戦国武将「肖像・家紋」大辞典

ここでは、戦国武将の肖像、家紋、花押などを紹介しています。 肖像画は、なるべく掛け軸全体が写ったものをアップしています。

武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika

jpg
kanamori-syozou-1
「金森長近画像」
(岐阜県高山市素玄寺蔵) 

生:大永4年(1524)
没:慶長13年(1608)8月12日   享年:85歳 

金森 五郎八 
       可近
       
長近
   正四位下 兵部卿法印
入道:素玄

★織田家与力部将(北陸方面軍→飛騨国高山城主)
★豊臣家部将(飛騨国高山城主)
★徳川家部将(飛騨国高山城主)

kanamori-k1
家紋(表紋):裏梅鉢
kanamori-k2
副紋:桔梗花
花押 

kanamori-gunki-1
1、馬印:金の馬簾「賤ヶ岳合戦図屏風」
2、指物:総白の吹貫「長篠合戦図屏風」
3、軍旗:総白に白の招き「名将言行録」



大永四年(1524)、大畑七右衛門定近の子として美濃国に生まれる。幼名は五郎八。初期の実名は「可近」、信長から偏諱〈へんき〉を与えられ、「長近」と名乗る。
永禄二年(1559)二月に信長が上洛した時のこと、美濃の斎藤義龍から派遣された刺客が追って京都に入り、信長の命を狙っていた。清洲の丹羽兵蔵という者の才覚で、刺客の宿も判明、長近が信長の使者としてそこへ乗り込み、「お前たちが上洛したことはわかっている。早く挨拶に来い」との信長の言葉を伝えたという。この時、長近が使者に選ばれたのは、美濃国出身で、刺客の中に顔見知りがいたからだろう。この逸話は、彼がかつて斎藤氏に仕えていたこと、また、早めに信長に従ったことを暗示している。
永禄年間、美濃の経略に活躍したというものの、身分は馬廻、小部隊の指揮官にすぎない。ただ、馬廻の中でも赤母衣衆の栄誉を担っている。
天正元年(1573)、槇島城攻め、越前攻め、小谷城攻め、若江城攻めに従軍、翌年の長島攻めにも参加した。
天正三年(1575)五月の「長篠の戦」の時は、家康の将・酒井忠次に添えられて、鳶巣山〈とびのすやま〉攻撃を行い、戦功を挙げた。
八月の越前一向一揆討伐の時は、別動隊として美濃方面より越前へ侵攻し大野郡を平定した。戦後の国割りで
長近は大野郡の三分の二、三万石を与えられ大野城に、残る三分の一は原長頼が勝山城を居城とする。その後は「越前衆」の一員として、軍事的には柴田勝家に従属、主として北陸の平定戦に活躍する。
kanamori-chizu1
「越前(福井県)地図」
天正九年(1581)二月二十八日に行われた馬揃えの時も、「
越前衆」として勝家の下で行進した。しかし、その直後に、越中の小井手城が上杉軍に攻囲される、との報が入り、勝家に従って急遽帰国した。
天正十年(1582)六月二日の「本能寺の変」の時、長近は勝家らと離れて自分の領地越前大野にいたらしい。六月十四日付け、美濃の佐藤秀方宛ての家康書状によれば、長近は、善後策について秀方と相談していた様子である。六月十六日に京都より飛脚を受けているから、彼は畿内方面の情報を得ながら、領地に留まっていたようである。
この後台頭してきた羽柴秀吉が勝家と衝突した時、長近は、これまでの縁から勝家方につく。「賤ヶ岳の戦」では、佐久間盛政に属して、秀吉方と戦った。敗戦後、剃髪、蟄居したが、ほどなく赦される。
天正十一年(1583)六月十六日、堺の津田宗及の茶会に招かれ、また翌年の三月二日には秀吉とともに同茶会に名を連ねている。
天正十三年(1585)八月、秀吉は、ずっと反抗してきた佐々成政攻めの軍を出す。長近はこれに参加し、越中へ出張、成政降伏後、単独の軍で飛騨を攻めた。
天正十四年(1586)剃髪し通称、金森法印と称された。飛騨は、その大部分が三木目綱〈よりつな〉の支配下に置かれていたが、長近の攻撃に耐えかねて降伏する。長近は飛騨一国三万八千七百石余を領し、高山に居城を築いた。翌年九月頃に入部する。
kanamori-chizu2
「飛騨(岐阜県)地図」
慶長五年(1600)の「関ヶ原の役」では東軍に属して軍功があり、美濃・河内国で二万三千石の加増を徳川家康からうけ六万一千石を得る。長近は芸能に長じ、ことに茶の湯と蹴鞠を好み、金森肩衝〈かたつき〉などの名物茶器を所持した。茶の湯は千利休に学び古田織部とも親交があった。
慶長十三年(1608)八月十二日、伏見で没し、大徳寺金竜院に葬られた。八十五歳の長寿だった。


