2012年08月

2012年08月29日

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この前、ビデオで、
「最終兵器彼女」というアニメを見ました。
日本のアニメというのは、
個性が強いものが、多いから、
このアニメも、見てて、まだるっこくなって、
抵抗(ていこう)を感じました。

けれど、だんだん、慣(な)れてきたら、
おもしろくなってきて、
楽しめました。

や〜〜〜!
しかし、すごいアニメだった。
なぜかって言うと、
日本のアニメは、
人間を殺すのが、好きだから、
よく、人が死にます。
後半のストーリーになると、
毎回、人が死んだりする。
けれど、
この「最終兵器彼女」というアニメは、
本当に、みんな!死んじゃう!!
最終回は、世界に、
主人公、一人しか、残らない!
世界の人、みんな、殺しちゃうなんて、
すごすぎる!!!

それで、世界中の人が、
みんな、死んじゃって、
主人公、一人だけ、生き残って、
それでも、最終兵器となって死んでいった、
自分の彼女を、愛し続けるという、
ストーリーなんだけど、
う〜〜ん!、話しが極端(きょくたん)なだけに、
確かに、
すごく純粋なラブストーリーかも、しれない。


すべての人が、いなくなって、
自分ひとりだけが、残る。
それでも、彼女を愛し、生きようとする。
人間は、一人でも、生きられるのだろうか?
ひとりでは、生きられないかもしれないが、
この世には、いなくなったとしても、
愛する人が、いたとしたら、
その人のことを思って、
生きられるかもしれない。

何かを、思い、何かを、愛しつづける!
それが、生命の本質(ほんしつ)だろうか?

この物語は、極端(きょくたん)ではあるけれど、
ある種の強力なインパクトを、与(あた)える。

それは、人間、死ぬ時は、
一人だ!!ということです。
どんなに愛する人が、いたとしても、
大好きな友達が、いたとしても、
死ぬ時に、一緒(いっしょ)に連れて行くことは、
できない!

死ぬ時は、
一人で死んでいかなければならない。


池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
こんな意味のことを、言っていた。

「どんなに、愛する人がいたとしても、
 どんなに、愛する家族が、いても、
 いつかは、死ぬ。
 必ず、いつかは、別れなければならない!
 それが、人生の本質だ。

 けれど、我(自分の生命のこと)は、
 永遠だ!
 だから、我(が)を、大切にしなければいけない!
 我を、強く、たくましく、
 最高に幸せな生命として、鍛(きた)え、
 輝(かがや)かせていかなければ、ならない!」


我(が)を、大切にするとは、
わがまま放題に、
欲張り(よくばり)になれということでは、
当然、ない!
我という自分の生命は、永遠だから、
より大きく、より、おおらかに、
強く、たくましくしていけば、
その我という自分の生命が、
太陽のように輝いて、
愛する人を、愛する家族を、
また、あらゆる人たちを、
自分の生命の輝きによって、
幸せにしていける!!
と、いうことだと思う。

死ぬ時は、ひとりだ。
それは、ある意味、
最終兵器彼女というアニメで、
世界中の人が、みんな死んじゃって、
世界に、たった一人、
残されたのに、似(に)ている。

世界に、一人だけ、残されたとしたら、
どうだろうか?
だれも、いない!
その時は、自分の心だけが、支え(ささえ)だ!
自分の心が、どけだれ、強いか?
自分の心が、どれだけ、大きいか?
すなわち、愛する人を、どれだけ、
愛しているか?
どれだけ、多くの人を、愛してきたか?
どれだけ、多くの人のために、尽(つ)くしてきたか、
どれだけ、人のために、生きてきたか?

その人間としての、
もっとも、根幹的(こんかんてき)な部分だけが、
支えとなるだろう!
人々を愛する生命の輝き、
人のことを思い、人のために尽(つ)くし生きた、
その心の大きさ、生命の輝きだけが、
支(ささ)えとなるだろう!

