はっきり言って、
ほんとうに、間抜(まぬ)けに見えます。
浅はかすぎて、かわいそうになるくらいです。

それほど、本当の仏法の哲学は、
スゴイということです。

創価学会では、そのスゴイ!仏法の哲学を、
なんの教養もない、おばあちゃんが、
しっかりと、自分の生命と心に、
身につけている!
それは、どんな人であっても同じで、
この南無妙法蓮華経の仏法の信仰を、
しっかり、やっていくと、
自分の生命に、絶対くずれない
幸せの哲学を、必ず、
身に付けることができる!ということです。

偉大な哲学、レベルが高い宗教ほど、
人を、選ばないというけれど、
創価学会のスゴイところは、
そういうところに、あると思います。


南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰は、
人を、選ばない!
どんな人でも、
幸せになる、明確な哲学(てつがく)と、
確信を、身に付けることが、できる!

それは、悩みや問題を解決し、
夢や希望をかなえて、
その人を、必ず幸せにしていく。

すごいことだと、思う。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

日蓮大聖人が、御書(ごしょ)の中で、
(御書とは、日蓮大聖人が、書かれた、
 論文や手紙を、すべて、集めたものです)

『一念三千(いちねんさんぜん)を、識(し)らざる者には、
 仏(ほとけ)・大慈悲(だいじひ)を起こし、 
 五字(妙法蓮華経)の内に、
 この珠(たま[一念三千の法則])を、つつみ、
 末代幼稚(まつだいようち)の頸(くび)に、
 かけさしめ給(たま)う。』

 と、言っている。

難(むずか)しい話しは、ともかく、
現代の、宗教に関しては、
赤ん坊のように、
なんにも知らない人であっても、
この南無妙法蓮華経を、となえる信仰によって、
「幸せになる哲学」と、「幸せになる確信」と、
「幸せという現実の結果」を、
必ず、つかむことが、できる!
ということだと、思う。

ようするに、どんな人でも、
必ず、幸せになれる!ということです。

日蓮大聖人は、徹底的な理論の人で、
「わたしの理論が、人に破られることがないかぎり、
 どんな迫害(はくがい)にあったとしても、
 けっして、従(したが)うことはない!」
と、言い切った人なので、
大聖人の言葉は、
徹底的な理論に、裏付(うらづ)けられている。

そして、その理論を、破るような人は、
いまだ、現れていないし、
その逆に、日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法は、
創価学会が世界に広がるとともに、
世界中の人たちを、幸せにして、
その理論の正しさを、
証明し続けている・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 06:44│日常 │

2011年10月07日

HT007


先日、
ビデオ『君が世界を変えていく』の、
話しを、しました。

この短編映画は、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)のエッセイ、
『君が世界を変えていく』を、
映画の中で、抜粋(ばっすい)して、
朗読(ろうどく)しているんだけれど、
最後のところで、
すごく、感動してしまったので、
今日は、その部分を、
そのまま、のせたいと思います。


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私は思う。

人は、生まれたとき、

トルコ人として生まれたのではない。

アメリカ人として生まれたのではない。

パレスチナ人として生まれたのでも、

ユダヤ人として生まれたのでもない。

それらの名は、小さな「符丁(ふちょう)」にすぎない。
(符丁とは、商人が、商品につけて値段を示す印や符号)

生まれたときは、だれもが、

ひとつの「いのち」として生まれた。

ひとりの「人間」として生まれた。

お母さんは、「日本人を産もう」とか

「アラブ人を産もう」と思って、

産んだのではなかった。

ただ、「すこやかな、いのちたれ」

と願っただけのはずだ。

青きボスポラス海峡(かいきょう)の上を、

高く遠く飛んでいる雲は、風は、

地上の人類を見下ろしながら、

こんな、さささやを、かわしているかもしれない。

――― 気づいてください。

この高い空から見れば、

世界は、ひとつ。

だれもが「地球の民」。

「アメリカ人」なんて、いないことを。

「イラク人」なんて、いないことを。

いるのは、たまたまアメリカに住んでいる、

ボブという少年の「いのち」。

たまたまイラクに住んでいるムハンマという

少年の「いのち」。

同じ「地球の子」

それが、国の名前で分けられて、

憎み合えと教えられる!

