毒親と生傷と貧しさと

2歳の頃に両親が離婚。以来、父親から暴力という名のシツケを受けてきました。そんな人間が父親になると…僕もまた虐待してしまう親になってしまうのでしょうか…?

皆様はじめまして。
青森県在住の一児の父でございます。


まずは見に来てくださり、ありがとうございます。


幼少の頃に両親が離婚し、それ以来、父子家庭で育ってきました。
いまでこそ、ここまで育ててくれた父に感謝しておりますが、口で言うより手の方が早い父親の元でビクビクした幼少期を過ごしてきました。

今の時代なら間違いなく、児童虐待のレベル…


越えてるかもしれません(笑)


そんな家庭でしたが、たくさんの学びや出会いがあり、おかげさまで、家族を持ち子どもも授かることができました。


もし今、父子家庭でお悩みだったり…

もし今、母子家庭でお悩みだったり…

もし今、子どもの将来に悲観的になっていたり…

もし今、夫婦関係でつらい思いをしていたり…

もし今、自分が不幸なのは父子家庭や母子家庭のせいだ!と苦しんでいたり…


そんな方々がいらっしゃいましたら、他愛のないブログではありますが、ほんのすこしでも、そんな皆様の心に寄りそうブログとなってくれれば、これに勝る喜びはありません。



どうぞお付き合いのほどよろしくお願いいたしますm(__)m

しくじりを次へ活かす

では前回の続きです。

正解は…。





















5、子供に手をあげてしまった。

でした。















すいません。ズルしちゃいました(^^;)

正解だった方いますか?
もしいらっしゃったら末代まで誉めそやします笑









冗談はさておき…

そう、息子(2才)に手をあげてしまいへこんでいたのです。

それこそ、こういう啓発ブログを書いていながら、自分自身がなにも活かせていないのです。

相当、自己嫌悪に陥りました。


なにがあったかというと…
夕飯の時間なったので、オモチャで遊んでいる息子に片付けを促したのです。
しかし、まだ遊んでいたい息子はその声かけを無視。
近くに寄って再度片付けを促すとイヤイヤ攻撃がスタート。

普段、そういう時でも声を荒げることはないのですが、なぜかこの日は、感情的に声を荒げて、「早く片付けろ!」と怒鳴る始末。

それでも息子のイヤイヤ攻撃はおさまりません。
業を煮やした僕は、「いい加減にしなさい!片付けなきゃご飯あげないよ!」と息子に言い放った瞬間…



「ブーーーーッ」



と僕の顔面にツバを拭きかけたのです。



その時でした…
反射的に息子の頭を…



「バチン!」



と平手で叩いてしまったのです。

息子は痛かったのか、驚いたのかわからず、キョトンとした顔で、その場にフリーズ。
その顔を見た僕は、すぐさま強烈な自己嫌悪に襲われます。



「やっちまった…。」
「これじゃ、自分が父親にやられたことと同じじゃないか。」



と。



感情で怒りつけ、しまいには反射的に手を出す…。
僕が父から受けてきたことと同じことを息子にしてしまったのです。

最終的に、この場は妻がなんとかまとめ、息子は片付けを終え、夕食を食べました。
しかし自己嫌悪モードに入った僕のノドを食物は通りませんでした。



幸い、ケガもなかったですし、息子も「そんなことあったっけ?」的な具合で、今も変わらず甘えてきてくれることに救われました。



虐待は繰り返す。
使い古された表現ですが、たしかに実感しました。
それと同時に自分自身にゾッとしました。

そして、今回のしくじりを肝に銘じ、決して繰り返すまい。と強く心に誓ったのです。






いかがでしたか?
皆さんも思い当たる節はありませんか?