世界に、たった一人しか、
残らなかったとしたら、
お金も権力も名誉(めいよ)も、なんにもならない!
ただの、ガラクタ!
その時、輝くのは、
人々を愛した生命の輝き、
人々に尽(つ)くした心の大きさ!
それだけが、
その人に、価値(かち)を生む。

幸せの本質とは、
そういうものなのだと、思う。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

おそらく、死ぬときも、そうだろう。
お金も、権力(けんりょく)も名誉も、持っていけない!
あるのは、自分という丸裸(まるはだか)の生命だけ!
そうなったら、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?

それだけが、その人の価値となる!
それだけが、その人の宝物となる!
その時、初めて、
自分が、どれだけ幸せなのか?
丸裸の自分の生命だけになったとき、
はっきり、わかる!!

そのとき、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
 自分の生命は、こんなにも輝かしく、
 美しく、素晴らしいものだったのか!」

と心の底から思える、最高最大の、
溢(あふ)れんばかりの幸せを、
感じることのできる生き方が、
実は、創価学会の生き方であり、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

南無妙法蓮華経を、となえていると、
自分の中から、仏界(ぶっかい)という最高の生命、
強くて、あったかくて、愛に満(み)ちて、
何ものにも負けない、最強の生命が、
自然の内に、わきあがってくるので、
人を愛する生き方、人々のためになる生き方が、
自然の内に、できるようになってくるからです。

また、南無妙法蓮華経は、生命の中の幸福を、
無限に開花させる法則(ほうそく)なので、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
自分の生活そのものが、生きることそのものが、
人々を幸せにする、世界を、幸せにすることに、
つながっていきます。
だから、結局、自分の存在(そんざい)が、
人々を幸せにするための、最高の存在に、
変わっていきます。

だから、死ぬ時に、
「ああ!自分は、なんと幸せなんだろう!
 自分の生命は、こんなにも輝かしく、
 美しく、素晴らしいものだったのか!」
と、感じることが、できるんだと思います。

実際に、創価学会の活動と信仰を、
一生懸命(いっしょうけんめい)やってきた人の死顔は、
ほんとうに、安らかで、まるで生きてるように、
晴れ晴れとして、幸せそのものです。
よく、成仏(じょうぶつ)というけれど、
まぎれもなく、仏(ほとけ)の顔を、しています!

それは、まさしく、
自分という丸裸の生命になった時に、
お金も権力も名誉も、何の役(やく)にもたたない、
だだ、自分の生命の輝きだけが、価値を持つ時に、
どれだけ、人のために尽(つ)くしたか?
どけだけ、人のために生きたか?
どれだけ、愛する人たちを、
愛することが、できたか?
という本当の幸せの価値を問う瞬間(しゅんかん)に、

『ああ!自分は世界一の幸せものだった!!
 自分は、最高最大の勝利者だ!!
 私は、勝った!!』

と、心の底から、思い、感じ、確信した、
幸せの王者、勝利の王者、
生命の王者の顔に、ほかならない!!

だから、創価学会員の死顔は、
最高に素晴らしい!
それは、本当の幸せのために、
生きてきた証(あかし)だ。
生きることが本当の幸せだった証であり、
本当の幸せを、つかんだ証(あかし)だ!

また、その生きかたが、できるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
創価学会員の生き方です・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:31│アニメ │

2012年08月25日

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まえに、ビデオで、
「がんばって、いきまっしょい!」
というドラマを、見ました。

このドラマは、
高校生の女子ボート部の物語なんだけれど、
その主人公の女の子が、
海辺で、ブタのぬいぐるみを、
拾(ひろ)うシーンがあった。
かわいいので、部室に持っていき、
「ブタ神様!」と呼んで、
部室に、祭る(まつる)ことに、する!

