2014年11月

2014年11月30日

A30100


中国では、
大変な尊敬(そんけい)を集めている、
大指導者、
周恩来(しゅうおんらい)総理の名前は、
歴史などで、知っている人も
多いと思う。

その周恩来総理は、
1972年、日中国交正常化を
実現させた。

日中国交正常化というと、
日本では、表面上は、
その時の総理だった、
田中角栄氏が実現させたように
言われているけれど、
実情(じつじょう)は違っている。

田中角栄総理は、
お膳立(おぜんだて)が、
すべて整(ととの)えられて、
最後に調印(ちょういん)にサインしたと
いうことだけで、
実際(じっさい)は、
日中国交正常化のために
努力してきた人たちが、別にいる。


その日中国交正常化に尽力(じんりょく)した、
大功労者(だいこうろうしゃ)が、
創価学会インターナショナル会長である、
池田大作先生だと、言える。



当時、中国の周恩来総理は、
民間交流の着実(ちゃくじつ)な
積(つ)み重(かさ)ねの上に、
国家関係の改善(かいぜん)を
図(はか)ろうとしていた。

『民(たみ)を似(もっ)て、
官(かん)を促(うなが)す。』

それが、周恩来総理の
外交哲学(がいこうてつがく)であった。

そして、その哲学は、
対日政策(たいにちせいさく)にも
適用(てきよう)された。

周総理は、
「大衆の中に基盤(きばん)を持つ団体」として、
「創価学会(そうかがっかい)」に
早くから注目していた。

1960年代前半のことである。
それは、池田先生が、
創価学会第3代会長に就任(しゅうにん)し、
日本を左右する社会的勢力(せいりょく)へ、
大発展する時期である。

周総理は、対日政策(せいさく)の関係者に、
創価学会の研究を指示(しじ)した。

また、そのころ、
相次(あいつ)いで訪中(ほうちゅう)した、
中国との友好を志(こころざ)す、
松村謙三氏、高崎達之助氏が、
周総理に、
創価学会を好意的に紹介した。

一方、SGI(創価学会インターナショナル)会長の
池田先生は、1961年、
東京・両国支部の結成大会で、
中国の国連復帰(こくれんふっき)を提唱(ていしょう)。

1964年の11月、
公明党結党にあたっては、
「創立者からの唯一(ゆいいつ)のお願い」として、
日中国交正常化への
努力を促(うなが)した。

1966年5月には、
作家の有吉佐和子氏を介(かい)して、
『中国にご招待(しょうたい)します。』
との周恩来総理の伝言が、
SGI池田会長に伝えられる。


そして、周総理の信頼を
決定づける出来事が起った。


1968年9月8日、
東京・日大講堂で、
池田先生は、
1万数千人の青年を前に、
『日中国交正常化提言』を行った。

当時、反対勢力(はんたいせいりょく)もあり、
日本と中国の関係は、
厳(きび)しいものがあった。

そういう意味で、
国交正常化を提言(ていげん)することは、
自分の身に危険がおよぶ
可能性もあった。

その中での提言である。

日中国交正常化を望む、
友好の先達(せんだつ)である
松村謙三氏は、
『百万力の力を得た!』
と語っています。

そして、1972年、
日中国交正常化は、実現していく。


そして、後に、
1974年、
池田先生と周恩来総理は、
会見する。

その当時、
周恩来総理の病状は、
大変悪化していて、
きびしい状態にあった。

1974年12月5日、
場所は北京(ぺきん)の305病院。
周総理の入院先は
機密事項(きみつじこう)で、
池田SGI会長は後に、
そこが病院だったことを知る。

その日の午前、
池田SGI会長は、
小平(とうしょうへい)副総理に会っている。

中国側が
池田SGI会長を最大に
遇(ぐう)した表(あらわ)れだが、
同時にそれは、
総理自身には会えないことを
意味していた。

しかし、12月5日夜の
答礼宴(とうれいえん)の席上、

中日友好協会の廖承志(りょうしょうし)会長が、
そっと告(つ)げた。

「池田会長、
周恩来総理が、待っておられます。」

それは、周総理自身の
強い意向(いこう)であることは、
明らかであった。

SGI池田会長は、
総理の健康を心配し、
いったんは固辞(こじ)するが、

「それでは2、3分だけ。
ひと目お会いしたら、失礼をさせてください」

と、車上(しゃじょう)の人となった。


実は、その時、
周総理は、
『会見するなら命の保証(ほしょう)はできない!』
と医師団に、
猛(もう)反対されていた。

だか、総理は、
『どんなことがあっても会わねばならない!!』
と譲(ゆず)らない。

「周恩来同志(どうし)がそこまで言うのなら・・!」
という頴超婦人(とうえいちょう/周総理夫人)の
進言(しんげん)によって、
『5分だけ』
との条件付きで、
認められたのである。

