●日本は自ら溶け落ちるように作られている。奇妙な事に国家公務員法に仕組まれた悪意には誰も気づかなかった。
【国家公務員法第一条】
『国民に対する職員の利益確立を根本基準とする。』

奇妙な職場

 議員たちはほとんど仕事などやっていない。年間40回も役所には行かないのに阿久根市では415万円程の報酬を受け取る。めちゃくちゃおいしい。ろくな成果も出さないし、実際には何の役にも立っていない。彼らは本当に仕事を知らないので自分が役に立っていない事さえ分からない。できない人間をいくら持ち上げても役に立つようになるわけではない。 職員についても同じことが言える。職員たちは仕事のやり方をわかっていない。時間をたっぷりかけて職務を執行する。業務処理能力はコンビニのバイトを大きく下回る。 その事を自覚できないほど仕事というものが分かっていない。 教えてくれる者がいなかった。それどころか、仕事を効率よくやってしまった者が叱られたりした。出来る者にとっては不幸だ。だからできなくなっていく。それが役所の伝統なのである。
 議員も職員もデキナイシステムの虜だ。 市長も同じ。 デキナイ人間たちが税金を浪費して全体に奉仕する。これ程迷惑なことはない。 デキナイ人間たちが互いの顔を立てあっているので、一番程度の低いところが標準になる。低すぎる仕事のバカバカしさに気付くことが出来ない。

「わたし」を知る

 私の猫は私ではない。私の服は私ではない。持ち物は私ではないという事は明らかだ。髪の毛も私ではないし、爪も、手も、足も私ではない。気持ちも私ではないし、考えも、記憶も私ではない。認識の対象に私を見つける事はできない。

 それでは私を構成している物を数えてみよう。 私には考えがある。私には体がある。私には服がある。私には家がある。私には国がある。つまり、私を構成しているのは認識し得るすべてだ。 

 このように、わたしたちは自分を無から無限大の間のどこかに定義して、私だと思っている。しかし、どこまでを私と定義しているのかの自覚がない。だから自分自身に迷う事になる。 場面によって異なる私の定義を明確に自覚していれば「私や私たち」に迷い込むことはない。その時々で変わる定義を明確に認識することが「私」から自由になる事である。それはあらゆる拘束の外側からこの世を見ることでもある。

「うつくしい日本」の正体

 奇妙な事に、日本では頭の悪い人間ばかりが地位を得る。わからないのに地位を得るから虚勢を張る。あるいは悪賢い取り巻きの道具になる。バカを仲間が認めると安心感を与える。つまり、取り巻きも無能なのだ。阿久根市役所の状況はどうしようもなくひどい状態だ。
 市役所窓口の対応は非常に評判が悪かった。私が市長をした頃、劇的に良くなった。職員が住民の目を意識するようになった。市民のために一生懸命やろうという態度が見えるようになった。私が指導したわけではない。 私には本当の理由がわからないままだった。 市長が変わり、職員が好きなようにするよう逆戻りしている。
 議会は相変わらず儀式的でバカバカしい状態のままだ。議員たちは本当に救いようがないほど出来が悪い。実質的には何の機能も果たしていないが、形だけ機能している。形式で給料を貰っている。彼らはその事に罪悪感を感じる事がない。とことん無能、虚勢の人形に過ぎない。

 阿久根は政務調査費問題発祥の地だ。本質的には何も変わっていない。全国版でもテレビ放映された。「トンデモ阿久根市議会」2007年7月10日 スーパーモーニングhttp://blog.livedoor.jp/jijihoutake/archives/51911884.html

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どのような社会であれ、人は習慣に従う。それが安定や秩序に見える。
 日本は儀式的で日本人は形式的だ。形式の仮面の下で欲望を達成しようとする。日本人にとって、法は形式に過ぎない。形式を超えるのが地位や権威だが、地位ある者たちが無能なので、結果的に本人や取り巻きの欲望に従う。何かを達成したければ、「地位ある無能を動かす悪人と手を握れば良い」ということになる。それではろくなことにならない。頑張る奴ほど結果的に悪化させる。

 日本はバカが支配する虚勢の国だ。あらゆるところにそれを見ることが出来る。出来ない者に大切な事をさせてはいけないのに、脳よりも顔を立ててしまう。できない人間は虚勢を張るから道理が通らない。口の器用なバカの連鎖が日本社会の現実。 バカ者裁判官がほとんどなのでえん罪事件も減らない。日本では無法のアホウ体制を権威と呼ぶ。それを虚勢人形になるよう育てられた大衆が支えるという実に美しい国なのだ。

役人仕事は高い上に質が悪いのはなぜか

 役所のインチキは役人を公務員と呼ぶところから始まっている。 そもそも役人の役目は「役を守る事」であって国民の財産を守る事ではない。国民の財産を自分の物にすることだ。公務員はあらゆる職権を使い職員仲間の福祉と利益を確立する事、そのように国家公務員法に書かれている。 権力の道具に過ぎない役人が公を握った。役人は命令とあれば何でもやる。命令がなくても仲間のおきてに従って法律を破る。 そういう集団なのだ。 日本人は律儀なバカなので役人を上に置いている。役人は上だから間違えてはいけないという常識を持っている。 
 役人の仕事の質が悪い原因は失敗を許さないからだ。失敗に学ぶことが出来ないから取りつくろいを考えてからしか取り組む事ができない。出来ないままでやるから大きな失敗をしでかす。失敗が許されないので失敗を隠す。取りつくろいと隠すのが日常業務になっていて、もう何が仕事なのか分からなくなっている。

