JIM-NETスタッフblog

JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)では、
イラクの小児がん医療支援、イラク国内避難民・シリア難民支援、福島の子どもたちを放射能から守る活動を行っています。

サッカー

世界難民の日とW杯 フランス

6月20日は世界難民の日であり、NGOが難民問題を喚起するのは半ば義務のようなもの。
6月21日のワールドカップグループリーグは、デンマークとオーストラリア戦があり、この2か国とも支援で出会ったイラク人やイラン難民が第三国定住している国。記事を書こうと思っていた矢先に電話が入る。
JIM-NETのローカルスタッフのAさん。
シンジャール出身のヤジディ教徒でIDPとしてドホークで避難生活をしている。キャンプには入らず、おじさんがすでにドイツに移住した後の空き家を借りて住んでいる。
平日はジムネットの宿舎で寝泊まりし、週末にドホークに行く。
その彼が、「フランス領事館から連絡があり、受け入れられることになった」という電話だった。
ヤジディ教徒は歴史上70回以上の虐殺を受けた。ISが去ってもまた虐殺される。私たちには民主的な国で住む必要がある。といっていた。
第三国定住するならどこがいい?と依然聞いたらオーストラリアでバイオロジーの勉強をしたいと言っていた。
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それがいきなりフランスだ。本人も悩んでいる。
「(寂しくなるが)君の将来を考えたら二度とないチャンスさ。」というもののやはり異国に行く度胸がなかなかつかないようだ。
オーストラリアとデンマークが引き分ける。
フランスとペルーの試合が始まった。
「じゃあこうすればいい。今日の試合でフランスが勝ったら、君はフランスに行く!」
「それはいいアイデアだ」
フランスを一生懸命応援すると38分にエムバテがすごい勢いで走り込みゴールを決めた。
「さあ、迷うことはない!フランスだ!」

ところでフランスに行ったというシリアの難民は聞かないのだがその辺はどうなのだろう。
今年の最初のニュース
【1月9日 AFP】フランスで2017年に難民申請した人が昨年、史上最多となる10万人に達したことが、8日に公開された公式統計で明らかになった。エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)政権は移民に関する新たな法案を準備しているが、移民への対応をめぐっては与党内でも意見が割れている。国別では、フランスでは安全な国とみなされている東欧アルバニアからの申請者が最も多かったという。
10万人というのはかなりの数。
難民100万人を受け入れたメルケル独首相を称え、大統領就任後の6月には「難民受け入れはフランスの義務であり、栄誉である」と発言したマクロン大統領。しかし、現実はフランスの経済力からしても無理はできない。
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世界難民の日とW杯 デンマーク2

 アザッドは、自分で運命を切り開く男だ。
運がいい時もあるし、悪い時もある。
イラン難民として、イラクで生まれたアザッドは2003年のイラク戦争がはじまると直ちに難民にならななかった。米軍に通訳として雇われた。
しかし、そのことはさらに彼を危険な身にさらすことになったので、ヨルダンに向かったのが2005年だった。親戚たちはようやくデンマークへの移住が決まりそうな時期であった。
彼らのグループは、国境を警備する米海兵隊が管理するノーマンズランドにキャンプが作られた。オスプレイが毎日のように飛行していた。
砂漠のオスプレイ

