映画

2014年11月12日

A5100


映画『名もなく貧(まず)しく美しく』などの
数々の傑作(けっさく)を残した、
映画監督で作家としても高名(こうめい)な
松山善三氏は、

『なぜ、仏法(ぶっぽう)とは
まったく関係ない、
「アフリカ」という天地で、
創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法が、広がったか?』

という疑問(ぎもん)の
答えを見つけるために、
自(みずか)ら、
アフリカの現地へ足を運び、
民衆の輪(わ)に飛び込んで
取材(しゅざい)を重(かさ)ねたそうです。


1980年代の半(なか)ばのことだそうです。

松山善三氏が、アフリカのガーナで
創価学会のメンバーを取材していると、
そこへ突然、
隣国(りんこく)トーゴから車でやって来たという
三人の若者が現(あらわ)れた。

その一人の女性は、
「西アフリカの名医」として名高い
イダ・アジェビさんで、
79年フランス留学中に、
創価学会(そうかがっかい)に入会。

三年後、母国のトーゴに戻(もど)り、
たった一人で活動を開始。
その後、アメリカから来た
創価学会員の女性と一緒に活動し、
メンバーは、その時、
68人まで広がっていた。

その名簿(めいぼ)を手に、
「創価学会の座談会の開き方や、
仏法のことを教えてもらいたい」と、
国境封鎖(こっきょうふうさ)が解(と)けるのを待って、
ガーナまで尋(たず)ねてきた。

松山善三氏はもちろん、
居合(いあ)わせた創価学会メンバーも
驚嘆(きょうたん)した。

だれも知らないところで、
創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法の『種(たね)』は、
しっかりと大地に、
根(ね)を張(は)っていたからです。


今やそのトーゴの創価学会も
飛躍的(ひやくてき)に拡大(かくだい)し、
千人規模(きぼ)の大総会も
開催(かいさい)しているそうです。


松山善三氏が、言っています。

『誰が、その地に、
題目(だいもく/南無妙法蓮華経のこと)を、
伝(つた)えたか。

誰がそれだけの信徒(しんと)を集めたか。

寺や僧侶(そうりょ)ではない。

名もなき学会員(創価学会員)の一人ひとりが、
自分の足を運(はこ)んで、
その功徳(くどく)を、わかち合いたい
という願いによってである。』


ちなみに、功徳とは、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰を実践(じっせん)した結果として
あらわれる、
さまざまな幸せの結果です。

たとえば、悩みや問題が解決したり、
病気を克服(こくふく)できたり、
夢や希望を、
かなえることができたりすることが、
功徳(くどく)と言うことが、できます。



だれから言われたのでもない。
自(みずか)らの生命に
わき出てくる歓喜(かんき)を、
一人でも多くの人と、
分(わ)かち合(あ)いたい。

その思いを抱(いだ)いた一人が、
身近な一人と対話を交(か)わし、
また一人、
また一人へと、
広がった・・!


これが、創価学会が実践する、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法が、
人々を、
本当に幸せにできる、
真実の宗教であることの証明になっています。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

たとえば、
美味しいラーメン屋があれば、
人に話したくなるんです。
それが、かりに世界一おいしいラーメンだったら、
きっと、世界中の人に、話したくなるでしょう。

それと同じように、
創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
世界一、人を幸せにできるとしたら、
世界中の人に、そのことを、伝えたくなるでしょう。


だから、創価学会が広がっているんです。

だから、創価学会は、
世界192カ国にまで広まったんです。

また、これからも、広まっていくでしょう。


それは、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰が、
あらゆる、どんな人の、
悩みや問題でも解決でき、
夢や希望をかなえる大きな力(ちから)となり、
世界中のどんな人でも、
最高の幸せを、つかませてくれることの
証拠(しょうこ)であり、
証明になっています・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:08│

2014年06月09日

A1L00


すべての人は、
『仏法(ぶっぽう)』を、求(もと)めている。

けれど、仏法(ぶっぽう)というと、わからない。

人が望むもの・・ 、
人が、求めるもの・・。

それは、幸せであり、
希望であり、
安らぎであり、
調和(ちょうわ)である。

音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、
さまざまな文化にしても、
人は、自分が感動し、気持ちよくなり、
心が安(やす)らかになるものを、
求めて、
それらの音楽や映画や、
スポーツや趣味によって、
それらの自分の人生にとって
プラスとなるもの・・。
すなわち、希望や調和、
勇気や挑戦する心を、高めようとする。

すなわち、それらは、
すべて生きる喜び、
幸せに向かうものであり、
それらの生きる喜びを求めて、
さまざまなことを、やっている。


では、音楽にしても、映画にしても、
文学にしても、さまざまな文化にしても、
それらは、いったい、
何を求めているんだろうか・・・?


それは、当然、幸せを求めている。

その表現の結果が、
感動であったり、
勇気であったり、
安らぎであったり
調和であったりする。

実は、それらの人々が求めている、
感動や安らぎ、希望や勇気、
調和とかいうものは、
『仏法のエッセンス』の一分(いちぶん)であり、
生きる喜びのすべてが、
『仏法(ぶっぽう)』の中にあるんです。

仏法とは、
生きる喜び、
幸せそのもののようなものです。

それを、無限に内包(ないほう)したもの、
喜びと幸せの、
大元(おおもと)の無限のエネルギーが、
『仏法(ぶっぽう)』です。

だから、さまざまな音楽にしても、
映画にしても、
文学や、さまざまな文化にしても、
生きる喜びという、
『仏法のエッセンス』の一部分(いちぶぶん)を求めて、
ちまなこになっている!
と言うこともできます。

それら、感動や勇気、
希望や調和、
安らぎなどの、
人間が幸せになるために、
欲(ほ)しくて欲しくて、しょうがないもの・・・。

実は、その、
人間が、本源的(ほんげんてき)に求めているものの、
本当の姿(すがた)であり、
究極(きゅうきょく)の幸せの姿が、
創価学会(そうかがっかい)が実践する
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』なんです。

だから、本当は、
音楽にしても映画にしても
文学にしても、
あらゆる文化が、
究極的に求めているのは、
『仏法(ぶっぽう)』なんです。

はっきり言えば、
人間は、
仏法を求め、仏法に向かって、
模索(もさく)し、
それを、つかもうとしているんです。


ところが、『仏法(ぶっぽう)』と聞くと、
そっぽを向く。


まさか・・仏法が、
自分が求めているものだとは、
考えもつかないからです。


だから、人々は、必死で仏法を求め、
仏法を、つかもうとしているのに、
自分がつかもうとして模索(もさく)している幸せが、
まさか、仏法にあるとは、
考えられず、
結局、自分が欲(ほ)しがっている幸せを、
つかめず、
人生を終わってしまう。


それが、多くの人たちの、
人生だと言うことも、できます。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

だから、その『仏法』に対する
偏見(へんけん)を打ち破(やぶ)り、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を求め、
実践(じっせん)していったとき、
自分のあらゆる悩みや問題が、
解決でき、
さまざまや希望や夢も、
かなえていけるようになっていく。

そして最終的に、
これ以上ない!と言える
幸せと勝利の、
最高に満足のいく人生を、
おくることができる!!


