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「初陣の図」
江戸時代 十七世紀 寛永十六年(1639)十月上旬 林羅山賛(拓植修氏蔵

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「織田信長甲冑像」
(滋賀県安土町摠見寺蔵)
 
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「織田信長画像」紙本着色(縦70.0 横31.2cm)
桃山時代 天正十一年(1583)六月二日 狩野元秀筆
(愛知県豊田市長興寺蔵 豊田市郷土史料館提供)

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「織田信長画像」紙本着色(縦115.3 横44.4cm)
江戸時代 狩野常信(1650〜1713)筆 元禄七年(1694)三月二日 天倫宗忽賛
(名古屋市總見寺蔵)

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「織田信長画像」絹本着色(縦73.3 横36.8cm)
桃山時代 十六世紀 天正十一年(1583)五月上旬 古渓宗陳賛
(神戸市立博物館蔵)

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「織田信長画像」複製
(名古屋市秀吉清正記念館蔵)


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「織田信長画像」絹本着色(縦98.8 横59.2cm)
江戸時代 十七世紀(京都市大雲院蔵)


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「織田信長画像」絹本着色(縦95.6 横53.4cm)
江戸時代 十七世紀(名古屋市總見寺蔵)


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「織田信長画像」
(滋賀県安土町摠見寺蔵)

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織田信長画像
(岐阜市崇源院蔵)

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織田信長画像
(滋賀県安土町浄厳院蔵

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「織田信長画像」
『本朝名将百図』より(長浜城歴史博物館蔵

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「錦絵 桶狭間出撃を前にした熱田神宮境内の信長」
(瀬木慎一氏蔵)

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「錦絵 桶狭間に今川軍を破り首実検する信長」
(瀬木慎一氏蔵)

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「錦絵 炎上する本能寺で自ら弓をとって戦う信長」
(瀬木慎一氏蔵) 

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生:天文3年(1534)5月12日
没:天正10年(1582)6月2日   享年:49歳


織田 吉法師
   三郎 信長
   従五位下 弾正少忠
   正四位下 弾正大弼
   従三位  参議
        権大納言・右近衛大将
   正三位  内大臣右近衛大将
   従二位  右大臣右近衛大将
   正二位
  贈従一位  太政大臣
  
一位
 
★尾張国主・織田家当主


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家紋(表紋):五つ木瓜〈もっこう〉(織田木瓜)
木瓜紋は越前朝倉氏のもので、織田家が越前の豪族だったころ、守護代の朝倉氏から貰ったとされる。朝倉家の三つ盛木瓜はもとは一つで、信長はそれを変形させ、外郭が一個多い五葉木瓜にした。これが織田木瓜の始まりです。織田木瓜は正確には「五窠輪〈ごかわ〉の唐花」といい、窠とは鳥が作った巣をいい、形が窠に似ていたからそう言われました。
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副紋:揚羽蝶(新説織田蝶)/揚羽蝶(織田蝶)/永楽通宝銭/無文字
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副紋:十六葉菊/五三桐/五七桐/二引両
新説織田蝶は「揚羽蝶紋鳥毛陣羽織」の紋から推測された揚羽蝶の紋です(KKベストセラーズ「歴史人3No.30号」より)。菊紋は天皇から、桐と引両は将軍足利義昭から拝領したもので、「無」の字は「天下に敵なし」というところから来ているそうです。信長の陣羽織に五七桐が使用されているためこの紋も貰ったと思われます。

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花押:1は天文十八〜十九年(1549〜50)使用のもので、武家の花押の模範となったいわゆる「足利様の花押」スタイル。2は最も有名なもので天文二十一〜二十二年使用、「信長」の二字を左横書きにして裏返した形です。3は永禄元年(1558)使用。4は永禄三〜七年使用。5は永禄八〜十一年使用で、「麟」の草書体。中国伝説の動物「麒麟」に基づく。6は永禄十二〜元亀二年(1569〜71)使用。7は元亀二〜天正二年(1571〜74)使用。8は天正八年使用。9は不明。

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1、馬印:金の傘「諸将旌旗図屏風」 2、馬印:南蛮笠「長篠合戦図屏風」
3、本陣旗:黄絹に永楽銭、はね題目のまねき「信長記」
4、軍旗:白地に永楽銭「諸将旌旗図屏風」 5、軍旗:黄地に永楽銭「御馬印」
6、本陣旗:白地に永楽銭、はね題目のまねき「長篠合戦図屏風」
7、
本陣旗:黄地に永楽銭、はね題目のまねき「長篠合戦図屏風」
8、織田家指物