シツケとしての暴力を否定はしません。
愛があれば時には必要悪となることもあるでしょう。
しかし、感情に任せただけの暴力をふるってはなりません。



子供は親の鏡です。



そして、親だって人間です。
しくじる時だってあるでしょう。
つらくて、苦しくて、投げ出したい時だってあるでしょう。
ですが、決してサジを投げず、次へ活かし、子供とともに成長していくつもりで接しましょう。



失敗は経験です。
繰り返さないための大切な経験です。



自分自信へもよーく言い聞かせて、今日のブログを締めたいと思います。



本日もお付き合いいただきありがとうございました。

自己嫌悪のスパイラル

皆様こんばんわ。
更新にだいぶ間を空けてしまいご心配おかけしました。

実は、前回のブログを書いた翌日にやらかしてしまって、相当へこんでいたのです。

自己嫌悪というか…。
申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったのです。

それでしばらくブログを書く気力も湧かず、放置してしまいました。



さて、僕はなにをやらかしてしまい、落ち込んでしまったのでしょうか?

1、仕事をクビになった。
2、妻から離婚届けを突きつけられた
3、全財産入った財布を無くした
4、事故を起こしてしまった

正解者には…おめでとうございます!と褒めたたえます笑



答えは次回…。

今の日本は失敗が許されない社会 ~公園について~

皆さんにとって公園とはどんな所でしたか?

遊ぶところであることはもちろん、子供同士の社交の場でありながら、親子の絆を深める場所でもあったのではないでしょうか?

ちなみに僕にとっては暴力父からの絶好の逃げ場所でした笑



ブランコ
砂場
ジャングルジム
すべり台
鉄棒
シーソー
うんてい・・・etc



たくさんの遊具があって、特に遊具が豊富な公園は、さながら遊園地のようでもありました。



昨今、そんな遊具がどんどん撤去されているんですよね。
なんとも寂しい限り。

遊具の老朽化や、間違った使い方をしてケガをする子供が増えたことが背景にあるようで、それに端を発して、ケガをするリスクが高そうな遊具を撤去していってるようです。

僕自信、子供を持つ身としては、もちろんケガをしてほしくはないですが、どういうことが危険なことなのかを覚えていくことも、同じくらい必要だと思っています。

なんでもかんでもケガするリスクが高いからと一括りに撤去するのはいかがなものかとも思うのです。

老朽化で起きた事案ならば、管理のあり方を見直すべきでしょうし、使い方を間違えているのなら、各家庭でしっかりシツケをすべきでしょう。

トラブルが起きる度に、その原因を無くしてしまえば良いなんて貧しい発想が、善悪一元に染まった危険な価値観を作ってしまうのではないでしょうか?

トラブルが起きたのなら、それに対応する術を身につければ良い、親はそれを教え、導けば良い。

もちろんケースバイケースですがね。



とはいえ人生は、キレイに舗装された道ばかりじゃない。
荒れ果てた足の踏み場もないような道を歩かなければならない時だってあるわけです。
砂利を避け、草木を刈り取って、デコボコをならして、アスファルトで舗装する。
そんな風にしてたら、自分では何も出来ない大人になってしまうのではないでしょうか?

子供は遊びの中でたくさん学び、時には危険なことをして、痛い思いをして、また学ぶものです。

ともすれば、そんな環境で育った子供達は、失敗して学ぶチャンスを失っているのです。

社会に出れば失敗の連続です。
その都度、泣き、悩み、考え、学び、立ち向かう必要に迫られます。

子供達はそういう価値観を遊びの中で、知らず知らず身につけていくものです。



この過剰とも言えるリスク回避主義が、挑戦する気持ちを萎えさせ、失敗を恐れる社会にしてしまってるのかもしれません。



子供達の遊ぶ場所がどんどん無くなっていくことを憂いている今日この頃です。

僕に何ができるだろうか・・・。

Big Rispect to father

昨日は父の日でしたね。

仕事だったのですが、家に帰ると、妻と息子からプレゼントが用意されていて、仕事の疲れが一気に吹き飛びました(^O^)

家族がいてくれることに感謝♪

そんな父の日にピッタリの歌を見つけたので、よろしければぜひ聞いてみてください😄

LGMonkeys 『3090~愛のうた~』
https://youtu.be/qnY0SMFO-nY

これが親の想いってやつですよ

『なんでも券』

子供の時に、『肩たたき券』や『お手伝い券』と称して、親にプレゼントした記憶のある方もいるのでは?