それが、すべての人が求めている、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
『仏法』です。


だから、ほんとうは、
すべての人が、
『仏法』を、求めている。

音楽にしろ、
映画にしろ、
文学にしろ、
さまざまな芸術にしろ文化にしても、
すべては『仏法』を目指(めざ)し、
仏法に近づこうと進んでいる。

人間のいとなみの、
すべては、
仏法に近づこう!仏法に近づこう!として
模索(もさく)している。


人間は、『仏法(ぶっぽう)』が、ほしいんです!!!

『仏法』を求(もと)めて求めて求め抜(ぬ)いているんです。


けれど、自分が求めている幸せが、
『仏法』であるとは、
まさか、気づかない・・・。


だから、自分が望む本当の幸せを、
つかめないまま、
人生を、終わってしまう。



だから、勇気を出してほしいと思う。



仏法は、そこにある・・!


過去の時代から、
あらゆる人が、求めて求めて、
欲(ほ)しがっていた最高の幸せは、
実は、創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
『仏法』の中に、
あるんです!


だから、この創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を、
つかんでほしい!!


なぜなら、
そこに、
すべての人が望む、
あなたが望む、
すべての幸せが、
あるからです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 08:44│

2014年04月09日

A0800


映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」や、
「ロード・オブ・ザ・リング」
などに出演している俳優、
オーランド・ブルームを知っている人は、
多いと思う。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」は、
人気があるので、
テレビでも時折(ときおり)、やることがあるし、
ぼくも、以前、テレビで見ました。

第一作、第二作と見てしまうと、
どうしても、第三作目も見たくなって、
テレビで録画して観(み)ました。

第三作目では、オーランド・ブルームは、
主役ばりに活躍していて、
なかなか、おもしろかったです。

「ロード・オブ・ザ・リング」の三部作は、
以前、ビデオで見たんですが、
こちらも、なかなか、楽しめました。(長いけど・・)
オーランド・ブルームは、
エルフ族という、
天使の一族の王の子供、
『レゴラス』という
弓(ゆみ)の使い手として、
登場していた。


その俳優、オーランド・ブルームさんが、
以前、
創価学会(そうかがっかい)のインターナショナル会長である、
池田先生に、
一枚のカードを、贈(おく)っています。

そのカードには、
こう、書かれていました。

『親愛なる先生!
 法華経(ほけきょう)の剣(つるぎ)をかかげ、
 誠実を、わが規範(きはん)とし、
 あなたを、わが師(し)とし、
 全宇宙の善なる力を味方として、
 私は、広宣流布(こうせんるふ)を、
 目指します。
 (広宣流布とは、仏法の哲学(てつがく)と思想を、
 人生の根幹(こんかん)に置くことによって、
 世界平和、人類の調和と幸福を、
 目指していくという意味です)
 
 そして、山頂から四方(しほう)を、
 はるかに見渡(みわた)す日まで、
 険(けわ)しき妙法(みょうほう)の山を、
 登攀(とうはん)しゆくことを、
 誓(ちか)います。
 (妙法とは、南無妙法蓮華経の略(りゃく)で、
 宇宙の法則(ほうそく)であり、生命の法則であり、
 幸せになるための法則です)

 山の頂(いただき)において、
 私は、感謝を抱(いだ)いて、
 次なる生命の冒険への旅立ちに挑(いど)みます。

 生々世々(しょうじょうよよ)、
 あなたとともに、多くの山を、
 登攀(とうはん)しゆくことに、
 わが胸は、躍(おど)るのです。

 
 あなたの弟子にして友
 オーランド・ブルームより 』



これは、オーランド・ブルームが、
以前、日本で池田先生に会ったときに、
先生に渡したカードの内容です。

これで、わかると思いますが、
オーランド・ブルームも、
創価学会の一員です。

彼は、池田先生のスピーチを読んだ感想を、
このカードに、書き記(しる)したそうです。

池田先生は、こんなオーランドに対して、
こう、励(はげ)ましています。

「スウェーデンの劇作家ストリンドベリは、
 言いました。
 『俳優は、役を支配すべきで、
  役に支配されてはならない!』
 大事なのは、自分自身に生き切ることです。
 オーランドさんは、その通りの人生を、
 進んでいます。
 役者だけ、仕事だけ、
 そうであれば、平凡です。
 
 本当に人のために、社会のために、
 永遠の哲学である仏法(ぶっぽう)のために、
 生きておられる。
 その姿は、尊(とうと)いです。
 一番、価値(かち)のある生き方です。」

それに対し、
オーランド・ブルームは、答えている。
「私は、必ず行動します!
 池田先生!
 見ていてください!!」

池田先生は、さらに続けている。

「長い長い人生です。
 最後の最後まで、大いなる理想に向かって、
 生き抜(ぬ)いていくのです。
 黄金の夕日が、大空を、
 真っ赤に染(そ)め上げながら、
 荘厳(そうごん)な輝(かがや)きを放(はな)つように、
 人生の最終章を
 見事に飾(かざ)っていくための仏法です。
 
 そのために、一年、一年が、戦いです。
 一年、一年が、勝負です。
 今の成功が未来の成功とは、かぎらない。
 『最後の勝利を!』
 これが、永遠の勝利です。
 友人として、私は、申し上げます。」


オーランド・ブルームの一行(いっこう)も、
「池田先生の、
 オーランドへの励(はげ)ましを聞いていて、
 自然と涙が、あふれてきました。」

と、ほほを、ぬぐう、
さわやかな光景(こうけい)に、
つつまれました。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

池田先生は、さらに、
オーランド・ブルームへの励ましを、続けました。

「オーランドさんも、これまで、
 悪意の中傷(ちゅうしょう)や虚偽(きょぎ)の報道によって、
 いやな思いを、されたことがあると、
 聞きました。
 
 私も、そうです。

 人から、ほめられていてばかりで、
 何の批判(ひはん)も、されない。
 そのな人間は薄(うす)っぺらです。
 
 牧口創価学会初代会長は、
 『愚人(ぐにん)に憎まれたるは、 
  第一の光栄なり!』
 と、述(の)べました。
 学会の三代の会長は、
 この精神で、戦ってきました。
  
 今の時代は、仏法から見れば、
 人々の心が、濁(にご)った時代です。
 優(すぐ)れた人がいれば、
 それを妬(ねた)んで、
 足を引っ張ろうとする人間がいるものです。