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「揚羽蝶模様鳥毛陣羽織」
桃山時代 十六世紀(東京国立博物館蔵)
 
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緋羅紗地木瓜紋付桐模様陣羽織」伝信長より秀吉拝領
桃山時代 十六世紀(大阪城天守閣蔵)


天文三年(1534)五月十二日、尾張海東郡勝幡(しょばた)で誕生。織田信秀の嫡子。
天文十五年(1546)、元服。
同十七年(1548)、斎藤道三の娘・濃姫と結婚。
同二十年(1551)、父・信秀の死により家督を継ぐ。当時、信長は「うつけ者」の評判が高く、家臣や一族には離反するものが多かった。信長はこれらを各個撃破して、統一を進めた。
弘治元年(1555)、清洲城を奪い、ついで永禄二年(1559)、岩倉城を攻略してここに織田一族と尾張一国をほぼ統一、この過程で鉄砲と長槍で武装し、信長の手足となって動く強力な家臣団の編成が進んだ。
永禄三年(1560)、「桶狭間の戦い」で今川義元を破り、ついで松平元康(後の徳川家康)と同盟して三河方面の不安を除くと美濃経略を開始し、同十年(1567)、斎藤竜興を追放して美濃を征服、井ノ口を岐阜と改めてここに本拠を移した。同時に「天下布武」の印判使用をはじめ、天下統一をめざすことになった。 
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時あたかも足利義昭が助勢を求めてきたので、永禄十一年(1568)九月、義昭を擁して上洛し、たちまち畿内の中枢部を制圧し義昭を将軍とした。しかし義昭は間もなく反信長の行動をとりはじめ、諸大名や石山本願寺に反信長戦線の結成を呼びかけた。
こうした義昭の動きに対し、元亀元年(1570)、信長は義昭の実権を奪うとともに、「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍を破るなど、正体を現しはじめた反信長の勢力と忙しく対応したが、伊勢長島の一向一揆には敗れるなど、苦難が続いた。
元亀二年(1571)には浅井・朝倉軍に味方した延暦寺を焼討した。
同三年(1572)、最大の反信長勢力である武田信玄が西上を開始し、遠江国「三方ヶ原の戦い」で徳川・織田連合軍を破った。
天正元年(1573)には、足利義昭も挙兵。しかし信玄は病死し、この機をとらえて信長は義昭を追放し、室町幕府を滅亡させた。ついで同年、浅井・朝倉氏を滅ぼし、天正二年(1574)、長島一向一揆、同三年(1575)に越前一向一揆を討伐、同年、三河国「長篠の戦い」で武田勝頼を破った。
こうして当面の敵を撃破すると、天正四年(1576)、近江安土に築城を開始して岐阜から本拠を移し、岐阜城と尾張・美濃は嫡子・信忠に譲った。天下統一はここに新段階を迎えたが、石山本願寺が再挙し、毛利氏がこれを支援して反信長の立場を鮮明にした。
そこで信長は、本願寺を攻撃する一方で、天正五年(1577)、羽柴秀吉を播磨に、明智光秀を丹波に派遣して、本格的な中国経略に着手した。
松永久秀・別所長治・荒木村重の謀反などで中国経略はやや頓挫したが、天正八年(1560)、毛利氏と本願寺との分断に成功し本願寺はついに降伏した。
天正九年(1561)二月には、京都で盛大な馬揃(うまぞろえ)を挙行して信長軍団の威容を天下に示し、同十年(1562)、甲斐に出陣して武田氏を滅亡させた。ついで四国出兵を計画し、信長自身は秀吉の要請によって中国路へ出陣しようとした。
そして京都本能寺に宿したところ、六月二日未明、中国路に出陣するはずであった明智光秀の急襲をうけ、あえなく自刃した(「本能寺の変」)。
享年四十九歳。

なお信長に会見した宣教師ルイス=フロイスは、「長身、痩軀(そうく=やせたからだ)で、ひげは少ない。声はかん高い。常に武技を好み、粗野である」などと、印象を書き記している。

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「安土城図」明治二十九年作

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「南蛮帽子兜」
(岐阜市歴史博物館蔵)

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「伝信長所用/四十間総覆輪筋兜鉢紺糸威胴丸具足」
(京都市建勲神社蔵)

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「南蛮胴具足」
(個人所蔵)

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「南蛮胴具足」
(岐阜市歴史博物館蔵)