そして、それ以来、
部室に来ると、
ブタ神様に、手を合わせて、
「ブタ神様、ブタ神様、
 どうぞ、試合で、勝たせてください!」
と、祈(いの)る。

とっても、かわいいし、
おもしろい発想だとは、思うけれで、
これは、日本人の宗教観を、
如実(にょじつ)に、あらわしていると思った。

べつに、祈る対象は、なんだっていい。
パンパンって、手を合わせて、
祈れば、気分が出る!
おそらく、一般的な日本人の宗教観なんて、
こんなものだろうと思う。

パンパンって、手を合わせて、
その場の雰囲気(ふんいき)に、浸(ひた)れれば、
それで、いい!
おそらく、レジャーとまったく同じ考えで、
手を、合わせている。
単なる遊び、それが、
日本人の宗教観・・・。

けれど、ここに、危険が潜(ひそ)む。
ここに、不幸を生む、きっかけがある。

手を合わせる、
祈る、という行為は、
宗教の基本的要素(ようそ)であり、
根源的な役目と機能(きのう)を、はたしている。
だから、手を合わせる、祈るという行為には、
おのずから、重要な意味が、生まれてしまう!

手を合わせる、祈るとは、
宗教の観点から見ると、
祈っている対象(たいしょう)、手を合わせている対象に対し、
『あなた様に、命を、ささげます!』
『あなた様に、私の人生を、ささげます!』
という、意味が、もたらされる。

だから、実際に、手を合わせ、祈ると、
無意識(むいしき)のうちにも、
自分の生命は、祈っている対象に反応(はんのう)し、
「祈っている対象に、命をささげ、人生を、
ささげます!」と言っているのと、
同じ結果を、生む。
すなわち、祈っている対象が、
自分の生命に投影(とうえい)され、
祈り、手を合わせている対象に、
自分の生命と人生が、支配(しはい)される結果と、なる。

だから、宗教とは、ある意味、恐(こわ)い!!
たとえば、ブタのぬいぐるみを、神さまだと、
祭(まつ)り、そのブタのぬいぐるみに、
手を合わせ、祈ると、
自分の生命に、
ブタのぬいぐるみが、投影(とうえい)され、
自分の生命は、ブタのようになってしまう。
また、捨てられボロボロになった、
ブタのぬいぐるみのように、
自分の人生も、人から捨てられた、
ボロボロなものに、なってしまう。

すぐには、それは、わからないかもしれないが、
祈った時から、生命の上では、
その現象(げんしょう)は、起こっており、
長い年月の上では、
必ず、そういう結果となっていく。

それが、宗教です。
だから、気をつけなくては、いけない!
間違(まちが)ったものに、手を合わせ、
祈りを、ささげては、いけない!
間違ったものに、祈りを、ささげれば、
自分の生命に、間違ったものが、投影され、
『間違い』、すなわち、『不幸』という結果が、
自分の人生に、あらわれてきてしまう。

たとえば、お客を集めるためだけの、
間違いだと、わかりきった、
観光宗教や、神社信仰、
お金を、取ることしか考えていない、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)も、すべて、
間違った宗教です。

すなわち、
それらの観光宗教や、神社信仰、
葬式仏教に、どんなに真心を込(こ)めて、
真剣に祈ってみたところで、
逆に、真剣に祈れば祈るほど、
どんどん、不幸になっていくということです。
間違った宗教に祈ったという結果として、
自分の人生に、
さまざまな形で、
不幸が、出現(しゅつげん)してきてしまうと、
いうことです・・・。

もちろん、付き合いも、礼儀(れいぎ)も、
儀式(ぎしき)もあるだろうから、
人間として、礼儀は、
わきまえなくてはいけない!

けれど、個人的に、
積極的に、そういう間違った宗教に、
かかわってはいけない!!
間違った対象に、手を合わせ、祈ってはいけない!