「金森長近 年表」
年齢 
大永4(1524)大畑七右衛門定近の子として美濃で誕生 幼名:五郎八
  5(1525)
  6(1526)
  7(1527)
享禄元(1528)
  2(1529)
  3(1530)
  4(1531)
天文元(1532)
10  2(1533)
11  3(1534)
12  4(1535)
13  5(1536)
14  6(1537)はじめ、可近と名乗る
15  (1538)
16  (1539)
17  (1540)
18  10(1541)
19  11(1542)
20  12(1543)
21  13(1544)
22  14(1545)
23  15(1546)
24  16(1547)
25  17(1548)
26  18(1549)
27  19(1550)
28  20(1551)
29  21(1552)
30  22(1553)
31  23(1554)
32弘治元(1555)
33  2(1556)
34  3(1557)
35永禄元(1558)
36  2(1559)織田信長に仕える。赤母衣衆、馬廻 長近に改名
37  3(1560)桶狭間に参戦
38  4(1561)
39  5(1562)
40  6(1563)
41  7(1564)
42  8(1565)9月28日、美濃堂洞城攻略に参戦
43  9(1566)
44  10(1576)
45  11(1568)
46  12(1569)
47元亀元(1570)
48  2(1571)
49  3(1572)
50天正元(1573)
51  (1574)
52  (1575)8月、越前大野郡、三分の二を与えられる 越前(大野城)3万石
53  (1576)
54  (1577)
55  (1578)
56  (1579)
57  (1580)
58  (1581)2月28日、柴田勝家指揮下
59  10(1582)6月2日、本能寺の変
60  11(1583)柴田軍・佐久間盛政に属し、賤ヶ岳の戦に参戦
61  12(1584)蟄居 3月2日、羽柴秀吉に麾下
62  13(1585)8月、羽柴秀吉の佐々成政攻めに参戦
63  14(1586)9月、飛騨一国 剃髪、兵部卿法印、入道号素玄
         飛騨(高山城)3万8700石
64  15(1587)
65  16(1588)
66  17(1589)
67  18(1590)
68  19(1591)
69文禄元(1592)
70  2(1593)
71  3(1594)
72  4(1595)
73慶長元(1596)
74  2(1597)
75  3(1598)
76  (1599)
77  (1600)関ヶ原の戦に東軍で参戦
78  (1601)美濃・河内に加増2万3000石 飛騨(高山城)6万1700石
79  (1602)
80  (1603)
81  (1604)
82  10(1605)
83  11(1606)
84  12(1607)
85
慶長13(1608)8月12日、京都伏見で死去(病死)

「豊臣家臣団組織図」

toyotomi-kasindan

武将「前田 利家2」MAEDA Toshiie

maeda-tosiie-c1
maeda-tosiie-syouzo-2
「前田利家画像」紙本着色(縦49.4 横32.5cm)
桃山時代 十七世紀
(石川県七尾市長齢寺蔵 石川県立美術館提供)

maeda-tosiie-syouzo-3
「前田利家画像」紙本着色(縦60.3 横32.3cm)
明治二十四年(1891)五月 篠原探谷模写
(前田育徳会蔵 石川県金沢市成巽閣寄託品)