会見上には、
池田SGI会長と香峯子婦人(かねこ/池田会長夫人)
だけが入った。

総理を疲(つか)れさせないよう、
SGI会長が、
そう希望したのである。

「池田会長とは、
どうしてもお会いしたいと
思っていました。
お会いできて本当にうれしい。」

「池田会長は、
中日両国人民の友好関係の発展は、
どんなことをしても必要である
ということを、
何度も提唱(ていしょう)されている。

そのことが私にはとてもうれしい。」

池田会長は、答える。

「中日友好が今日まで発展できたのは、
私たち双方(そうほう)の
努力の成果(せいか)であり、
そして、私たちは、
その努力をこれからも
続けて行くことを希望します。」

時に総理76歳、
SGI池田会長46歳。

「あなたが若いからこそ、
大事に付き合いたいのです。」

総理は言った。

語らいは終始、
和(なご)やかに進んだ。

「そろそろお休みください。」

と書かれた医師団からの
メモが総理に渡された。

総理は、メモを制(せい)して
話しを続けた。

「ご出身はどちらですか」

「東京です」
とSGI会長。

香峯子夫人も
「東京です」

SGI会長が
「二人で一人前です」
と付け加えると、
呵々大笑(かかたいしょう)する総理であった。

だか、中日の未来について語る時、
その目は鋭(するど)かった。

「中日平和友好条約の
早期締結(ていけつ)を希望します。」

「20世紀の最後の25年間は、
世界にとって最も大事な時期です。
お互(たが)いに平等な立場で、
助け合い、
努力しましょう。」


池田SGI会長は、それを
総理の『遺言(ゆいごん)』
と受け止めた。


医師団が、5分だけと
条件をつけて認められて会見は、
周総理の意向(いこう)によって、
30分に及(およ)んだ。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

会見の後、池田SGI会長が、
日中のために
最も心血(しんけつ)を注(そそ)いだのは、
青年交流だった。

創価大学に、
国交正常化後初の国費留学生を受け入れ、
その後、
創大に学んだ留学生の中から、
友好を担(にな)う
多くの指導者が育った。

創大と中国の各大学との
教員・留学生の交換(こうかん)、
全青連(中華全国青年連合会)と
創価学会青年部の相互交流(そうごこうりゅう)。


・・・その池田会長が築(きず)いた
『金の橋』を渡(わた)って、
無数の若い友情が生まれた。


思えば周総理も、
日本に遊学(ゆうがく)し、
青雲(せいうん)の志(こころざし)を
燃やした一人である。

「五十数年前、私は、
桜の咲(さ)くころに
日本を発(た)ちました・・・」

会見で総理は、日本留学の日々を、
懐(なつ)かしそうに振(ふ)り返った。

周総理の来日は大正年代。
中国人への強い差別(さべつ)にさらせれ、
抗日(こうにち)運動にも
関(かか)わっている。

だが、その後の総理の
日本へのまなざしには、
鋭(するど)い分析(ぶんせき)の一方で、
温かいものが通(かよ)っている。

その感情の源(みなもと)には、
日本の庶民(しょみん)との
触(ふ)れ合いがあった。

異国(いこく)から来た
貧(まず)しい周青年に、
何かと世話(せわ)を焼いてくれる
下宿(げしゅく)のおばちゃんがいた。

「お腹(はら)がすいてるでしょう?」

と、いつも、
ご飯(はん)をごちそうしてくれた。

「とくに、その中の
豆腐(とうふ)を使った料理が、
じつにおいしかった。」

「下宿に帰って、
そのあばちゃんと話すとホッとした。」

周総理が、日本の友人に
語ったエピソードである。


人間と人間との、
温かな触(ふ)れ合いのひとしずくが集まって、
やがて国と国の
友好の大海へと注(そそ)ぐ。

凪(なぎ)の時も、
嵐(あらし)の時も、
そのひとしずくに思いをはせたい。


大衆の中で、大衆とともに - - -


周総理が残し、
池田SGI会長が受け継(つ)ぎ、
広げてきた、
友好の、
永遠の基盤(きばん)である・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