人間という生き物

 人間は観念を使う事で動物の支配者となった。しかし、人間は動物のままだ。観念が生き物に勝利したのであって人間の勝利ではない。それが証拠に人間同士が殺しあう兵器の発明は観念の成果である。快楽を求める動物的衝動に観念を利用している。それは人間における観念の勝利でさえない。園児が拳銃を手に入れたようなもの。滅亡するかもしれない。
 観念と自己との関係を理解する必要がある。観念は自己を超える。しかし自己なしに観念は存在しない。従って、自己が問題の核心である。ほとんどの人はこのような自己に気付こうとはしない。記憶や言葉の迷路に陥る。 真実の自己は直観である。それが生きているという事の主体。言葉や記憶に依存しない。 これに気づく時、自分は自分のままであったと知る。この世界はそれに気づくまでの架空なのだ。

日本人の根源的な問題

 アメリカ人と比べ日本人はおどおどしている。自分がどう見られるかをいつも気にしている。バッジをつけたり、勲章をもらったりして感激する。概ね、仲間に認められるのを第一の価値観とする。他人の評価で自分に値段をつけるので、実際に自分が何をしているかしていないかが気にならない。つまり、自分が本当はどのような人間であるのか、まるで分っていない。分かろうとさえしない。この事実は驚くべきことだし本当に恐ろしい事だ。 
 日本人の集団は何をやりだすか分からない。集団があってもその中に自分の心のあり方や意志を価値観とする人間はいない。 集団という獣の圧力で沈黙させられる。日本社会では互いの顔こそがすべてで、真実よりも偽装した平和が大切なのである。 
 こうした偽装の輪によって国家体制ができている。 あらゆるところに嘘が蔓延しているので、無能で厚かましいバカが権威を得る。そもそも無能な人間は自分の本当の能力を測ることができない。要するに、日本システムは、アホが乗るみこしを臆病なヌケガラ集団が担ぐという構図なのだ。あらゆる分野にこの構図を見る事ができる。 

議会はままごと

 議会の現実。役人と市長と議員たちがままごとをする。税金を使って互いの顔を立てるバカバカしいマンザイだ。役人や政治家というものは権威っぽくする事で罪悪感を乗り越えてしまうおバカさんなのです。彼らは本当の仕事を知らない。仕事ができないから権威に就職するしかなかった。
 阿久根市議会 9月 竹原信一の一般質問と 予算に対する反対討論 動画 https://youtu.be/sJ03qANB49I

縄張りの国

 役所は縦割りと言われるが、実際には縄張り体制である。役人同士、国民から役所の縄張りを守り合うのが基本だ。縦割りに見せる事でかばい合いをカモフラージュしている。日本人は縄張り国民だ。立場を守り合う事で利益を確立しようとする。良い事をしているかのように見える。問題は「誰から守るのか」という視点を欠いている事だ。 
 

不安から帰属、打算から忠誠、世間体の牢獄

 日本人は不幸だ。好かれるよう振る舞わなければ相手に認められないと感じる。他人の情緒に敏感なアンテナを張っていなければならない。だから自分を縛ってくれる不文律のおきてを探す。承認されていると感じるまでおきてを探す。そういった不安から行動と思考がパターン化する。ほとんど全員がその調子なので同一化の空気が形成される。だから組織が心理的な強制力を持つ。
 規則よりも不文律のおきてが優先される。おきての身分制度が形成される。おきてに従ってさえいれば法を破っても組織が守ってくれる。 日本の行政組織も政党も裁判所も、メディアもそのようになっている。 世間体の牢獄に住む日本人集団に道理は通じない。

ママゴト議会

 この社会で起きていることを分かり議論するには、自分自身が何をしているのかを知る事から始めなければならない。自分がこの社会の一部であるからだ。自分を観察者にするだけでは、発見も「見解の相違」という一言で済んでしまい意見を議論の対象にすることが出来ない。議論には自分を含む社会の在り方を自分を通して知り、なおかつ自分の感覚に惑わされないという能力が必要なのだ。他人の痛みを自分に置き換えて感じる才能も必要である。自分の要求を突き放し、同時に他人の感覚を自分の中に作る必要がある。ほとんどの人間は議論をする力を持ってはいない。本来、議論は才能と訓練によって作り得る特別な能力なのだ。
 私の見るところでは、政治家になるような人間はほとんどが自分自身に対しても不誠実であるばかりか、非論理的で動物的、にもかかわらず観念的な上に、法も実際の仕組みも分かっていない。だから議論などできる余地がない。議会とされているあの儀式にあるのは雑音にすぎない。ママゴト議会である。
日本社会の設計図


公務員法トリックについて内閣府官僚と議論



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神々と人 林浩司氏のナスカ理論