●日本は自ら溶け落ちるように作られている。奇妙な事に国家公務員法に仕組まれた悪意には誰も気づかなかった。
【国家公務員法第一条】
『国民に対する職員の利益確立を根本基準とする。』

阿久根市議会だより 一般質問原稿

【西平市長は言葉を勉強しなさい】
 竹原 西平市長は自分が知っているかいないかの質問に、総務課長に聞いてから「存じております。」と答える。自分が分かっていない。施政方針では志がミッションとなっている。このくだりは誰が考えたのか。
市長 自分で考えた。
竹原 志はミッションではなくアンビションだ。施政方針の中身に戦略という言葉をつかう理由は何か。誰が誰と戦うのか。
市長 自分自身との戦いや課題解決のための考えを戦略と位置づけているんじゃないかと考えている。
竹原 市長の心の中の戦いとか知ったことではない。西平市長は言葉の勉強をしてください。
 
【人件費は一日平均3万円以上】
竹原 正規職員人件費はひとり一日平均3万数千円にもなる。毎年の定期昇給もやっている。誰にどんな笑顔が出るというのか。
市長 制度の基本は国や他の自治体に合わせる事。独自の削減で市民の理解を求める。
 
【にぎわい交流館阿久根駅と同じ業者が交流センターを落札】
竹原 にぎわい交流館阿久根駅は雨漏りを繰り返してきた。これは誰の責任か。
市長 責任の所在を特定する事は困難である。市、設計業者、事業者共に責任があると考えている。
竹原 それを無責任という。市の無責任を市民が負わされる。
竹原 阿久根建設の実績は単独最高が3億円程度。地元業者が13億3千万円の交流センターを受注するよう入札条件を緩和したのか。
市長 施工能力の確保と地元自自業者の受注という観点から入札条件を設定した。
雨漏り2 

阿久根市議会に付ける薬

 2017年 3月9日 一般質問です。
政治家の能力ってこんなもん。笑ってくださいませ
。 クリックで動画

公事の要諦

 おおやけごと(公事)には何が大切かを語ってみよう。
 公けの要諦は個人性の排除だ。しかし、組織に自らを明け渡すことではない。組織にではなく公衆の良心に自らを明け渡す事だ。 そもそも組織というものは人間特有の概念であって生き物ではない。組織は人を心理的、肉体的、経済的に拘束する。組織は全体として生き物のように見える。役割分担する事で、それぞれの人間は全体が進む方向を知らずに特殊な行動をする。組織の構成員は報酬や義務により個人的に拘束される。ほとんどの人間には組織の財務状態や社会に与える影響など考慮する役目を与えられることはない。知らずに個人的に頑張る。個人性の強化が組織を強くする。強い組織では必然的に秘密が多くなる。秘密を守ったり破ったりするのは個人であり私人。家に帰っても知らないふりをしなければならない。秘密は人を24時間拘束する。各人が嘘つきになる。

 日本では、しばしば見せかけに過ぎないにしても恩や義理、忠誠心を尊ぶ。いずれにしろまったく私的な感覚なのだが、これらを無邪気さや善良さとして認識されている。あらゆる秘密や忠誠心は無知無自覚の原因になる。国家権力は秘密と無知と打算によって支えられている。 善良さを仮装した無知と打算が国家を強くする。秘密に慣れ親しんだ権力の構成員はロボットの様に反応が単一化している。マインドが権力の部品になっていて自分自身の良心の傷みや社会全体の傷みを認識できない。

 地位や立場は人をロボットにする傾向が強い。しばしば政治家が私欲エネルギーで動く集団のロボットになっている。 政党はもちろんの事、役人組織も集団的私欲エネルギーの拡大を目指す。国民や外国人から吸い上げるエネルギーの最大化を目指すのは権力の本質だ。私的損得を国民の損得に見せかけるのは常套手段。例えば国の借金、例えば原発、例えば戦争だ。組織のみこしに上手に乗れる人間は上手に操られる。バカあるいは強欲政治家が権力組織に安心感を与える。