 しかし、そうした輩(やから)など、
 悠然(ゆうぜん)と見おろして、
 進んでいくことです。」

オーランド・ブルームは、
深く、うなずき、
「本当に、そうだと思います!」
と、語った。


オーランド・ブルームは、
21才の時、3階の高さから転落し、
背骨などを折る大けがを、してしまった。

医師からは、
「一生、歩けないかもしれない。」
とまで言われたが、
家族や友人の励ましによって、
奇跡的(きせきてき)なカムバックを、とげる。

池田先生は、そんなことも、ふまえて、
「もし、今度、
 けがを、したら、
 罰金(ばっきん)ですよ!!!」

と、ユーモアを込めて、
語った・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


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2014年03月26日

A72300


先日、ビデオで、
『四日間の奇跡(きせき)』という映画を、
見た話しを、しましたが、
この映画は、
脳に障害(しょうがい)がありながら、
ある分野に関しては、
天才的な能力を発揮(はっき)するという、
サヴァン症候群という症状の少女と、
その少女を、落雷の事故から、
助けようとした真理子の心が、
入れ替(かわ)わってしまうという、
映画的と言えば、映画的な、
とても、信じられない四日間の奇跡を、
あたたかく、切なく、
描かれているドラマだけれども、
その中で、
一人の医者が、登場する。

サヴァン症候群の少女「千織(ちおり)」の、
保護者である、如月(きさらぎ)は、
医者が、信じてくれないのは、わかっていても、
千織と真理子の心が、入れ替(か)わってしまったことを、
その医者に、説明しようとする。

しかし、当然、医者は、
信じようとはしない。

けれど、その医者は、
妻が、事故によって、
植物人間になってしまい、
生きているのか、いないのか、
わからないような状態でも、
何年も、その妻を、
看病(かんびょう)してきていた。

医学的には、そんなことは、ありえないと
わかっていても、
彼が、植物人間となった妻の手を、
握(にぎ)りしめると、
なぜだか、妻が、握りかえしてくる気がした。

彼は、
千織の保護者である如月を、
自分の妻のところに連れて行き、
話す。

「オレは、これでも、
 科学者の、はしくれだ。
 心が、入れ替わるなんてことを、
 信じるわけには、いかない!」

「けれど、時として、
 奇跡としか思えないような場面に、
 出くわすことがあるのも、事実だ・・」

「信じてやればいい。
 信じるということは、
 人間の脳に与(あた)えられた
 偉大な力のひとつだぞ・・!」

と・・・。


『信じるということは、
 人間の脳に与えられた、
 偉大(いだい)な力のひとつだぞ・・!』


信じるということは、不思議だ。
信じるということは、目に見えない。

けれど、信じるということなしに、
人間の人生が、成り立たないのも、
事実です・・・。

人は、信じているから、行動ができる。
水に毒(どく)が入っていないと、信じているから、
水を、飲む。
食べ物に、猛毒(もうどく)が入っているとわかっていて、
その食べ物を、食べる人は、いない。

人は、たとえば、
会社で働くにしても、
経営者が、給料を、はらってくれると
信じているから、働くのだ。

また、相手を、信じていないで、
結婚する人も、いない。

人間の行動は、すべて、
信じることによって、
成り立っている。

信じなかったら、
生きることは、不可能だ!ということです。


『信じるということは、
 人間の脳に与えられた、
 偉大な力のひとつ』


すなわち、信じるということは、
すべてを、可能にしていく!!
信じなかったら、すべてが、
不可能になってしまうからです。

信じるという、この強力なエネルギー。
人間にとって、
これほど、強力で、偉大な能力は、
確かに、ないと思う。

すなわち、信じるというエネルギーからは、
無限の可能性と、無限の力(ちから)が、
泉(いずみ)のごとく、
湧(わ)き上がってくるということだと、
思う。

人間の歴史における、
あらゆる発見、あらゆる発展も、
すべては、
この信じるというエネルギーから、
発(はっ)していると言っても、
過言(かごん)ではない。


仏法の真髄(しんずい)である、
『法華経(ほけきょう)』。

この「法華経」の教えを、
理屈(りくつ)で、理解できた人は、いないと言う。

天才中の天才と言われた、
舎利弗(しゃりほつ)であっても、
とうとう、この法華経(ほけきょう)を、
理屈で理解することは、
できなかったと、いう。


では、どうして、理解したか?
結局、シャリホツは、
『信じる』ことによって、
仏法(ぶっぽう)の真髄・法華経を、
理解することが、できた。

理解することが、
先(さき)ではなく、
信じることが、先だった!

それほど、『信じる』ということには、
価値(かち)がある・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

信じないことは、ゼロだけれど、
信じることからは、
無限の価値が、生まれる!!

もちろん、間違(まちが)ったものを、
信じたら、不幸になる。
当然だ。
たとえば、戦争。
戦争を美化し、侵略(しんりゃく)戦争を、
正義の聖戦などと信じて、
死んでいった若者は、
ほんとうに、かわいそうです。

宗教にも、同じことが、言える。
間違った宗教を、信じた人々は、
必ず、不幸になる。

宗教とは、信じることが、
根本(こんぽん)になっているがために、
結果が、はっきりと、明確に出てくる。
すなわち、間違った宗教を、
信じたら、100%、
不幸という、現実の結果が、
必ず、出てきてしまう。

だから、宗教なんて、どうでもいいものだ。
ともかく、手を合わせれば、
それでいいんだなどと、
簡単に考えていると、
とんでもない、しっぺ返しを、くう!!!


間違った宗教を、信じたら、
100%、不幸になる!!!


だが、
信じることには、無限の力がある!
その信じることの、
最高峰(さいこうほう)といえる宗教において、
もし、その宗教が、本当に正しく、
力(ちから)ある宗教であるならば、
その宗教によって、
『信じる』という力は、
無限の価値と、無限のエネルギーと、
無限の希望となって、
その人の人生を、飾(かざ)り、
その人を、幸せにしていく。


それも、事実です。


そのことを、
完璧(かんぺき)に、明確に、説きあらわし、
すべての人に、実践できるようにしたのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)であり、
その法則が、
現代の法華経である、
『南無妙法蓮華経』の法則(ほうそく)です。

そして、その南無妙法蓮華経の法則を、
1ミリ、一滴(いってき)の違いもなく、
純粋に、実践しているのが、
創価学会(そうかがっかい)です。


南無妙法蓮華経の法則は、
すべての人を、幸せにできる法則であるけれど、
信じないことには、
だれも、幸せにできない!!!

だから、まず、
ともかく、信じて、やってみる!
そうすれば、必ず、
さまざまな悩みや問題は、解決し、
真剣に実践(じっせん)していくことによって、
夢や希望が、かない、
必ず、どんな人でも、
幸せになっていくことが、できる!