織田信長に仕えていた前田利家は、永禄二年(1559)、信長の同朋衆である拾阿弥を斬り、出仕禁止となった。翌三年、信長と今川義元が戦った桶狭間の戦に密かに参戦し、首級をあげた凱旋図です。
「槍の又左」の異名をもつ利家の勇士を表し、藩政期、藩士の士気を高めることから数多く描かれました。
「前田利家桶狭間凱旋図」
okehazama-gaisenzu-1
絹本着色(縦100.0 横36.0cm)
江戸時代 十九世紀 岸良筆(石川県立歴史博物館蔵)

okehazama-gaisenzu-5
紙本着色(縦127.0 横62.7cm)
江戸時代 嘉永元年(1848)?(金沢市尾山神社蔵)
 
okehazama-gaisenzu-8
紙本着色(縦103.6 横58.0cm)
江戸時代 元治元年(1864)書(金沢市立玉川図書館蔵)

okehazama-gaisenzu-4
紙本着色(縦128.3 横59.6cm)
江戸時代 慶応四年(1868)高橋式部筆?(金沢市尾山神社蔵)

okehazama-gaisenzu-2
紙本着色(縦113.2 横57.8cm)
江戸時代 十九世紀 森矢十郎筆?(金沢市尾山神社蔵)

okehazama-gaisenzu-3
紙本着色(縦105.2 横53.5cm)
江戸時代 十九世紀(金沢市尾山神社蔵)

okehazama-gaisenzu-6
絹本着色(縦104.5 横46.5cm)
江戸時代 十九世紀(金沢市天徳院蔵)

okehazama-gaisenzu-7
紙本着色(縦123.3 横61.1cm)
江戸時代 十九世紀(藩老本多蔵品館蔵)

okehazama-gaisenzu-12
紙本着色(縦117.0 横46.4cm)
江戸時代 十九世紀 木村立嶽筆(富山市富山県立図書館蔵)

okehazama-gaisenzu-13
紙本着色(縦128.0 横59.0cm)
江戸時代 十九世紀 木村立嶽筆(金沢市宝円寺蔵)

okehazama-gaisenzu-14
紙本着色(縦109.6 横58.5cm)
江戸時代 十九世紀(金沢市宝円寺蔵)

okehazama-gaisenzu-15
絹本着色(縦117.9 横51.7cm)
江戸時代 十九世紀(個人蔵)

okehazama-gaisenzu-16
紙本着色(縦112.5 横60.1cm)
江戸時代 十九世紀 田中青虹斎(端)筆(七尾市長齢寺蔵)

okehazama-gaisenzu-10
紙本着色(縦106.3 横55.9cm)
江戸時代(金沢市立玉川図書館蔵)

okehazama-gaisenzu-9
紙本着色(縦105.2 横48.2cm)
明治六年(1873)佐々木泉玄筆(個人蔵)

武将「佐々 成政」SASSA Narimasa

sassa-narimasa-c1
sassa-narimasa-syouzo-11
「佐々成政画像」
(兵庫県尼崎市法園寺蔵)

sassa-narimasa-syouzo-2
「佐々成政画像」紙本着色(縦101.0 横50.0cm)法園寺所蔵模写
昭和時代 二十世紀 古川雪嶺筆(富山市郷土博物館蔵)


生:天文5年(1536)1月15日?
没:天正16年(1588)閏5月14日   享年:53歳 

佐々 
   内蔵助 
成政
   従五位上 陸奥守
   従四位下 侍従

★織田家与力部将(北陸方面軍→越中国富山城主)
★豊臣家部将(肥後国隈本城主)


sassa-narimasa-k1
家紋(表紋):角立て七つ割り四つ目結
「角立て」とは、通常の四つ目結を45度傾けたもので、「七つ割り」は目結の枠部分・穴・間隔が等しく、一辺を七分割した形状のものを指す
sassa-kamon2
副紋:棕櫚〈しゅろ〉
花押
替え紋は「棕櫚」という説があるがはっきりしない