これが、生命の次元(じげん)から言える、
最低限の、
不幸を、招(まね)かない方法です。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

さっきも話しましたが、
手を合わせ、祈るという行為(こうい)は、
生命の上では、
祈る対象に、命をささげることになり、
人生を、ささげることに、なっていく。
だとしてら、逆に
人間として最高に素晴らしいもの、
人間として最高に、尊(とうと)いもの、
人間に最高の勝利と幸せを、
ものらすものが、祈る対象であるとしたら、
その最高の祈る対象に祈りを、ささげれば、
その最高に素晴らしく、最高に尊く、
人間に最高の勝利と幸せを、もたらす対象は、
自分の生命に、投影(とうえい)され、
自分の人生も、最高に素晴らしく尊(とおと)くなり、
最高の勝利と幸せを、生み出す結果となる。

これは、当然の、あたりまえの結果です。

このことを、徹底的に、究極まで、完璧(かんぺき)に、
解明(かいめい)して、日蓮大聖人が、
未来の全民衆のために、残されたのが、
南無妙法蓮華経の『ご本尊(ごほんぞん)』です。
(ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、
 あらわしたものであり、自分の生命そのものを、
 あらわしたものでもあり、
 その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
 自分自身の中にあることを、
 あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。)

そして、その、日蓮大聖人の『ご本尊』を、
純粋に継承(けいしょう)し、日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法を、
真直(まっす)ぐに
実践しているのが、創価学会です。

だから、人間として、最高に尊いもの、
人間として、最高に素晴らしいもの、
人間に真実の勝利と幸せを、もたらす対象である、
日蓮大聖人の『ご本尊』に、
祈りを、ささげるとき、
『ご本尊』の生命は、おのずから、
自分自身の生命に、投影(とうえい)され、
その結果として、
最高の勝利と幸せを、もたらすことなる。

それは、宗教の理論から言えば、
当然の、わかりきった結果であると、
断言(だんげん)することが、できる!

だから、創価学会の人たちは、
どんな人でも、
その『ご本尊』に、南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
自分自身の生命の、
最高の、素晴らしい可能性を、開花させながら、
悩みや困難(こんなん)を、乗り越(こ)え、
希望を、かなえながら、
幸せを、勝ち取っていけるんです。

その結果として、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
世界中の人々に、
幸せと勝利の笑顔を、
もたらしている・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 14:05│ドラマ │

2012年08月16日

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まえに、テレビで
ブルース・ウェバーという、
有名な写真家の特集を、
やっていたのを、見たことがあります。

若き日に、ブルース・ウェバーに、
写真を撮(と)られたハリウッドスターは、
不思議と、みんな、大スターになっているそうです。

ブルース・ウェバーに、そのことを聞くと、
「皆、強いオーラが出ていたから、
撮(と)りたくなっただけだ!」
と、言っています。

そのブルース・ウェバーが、
マドンナの写真を、撮ったとき、
マドンナは、夫婦喧嘩(けんか)をしていて、
最悪の雰囲気(ふんいき)だったそうです。

それで、ブルース・ウェバーは、
一計(いっけい)を案(あん)じ、
マドンナが、鏡(かがみ)にキスしているところを、
写真に、撮る事にした。

マドンナは、大スター、
鏡を見るときは、いつも、
魅力的(みりょくてき)な自分、美しい自分、
より素晴らしい自分を、
鏡に、映(うつ)そうとします。
当然だ。
そして、不機嫌(ふきげん)だったマドンナは、
鏡に映った自分に、キスをして、
思わず、笑ってしまったそうです。

不機嫌だったマドンナは、
上機嫌(じょうきげん)となり、素晴らしい写真が、
撮れたようです。


不機嫌だったマドンナが、
なぜ?上機嫌になったんだろう?