それが、創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。

いわば、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
『信じる』という、
無限のエネルギーと、無限の可能性を、
最大限に発揮(はっき)させ、
最大限に開花させる法則だと、
言えると思う。

だから、創価学会が信じ祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』を信じて、
ともかく、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえぬくとき、
どんな人でも、どんな境遇(きょうぐう)の人でも、
必ず、絶対に、幸せになっていける・・!

その証拠(しょうこ)として、
創価学会は、世界192ヶ国に、ひろがり、
世界中から、期待と尊敬を集め、
今も、南無妙法蓮華経を、となえぬく人々を、
幸せにしている。



映画「四日間の奇跡」の中で、
医者は言った。

『信じるということは、
 人間の脳に与えられた、
 偉大(いだい)な力のひとつだぞ・・!』

では、その、
信じるという偉大な力を、
どうやって、
開花させていけばいいのか?

信じることの力を、
どうやって、
現実の夢や希望、
幸せと結(むす)びつけていくのか?


その答えが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)にはあり、
信じるエネルギーを、
無限に、最高最大に発揮させ、
悩みや困難(こんなん)を乗り越(こ)え、
夢や希望を、かなえていけるのが、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だと、
いうことです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


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2014年03月17日

Aa344_b


このまえ、ビデオで、
『四日間の奇跡(きせき)』という映画を、
見ました。

新進ピアニストとして、
期待されていた如月(きさらぎ)は、
海外でのコンサートを終えた直後、
テロ的事件に、巻(ま)き込まれる。

そのテロ的事件によって、
ある夫婦が殺され、その子供である、
一人の少女を、如月は、助ける。
しかし、少女を助ようとした時に、
ピアニストの生命線である指を、
ピストルで撃(う)たれ、
指の神経を断裂(だんれつ)してしまう。

如月(きさらぎ)は、失意の底に沈(しず)むが、
それでも、父母を失い、
身寄(みよ)りをなくしてしまった
少女・千織(ちおり)を、
やしなうことを、決意する。

千織は、脳に障害(しょうがい)があり、
話すことも、ままならなかった。
けれど、一度聴いた旋律(せんりつ)を、
一音違(たが)わず再生できる、
特異な能力を持っていることが、わかった。
それは、ピアニストの如月だから、
発見できたと言えるが、
如月の手ほどきによって、
千織は、信じられないピアノ演奏の才能を、
発揮(はっき)していく。

如月は、各地の施設を慰問(いもん)しながら、
千織の演奏を披露(ひろう)する日々をおくり、
そこに心のやすらぎを、おぼえていく。

そんななか、
慰問先の小さな島の療養(りょうよう)センターで、
如月は、彼を「初恋の人」として
ひそかに慕(した)っていた岩村真理子と出会う。
真理子は、センター職員として
周囲の人々に親しまれ明るく働いていた。
しかし彼女も、心に深い傷(きず)を負っていた。
そして、悩んでいた。

演奏会を終えた午後、
中庭で真理子と千織は、
姉妹のように戯(たわむ)れていた。
と、その時、思いもかけぬ落雷が襲(おそ)ってきた。 
真理子は、千織をかばって大怪我(おおけが)を負い、
意識不明のままICU(集中治療室)に収容された。
彼女の命の期限はあと4日だという。

真理子に助けられた千織は、
ショック状態から覚(さ)め、意識を取り戻す。

その時、千織は、如月に告(つ)げた!

「私、真理子です。
 私は私のまま、
 千織ちゃんの身体の中にいるんです。」

真理子の心が、千織の中に!?
逆に意識不明の真理子の中には千織がいて、
真理子の命を、支(ささ)えているという。
けれど、支えるのにも限界がある。
それが、4日間だということです。

これが、映画「四日間の奇跡」の、
大まかな、あらすじですが、
その千織の体によって真理子に与(あた)えられた、
『残りの命』、四日間の奇跡を、
あたたかく切ないドラマとして、
描き出しています。


如月は、指が動かなくなり、
ピアニスト生命が絶たれ、
絶望していた。

けれど、この映画の後半で、
千織の体の中にいる真理子は、
自分の初恋の人であり、
今も愛している如月に、言います。

「自分に価値(かち)を、みとめないのは、
 もう、やめにして!」

「わたしも、ぜんぜん、気づいていなかったの!
 今日の今日まで・・・
 でも、千織ちゃんが、くれた、
 四日間の奇跡のおかげて、
 私は、間に合った!!

やっと気づけたのよ!
自分の価値に!!!

 わたし、父と母に言うの!(二人とも亡くなっている)
 『生んでくれてありがとう!』 
 そこまで、思えたの!
 だから、もう、こわくない。」

真理子は、最後の四日間、
千織の体を借(か)りて、
自分と自分の周(まわ)りの人たちを、
客観的(きゃっかんてき)に見ることが、できた。
そして、自分の価値に気づき、
『ありがとう』と言って死んでいく。


生きていく自分の価値・・・。


人間の、さまさまな悩みも、
根底には、
この『自分の価値』があるのか?どうなのか?
その『自分の価値』に対する疑問・・!
これが、必ず、あると思う。

自分には、
生きていく価値があるのか?
・・・ないのか?

表面的な、ありとあらゆる、
さまざまな悩みも、
この『自分の価値』に対する疑問から、
きていると言っても、
言いすぎでは、ないと思う。

それくらい、この、
『自分の価値』に対する命題(めいだい)は、
重要だということです。

ようするに、
この『自分の価値』が、わかり、
『自分の価値』に気づけたならば、
大半の悩みや問題は、
根本的には、ほとんど、
解決されると言っても、
過言(かごん)では、ないと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

『自分の価値』が、わかったならば・・・
『自分の価値』に、ほんとうに、
目覚(めざ)めることが、できたならば・・・・

この『自分の価値』に対する命題に、
みごとに!明確に!答え、
あらゆる、すべての人々に、
納得(なっとく)させ、感じさせ、
現実の中で、実感できるようにしたのが、
創価学会(そうかがっかい)が実践する、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』です。

南無妙法蓮華経は、
あまりにも深く、スゴイので、
説明するのは困難(こんなん)ですが、
自分の価値に目覚め、
自分の価値を、開花させ、
現実に感じていける法則(ほうそく)が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
だと、言えます。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
真実の自分が、見えてくる。
たとえ、それが、大げさな言い方だとしても、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
生きていく価値が、無意識のうちに、
感じられるようになり、
無意識のうちにも、『自分の価値』が、
自分の実感として、わかってくるので、
生きるのが、楽しくなっていきます。