sassa-narimasa-gunki-1
1、馬印:金の三階笠「信長記」 2、馬印:白の三階笠「長篠合戦図屏風」
3、軍旗:白地に角立て四つ目結

天文五年(1536)一月十五日、尾張春日井郡比良村生まれ。土豪である盛政の三男として生まれる。天文八年、出生の説もある。
はじめ岩倉の守護代・織田信安に属したり、信長に従ったり、主君は一定していなかったらしい。
弘治二年(1556)、「稲生の戦」では信長に味方する。ここで兄・孫介が戦死する。
永禄三年(1560)五月、「桶狭間の戦」に従軍、この戦いで長兄・隼人正〈はやとのしょう〉が討ち死にし、成政は佐々一族の統率者になった。
永禄年間に選抜された黒母衣〈ほろ〉衆の一人となりその後、筆頭となった。比良城城主といっても、信長の軍制上では、馬廻の身分だった。織田信長の母衣衆には黒と赤があり、戦場において先手と本陣との伝達の任にあたる連絡将校であった。
信長の上洛以後も、馬廻として主将の本陣を固める。信長の出陣する戦いにはすべて従軍し、黒母衣筆頭として活躍。
元亀元年(1570)六月、北近江に出陣し、浅井の小谷城を包囲していたが戦況が悪くなり退却することになった。この時、簗田広正・中条家忠の三人で殿軍を務めた。彼らは、馬廻ではあっても、三人合わせて有力な部将に匹敵する兵を指揮していたのだ。
天正三年(1575)八月、越前一向一揆を討伐した後、越前の地が諸将に分け与えられた。越前十二郡四十九万石の内、八郡を柴田勝家に与えられ、府中周辺の二郡(今南西郡・南仲条郡、及び丹生北郡の下部)十万石は成政・前田利家・不破光治の三人が三等分して治めた。この三人は「府中三人衆」と呼ばれた。残る大野郡の三分の二は金森長近、残る三分の一は原長頼、敦賀郡は武藤舜秀〈しゅんしゅう〉に与えられた。成政は府中では小丸城を居城とした。
sassa-echizen-1
「越前(福井県)地図
府中三人衆は、勝家が軍事行動を起こす場合、彼の指揮下に入った。勝家を司令官とする北陸方面軍である。
天正四年(1576)より、北陸方面軍は、加賀の一向一揆や、西へ向かう上杉謙信と戦うことになる。
謙信の死後、北陸方面軍は能登・越中へと進出した。天正九年(1581)、未征服ながらも、越中国四郡は成政に、能登国は前田利家に与えられる。成政は富山城を居城とする。神保・土肥・菊池ら越中の豪族たちがその支配のもとに従った。
sassa-ecchu-1
「越中(富山県)地図
天正十年(1582)六月二日の「本能寺の変」を知ったのは、勝家らとともに東越中の松倉城を囲んでいる時だった。北陸方面軍はすぐに退陣、成政は富山城に帰った。
その後、羽柴秀吉が信長の仇を討つと、天下人への道を歩み始めた。勝家はこれを阻止しようとしたが、「賤ヶ岳の戦」で敗れて滅びる。この間、成政は、上杉の押さえとして、越中を動けなかったのである。成政は、ずっと勝家の指揮下にいた武将である。だが、すぐに秀吉に謁見し、上杉の取次ぎを任される。
天正十二年(1584)、秀吉は織田信雄・徳川家康と戦闘を開いた。この八月、成政は突然秀吉方の前田利家の砦を急襲し、反秀吉を明らかにした。この後、越中・加賀のあちこちで、佐々と前田軍との戦が繰り返された。
十二月、成政は誰も考えられなかった行動を起こす。わずかな共を連れて富山を出発し、深雪の佐良峠を越して信濃へ出て、浜松の家康を尋ねたのだ。「真冬のアルプス越え」である。
成政の徹底抗戦の覚悟も、無駄となった。信雄は秀吉と和睦し、家康はそれに従った。成政は空しく苦労を重ね越中へ戻った。
天正十三年(1585)八月、ついに成政は秀吉に降伏する。領地は、越中の新川一郡に削減される。
sassa-ecchu-2
「越中(富山県)地図
そして二年後、天正十五年(1587)、平定成った九州の肥後一国に封じられる。しかし、成政はじきに国衆と衝突し、所領を没収されるのだった。
sassa-higo-1
「肥後(熊本県)地図
天正十六年(1588)閏五月十四日に摂津尼ヶ崎で切腹を命じられる。享年五十三歳、または五十歳だったとする説もある。