 この様な動きを止める可能性を持つのが公けである。打算、恐怖、忠誠心をエネルギーとする集団に公けはない。国家も公けとは違う。公けとは公衆の良心である。国家を超え、人種を超え、時代を超えて生命の支えを破壊しない本質的な力だ。今の様に、欲望集団が公を偽装するのは悪魔が神を騙(かた)るのに等しい。共謀罪などの法律によって一般国民が国家の犬にされつつある。あげく、公けの良心を喪失した人間たちが欲望国家の仕組む戦争によって処分される。これは「神のはからい」と言えるかもしれない。公けは永遠なのだ。

言葉のホルマリン漬け

 人は言葉を使っているようで言葉に使われている。 例えば、物事に名前をつける。それは他と識別するための記号だ。一連番号では覚えにくいので意味ありそうな名前にする。名前が機能を発揮するわけではない。 例えば「阿久根市民交流センター」  ガラスやコンクリートなどで作る構造物の記号だ。この様な名前のものを作れば、何かおめでたい事になるらしい。今は作るのが目的になっていて使いかたを誰も分かってはいない。 建設に関わる人たちの間ではこのような物が繁栄を発生させると希望されている。そして市民にはこれが交流の中心になる事を信じさせようとしている。名前が「交流の中心」 単なる建物にすぎない。

 阿久根市とか日本なども地域に付けた記号だ。 市や国が何かをするわけではない。 議員や公務員というのも記号だ。何か特別な能力を持つわけではない。名前に対する思い込みを信じているに過ぎない。 このような人びとが何をやり、何をやっていないかを理解すれば暴動が起きても不思議ではない。 しかし、日本人のほとんど全員が名前や立場に眠っているからそういうことは起こらない。人口減少を自然現象のように思っている。日本人は絶滅危惧種。言葉に使われ言葉に死んでいる。 日本人のほとんどは夢や希望、尊敬や信頼などという言葉のホルマリン漬けだ。ホルマリンのビンから彼らを救い出すのは容易ではない。どのみちこのビンはひっくりかえる。

市民交流センター入札終わり 大規模トラブルの始まり

 阿久根市民会館建て替え(市民交流センター)の入札があり、地元3業者のジョイントベンチャーが落札した。
 設計業者のナスカは 「地元業者だけでは荷が重い、下請け又はジョイントベンチャーへの参加にはできるだろう」 と言っていたのに阿久根市役所はナスカの発言を理解するレベルにはなかった。

 同じ地元業者は3年ほど前に阿久根駅の改修工事を単独で請け負った。主な工事は市外業者の下請け。工事が始まってからシロアリにやられていたことを発見し工事費がおよそ2倍になった。工期は遅れ、阿久根市は業者がほとんど使ってもいない消費税を足して支払いをした。この阿久根駅舎は1年以内に雨漏りが出始めた。今回の工事費は阿久根駅のおよそ10倍、トラブルの可能性も10倍になる。
 阿久根市役所の技術管理能力は高くない。昨年、寺山住宅工事では基礎杭の不足が発覚して追加工事を始めた。この間、建設を受注した業者はおあずけ状態にされた。多岐にわたる下請け業者の損害は少なくない。

 大規模建設工事を受注する業者は設計業者以上の能力が必要だ。そもそも設計図面だけでは工事ができない。工事業者が施工図を描いて下請けの受注業者に示すことができなければいけない。ナスカは「阿久根の地元業者にはそれを期待できない」と判断していた。だから「地元の業者1社の単独では少し荷に余るとは思う」と控えめに表現したのだ。ところが阿久根市役所は「地元でも2社以上であれば大丈夫」と受け取ってしまった。まったくバカにつける薬はない。そもそも、地元企業で工事出来る規模や形の設計にしない事が問題なのだ。身の程知らずは交流センター完成後の施設使用や維持管理に大きな悪影響を与える事になる。