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2014年11月12日

A5100


映画『名もなく貧(まず)しく美しく』などの
数々の傑作(けっさく)を残した、
映画監督で作家としても高名(こうめい)な
松山善三氏は、

『なぜ、仏法(ぶっぽう)とは
まったく関係ない、
「アフリカ」という天地で、
創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法が、広がったか?』

という疑問(ぎもん)の
答えを見つけるために、
自(みずか)ら、
アフリカの現地へ足を運び、
民衆の輪(わ)に飛び込んで
取材(しゅざい)を重(かさ)ねたそうです。


1980年代の半(なか)ばのことだそうです。

松山善三氏が、アフリカのガーナで
創価学会のメンバーを取材していると、
そこへ突然、
隣国(りんこく)トーゴから車でやって来たという
三人の若者が現(あらわ)れた。

その一人の女性は、
「西アフリカの名医」として名高い
イダ・アジェビさんで、
79年フランス留学中に、
創価学会(そうかがっかい)に入会。

三年後、母国のトーゴに戻(もど)り、
たった一人で活動を開始。
その後、アメリカから来た
創価学会員の女性と一緒に活動し、
メンバーは、その時、
68人まで広がっていた。

その名簿(めいぼ)を手に、
「創価学会の座談会の開き方や、
仏法のことを教えてもらいたい」と、
国境封鎖(こっきょうふうさ)が解(と)けるのを待って、
ガーナまで尋(たず)ねてきた。

松山善三氏はもちろん、
居合(いあ)わせた創価学会メンバーも
驚嘆(きょうたん)した。

だれも知らないところで、
創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法の『種(たね)』は、
しっかりと大地に、
根(ね)を張(は)っていたからです。


今やそのトーゴの創価学会も
飛躍的(ひやくてき)に拡大(かくだい)し、
千人規模(きぼ)の大総会も
開催(かいさい)しているそうです。


松山善三氏が、言っています。

『誰が、その地に、
題目(だいもく/南無妙法蓮華経のこと)を、
伝(つた)えたか。

誰がそれだけの信徒(しんと)を集めたか。

寺や僧侶(そうりょ)ではない。

名もなき学会員(創価学会員)の一人ひとりが、
自分の足を運(はこ)んで、
その功徳(くどく)を、わかち合いたい
という願いによってである。』


ちなみに、功徳とは、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰を実践(じっせん)した結果として
あらわれる、
さまざまな幸せの結果です。

たとえば、悩みや問題が解決したり、
病気を克服(こくふく)できたり、
夢や希望を、
かなえることができたりすることが、
功徳(くどく)と言うことが、できます。



だれから言われたのでもない。
自(みずか)らの生命に
わき出てくる歓喜(かんき)を、
一人でも多くの人と、
分(わ)かち合(あ)いたい。

その思いを抱(いだ)いた一人が、
身近な一人と対話を交(か)わし、
また一人、
また一人へと、
広がった・・!


これが、創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法が、
人々を、
本当に幸せにできる、
真実の宗教であることの証明になっています。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

たとえば、
美味しいラーメン屋があれば、
人に話したくなるんです。
それが、かりに世界一おいしいラーメンだったら、
きっと、世界中の人に、話したくなるでしょう。

それと同じように、
創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
世界一、人を幸せにできるとしたら、
世界中の人に、そのことを、伝えたくなるでしょう。


だから、創価学会が広がっているんです。

だから、創価学会は、
世界192カ国にまで広まったんです。

また、これからも、広まっていくでしょう。


それは、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰が、
あらゆる、どんな人の、
悩みや問題でも解決でき、
夢や希望をかなえる大きな力(ちから)となり、
世界中のどんな人でも、
最高の幸せを、つかませてくれることの
証拠(しょうこ)であり、
証明になっています・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:08│世界 │

2014年11月04日

A12300


ぼくは、創価学会員だから、
普通に、聖教(せいきょう)新聞を
読んでいる。

創価学会員がみんな、
必ず聖教新聞を読んでいるわけでは
ないけれど、
一般的に、真面目に
創価学会(そうかがっかい)の信心を
やっている人は、
聖教新聞を読んでいる。