強い国衆がいて治めにくい肥後に成政を封じたこと自体、秀吉の陰謀だったのかもしれない。

sassa-s11
「役者絵に描かれた佐々成政」
(富山市立郷土博物館蔵)
成政は秀吉に最後まで抵抗したが、天正十三年、ついに白旗をあげた。お咎めなしで、天正十五年、肥後一国を与えられ、勇躍九州に下った。だが「くれぐれも慎重にやれよ」という秀吉の忠告に従わず、強引に検地を進めたため、国侍が一揆を起こし収拾がつかなくなった。一度は許した秀吉だったが、さすがに堪忍袋の緒が切れ、成政は切腹を命じられることとなったのである。 

「佐々成政 年表」
年齢 
天文5(1537)1月15日、尾張春日井郡比良村で、盛政の三男として誕生する?
  6(1537)
  (1538)
  (1539)天文8年、出生の説もある
  (1540)
  10(1541)
  11(1542)
  12(1543)
  13(1544)
10  14(1545)内蔵助成政
11  15(1546)
12  16(1547)
13  17(1548)
14  18(1549)
15  19(1550)
16  20(1551)
17  21(1552)織田信長に仕える
18  22(1553)
19  23(1554)
20弘治元(1555)
21  2(1556)稲生の戦で、兄・孫介が戦死
22  3(1557)
23永禄元(1558)
24  2(1559)馬廻・黒母衣衆の筆頭となる
25  3(1560)5月19日、長兄・隼人正と桶狭間に参戦し兄が戦死、家督を相続
         尾張(比良城)
26  4(1561)5月23日、美濃十四条、軽海の戦に参戦
27  5(1562)
28  6(1563)
29  7(1564)
30  8(1565)
31  9(1566)
32  10(1576)
33  11(1568)
34  12(1569)
35元亀元(1570)6月、北近江に出陣し、浅井の小谷城から退却する時、殿を務める
36  2(1571)
37  3(1572)
38天正元(1573)
39  (1574)
40  (1575)5月21日、長篠の戦で鉄砲奉行として指揮を執る
         9月、府中三人衆として越前府中の周辺2郡を与えらる
         
越前(小丸城)3万3300石
41  (1576)
42  (1577)
43  (1578)
44  (1579)
45  (1580)
46  (1581)2月、越中一国を任される 越中(富山城)40万石
47  10(1582)6月2日「本能寺の変」
         勝家らと越中松倉城を包囲中、信長の訃報を知る。富山城に帰還
48  11(1583)柴田勝家と羽柴秀吉の「賤ヶ岳の戦」で勝家破れて滅びる
49  12(1584)8月、秀吉方の前田利家の砦を急襲、秀吉に反旗
         9月9日、前田家臣・奥村永福の守る末森城を攻める
         12月、富山を出発、真冬の佐良峠を越して浜松の徳川家康を尋ねる
50  13(1585)8月、羽柴秀吉に降伏、越中国新川一郡に削減
         
越中(富山城)22万石
51  14(1586)1月19日、従四位下、侍従・陸奥守に叙任される
52  15(1587)九州征伐後、肥後一国の領主となる 肥後(隈本城)34万石
53  16(1588)肥後領主層の反抗を受け、鎮圧できなかった
         閏5月14日、責任を執らされ、摂津国尼ヶ崎で死去(切腹)

武将「前田 利家」MAEDA Toshiie

maeda-tosiie-c1
maeda-tosiie-syouzo-1
「利家初陣の図」
明治四十二年(1909)加賀北陸新聞社付録武者絵

tosiie-okehazama-22
「高徳公桶狭間奏馘図」絹本着色(縦118.5 横55.5cm)
江戸時代 嘉永元年(1848) 森充西園筆(前田育徳会蔵

tosiie-okehazama-11
「高徳公桶狭間奏馘図」拡大 

tosiie-okehazama-4
「高徳公桶狭間奏馘図」絹本着色
(石川県金沢市尾山神社蔵)

tosiie-okehazama-3
「利家公尊像 桶狭間凱旋絹本着色(縦128.3 横70.6cm)
明治時代 吉村幸太郎筆(前田育徳会蔵)
tosiie-okehazama-41 
「利家公尊像 桶狭間凱旋拡大


