翁's−オキナッツ−

どこかとんでもなくとんでもないところへ。 爺隠才蔵のブログ。

表題の通り、靴教室はじめます。
まだどなたか参加したいというお話をいただいたわけではないので、まずは宣言です。
もしもちょっとでもご興味ある方がいらっしゃいましたらfacebookページをご参照くださいませ。

https://m.facebook.com/okinasakkabo/

靴のことを始めたのは4年前。
3ヶ月やってみた靴教室から、「これは生業になるかもしれない」と思い立ち、一年間学校に通い、そこから一年コツコツと作業して、茅ヶ崎villageに参加しさらに2年。
この世界における経験としてはまだまだヒヨッコで、充分とは言えるレベルではないかもしれませんが、一歩踏み出してみることにしました。

浅草や神戸あたりで勤めておられる職人さんから見たら、なんとおこがましいと呼ばれるレベルかもしれません。
だから私は職人とは名乗るまいと思います。
またデザイナーでもアーティストでもありません。作品を売ることを生業にしたいとも思っていません。
さらにぶっちゃけて言ってしまえば、足の医者でも靴の専門家でもありません。

決して長いとは言えないものの、これまで作って靴たちは履いてくれる人たちの足を考え、生活を考え、そして自らの靴作りを考えて作ってきたつもりではあります。
その中で、要望に応えられたもの、残念ながら応えられなかったものありました。
技術的に言えば、まだまだ足りない部分は多々あるものの、その充足を待つことが果たして正なのかと思うところもあります。

何がしかのお金をいただきながら事を為すということは責任を伴います。そこは否定するつもりはありません。
ただ昨今話題になるように、何かを作りそしてそれを提供するということは、必ずしもその相手の全てに責任を負うということではないように思うのです。
誰かの生き様というのは、大切なその人個人のもので、他の誰かが責を負うものではないと、このところ強く思います。その中でモノづくりの人間として、そっとその暮らしに寄り添い、そこを彩っていければと思っています。
私の好きな漫画の言葉で、「不安も孤独も迷いも全部俺のもんだ。勿体なくてお前になんかやれるかよ」という言葉があります。漫画の話なので、突然下世話に思われるかもしれませんが、まさにその通りだと思うのです。

時に上手くいかないこともあるでしょう。時に技術が足りないこともあるでしょう。
私が悩みに暮れることもあるでしょう。
ある人から見ればそれは甘ったれた姿勢にも思えるかもしれません。ですが、私がやりたいことは、そんな二人三脚の歩みなのです。
そして靴や革をその媒体に選んだということだけなのだろうと思います。

日々の暮らしを豊かにするのは、他の誰でもなく、自分自身であるのだと思っています。なので、何かをしてほしい、何かを教えてほしいという方には向かないでしょう。やりたいと思っているのは技術を伝播する場ではありません。
自分の暮らしを自分で作ったもので構成するという充実感。もちろん衣食住すべてを一人の人間でまかなうことは難しいにしても、そこを放棄しない人達と一緒にモノづくりを考えていけたらと思います。

私の通った学校の先生(その人はセンセイと呼ばれるのを非常に嫌っておりました。そして私もそこをガッコウだったとはあまり思っていませんが) はよくこう言っていました。

足思手考

足を思い、手で考える。
ともすると頭でっかち、口ばっかりになりがちな我々「生徒」たちを前に、何度もこの言葉を口にしていました。
「とりあえず頭で考えてばかりいないで、やってみなさい」と。(本当はもっと荒っぽい言い方でしたが、それもまたいい経験です)
手を動かすことで見えてくるものがあるのだといったこの言葉は、靴に限らず、30代になってから得た、私の活動の中での一つの指針になっています。
考えることは大切です。でも考えてばかりでも何も始まらないのは事実です。

すべてを完璧に、すべてを充分にできる状態なんて実際には存在せず、先に進めば進むほどさらなる欲や課題が出てきて、決して到達することがないというのが世の中の本質ではないでしょうか。
まだまだ足りないという思いの渦中ではありますが、一つのタイミングがやってきたと思い、少しずつ進んで行くことにしました。