2005年のイラクの治安は宗派対立が激化してスンナ派であるバグダッドのパレスチナ難民も迫害され、彼らはシリアの国境に近いアルワリードに難民キャンプが作られた。
2009年になるとアザッドたちのグループもアルワリードへ移された。JIM-NETは2009年までノーマンズランドの難民たちの医療費を工面し、ヨルダンの病院で治療をさせていた。スマイル子どもクリニックがスポンサーになり合計2000万円ほどの支援が実施された。
アルワリードはイラク国内であったために、イラク国内の病院で無料で治療してもらることになった。キャンプにはクリニックがあり、我々はそのクリニックを支援し機材などを供与した。食料などは国連が支援をしていた。ある日UNHCRは、シリア難民が来るので、これらの機材やクリニックはカーイムにできるシリア難民キャンプに持っていくというのだ。イラン系クルド難民は国連からも見捨てられすべての支援が2013年の終わりにはなくなってしまった。
生活費は国境の入出国管理所の清掃などで食いつないでいた。
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アザッドの妹イマーン
 アザッドは自分で運命を切り開く男だ。
いつの間にか、アルビルにやってきてワールドパスポートというものをアメリカ人に作ってもらうという。そんなもの聞いたこともなかったのであてにしてなかったが彼はある日そのパスポートを使って本当にイラクを脱出して2012年には、イタリアへ行きそこから親戚を頼ってデンマークにたどり着いたのだった。
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 2014年、ISがあっという間に国境を制圧した。アザッドの残された家族たちは、ヨルダンに逃げようとしたが、ヨルダン軍が戦車を配備して難民の入国を厳しく拒否したのである。
イラクの入管でかつて海兵隊の基地があったところにテントを張ることになった。
国連とクルド自治政府が協議し、2014年の9月にIS 支配地域のアンバール州を避けるようにサウジ国境をイラク軍が護送して何とかバグダッドに到着し、そこから飛行機でアルビルにつくと粗末な住居を国連が借り上げてくれた。
アザッドの家族たちは2015の秋には、「ヨーロッパが難民を積極的に受け入れ始めた」と悟り、山を越えてトルコに密航し、そしてついにゴムボートでギリシャにたどり着くことに成功する。
アザッドは、3年ぶりに家族に再開することができたのだった。
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地中海のおとうさん
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デンマークについたお父さん
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デンマークのイマーン
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デンマークについてからも彼らの市民権をとることは容易ではなかった。シリア人が優先であること。そしてとりあえずは、人道的観点から滞在を認めても2-3年経ち滞在期限が切れて追い返される難民たちもいる。

2015年9月には「デンマークは難民に関する規制を全面的に強化する」という内容で、レバノンで発行されている4つの新聞にアラビア語と英語で広告を掲載した。
広告にはさらに、新たに入国する難民向けの支援金を最大で50%削減する法案を議会で可決したこと、永住権を獲得するために必要な言語力の引き上げや、永住権取得までの待機期間を最短でも5年とする、といった条件が列挙されていた。

2016年1月26日、政府が難民申請者の財産を没収できる新法が成立した。
新法では難民申請者が所持している所持金のうち、1万クローネ(約17万円)を超す現金や所持品を警察が没収できる。難民らの一時滞在施設の利用料などに充てる狙いだ。
今、アザッドは、家族たちの市民権も無事にとることができたと報告をしてきた。
彼らを戻すとしたらノーマンズランドしかない。彼らがイラク戦争後に味わった苦難にもかかわらずシリア難民が優先されるとしたらあまりにも国際社会は不条理で無責任といえよう。

世界難民の日とW杯4 オーストラリア

悪名高い難民政策
オーストラリア政府の統計では、2011〜2012年に違法に海を渡り、オーストラリアにたどり着いた人の数は7300人。2012〜2013年には倍以上の1万8000人以上と急増しています。
これを受け、オーストラリア政府は、ボートピープルに対して、非常に厳しい移民政策を打ち出します
これは第三国(ナウル、パプアニューギニア)に違法移民を送り、そこで難民認定の審査が終わるまで強制的に収容させるというもの。
通常、劣悪な環境の収容所の中に長期抑留され、難民認定を受けたとしても豪州に受け入れられる保証もなかったため、ボートピープル予備軍にとって強い抑止効果となっていました。
しかし、この政策は非人道的としてアムネスティなどの人権団体やメディアから非難されています。そこで2015年アボット首相は、2015年、シリアの迫害を受ける少数派を12000人受け入れることを表明しました。(オーストラリアの難民政策には厳しい批判がある一方で2015年は、1万3750人の難民を認定している)オーストラリア内では、キリスト教徒に限るべきだという意見もありましたが、最終的に「宗教は問わない」としました。

ランダは、お父さんが自転車の選手でしたが、サダム政権下で息子のウダイから拷問を受けました。
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イラク戦争前からヨルダンに難民として逃れましたが、ヨルダンはイラクに隣接しているためいつ警察がやってくるかもしれないとおびえながら暮らしていました。

2006年にオーストラリアに第三国定住することができました。
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世界難民の日とワールドカップ デンマーク編

