翁's−オキナッツ−

どこかとんでもなくとんでもないところへ。 爺隠才蔵のブログ。

物事を尋ねられたとき、
その質問の意図が分からず、
「なんでそう思うのか」
と尋ねることがよくある。

なにを聞きたいのか
なぜそれを聞きたいと思ったのか
そう思ったのはなぜか
何かを話すときにその質問の本質が、その内容から伺い知れなかったときに、
よくこういうコミュケーションになる。
自戒の意味を込めて、このコミュケーションってとても卑怯だなと思う。
基本、貰った質問に対してなぜなにの質問を繰り返し続けると、人は言葉に詰まる。
そこがたどり着くところは、禅問答か哲学、超科学的な回答にしかならないからだろう。
少なくとも質問者は禅問答や哲学云々に発展するとは思っておらず、回答もそれを求めてはいない。

その上でこちら側は
そこが分からないと答えられないと突っぱねる。
でも本人としては、
そのなぜなにを繰り返された時点で、議論の的がもうよく分からなくなってしまっているので、突っぱねられてもそこに対する答えは用意しようが無い。
人と人とのマウンティングや、他人の精神を破壊するのに極めて効果的なやり方だと思っている。
自らも何度もやられたことがあるし、逆にやったこともある。

年かさになるとおかげさまで、「あゝそのパターンでやり込めてくるのね」と防御もとれるようになるのだけれども、
いつもずるいやり方だなあと思う。

小さい子供が、
なんで空は青いの?
なんで光の波は色によって違うの?
ということを繰り返すと、
最終的に大人が答えられなくなるのと根っこは同じだ。
それを対大人でやるといつも大概はえげつない。

これを「なんでなんで攻撃」と私は呼んでいる。
もちろん知りたいことの本質を伝えきれていない質問者の側にも要因はあるとは思うけれども、
そこを理解しきれない受け手側の問題でもあると思う。

自分でも使う手段なので、
なんともはがゆいのだけれども、
やっぱりずるいなと思うのである。

おかげさまで一昨年から関わらせていただいているサービスが、6月の頭に4回目のリリースを迎えた。
ありがたいことに今のところ結果は上々な様子で、よかったよかったと胸をなでおろす。

誤解無きよう予め断っておくが、上の話とここからの話はまったく関係がありません。
なので、なにか現職や現場に不満があるとかの話ではないのであしからず。

さて。

ふと思うことがある。

全くの個人のなにがしか以外で、一体その人はどこまでそこに寄与しているのだろうということを最近よく思う。
もろもろ世俗に流れてくる情報を見ると、
・〇〇を牽引
・業界の一翼を担う新しい試金石を提示
などという肩書きともそれ以上とも取れる、様々なコンテンツが流れてくる。
きっと、そこに「嘘」はないのだろう。
だか、それが外部の目に触れる以上、そこにはなにがしかのバイアスがかかって、若干盛り気味になっていることはよくあることだ。
そういった肩書きを背負ったその辺の何某と実際の人の印象か食い違うなんてことも、日常茶飯事だと言ってもいい。

それでも、
この個者社会において、自らの価値を最大し、評価なりブランドなりを勝ち得ていくというのは、半ば宿命づけられているのだとも推察する。

でも、それって本当にそうなのだろうか。

会社なり組織なりに属している以上、その成果は個人の力ではなし得なかったはず。
ビジネス構造上、すべてを個人で担うわけにはいかず、統率者と呼ばれる人々が導き手として、その手腕を問われ、そして大いに発揮している現場は多々ある。
そしてそうしなければ組織というものは成り立たないということも理解できる。

また逆に、組織であるからというだけでうまくいうことなんてほとんどなく(むしろ往往にしてうまくいかない)、そこに強力に個の力を流し込む人がいるからこそ物事は変化し、成果を生んでいくことも事実だ。

であれば、気にかかるのはもっともっと些細な違和感なのであろう。

例えば、巷の男たち、もしくは女たちは、自らのプロフィールに、何をそんなに実績を強調するのであろうか。
ネームバリュー、コンテンツの引きなどで、きっとそうせざるを得ない状況が透けて見えるところが、ちょっと気になっているのかもしれない。

売れるものだけが正義であるとは全くもって思わないけれど、ある種の経済活動を継続的に回していくためには追い続けなければ行けない指標であることは一つの真実だと思う。
それは団体が大きくなればなるほど、求めるものも大きくならざるを得ない。

これは何もビジネスコンテンツに限ったことではない。
・誰々に師事
・これだけ長年やっている
・〇〇の資格を所持
・〇〇賞受賞
それらはある1人の力だけでなし得たものなのだろうか?
きっとそこには、様々な人々の影響や介入があったはずで、そのコンテンツは1人の力でなし得たものではないはずなのだ。

それらを呼び寄せるのも個人の能力である、というのもその通りだと思う。
普通の人々であればそのままスルーしてしまいそうな事柄に着目し、キャッチアップし、そして人を組織して、一つの結果を成し遂げる。
その苦労や労力は、それに見合うだけの評価を得られなければとてもじゃないけれどやってられない。

