●日本は自ら溶け落ちるように作られている。奇妙な事に国家公務員法に仕組まれた悪意には誰も気づかなかった。
【国家公務員法第一条】
『国民に対する職員の利益確立を根本基準とする。』

狂い死にする日本

日本にはもはや生命力がない。寿命が尽きるのを待つ人間集団にすぎない。この集団ではカネと権力と利権に狂った年寄りが、若者を餌食に最後まで元気だ。彼らは延命医療を利権にした。介護を若者の生活の糧に仕向けた。奨学金で借金漬けにして返済に戦争をでっち上げる。戦争は儲かる。
 日本に生まれた子どもたちは大人たちの正体を知らない。子どもたちは大人たちに飼われ食いものにされる哀れな家畜だ。大人になってその子どもたちを消費する。日本はその様な地獄、狂人たちの棲む地獄だ。

日本人の精神病

最初に国会議員が自分たちの報酬を上げた。報道機関が景気回復をでっち上げ、人事院が国家公務員の給与アップを勧告した。自治体の首長と議員と職員が追従して自分たちの取り分を増やした。 デタラメが日常の政治になっている。 マスコミと政治がとても良い関係を保っているので問題にならない。日本人全体が精神病だ。政治家や役人が特別に悪いのではなく、日本人が集団的に狂っている。日本人は気持ちが悪い。

自己と社会の関係

 人びとは自分と世界を別物の様に見ている。これらは同じものの別の見方や側面にすぎない。このような人びとの常識と感覚は非常に奇妙だ。それから、他人も自分と同じように物事を見ているに違いないとした後に社会を想像する。つまり、社会も自己も自分の想像物である。結局のところ、人は自分に取り組んでいる。取り組みをやめたときに自己と世界がひとつであるとはっきりと知ることになる。

売春婦の誇り 

 日本人の気持ちは売春婦だ。カネで身も心も売ってしまったヌケガラ。日本政府は売春宿。国家権力が外人客に売春婦国民を売っている。ヌケガラの売春婦国民が売春宿国家を支えているというのが日本だ。ヌケガラになってしまった売春婦国民は売春宿国家を誇りにする役を担わされたうえに売春宿国家での地位を争っている。この国民は脳が侵されている。嘘つき技術を競う売春婦たちが哀れで哀れで仕方がない。この国民は自分が生んだ子供も貧乏にしたうえに売春婦として売り払うのだ。生まれる子供たちにとっては牢獄だ。その事を気付かないように詰め込みでバカ国民に仕上げる。それが日本の教育。バカの仕上げを狂った政府と報道、そして企業が行う。

自分で考える

 「自分で考える」を語ってみよう。人は脳を使って考える。人は脳の持ち主であって脳ではない。すなわち「自分の持ち物であるところの脳を使って考える」というのが正しい。「人間は考える葦」ではなくて、単に「人間の体には考えるという機能がある」 というのが正しい。 私の今の作業は、『持ち主である自分を、持ち物である脳回路が想像しているのを持ち主の自分が見ている』という事だ。 人の幸福は、持ち主の自分が自分の脳回路をどのように育て、どのように使うかに依存する。この世界ではその事がほとんど理解されていない。この人たちは、自分を知らずに社会を変えて幸福を得ようとしている。もう、面倒くさいったらありゃしない。

日本は戦争に強い

人々は「自分で自由に思っている」と言うが、実際には周囲の空気に反応している。ほとんどが周囲の感情に自分を添わせているだけだ。特に、議員たちは自分で考えるのがどういうことかを知らない。知らないという事さえ分かっていないのでそれに気づくことが出来ない。背広を着て、バッジと名札をつけて、周囲に合わせてそれらしく振る舞う。それらしくなるように賛成する。それが議員の役目と信じて疑わない。 たいへん奇妙な生き物だ。
  議員ばかりではない。役人も似たようなもの。市民もそのような生き方をしている。彼らはヌケガラだ。

 日本人は元もとヌケガラで生まれるわけではない。ヌケガラの親や周囲によってヌケガラになるよう仕付けられ育てられる。大人を尊敬する様にあいさつや礼儀を教え込まれる。大人たちに疑問を問いかけてはいけない。恥をかかせるからだ。分からないのに分かった振りをするようになる。そのうち、自分が分かっていないのを忘れる。考えるのがどういうことかが分からなくなる。圧力に屈して、周囲に合わせるようにするのを「思う」とか「考える」と定義する。従順さをほめられ、自分でもこれでいいと納得する。こうして考える道を閉ざしてしまったヌケガラ人間の出来上がり。ヌケガラ人間たちは空気の囚人なのだ。個人を持たないゾンビーなので空気に合わせて何でもやる。恐ろしく凶暴なゾンビー集団だ。日本はすでに死んでいる。だから戦争に強い。