そして、やがて、
自分の生きていく価値、
すなわち、『使命』を、感じるようになり、
その「生きがい」である『使命感(しめいかん)』は、
自分が生きていることに、
大きな喜びと歓喜と幸せを、もたらします。

ようするに、なぜだか、わからないけど、
ウキウキして、楽しくなってくる。
希望に満(み)ち、前向きになり、
「ようし!今日も、やったるでーー!」
と言えるような、
最高の生き方が、できるようになってきます。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
根本の「自分の価値」に対する悩みが、
解決したとき、
表面的な小さな悩みや問題は、自然と解決し、
不思議(ふしぎ)と、夢や希望が、
かなうようになってゆき、
その結果、
当然、幸せになっていきます。

それが、
南無妙法蓮華経を、となえる
ということだと、
思います。


だから、創価学会は、
世間のデマや中傷(ちゅうしょう)などでは、
びくともせず、
世界192ヶ国に、ひろがり、
その「自分の価値」に目覚めた、
ひとりひとりが、
幸せと、平和の花を、
世界中に、咲(さ)かせています。


それは、あたかも、
映画「四日間の奇跡」で、
真理子が、

 「やっと気づけたのよ!
 自分の価値に!!!

  わたし、父と母に言うの!
 『生んでくれてありがとう!』 
  そこまで、思えたの!」

と言ったように、
その人に、最高のすがすがしさと、
歓喜と、充実(じゅうじつ)と、幸せを、
もたらしてくれる・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:00│

2014年02月04日

A0300


このまえ、ビデオで
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。

この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使い(まほうつかい)が、
登場します。

どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯(せいいっぱい)、生きることを拒否(きょひ)し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。

しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人(けんじん)「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。


生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。

しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。

いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の中にある、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
 論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。

死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。

ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。

もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。

けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。

ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。

まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。

次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
 不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。

だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。

だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。

これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!

すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!


結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。

むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。

その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。

言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生と死の繰り返(くりかえ)しを、もたらしている、
永遠の法則が、
『南無妙法蓮華経』だと、
言うことだと思う。

生と死は、あらがうことのできない、
「宇宙のリズム」だと、いうことです。

無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、

その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
宇宙のリズムであり、
その宇宙のリズムが、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。

だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。


南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。

生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。

だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。

単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。


仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死も歓喜』と、言います。

生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。


いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。

そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!


それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。

けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
 "宿命(しゅくめい)"のようなものです)

この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響(えいきょう)を、
与(あた)えていく。

その、『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』だと、
言えます。

だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。

これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。


さきほども言ったように、
『南無妙法蓮華経』は、
生の法則でもあり、死の法則でもあります。
そして、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割(やくわり)を、持っているのが、
南無妙法蓮華経なんです。

すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値(かち)を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。

この、南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。

そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。


映画「ゲド戦記」の中で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
 大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。

そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、

それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。



生と死を考えるのは、
難しいようでもあり、自分の人生には、
あまり、関係ないようにも、思えてきます。

けれど、この生死の法則である、
「南無妙法蓮華経」は、
そういうことではない・・!

この生死の、生命の法則である、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)していくことによって、
本源的(ほんげんてき)な、根本のものが解決していくので、
また、自分の中から、
本源的な根本の力(ちから)が復活(ふっかつ)し、
湧(わ)き上がってくるがゆえに、
悩みを解決していけ、
自分の夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。

その、究極(きゅうきょく)の、
根本的な力が、
『南無妙法蓮華経』
だということです・・・!!!

すなわち、
南無妙法蓮華経をとなえる生き方は、
その人に、
最高の幸せを、もたらす!
ということです。


今日は、確かに、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言(だんげん)しておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:19│

2012年09月27日

A200


このまえ、ビデオで、
映画「NANA」を見ました。
マンガは、見たことがないので、
ふ〜〜〜ん、こんな感じか?と思って、
見ました。
なかなか、楽しめました。
大崎ナナ役(ボーカルの方)の中島美嘉も、
がんばっていたし、
ミーハーな女の子、小松奈々役の、
宮崎あおいも、なかなか、
おもしろかったと、思いました。

ナナ(ボーカルの方)の恋人役の男は、
あんまり、かっこいいとは、
思わなかったけど、まあ、いいか(・・・)

それは、ともかくとして、
ロックバンドのボーカルとして、
夢に向かって、立ち向かっている方のナナ、
大崎ナナの、肩のところには、
蓮(ハス)の花の刺青(いれずみ)が、してあった。
どうして、蓮(はす)の花かは、
わからないけれど、
そのナナの恋人の名前も、
『蓮(レン)』だ。
ナナの肩にきざまれた、イレズミも、
蓮(はす)の花ならば、
恋人の名前も、蓮の花、「蓮(レン)」
このへんに、
作者の、なにかしらの意図(いと)が、
あるのかも、しれない。

ナナの恋人の名前「蓮(レン)」
そして、ナナの肩のイレズミの、蓮(はす)の花、
この『蓮』は、
創価学会の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経』の『蓮(れん)』でも、ある。

この南無妙法蓮華経の「蓮」は、
「蓮華(れんげ)」、
次の文字、華(げ)と、つながり、「蓮華」
やはり、蓮(はす)の華(花)、
という意味があると思う。

なぜ?蓮の花かというと、
蓮の花は、泥(どろ)の中からでも、
花を、咲(さ)かせる。
すなわち、人間に、たとえるならば、
どんな、泥のような生(お)い立ち、
つらく、暗い人生の中からでも、
素晴らしい花を、咲かせることができる!という、
象徴(しょうちょう)に、たとえられている。

この映画のナナも、
また、ナナの恋人、蓮(レン)も、
暗い、辛(つら)い過去を、もっているようだ。
けれど、どんな暗く辛い境遇(きょうぐう)に、いようとも、
精一杯、上を向いて、希望をつかみ、
自分らしい花を、咲かせていく!
そんな意味が、あるのだろうか?


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

『蓮』は、希望の象徴(しようちょう)であり、
必ず、幸せを、つかむんだ!という、
絶対に負けない勇気の象徴でもあると思う。
その、どんなことがあっても、
絶対に負けない、希望と勇気の象徴のように、
ナナは、描かれているのかも、
しれない。

また、蓮(はす)の花は、
花と実を、同時に、つける植物だそうです。
花は、負けない希望、勇気、
その希望と勇気の努力によって、
結実していく実が、
幸せという結果です。
原因と結果が、同時に、そなわっている花が、
蓮(はす)の花、『蓮』だということになる!