6月22日、W杯デンマークvsオーストラリア戦、1対1の引き分けに終わりました。まずは、デンマークの難民政策を取り上げてみたいと思います。2000年以降、右派が強い政権が続くデンマークでは、EUの中でも厳しい難民政策で知られています。
 ノーマンズランドから第三国定住でブラジルが120人の難民を受け入れたという話をしましたが、当時デンマークも積極的に難民を受け入れました。2006年イラン系クルド難民が110人受け入れられたのです。
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ノーマンズランドにできた難民キャンプ2003年

アーデル君11歳は、イラクのイラン人難民キャンプで生まれた。
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無事にデンマークに移住した頃のアーデル
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僕は彼らが移住して2か月後に様子を見に行った。なれない異国の地でも、実は移住した親戚がいたりとクルド人のコミニティがある。元気そうに暮らしていて安心した。
そして10年が絶ち彼らはどうしているのだろうと気になり2016年に彼らを訪ねた。
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父親は、10年間、これっぽちのデンマーク語を覚えようとはせず、クルド服を着続けて、つい先日亡くなった。母親も、デンマーク語は、ほとんど話せない。夫を失い寂しそうだった。

長男のファイドーンは、結婚していた。散髪屋で働いている。結構太って、そして頭もかなり禿げていたので、気が付かなかった。弟のカマルは、刑務所に入れられていた。デンマーク人とけんかをして、殴ったのかどうかは実際わからないが、一度出所して、また、そいつに暴言を吐いたとかで、また刑務所に戻されたそうだ。

のアーデルは、21歳になって、まだ、大学生だが、ムエタイのチャンピオンに2回なっていた。トロフィーとチャンピオンベルトが飾ってある。これはいい話だと飛びつく僕。
「すごいじゃない?」
「ああ、でも、もうボクシングはやらない」
「どうして?」
「お金にならないからさ」
ちょっとがっかりしている僕に兄のファーデルが言う。
「今は、親父が死んで、こいつは落ち込んでいるけど、きっとまたボクシングをやってくれるよ」
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姉のシーシャは、10年経ってもまだきれいだったし、アーデルと喧嘩ばかりしていた妹のスェイバは、今回会えなかったが、きっときれいなお姉さんになっているのだろう。

ファーデルは、29歳
立派な若者に成長していた。数年前は、市議に立候補もした。マイノリティの権利を訴えている政党のメンバーらしい。デンマーク人の彼女もできた。もう、すっかり立派なデンマーク人になっていた。デンマークは税金も高く、給与の半分は持っていかれるから、マイノリティであろうが、納税者としての権利意識は高く、政治にも参加する。ファーデルの主な仕事は、市役所で難民や移民へ仕事を紹介している。日本と比べてみれば、非常に成熟した他民族の町という感じだ。

デンマークに10年以上暮らす日本人にも話を聞いてみた。夫がデンマーク人の彼女は、
「給料は高くても、税金で半分とか取られるので手取りはたいしたことないです。そのかわり、医療や学校、老人ホームなど無料のものも多いです。で、最近は学校や幼稚園などの教育関係から、医療など人間にかかわるセクションの経費削減がすさまじいです。その一因は難民、移民にかかる経費が膨らんでいるからです。デンマーク人の福祉崩壊する危険を心配する人が多く、そのうえ、難民への費用ばかりがかさんでいくことに不満を感じる人が多いです」とのこと。

ファーデルたちの仕事は、右傾化するデンマーク社会の中で、新たに移住してきた難民たちの面倒を見ながら、彼らが、じきに立派な市民として、デンマーク社会に貢献することを説明し、理解してもらうという重要な任務を担っているのだ。