でも実際には、じゃあどこからどこまでが誰の成果でという風にきっちり線引きすることは不可能だ。
その事実がありながらも、人は肩書きを名乗るのである。

ただ私たちは、肩書きを武器にして闘うのではない。ブランドでもないし、実績でもない。それらはこれまでの足跡のようなもので、来た道をたどるのには便利かもしれないけれど、先に進むのにはどれだけ役に立つのだろう。
いや、立つか。
むしろその場では個人の名前なんで、何の役にも立たないに等しいか。



何だかまとまらなくなってきたし、
結論かある話でも、主張がある話でもないので、この辺で話をしめよう。

なんかちょっと最近気になって引っかかっている小骨のような話。
肩書きとか実績とか確からしさとか、その辺りに何かもやっとした臭いを感じる。
ただ今はまだまとまらないので、また考えよう。

表題の通り、靴教室はじめます。
まだどなたか参加したいというお話をいただいたわけではないので、まずは宣言です。
もしもちょっとでもご興味ある方がいらっしゃいましたらfacebookページをご参照くださいませ。

https://m.facebook.com/okinasakkabo/

靴のことを始めたのは4年前。
3ヶ月やってみた靴教室から、「これは生業になるかもしれない」と思い立ち、一年間学校に通い、そこから一年コツコツと作業して、茅ヶ崎villageに参加しさらに2年。
この世界における経験としてはまだまだヒヨッコで、充分とは言えるレベルではないかもしれませんが、一歩踏み出してみることにしました。

浅草や神戸あたりで勤めておられる職人さんから見たら、なんとおこがましいと呼ばれるレベルかもしれません。
だから私は職人とは名乗るまいと思います。
またデザイナーでもアーティストでもありません。作品を売ることを生業にしたいとも思っていません。
さらにぶっちゃけて言ってしまえば、足の医者でも靴の専門家でもありません。

決して長いとは言えないものの、これまで作って靴たちは履いてくれる人たちの足を考え、生活を考え、そして自らの靴作りを考えて作ってきたつもりではあります。
その中で、要望に応えられたもの、残念ながら応えられなかったものありました。
技術的に言えば、まだまだ足りない部分は多々あるものの、その充足を待つことが果たして正なのかと思うところもあります。

何がしかのお金をいただきながら事を為すということは責任を伴います。そこは否定するつもりはありません。
ただ昨今話題になるように、何かを作りそしてそれを提供するということは、必ずしもその相手の全てに責任を負うということではないように思うのです。
誰かの生き様というのは、大切なその人個人のもので、他の誰かが責を負うものではないと、このところ強く思います。その中でモノづくりの人間として、そっとその暮らしに寄り添い、そこを彩っていければと思っています。
私の好きな漫画の言葉で、「不安も孤独も迷いも全部俺のもんだ。勿体なくてお前になんかやれるかよ」という言葉があります。漫画の話なので、突然下世話に思われるかもしれませんが、まさにその通りだと思うのです。

時に上手くいかないこともあるでしょう。時に技術が足りないこともあるでしょう。
私が悩みに暮れることもあるでしょう。
ある人から見ればそれは甘ったれた姿勢にも思えるかもしれません。ですが、私がやりたいことは、そんな二人三脚の歩みなのです。
そして靴や革をその媒体に選んだということだけなのだろうと思います。

日々の暮らしを豊かにするのは、他の誰でもなく、自分自身であるのだと思っています。なので、何かをしてほしい、何かを教えてほしいという方には向かないでしょう。やりたいと思っているのは技術を伝播する場ではありません。
自分の暮らしを自分で作ったもので構成するという充実感。もちろん衣食住すべてを一人の人間でまかなうことは難しいにしても、そこを放棄しない人達と一緒にモノづくりを考えていけたらと思います。

私の通った学校の先生(その人はセンセイと呼ばれるのを非常に嫌っておりました。そして私もそこをガッコウだったとはあまり思っていませんが) はよくこう言っていました。

足思手考

足を思い、手で考える。
ともすると頭でっかち、口ばっかりになりがちな我々「生徒」たちを前に、何度もこの言葉を口にしていました。
「とりあえず頭で考えてばかりいないで、やってみなさい」と。(本当はもっと荒っぽい言い方でしたが、それもまたいい経験です)
手を動かすことで見えてくるものがあるのだといったこの言葉は、靴に限らず、30代になってから得た、私の活動の中での一つの指針になっています。
考えることは大切です。でも考えてばかりでも何も始まらないのは事実です。

すべてを完璧に、すべてを充分にできる状態なんて実際には存在せず、先に進めば進むほどさらなる欲や課題が出てきて、決して到達することがないというのが世の中の本質ではないでしょうか。
まだまだ足りないという思いの渦中ではありますが、一つのタイミングがやってきたと思い、少しずつ進んで行くことにしました。

まだまだ頼りない部分はあるかと思いますが、ちょっとでもご興味ありましたらお知らせくださいませ。
既知の方も、そうでない方も。
ひと時を共有し、一緒に考えていけたらと思っています。

どうぞよろしく。

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