まだまだ頼りない部分はあるかと思いますが、ちょっとでもご興味ありましたらお知らせくださいませ。
既知の方も、そうでない方も。
ひと時を共有し、一緒に考えていけたらと思っています。

どうぞよろしく。

小学2年生の息子がなんともプログラムにはまっている。
昔から電気ものが好きで変わった人だなあと我が子ながらに思っていたけれど、そこにますますの拍車がかかっているご様子である。

ことの発端は電気回路が好きという変わった趣味をお持ちの小学2年生が、祖父にラズベリーパイ(電子回路やロボットを制御するマイコン)の存在を教わったところから始まる。
当然、彼は欲しいと言いだし、とはいえまだ彼一人では何かすることができないであろうから、そこにインストールされている子供向けプログラムのscrachを家にあるパソコンで触って見たらと進めたのが、去年の夏頃だっただろうか。
scrachは命令の書かれたブロックを組み合わせて一連の流れを作成するプログラム。
それをやるために本を一冊手に入れ、一通りそこは網羅し、その本に載っていたのが次の言語python。
彼は今、このpythonにご執心だ。さらにもう一冊、今度はpythonの専門書を入手し、日々熱心に取り組んでおられる。
今朝も円Aと円Bがぶつかったという判定処理をしたいが、算数が分からないと相談を受け、2つの円のX座標とY座標の差からピタゴラスの定理の平方根で中心の2点間の距離を算出するのだと言う話をした。
知識の順序はめちゃくちだ。まずパソコンに向かうもアルファベットが分からない。本を読もうにも、なかなか子供向けの本がない、漢字が読めない。プログラムで何かするにも彼にはまだ足し算と引き算しかなかった。(2年生も終盤に近づいたので今では掛け算もできるようになったけれど、割り算はまだできない)でも分数や小数点は分かっているようだし、プログラム上で考えるための、座標やグラフの話もする。
今日の話で言えば、私は小学生だろうがなんだろうが気にすることなくxとyの式を書き√の話をしたりするので、ご本人はどこまでわかっているのか知るべくもないが、本人的には「そのことは本のここに書いてあった」と言って興奮していたのでそれなりには理解しているらしい。

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プログラムの本のいけないところは記述方法は書いてあるし、ここはこのために書いているといった理由は書いてあるけれど、それがどういう定理や計算式の元に成り立っているかが記述されていないことだ。
それでは子供は書き方を丸暗記するしかなく、その知識は応用が効かない。
なので、プログラムの書き方は分からない私ではあるけれども、その裏付けについて伝えると本人は興味深そうに聞いてくれる。

彼の面白いところはゲームには興味がないところだと思う。
やる方はもちろん、ゲームを作りたいという欲求もあまりないらしい。よく子供向けのプログラム教室の講座を調べていると、「まずはカンタンなゲームをつくってみよう」と謳っているところが多い。なぜいつもゲームなのだろう。
私はファミコン世代で一通り通ってきたので、ゲーム好きの子供の取っ掛かりとしては理解できる。しかし、ゲーム好きではない彼の親の目から見ると、いつも「子供=ゲームが好き」という短絡的な結び付けをする大人の視点が垣間見えてそれも面白い。
彼にはゲームを作るよりも、図形の自動描画やプログラムによる画像加工、webカメラの制御や質問と答えの出しわけのほうが面白く、先日もAランチというボタンを押すとカレーライスと帰ってくるプログラムを熱心に構築していた。その前は本を見ながら、livedoorの天気予報APIからデータを取得し、各地の天気予報を表示させることにご執心だった。