今日は、そんな親子のエピソードをご紹介。



高校のバスケットボール部に所属していた少年とその母親の話。
大事な大会の出発前に、母からあるものを渡されました。

その「あるもの」というのは、幼い頃に彼が母へプレゼントした、「なんでも券」でした。
そんな昔のことはスッカリと忘れていた彼でしたが、そこには母からの感動的なメッセージが。

それは・・・



「最後までしっかり動けますように」



というメッセージ。

その券をずっと取っておいたことも驚きですが、お手伝いとか、マッサージとかに使うのではなく、ここで使うなんて、とても感動的なエピソードではありませんか。

ちなみに彼は試合後半になるといつも足を吊ったりするなどして、何度も悔しい思いをしてきたとのこと。

そんな母の思いが天に通じたのか、彼の高校は奇跡を起こすこととなるのです。

ソース元:http://curazy.com/archives/140563



親の心、子知らず

とはよく言ったものですが、親にならないと分からない気持ちがあるのもまた事実。

こんな親子になれたらいいな。
そう思わせてくれるお話でした。



明日は父の日ですね。
僕も「愛すべき暴力親父」に孫の顔を見せて来るとします(^O^)

ボンバイェ

何を隠そう格闘技が好きです。

とりわけプロレスが大好きで、次いで、相撲、ボクシング、柔道…てな感じです。

かの世界的ボクサー、モハメド・アリが亡くなり、ニュースでは引っ切りなしに彼の追悼の様子を流しています。



アリと言えば、やはり、アントニオ猪木との伝説の一戦でしょう。

この一戦、僕が生まれる前に行われているので、リアルタイムで見ることは出来ませんでしたが、見聞によれば『世紀の凡戦』と言われてる一戦だったそうです。

たまたま、この一戦を書いた書籍や映像を見る機会があったのですが、ルールに関して、アリ側と猪木側の要求がなかなか折り合いがつかず、両サイドに相当な緊張が走ったとか。



結局、試合自体もプロレスルールなのかボクシングルールなのかイマイチ腑に落ちないままスタート。

スタンドで構えるアリに対し、マットに仰向けになり構える猪木。
ちなみに、このポジショニングは、総合格闘技などで、猪木アリポジションと呼ばれるようになるのですが、そらはまた後の話。

アリは華麗なステップを踏みつつ、ジャブで牽制。そのジャブの重さに猪木の表情が険しくなる。
まさに蝶のように舞い、蜂のように刺す。

対する猪木は、パンチを警戒して、なかなかアリの懐に入り込めない。
しかしそこは、さすがに燃える闘魂。
マットを背にして、文字通り背水の陣。
その姿勢から強靭な足腰を活かして、アリの足元へキック連発。

最終的には、両者決め手に欠けてしまい、引き分けとなったのですが、試合後には、アリの足は血栓症が発症し、二ヶ月後の世界戦が白紙。
猪木の足もまた剥離骨折を負うなど、いかに過酷な試合であったのかを物語ったのです。



僕のような一介の格闘技ファンが、この試合に対して、どうこう意見を述べることは出来ません。

しかし、ボクシング界とプロレス界のスーパースターがリングの上で相見えたことが、どれほど凄いことで、どれだけ人々に夢を与えたことか。

後に『格闘技の日』と呼ばれるだけの素晴らしい一日であったことは紛れも無い事実だと僕は思います。



世界的ボクサー
モハメド・アリ氏のご冥福をお祈りいたします。
images

舛添都知事の一件を見て痛感したこと。

当事者意識。

そんな言葉が頭をよぎった。



様々な事情はあると思うが、結局はこの一言に尽きるのではないだろうか…。



イジメしかり。
虐待しかり。
政治家の言い訳しかり。

記憶にない。だとか。
その一件は秘書に任せている。だとか。
第三者の厳しい視点。だとか。



そんな無責任きわまりない政治家や親がなにほど多いことか。

責任をなすりつけ、見て見ない振りをし、自分の論理を平気で押し付ける。



悲しいかな、それが現実なのだ。



自分はそうあるまい。
他人の振り見て我が振り治せ。
当事者意識をしっかり持ち続けられる親であり、人間でありたい。

見つかってよかった!