気づいてください。

その愚(おろ)かさを。その傲慢(ごうまん)を。

この憎しみを次の世代に引き継(つ)ぐことの、

「むごさ」を ――― と。

今、必要な「地球人意識」。

それは、遠いどこかにあるのではない。

コンピューターの画面の中にあるのでもない。

人間として人間のために

『胸を痛める心』の中にあるのだと。

「あなたが苦しんでいるかぎり、私も苦しむ。
 
 あなたが、だれであろうと!

 あなたの悩みが何であろうと!」と。


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jewelju1jewelju1 at 06:42│ │

2011年10月02日

HP126


●ビデオ・『君が世界を変えていく』を、見て●

ビデオ、「君が世界を変えていく」を、
見ました。
おそらく、創価学会の人でなかったら、
まず、見ることはないビデオだと、
思うんですが、
アメリカコロンバス国際映画祭という、
映画祭で、
「ドキュメンタリー社会問題部門」と「脚本部門」で、
2部門のグランプリに、輝いたそうです。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)の、
エッセーをもとに、作られていて、
メインの話しとしては、
アーノルド・トインビーというイギリスの、
歴史学者の逸話(いつわ)が、展開されています。
アーノルド・トインビーと言っても、
知らない人も、多いと思いますが、
世界では、アインシュタインや、シュヴァイツァーに、
匹敵(ひってき)するような人物だと、
評価されているようです。

そのトインビー博士が、
当時、あった、ギリシャ・トルコ戦争の取材のため、
トルコに行く。
当時、1915年に、オスマントルコによる、
アルメニア人虐殺(ぎゃくさつ)が、行われ、
西欧では、トルコ人は、人間ではないように、
考えられ、また、宣伝されていた。
その中で、トインビー博士は、
当然、ギリシャ側の話しも聞くと同時に、
トルコ人難民の現場にも行き、
トルコ人たちの話しも、
じかに、聞いていく!
そして、戦争における真実を、
なんの差別(さべつ)もなく、記録し、
それを、そのまま、イギリスの新聞に、載(の)せた。

そのため、イギリス人のくせに、
なんで、トルコ側に、立つんだ!と、
イギリス中から、反感と怒りを買い、
当時、ロンドン大学の教授であった、
トインビーは、
大学を、辞(や)めさせられる!

しかし、トルコでも、大きな反響を呼んだ!
「なんだって!イギリス人が、
トルコの、おれたちの言い分を、
初めて、新聞に公表してくれた!」
その驚きと、喜びは、大きかったようだ。

このトルコでの経験が、きっかけとなって、
トインビー博士は、
大著『歴史の研究』を、
完成させていく。

一方の意見だけを聞いていたら、
真実は、見えてこない。
現場に行き、もう一方の意見も、
じかに聞き、対話していく。
その中に、真実が見えてくる。

なぜかと言えば、
そこにいるのは、
同じ人間だからだと思う。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

真実を、語ることは、勇気がいると思う。
けれど、偉大な人間は、
迫害(はくがい)に屈(くっ)しない。
その誠実な、おおらかな心を持って、
悠々(ゆうゆう)として、堂々と、
真実を、語りぬいてゆく!

そのトインビー博士が、
自分から、『会いたい!対談したい!』と、
願ったのが、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)
だと、いう。
そして、トインビー博士と、池田先生との、
対談集『二十一世紀の対話』は、
現在では、20ヶ国語以上に、翻訳(ほんやく)され、
世界的名著(めいちょ)として、
世界の平和を願う人々に、
読まれ、愛され続けている。

そのトインビー博士が、
池田先生との対談を、終えようとした時、
池田先生に、言ったそうです。
トインビー博士は、一流の大学などから、
博士号を、いただいているんですが、
池田先生に向かって、
「あなたは、わたしより、はるかに多くの、
 博士号や名誉称号を、もらうことになるでしょう。」
と。

そして、池田先生は、
現在、世界の大学から、
300を超える名誉称号(名誉博士、名誉教授など)を、
いただき、
トインビー博士の予言(よげん)どうりと、
なっている・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 20:09│世界 │