マドンナは、鏡に映(うつ)った自分に、
キスをするために、
美しい、キュートな自分、
魅力的な自分を、鏡に映そうとした。

だから、鏡(かがみ)には、美しく、キュートな、
魅力的な自分が、映し出される。

鏡に映し出された、
その美しく、キュートで魅力的な自分が、
こんどは、逆に、
鏡を見ている自分自身の心にまで反映(はんえい)して、
鏡に映った通りの、魅力的な心に、
マドンナの心境(しんきょう)は、変わってしまった。

美しく、キュートで魅力的な自分は、
当然、不機嫌な自分ではない。
さわやかで、ほがらかで、安らいでいるはずだ。
その上機嫌な自分が、鏡に映っているわけです。
その、安らかで、魅力的で、
ほがらかな自分自身を見たマドンナは、
本来の自分を、思い出し、とりもどし、
現実の自分の心も、上機嫌になってしまったと、
いうことです。

ようするに、
本来の自分を、鏡で見ることによって、
平静(へいせい)を失っていた自分が、
本来の自分を、取り戻(もど)したということだと思う。


どんな不機嫌な時でも、
どんなに、辛(つら)い時でも、
どんなに、苦しい時でも、
どんなに、悲しい時でも、
我(われ)を忘れている時でも、
本来の自分を、映し出す鏡があれは、
自分を、取り戻すことができ、
本来の自分、素晴らしい魅力的な自分を、
引き出すことが、できるわけです。

鏡に映った自分が、
魅力的であればあるほど、
素晴らしければ、素晴らしいほど、
その鏡を見た自分の心も、
素晴らしく、魅力的になっていくと、いうことです。

だから、最高に魅力的で、最高に素晴らしく、
最高に強くて、最高にやさしくて、
最高に愛に満(み)ちて、最高にほがらかな、
素晴らしい自分を、映す鏡があれば、
その鏡を、見ることによって、
自分の中から、その通りの、
最高に魅力的で、最高に素晴らしく、
最高に強くて、最高にやさしくて、
最高に愛に満ちて、最高にほがらかな、
素晴らしい心を、引き出すことができるわけです。

その人間の中にある、
最高の生命!
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高最大の自分自身を、映し出す鏡(かがみ)が、
実は、創価学会が、
南無妙法蓮華経を、となえる対象(たいしょう)として、
祈っている『ご本尊(ごほんぞん)』なんです。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高最大の自分自身を、映し出す鏡である、
『ご本尊(ごほんぞん)』に、祈(いの)る時、
たとえ、どんなに辛(つら)いときでも、
どんなに苦しい時でも、
どんなに悲しい時でも、
我(われ)を忘れている時でも、
最高の生命を映し出す鏡である『ご本尊』を、
みて、
自分の中から、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
素晴らしい心(最高の生命)を、
引き出すことができる!

これは、ほかでは、
絶対に、できません。
現実の生活の中で、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高に素晴らしい自分を、映し出す鏡を、
見つけようとしても、無理(むり)です。

日々の現実の生活の中では、
最高に素晴らしく、最高に魅力的な心を、
映し出す鏡は、存在しないからです・・・。
そうなると結局(けっきょく)、
最高に素晴らしく、最高に魅力的な心(こころ)は、
自分の中から、出てくることは、できなくなり、
結果として、
最高の幸せも、つかむことが、
できなくなっていきます。


だから、創価学会が、
日々、南無妙法蓮華経を、となえ、祈ってる、
『ご本尊』が、必要なんです。
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高の生命を写(うつ)し出すことのできる『鏡』!
その、自分の中の、
無限(むげん)の可能性ともいえる、
『最高の生命』を写す鏡である、
『ご本尊(ごほんぞん)』が、
どうしても、必要なんです!!

そして、その『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
いままで、出ることが、できなかった、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
素晴らしい心が、
『ご本尊』という鏡を見ることによって、
引き出され、
その、当然の結果として、
最高の幸せを、
つかむことに、なっていきます。

それは、世界中の創価学会の人たちが、
体験していることであり、
そのことによって、
悩みを解決し、
夢や希望を実現して、
世界192ヶ国の創価学会の人たちに、
勝利と幸せを、もたらしています。


『ご本尊』は・・・、
幸せを、もたらす鏡なんです・・・!


それは、あたかも、
鏡にキスをしたマドンナが、
微笑んでしまったように・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:07│テレビ │