 平成28年9月5日 阿久根市議会「市民交流センター等に関する調査特別委員会の中間報告」抜粋
委員から、「今の設計、あるいは変更する設計に基づいて、地元の建設業者で施工が可能とのお考えか」との問いに、 (設計業者ナスカは)
 「通常、この規模になると地元の業者1社の単独では少し荷に余るとは思う。舞台機能にもより、それなりの特殊技術もあるが、随所に地元の業者とのジョイントベンチャーないしは下請けに参加することもできると思う。極力地元の材料を使って、地元の業者が使えて、地元の業者がメンテナンスできるような部分を取り入れたいと考えている」との答弁があった。

 これは実施設計が終わってからの説明だ。つまり、実施設計図には地元業者がメンテナンス出来るような部分が未だ取り込まれてはていないということ。受注業者の対応能力が大きな問題になる。
 
  

まつりごと

 日本では政治を「まつりごと」と言う。日本人は政治に対してカネを求める。カネの動く祭りや行事を政治に求める。儀式やお祭りで簡単に繁栄の気分を出すことは出来る。これは推進力の無い車や飛行機を昇らせて上昇気分を味わうようなもので、実際には推進力がさらに落ちる。祭りの後の寂しさを作り出す。金持ちに力を与えて持たざる者を一層貧しくさせる結果になる。
 人間や社会を育てるには時間と知恵、そして節度が必要だ。政治にお祭りを求めれば、政治家はお祭り芸人ばかりになる。役所はお祭りに狂い続ける。人びとは更に主体性や責任感を失う。
人を育て損なう地域や国は消滅する。世界の状況を見れば、人びとがカネに喰われ政治が商売に喰われているのが分かる。実際にはカネが人を喰うのではなく人がおカネという観念に溺れるという事。国民を溺れさせる政治が悲惨を作り出す。
 見たところ、ほとんどの政治家はカネと立場という観念に溺れている。仕事がわからないのに偉そうにご説明する。見ていて恥ずかしい。くだらない事、分かってもいないのに偉そうに語る彼らと一緒に並ぶのは身がすくむほど恥ずかしい。 以前、阿久根市議会議長が言った。「県議はマコトぐらいのバカがちょうどいい」 市民は分かっていない。政治家のほとんどはバカなのだ。

恐れる力

 政治家に対して「夢を語れ」とか言うのはやめたほうがいい。ほとんどの政治家は失業対策でしかない。仕事が出来ないから一発逆転、選挙に出て就職に成功しただけに過ぎない。道理のわからない人間に権力を与えるとやりたいようにやってしまう。ボロが見えないよう取り繕いをするのに税金を使う。バカを嘘で隠す。嘘を別の嘘で隠す。やりたい放題に見えるが、実は怯えている。身の程をどこか自分でも知っている。 強欲集団の代表にはこのようなバカがたいへん都合がよろしい。 その典型がこちらのお方。 偉いのかバカなのか。 えらいバカなのだ。 怯えているから傲慢だ。そもそも考える力が虚弱なので恐れを知らない。 

 水を飲むタイミングまで指図されている。安倍晋三 総理大臣様  
MizuNomu

だまし絵空間の家畜

 常識では、人はしたいことをするために生きていると考えられているようだ。お腹がすくと食べたい。尿が溜まると排泄したい。 普通の彼らは言う。「したいからするんでしょう。」 しかし、人はしたくないことをする。それでもやったことだから本人の考え、本人の欲求だとされる。 人は無自覚に、あるいは自覚してたくらみをする。大きな快楽のために小さな快楽を我慢する。我慢してみせる。人を捕食するため、人を利用するためだ。 この様な態度で生きている人間が大勢いる。社会全体の仕組みがそのようになっているかもしれない。 もううんざりだ。