生:天文6年(1537)
没:慶長4年(1599)閏3月3日   享年:63歳 

前田 犬千代
   孫四郎 
利家
   又左衛門

(以下、豊臣秀吉家臣で紹介)


★織田家与力部将(北陸方面軍→能登国小丸山城主) 

maeda-tosiie-k1
家紋(表紋):梅鉢
前田家の加賀梅鉢が下の形に確立するのは後のことです
maeda-tosiie-k2
副紋:星梅鉢/剣梅鉢(加賀梅鉢)
花押
梅鉢は菅原道真を祀った菅原神社の紋で、前田氏は菅原氏の後裔だという。利家時代の初期は星梅鉢だったらしい。花押1は、初期の天正三年のもので、2は最晩年の慶長三年のものです。

maeda-gunki-1
1、馬印:鳥毛の丸に又の字「総見公武鑑」 2、馬印:将棋駒「長篠合戦図屏風」

天文六年(1537)、前田利春(利昌)の四男として生まれる。幼名は犬千代という。
利家の生まれた年には異説もある。天正十八年(1590)に石川県羽咋市の気多大社に出された文書に前田利家を五十四才、息子の利長を二十九才とした確実な記述があることから逆算して、利家が生まれたのは天文六年であった可能性が高いという。
天文二十年(1551)正月、利家は若き那古野城主・織田信長に仕えた。ときに十五歳。初任給は五十貫。肩書きは信長の近習であった。出仕した年の八月に元服し初陣を果たす。尾張の三奉行の一人、坂井大膳と海津で戦ったが、利家はこれが初陣だった。直後、利家は信長の伯父・津田孫三郎信家を烏帽子〈えぼし〉親として元服し、「孫四郎利家」と名乗った。
弘治二年(1556)に信長の弟・信行との戦い「稲生の戦」ではめざましい戦功を立て、百貫の加増を受け、のちに家臣としてずっと苦楽を共にすることになる村井長頼をはじめて召し抱えた。利家は信長の親衛隊として、常に信長の身近なところで活躍した。そして近習筆頭となっいた。
永禄元年(1558)、まつと結婚。利家二十二歳、まつは十二歳だった。またこのころ、又左衛門利家と名乗る。
永禄二年(1559)、殿中の雑事を担当する同朋衆の拾阿弥〈じゅうあみ〉を信長の目前で殺害し、出仕停止の厳罰を受けてしまう。拾阿弥は信長の親戚筋にあたるという。
永禄三年(1560)の「桶狭間の戦」には利家は密かに参加して手柄を上げるも許されず、失意の中で父・利春が死去。前田家の家督も兄の利久が継いだ。
永禄四年(1561)、美濃・斎藤氏との戦い「森部の戦」でまたもや大きな戦功を上げ、ようやく信長に許された。再仕官した利家に信長は三百貫を加増する。ふたたび信長の親衛隊・馬廻衆として仕えたのだ。
永禄五年(1562)、信長の赤母衣〈あかほろ〉衆の一員に加えられる。後に赤母衣衆筆頭となる。母衣衆とは「小身衆」に属し、一部隊の指揮をする部将よりは位置は下がるが、織田軍の本陣に直属する将校であり、戦場において先手と本陣との間の伝達の任にあたる連絡将校であった。織田家には黒母衣と赤母衣があり、ライバル佐々成政は黒母衣衆の筆頭である。黒母衣と赤母衣の関係については、後年伏見の屋敷において諸将との会合で、黒母衣衆が上位にあったのではないかとの話しが出た。これに対し利家は「信長様が二十人の名を書き付け、これを赤・黒にくじで別けたのである」と言い、赤・黒に甲乙の差は無い事を述べている。
永禄十一年(1568)、近江箕作城の六角承禎攻めに一番槍を果し、翌十二年には伊賀の大河内城に北畠具教を攻め、手柄を立てる。この年、信長の命により、兄・利久に代わって荒子城主となり、二千貫を相続することになる。