さとうまき



世界難民の日とW杯2 コロンビア編

6月19日、恵比寿にあるコロンビアレストランで、日本VSコロンビア戦を観戦。
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コロンビア人もたくさん見に来ていました。日本が運よくPKを決め、1点返されるも
最後は本田のコーナーキックに大迫がすごい角度をつけてのヘディング。日本を応援する人たちの歓喜の声。そんな中でコロンビアの難民事情を考えてみたいと思います。
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実は 7,671,124 の国内避難民を抱えています。これは世界1だそうです。二番目がシリア、三番目がイラク。いずれも内戦が続いています。コロンビアは、麻薬戦争のイメージが強く残る国。
1994年のアメリカで行われたワールドカップでは、優勝候補になっていましたが、ディフェンダーのアンドレス・エスコバルが対アメリカ戦でオウンゴールをしてしまいました。一次リーグ敗退し、帰国したエスコバル選手はコロンビアのメデジン郊外のバーから出たところを12発の弾丸を浴び銃撃され死亡しました。犯人は「オウンゴールをありがとう」という言葉を口にしながら、12発もの弾丸を一気に発射したといいます。ブラジル大会の英雄となっったハメス・ロドリゲスのさわやかな印象とずいぶん違います。エスコバルが殺されたのはサッカー賭博が背景にあるといわれています。
麻薬戦争は麻薬王といわれたパブロ・エスコバルが1993年にコロンビアの治安部隊に射殺されると終結に向かいます。一方で、1960年代から続いていたコロンビア政府とコロンビア革命軍(FARC)との抗争は続いていました。サントス大統領は、2016年11月24日にFARCと和平合意に調印し、国会から承認を受けました。2017年6月26日、国連監視団はFARCの武装解除が完了したことを発表した。全国26ヵ所の監視所で登録されたFARCの銃器7132丁を回収し、6月27日に最後の武器引き渡しと武装放棄の終了を祝うセレモニーがメタ県で行われ、サントス大統領も出席。FARCの武装解除により半世紀に及んだ内戦は事実上終結したとのこと。サントス大統領はノーベル平和賞に輝きました。
サントス大統領の政策はこうだ。
世界中の政府に対し麻薬問題を武力で解決するのではなく、麻薬の非犯罪化を中心とした政策をとり、麻薬依存の問題を警察・司法ではなく公衆衛生当局の手にゆだねるよう強く求めている。世界最大の非合法麻薬の市場であるアメリカの街中から麻薬を一掃するため、メキシコやブラジルで、毎年何十万もの人間を殺害する不毛な重荷を外国政府が背負う必要があるのか、疑問を投げかけている。

50年続いた内戦も終わらせることができる。シリアやイラクでも。しかし油断するとまたそれは戦争になる。それはどの国でもいえること。
コロンビアはそんなことを教えてくれます。
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18歳でブラジルに渡り、1998年にはコロンビアの一部リーグでプレイした。引退後は、シリアのA代表のコーチを務めたこともある屋良充紀さんをゲストに迎えてのトークショーも無事に終了。
コロンビアでは、警察が子ども達にサッカーをさせて、犯罪から引き離そうとしているとか。
新しい未来に向けて動き出したコロンビアに注目です。
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世界難民の日とW杯 その1ブラジル編

World refugee day「世界難民の日」は毎年6月20日です。

4年に一度のサッカーワールドカップと重なるこの時期にJIM-NETでは、「中東の難民とW杯」と題した展示を聖心グローバルプラザで開催中です。ワールドカップ出場国には様々な歴史があり、難民という言葉とは無縁ではなりません。私たちがかかわってきた難民たちと関係のある国でワールドカップ出場国をピックアップしてみました。日本の難民政策と比べてみましょう。

 2003年のイラク戦争を機に立ち上がったJIM-NETですが、ヨルダンとイラクの国境にできた難民たちの支援を続けてきました。驚いたのは、戦争前から国連やNGOがヨルダンに難民キャンプを作って準備していたにもかかわらず、難民はほとんど出てきませんでした。
出てきた難民たちもヨルダンが国境を閉ざしてしまい、彼らは緩衝地帯、いわゆるノーマンズランドで立ち往生することになったのです。
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その大半は、パレスチナ人とイラン難民でした。パレスチナ人は1948年のイスラエルの建国時にハイファにいた人たちがヨルダンに避難した後、イラク(当時は王国)に迎え入れられた人たち。イラクは対イスラエル強行政策をとり、パレスチナ難民を優遇したために、サダム政権が崩壊すると迫害の対象になりました。一方1979年のイラン革命が起きると、ケルマンシャーというところに住んでいたクルド人の少数民族カカイ教徒たちが宗教上の理由から迫害の対象とされ、アンバール州の難民キャンプで暮らしていましたが、サダム政権が崩壊するとイランの息のかかった勢力が力を持ち難民キャンプが襲撃されたために国境に集まってきたのです。