 身体の衝動を継続的に満たすために行動目的が生まれるという普通の考えを私は受け入れることができない。自分を嫌う自分であり続けようと思う。人に好かれる努力などまったく気持ちが悪い。この様な私を彼らは理解しないし、私には彼らのケダモノの如き生き様を手伝おうなどという気は起らない。彼らと自分は別の生き物だ。 この世界全体は奇妙なだまし絵だ。人びとはだまし絵空間に閉じ込められ飼われたある種の家畜ではないだろうか。互いを家畜化しようとするこころの仕組みによって封じ込められ飼われている。彼らはみずからの家畜だ。

こころのエネルギー問題

 車はエネルギーを消費する事で動く。身体もエネルギーの消費を必要とする。人間の心理的衝動はエネルギーに似ている。エネルギーを理解する事で衝動の本質を理解することが出来るだろう。
 エンジンを動かす燃料は燃える事で高圧を発生させる。高圧空気が低圧空間に解放される時に発生する力を利用して車が動くという仕組みだ。すなわちエンジンが動くには低圧空間の存在が必要なのである。 ところが人間は低圧空間の重要性には気づかない。あたりまえに存在するので高圧を発生させる燃料の事だけ考えていればいい。
 人間の衝動にも高いところと低いところが必要だ。みんなが同程度のおカネを持っている状態ではおカネを得る努力は発生しない。金持ちと貧乏人が居る事ではじめておカネにエネルギーが発生する。ところが人間たちはおカネ自体に価値があると思い込んでいる。おカネのエネルギーは貧乏人によって支えられている。だから金持ちは貧乏人を減らそうとはしない。おカネ中心のこの社会は強欲と貧乏のエネルギーが支えている。何とも寂しい事だ。
 この様なこころのエネルギー問題を解決しなければいけない。それは考え方だ。人はこの世に生まれて動いて死ぬ。生き物は同じ。種を超えて値打ちは同じだ。まして、人間の間に本質的な価値の差は存在しない。人間特有の表現をすれば、すべての人間は無駄に人生を過ごす。すべての人生は本質的にまったくの無駄なのだ。
 生き物にはその種を存続させ増やすという衝動がある。人間もそれを持っていてこの衝動に操られている。生態系には存続の衝動を利用し合うという関係もある。人間は観念を得た事で地球上で爆発的に優位な地位を獲得した。しかし、自分たちを突き動かす衝動を理解していない。 人間はおカネを発明した。人を紙切れや金属片でコントロールする仕組みだ。おカネを媒介に使う事で良心の呵責なしに人間を捕まえることが出来るようになった。戦争を正当化し、神聖化することができるようになった。愚かだ。
 
 気づかねばならない。観念をもう一段階進化させ、人間の衝動を理解しなければいけない。人類は身の程をわきまえる事を学ばなければいけない。人生の本質は時間つぶし暇つぶしなのだ。心のエネルギーを抑制的に丁寧に扱う事を学ばなければいけない。そうしないと汚い人生、醜い人類、恐怖まみれの地球になる。

国家と地球

 アリストテレスによって地球は球体であるのが証明されてから2000年以上、人類はその事が未だに良く分かっていない。地球全体をひとつの球体としてではなく、国家を平面とし、国境を辺とする多面体であるかのように感じ、行動している。国家間競争や国境紛争の原因は、地面を平面として認識する間違った感覚だ。
 
 球面上には直線や平面は存在しない。球面上のすべての点の共通項は、同じ中心点と直線で結ばれることだ。地球表面上の点をそれぞれの人間とするならば、人間同士の本質的なつながりは平面上の直線によってではなく、球の中心に向かう直線を通してという事になる。それぞれが、球体の地上にまっすぐに立つことによってのみ人間相互が正しく繋がれるという事だ。人びとが本質的な自立を遂げるとき、平面国家は存在しなくなる。 それこそ一人ひとりが常に地球の同じ中心と直線でつながった状態。これが、人類は一つを実感する状態だ。本当は今もそうなのだが平面の国家感が理解を妨害している。人びとは地球が球体であるのを心理的に受け入れてはいない。
日本社会の設計図


公務員法トリックについて内閣府官僚と議論



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神々と人 林浩司氏のナスカ理論