これは、
南無妙法蓮華経という法則(ほうそく)には、
南無妙法蓮華経という
リズム、音律(おんりつ)には、
原因と結果が、同時に、ふくまれている!
ことを、意味しています。
すなわち、
南無妙法蓮華経を、となえるとき、
南無妙法蓮華経を、となえたという、
『原因』によって、
同時に、必ず、『絶対に幸せになる!』という、
結果が、ふくまれてくる。

「南無妙法蓮華経を、となえる」という原因によって、
南無妙法蓮華経を、となえた時点で、
結果が、ふくまれているため、
『幸せ、勝利』という結果を、
必ず、生むことになる!

わかりづらいかもしれませんが、
原因と結果の花と実が、
同時に、ズレルことなく
開花し結実(けつじつ)していくとすると、
そのうちの一つ、
『南無妙法蓮華経を、となえる』という原因は、
『花が咲いた』ことを意味します。
『花が咲いた』と同時に、『実を結ぶ』んだから、
それは同時に、
自分の人生の中で、
『勝利と幸せの結果』が、
結実するわけです。

南無妙法蓮華経を信じて、
まぎれなく、真っ直ぐ(まっすぐ)に、
ズレルことなく進んでいけば、
実際にその通りの結果、
勝利、幸せを、つかめるということです!!


これが、
南無妙法蓮華経の不思議(ふしぎ)なる法則です。
理屈(りくつ)では、わからないと思いますが、
現実に、そうなります!
でなかったら、世界192ヶ国の、
創価学会の人たちは、
南無妙法蓮華経を、となえないだろうし、
結果が、でるから、
みんな、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)している!

また、南無妙法蓮華経が、
原因と結果の花と実を、
同時に開花させる法則だということは、
南無妙法蓮華経を、真剣に、となえて、
自分の夢に向かって、
努力を、していると、
『努力が、必ず、報(むく)われる!』
ということを、意味します!!

そのために、創価学会の人たちは、
南無妙法蓮華経を、となえているわけです。


まず、ともかく、
南無妙法蓮華経をとなえる。
そうすると、勝利と幸せの原因ができる。

そして、
南無妙法蓮華経をとなえることによって、
自分の心の中に、
「絶対に勝つんだ!」
「必ず幸せになってみせる!」
という揺(ゆ)るぎない確信が生まれる。

それは、自分の生命と心が、
幸せと勝利に、
一直線に結(むす)ばれることを意味します。

その結果、なぜだか、
幸せになるための、
最高の行動、最高の努力が、
できるようになっていく。

そうなれば、
当然の結果として、
勝利と幸せを、つかんでいける。


それが、南無妙法蓮華経をとなえて生きる、
道筋(みちすじ)だと思う。


だから、
極論(きょくろん)から言いと、
南無妙法蓮華経を、となえたということは、
その人が、人生を、勝利し、幸せを、つかんだ!!
のと、同じだと、
言い切っても、間違(まちが)いではない。
もちろん、長い人生の道のりのなかでは、
いろいろ、あるはずです。
けれど、南無妙法蓮華経を、となえた以上、
南無妙法蓮華経と創価学会を信じて、
生き抜(ぬ)いていくならば、
かならず、絶対に、幸せになる!!!
かならず、勝利の姿を、見せることができる!


それは、
どんな深い泥(どろ)の中からでも、
蓮(はす)が、花を咲かせ、
同時に実を結ぶように・・。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:39│

2012年07月09日

Ad74_b


このまえ、ビデオで、
映画「スターウォーズ・エピソード3」を、
見ました。
友達に、スターウォーズが好きな人がいて、
その人の影響(えいきょう)か?、
なんだか見たくなりました。

内容は、なかなか、
おもしろかったと思いました。
ぼくは、スターウォーズには、
詳(くわ)しくないのですが、
スターウォーズ作品の中でも、
なかなか良いできではないのか?と思いました。

知っているかもしれませんが、
エピソード3では、
悪のヒーロー(?)ダース・ベイダーの、
誕生の秘密(ひみつ)が、明かされていきます。

ダース・ベイダーは、
元は、正義と平和を守る、
アナキンという、ジェダイの騎士(きし)でした。
しかも、超優秀で、数々の功績がある、
将来有望(ゆうぼう)な、素晴らしい騎士でした。

そんな素晴らしい人間が、
なぜ?
悪の闇(やみ)に、捕(と)らわれてしまい、
悪の権化(ごんげ)と、なってしまうのか?
その微妙なニュアンスが、
ストーリーに、面白(おもしろ)みを、
加えていました。

好青年アナキンは、
正義感の強い、善意あふれる青年だった。
けれど、最愛の母の死や、
さまざまな悲しみを、経(へ)て、
力(ちから)に対する欲求、また、失うことの恐怖を、
強く感じるようになってくる。
そして、最愛の妻が、
死ぬかもしれないという事態になり、
妻を失いたくない強烈(きょうれつ)な愛から、
なにものも及(およ)ばない力に対する欲求が、
増幅(ぞうふく)し、
やがて、悪に命を、売り渡していく!
それは、やがて、
最愛の妻の愛すらも、
失う結果になることも、気づかずに!


善(ぜん)と悪、
アナキンが、ダース・ベイダーになった
このストーリーは、
極端(きょくたん)かもしれないけれど、
これは、だれにでも、ありうる物語だと思う。

だれでも、
子供のころや、若い時代は、
みな、理想(りそう)を抱く好青年である場合が、
多い。
けれど、それは、時と共に、
消えうせ、
悪を甘んじて、許容(きょよう)している場合が、
多々、あるかもしれない。

理想を抱く好青年も、
悪に甘んじていく、悪(あ)しき大人も、
それは、同じ人間である。
もともと、この人は、悪で、
この人は、善だと、決まっているわけではない。

すべての人に、
どちらかになる可能性が、
秘(ひ)められている。
すなわち、善も悪も、
同じ自分の中に、ふくまれている!
と、いうことです。

善も悪も、自分の中にある!
問題は、そのどちらを抑(おさ)え、
どちらを、増幅し開花させていくかだと思う。
それによって、
その人の幸・不幸が、決まっていく。

しかも、それは、
最初は、アナキンのように、
ほんの些細(ささい)な、
小さな心の揺らぎ(ゆらぎ)による。

恐(こわ)いと言えば、恐いのが、人生だ。


よく、選挙になると、
議員たちが、毎日、
テレビを、にぎあわせる。

その議員たちを、見ていると、
自分が、
だれであるかも忘れてしまったような、
あさましい顔をした人間が、
何人も、見受(みう)けられた。

アナキンのように、
権力という魔性(ましょう)に、食い破(やぶ)られ、
悪に命を売り渡した形だろうか・・・。

だが、本人は、
それすら、わかっていないだろう。
ここに人間の愚(おろ)かさも、
浅はかさも、繊細(せんさい)さも、あると思う。

わからないのだ!
自分で。
自分が、どうなっているのか!