さて、イラク戦争を支持した日本の難民政策は、どのようなものでしょうか?
川口順子外相は2003年1月24日午前の衆院予算委員会で、
米軍のイラク攻撃を想定した日本の対応について「難民の支援や周辺国支援などの選択肢を念頭に議論している」と述べた。外相は「日本は世界第2の経済大国として地域の秩序づくりに責任を持つことなどを考慮して対応を考えたい」と述べ、難民支援を含む復興支援に積極的にかかわる考えを明らかにした。[毎日新聞1月24日]

イラク難民支援の政府専用機、アンマンに到着 (3月31日)
イラク難民支援のためテント160張を積んだ政府専用機2機が、31日午前10時すぎ(現地時間)、アンマン国際空港に到着した。 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)アンマン事務所長のステン・ブロニー氏は、輸送責任者である渡辺聖夫・一等空佐や記者団に「非常に大きな日本の貢献を象徴するものだ」と感謝を表明した。 ヨルダン東部に設けられた難民キャンプで活動する援助団体などの関係者の間では「テントはヨルダンやトルコで買った方が安い。なぜ日本から高い輸送費をかけて運ぶのか」という疑問の声も出ている。  空港でテント引き渡しに立ち会った小畑紘一・駐ヨルダン大使は「たとえ経済的に高くついたとしても、日本の難民支援に対する姿勢を示すことも考えねばならない」と話した。 キャンプには現在、イラク難民はおらず、テントの大部分はアンマン近郊の倉庫に保管されるという。 (03/31 19:42) 朝日新聞

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これがその時の写真でのちに国会で輸送費だけで1億円を費やしたことが判明し野党から批判の声が上がった。

さてこれらの難民ですが、条約難民として受け入れたのが以下の国です。黄色く塗ってあるのが今回のワールドカップ出場国。日本はゼロです。
難民受け入れ国

今日はブラジルに関して取り上げてみたいと思います。

ブラジルが難民条約に批准したのは1997年。ヨルダンは難民条約に批准しておらず、「すでにパレスチナ難民を受け入れておりこれ以上は、他の国が責任を持つべきだ」とした。特例としてヨルダン人の配偶者とともに逃れてきたパレスチナに限り386人を受け入れた。
そこで手を挙げたのがブラジルだ。2007年には、難民キャンプから約120人のパレスチナ人を条約難民として第三国定住させた。

2016年のリオ・オリンピックでは、難民選手団が結成され話題になったが、シリア難民受け入れでもブラジルは注目されている。
ブラジルのルセフ大統領は6日までに「(難民の)入国を妨害したせいで子供が死んでいる」と欧州諸国を非難した。ブラジルは昨年、シリアを中心に2320人の難民を受け入れた。「南米の国は世界中の人を歓迎している」と強調し、受け入れに積極的な姿勢を示した(日経2015年9月7日)

このようにもともと移民の国であるブラジルは共生社会なのでしょう。
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2003年にキャンプで出会った青年だったザエッドさん
独身用のテントにいて猫を飼っていました。FBで探し出すと、ポルトガル語でチャットしてくれました。今は子ども達に囲まれて幸せに暮らしています。
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日本とブラジル
ブラジルには日系人が191万人(日系人の定義が難しく、厳密な数字は不明)
ブラジルの総人口の約0.6%といわれています。
かつて多くの日本人が合法的にブラジルへ移住したのと、2015年に非合法で多くの難民たちがヨーロッパに移住していった様子は、とても近いものがあります。
 群馬県の大泉町。約4万人の人口に対して、およそ15%が外国人。その中でも75%程度がブラジル・ペルーといった南米からの移住者が占め、日本の大手企業の工場の貴重な労働力として汗を流してきた。1989年に日本の出入国管理法が改正され、3世までの日系ブラジル人とその家族を無制限に受入ることを始めると、日本での高収入に着目した、もしくはブラジルで職を失った多数のブラジル人が日本へ出稼ぎにくるようになったことに端をはっしています。
ちなみに日本には35万人の日系ブラジル人がいるとのこと。
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日系ブラジル人コミュニティでのサカベコづくり。
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日系ブラジル人として日本でアンプティサッカーを広めているエンヒッキ・松茂良さんとサカベコ
難民を受け入れるということは、多文化共生の土壌がないと、かえって差別問題を引き起こしてしまいます。サッカー大国ブラジルからまなぶことはサッカーだけではなさそうです。