いや~~~見つかってよかった!
そして無事でよかった!!
それがなにより!!!



様々な憶測が飛び交っていますが、実際のところどうなんでしょうね…。



以前シツケについて書いた記事もありますので、よろしければそちらもご参照ください。
↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/jin1218/archives/2757734.html



真実は家族にしか分からないことなのでしょうが、我が家でも「出ていけ」なんて外に放り出されることは日常茶飯事でした。
むしろ、そういうシツケをしている時代でももありましたし、今でもそれをシツケの手法として用いている家庭もあるのではないでしょうか?

僕も出ていけと言われ、恐怖とともに家を出てはみたものの、結局は、家の近所でうろちょろしているだけ。

どうしたって怖いですもの。

さすがに僕も知らない土地に置き去りにされたことはないので、少年の気持ちを推し量ることは難しいですが、親に捨てられたという意識は間違いなく彼の心を傷つけたと思うんです。

今回の一件は親にとっても、深い傷を追うことになり、まして、親としてはシツケのつもりであったことが、ここまで大事になるとは、本人はおろか家族でさえも想像だにしなかったでしょう。




とはいえ、今回の件で、すべての家庭において、シツケのあり方を見直す良い機会になってくれれば良いなぁ...、と、心から思うと同時に、そういうやり方を用いまいと誓おうと思います。

イジメについて過去を振り返りながら書いてみた 本当のラスト

うまくまとめ切れずに申し訳ないです。

それでは早速、前回の続きをば…



イジメをなくす方法

それは一口に言えば…

「教育」

しかない。

僕はそう断言したい。



イジメをする側には、彼らなりの理由があると前回までに述べてきたが、それは、自分自身の心持ちだったり、イジメられる側の「変えるに変えられないこと(身体的特徴など)」だったりに起因する。

そして、人と人が関わる以上、そこには「価値観」や「理念」、「尺度」、などと言った、「個人的な常識」が存在する。
それに加えて、「立場」や「環境」などといった外的要因も含まれてくるだろう。



「教育」を行き届かせること。
そして「モラル」や「道徳心」を育むこと。
それが、他人を受け入れ、個人間の常識の食い違いを減らし、立場を利用した横暴な振る舞いを減らし、それによって生ずる諸問題を減らし、ひいてはイジメを減らすことになるのではなかろうか。
そして、明日が来ることを恨む人間を少しでも減らせるのではなかろうか。

子供だけではなく、大人も教育されなくてはならない。
自分の経験、憶測で子供の世界を推し量ることを止め、子供の話にしっかりと耳を傾け、子供の言動にアンテナを張る。そて自分の子供だけじゃなく、地域の子供に目を向け、声をかけ、地域で子供を育てる…という意識を教育される必要がある。
そして地域と学校とでガッチリとスクラムを組まねばならない。
大人の意識こそ変えなければならない。



そしてシツケだ。
各家庭でシツケのやり方は違う。
それ自体に問題はない。
だがしかし、家庭の常識が、学校の常識ではない。まして社会の常識ではない。
そこらへんを大人は理解して、子供に説き、道徳やモラル、エチケットを教える。
そして学校でも同じように教え、さらに地域の子供たちへも同じように教える。
もちろん人によって言うことは違うであろうから、子供達は、なにが正しくて、どうすれば良いのか分からなくなり迷うこともあるだろう。
そんなときは、「より社会のためになること」を選択すれば良い。
それが出来ればきっとイジメはもっと少なくなるはず…。
すくなくとも僕はそう信じている。



人間関係のあり方について学説をまとめた、心理学者のアルフレッド・アドラーという人が説いた言葉に「共同体感覚」というものがある。
これは、共同体に貢献する生き方をすること。というものであり、人間が生きているということはなんらかの「コミュニティ」に所属している。であるならば、そのコミュニティに貢献せよ。自己の利益を優先するのではなく、コミュニティの利益を考えて行動しなさい。それが人間関係の悩みを軽くする秘訣の一つである。と説いたものだ。

ここでいうコミュニティとは、家庭なり、学校なり、地域なり様々ある。
しかし、そのコミュニティに貢献する。という選択をさせる「教育」こそがイジメを無くすために必要なことであると僕は考えている。










そして、最後に…






























ーーーーーーーー死なないこと。






















なにがあろうが自分で自分の人生に終止符を打たないでほしい。

やまない雨はないって言う。
だけど、今降っている雨がつらいんだよね?
だから逃げたいんだよね?