苦悩からの解放

 主義は形に合わせる事を意味する。自由は拘束からの解放なので自由主義とは自由を偽装する事だ。権力のために「自分は自由主義だ」と言わねばならない。民主主義も同じで「国民に対する権力の優越は国民の選択だ」と言わねばならない。
自由主義と民主主義を合わせた自由民主主義とは、自由と民主の偽装を国民ひとりひとりに強要した国家体制を作ることになる。それが今の日本。言葉の無理解が人間をゆがんだ状態にし、デタラメが横行する日本にした。
自由民主主義は明らかなペテンである。人間たちの知性や理性がその程度ということだ。
人びとは物事に対する反応の癖を生きている。反応の癖に拘束されている。習性の奴隷だ。先ず、その事に気付いてほしい。
自分が拘束されている自分の習性をとことん見つめ、その愚かさに絶望しなければいけない。この体は失われる。記憶も失われる。自分が生きていたことさえ忘れ去られる。夢や希望は無意味だ。私は幻想の中の妄想に生きている。妄想の自分を葬らなければ苦悩は終わらない。

日本人の不幸

日本人は国家を利用するヒモのために体も心も売ってしまう娼婦。脳まで梅毒におかされている。 脳梅毒におかされた日本社会は生命力を失った。人口減少が止まらない。年寄りたちが死ぬまで夢や希望を追いかけ続ける。若者を奴隷に使うためのカネが欲しい。 日本人が病んでいる脳梅の特徴的な症状。「ひとりでは何もできない」と考え、その様な生き方をする事。人に使われる不幸と、不運な人を使う不幸の悪循環に陥った人生を送る。自由に生きる事が人を幸福にするのをまったく理解できない。究極の不幸とはこの事だ。

自分とは何か

 人は自分が自分であると分かっている。しかし、自分を説明しようとするときに問題が起こる。何かとの比較でしか表現できないからだ。自分以外の何かを表現することで反対側に自分を作り上げる。さて、人は自分にない物を表現できるだろうか? もちろんできない。つまり、自分を説明する事は自分を分割する事に他ならない。
 ほとんどの人は反応の記憶から自分を想像している。反応の癖が自分の個性だ、人格だと思い込んでいる。だから思い込みと反応の癖からなかなか抜けられない。思い込みと反応の癖に苦悩している。
 自分は体ではない。記憶でもない。 反応でもない。自分を表現する方法は存在しない。あえて言うならば自分はゼロである。 もう一つの方向から見てみよう。自分を構成する物は体であり、物質であり、記憶であり、職業であり、家族、国家、地球、宇宙である。すなわち無限大に広がる。 つまり、自分はゼロから無限大である。その時々の必要からフレキシブルに自分を分割し、かたち作り、想像し、自分に対して表現している。 

誤解を解けば国が消える

 日本人は国家が国民を守ると思っているし、思わせてもいる。ところが国家の本質は概念であり記号だ。「私たちは日本人だ」という風に国と国民そしてそれ以外の仕組みや人びとを想像しているに過ぎない。つまり、国は本質的に誤解である。生活の都合で無い物を有ると信じている。例えば、自分と相手を同じ宗教の信者だと定義すれば集団行動をし易い。だから深い深い集団妄想に励んでいるに過ぎない。
 日本という集団妄想は人間の習性を巧妙に利用した無知と誤解によって支えられている。
「尊敬と信頼で支える美しい日本」 美しいという言葉を使えば、それに文句が言えなくなる。「汚くていいのか」と攻撃を受けるからだ。尊敬を疑えば「バカにしていいのか」と責められる。信頼を疑っても「組織の威信を失うぞ」と嘘を強要される。つまり、無知と誤解と相互監視で互いの妄想を支えている。 『自分を空しくした国民』によって妄想国家が支えられている。日本人はこの妄想に対して無力だ。国民の精神的な無力がこの国家の正体である。国民が心の力を得れば妄想の国は消滅する。
日本社会の設計図


公務員法トリックについて内閣府官僚と議論



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