天正三年(1575)、信長は徳川家康と連合して、三河へ進出してきた武田勝頼を討った。信長は鉄砲隊を中心にして戦った。その鉄砲隊は三隊に分れ、利家と佐々成政、福富平左衛門が各将となって多大な戦果を収めた。すなわち、「長篠合戦」である。 
朝倉氏滅亡後の越前は、いわゆる「門徒もち」の国になった。すでに加賀は一向一揆の国だった。越前もそうなろうとしていた。信長は三万余の軍勢を率いて越前の一向一揆を討伐した。さらに南加賀まで進入し、領治下においた。そして越前の国割りをする。柴田勝家を北国方面軍の司令官とし八郡を与えて、北ノ庄城主とした。さらに、府中十万石を、佐々成政、利家、および不破光治の三名をもって、領主とした。各三万三千石。後に「府中三人衆」と呼ばれたものだが、立場は柴田の幕僚である。利家は府中城にあって、治政を自らの手で行った。
maeda-echizen-c1
「越前(福井県)地図
一揆衆の反乱もあったが、緊張させられたのは越後の上杉謙信の南下だった。信長は柴田の北国軍に滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉ら織田家の代表的部将を加えて阻止しようとした。ところが謙信は、能登七尾城の畠山氏を攻撃した。
天正五年(1577)、謙信は加賀へ侵入してきた。利家ら織田軍は手取川をはさんで陣を構えた。おりからの大雨で手取川の水かさがあふれ、織田軍は右往左往しているところを、さんざんに討たれた。だが、謙信は追撃せずに引揚げた。おかげで織田軍も無傷のまま引揚げることができた。
翌六年(1578)、謙信は改めて上洛の進撃を企んだが、その直前の三月、謙信は急病死したのだった。
天正九年(1581)、北国軍はほぼ成立した。司令官・柴田は越前北ノ庄を居城とし、加賀尾山(金沢)城に佐久間盛政、能登小丸山城(新七尾)に前田利家、越中富山城に佐々成政が配された。能登一国(四郡)へ入部した利家は、畠山氏の旧七尾城ではなく、所口の小丸山に築城して入った。新七尾城の小丸山は能登一ノ宮の気多神社の本宮神地だったところで、市中から海上が一望できた。さらに嫡子の利長は利家の旧居城・越前府中を貰って居城した。前年には信長の五女・永を嫁にしている。主家とは姻戚になったわけである。
maeda-noto-11
「能登(石川県)地図
天正十年(1582)三月、信長は武田勝頼を攻めた。勝頼は信長が戦死したと噂を流し、越中の一揆を煽動したので、唐人某らが富山城を奪った。北国軍は直ちに出動し、富山城を奪回する。これが七尾城主になってはじめての戦だった。
ついで五月、北国軍は上杉勢の越中進出の拠点・魚津城を攻めかかった。城将・中条景春らは越後へ急報したので、上杉景勝が援軍を率いて天神山まで出てきた。おりから信濃口で織田方の森長可の軍勢が北上して越後口へ迫ったので、景勝は慌てて軍勢を引揚げた。北国軍はその機を逸せず攻撃したので、魚津城はおちた。これが六月三日のことだった。
北国軍が酒樽を抜いて祝っているところへ、上方から急使が馳せてきて伝えた。「上様、本能寺にてご生害」いわゆる本能寺の変である。
しかし、北国軍は直ちに動くことは出来ず、ひとまず自国に引揚げるしかなかったのだ。 

maeda-kabuto-1
「前田利家所用/烏帽子形兜」
(金沢市尾山神社蔵)