だが、
生命の立場から、考えれば、
悪には、幸せはない!
その生命には、一瞬も止(や)むことのない恐怖と、
絶望と、暗黒が、待っているだけだ。
一瞬(いっしゅん)の安らぎも、得られないだろう。


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

だから、自分の生命を、
悪に食い破られては、いけない!!

そのためには、
自分に、確固たる支柱(しちゅう)が、必要だ。
たえず、自分で、善と悪の基準(きじゅん)を、
わからせてくれる、
完璧(かんぺき)な生命哲学が、必要だ。

その完璧な生命哲学(せいめいてつがく)が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

南無妙法蓮華経は、
自分の生命の中の最高善を、
開花させる法則(ほうそく)であるがゆえに、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
たえず、自分の中から、
最高の、ベストの善性を、発揮(はっき)することが、
できるようになってくる!
これは、そのまま、人間としての勝利を、生み、
人生に幸せを、導(みちび)く。

創価学会が、
南無妙法蓮華経を、となえる対象としている、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
自分の中の最高の善性、最高の自分、
最高に、素晴らしい自分を、
表現しきった、
自分の生命の象徴(しょうちょう)であるがゆえに、
そのご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、
ご本尊を、見ることによって、
たえず、自分の最高の善性を見ることになり、
善悪の基準を、
たえず、自分で、
見極(みきわ)めることが、できるようになってくる!

だから、直感的に、
悪を見抜(みぬ)き、
自分の生命を、悪に、食い破られることが、
なくなってくる!!

だから、創価学会の人は、
なんの教養(きょうよう)もない、おばちゃんであっても、
悪を、明確に見抜く目と感性を、
エセ教養人より、
はるかに、鋭(するど)く、持っている!

創価学会の実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経の仏法が、
人間を、より賢明(けんめい)に、より強く、
より、正しくしていく!!
と、いうことです。

それは、すなわち、
一生を通して、
最高の喜びと、最高の幸せと、
最高の勝利と満足を、もたらす結果となる。

ウソではなく、
それが、生命の本質(ほんしつ)です・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:32│

2012年06月27日

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このまえ、ビデオで、
下弦の月(ラスト・クォーター)という映画を、
見ました。・・・・・・

19年まえ、ロンドンで暮らしていた、
ミュージシャン、アダムは、
恋人、上条さやか、と愛し合う。

けれど、アダムの恋人、上条さやかは、
19歳の若さで、不治(ふじ)の病に倒(たお)れ、
「きっと生まれ変わってくる」という言葉を、
残して、死んでいく。

その言葉を、信じることもできず、
アダムは、絶望(ぜつぼう)して、
自殺する!
そして、アダムの霊(れい)は、
暗黒の闇(やみ)の世界に、永遠に、さまよい続ける。

死んだ上条さやかは、
「きっと生まれ変わってくる」と言った言葉どうり、
『望月美月』として、生まれ変わってくる!
しかし、アダムに会えることは、なかった。
なぜなら、
自殺した人間は、生まれ変わることは、できず、
永遠に暗黒の闇の世界で、
苦しみつづけるという設定(せってい)だからです。

19年に一度だけ、同じ形の月が、
同じ月日に現れるという。
それが、
「下弦の月」(ラストクウォーター)という、
設定だ。
そして、「下弦の月」が現れた時、
奇跡(きせき)を、おこせる!ということに、なっている。

アダムは、暗黒の世界で、
ひたすら、その下弦の月を、待ち続ける。
そして、アダムの恋人、上条さやかが、
この世を去った時と、同じ月(下弦の月)が、
また、19年後に、現れる。

そして、
その19年に一度しか現れない
「下弦の月」(ラストクウォーター)の奇跡で
アダムは、上条さやか、の生まれ変わり、
望月美月に、会うことができる。

しかし、それは、
望月美月を、暗黒の死の世界に、
導(みちび)くことになってしまう!
下弦の月が、消え去ろうとするとき、
望月美月は、事故に、遭(あ)い、
生死を、さまよう。
肉体は、植物人間状態で、
かろうじて、生きているものの、
その霊は、幽霊(ゆうれい)として、
アダムと、めぐり合い、
アダムを愛した、
謎の館(やかた)で、さまようことになる。

そして、望月美月の霊魂は、
現実の生きている、
さまざまな人たち(愛する人たち)の助けを、得て、
アダムとの別れを、決意し、
アダムも、また、微笑んで、
それを、認(みと)め、見送っていく。

望月美月は、
自分の肉体に戻り、
蘇生(そせい)して、現実の愛すべき人たちと、
生きていくという、
だいたい、そんな感じのストーリーです。


この映画では、
よく言われる、
人間には、前世とか来世があり、
人間の生命は、永遠に生まれ変わって、
自己という生命は、形は変わっても、
永遠に生き続けるということが、
前提(ぜんてい)として、
ストーリーが、展開されている。
このことを、認めないと話しが、
成(な)り立たなくなっている。

また、自殺してしまった絶望の霊(生命)を、
いかにして、安らがせ、
苦しみから、解(と)き放つことができるか?
ということが、
キーワードと、なっている。

こういう話しに、興味がない人には、
なんの利益(りえき)もないと思うけれど、
自分の亡(な)くなった家族や親族、友達、
そんな、今は、この世界に、
いなくなってしまった霊(生命)に対して、
たとえば、悲しい死、苦しい死を、
迎(むか)えた人であったならば、
その死んだ霊魂(生命)に対して、
「どうか、安らかであってほしい!」
「幸せで、あってほしい!」
「成仏(じょうぶつ)していてほしい!」と、
願う人も、少なくないと思う。

そのために、
お墓参りをし、
さまざまな宗教、信仰によって、
亡くなった人たちを、とむらったりする。

けれど、それらが、すべて正しいわけでは、ない!
間違った信仰、間違った宗教は、
亡くなっていった生命を、
逆に、地獄(じごく)に落としてしまう結果になるからです。
そこに、大きな落とし穴があり、
ほとんどの人が、
宗教の正邪(せいじゃ)に対する認識に、
欠如(けつじょ)している。

たとえば、葬式仏教・・・
葬式(そうしき)に呼んでくださいと、
言わんばかりですが、
この葬式仏教は、はっきり言って、
完全に間違った、デタラメな宗教です。
いくら高いお金を払(はら)って、
お経(きょう)を読んでもらったところで、
亡くなった人も、自分たちも、
地獄に落とし、
不幸に引きずり込(こ)む結果にしかなりません。

神社信仰にしても、同じです。
デタラメの間違った宗教ですから、
どんなに、真心を込(こ)めて、
祈ってみたことろで、
自分も亡くなった人も、不幸にし、
実際、自分の人生に、
さまざまな形(かたち)で、
不幸という結果が、出てきてしまいます。

ひどいことを言うと、言うかもしれませんが、
それは、本当のことであり、
本当のことを言わないほうが、
もっと、ひどいと思います。



最初のテーマに戻(もど)りますが、
それでは、
亡くなった人たち、悲しい死、
苦しい死を、迎えてしまった生命を、
たとえば、
自殺してしまった霊(生命)であったとしても、
その霊(生命)を、安らかに、
幸せに、歓喜(かんき)の生命に、変えることは、
できるのだろうか?