だけどね、よく考えてみてほしい。
あなたがいなくなることで誰が1番悲しむだろうか?

わかるよね?

親だよ。



あなたは知らないでしょう?
エコー写真であなたの顔を見るのがどれほど楽しみだったか。

あなたは知らないでしょう?
あなたの服やおもちゃを買いに行くのがどれどど楽しみだったか。

あなたは覚えていないでしょう?
生まれた瞬間の分娩室にあふれた笑顔を。

あなたは覚えていないでしょう?
おそるおそる沐浴させる震えた手を。

あなたは忘れてしまったかもしれない。
初めて書いた親の似顔絵。それを見せたときの親の嬉しそうな顔。

あなたは忘れてしまったかもしれない。
危ないことをしたとき、怒る親の顔に隠された心配のまなざし。





あなたは望まれて生まれてきた。
あなたは間違いなく愛されている。
あなたはここに存在する意味がある。




















ーーーーーーーだから死なないこと。












あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう。
あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう。














異論、反論は受け付けておりますが、あくまで一個人の考えですのでご了承のほど。


長々とお付き合いいただきありがとうございました。

イジメについて過去を振り返りながら書いてみた ラスト

イジメについて過去を振り返りながら書いてみた…。




その①に出てきた少年Eくん。
その③に出てきた少年Nくん。
彼らのイジメの対象者は「僕」だ。

いずれも小学生の時の話ではあるが、僕は紛れもなく彼らのイジメの対象であった。

イジメの被害者ではない。
イジメの対象者だ。

語弊があるかもしれない。
しかし僕はあえて、被害者ではなく、『対象者』であったと認識している。



端からみたら確実にイジメだった。

しかし彼らには彼らなりの僕をイジメる理由があった。
そして僕にはそれなりの原因があった。

正直に言って、その原因がなにかはいまだに分からない。
なんとなく、「こういうことだったのかな?」と推測は出来るものの憶測の域を出ない。

そして、僕自信、彼らに屈するのがイヤで、たびたび歯向かっていた。
やられたらやり返していた。
それが後になって何倍にもなって自分に跳ね返って来るのも分かっていながら。
従いたくなかったから抗っていた。

だから僕自身はイジメの被害者だという認識はない。

もちろん全く被害者意識が無かったわけではない。
しかしながら自分自身にも少なからず「非」があった。
だから僕は『被害者』ではなく、『対象』であったのだ。



親に言えば、怒られるかもしれない。殴られるかもしれない。そう思って、親に相談は出来なかった。
先生に言っても、なにも変わらないんじゃないか?味方になんてなってはくれないと諦めて、先生にも相談しなかった。
友達になったと思っていても、仲良くしていればイジメの矛先がむいてしまう。そのせいで、クラスには友達と呼べる人間はおよそいなかった。





















ーーーーーーー痛かった。

















世間にはもっとひどいイジメが存在する。
それらに比べれば僕の受けたことなんて屁のツッパリにもならないだろう。



イジメのなにが苦しいのか…
孤独 ーーーーー間違いないだろう。
痛み ーーーーー確かにその通りだ。
それよりもなによりも、『終わりが見えないこと』
これがイジメの苦しみを増幅させる元凶だ。




誰にでも「明日」が来る。

しかし「明日」をこいねがわない人間もいるのだ。

だから『永遠に来ない明日』を選択してしまう。

人間はそんなに強くない。



幸い、僕は人間的なネジが足りないせいか、はたまた暴力父のおかげで痛みに耐性があるのか定かではないが、「明日が来ること」を選択した。

どうすればイジメがなくなるのか。
イジメによって人生に終わりを告げる人たちが減るのか。



今回で最後のつもりだったのだが、うまくまとめきれないので、もう一回だけお付き合いのほどを(__)m
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