「前田利家 年表」
年齢 
天文6(1537)尾張国荒子で、利春の四男として誕生 幼名:犬千代
  (1538)天文7年、12月25日誕生説もあり
  (1539)
  (1540)
  10(1541)
  11(1542)
  12(1543)
  13(1544)
  14(1545)
10  15(1546)
11  16(1547)7月9日、利家の正室・松が誕生
12  17(1548)
13  18(1549)
14  19(1550)松、利家に来嫁。松はそのとき4歳
15  20(1551)正月、織田信長に出仕。8月、尾張海津の戦に初陣
         元服、孫四郎利家 (所領50貫)125石
16  21(1552)
17  22(1553)
18  23(1554)
19弘治元(1555)
20  2(1556)8月、又左衛門。8月24日、尾張稲生の戦で戦功100貫加増
         村井又兵衛長頼を初めて家来とする
(所領150貫)375石
21  3(1557)
22永禄元(1558)7月12日、尾張浮野の戦で戦功。松と祝儀を挙げる
         9月、木下藤吉郎が信長に出仕
23  2(1559)6月7日、長女・幸〈こう〉(母:松)誕生
         6月、信長の同朋衆・拾阿弥を殺害し出仕禁止となる
24  3(1560)5月19日、桶狭間の戦に私的に参戦したが、帰参が許されず
         7月13日、父・利春が没し、兄・利久が家督を継ぐ、所領2000貫
25  4(1561)5月13日、美濃森部の戦に私的に参戦し、帰参が許され300貫加増
        (所領450貫)1125石
26  5(1562)1月12日、長男・利長(母:松)誕生
         5月3日、美濃軽部の戦で戦功

27  6(1563)次女・蕭〈しゅう〉(母:松)誕生
28  7(1564)8月5日、美濃稲葉山城の斎藤龍興攻めに従軍
29  8(1565)
30  9(1566)
31  10(1576)信長が美濃稲葉山を岐阜と改称し移る。馬廻の赤母衣衆筆頭
32  11(1568)9月12日、近江箕作城攻めに従軍、負傷する
33  12(1569)8月下旬、伊勢大河内城攻めに従軍
         10月、兄・利久に代わり前田家の家督相続、所領2000貫加増

         尾張荒子(所領2450貫)6125石
34元亀元(1570)4月25日、越前手筒山城攻めに従軍
         6月28日、近江姉川の戦で戦功
         9月14日、石山本願寺攻めに従軍
         9月、長浜城主になったともいわれる 
近江(長浜城)1万石?
35  2(1571)9月3日、近江金ヶ森の戦に従軍
         家臣・村井又兵衛が功をあげ信長より南蛮帽子を拝領する

36  3(1572)7月21日、近江虎御前山の浅井長政攻めに従軍
         三方原の戦で弟・佐脇良之が戦死。三女・麻阿(母:松)誕生

37天正元(1573)4月14日、朝倉義景の越前刀根山を攻撃
         次いで一乗谷攻め従軍、朝倉氏滅亡
         28日、浅井長政の小谷城再攻撃に従軍、浅井氏滅亡
         11月24日、母・長齢院が没す

38  (1574)7月、伊勢長島の一向一揆攻め参加。四女・豪(母:松)誕生
39  (1575)5月21日、三河長篠の戦で鉄砲隊を指揮、武田勝頼軍を破る
         8月、越前一向一揆を撃ち、加賀へ入る
         9月23日、越前府中周辺の今立・南条の2郡10万石を3人に下賜
         府中三人衆(不和光治・佐々成政・利家)
越前(府中城)3万3千石
40  (1576)
41  (1577)9月13日、加賀手取川の戦に参加
         五女・与免〈よめ〉(母:松)誕生

42  (1578)10月、摂津有岡城攻めに参加
         次男・利政(母:松)誕生。六女・菊(母:岩・隆興院)誕生

43  (1579)
44  (1580)3月、甲斐武田氏平定に参加。秀吉の鳥取城攻めに従軍
         七女・千代(母:松)誕生

45  (1581)2月28日、信長に従い禁裏の馬揃いに参加。
         3月、能登平定戦に従軍
         8月17日、能登一国を与えられる 
能登(七尾城)26万3千石
46  10(1582)6月2日、越中魚津城を攻略 「本能寺の変」
         4日、魚津城で信長の訃報を聞き、翌日、七尾小丸山城に帰参


(以降は、豊臣秀吉家臣で紹介)

ギャラリー
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 武将「金森 長近」KANAMORI Nagachika
  • 「豊臣家臣団組織図」
  • 武将「前田 利家2」MAEDA Toshiie
  • ライブドアブログ