なぜ、聖教新聞を読むのかと、
自分に問いかけてみると、

それは、自分が、


「幸せを求めている!」


からだと思う。


もし、ぼくが、
幸せを求めていなかったら、
聖教新聞は、読まないでしょう・・・。


そう考えてみると、
聖教新聞は、
「幸せ」にポイントと重点を置いた
新聞であることが、わかる。



普通、新聞というと、
その時々にあった
事件や出来事や話題などが、
のっている。

また、それだけではなく、
その新聞独特(どくとく)の解釈(かいしゃく)というか、
それぞれの新聞に思想性(しそうせい)があり、
傾向性(けいこうせい)がある。

この新聞は
あっちよりの傾向があり、
あの新聞は
そっちよりの傾向があったりする。

よく言うように、
思想的に、
右よりだとか、左よりだとかと
表現することもできる。

こっちの新聞は反対だと言い、
あっちの新聞は賛成だ
という場合もある。

同じ物事にも、
さまざまな考え方があり、
それはそれで当然(とうぜん)だと思う。


細かい部分から言えば、
新聞には
思想の対決のような部分も
あるかもしれない。

一方は反対、
もう一方は賛成。
それは当然、
それが良いと判断(はんだん)して
書いてあるのだけれど、
その賛成と反対の狭間(はざま)で、
時として、
置(お)き去(ざ)りにされてしまうものがある。


それが、「人間の幸せ」だと思う。


特に、庶民(しょみん)の幸せ。
決して、新聞にはのることのないような、
名もない民衆たちの幸せ・・。

この名もない民衆たちの幸せが、
置き去りにされてしまう場合がある。

逆に言えば、
どうしようもないからだと
言うこともできる。

世の中に埋(う)もれているような、
庶民たちを幸せにできる
方法や手段(しゅだん)が
見当(みあ)たらないし、
またそれらの人々の
悩みや苦しみを解決する、
確実で具体的な方法もない。

だから、
それらの名もない民衆たちの幸せが、
新聞にのることは、あまりない・・・。


また、有名人や著名人(ちょめいじん)の死や、
それにかかわる病気について、
新聞にのることはあっても、
その大変な病気や障害(しょうがい)を
乗り越(こ)え、
蘇生(そせい)していった話しも、
あまり新聞にのる事がない。

それは、当然であり、
どんなに有名であろうと、
財力(ざいりょく)があろうと、
困難な病気を乗り越え、
勝利した話しなど、
ほとんど無いからです。


だから、そういう、
蘇生(そせい)のドラマが
新聞にのることも、あまりない。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

ところが、聖教新聞には、
いま、上げたような、
普通、新聞にのることのない、
物語、ストーリー、ドラマが、
ことごとく、のっている。

それは、大変な病気を乗り越え、
勝利していった物語であり、
経済的にも大変な苦境(くきょう)を勝ち越え、
幸せを勝ち取った物語であり、
また障害(しょうがい)を乗り越え、
蘇生(そせい)していった物語でもある。

また、他の新聞では
決して、のることのないような、
名もない庶民たちの
勝利と幸せの凱歌(がいか)が
高らかに歌われているのが、
聖教新聞だと言える。

それは、まぎれなもない
現実の結果であり、
元(もと)を正せば、
歴史の上でも、だれも、
どうしようもなかった、
民衆の幸せ、
名もない庶民を、
現実に幸せにしていける
法則(ほうそく)と哲学(てつがく)が、
創価学会の、
南無妙法蓮華経を、となえる
仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!!
ということです。

ゆえに、
現実の科学的な証拠(しょうこ)として、
数えきれない多くの民衆の幸せを、
新聞にのせることができる。
また、それだけの
希望を生み出す力(ちから)が、
聖教新聞にはある!
ということもできます。


普通だったら、
決して新聞にのるようなことはなかった、
名もない民衆の勝利と幸せ・・!


その民衆の
壮大(そうだい)な叙事詩(じょじし)。

その民衆の勝利の歌が、
聖教新聞なのかもしれない。


だから、聖教新聞は、
『幸せを求める人』が
読む新聞だと思う。

そして、『幸せになる答え』が
必ずある!のが、
聖教新聞だと思う。

また、これほど、
人間に、
ひとりの人間に、
民衆に、
希望を贈(おく)ることのできる
新聞もない!と思う。


だれも、表立(おもてだ)って
言ったりしないかもしれないけれど、
探し求めている『幸せの本質(ほんしつ)』

そして、幸せという現実の結果・・!


その『幸せの本質』と
『幸せという結果』に、
真(しん)に、
具体的に、
現実的に、
直結(ちょっけつ)している新聞が、
聖教新聞だと思う・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


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