この絶対観に行かないと固く誓ってたのにぃ。
なのに友人に無理矢理連れて行かれてしまった。

「愛の流刑地」通称「愛ルケ」の呼び名で2005年春頃から秋にかけて日本経済新聞に連載された。ビジネスマンが朝の通勤電車で隠れるように愛読していて話題になった小説でもある。

当時ワタシもこの愛ルケを読み尚かつブログの記事にもしていた。
しかし途中で読むのを止めた。ちょうど冬香が死んで裁判ネタしかなくなったころだと思う。冬香の死についても始めは「何故か生き返る」説が多かった。

冬香が死んでしまったら、後はほぼ想像がついてしまうから。
だいたい連載途中から物語の時系列が変だったり、明らかに間違ってる箇所などがあり、渡辺センセーは呆けが回ったとか(ごめんなさいです)いろんなブログでツッコまれていた。
とにかく延々と続くベットシーン描写ばかり・・・。
ホントこのセンセー色キチガイじゃないかと疑ったりもしました。
その渡辺淳一氏がこの小説は「至上の愛」を描いたという。

「愛の流刑地」作者の言葉いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。
だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。精神と肉体と両方がつながり密着し、心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。
 今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である。
 はたして、この戦いはいずれが勝つのか、そして読者はいずれに軍配をあげるのか、ともに考えていただければ幸いである。


このお言葉を読んで益々愛ルケがウソに思えた。ワタシのブログにも書いたが、周囲の人間を不幸にするのが「至上の愛」とは、とても思えない。他人を不幸にしないと至上の愛が実現しないのなら、そんな愛は愛とは云わないのではないだろうか・・・。
と能書き書いたりして。


で実際に観に行ったわけだけど、おとこ三人は観るのも恥ずかしいものだ。
いきなり冬香が「首を絞めて!」とか「殺して〜」とか叫んでるシーンから始まります。

そーか、なるほど、ここから始まって回想していくわけですか。
しかし貞淑な冬香が大胆冬香に変身していく過程がイマイチよく分かりません。

それよりも何よりも検事役の長谷川京子
胸の開いたセクシーな服着てしかも太ももあらわなミニスカ!
あんな姿で法廷に立って

男挑発してんのかい!

あんな検事いたら・・・うれしいかも・・・。
しかし毎回あんな姿で法廷に立たれたら被告人の菊冶が気の毒だ。
だって連載では菊冶、留置所のなかで夜な夜な冬香思い出しながらひとりエッチしてるのにぃ。

って、考えただけでもおぞましくあり、一番観たくなかったのは菊冶の一人エッチの場面。映画でそんなの見せられたらグロ以外のなにものでもない。
誰の想いも同じと見えて、トヨエツの一人エッチさすがになかったけど。

それに、雨の日にずぶぬれになりながらエロイ格好で佐々木蔵之介を誘惑するハセキョー。
思わず笑ってしまった。

なにあれ?

暗くて重いストーリを和ますため?
んな訳ないわな、と思うけど分からない。

後で考えると、
ハセキョーの誘惑にもそれなりの意味があるのかも

冬香の本当の心境を知るためにわざわざ雨の日にエロイ格好で・・・。
それでもあまりにも唐突で感情移入できません。
もっと他に方法があったのではと思ってしまう。
それに・・・タブーかも知れないけど・・・長谷川京子は

下手じゃ!!

どうひいき目に見ても検事にも見えないし、
セリフまわしも一本調子だし、
どっちか云うと

クラブのチーママ

にしか見えませんけど。
渡辺センセーの崇高なテーマがどっかへ行ってしまってるしぃ。
「純愛のきわみのエクスタシー」
もやっぱり理解できませんでした。
冬香の夫にも同情できるが、可哀想なのは残された三人の子供だ。この子たち、自分の愛する母親が他の男に殺されたなんて知ったらトラウマでしょ・・・。
そして・・菊冶は一体何者だったのか、殺人者か幸福者か、それとも・・・。
こんなベッドシーンばかりの映画
オキライデスカ?
オスキデス!``r(^^;)ポリポリ

ところで
この映画で気になったのは森本レオどこに出ていたのか分からなかったこと。スタッフロールに載ってたけど、彼はどこにいたのでしょうか。それだけが気がかり!



新聞連載当時の愛の流刑地ブログ記事