答えは、『できる!!』です・・・。
それが、創価学会が実践する、
『南無妙法蓮華経』の仏法(ぶっぽう)なんです。
『南無妙法蓮華経を、となえる』ことを原点とした、
創価学会の活動なんです。

その『南無妙法蓮華経』というのは、全宇宙を、
幸せに変換(へんかん)する、生命の法則(ほうそく)なんです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえると、
その生命が、
死んでいる生命(休んでいる生命)であろうと、
生きている生命(活動してる生命)であろうと、
生命そのものを、幸せに変換することが、できる!
それが、南無妙法蓮華経の音声(おんじょう)であり、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法です。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経の音律(おんりつ)は、
全宇宙に、とどくという。
たとえ、自分の家族や親族、友達が、
地獄の底で、あえいでいたとしても、
南無妙法蓮華経は、地獄の底までも、とどき、
その人を、亡(な)くなった霊(生命)を、
救(すく)い出し、歓喜の(幸せの)生命に、
変えることが、できる!
それが、『南無妙法蓮華経を、となえる』ことの、
無限の力(ちから)の、ひとつだという。

だから、
亡くなった人たち、悲しい死、
苦しい死を、迎えてしまった生命、
自殺してしまった霊(生命)、
絶望の内に、死んでいった生命であったとしても、
その霊(生命)を、
本当に救い、安らかに、
幸せに、成仏(じょうぶつ)させてあげたい!
と思ったら、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践し、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外に、方法はない!と、
断言しても、言い過(す)ぎではありません。

これ以上の追善回向(ついぜんえこう)は、
絶対に、ありえないからです!・・・・。

だから、前世とか来世とか、
永遠の生命の存在を、信じ、
死んでいった霊(生命)が、存在すると、
信じている人たち、
そうでなくても、亡くなった家族や友人を、心から思い、
その亡くなった霊(生命)に対して、
こころから、安らかであってほしい!幸せであってほしい!
と願う人たちにとっても、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ということは、
最高最大に、価値(かち)のある、
無上の、究極(きゅうきょく)の行動となります・・・・・!

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


jewelju1jewelju1 at 09:04│

2012年06月16日

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このまえ、
「チャレンジロード」というビデオを、
見ました。

まず、創価学会の人か、
創価学会の会合に参加した人でもないと、
見る機会がないビデオで、
最近のものではありませんが、
中高生向けに、つくられた、
創価学会員として、がんばっている人を、
紹介しているビデオでした。

そのビデオでは、
アラン・マックという、
香港の映画監督をやっている人の、
話しが、出ていた。
彼の母が、1972年に、創価学会に、入会し、
母が、変わってゆく姿を見て、
父と息子であるアラン・マックも、
創価学会に、入会したそうです。

アラン・マックが、高校生の時、
池田SGI(創価学会インターナショナル)会長が、
香港に、おとずれる機会があり、
その時、池田SGI会長は、
香港の創価学会員の高校生たちを、
激励(げきれい)したそうです。
その場に、アラン・マックも、いたそうです。

そして、池田SGI会長は、
こう言って、みんなを、励(はげ)ましたそうです。

「才能には、大差(たいさ)は、ない!
 頭が悪いとか良いとか、
 そんなことは、
 ほんのこれっぽっちの差でしかない!
 粘(ねば)りです!
 粘り抜(ぬ)いた人が、勝利者です!

 自らの決めた道で、断固(だんこ)として、
 一番を、めざそう!」

そして、アラン・マックさんは、
池田先生の励ましの言葉を、
決して、忘れることは、なかったそうです。

高校を卒業した彼は、
自分が、何をやりたいかも、決まらず、
イギリスの建築会社に、就職したそうです。
けれど、技術が身に付くわけでもなく、
将来に、不安を感じた。

あるとき、スペインの映画を見たことを、
きっかけに、
香港の映画学校に、入り、
学んでいきます。

一度は、監督として、作品をつくったものの、
当時の不況(ふきょう)のなか、
仕事もなくなり、苦しい、
下積みの生活を、重(かさ)ねていきます。

けれど、苦しい中でも、
アラン・マックは、
高校の時、池田先生に言われた言葉、
「才能には、大差は、ない!
 頭が悪いとか良いとか、
 そんなことは、
 ほんのこれっぽっちの差でしかない!
 粘(ねば)りです!
 粘り抜いた人が、勝利者です!」

という言葉が、離(はな)れることは、
なかったそうです。

そして、みずから、シナリオを書き、
監督の一人として、メガフォンを、とった、
「無限道・インファナル・アフェア」という映画が、
大ヒットし、
アジア映画の記録を、塗り替(ぬりか)えました。
そして、パート2、パート3も、
つくられ、
2003年には、
香港映画の最高の栄誉(えいよ)である、
香港フィルムアワードで、
最優秀監督賞と、最優秀脚本賞を、
最年少で、獲得(かっとく)しました。

そして、その喜びを、
すぐに、池田SGI会長に、
報告(ほうこく)したそうです。

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・

言うまでもなく、
池田先生の、励ましと、言葉が、
彼にとって、
大きな大きな支(ささ)えとなり、
希望になっていたと思います。

アラン・マックは、
今でも、高校時代、
池田先生に、言われた言葉を、
暗記しています。

それは、単(たん)なる励ましでも、
言葉でも、なく、
人間が、人間として、
最高の尊敬と、最高の希望と、
最高の愛情を込(こ)めた、
生命と生命の対話であり、
池田先生の、青年を思う、
強烈(きょうれつ)な情熱であったと、思われます。

でなければ、
若い子供たちに、
これだけ、強烈に、
池田先生と、この励ましの言葉が、
生涯(しょうがい)にわたって、残ることは、
ありえないからです。

また、それが、
池田先生という人間であり、
池田先生の生きざまなんだと、思います。

それは、
池田先生に会った、
あるいは、池田先生に励まされた、
創価学会の内外を問わない、
何十万、何百万、何千万という人々に、
希望を与え、蘇生(そせい)させ、
生涯にわたる、大きな大きな支えとなり、
希望となり、人々に、
勝利と幸せを、もたらしています。


それが、池田先生という存在なんだと思う。
だから、創価学会は、
世界192ヶ国の人々に広がり、
共感(きょうかん)の和を、広げ続けている・・・・!

・・・・・・・・・・・・・こころの向こうに、あるもの・・・・・・・・・・・・・


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