6月20日世界難民の日

2000年12月4日、国連総会で、毎年6月20日を 「世界難民の日」(World Refugee Day)とする旨が決議されました。この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」(Africa Refugee Day)でしたが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCRをはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にするため、制定されました。

W杯特別企画「中東の難民とW杯」サカベコワークショップを開催

6月9日から聖心女子大グローバル共生研究所との共催で始まりました標記の展示。
初日はサカベコ作りのワークショップでした。サカベコとは、福島の伝統玩具の赤べコから開発されたサッカー仕様の張り子です。シリア難民の収入創出にしようと会津若松の老舗荒井工芸所の協力を得て、イラクで古新聞を使って作っています。
 今回、シリア難民が100個の張り子のサカベコを作り難民キャンプの子どもたちが日本を応援するために絵付けと、応援メッセージを書いてくれました。
この活動は2014年から始め、合計で約500のサカベコがそろい特注したスタジアムに展示しています。

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小児がんの子ども達や、ヨーロッパに第三国定住した難民たちが作ったべコも合わせると500体に!

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ワークショップは在日のエジプト人も参加。
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イラクのシリア難民たちは日本 VS コロンビアの試合を盛り上げるために難民キャンプで作ってくれました。
様々な願いがこもったサカベコたちを是非見に来てください。
詳しくはこちら
https://www.jim-net.org/2018/05/24/2706/
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6/16(土)@広尾 W杯に熱狂しながら難民問題を知る方法

日本が初戦で当たるコロンビアです。
2016年のノーベル平和賞は、シリア難民などを大量に受け入れたドイツのメルケル首相と、50年の内戦で国内避難民が世界で一番多くなったコロンビアの内戦に終止符をうとうとしているサントス大統領が競い、結果コロンビアの大統領が受賞しました。

しかし、コロンビアっていったいどんな国なのか日本ではほとんど知られていません。
コロンビアのプロサッカーリーグでプレイし、シリアでコーチを務めたこともある、国際的にユニークなサッカー人(びと)の屋良充紀さんをゲストに、サッカー、難民問題、なんでも聞いてみましょう。
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・日時:6/16(土) 14:00~16:00
・ゲスト:屋良充紀さん(元シリア代表コーチ)
・会場:Be*hive 聖心グローバルプラザ
http://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/access/
・参加費:無料
・お申込み・お問合せ:
メール info-jim@jim-net.net/TEL 03-6228-0746
 申込フォーム:https://goo.gl/kLozS1

【屋良 充紀さん】
やら・みつとし 神奈川県出身。
ブラジル・サンパウロ州リーグ「ECサントアンドレ」、「GEマウアエンセ」などでプレー。
その後、エクアドル、コロンビアでもプレーした経験を持つ。
コロンビアリーグ「サンタフェ」では選手兼プレフベニール(15〜17歳)のアシスタントコーチも兼任。2000年〜07年3月まで横浜FC泉ジュニアユースの監督を務めた。また、横浜市内ではサッカースクール(4歳〜15歳)「エスコリーニャ・フッチボル・クルービ」を開校し、現在も活動中。
2007年6月19日より日本サッカー協会のアジア貢献事業でシリアで活動し、2008年1月15日に開校したSFAフットボールアカデミーでヘッドコーチを務める。JFA公認A級U12コーチ。


※写真&サカベコ展も同時開催です。(6/9〜7/4)
『難民たちが作ったサカベコ展&中東の難民とW杯写真展』
※写真展期間中はシリア人スタッフも来日します。(6/30)
『シリア難民としてイラクで生きる〜ママの目から見た人道支援〜』
https://www.jim-net.org/2018/05/09/2674/
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