どうしてこんなおかしな人になってきたのか、私自身よく分からない。
気をつけていたのは、子供の言葉で話さないようにしていたことくらい。もちろん難しい単語や概念は噛み砕いて平易な言葉に直して話してはいたものの、幼児の頃からいわゆる赤ちゃん言葉は使わないように心がけていたことくらいだと思う。難しい言葉でしか説明出来ないことはそのまま伝えてきた。(平易な言葉で説明できない事柄にはどこか欺瞞があるというのが私の持論ではあるが、概念的なものはなかなか簡単に話すのは難しい)
他のことは、片付けろとか宿題しろとかのあれしろ系のことも言うし、学校は行きたくなければ行かなくてもいいけどアホになることは許さんとかも言う。
あまり勉強とか復習とかをしないので、テストで100点じゃなかったらプログラム禁止と言ったら、せっせと机に向かうようになったのは、いかにも子供らしくて可愛らしい。

平日の日中は私はいないので、妻とどんなやりとりをしているのか知らないが、妻の方はプログラムばかりしているので、ネルシャツケミパン系のそちら側に行ってしまいやしないかと気にしているようだ。だが、彼には彼の被服のこだわりがあるらしく、まあ何とかなっている様子。(それがこちらの意図に沿うものでは全くないけれど)
犬の柄と熊の柄の服を大層愛用しており、それ以外の服を全く着ない。あまりに着てくれないので、同じ柄の同じ服を買い足す必要に迫られ、親を悩ませているが、それもまた面白いので良しとしよう。

さすがに近頃は、私のネットサーフィンだけでは彼のプログラム欲求には答えられなくなってきていて悩ましい。プログラムにも算数にも興味がまったくない妻は完全に匙をなげている。親としては自分の能力不足で彼の成長を阻害したくないという思いはあるものの、彼の要求に答えるべくプログラムを新たに学ぶほどの意欲は私にもない。
幸い今年に入ってからCoderDojo 藤沢なるプログラムの場が近場で無料で開催されることになり、そこで色々サポートいただけるのは大変ありがたい。まだ2回目の開催だが、初回に続き、明日もまた参加の予定だ。

この今の欲求が、今後どこにつながりどう発展していくのかはまったく未知数だけれども、まあ好きにしたら良いと思う。
人に害を与えなければ、どこかおかしな方向におかしな人になろうとも気にすまい。そこが幸せの場であれば、親としてはありがたい限りである。

2才のころから見ているピタゴラスイッチが、6年越しにようやく今朝、ピタゴラスの定理につながったことを記念して、今日ここに記す。

誰かが何かを主張するとき。
それは右であれ左であれ。
それが神であれネズミであれ。
それなりに正しく、ある意味では論理の通ったものなのであろう。
何かを成し遂げるためには、
数の理論からは逃れられず、
数を集めるためにはプロパガンダが必要で、
みんなブログやらSNSやら歌詞やら成果物やらで声高に訴える。

でも言わせてもらえるなら、
そんな押し付けにはもう辟易している。
主張する自由が与えられるなら、
もちろん拒否する自由も与えられるんだよね?
正しさなんて嘘っぱちだ。

あなたの力一杯投げた球は、
手のひらでキャッチできる人もいるだろう。
でも一方で、デッドボールで傷ついているかもしれない。
正しさの強さが強ければ強いほど、
傷つける強さも強くなる。

何かを変えるための力の強さが、
誰かを傷つける力の強さなのだとしたら、
それはもう暴力と変わらないのではないか。

性善説を信じているわけではないけれど、
何もしなくて世の中が変わるとも思っていないけれど、
少なくとも思想は、
私だけのものとして自由でありたい。

あなたが何を言おうと自由で、
私が何を思おうと自由なはずだ。

できれば争いたくない。
身の回りの人は守りたい。
そこはきっとみんな変わらないはずなのに、
どうしてこんなにも分かりあえないのだろう。

きっとあなたにも譲れない思いがあるのでしょう。
でもそれが誰かを侵食する免罪符にはならないよね。
私が溢れる言葉の中から何かを選びとったとき、
その選択を愚かだと言えるほどあなたは偉いのでしょうか。

呪いのように流れてくる主張が、
今日もまた少しずつ私を蝕んでゆく。

そんなこと綺麗事だと誰かが言うかもしれない。
でも私はこんなことを主張しよう。

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